諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヘーゲル哲学】【華厳教学】【国体の本義】【国家神道】「大日本帝国の公定ナショナリズム」の正体?

そもそも「国家神道」とは何ぞや? しばしば「天皇を頂点に衰退し、末端に家父長制を従えた超権威主義的システムの暴走」なんて表現されますが、残念ながら大日本帝国は別にドイツ帝国(1871年〜1918年)みたいに、皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 在位1888年〜1918年)の様な「バカ殿」が颯爽と現れ、やりたい放題やらかして、それで自壊していった訳ではないんです。むしろ「(元来の権威的システムでは末端に位置する筈の)軍人や官僚の独断専行によって暴走した」と表現した方が、当時の実情を正確に捉えているといえるくらいです。

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それではどう考えるべきか。ここではベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities、1983年)」の中でとりあげた「公定ナショナリズム(Official Nationalism)」の理念に従った掘り下げを試みたいと思います。

821夜『想像の共同体』ベネディクト・アンダーソン|松岡正剛の千夜千冊

 ①そもそも日本の神道は長らく「神仏習合」状態に安住し、独自の強固な教学の確立が疎かにされてきました。だからこそ「畏敬すべき対象に遭遇すると、理屈抜きでとりあえず素直に手を合わせてしまう」みたいな自然崇拝的純朴さが保たれてきた側面もあるのですが、まぁそれはそれ。
*「独自の強固な教学が確立する」という事は、概ねそれに反するもの全てがいきなり「邪神」にしか見えなくなってしまうという展開を伴うもの。ここでは別に「どちらが優れているか」問おうとは思わない。

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  • この状況の打破を最初に試みたのは一般に平田篤胤(1776年〜1843年)とされている。彼はイエズス会マテオ・リッチの「天主実義(1604年)」などを通じて「スコラ学の機械的宇宙論」を知った。

  • スコラ学の機械的宇宙論」は、龍樹の仏教的因果論同様、宇宙を「原因が結果を生じ、その結果が原因となりまた結果を生じるといった連鎖」として説明する。ただしこの考え方を極限まで突き詰めると必ずや「それならば宇宙の始まりは、原因なくして結果を生じた、つまり無から有が生じたのか?」なる根本的疑問に突き当たり「神の存在」を認めざるを得なくなると考える。
    *ここにさらに「神義論(独theodizee)=神は無謬の存在の筈なのに、どうしてこの世には悪が存在するのか?」といった問い掛けなどが重なってくるのが教学問答の世界なのである。

  • 平田篤胤はここでいう「スコラ学的唯一神」のイメージを「(ほとんど日本神話の冒頭で活躍するのみの)ムスビ(産霊)の神」に投影する事でスコラ学の体系をほぼそのまま「神道教学」として取り込む事に成功する(平田国学)。ところで実はスコラ学もまた12世紀頃に同様の手順を経てキリスト教学に取り込まれた理念体系だったりするから話はややこしくなってくる。

  • スコラ学の基礎固めはアッバース朝(750年〜1517年)の首都バグダット近郊のニザーミーヤ学院に結集した新進気鋭のペルシャ人法学者達や、ムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)時代のイベリア半島におけるベルベル人法学者達が行った。

    そもそもの発端はイスラム教団の所領が急拡大して多民族帝国化し、古代ギリシャ・ローマ古典に立脚するヘレニズム文化の分布地や、東ローマ(ビザンチン)帝国(395年〜1453年)から追放された異端キリスト教徒の楽園と化していたシリアや、その宗教的寛容によって既に多民族帝国として栄えていたササン朝ペルシャ226年〜651年)を併合した結果、こうした地域の領民もイスラム教学によって納得させなければならなくなった状況。

    イスラム帝国の領土拡大

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    とりあえずアラビア語に翻訳されたばかりの「異教徒系諸文献」に立脚するムゥタズィラ神学を国学に立ててみたが、たちまちアラビア半島から現在のイラクにかけての地域に分布する保守的な法学者が反発(ハンバル学派の成立)。この分裂状態を解消する為に急速に「アラビア哲学」なる分野が急成長を遂げる展開となったのである。その精髄をいわゆる「欧州12世紀ルネサンス」はアラビア語文献のラテン語への翻訳ブームを背景に吸い上げた。その結果生まれたのが「国学としてのスコラ学」と「鬼子としてのラテン・アヴェロス主義」だったという次第。
    12世紀ルネサンス
    ラテン・アヴェロエス主義(Latin Averroism)
    *「ムタズィーラ神学VSハンバル法学」…さらにアッバース革命(750年)に際して捨て駒にされたシーア派教徒がエジプト・カイロのアズハル学院を拠点としての逆襲に転じ、これに対抗する過程でスンニ派古典思想が樹立し、さらにそれに反逆する形でマーリク学派の本拠地たるマグリブチュニジア以北のアフリカ北岸)とアンダルス(当時はイスラム教圏だったイベリア半島南部)で新種のアラビア哲学が勃興するのだが、詳細はさて置く。ここで重要なのは、欧州に先行する形で多民族帝国として栄えたイスラム諸王朝の繁栄を支えたのが「(偏狭な半島ナショナリズムに凝り固まった)アラブ人の教学(ハンバル学派)」ではなく、既に多民族帝国の経験があったペルシャ人官僚や(西はイベリア半島やアフリカ大陸、東はアジアまで至る広大な交易網を闊歩した)ハドラマウト商人(シャーフィイー学派セルジューク朝(1038年〜1308年)の国学)や、(多民族共存が最初から前提の)中央アジアから攻め上ってきたテュルク系諸族(ハナフィ学派、オスマン帝国(1299年〜1922年)の国学)だったという事、そのノウハウをスコラ学経由で吸収していたが故の「(世界を股にかけて布教活動を成功させてきた)イエズス会の適応主義(Adaptationism)」だったという辺り。

  •  その一方で「スコラ学の機械的宇宙論」は18世紀フランス啓蒙主義を主導した「理神論(Deism、確かに神は世界を創造したが、以降の発展は全て人間の手になるものとする人間中心主義」の出発点となる考え方でもある。仏教儒教の伝統ある教学に対抗すべく、同じくらい伝統のあるこうした体系をぶつけようとした平田篤胤の基本的発想自体はそう悪いものでもない。
    *ただしスコラ学が、それを真摯に研究するドミニコ修道会(1216年公認)やフランシスコ修道会(1223年公認)の会士達の手によって「公認の教学」なる地位を勝ち取っていったのに対し、江戸幕府や明治政府がこれに相応するアクションを起こさなかった為、当面は「在野の教学」としてひっそり活動を続ける事になる。当然「公定ナショナリズム」の条件も満たさない。
    近代天皇イデオロギーの思想過程

大日本帝国において「公定ナショナリズム(Official Nationalism)」の条件が整うのは、ある意味1932年に文部省が国民精神文化研究所を設立して以降と考えられる。そしてこの機関から発信される言説を主導したのは、日本におけるヘーゲル研究の草分けとして名高い紀平正美(1874年〜1949年)だったのである。
松尾秀明「日本仏教と国民精神」

国民精神文化研究所は文部省の直轄で、その組織は研究部と事業部に分かれ、事業部には全国中等学校講師の再教育を行う教員研究科や、いわゆる「左翼学生」の指導矯正の為の研究生指導科があった。一方研究部には歴史、国文、芸術、教育、法政、経済、自然科学、思想の九つの科に分かれ、それぞれに所員、研究嘱託、助手が置かれた。

國學院教授で研究所の研究嘱託を務めた河野省三が研究所職員は「国民精神分野に従事し、日本精神文化を培養して、皇道の本義を発揚するつとめ」と述べている様に、その目的は国体・国民精神の原理を明らかにし、マルクシズムに対抗する理論体系を確立する事にあったと思われる。

  • 確かに「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神Zeitgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」とするヘーゲル哲学は、民間で流行していた平田国学などの巷説(ベネディクト・アンダーソンいうところの「民衆ナショナリズム(Popular Nationalism)」)などをまとめて組み敷くに足る雄大なスケール感覚を有していた。さらには復古王政期(1815年〜1848年)のドイツで形成された保守主義的思想であるが故に「王権に対する貴族連合や第三身分の反逆可能性の枝狩り」が最優先課題に想定されている辺りも都合が良かった。

    松尾秀明「日本仏教と国民精神」

    紀平正美は日本主義者として、徹底的に日本の優越を説く立場にあった。

    • 仏教については大乗仏教が伝来すると人々がただちに「容易にこれを了解しえたる事」をもって当時の日本文化が「決して弱小にはあらざりし事を証明した」とする。儒教に至っては「その精神は中国では実現せず、日本において実現された」とする。

    • 何故なら「日本的なるもの」が儒教仏教に先立って存在していたからである。「日本的なるものは、仏教者や儒教者がいうが如くに彼らより得たるものにあらずして、彼らによって自己を覚醒せしめ、自己を深化せしめたるものに他ならない」。

    *この辺りもまさにヘーゲル。彼は「当初はイスラム文明の方が先進的で、欧州はその模倣(パクリ)を通じて文明化した側面がある(特に12世紀ルネサンス前後)」と指摘されると「本当の文明が構築可能なのは欧州人のみ。イスラム文明はその露払い的役割を演じたに過ぎない」と平然と応じている。紀平正美の中華文明やインド文明に対する態度も、まさにこうした思考様式の延長線上にあったといってよい。

  • 紀平正美は同時に華厳教学を援用し、ヘーゲル哲学と組み合わせた。
    *スコラ学経由でアラビア哲学の影響を受けた平田国学との相性も悪くない判断だった。

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    1. それは何よりもまず「華厳経」が4世紀頃、多民族帝国の割拠する中央アジアで成立した関係から「宇宙神毘盧遮那仏の座する「蓮華蔵世界」が十方(じっぽう、東・南・西・北・東南・西南・西北・東北・下・上)を束ねる景色を雄大に描く「蓮花王座」の経典だったからである。

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    2. さらには聖武天皇(在位724年〜749年)が日本におけるその理想の顕現を志向して東大寺と大仏を建立し、全国に国分寺国分尼寺のネットワークを張り巡らせた故実が拠り所に出来たからである。

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    3. そして聖武天皇がこの事業に当たって自ら「君臣一如の境地」について詔を下しているからであった。
    松尾秀明「日本仏教と国民精神」

    日本的なるもの」とは何か。紀平正美は「和」の精神に他ならないという。

    聖徳太子も「日本人が「和」の本質をよく顕している事について「帰依則行善」と考え、衆ともに生き様と決意した」。「安んじて行ぜられるる意識の立場をば、三世十万の諸仏が皆蓮花王座の上に安住して、各自の世界を構成し居るという意味の芸術表現である」。 

    これこそが日本民族自主の客観的根本要因たる「和の精神」の本質であり「(天皇の座す)高御座の思想」として訓ぜられるべきであるとする。

    ヘーゲルの活躍した復古王政時代(1815年〜1848年)のプロイセン王国は、既存秩序を脅かすという理由でナショナリズム(ドイツ民族統合運動)も 、カソリックプロテスタントの対立や階級間の対立を解消しようとする自由主義的運動の全てが弾圧される江戸幕藩体制下より壮絶な領民分断状態にあった。なのでこうした「万民融和」のイメージも、他から借りてくるしかなかったのである。

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    また聖武天皇が華厳教学を選好したのは「奈良の大仏毘盧遮那仏の仏像」に「大宇宙の見取り図=ある種の地球儀か天体図」以上の意味合いが存在せず、それがただひたすら象徴的に君臨するだけの存在だったからともいわれている(何しろ願を掛けても一切答えない)。要するにそれは臣下達の浅ましい権力闘争に巻き込まれ、絶えず暗殺の危機に怯えて暮らすのに嫌気が差していた聖武天皇放った壮大なデコイ(decoy、狩猟で囮に使う鳥などの模型)でもあったのである。「君臣一如の境地について語った詔」も、要するに「(自分がヘイトを集めてタゲに取られてもつまらないので)天下を従わせるのでなく、天下に従う」なる境地の表明であったとも。
    *従って、直接「天皇制」を攻撃しても原則としては「世界に報復してやる!!」と叫びながら「地球儀をパンチングボールにして自己満足に浸る」羽目に陥るばかりである。戦前を代表する無政府主義者大杉栄の方が(歌舞伎の白波物が大好きで大衆文化に通じていただけあって)「大衆に根付いてない我々左翼には、天皇どころか(その藩屏たる)公家すら倒せない!!」なんて辛辣な言葉を残している。

    天平15年(743年)10月15日 近江の紫香楽宮における盧舎那仏造営の詔 

    朕、薄徳を以て恭しく大位を承く。志(こころざし)兼済に存して勤めて人物を撫(ぶ)す。率土の浜、已(すで)に仁恕に霑(うるお)うと雖も、而も普天の下、未だ法恩に洽(あまね)からず。誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す。粤(ここ)に天平十五年歳(ほし)は癸未に次(やど)る十月十五日を以て菩薩の大願を発(おこ)して、盧舎那仏銅像一躯を造り奉る。国銅を尽して象を鎔(とか)し、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となし、遂には同じく利益を蒙らしめ共に菩提を致さしめん。それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。此の富勢を以て此の尊像を造る。事や成り易く、心や至り難し。但恐らくは、徒(いたづら)に人を労すること有て能く聖を感ずることなく、或は誹訪(ひぼう)を生じて罪辜(ざいこ)に堕せんことを。是の故に知識に預る者は、懇ろに至誠を発して、各(おのおの)介(おおいなる)福を招き、宜(よろし)く日毎に盧舎那仏を三拝すべし。自ら当(まさ)に念を存し各(おのおの)盧舎那仏を造るべし。如し更に人の一枝の草、一把の土を以て像を助け造らんことを情(こころ)に願う者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因りて、百姓を侵擾(しんじょう)して強(あながち)に収斂せしむること莫(なかれ)。遐邇(かじ)に布告して、朕が意を知らしめよ。

    (大意)私は天皇の位につき、人民を慈しんできたが、仏の恩徳はいまだ天下にあまねく行きわたってはいない。三宝(仏、法、僧)の力により、天下が安泰になり、命あるものすべてが栄えることを望む。ここに、天平15年10月15日、菩薩の(衆生救済の)誓願を立て、盧舎那仏の金銅像一体を造ろうと思う。国じゅうの銅を尽くして仏を造り、大山を削って仏堂を建て、広く天下に知らしめて私の知識(大仏造立に賛同し、協力する同志)とし、同じく仏の恩徳をこうむり、ともに悟りの境地に達したい。天下の富や権勢をもつ者は私である。その富や権勢をもってこの像を造ることはたやすいが、それでは本意を達することができない。私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。たとえ1本の草、ひとにぎりの土でも協力したいという者がいれば、無条件でそれを許せ。役人はこのことのために人民から無理やり取り立てたりしてはならない。私の意を広く知らしめよ。

    *この事業においては、それまで民衆に辻説法を行い、どちらかといえば反体制的な立場にあった行基が弟子や民衆を動員して協力している。聖武天皇は民衆から厚く信頼され、彼らを率いて積極的に土木工事などに従事させてきたこの僧侶を弾圧するよりも取り込んだほうが良いと判断したらしい。

  • そして紀平正美は「日本における絶対的なもの」の基準を「日本人の生活それ自体、すなわち基本的欲求」に置き「かかる絶対者はそれ故に知識の対象でなく行によって顕されるところのものである」と結論付ける。
    *こうしたスローガンは戦後、思わぬ揺り戻しを引き起こしたりもしている。

    *実は、この考え方の起源がよく分からない。もしかしたら東洋哲学の禅思想か、戦後坂口安吾が「堕落論(1947年)」などで語った「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式のフランス行動主義あたりだったのかもしれない。「教育勅語(1890年10月30日)」における「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」なる一節と結びつけて考える向きもあるが、とにかく当時の大日本帝国臣民は(世界恐慌(1929年)以降の破滅的局面に直面し)「肩を叩かれ」たがっていた。そして、大衆から選ばれるには、その期待には応えるしかなかったのである。
    第四回 京都学派とは何だったのか ――現代文明論としての西田哲学 |模擬授業|京都アカデメイア

    ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」は、ドイツ思想界があっけなく「(「生存競争」とか「人種間の世界最終戦」といったくだらない似非科学ばかり振り翳(かざ)す)民族生物学」に敗北して見捨てられていったのは、眼前にドイツ民族存続の危機が迫っているのに「有事に対応した苛烈な行動を促するモチベーション創出」に一切関心を示さなかったからとする。要するにその隙を突く形でナチスは台頭したのであった。

    その点、日本の公的ナショナリズムは少なくとも「日本民族が根本的に共有する価値観たる「和の精神」は、知識によってではなく、実際の行動によってのみ立証される」という立場を明確に打ち出す事によって主導的立場の維持を狙った。

    聖徳太子と「和」の精神

    「和の精神」は、太子が帰依していた仏教と、中国から伝来していた儒教の融合から生まれた思想ですが、もともとは「礼の用は和を貴しと為す」という論語の一節が原点でした。

    その論語の中で孔子は特に「礼」を重視し、上に立つ人間が、下の人間に対して礼をもって接すれば、自ずと下の人間にも礼の大切さが身についていくと説いています。ただ、それだけでは人間関係が円満にならないので「和」を心がけようとも説いたわけです。「和」とは、なごみであり、親しみであり、穏やかさであり、助け合うことであり、他人を思いやることです。
    *どうやら大日本帝国時代の日本精神は、間違ったメッセージを受け取った?

  • かくして、それぞれの大日本帝国臣民が、自ら「天皇の座する)高御座(たかみくら)=蓮花王」をムスビ(産霊)の中心に選んで主体的に没入する事によって「君民一如の民族統合ネットワーク」が立ち現れる。紀平正美にいわせれば、これが日本民族固有の伝統に基づく「和のシステム」という事になる。これが「国家神道」の中核を為す思考様式だったとしたら「神道の精神」なんていくら攻撃したって届くものではない。
    *紀平正美によるヘーゲル哲学の絶対精神(absoluter Geist)概念の援用についてもう一つ気をつけなければいけない点、それは聖武天皇の「天下を従えるより、天下に従う」宣言と相まって例えば「二つのフランス論(貴族主義者と第三身分至上主義者が同じ歴史的事実を共有しながら対峙する独特の伝統的歴史観」において第三身分至上主義者側の歴史観を選んでいる様にも見て取れる点にある。

平田篤胤に続いて紀平正美の「日本民族固有の伝統」も随分とバタ臭い。しかし当時の大日本帝国にそんな細部を気にする臣民などいなかった。「西洋人と日本人の違いを誰にでも納得のいく形で明確に打ち出す」「総力戦の覚悟を決めさせる」といった必須用件ならちゃんと満たされていたからである。

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紀平正美「皇国日本のすがた(1935年)」

個人主義的の理論から云へば、人と人とは始めから対立せしめられて居る、従つて人と自然とも対立的であり、自然科学を其儘に応用して、自然から利益を奪ひ取るのが、人の仕事である、即ち斯くて欧米の文明は出来上がつたのである。 

紀平正美「臣民の道通義(1942年)」

端的に云へば国防国家体制とは、近世世界を打破するわが国の使命を達成するために、一切の政府機関は勿論のこと、民間の諸機関、諸団体が、全機能を集中し得る体制である。換言すれば、一切の個人主義的、自由主義セクショナリズムの否定である。


十数年前、河村幹雄氏は眞の国防は教育にありと唱破し、学問をすることが人間を立派にしない当時の教育を嘆き、学問が身に付かぬことを憂へて、国民教育の刷新を提唱した。


*河村 幹雄(1886年〜1931年)…日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。明治19年(1886年)、北海道に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年(1911年)に東京帝国大学を卒業。卒業後、九州帝国大学の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任。地質学者である一方「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても名高い。昭和6年(1931年)に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。また、榎本隆一郎海軍中将など多くの逸材を育てた。右翼との交流もあり、海軍中尉藤井斉の紹介により、のちに井上日召の手先として血盟団事件を引き起こす四元義隆に面会している

*もちろん、紀平正美一人がそういう立場にあった訳ではない。

廣松渉「<近代の超克>論」

京都学派の反近代主義=近代の超克というべきものを定義すると、それは次の三つのテーゼからなると廣松はいう。

政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においては自由主義の超克、がそれだ。これらを超克した後で待っているものは何か。それが政治における全体主義、経済における統制主義、思想における復古主義をさすのは自然の勢いだろう。

かくして京都学派は、日本ファシズムを理論的に合理化した。その合理化はけっして外在的な理由にもとづいたものではなく、京都学派に内在する論理の必然的な展開であった、と位置付けるわけである。

さて、こうした記述の積み重ねから読み取れるのは、一体どういう景色だと思いますか? ここではベネディクト・アンダーソン自身の公的ナショナリズム(Official Nationalism)の定義、すなわち「共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略」が重要な鍵となりそうです。

  • そもそもここで取り上げた文部省の公的ナショナリズム(Official Nationalism)推進機関たる国民精神文化研究所の設立は1932年。すなわち、日本の公的ナショナリズムナショナリズムは、それが満州事変(1931年)を引き起こしたというより「文字通り教科書的に満州事変(1931年)を契機に国内で高まった民衆ナショナリズムを国家統制下に置き続ける為に始まったとも見て取れる訳である。

  • そしてその内容に目を向けると「天皇を頂点に衰退し、末端に家父長制を従えた超権威主義的システム」を強化するどころか、むしろ(元来の権威的システムでは末端に位置する筈の)軍人や官僚の独断専行を煽る様な内容。これは(まさにその典型例だった)満州事変に対する(国民感情などへの配慮からの)擁護から出発している以上、いたしかたない側面も?

そして1930年代の文部省といったら「国体の本義(1937年)」も忘れてはなりません。どうやらこのテキストも、こうした観点から読み直す必要がありそうなのです。

国体の本義 - Wikipedia

昭和12年(1937年)に「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。

大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。」と国体を定義した上で、共産主義や無政府主義を否定するのみならず、民主主義や自由主義をも国体にそぐわないものとしている。また共産主義ファシズムなどが起こった理由として個人主義の行き詰まりを挙げている。

杉原誠四郎『日本の神道仏教政教分離』の第二章に『国体の本義』批判がある。GHQの初期占領下において、その教育改革で腕をふるったR・K・ホールに触れながら『国体の本義』を論じているのは、やはり本格的な論考として貴重である。

「『国体の本義』が批判にしろ無批判にしろ研究されてこなかったという事実、そしてこの『国体の本義』にふれていた、日本の占領教育改革で初期に辣腕をふるったロバート・キング・ホールの占領教育改革に関する出版図書が紹介すらされてこなかったという事実は、戦後の日本の教育史学会がいかにいびつであったかを物語る」

ローマ字論者として知られているホールは昭和24年に『新生日本の教育』で『国体の本義』を論じていた。それが紹介もされず、そもそも『国体の本義』が戦後の我が国で研究されてこなかったことを著者は遺憾としているのである。

たしかに『国体の本義』は当時の政府見解であり、その影響が今日まであるのだから著者のいう通りである。ただしこのいびつさは教育史学会のみならず、すべての知識人についても言えることである。

「当時の日本人のものの考え方がきわめて偏狭であったと指摘できるにしても、当時の日本人としては正しいことをしているのだと思っていたことはたしかである。(中略)だが、その正しいと思っていたことも、そしてやむにやまれずのことだと思ってやったことにも、今日の眼からすれば批判しなければならない誤ったところがある。ならば、現在の評価としてそのように評価すればよいのである。あとから見た誤りとして、その誤りを現時点で認めればよいのである」

問題意識としては完璧である。何を誤ったのか。その原因がどこにあるのか。そして今、何をしなければならないか。この本の出版が戦後47年経った平成4年というのは一般読者からすると驚きである。

学者・言論人はなぜほとんど興味を示さなかったのだろう。引用はされても研究されなかったという事実は、本当に理解し難い。

「ホールは『国体の本義』は敗戦後の日本人の眼から見ても明らかに奇異なものであったとし、それは一言でいえば「皇運を扶翼し奉らなければならぬ」から説き起こしたものだと断ずる」

この頃強調された教育勅語は、「之を中外に施して悖らず」の「之」=「斯の道」が「徳目」から「皇国の道」となり、「肇国の精神の顕現」から我が国の「世界史的使命」となったのである。一言でいうとまさに「皇運の扶翼」であった。

ただ、GHQの占領下にあった日本人が『国体の本義』の頒布を禁止され「戦前」を否定されたのだから、「日本人の眼から見ても奇異なもの」とホールに思われても仕方がない。

しかし敗戦後から今日まで、日本人の中でどこが奇異だったのかは示されたことはない。現にその研究・批判論文は図書館で検索しても上にあげた程度である。他にあっても検索できず、影響力のないものと考えるしかないのが実態である。

「前述のとおり、西洋の近代の社会思想が個人を中心とし、そこに限界があることは認められるけれども、しかしそのことゆえに個人主義にかかわる思想や制度を全面的に放擲してよいわけではない。そうすればまさにホールのいうように「原理のもつ二面性のその一面のみの巧みな変形」ということになる」

「原理のもつ二面性」とは「個人主義」と「人間は現実的存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である」というこの二面性のようである。前者は逃れられない人間の属性を重要視せず、設計主義的合理主義に至る個人主義であり、実定法主義の立場ということだろう。後者は歴史法学的立場ということになる。

ホールは、『国体の本義』をこの後者の「巧みな変形」と読んだ、と著者は解説しているのである。

「気ぜわしいホールが、このような『国体の本義』の指摘から逆に欧米文化の反省すべき意味を読みとったのかはわからないが「一面のみの巧みな変形」という以上、その非難にもかかわらず、言外に、まったく荒唐無稽なものではなかったことを認めていたということは、少なくとも形式的にはいえる」

現在のアメリカのように健全な状態から個人が剥き出しになったような個人主義、その批判にもっと『国体の本義』の個人主義批判を積極的に評価すべきだったと著者は述べている。ホールの批判に一矢を報いた感じにはなっている。

著者の作業仮説: 『国体の本義』は国体明徴運動の結果生まれかねない非合理・神がかり的な観念論を阻止して,欧米思想・科学技術の成果を日本が取り入れることを大前提に,現代国際社会で日本国家と日本人がどう生き残るかを考えた当時の叡智の結集である。
*先に指摘した「多少バタ臭くても当時の大日本帝国臣民は気にしなかった」状況と重なる。いやむしろ実はこっそり「バタ臭さ」こそが求められていたとも?

  • 端的に言うならば,近代化を可能にした欧米の思想は,個体がすべてであるアトム(原子)的世界観を基本としているのである.ニュートン力学を基本とする物理学のモデルと,個体の経済活動を基本とする資本主義の論理は,アトム的世界観という共通の価値観によって支えられているのである.(p.47)

  • <単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく,各々その特性をもち,互に相違しながら,而もその特性即ち分を通じてよく本質を現じ,以て一如の世界に和する> というのは,ライプニッツの唱えたモナド(単子)と同じ構成をしている.(p.147)

  • これまで米国で支配的であった新自由主義は,アトム(原子)的な個体を基礎単位とする思想だ.個体(個人,企業)が市場で競争して得られた結果が,社会にとってもっとも好ましいという発想だ.しかし,そのような発想は,まやかしである.市場に,すべての者が対等の立場で参入することができるというのは幻想だ.圧倒的な資金力,あるいは政治権力(資本主義社会において貨幣と権力は,かなりの程度交換可能である)をもった者は,一般の市民とは異なる情報を持っている.この情報が市場においては,価値を持ち,貨幣に転換されることになる.市場は自立したシステムではない.共同体と共同体の間,もしくは共同体内部の好感がなければ市場は成立しない.交換の前提に情報がある.情報の不均衡を前提として,市場は成立するのだ.(p.156)

  • 印度の如きは自然に威圧せられてをり,西洋に於ては人が自然を征服してゐる観があつて,我が国の如き人と自然との深い和は見られない. (『国体の本義』p.54-55)

  • 和は日本人の社会倫理の規範である.この和を担保するのが,日本人がもつ重要な価値観である「まこと」だ.(p.166)

  • 人が自己を中心とする場合には,没我献身の心は失はれる.個人本位の世界に於ては,自然に我を主として他を従とし,利を先にして奉仕を後にする心が生ずる.西洋諸国の国民性・国家生活を形作る根本思想たる個人主義自由主義等と,我が国のそれとの相違は正にここに存する.我が国は肇国(ちょうこく)以来,清き明き直き心を基として発展して来たのであつて,我が国語・風俗・習慣等も,すべてここにその本源を見出すことが出来る (『国体の本義』p.96) (p.240)

  • 欧米人の場合,超越性について体得するには,哲学や神学の訓練を経なくてはならない.これに対して,日本人の場合は,神社を訪れ,二礼二拍一礼を行えば,自ずから超越性を体得することができるという特権を持っている.(p.253)

  • 日本の学問の本流には,知識のための知識を追求するというディレッタンティズムではなく,知識を国体強化のために用いるという傾向がある.国体の強化は抽象論ではなく,具体的な実践によって行われる.ここに日本版プラグマティズム(実用主義)の期限がある. (p.277)

  • 国民の一人ひとりが,自らの分野を持ち,そこで一生懸命に職務に精励することが,日本人の倫理だということだ.(p.313)

  • 先づ努むべきは,国体の本義に基づいて諸問題の起因をなす外来文化を醇化し,新日本文化を創造するの事業である. (『国体の本義』p.143)(本文p.326)

  • それでは「国体の本義」は、こうした諸問題について、いかなる処方箋を提供したのか?…「かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。 併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である」。

日本の政治エリートが『国体の本義』の立場にきちんととどまっていれば,少なくとも負け戦に突入するようなことはなかったと私は思っている.(p.38)

個人主義(英individualism、仏individualisme) - Wikipedia

individualismeというフランス語が発祥である。もともとは啓蒙主義に対する非難を意味する言葉であった。

  • 啓蒙主義的な政治哲学はトマス・ホッブズによって体系的にまとめられたが、18世紀中葉、サン=シモン派は、啓蒙主義の哲学者を古代ギリシアエピクロス派とストア派の利己主義を再生させた者たちであるとして個人主義者と非難した。
    *ここでいう「サン=シモン派」は、時期的に見てルイ13世の寵臣サン・シモン公爵クロード・ドゥ・ルヴロワ(Claude de Rouvroy, duc de Saint-Simon)の息子で、厖大な回想録を残し当時の宮廷の様子を物語る史料としてよく用いられるサン・シモン公爵ルイ・ド・ルヴロワ(Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon, 1675年 - 1755年)の事だろうか? 19世紀に社会主義思想家として知られたサン=シモン伯爵クロード・アンリ・ド・ルヴロワ(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)と遠縁の関係にあった人物である。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/Louis_de_Rouvroy_duc_de_Saint-Simon.jpg/200px-Louis_de_Rouvroy_duc_de_Saint-Simon.jpg

  • フランスの政治家トクヴィルは、個人主義が民主主義の自然の産物であるとした上で、アメリカ人は自由によって個人主義を克服したのだとして、やはり否定的にみていた。
    *戦前を代表する無政府主義者大杉栄は、近代個人主義の起源を絶対王政下のリベルタン(Libertin、新時代に対応出来ず、既存倫理への反逆と刹那的快楽のみを追求する様になった退廃的貴族)やフランス革命が生んだ没落貴族に見た。

    *そういえば与謝野晶子の1910年台から1920年台前半にかけての発言も自由主義的色彩が濃い。

    フローベール感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」は、2月革命(1848年)後のパリにおいて赤旗組(急進共和派)と白旗組(急進王党派)の空騒ぎが酷くなるほど庶民のインテリや自由主義的風潮への嫌悪感が強まり「しかるべき権力の介入による秩序再建」を求める声が高まっていく景色を冷徹に描いている。第一次世界大戦特需の終焉は、同時期の日本に同じ様な景色を現出させたのかもしれない。

  • これに対して、啓蒙主義の画一性を批判して個人主義に、個人の独自性、独創性、発展性という積極的な意味を吹き込んだのは、1840年代ドイツのカール・ブリュッゲマンで、その伝統は、フリードリヒ・シュライアマハーらに受け継がれた。
    *シュライアマハー(Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768年〜1834年)…「宗教の本質は知識や行為ではなく、直観と感情である」とし、主体的体験を重んじたロマン主義神学者として知られる。「歴史的・組織的な教理体系から自由に個人の理知的判断に従って再解釈する」自由主義神学(Liberal theology, Theological liberalism)の祖とも目されている、
    第18講 啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

  • ヤーコプ・ブルクハルトにとっては、イタリア・ルネサンスの文化がその理想であった。

  • 個人主義という語が、現在用いられているような、共産主義全体主義といった主張とは両立し難い「社会的な理想」というような意味合いで用いられるようになったのは、19世紀から20世紀にかけてのアメリカ合衆国においてである。

個人が至高の価値を有するという道徳原理の起源自体はキリスト教の伝統に求めることができる(たとえばマタイ福音書25:40、ユダヤ教は、神の関心が一民族にのみ向けられていたので、異なる)。

  • 自律は、伝統的慣習・権威に従って行動するのではなく、個々人が自らの理性的反省によって、批判的評価を与えられた規範に従って行動することを求める。このような観念もキリスト教的伝統の下、トマス・アクィナスによって示された。

  • ルネサンス期の人文主義者の「人間の尊厳」も、宗教改革も、このようなキリスト教的伝統のうちに理解されるべきもので、カントやマクタガードが美しい表現でそれを著述している。

  • フランスの哲学者ルソーは「主権者とは『それを構成する個々人によって全体として形成されている』ものである」と発展させた。

個人の人格の完成が個人の幸福であるとする人格主義も、個人主義の1つといえる。その意味で、カントの「自己発展と自律を組み合わせ、人格の完成は道徳的人格の確立以外にない」とした考え方は、倫理的個人主義ということができる(その延長線上に「絶対精神と合一を果たして自らの役割を得る全体主義的なヘーゲル哲学が現れた)。倫理的個人主義においては、相対立する道徳的立場に面したとき、個人がこれを選び取らなければならない。「他人と代置不可能な個人の実存とその自由を重視する」実存思想も、個人主義ということができる。

当時問題となっていた最大の「個人主義」が「(元来の権威的システムでは末端に位置する筈の)軍人や官僚の独断専行」だった事を視野に入れると、随分と読み方が変わってきますね。まぁ結論から言えば「個人主義の暴走」の歯止めが掛からないまま、日本は太平洋戦争敗戦を迎える羽目に陥ってしまうのですが。

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要するに、軍国主義時代の大日本帝国が直面したのもまた「(欧米列強がしばしば直面してきた)国民国家市民社会の二重性」という問題だった様です。なまじプロイセンをモデルにしてきたばっかりに「市民=軍人と官僚」という構図まで継承してしまったとも。

 これでひとまず一連のシリーズが一区切り。

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最初から振り返ってみましょう。発端は既存知識における「国民・臣民・市民」「国民国家」「市民社会」「ブルジョワ」といった概念に飽き足らなくなった事。

司馬遼太郎「街道をゆく〈28〉耽羅紀行」

「国民」とは…小難し言い方で定義するなら「等質性を持った人々が、自己を国家と同一視する事によって生まれる抽象的単一体」という事になる。

臣民(Subject) - Wikipedia

封建主義時代のヨーロッパは身分制のもとにあって身分別特権があり、法的にも社会的にも様々な不平等が存在したが、絶対王政期には国王は特権をとりわけ多く保有する貴族と教会に対して君主権力の絶対性・無制約性(国家主権)を主張することでこれを剥奪した。これによって君主以外のすべての者は君主の臣民として平等化されていった。すなわち臣民とは国民形成の第一段階を成すものだった。
*日本では昭和期、皇道派軍人が「大日本帝国とは(皇族の家父長でもある)天皇ただ一人を市民とする共和制である」という奇妙な表現を用いている。ここでいう「市民」は「主権者」といった意味合いで、案外「絶対王政とは何か」という問いに対する日本人に理解可能な一側面について正しく言い当てていたのかもしれない。

市民(Citizen) - Wikipedia

ある意味、その発想の源は欧州がヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)とマジャール人の侵攻によって「シテ島を守るフランスのパリ伯」「神聖ローマ帝国最初の王統となるザクセン辺境伯」「ブリテン島ウェセックス」だけとなった10世紀初頭の状況にまで遡る。

そしてその概念は、既存権威の消失によって「無主の地」と成り果てつつ、経済的繁栄は掴み取った地域で滋養されてきた。ランゴバルト貴族衰退後、ローマ教皇庁に依存する形で繁栄を謳歌してきたロンバルティア諸都市。西フランク王国東フランク王国の緩衝地帯として出発したが故に領主の所領が複雑に入れ込んで「領民の経済事情」が優先されたフランドル地方(現在のオランダ・ベルギー)。ノルマン・コンクエスト(1066年)後の所領再分配を契機に同様の状態に置かれたイングランド。そしてホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)神聖ローマ帝国のイタリア進出を契機にイタリア語圏とドイツ語圏を結ぶ交通路としての繁栄が始まり、ホーエンシュタウフェン家が断絶してハプスブルグ家がシューベン地方の後継者として台頭してくるまでの間に自立の基礎を築いたスイス…

無論、こうした市民社会(Civil Society)はそれぞれ孤立して存在していた訳ではなく、存続の為に交易による繁栄を不可避とし、その結果としてフランスやイングランドやドイツ語圏の大都市にそれぞれ拠点を擁する展開を生んだのだった。

ならばインテリとは、リベラルとは一体何者なのか?

まずはフランス絶対王政の確立期(17世紀後半)に注目。貴族中心とはいえ、既にある種の「国民統合」 が始まっています。特に重要なのが「フランス宮廷料理の精髄ともいうべきコンソメ・スープが、18世紀には大都市の専門ショップでブルジョワ階層や外国人旅行者にも楽しめる様になり、これがフランス革命後の庶民向けレストランの起源となった」なんてめくるめく展開。

産業革命(特に蒸気機関車、汽船、冷蔵庫などの導入による流通革命)に伴って、食べられるものが増えると「民族的自尊心を伴う国民食」が生まれるシリーズ①

小津安二郎監督映画を題材に戦前日本人の「成功イメージ」の変遷を追跡したサイトからの引用を中心に展開したのが以下。

*ただし戦前の小津安二郎監督は「フィルム・ノワール」とか「エロ・グロ・ナンセンス」といったジャンルにも手を出したり、プロレタリアート映画支持派から、その「中途半端さ」を責められたりしている。

産業革命(特に蒸気機関車、汽船、冷蔵庫などの導入による流通革命)に伴って、食べられるものが増えると「民族的自尊心を伴う国民食」が生まれるシリーズ② 産業革命に動員されたばかりの英国人労働者が楽しみにしてたのは「白いパンと紅茶」。日本人労働者が楽しみにしてたのは「白飯」だったという。

ここまで投稿を積み重ねてきた過程で、既存の「ナショナリズム」概念を大幅に逸脱。特にベネディクト・アンダーソン想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行(1983年)」のそれとの擦り合わせが不可避となる。

大日本帝国の歴史シリーズ① 幕末〜日本初の普通選挙(1928年)まで。第日本帝国を「軍人と官僚だけが突出して「数理にのみ忠誠を誓う臣民」に進化した臣民国家」に見立てる。逆を言えば「公定ナショナリズム」に駆動されてる感なし。

ちなみに大日本帝国の歴史シリーズ② 第一次世界大戦に参加した1910年代にフォーカス。「軍事独裁色」が強まり、来日したインド詩人タゴールからまで注意されているが、それゆえにかえって「公定ナショナリズム」が「民衆ナショナリズム」を抑え込んでいる感触に乏しい。
*むしろ当時の大日本帝国臣民の振る舞いは、「軍人や官僚の権威に盲従する一方で、隙あらば個人的享楽を追求しようとする」ビーダーマイヤー(Biedermeier)=復古王政期(1815年〜1848年)のドイツ庶民の振る舞いに近いとも。

英国人とフランス人は「自分たちに起源はケルト」というイメージを何となく共有しているが、その起源はアンジュー帝国時代(12世紀〜13世紀)まで遡るという話。当時はまだ英仏間に国境意識が存在しない。

*王族同士の政略結婚も多い。「(すぐ戦争に巻き込まれる)大陸王族との血縁関係」の見直しが始まるのはチューダー朝(1485年〜1603年)以降となる。

Wikipediaの「国民国家」の説明があまりに酷過ぎるのでネタにする。ベネディクト・アンダーソンは「フランス革命以降、それが実際どういうものだったか知らなくても革命が起こせる様になった」とするが「革命さえ成功すれば、国民国家形成が自動的に始まる」とまでは言ってない。この頃からスイスやオランダという「国民国家史上の奇妙な例外」が改めて浮上してくる。

大日本帝国の歴史シリーズ③ 昭和金融恐慌(1927年3月〜)から満州事変(昭和6年(1931年)9月18日〜)に至る「絶望の時代」に注目。この時代もやはり「公定ナショナリズム」に駆動されてる感なし。

*ちなみに大日本帝国の歴史シリーズ④ 「エロ・グロ・ナンセンス」が横溢した1930年台の日米都会文化の繁栄。この時代もやはり公定ナショナリズム」に駆動されてる感なし。

*同じく大日本帝国の歴史シリーズ⑤ 日中戦争開戦から太平洋戦争開戦にかけて(1937年〜1941年)。実は「戦前左翼の転向問題」の方がメイン。公定ナショナリズム」云々以前に、もう様々な事が手遅れに。 

国民国家史上の奇妙な例外」の一例として北欧諸国にも注目。どうしてノルウェーの魚缶にスェーデン国王の肖像画が? 浮かび上がってくる悲しい過去…

ここからフランス式「王的支配(Dominum regale)」論と英国式「王的・政治的支配(Dominium regale et politicum)」論を比較したシリーズ。「火砲を大量装備した常備軍を養う為の官僚制の整備が不可欠となる」歴史は共有しつつも、フランス法学の世界は次第に「自然法原理主義」、英国邦楽の世界は次第に「実証主義」へと向かう。

ここから「ゴビノー伯爵の人種論」シリーズに入る。実は本当の主題は「混淆を恐れない積極的進出の果ての衰退」か「純血を守る為の逼塞がもたらす停滞」の二択を迫る悲観的宿命論。
*執筆過程で「殺されても頭を下げない」「自分が生き延びる為には何でもする」「力の均衡によってしか安全が確保出来ない」大陸型排外主義と、すぐ「隔壁さえ落とせば純潔性が保てる」という発想に至る半島・孤島型排外主義の概念を抽出。

とりあえず「市民社会の源流=スイス・オランダ」「国民国家の源流=イングランド・フランス(後に北欧諸国が流入」みたいな考え方に到達。前者は後者と排他的に存在してきた訳でなく、歴史的に商圏のグローバル・ネットワークで結ばれてきたとする。

*ちなみに「欧州の歴史的交易網展開」はこんな感じ。途中で脱落しちゃう国もチラホラ…

最後に「最大多数の最大幸福」論の起源をまとめる。英国やフランスが革命戦争(1791年〜1803年)やナポレオン戦争(1805年〜1815年)を通じて近代国家の体裁を整えると、言論空間も分断されて中間領域が消失。

といった具合に材料が一通り出尽くしたので総括。

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とりあえず最初の前提。「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)の全人格化」が最終勝者となった現代社会から逆算すると、その大源流は「多数決の原理を正しく運用するには人間の平等が保証されねばならぬ」としたコンドルセ啓蒙主義や「幸福計算(felicific calculus)」を重視した英国功利主義だった事になります。

①英国功利主義はさらに「幸福の増進だけが神の目的に叶う」とした神学的功利主義と「幸福計算こそが善悪の判断基準」としたベンサムの世俗的功利主義に大別されるが、ジョン・スチュワート・ミルコンドルセ啓蒙主義とこの二つの流れの統合を目指して「自由論(On Liberty、1859年)」を執筆。ここに「大杉栄いうところの)心理的個人主義との相互影響によって発展する社会的個人主義」や「(選挙権拡大や大衆文化巨大化に伴う)大衆専制状態への歯止めとしての古典的自由主義」といった市民社会原則が確立する事になる。
*逆に大衆的想像力の側からは「心理的個人主義社会的個人主義の二人三脚状態」がオペラ座の怪人や、ドラキュラ伯爵や、フランケンシュタイン博士や狼男やアマゾンの半魚人といったユニバーサル・モンスターの類としか映らない。なんとここでは「貴族主義的傲慢」「マッド・サイエンティスト」「絶滅種の悲哀」が一緒くたにされているのである。とはいえまぁ「インテリ側の大衆侮蔑」の理不尽さも同じくらい酷いから、到底どっちがマシかという疑問に回答が得られる事はない。

*フランスの評論家が「レッドタートル ある島の物語(英題The Red Turtle、仏題La Tortue rouge、2016年)」を「遂に英国版ロビンソン・クルーソーを超越するフランス版ロビンソン・クルーソーが登場した!!」と激賞したら、ネット上が「お前ら、もう火すら捨てて原人に戻れ!!」という野次に満たされたという話がある。どうやら今日なおルソーの「聖なる野蛮人」理念を極端に理想視し続けているインテリ層は「アマゾンの半魚人」と同格の扱いを受けているらしい。大衆的想像力とはまぁ、そういうものである。

*貴族主義者と第三身分至上主義者が同じ歴史的事実を共有する「二つのフランス史観」もまた、こうしたインテリと大衆の対峙構造の(しかもより洗練された)バリエーションといえよう。どちらが決定的勝利を納めても悲劇的結末しか待っていないので、おそらくここでは「力の均衡状態の永続」だけが最終解答となる。

*日本でこの問題を直視した作品といえば森見登美彦有頂天家族シリーズ(2007年)」が該当するかもしれない。互いに惹かれ合いながら憎み合う天狗族(貴族)と狸族(平民)。天国も地獄も見てきたボローニャパドヴァや京都といった「古都」は、こうした問題に自覚的であり続ける事によって文化発信地の座を死守してきたのかもしれない。そしてパゾリーニ監督(ボローニャ出身)や、アントニオ・ネグリパドヴァ)や、任天堂京都アニメーションが世界を股に掛けて暴れる展開に。美味いもの食って育つから基礎体力が違うのか?

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②こうして全体像を俯瞰して見ると「リベラリズム(Liberal international theory or Liberalism in IR)の死」とは、かかる「インテリと庶民の永遠闘争状態」の「ええとこどり」を目指すスタンスの破綻に他ならないとも見て取れるのである。

リベラリズム (国際関係論) - Wikipedia

現実主義と並ぶ国際関係論の主要な学派のひとつ。多元主義あるいは理想主義とも呼ばれることがある。

国家の能力よりも国家の選好が国家行動の主な決定要因であると主張する。国家を単一主体とみる現実主義と異なって、リベラリズムは国家行為における多元性を許容する。それゆえに選好は国家によって変わり、文化、経済体制、政治体制のような要因に依存する。

リベラリズムはまた国家間の相互作用が政治レベルに限定されるだけでなく(ハイポリティクス)、企業、国際機構、個人を通じて経済分野(ローポリティクス)にまで及ぶと主張する。したがって協調に向けた多くの機会や、文化資本のような広範な権力概念が含まれる。

もうひとつの前提は、絶対利得が協調と相互依存を通じて得られ、平和が達成されるというものである。

リベラリズムが抱えるもう一つの問題点がこれ。 

福井藩のお雇い外国人として明治維新を経験したW.E.グリフィスが「The Mikado's Empire(1876年)」の中で描いた日本人独特の宗教観。
*ウィリアム・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843年〜1928年)…アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者。

  • 日本人は(「お天道様が見ている」といった)素朴な自然崇拝に従って生きている限り、善良なキリスト教徒として振る舞う。もし自分の内面から届く良心の声を「イエス・キリストの声」として聞く様になったら、まさしく善良なキリスト教徒そのもの。
    *ここでは「神=システムそのもの、イエス・キリストインターフェイス」と見立てられているっぽいのが興味深い。プロテスタント神学の一種だろうか?

  • ところが実際にキリスト教徒に改宗し、より確かな考え方を得てしまうと(徒党を組んで周囲の迷惑も顧みず布教して回るとか「法律を改定して全日本人にキリスト教を強制しましょう」と言い出すとか)狂った様な状態に陥ってしまう人がいる。かえって内面からの良心の声が自分に届かなくなってしまうのである。
    *自らの経験談らしい。

マーティン・スコセッシ 監督映画「沈黙 -サイレンス-(2016年)」の中で、かつては自身も信者の一員だった長崎奉行井上筑後守イッセー尾形)がキリシタン狩りを厳しく遂行し続けるのもこのせい?

③(関税障壁の設定や撤廃などを通じて産業育成に役立ったり、福祉の充実によって国民の生活の質を向上させたりする事もあるが)元来、国民国家(Nation state)が最低限満たさねばならない機能は、あくまで「総力戦を最後まで遂行し抜く能力」であり、広義には国民生活の残りの部分が「市民社会(Civil Society)」とも定義出来る。近代到来時点においてはそのうち「インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層」の生活領域のみを指したが、産業革命推進には「大量生産を支える大量消費(しかも消費の全てを輸出に頼っていては、やがて行き詰まる)」が不可能であり、かくして残りの部分にも照明の光が当たる様になり、やがて前者と後者を特別に区別して扱う意味自体が原則として消失した。
*「前者と後者を特別に区別して扱う意味自体が消失」…それ自体はあくまで「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)が全人格化した世界」における建前上の話に過ぎず「インテリと大衆の対峙構造」そのものの消滅を意味しない。ただその対峙構造そのものが次第に多次元化し「有意味な単位での検出」が困難になっていくせいで原則として黙殺せざるを得なくなっていく事情も反映した結果ではある。大まかには「政治面と経済面における平等を何処までも推し進めようとする動き」や「生活の質の不平等を何処までも維持し続けようとする動き」などが最後まで残存し、その裁定が国家に託される形となる。

リベラリズムは時として「政治面と経済面における平等を何処までも推し進めようとする動き」に肩入れするあまり、国民国家元来の機能たる「総力戦を最後まで遂行し抜く機能」そのものの無効化を企てる事もあるが、その振る舞いは「他人のそれが侵害しない限りにおいて、個人の自由が保証されねばならない」なる古典的自由主義の規定における「他人の自由(というか安全を保証される権利)を侵害するケース」に該当する。この問題は既にフランス革命戦争(1791年〜1803年)やナポレオン戦争(1805年〜1815年)の時代の英国において表面化し、そう解釈するのが先例化したと考えられる。*フランス国民の往生際は悪かったが、それでも(その行動至上主義ゆえに)試行錯誤を繰り返した末に一応は同じ結論に到達したと考えられている。ただ、表面だけ模倣しようとするとクメール・ルージュの様なとんでもない暴走を引き起こす。ベネディクト・アンダーソンいうところの「想像されたもの」には確かに革命を起こす力までは備わっているだが、そうして始まった動きを安定した国民国家に着地させるには。また別の原理の導入が必要となってくるのである。

*中華王朝における「易姓革命」は概ね(山東省の)農民一揆から始まったが(珍しく山東省以外の地から蜂起が始まった明朝や中華民国のケースを除き)反乱軍そのものが清王朝開闢に関与する事はなかった。リソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動)においても「青年イタリア」のマツィーニ(明治時代日本人の歴史認識では水戸藩士や吉田松陰に該当)が火をつけ、ガリバルディ(明治時代日本人の歴史認識では西郷隆盛に該当)の軍事的天才が重要な役割を果たしたとはいえ、最後にそれを成し遂げたのはサルディーニャ王国宰相カヴール(ドイツ帝国の建国運動に際してプロイセン宰相ビスマルクが果たした役割。明治時代日本人の歴史認識では大久保利光に該当)なのだった。大日本帝国もまた、その実現が幕末期の尊王攘夷運動に端を発するものだったとはいえ、国家的安定状態まで持ち込んだのはまた別種の人々だったのである。

④ならばブルジョワとは一体何者か。最近の論調で残ったのは「財産と教養(Besitz und Bildung)を備えた人々のグループ」なる基本定義のみだという。なにしろ、そうした人々が政治的・経済的にどういう役割を果たしたか、あるいは現在どういう役割を担い、これからどういう役割を果たすと期待されているかは国ごとによって完全に異なる。そもそも、それぞれ出自も完全に異なるのだから当然の話。「インテリ層」との重なり方も国によって随分異なる。

それにも関わらず、今日なお一部リベラリズムマルクスの提言した「ブルジョワ革命」とか「ブルジョワ打倒」みたいな理念に拘束され続けている。これでは「新時代に対する適応障害」と診断されても止むを得ないのではあるまいか。

⑤ベネディクト・アンダースンは、ナショナリズムの拠り所としての「想像されたゲマインシャフト的共同体としての国民・国家」について言及したが、「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spiritの)が全人格化した世界」には「統計上にのみ存在し、それ以上詳しく知りたがない人々も存在する種類の国民・国家」なんてのも存在する。「朝食ナショナリズム」なんて新概念も提言してみたけど…この分野の掘り下げは将来の課題?

こうして私の中ではそれぞれ「国民・臣民・市民」「国民国家」「市民社会」「ブルジョワ」「インテリ」「リベラリズム」といった諸概念が相応にリニューアルされる展開に。

ある意味、欧州における主権国家の台頭(その起源は概ね14世紀頃まで遡るが、歴史の主役に躍り出るのは17世紀後半以降)、その国民国家化(18世紀末〜20世紀初頭)と総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の到来と限界への到達こそが産業至上主義の時代(1960年代〜1990年代?)を準備したという側面もある様です。
*その意味では「(英仏露独といった主権国家間の競争が歴史の主体となった)絶対王政帝国主義の時代(17世紀後半〜第一次世界大戦(1914年〜1918年)勃発前夜)」も「(共産主義国全体主義国も含む国民国家間の競争が歴史の主体となった)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」も全て人類にとっては瘡蓋(かさぶた)の一種だったのかもしれない。

 

*ここでいう瘡蓋(かさぶた)理論、共産主義を放棄したロシアや東欧諸国を中心に発展してきた歴史観なのだが、さらに遡っての適用が可能かもしれない。例えば英米仏を中心とする資本主義的発展がむしろ逆にオーストリアハンガリー二重帝国やオスマン帝国帝政ロシアといった「主権国家から国民国家への移行が上手くいかない後進国」の制度的矛盾をに追い込んで第一次世界大戦勃発に至る展開。そして最近、太平洋沿岸地域を騒がせている「主権国家大日本帝国残滓」北朝鮮の暴走。おそらく「ドイツ帝国ナチスドイツや大日本帝国とは何であったか」確定するには「ベトナムや中国の科学的マルクス主義の放棄」だけでは不十分。「北朝鮮がどういう結末を迎えるか」まで見届ける必要がある。

こうした考察を経て近代以降の歴史観において「(市民社会には扱いかねる問題を担う)国民国家」と「(国民国家だけでなく産業至上主義の原動力としても動員された)ナショナリズム」と「(これまでの歴史展開においては国民国家や産業至上主義に立脚してきた)市民社会」を分けて考える必然性が台頭してきた訳です。

とりあえず、ざっとまとめると…

  • 総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の終焉は「食品産業や情報産業の工業化」なる新しい展開の始まりでもあった。
    *「食品産業の工業化」…1960年代から始まった日本におけるデミグラソース・ホワイトソース・カレーソース・濃厚ソースの普及など不可分の関係にある。

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    *「情報産業の工業化」…欧州宗教戦争の時代から総力戦体制時代までを牽引した出版資本主義(Print Capitalism)を加速させた電信産業とTV産業の発展を踏み台として1990年代以降「(全てが情報化された)インターネット社会」を現出させる。

  • そうして当時台頭した諸文化は、多かれ少なかれそれまで猛威を振るってきた国民国家ナショナリズムへの反動という側面を有していた。
    *例えば競争の主体が国家から企業に推移した商業至上主義。そしてヒッピー運動や新左翼運動の延長線上として生じた「反体制は無条件に格好良く正しい」なる信念に支えられたサイバーパンク文学。

  •  そして最近では、こうした動きもまたその多くが人類が真の意味で「ポスト総力戦体制時代」に移行する為の中継ぎ、すなわち瘡蓋(かさぶた)の一種に過ぎなかった可能性が指摘される様になった。「国家統制主義への反感」から生まれた商業至上主義は、むしろその成功ゆえに自らが新たな統制主義の源泉となってしまったし「親世代への反感」が産んだヒッピー文化や新左翼運動の担い手達は自らが親世代となって保守化してしまったのである。

  要するに「総力戦体制時代の国民国家間の競争」を超克しようとして始まった商業至上主義の時代も、両者の落とし子たる反体制思想も、歴史の現時点においてはそれ自体が「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを克服するにはまでには至ってない。

 「食の世界におけるナショナリズムと反ナショナリズム」の元来の対立軸

前近代的世界観において「(互いに商業的利益を追求し合う)御当地グルメ」的世界観は(世界全体を覆う)普遍的価値観に完全に埋め込まれている。

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  • 「フランス料理」や「和食」の様に国民国家次元で緻密な「食の体系」を構築してきた地域ほど「このオカズに付け合わせるのはポテトかパスタか米か」といったルールにうるさい。
    *しばしば「医食同源」の様なイデオロギーを背景に擁する様になったりする。

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  • そうしたルールにうるさい地域でも(いやむしろそういう地域ほど)「屋台食」や「田舎の家庭料理」の世界は結構適当だったりする。「ガス抜きとしてそういう自由が不可欠」という点で表裏一体の関係にあるとも。
    *概ね「食の体系」の基準から「過剰」や「不足」の横溢する「健康に悪い世界」と認識されている。

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  • さらに「(伝統主義的段階から脱却してないという意味で)後進的」な地域では食慣習が完全に伝統的生活に埋め込まれており、容易な改変を許さない。
    *ただ例えばアフリカ内陸部でも「粉食の原料」が次第に新世界作物に置き換えられていく様な変化は経験している。

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こうした次元における「距離のパトス (Pathos der Distanz)」問題も存在するという認識から、さらに多様な諸概念が出発する。

むしろここでは「グローバリズムとは何か?」問われる展開に…