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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ネタバレあり】「ひるね姫」観てきました② 「第二次産業系アニメ」という新ジャンルについて。

今回はこの投稿の続いて神山健治監督「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」の話。

http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/135/32/N000/000/002/125014436800216404596_gukyo2.jpg

「異端審問官ベワン / シジマ自動車顧問弁護士渡辺一郎」が登場した時、最初は宮崎駿風の谷のナウシカ(原作1982年〜1994年、アニメ化1984年)」のクロトワかと思いました。しかしどうやら、そうした「したたかな末端臣下の生き様」は「ひるね姫」においては、また別の形で表現されていた様なのです。

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酸いも甘いも噛み分けてきた平民出身の叩き上げ参謀クロトワ…

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操縦士として何度も死線を潜り抜けてきた経験から「現場主義」的観点も備える。f:id:ochimusha01:20170407224717j:plain

ナウシカの実力もその観点から認めている。

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その一方で権謀術数の世界も飄々と潜り抜ける隙のない人物でもある。本質的には何も信じてないニヒリストで、ナウシカの様な正義の実現の為ならいかなる犠牲も厭わない熱血タイプの気持ちが分からない。
*そして要所要所で「うだつのあがらねぇ平民出にやっと巡って来た幸運か、それとも破滅の罠か」みたいなシェークスピア劇めいた大見得を切る。「オセロ(Othello, The Moor of Venice、1602年)」において「持たざる者の持てる者に対する嫉妬心」からオセロを裏切ると旗手イアーゴー辺りが口にしそうな台詞。

一方、Wikipediaの「渡辺一郎 / 異端審問官ベワン」の項目には映画版にも小説版にもない記述があるのが興味深いところ。

渡辺一郎(声:古田新太)-Wikipedia

シジマ自動車の顧問弁護士だが、徹底した文系管理職気質。技術者のような「作る人間」に対しては徹底した軽蔑心を持っており「自分が利用している道具」という意識が強く、シジマの他の社員に対してはその本音を隠しきって接している。そして自身の本音も見抜けずにいる技術者や社員たちに対しては心から軽蔑して内心で見下しており、同じ気持ちを自身の雇い主である志島会長に対しても抱いている。
*さらには社長の自家用ジェットを完全に私物化して乗り回している。

異端審問官ベワン(声:古田新太)-Wikipedia

ハートランドの大臣のひとりにして異端審問官。ハートランド国王の娘エンシェンの魔法の力を疎み、彼女を「ハートランドに災いをもたらす者」と見做して幽閉するよう、国王に働きかけた人物。実は自身も魔法使いであり、悪しき「言葉の魔法」を用いてハートランドに「鬼」を呼び寄せていた。
*小説版を読む限り異端審問官ベワンは「自ら鬼を呼び寄せていた」のではなく「向こうから勝手にやってきた鬼の力を自らの力の強化に利用しようと画策していた」というのが正解っぽい。人から魔法の力を取り上げる目的も同様。「渡辺一郎」の設定と整合性を持たせる為には「自らは魔法使い(ソフトウェア・エンジニア)ではないが、使用権さえ奪ってしまえばその力を自らのものに出来ると考えてるタイプ」と見做すのが正しい様に思われる。彼もまた「言葉使い」ではあるが、その能力は「言論操作」に特化しているとも。その一方で秘密裏に新型エンジンヘッドを完成させてしまうのだから、中々侮れない。おそらく作中に登場しないだけで、彼についていく道を選んだ技術者集団というのも存在したに違いない。

この解釈だと原型はシェークスピア「リチャード三世(The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」に求められそうです。要するに(「オセロ」同様)「持たざる者」の「持てる者」に対する嫉妬と復讐の物語…

そして百年戦争(1337年/1339年〜1453年)から薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)にかけての時代を扱うシェークスピア史劇において「魔女」といったら概ね「(卑劣な手段でイングランドから力を奪った)フランス女達」を指します。
*「(卑劣な手段でイングランドから力を奪った)フランス女達」…もちろんその筆頭に名前が上がるのは、かのジャンヌ・ダルクなのである。そしてシェークスピア史劇は「フランス兵は戦えば必ず負ける世界最弱の軍隊で、イングランド兵は戦えば必ず勝った世界最強の軍隊だった。それでも百年戦争でフランスが勝ったのは(ジャンヌ・ダルクの様な)狡賢い魔女達による卑劣な分断工作のせい」という前提から出発する。
ヘンリー六世 第1部 - Wikipedia

ひるね姫」に登場する「」が直接暗喩しているのはおそらく(日本と熾烈な技術戦争を繰り広げてきた)米国産業界辺りなのでしょうが、このままだと「イングランド百年戦争で破れ、薔薇戦争で大貴族同士が殺し合ったのは全て魔女(フランス女)の卑劣な撹乱のせい」と頑なに信じたがったチューダー朝(1485年〜1603年)の後ろ向きの公定ナショナリズムの影響を受けた作品となってしまいそうです。
*実際ノルマン・コンクェスト(1066年)からこの方、イングランド国王は同時にフランス国王の臣下でもあり続け、忠誠の証としてただひたすらフランス王族を王妃に迎え続けてきた。こうしたフランス出身の王妃達は気位も高く何かと国を乱す様な振る舞いに出る事が多かったので、何かあると「魔女(フランス女)の卑劣な撹乱のせい」と考える伝統が生まれてしまったという歴史的経緯も存在する。

*実際にフランスが百年戦争で勝利したのは火砲や常備軍の投入が巧みだったからだし、薔薇戦争においても火砲は各勢力の勝敗を決定するにあたり決定的役割を果たしてきた。ただその事実を素直に認めてしまうと「(騎馬隊の優位性に立脚する)王侯貴族による支配体制」が揺らぐので、思い切って全部「魔女(フランス女)の卑劣な撹乱のせい」という事にしちゃったのが「チューダー朝史観=シェークスピア史劇」の公定ナショナリズムの世界だったという次第。ただし薔薇戦争最末期(すなわちチューダー朝開闢前夜)を扱った「リチャード3世」の頃になると流石に全てを魔女(フランス女、ここではフランス王室から輿入れしたマーガレット王妃)のせいにするのは無理となり「卑劣な撹乱」の主体がランカスター朝最後の国王)リチャード3世に推移している。

まぁ実際「鬼=夷狄(日本のハードウェア文化を脅かす海外文化)」「魔女=イクミ(米国カーネギーメロン大学留学経験もあるソフトウェア技術者)」という解釈の導入によって、全体像がある程度すっきり理解出来ちゃうのも困りもの。そして何でもシェークスピア戯曲の援用で考えようとする英国人がこの解釈を取らない筈がありません。*「岡山=モモタロー=鬼(夷狄)」の図式を採用してもあまり大差はない辺りが興味深いところ。ちなみに実際の古代史に基づくと岡山は弥生時代末期(2世紀後半)に日本海側の出雲と機内や瀬戸内海沿岸部との中家交易で栄え、「日本最初の首都」纒向建築(3世紀前半)も主導したが5世紀に入ると内紛が激化して自滅し、日本で最初のヤマト王権の直轄地となっている。

*とはいえ実際のイングランド史においてすら「(スペインとの和議成立によってスペイン船に対する私掠行為を封じられた結果として)経済的に困窮したチューダー朝の(修道院所領没収という非常手段に訴えながらの)所領売却事業」の落とし子としてのジェントリー階層急増が直接ジェントリー階層の「王国の藩屏化」に結びついたとは考えられていない。何しろ彼らは源平合戦の如く、清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)に際しては国王派と議会派、「名誉革命(1688年〜1689年)」に際してはトーリー党ホイッグ党に別れて「血で血を洗う内ゲバ合戦」に手を染めていった訳で、これが英国式議会制民主主義の原風景なのである。

すなわち安直に「今はハードウェア技術者とソフトウェア技術者が手を組んで頭の固い経営者や技術の世界を分かってない中間管理職を打倒すべき」なんて革命史観に持ち込むのは禁物です。良い意味でも悪い意味でも「ひるね姫」もそこまでは描いてない訳ですしね。

ここに吟味しなければいけない箇所が出てきます。

  • この作品においては一見「現実の世界」ではモモタローが完成させた自動運転技術がシジマ自動車を救ったのに対し、「夢の世界」では渡辺 / ベワン派が秘密裏に開発を進めてきた「エンシェンの魔法さえインストールすれば動く段階にあった」新型エンジンヘッドがハートランド王国を救った様に見える。
  • しかし実は「オリンピック入場式の全自動運転化」を最終的に成立させた土台となったのもまた、実は「(絶望的な遅延状態にあった)志島一心の指揮する公式プロジェクト」ではなく「渡辺 / ベワン派が秘密裏に準備してきた(少なくともイクミのプログラムさえ追加すれば完成する段階までは漕ぎ着けていた)水面下プロジェクト」だったのではあるまいか?
    *しかもおそらく、ここでいう「水面下プロジェクト」は宇宙進出まで念頭に置いた雄大なビジョンに基づくものだった。そう考えると様々な場面の辻褄が合ってくる。

    小説版「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」

    あの日、ぎりぎりに迫った開会式に完璧な自動運転技術車を間に合わせるため、モモタローはイクミの遺したプログラムを志島に渡し、岡山で実装していた自動運転技術のデータも提供した。レジスタンスも総動員した必死の作業ののちに、あの完璧な開会式が開催されたのだ。イクミの夢が花開く瞬間を共有し、一心とモモタローのわだかまりはすっかりなくなっていた。
    *「レジスタンス(ハートランド王国の小人)も総動員した」とあるが「夢の時間」において彼らはまだ何の役割も果たしていないし、なんとなくとはいえ「旧型エンジンヘッド=一心が指揮していた公式プロジェクト」に「エンシェンの魔法」をインストールしただけでは「鬼」を倒すには性能が不十分である事を仄めかす場面もある。やはり「現実の時間」においても「(イクミが開発しモモタローが育てた)自動運転プログラム」の受け皿となった「第二のプロジェクト」は存在したとしか思えない。

  • それでは、この「第二のプロジェクト」はどうして「夢の時間」において「完成間近のプロダクト」という形でしか現れなかったのか。それはもしかしたら(ココネに「エンシェンと魔法のタブレット」の物語を語って聞かせた)モタローがその存在を認識しておらず、(「夢の時間」の新たな紡ぎ手たる)ココネもやはり完成間近のプロダクト」という形でしかそれを知り得なかったからではあるまいか。
  • ならば、おそらく(「レジスタンス」とは別途、志島一心の公定ナショナリズム的価値観にウンザリして反旗を翻す決意を固めた)渡辺 / ベワン派は殆ど最終勝利を掴みかけていたのである。しかしながらこの派閥は渡辺 / ベワン当人に機密漏洩事件」や「(秘密漏洩を防ぐ為の)証人(ココネ)口封じ事件」で見切りをつけ一心派に鞍替えした。モモタローが最終的に「人には分相応ってぇのがありますけぇ、こっちでコツコツ仕事を続けようと思います」なる結論に到達したのも、もしかしたらこうした「大企業内における修羅地獄の様な派閥争い」を目の当たりにして、そうした渦の中でサバイバルする自分を想像出来なかったからかもしれない。
    *要するに画面内にも小説の文中にも登場しないだけで「ひるね姫」にも「短けぇ夢だった」と呟いてあっさり現実復帰した「したたかな」技術者集団がいてシジマ自動車の明日は彼らが創っていくであろうという話。最近はむしろそっちにスポットライトを当てるのがトレンドなんだけど…
  • だとすれば、この物語を読み解く鍵は「妻の開発した自動運転プログラムを独占しようとしたモモタローのエゴイズム」と「技術を権力闘争の道具としか考えなかった渡辺 / ベワンのエゴイズム」の危ういまでの紙一重さという事になってくる。おそらく、その「危うさ」は実は「シジマ自動車内のレジスタンスのみなさん」がモモタローの想像の世界では「小人」に矮小化されてしまう辺りに顕現している。
    *ましてや、こうした全体構造に全く噛まなかったココネやモリオが狂言回し役に終始せざるを得なかったのは、もはや物語的必然?

ところで「物作りに対する姿勢を根幹に置いた物語」といえば黒澤明監督映画「天国と地獄(1963年)」もそうでした。

黒澤明監督映画「天国と地獄(1963年)」

戦前、軍靴製造で財をなした社長は「兵隊靴屋」の発想から抜け切れず「丈夫で長持ちする事」しか考えない。

一方他の重役達は営利を追求するあまり「デザインが美しく」「製造コストが安く」「(丈夫で長持ちする要素を排除したが故に)すぐに壊れ、買い替えサイクルが早い」靴を理想視する。

主人公である権藤金吾(三船敏郎)はどちらも「考え方が偏り過ぎている」と思い、自らが株主総会を掌握して実権を握り、バランスの取れた靴を製造しようと考え始めたが、結局政争に敗れて会社を去る。しかし靴への情熱を捨て切れず、小さな工場の経営権を手に入れて自分の夢の実現を目指す。

そして結局、権藤金吾の「両立のジレンマ」を解消したのは「プラスティックなる新素材の普及」という素材革命だったのであった。
*アメリカン・ニューシネマの代表作の一つ「卒業(The Graduate、1967年)」の段階では、卒業パーティーで「未来はプラスティックが生み出す」的な熱弁を振るわれた主人公が「そんなの一人前の大人が一生捧げる様な仕事かよ?」みたいな反応を見せている。実際、今日なお一般人の間では「プラスティックが世界を変えた? 冗談も程々にしろ!!」みたいな意見が大半を占めているかもしれない。

*「大量生産は大量消費によって支えられる(生産に携わる労働者自身を消費者としても当て込む事によって成立する)」なる近代資本主義の冷徹な原理からすれば「(命令によって)労働者が新車への買い替えを強要される」ハートランド王国はある種のディストピアとも映るが、本当のディストピアとは「華麗なプロモーションに誘導されるままに労働者が自らの意思で次々と新車に買い替え続け、その為の資金獲得が働くモチベーションとなっている」景色なのかもしれない。

ひるね姫」がぼんやりした作品となってしまったのは(「(大量生産による廉価化けによって)誰もが自家用車を所有可能な世界」を目指した実業家フォードの夢の結晶たる)T型フォード(1908年〜1927年) が1930年代に入ると「宣伝による需要喚起力」に注目したデトロイト産業界(1950年代まで自動車生産量の実に8割から9割を占めた)にお株を奪われて以降顕在化した「消費者から選ばれるとはどういう事か」を巡るこうしたジレンマを華麗にスルーしてしまったせいもあるかもしれません。
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アメリカの企業内幕物においては概ね「技術にこだわる生産部門」と「自分達こそが自動車需要を生み出してると自負する宣伝部門」が死闘を繰り広げますが、まぁこれはこうした歴史的事実を踏まえた展開だったという次第。
*実はセロハンテープ開発も、当初は当時の自動車業界で流行した「2トーンカラー塗装」を効率化する秘密兵器として採用されたのが普及の始まりだったりする。とはいえ元来は1930年に米国3M社が「荷物を輸送中の湿気から守るために、防湿効果のあるセロファンを活用しようとする試みの一つ」で、世界恐慌(1929年)後の自動車市場縮小によって、むしろそっちの用途で広まったりと結構複雑な経緯を辿っている。日本では大日世界大戦敗戦後、医療用絆創膏メーカーであったニチバン(当時:日絆工業株式会社)がGHQより製造を打診されたのが国産化の契機となった。

ふと「はっと。渡辺 / ベワンがモモタローを人質にとってココネに「父を助けたければ私と結婚するのだ!!」とか言い出して、モリオが「させるか!!」といわんばかりに獅子奮迅の活躍を見せたら「若者狂言回し問題」も解決して一石二鳥だったのでは?」とも思いましたが、考えてみればそれって「ソードアート・オンライン:フェアリー・ダンス編」そのものの展開?
*だがしかしモリオってどうしてもキリト(Kirito /桐ヶ谷和人)というより、レコン(Recon/長田慎一)ポジション感が強い。やはり美味しいところはモモタローにさらわれてしまう宿命にあるのかもしれない。あるいは、かの「サイドカーベイマックス」が人格的主張を始めるとか…

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*ちなみに元ネタとされるJ.P.ホーガン「仮想空間計画(Realtime Interrupt、1995年)」でも「生産部門と宣伝部門(および顧客にある事ない事吹き込んで回るBTB分野における営業部門)のガチバトル」は重要な役割を占めているし、主人公は割と両者の間をフラフラする。なんか「(突然始まって延々続く)アイルランドへの新婚旅行場面」で自分を取り戻したりするけど。結局、その時の奥さんとは「生活時間の不一致(加速された仮想世界の住人と一般人はだんだん考え方がズレてくる)」で別れちゃうけど。

まぁ究極的にはこうした話も全てトリミングの問題で「ひるね姫」のそれは若干甘かったという方向に落ち着いていくのかもしれませんが…

ところで「ひるね姫」の物語構造上の欠陥は「マーベル・ユニバース的世界観」との比較でも明らかとなります。

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  • 「マーベル・ユニバース的世界観」…最近のハリウッド映画化では「スターク・インダストリーズ(Stark Industries)内紛物」にせよ「アスガルド(Asgard)御家騒動物」にせよ、いわゆる「ガザーリーの流出論」すなわち「神の叡智自体は無謬だが、それが現実界に流出する過程で(伝言ゲーム的に)矛盾が蓄積し、遂には悪さえ生じさせる」という思考様式に立脚している。
    *「ガザーリーの流出論」イスラム起源だが大元は新プラトン主義の流出論にある。欧州がアラビア語文献の翻訳を通じて古代ギリシャ古典を継承した関係から一緒くたに流入し、ローマ教会やフランス絶対王政の統治理念にも相応の影響を与えた。どうやってアメリカに伝わったかは今ひとつ不明。そもそもアメリカではアカデミックな分野で研究対象となった事がないとも。
    流出説(Emanationism) - Wikipedia

  • いつからそういう仕儀と相成ったか今ひとつ不明だが、そもそもマーベル作品なるもの、制作側も観客側も「正義のヒーローが全力で暴れても(国際的基準に照らし合わせても)倫理観念に破綻が生じない、しっかりした基礎構造」しか求めておらずその役割はしっかり果たすので「必要にして十分」とはいえる。
    *まぁ「もしあのお騒がせ一家とお騒がせ企業が存在してなければマーベル・ユニバースはどれだけ平和になる事か!!」みたいな陰口の元凶でもあるのだけど、最近のD.C.映画の暴走を見るにやっぱり「(各キャラクターがどんなに暴れても揺るがない)基本構造は大事」と言わざるを得ない。ブレーキなんて、仲間から「待て、そのままそいつを殴り殺したら、お前の正義はどうなるんだ?」と警告されるくらいで丁度良い?

    *ただ「神は無謬のはずなのに、どうしてこの世には悪が存在するのか?」みたいな一神教的ジレンマに本気で向き合った事のない日本人向きとは必ずしもいえないとも。例えばラノベの世界では七条剛「うちの居候が世界を掌握している!(2012年〜2017年)」がこの構造を採用していたけど、あまり評判にならないままシリーズ最終巻を迎えてしまった。それでも累計40万部は超えたらしいけど…

    *とはいえこの世界観、「全てが数値化され管理対象となる一方で、見落としてるパラメーターやアルゴリズムの間違いに対する実存的不安に誰もが向き合う事を強要される現代社会」の基本構造でもあるので無下に背を向ける訳にもいかなかったりする。

  • で、この観点から分析すると「ひるね姫」は基本構造がほとんど重なりながら肝心の部分がブレている。①ハートランド国王 / 志島一心会長は「人を幸せにする事しか考えてない(ただその理想が具体的実践の課程で齟齬を生じてしまっただけ)」くらいで丁度良い。②渡辺 / ベワンの犯行動機は「一心会長に嫉妬し、自分がそれになりたいと願ったのみ」くらいで丁度良い。③「(「鬼」の様な)第三勢力の介入は渡辺 / ベワンの手引きによるもので、彼が倒されたらピタリと収まってしまう」くらいで丁度良い。このレギュレーションさえ守っていれば「魔法使い」も「ロボット」も暴れ放題というのが国際的スタンダード…
    *最終的到着地点は「シェークスピア史劇」見立てとそんなに変わらないのが興味深い。

ひるね姫」自体に関する意見は様々ですが、一番重要なのはこの作品へのこうしたツッコミを通じて「第二次産業系アニメというジャンルの思わぬ伸び代」が浮かび上がってくる点かもしれません。まだまだ色々なバリエーションが生み出せそうですよ、このジャンル…ちゃんと考えて作品構造を設計しさえすればね。