諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「臣民」の歴史⑧ そして「国民国家」へ(Wikipediaの定義はあんまりだ)。

そもそも「国民国家」とは何でしょう?

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国民国家

主権国家において、国民主権が確立し、憲法と議会政治が実現した状態。ほぼ近代国家は国民国家に該当する。英語では、nation state という。

国民国家 - Wikipedia

歴史的にみると「国民国家」は、以下の過程を経て樹立された。
*まずこの出発点からして要注意とも。
国家が国家であるのは、それが国家だからである。

絶対君主という一人の人間に集中させられている限りは、まだ成り立ちえた「最高にして絶対、唯一、不可分であり譲渡されえない」という「主権」の属性は、その「主権」の担い手が「人民」という不特定多数の人間集合にすり替えられた状態では維持不可能となってしまうのである。

それをどうしても維持しようとするならば様々な神話的イデオロギーの助けを借りて、多様な人間もnationとしてはひとつの意思になると理屈づけ、人々にそれを信用させなければならないない。

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また「国民国家」形成過程においては、国民は一般に、国旗の掲揚や敬礼、国歌斉唱、使用する文字や言葉の標準化などの統制を通じて、国民的アイデンティティを形成していく。
*日本のリベラル層の間には、こうした展開に「ファシズム」のレッテルを張る事が多い。実は彼らは「国民国家」にネガティブな印象しか抱いておらずオーギュスト・ブランキの様に「無限に市民革命が繰り返され続ける不安定状態」こそが理想社会と考えているのではあるまいか?

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ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」において「フランス革命は、その実態がどうであったかははともかく、意識して達成すべき目標を設定したという点が違大だった」と主張していますが、まさに出発点はここ。

  • ある意味「フランス革命」とは、そればかりか「市民」や「市民革命」の概念そのものが、当時流行した(客観的現実より主観的感情を重視する)ロマン主義の落とし子そのものだったといえる。

    ロマン主義運動そのものは19世紀前半で終焉してしまう。しかしながら急進共和派の間では「ある種の政治的浪漫主義」が温存され、その最大の落とし子といわれているのが「ジャコバン派独裁体制(1793年〜1794年)」や「パリ・コミューン(仏Commune de Paris、英Paris Commune、1871年)」の理想視。ましてや「バブーフの陰謀(1796年)」をや。
    フランソワ・ノエル・バブーフ - Wikipedia
    カール・マルクス(1818年〜1883年)もまた(フランス第二帝政ドイツ帝国が実現した)挙国一致体制による産業革命導入に何の意味も見出さず、ただパリ・コミューンのみを称揚した。これは第二次世界大戦(1939年〜1945年)後の日本や韓国の高度成長期において各国左派が「毛沢東の文化革命やカンボジアポル・ポト政権こそ我らが目指すべき理想」という結論に到達した景色と重なる。

  • むしろ当時、実際に「国民国家」のイメージを樹立したのは(「無限に市民革命が繰り返され続ける不安定状態を理想視する市民」ではなく)「臣民(Subject)」を代表する新興貴族階層(ヘレニズム時代のストア哲学古代ローマ時代の哲人政治セネカから「存続を最優先課題と考える功利主義」を継承してきた)や、新興ブルジョワ階層(「産業報国」をモットーとしてきた)というべきだったというべきなのである。

    その状況を踏み台としてフランスの啓蒙学者コンドルセや英国自由主義者ジョン・スチュワート・ミルはその概念を「数理にのみ忠誠を誓う臣民」へと拡張。この展開に「市民意識こそ至高」と考え「無限に市民革命が繰り返され続ける不安定状態」をこそ理想視するブランキ主義の割り込む余地など決してない。
  • ただし「数理にのみ忠誠を誓う臣民」は、その実証科学的立場上「反証可能性容認によって科学と非科学は「区別」される」としたポパーの科学哲学にも同時に忠誠を誓わざるを得ないのである。

    ポパーによる科学の定義

    そして、こうした策動によって「数理にのみ忠誠を誓う臣民」は本質的に(未来に向けてのサバイバルに不可欠な)自らの多様性を保とうとする。
    *ここがまさに「本質的に体制側への反逆の除去を志向する保守主義的思考や科学的マルクス主義との最大の識別ポイントとなる。

    かくして「無限に市民革命が繰り返され続ける不安定状態」をこそ理想視する「市民意識(分離至高・無政府主義的傾向)」との「制限付き妥協」が成立する展開に。現代人の出発点はむしろこことも。

    中国共産党ベトナム共産党の様な「一見、科学的マルクス主義破綻を乗り越えたかの様に見える共産主義」は、実は中国共産党和諧社会(2004年)宣言」に端的に見受けられる様に、既にこの立場に移行済みと見て取れる。

実は現実の「国民国家」において最も重要な共通点は「有事に際して総力戦を戦う準備のある事が、抑止力として機能している」事なのかもしれません。もちろん、そうした見解が大勢を占めるまでには、相応の試行錯誤の日々があったのです。

海外の反応ブログ 外国人「結局のところ第二次世界大戦って誰が始めたの?」【海外反応】

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欧州が第一次世界大戦(1914年〜1918年)によって壊滅的打撃を負ってから、経済状態がそれ以前の状態に回復した1970年代までを「総力戦体制時代」という時代区分で呼ぶ立場があります。

国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と見て取る仮説も存在する(総力戦体制論)。確かに一貫した「時代精神」の様なものを感じる。

  • 「欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。

  • この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。

  • 世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。

  • 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。

そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。

 それは「国民国家」の概念が様々な形で試練にさらされた時代でもありました。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)』

国民を、歴史的宿命性、そして言語によって想像された共同体と見れば、国民は同時に開かれかつ閉ざされたものとして立ち現れる。

  • ヨーロッパ知識人はナショナリズムが他者への憎悪と恐怖でしかないととらえがちだが、まず国民(nation)は「愛を、それもしばしば心からの自己犠牲的な愛を呼び起こす」のだ。愛国芸術は数あれど、憎悪と恐怖を表現する文化的産物は皆無である。

  • 言語はホモ・ディケンス(話す人)がはじまったときに既にあり、現代にも深く根を下ろしている。詩歌の、たとえば国家の、祈祷書の斉唱は、想像の共同体に具体性を与える。これを同時性の経験という。

  • 国民的叙事詩を読むにはその言語を習得する必要があるが、人生には限りがある。こうして、すべての言語は一定のプライバシーをもつことになる。

国民性は、皮膚の色、生まれた時代、生まれなど、選択不能のものと同一視される。大戦で大勢が国のために死んだのはそれが簡単に入会したり脱会したりできないものだからだ。

ここで興味深いのは、その移行期に多くの「旧体制国家」がまとめて消失してる点。

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)』

第一次世界大戦で王朝主義は終わり、帝国主義イデオロギーは力を失った。植民地を喪失しても、悲しむのは貴族だけであった。以降は帝国ではなく国民国家が国際規範となった。

時期を同じくして、これらの国々に関連して暗躍してきた「旧世代の大物」も次々と姿を消していきます。

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  • ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888年〜1918年)…三国干渉(1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)の背後で暗躍。第一次世界大戦(1914年〜1918年)には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(ハプスブルグ君主国)や青年トルコ」エンヴェル=パシャオスマン帝国同盟して参戦。本国の革命によって亡命に追い込まれる。
    *エンヴェル=パシャも亡命を余儀なくされ、フランツ・ヨーゼフ1世も退位に追い込まれた。
    オスマン帝国の第一次世界大戦参戦

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8a/Kaiser_Guglielmo_II.jpg/200px-Kaiser_Guglielmo_II.jpg

  • 「妖怪」袁世凱日清戦争(1894年〜1895年)や辛亥革命(1911年)の背後で暗躍。実はロシア軍に満州進駐(1900年)の口実を与え日露戦争(1904年〜1905年)を引き起こした義和団の乱(1900年)勃発の直接の原因を生み出した主犯でもある。1916年から1917年にかけて中華皇帝に即位した後に悶死。
    *そして中国は軍閥割拠状態に陥ってしまう。

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  • 「怪僧」ラスプーチン…1903年〜1905年頃よりロシア皇帝に接近したカリスマ的祈祷僧。1916年に暗殺される。実際に帝国にどんな影響を与えたのかは不明。
    *そしてロシア革命(1917年)が勃発しソビエト連邦が誕生。
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  • 大日本帝国長州閥武断派寺内正毅や長谷川好道ら)憲兵政治によって朝鮮総督府を牛耳り、陸軍懸案の「(朝鮮に駐留する)二個師団増設問題」を通す為に第二次大隈内閣(1914年〜1916年)を解散に追い込んで自ら超然内閣の首相に収まり、秘密予算を私物化して軍閥割拠下の中国において策動。米騒動(1918年)や3.1.事件(1919年)の「弾圧」責任をとらされる形で更迭された。
    *「朝鮮総督府を牛耳る」…当時の新聞は「長州閥による朝鮮植民地化」と表現している。そして彼らの更迭後、大日本帝国は藩閥政治からの脱却を果たし、憲政政治の時代に移行。
    憲政の常道 - Wikipedia

    https://www.jacar.go.jp/nichiro/img3/terauchi.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8c/Hasegawa_Yoshimichi.jpg

    *歴史展開的には①長州閥の中でも山縣有朋の軍人と官僚の派閥が突出して強大化して対外硬派の政党政治家に超越主義政治で対抗。ただし不平等条約解消(1911年)と政党政治への期待の高まりから次第に時代遅れに。②まず1910年代前半に政党結成に意欲を燃やす桂太郎が離脱(憲政会の源流)。③同様に分離して1910年代後半に組閣するも不評 / 失脚。といった流れとなる模様。

総力戦体制時代」なる歴史区分は、こうした「旧世代の遺物との決別」から始まっているという点でも重要なのです。とはいえもちろん、その前段階において全ての旧世代の遺物」との決別が完了していたという話でもありません。 

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)』

植民地ナショナリズム

人種主義・反ユダヤ主義は、ふつう国内政策としてあらわれる。植民地ではどんな平民でも貴族になれた。イギリス本土の軍隊と海軍が実戦を担当し、植民地の軍隊は中世貴族のような生活をした。また、植民地では宗主国の相異を超えた「白人の連帯」があったが、これはヨーロッパ貴族の階級的連帯を思い起こさせる。

国民主義指導者は、公定ナショナリズム、民衆ナショナリズム南北アメリカの共和国理念を任意に用いることができる。

  • 英領生まれの、黄色イギリス人は、クレオールと同じ運命をたどった。マコーレー(イングランド史の)は現地人のイギリス化を推進したが、これは日本のモデルとなった。

  • 日本とともに興味深いのがシャム(タイ)である。シャムの王チュラロンコンは、仏領インドシナ、英領マラヤ・ビルマに囲まれて、外交を巧みに用いた。彼は政治的に無力な外国人(中国人)労働者を大量に集め、国家の整備を行った。チュランコロンがモデルとしたのは英領インドなど植民地官制国家であった。息子のワチラウットは、政治に参加しはじめた中国人を(イギリスから輸入した人種主義をもって)ユダヤ人として排斥することにまず力を注いだ。中国人は共和主義の先駆とみなされた。ワチラウットは「いわばアジアのブルボン家でもあった」。中国人嫌いにもかかわらず、雑婚によりタイより中国の血が濃く流れていた。
    *いずれにせよアジアで日本とタイだけが植民地化を免れた。

    ラーマ5世/チュラロンコーン

     ラーマ5世の在位した1868年から1910年という年代をみて、気がついただろうか。そう、彼の在位期間は明治元年から明治43年に当たり、明治天皇のほとんど同じなのである。またいずれもこの時期の両国とも欧米の圧力を受けて開国しながら植民地化の危機を脱し、国家・社会の近代化を進め、条約改正に努力したことも、共通している。そんなこともあって、タイと日本の皇室は親近感を感じているらしい。しかし、明治の日本が富国強兵から軍国主義に傾斜していくことになり、その後の歩みはかなり違うものとなった。
    *その違いはそのまま「世界を驚愕させるスピードで国民国家化を達成した」大日本帝國と、今日なお政権が「農民の労働者化」に着手しようとしただけで軍がクーデアターを起こすタイ王国の国体の違いと重なってくる。

非ヨーロッパ国民の多くが欧州語を国家語としている。民衆と公定のナショナリズムがどこでもモジュールとして想像されるようになった。

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言語は誰でも学ぶことができ、それを制限するのは寿命だけである(バベルの塔)。

国民国家は「言語の共同性なしに想像されうる」?

帝国の言語も所詮は俗語のひとつにすぎない。また、技術の発達により出版物以外にも連帯を構築するものがいまではあふれている。

  • 多言語国家スイスは、19世紀初頭に生れたものである。スイスは地形によって隔絶され、隣の大国に支配されることなく生き延びたものの、その後進性ゆえに第二次世界大戦までは貧しい田舎の国にすぎなかった。人口の大半は農民で、貴族たちが協力して領土を治めていた。この点では「神聖ローマ帝国内のたくさんの小公国とたいして違わなかったのである」。
    *この記述、明らかにスイスの歩んできた歴史を単純化し過ぎている。

  • 言語が地域によってしっかり区別されるまでは、宗教的分裂のほうが顕著だった。
    *あえてスイスの「宗教的分裂」が欧州史全体に与えた影響を軽視しようとしているとしか思えない。言語ナショナリズムが世界史に与えてきた影響を強調するには邪魔だったからだろうか?
    スイス分離同盟戦争(独Sonderbundskrieg、英Sonderbund War、1978年) - Wikipedia

    スイス連邦内における自由派領邦(プロテスタント系)と保守派領邦(カソリック系)の価値観分裂を原因として勃発した。
    *米国南北戦争(1861年〜1865年)の発端となった北部と南部の価値観的対立を想起させる展開。近代化の前提となる「国民統合」実現の為には避けて通れない歴史段階だったとも。

    欧米列強諸国に軍事介入の余地を与える間もなく自由派領邦側の勝利に終わる。事実上「神聖同盟(メッテルリッヒの構築したウィーン体制)の破綻」を欧州全域に印象付ける形となり、二月/三月革命(1948年〜1949年)勃発の重要な遠因の一つとなった。

    第一次世界大戦(1914年〜1918年)までの欧州には(王侯貴族間の複雑な血縁関係もあって)周辺部での小競り合いがたちまち全土を巻き込む消耗戦に突入するという大問題が存在した。実はフランス革命からしてそうで、大英帝国はこうした泥沼状態から次第にフェイドアウトしていく事で「(商業革命や産業革命の導入を可能とした)栄誉ある孤立」を勝ち取ってきたともいえる。
    オランダにおける「パトリオッテン派(愛国派 / オランダ共和派)」蜂起(1785年〜1787年)- Wikipedia

    独立戦争時代よりオランダ提督の座を世襲してきたオラニエ=ナッサウ家だったが、英国名誉革命(1688年〜1689年)によって英国王に即位して以降、フランス絶対王政を模倣して公然と「オランダ国王」として振る舞う様になる。

    ところが「最後のオランダ総督」ウィレム5世(在位1751年 - 1795年)は軟弱で、従来の「総督派 VS 都市門閥派」という対立構造を超越した「パトリオッテン派(愛国派 / オランダ共和派)」の台頭を許してしまった。

    パトリオッテン派は遂に1785年に蜂起し、ウィレム5世をハーグからナイメーヘンに追放する事に成功。しかし現地に既得権益を有するプロイセン王国が派遣した軍隊によって1787年にあっけなく鎮圧される。

    とはいえ「短期間ながら隣国が国王追放に成功した事」は、フランス革命(1789年〜1794年)勃発の重要な遠因の一つとなったばかりか「オランダは征服さえすれば味方に引き込める」といった思惑がフランス革命政府を対外戦争着手に踏み切らせる契機ともなったのである。
    *「オランダ征服」…実際にはフランス革命軍を歓迎するどころか必死に抵抗。たちまち戦況は泥沼化し、兵士供給層としてのサン=キュロット階層(浮浪小作層)と彼らの支持するジャコバン派の台頭を許す展開に。やってる事があまりにも軍国主義時代の大日本帝國と酷似し過ぎている。

    ちなみにナポレオン戦争後、神聖同盟(メッテルリッヒの構築したウィーン体制)はオラニエ=ナッサウ家を「オランダ王室」と認める事で事態解決を図ろうとしたが、この強引な措置に対する不満の鬱積が、これまた(フランス7月革命に便乗した)ベルギー革命(1830年)勃発の重要な遠因の一つとなってしまう。

  • 現在では、二重言語を用いる「教育ある」政治階級が、一言語の住民の上に鎮座している。公定ナショナリズムによるドイツ化を進めなかったことが、スイスの中立国たるゆえんである。
    *どうやらベネディクト・アンダーソンの観点には明らかに「ユーラシア大陸における多民族帝國の大源流」たる帝政ペルシャや「ある種の部族連合から発祥した」スイス連邦の様な公定ナショナリズムと終始無縁なまま推移する国家も存在するという視点が欠落しているらしい。

言語が国民性の象徴であるというのは間違いである(ガーナ・ナショナリズムアシャンティ語ではなく英語を用いる)。「言語において、そんなことよりずっと重要なことは、それが想像の共同体を生み出し、かくして特定の連帯を構築するというその能力にある」。
*ならば今日なおワロン語圏(フランス語系)とフランデレン語圏(オランダ語圏)の分裂に悩まされ続けているベルギーの立場は? ちなみにベルギー憲法プロイセン憲法大日本帝國憲法の大源流でもある。

ワロン地域 - Wikipedia

ワロン地域の経済は、19世紀初頭にリエージュシャルルロワをはじめとした地域で石炭や鉄鉱石といった資源を用いた工業を背景として急速に発達し、これによりベルギーは南部のワロン地域を工業地帯としてヨーロッパ大陸で最初に産業革命を成し遂げた国となった。しかし、20世紀の前半にはベルギーの工業の中心は北部地域のフランデレン地域に移行し、ベルギー南部のワロン地域の重工業は次第に衰退していった。

特に(ある種の部族連合状態から出発している)スイスの場合、まさに「有事に際して総力戦を戦う準備のある事が、抑止力として機能している」事そのものがスイスを「国民国家」たらしめるナショナリズムの根幹にある様にしか見えないんですよね。
フランス革命軍が「近代的ナショナリズム」導入を試みるも見事に惨敗している。

かくして「国民国家」をの概念は、さらなる深層を覗かせる展開に…

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…