諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史③ あるいは「猫」で一杯の量子コンピューター空間

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既存のデジタル・コンピューターが扱うのは「(0か1の二つに状態のみを有するBit(Binary unit)の論理演算(二進数演算)」で、人間はもはやその速度に追いつけません。しかしコンピュータは別に自ら「Bit(Binary unit)とは何か理解している訳でもないのです。
*「Bit(Binary unit)」…それはデジタル・コンピューターに対して「電源のOn / Off」という電気的状態によって与えられ、コピーが容易である事を特徴とする。
2進数の四則演算

http://ar.nyx.link/lecture/infosys/number/ope.png

チューリングマシン(Turing Machine) - Wikipedia

1936年にイギリスの数学者アラン・チューリングが論文「計算可能数について──決定問題への応用」の中で発表した「計算模型(計算機を数学的に議論するための単純化・理想化された仮想機械)」のひとつ。同様の考え方は同年にエミール・ポスト (Emil Post) も独自に発表している。

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無限に長いテープ」「その中に格納された情報を読み書きするヘッド」「機械の内部状態を記憶するメモリ」のみで構成されている。実用上の電子計算機はこれより遥かに複雑で、また有限の記憶領域しか持たないが、「計算機で原理上解ける問題」は「チューリング機械で解ける問題」と同じであるといわれている。

*こうした経緯を考慮すると「多数決の原理を主張しながらフランス革命ギロチンの露と消えたコンドルセ」「コンドルセの継承者だったが故に晩年は女性解放運動の旗手とならざるを得なかったジョン・スチュワート・ミル」同様にアラン・チューリングを「数理にのみ忠誠を誓う臣民」に分類せざるを得なくなる。その過程で「化学的マルクス主義」はこうした思考様式と無縁であるばかりか、それを敵視する存在へと育っていく。何故ならそれが追求し続けてきたのは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の延長線上において夢想された「完璧無比の指導者原理(Führerprinzip)」であり、「計算癖の全人格化」がビジョンとしてもたらした「絶えずデータの見逃しやアルゴリズムの間違いに怯え続ける実存不安に満ちた不完全極まりない世界」など、到底容認だったのである。

このため計算理論では、算法あるいは算譜をチューリング機械と同一視する(チャーチ=チューリングのテーゼ)。

チャーチ=チューリングのテーゼ(Church-Turing thesis)もしくはチャーチのテーゼ (Church's thesis)

「計算できる関数」という直観的な概念を、帰納的関数と呼ばれる数論的関数のクラスと同一視しようという主張である。テーゼの代わりに提唱(ていしょう)あるいは定立(ていりつ)の語が用いられることもある。

このクラスはチューリング・マシンで実行できるプログラムのクラス、ラムダ記法で定義できる関数のクラスとも一致する。よって簡単にはテーゼは、計算が可能な関数とは、その計算を実行できるような有限のアルゴリズムが存在するような関数、よっておおよそコンピュータで実行できる関数と同じだと主張する。

*実際、コンピューター(というよりOS)は「空ループ(入力待ち状態で、入力された内容を各処理に割り振る)」をメイン関数とする関数群と規定する事も可能である。

*そして「名指すもの(プログラム)の、名指されるもの(マシン単位ではCPU、ネット単位ではサーバ)への働きかけこそが世界そのもの(マシン単位ではデバイス機器、ネット単位ではネットワーク環境)」なる思考様式自体については「真言密教の完成者」空海(774年〜835年)や「スンニ派古典思想の完成者」ガザーリー(1058年 〜1111年)が既に到達していた。

一方、量子コンピューターにおいて「Bit(Binary unit)」に該当するのは「0と1が一定の確率で重ね合っているQubit (Quantum bit=量子ビット」。デジタル・コンピューター同様、その「(確率の波の)重ね合わせ (Superposition) の観測」速度には人間は到底追いつけませんが、やはり別に自ら「 Qubit(Quantum bit=量子ビット)とは何か」理解している訳ではないのです。

量子もつれ((Entanglement)状態に立脚する)Qubit(Quantum bit=量子ビット)の世界と(物理的には電圧の On / Off 状態で表現される)Bit(Binary unit=古典的ビット)の世界を隔てるのは「不確定性原理によって(コピーの容易な)Bitと異なり、Qubitはコピー不可能」という点にある。
*「不確定性原理」…我々が普段生活しているようなマクロな世界では、光の反射、若しくはレーダのような電磁波を利用して計測しいるが、ミクロの世界で電磁波を利用すれば、そのエネルギーで粒子の運動不正確になり、影響を受けないようなエネルギーで観測すれば粒子の位置が不正確になってしまう。すなわち位置と運動量、または時間とエネルギーを正確には測定するのは不可能なのである。

これにより、量子論では「観測」した時点のみが正しく、観測出来ない部分は不確定であると根本決められた。量子ビットは「観測」されるまで状態が決定されず、「観測」されることによっていずれかの状態に収縮する。すなわち「観測」は量子コンピュータにおいては、演算の一つでありながら不可逆的なのである。

*こう考えると「デジタル・コンピューターと異なりメイン関数(入力待ち空ループ)を持たなかったアナログ・コンピューター もまたQubit(Quantum bit=量子ビット)的ではなかったか?」という疑惑が浮上してくるのであった。
コンピュータ - Wikipedia

アナログ計算機は、電気的現象・機械的現象・水圧現象を利用してある種の物理現象を表現し、問題を解くのに使われる計算機の一形態である。

アナログ計算機はある種の物理量を別の物理量で表し、それに数学的な関数を作用させる。入力の変化に対してほぼリアルタイムで出力が得られる特徴があり(これはいわゆる「高速型」の場合の話である。時間をかけてバランスが取れた状態を見つけ出すとか、移動量の合計を得るといったような「低速型のアナログ計算機」もある)、各種シミュレーションなどに利用されたが、演算内容を変更するためには回路を変更する必要があり、得られる精度にも限界がある。

それでディジタルコンピュータの性能の向上とDA/ADコンバータの高精度化・高速化によって、コストパフォーマンス的にもそちらで代替したほうが有利となり、その役割を終える事になった。

*例えば「電卓は如何に人間との共存を果たしてきたか」という観点から考慮してみよう。それはしばしば机上に無造作に置かれ「(OSの空ループ状態同様に)入力待ち状態」に置かれている。まさにこの状態こそが「アナログ・コンピューター」の到達した最終地点だったのかもしれない。要するにそれはデジタル・コンピューターの世界観において「装置(デバイス)の一種」としてそれ以上不可分な領域に分類されるに至ったとも考えられる訳である。

電卓 - Wikipedia

電子卓上計算機の略で計算機の一種。JISの用語では、1979年(昭和54年)にJIS B0117で電卓の呼称が標準化した。名前の通り、電子回路によって計算を行い、卓上で使用できる(ないし、より小さい)サイズである。

* Qubit(Quantum bit=量子ビット)…それは各ビットが「シュレーディンガーの猫を収めた箱」としても規定可能だったりする。あるいは猫で一杯の量子コンピューター空間!!
シュレーディンガーの猫 - Wikipedia

まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質ラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。もし、箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンターが感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死ぬ。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せず、猫は生き残る。一定時間経過後、果たして猫は生きているか死んでいるか。

この系において、猫の生死はアルファ粒子が出たかどうかのみにより決定すると仮定する。そして、アルファ粒子は原子核アルファ崩壊にともなって放出される。このとき、例えば箱に入れたラジウムが1時間以内にアルファ崩壊してアルファ粒子が放出される確率は50 %だとする。この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50 %、死んでいる確率も50 %である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない。

我々は経験上、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態という二つの状態を認識することができるが、このような重なりあった状態を認識することはない。これが科学的に大きな問題となるのは、たとえ実際に妥当な手法を用いて実験を行ったとしても、観測して得られた実験結果は既に出た結果であり、本当に知りたいことである観測の影響を受ける前の状態ではないため、実験結果そのものには意味がなく、検証のしようがないということである。

この思考実験は、(「波動関数の収縮」が、人間の「意識」によるものとした)「ノイマン-ウィグナー理論」に対する批判として、シュレーディンガーによって提出された。まず、量子力学の確率解釈を容易な方法で巨視的な実験系にすることができることを示し、そこから得られる結論の異常さを示して批判したのである。シュレーディンガーは、これをパラドックスと呼んだ。

「この猫は大きくて賢い。量子の状態は2つの空洞で共有されているので、猫はひとつの箱に存在するのではなく、別々に切り離しては語れない」、「別の見方もできる。小さくて単純な2匹の猫が別々の箱に1匹ずついて、それがもつれ合っている、という考え方だ」と、論文主筆者のChen Wangさんは声明で語ってますよ。

ここで「偉大なる先行者」として不動の地位を獲得した空海ガザーリーも、ただ単に独自教学を確立した宗教者だったばかりでなく、社会的成功も手中に収めた「とんでもない生臭坊主」だった事実が浮上してきます。おそらくその事は、両者が顕密の峻別姿勢(究極的真理に到達する為の神秘主義は一般的開示に向かず、これを補佐する形で万人に知らしめる教学が存在すると主張する立場)」という立場でも重なってくる点とも無関係ではありません。

こうした「ソフトウェア(演算を遂行する主体としてのコンピューター動作)」と、その認識範囲外に広がる「ハードウェア(コンピューターとそれに接続されたデバイス)」の関係、実は数学そのものも抱えていたりします。

吉原久夫「数学と仏教の意外なつながり」

小平邦彦 (1915〜1997) は岩波基礎数学選書の最初に次の様に述べている:

形式主義によれば数学はそれ自身は意味をもたない記号を与えられたルールに従って並べて行くゲームに過ぎないとうことである。これは数学の最も本質的なものを見落としているのではなかろうか?

たとえば,公理的構成の規範となった Hilbert (1862--1943) の幾何学基礎論では「点」,「直線」,等は意味のない無定義語,すなわち記号であって,「猫」,「雀」,等で置き換えても一向に差し支えないということになっているが,これは事実に反する…図を描かず,頭の中で図を想像することもせずに,論理だけによって Hilbert の幾何学基礎論を理解することは不可能であろう。

私のみる所では,数学は実在する数学的現象を記述しているのであって,数学を理解するということは,窮極において,その記述する数学的現象のイメージをいわば感覚的に把握し,形式主義では捕捉できない数学の意味を理解することである。」
*なお,同氏は数学的な対象を捉えるのは独特の感覚であって,われわれは個人差があるが大なり小なりその感覚をもっており,それは一種の視覚のようなものであるとし「数覚」と名付けている。

岡潔 (1901年〜1978年)は次のように述べている:

数学において自然数の $1$ とは何であるか,ということを数学は全く知らないのである。のみならず,ここはとうてい手におえないとして,初めから全然不問に付しているのである。

数学が取り扱うのは,自然数の全体と同じ性質をもった一つの体系が存在すると仮定しても矛盾しないか,という問いから向かうのである。幾何の点についても同様である。

ところで,この $1$ とか点とかは,どうしてもわからないものかというと,宗教的方法を許容すれがわかる,ということである。仏教の一宗に光明主義というのがある。この光明主義の笹本戒浄上人 (1874--1937) が,もう 20 年くらいになるかと思うが,こういわれた。『自然数の $1$ や幾何の点は,無生法忍を得て初めてわかる』。無生法認は法報二身(心と自然)の理法を悟るという,非常に高い悟りの位である。それだったら,情抜きで,$1$ や点をいい表そうとしてもできないのである。

数学は近頃こういうことに気づき始めた。人は矛盾のない体系というだけでは,満足できるものでないと。なぜかというと,矛盾がないということを証明するためには,この言葉の内容を規定しなければならない。ところがそうすると,かように限定された矛盾がないとうことは,素朴な概念としての矛盾がないということと,一致しないことがあり得るからである。

華厳思想の根幹をなす事実として「一即一切、一切即一、事々無碍重々無尽」ということがある。田毎の月という言葉があるが,一つの月が沢山の田んぼそれぞれに映る「海印三昧」の世界。一方,一つの目に目前の広い世界が入り込む。
*「一即一切、一切即一」考えてみたらこれ荒川弘鋼の錬金術師(2001年〜2010年、アニメ化2003年〜2004年、2009年〜2010年)」のテーマそのもの。

  • そういえば「人間の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)との完全合一を経て自らの果たすべき役割を獲得する事によってのみ得られる」とするヘーゲル哲学も、ある意味「時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)」を人間に認識可能な領域の外部に置いているといえる。
    *だからこそ「大日本帝国の公的ナショナリズム(Official Nationalism)」を主導したの国民精神文化研究所の紀平正美は、この部分を実にあっけなく華厳教学に換装してのける事に成功したとも。

    *こうした「差替例」なら、他にもみて取れる。例えばソ連はそれをスターリン崇拝に、ナチズムはそれを指導者原理(Führerprinzip)に差し替える事によって成立したとも。要は理論上の優劣など二の次で「末端への滅私奉公強要の正当化」こそが主目的なんて塩梅とも。
    日刊ベリタ : 記事 : ナチスの指導者原理 最初は党内の掌握から 党の姿を見れば次の社会が見える 山口定著「ファシズム」を読む
    スターリン主義批判の原点としてふまえられるべき諸点~スターリン主義批判の系譜 - 旗旗

    https://image.slidesharecdn.com/communismfascismandnazism-131216171703-phpapp02/95/communism-fascism-and-nazism-5-638.jpg?cb=1387214281

    なぜプラグマティズムにおいてヘーゲルが問題となるのか

    プラグマティズム哲学がアメリカで誕生したとき、その創始者たちが標的としていたのは、アメリカにおいてヘーゲルを受容した「絶対的観念論」であった。「効果だけが、その対象についてのわたしたちの概念的理解(conception)である」とするパースの格律は、わたしたちの生活世界における行為になんら影響を及ぼさない概念を、さも哲学の主要問題であるかのように議論する観念論に対する批判として理解することができよう。

    他方、分析哲学もまたヘーゲルに代表される大陸哲学が伝統的に扱ってきた問題を「仮象問題(Scheinprobleme)」と断じ、その伝統と断絶することで、言語分析を中心とした「地に足のついた」哲学を志向したのであった。このように共通した動機を持ちながら、それぞれ違う方向をとった分析哲学プラグマティズムであるが、その後分析哲学が隆盛する中、しばらくのあいだ後景に退く事になる。

    ところがようやく20世紀後半になり今度はクワイン以降分析哲学の中からプラグマティズムについての議論が現れ、いまではネオ・プラグマティズム分析哲学における一つの立場として受け入れられるに至る。

    R・ブランダム(R. B. Brandom 1950- )は、こうしたアメリカ哲学の流れの中、分析哲学の伝統において哲学的訓練を受けたネオ・プラグマティストと呼ばれる哲学者の一人である。彼の哲学が興味深いのは、ローティーの弟子でありながら、ローティーのプラグマティズムによる文化政治的哲学批判以降も、哲学に取り組むべき課題があることを示し、そしてその解決の方途を示していることであろう。そこには、彼が解釈する独自のプラグマティズムの立場がある。いわばローティーにおいてプラグマティズムは、哲学批判を含めた文化批判の立場となっていた(したがって政治的でもある)のに対し、ブランダムにとってプラグマティズムは、言語哲学における課題を解決するのに適切な一つの哲学的立場である。

    その彼のプラグマティズムがさらに特異であるのは、それが、彼のヘーゲル受容と結びついているということである。ブランダムは、上記のパースの格律を〈わたしたちが何かを「言う saying」ということを、そのときに何を「なして doing」いるのかということから理解する立場〉と理解する。これによって、彼のプラグマティズムにおいては、〈わたしたちが言語使用においてしたがっている規範についての理論〉としての語用論(pragmatics)が重要な意味を持つことになる。

    ブランダムの言語哲学はしたがって、語用論(「規範的語用論 normative pragmatics」)が意味論(「推論的意味論 inferential semantics」)に先行し、前者が後者の基礎を与えるという構成を取っている。彼によれば、こうした意味でのプラグマティズムへの道を開いたのはカントである。ブランダムの『純粋理性批判』解釈によれば、カントは①主体による判断の形成を、その主体による規則についての理解(conception)に基づく、規則の適用として理解していたとされる。さらに彼によればカントは②そうして形成された判断(命題構造を持った主張)が、意味の最小単位であり、概念は判断の中ではじめて意味を持つと主張していた。こうして理解されたカントに対しヘーゲルは、③判断の意味をさらに推論的関係の中で理解するという〈推論的意味論〉への道を進めたのである。ブランダムの哲学はまさにこのカントからヘーゲルへの道を取り込み、理論化したものとして構築されている。

    しかし他方で、ブランダムによる〈先駆的プラグマティスト pragmatist avant la lettre〉としてのカント解釈を好意的に受け入れるとしても、カントの超越論哲学は以下の様子なプラグマティズムとはいいがたい内容を含んでいることも否定できない。

    ①表象主義(Representationalism)…人が何かを知覚した場合、その知覚は実在する対象を表すイメージだと考える哲学的立場。

    ②認識論的主観主義…主観から独立した物自体(Ding an sich)を人間が認識できるとは考えず、認識しうるのは現象(Erscheinung)のみであると考える哲学的立場。

    ③基礎付け主義(foundationalism)プラトンに由来する伝統的な定式(JTB定式)によれば、知識とは「正当化」された「真」なる「信念」である(Justified True Belief)。これに認識論を援用して「ある信念が正当化される基礎付けの連鎖を遡及していけば、究極的には単一の自明的で基本的な信念に到達する(逆を言えば諸命題の確実さは、絶対確実な疑い得ない根拠から正当化の連鎖によって派生的に与えられるに過ぎない)」と考える哲学的立場。
    *この基本的信念を、基礎を梃子の原理で地球を動かしたアルキメデスの寓話になぞらえて「アルキメデスの点」と呼ぶ。デカルトに端を発する大陸合理論はこれを理性に求め、ジョン・ロックに端を発する経験論はこれを経験に求めた。

    それに対し、ブランダムの解釈するヘーゲル哲学は、①反表象主義、②相互主観主義、③反基礎付け主義を支持するものである。これらの点においてヘーゲルは、カントが先鞭をつけたプラグマティズムをより徹底して展開した哲学者として理解されなければならない。

  • 「大陸的合理主義の祖」 ルネ=デカルト René Descartes 1596~1650 )は、数学や物理学といった「無から仮説を積み上げた公理体系」のみを近代科学として認定した。これに対して「近代歴史哲学の創始者」ジャンバッティスタ・ヴィーコは、主著「新しい学 Principi di scienza nuova(1725年)」の中で「歴史もまた無から人間の行為事業を積み上げたものである」とし、歴史学を近代化学の仲間入りさせる事に成功した。
    *「近代化学としての歴史学」…まず厳格な手順を経て「歴史的事実」を抽出し、それを共有する形で様々な「歴史観」を構築する。とある歴史観が動揺したり崩壊したりしても、その動揺は歴史的事実そのものには及ばない。その一方で、とある歴史的事実が動揺したり崩壊したりすると、それを共有する歴史観全てが動揺を余儀なくされる。
    *「とある歴史的事実が動揺したり崩壊したりすると、それを共有する歴史観全てが動揺を余儀なくされる」…最近のケースでは「島ケルトは実在しなかった」仮説などが有名。英国人やアイルランド人のナショナリズムにも関係してくる深刻な状況変動で、自らのオリジンをピクト人に推移させるような動きを引き起こしたりしている。

ところで現代人は原則として「ハードウエア(コンピューターとそれに接続された諸装置(Device))」 が、BIOSBasic Input Output System)やOS(Operating System)経由で「ソフトウェア(「ハードウエアとは何か」自らは直接把握してない操作体系。数学における関数論と等価)」によって制御されるという基礎付け主義(foundationalism)的思考様式に慣れ親しんでいて、過去には他の思考様式も存在した事自体、滅多に思い出そうとしません。
*こういう展開も、ある意味「計算癖(独Rechenhaftigkeit、英Calculating Spirit)が全人格化した世界」の一側面と考えられる。

ヘルムート・プレスナーによれば、20世紀前半のドイツを代表する社会学車たるウェーバーゾンバルトも、ダニエル・デフォーロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe、1719年〜1720年)」の主人公が何でも複式簿記で管理したり、日記に記録しておこうとする態度「Rechenhaftigkeit」と呼んでいる。英語のCalculating Spiritのドイツ語訳で「計算癖」を意味し、これが部分的判断からあらゆる判断を全人格的に代表する基本原理へと昇華される事を「資本主義化」としたのである。

ちなみにネット検索をかけると「Hardware architectureの世界」と「Software architectureの世界」が綺麗に二分されてるのが興味深い。

http://cayfer.bilkent.edu.tr/~cayfer/ctp203/arch1.gif

*実は2005年以降急激に加速した「インターネット・トラフイックの急拡大」は「Hardware architectureの世界」と「Software architectureの世界」の役割分担の見直しに支えられてきた部分も存在するのだが、どうもそうした展開に対する日本人の関心の持ち方は「Hardware architectureの世界」に偏り過ぎている感が見受けられる。

従ってナショナリズムについても「ナショナリズムの素」とこれに立脚して展開される保守主義的思考を分けて考えないといけない時代に差し掛かっていると考えられます。

  • ナショナリズムの素Nationalism-in-itself)マンハイムいうところの「個別的なるものへの愛着心」に端を発する伝統主義や復古主義歴史観や英雄伝承に加え「別に日本人の全てが鯨肉や納豆や生卵を特に選好して食べている訳でもないが、外国人からこれを非難されると殆んどの日本人が一斉に反撃する」「フランス人はシャンパンの歴史におけるドイツ人の関与を自らは認めない」「日本人は(江戸幕藩体制化におけるオランダよりの「唐三盆」大量輸入が開花させた)和菓子を完全日本独自文化として認識している」といった諸要素を含む。

    *中でも壮絶なのが「江戸時代初期には、その音響のエスニックさこそが好まれた三味線(蛇皮線)が、江戸末期までにすっかり日本固有文化として認識され、同様の展開が戦後日本のエレキギター分野でも繰り返され、かつ最近では「吉田兄弟の早弾き三味線」が日本固有文化として世界中から評価されるに至るプロセス」。「想像の共同体(Imagined Communities、1983年)」の中でベネディクト・アンダーソンは「第1に平均的な歴史家の観点からすれば国民の存在というものは近代国家が生み出した当然の現象の帰結としか見えないのに、ナショナリストの目には国民がひどく古いものと見えるらしい事。第2に、近代国家ではどこかの国民に帰属すること、すなわちナショナリティをもつことはごくごく当たり前のことであるのに、どの国民も自分たちは他の国民とは異なる国民性(民族性)や文化性をもつというふうに確信する事。第3に、それほどの国民にとっては当然ナショナリズムは大きな意味をもっていそうなのに、ナショナリズムをめぐる理論や研究はどの国でも、ひどく貧困で支離滅裂である事」を「ナショナリズムの三大ミステリー」として挙げたが、これはもう「ナショナリズムの素」レベルに見受けられる混乱、(実際の歴史より、自らの経験に基づく直感を重視する)経験主義が気持ちよいほど明瞭に自壊していくプロセスそのものなのである。


    *原作久米田康治・作画ヤスの「じょしらく( 2009年〜2013年、アニメ化2012年)」のエンディングテーマにおける「忙しさに身を任せ消えていくなんて、べらんめい」なんて歌詞のOverdriv感が時空を超えて国際的に通用していく景色、および(ある意味こうしたシーンへの誤解から始まった)Baby Metalがそれなりに独自の国際的地位を確立していく景色は日本人としてむしろ痛快ですらあったが、もちろん国際的に孤立して存在していた訳ではない。


    *当時はまたSeo Taijiの延長線上に現れたPsyやキム・ヒョナ(Kim Hyun A)、2ne1「NOLSA(2011年7月発売)」の時代でもあった。それまで国際的評価が低かった分、当時の韓国音楽が世界に届けたOver Drive感は物凄かったのだが、やがて本国芸能界の「自主規制」によって壊滅していく。



    *ある意味こうした動きを背後から支えてきたのは、半世紀以上に渡って貫かれてきたアメリカ人の「Over Drive再現願望」だったとも。


    *さらに遡るなら、こうした「Over Drive再現願望」自体は既に「総力戦体制時代(1910年台後半〜1970年代)最初期におけるエルンスト・ユンガーの魔術的リアリズム登場などに見て取れるとする向きもある。

    *最近の作品だと(日常に裂け目を顕現させる)Over Drive要素抜きにヒットは見込めないという分析も。そもそも人の耳目が集められない?

  • 保守主義的思考」マンハイムいうところの「伝統主義がロマン主義的主観主義に基づいて再解釈され統合された姿」。そこでも指摘されている様に実際のあり方は実に多岐に渡り、しかもこうした展開は保守主義者だけでなく進歩主義者の思考様式にも見てとれるという。
    *ただし上掲の様に近代以降「(伝統主義・復古主義に訴える)個別的なるもの」の在り方は大いに変貌。そもそも個人的アイデンティティの定義そのものが「外界から観測された時のみ特定の状態を開示する量子力学的存在」に飛躍する展開となった。

    与謝野晶子 母性偏重を排す(1916年)

    私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。

    一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。

    このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。

あれ? そもそも話を「ナショナリズム」に限定する意味自体が消失しちゃう展開に。しかも、何よりもまず「(観測される)データ側だけでなく(観測する)アルゴリズム側も量子論的重ね合わせ状態にある」のが現代社会の本質という話…

イギリス以外のヨーロッパ大陸で保守を名のる政党が多く成立するようになるのは19世紀後半以降であるが,この言葉の元来のイメージは,イギリスも含めてそれら保守党のイデオロギーと結びついた政治的なものであった。

また同じ19世紀中ごろ,〈保守主義〉よりは少し遅れて,自由主義政治勢力の掲げる〈進歩主義〉という言葉も成立している。その意味では,ヨーロッパ資本主義の成熟に伴って,このほかにもたとえば〈社会主義〉〈ナショナリズム〉などの言葉を生んだ19世紀の政治思想論争が,それを生み出したといえる。

 マンハイムが「保守主義的思考」の中で描いた如く、どの党派も同じ混沌の坩堝から生まれたという展開。究極的には「現状維持派(漸進派)」と「現状懐疑派(急進派)」の二極に収斂していくという最近国際的に流行している政治学とも重なってきます。
*しかも各個人の内心は両者が確率の波的に重なり合う量子状態にあったりする。おそらくこれが最もシンプルかつ現実的なモデル?

さて、私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか…