諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史④ 「照り焼き」とTeriyaki、「焼肉」とBBQの世界

最近世界各国で「ナショナリズムとインターナショナリズム、グローバリゼーションとローカリゼーションの二分法を見直す試み」があちこちで為されています。

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日本の場合は過去に遡ると簡単にヒントが見つかる様です。

日本が「前方後円墳国家(3世紀〜5世紀)」だった時代には(中央集権への警戒心の高まりを象徴する)環濠(環壕)集落や高地性集落の築造と(中央集権への帰順を象徴しつつ、複数の集落をそれから独立した居館に住まう在地首長が統治する地方行政体制整備を暗示する)古墳の築造は思わぬ関連性を帯びていたとされている。

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  • 九州北部や纏向に中央集権的部族連合が台頭すると、その近隣に一斉に環濠(環壕)集落や高地性集落が築造される(警戒心の高まり)。

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  • そうした環濠(環壕)集落や高地性集落は、物見櫓の狼煙などで連絡を取り合ううちに一体感を増して交易を盛んに行う様になる(孤立主義の放棄)。
    *2世紀頃、瀬戸内海沿岸や機内に無数の弥生都市が登場したのはこのメカニズムによる。同時に銅鐸・銅戈・銅矛・銅剣を用いた近隣同士の呪術合戦も盛んとなって呪具の巨大化が進行するが、実はそれらの供給を担ってきたのは(仮想敵の筈だった)中央集権化された地域(要するに九州北部や出雲地方や近江沿岸部)だったとも。

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  • そして「環濠(環壕)集落や高地性集落が集中的に築造された地域」が、次の歴史的タイミングでは「古墳を争って築造する地域」へと変貌。この連鎖が延々と繰り返されていく(情報/経験蓄積が進んだ結果としての警戒心の放棄)。
    *こうして日本列島において順調に中央集権化が進行したのは(砂鉄を精錬する技術が広まる6世紀頃まで)国内では(開拓や耕作の効率を劇的に向上させる)鉄具の調達が難しく、それを中央集権の対大陸交易に頼らなければいけなかったからともいわれている。

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とどのつまり、当時日本にあった伝統的共同体においては「対立勢力への警戒心と自衛意識の上昇」と「孤立主義の放棄と外部との交流活発化」が表裏一体の関係にあり、そうした「境界線の放棄」の連鎖が最終的にヤマト王権を誕生させたという次第。この考え方が広まった結果「騎馬民族征服王朝説」はすっかり勢いをなくす展開となった。

騎馬民族征服王朝説 - Wikipedia

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 こうした「ナショナリズム文法の大源流」にあった思考様式を最も原型に近い形で今日に伝えているのは食文化展開かもしれません。

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 日本料理としての照り焼き

元来は日本料理の調理法。醤油を基本にした甘みのあるタレを食材に塗りながら焼く。タレの糖分により食材の表面がツヤを帯び、「照り」が出るのが名前の由来。日本では魚、または肉の調理に使われる技法である。日本以外の国では主に肉の調理に使われる。

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*実は和菓子の発展同様、江戸時代におけるオランダからの「唐三盆」輸入と(西国大名中心の)国産化努力が背景にあるとも。

  • 食材…照り焼きに用いられる食材には、ある程度身が締まりつつも脂のあるものが用いられる。照り焼きの材料としてもっとも有名なものにブリと鶏肉があげられる。ブリ以外の魚では、カジキマグロ、カツオ、サケ、マス、サワラ、ハモなどが用いられる。最近ではメロ(銀ムツ)もよく用いられる。鶏肉はムネ肉でもモモ肉でも美味しく作れる。鶏肉以外に豚肉や牛肉で作られることもある。変わった食材としては、コンニャク、イカ、つくね、肉詰めレンコン、ハンバーグなども照り焼きの調理法が使われる。

  • 調理法…タレは醤油、日本酒、砂糖を等量ずつ併せたものが基本で、好みや素材により配分は変わる。日本酒の代わりにみりんを使うことも多い。砂糖の代わりに蜂蜜を使う人もいる。食材の臭みを消したい場合にはショウガをすったものを加えてもよい。このタレはあらかじめ煮立ててとろみをつけておく。目安として液量が半分になるくらいまで煮詰める。一方食材は軽く塩を振っておくなどして、水分を出し身を引き締めておく。これをフライパンや網で焼いた後、上記の煮詰めたタレを両面に塗りながら焼き仕上げる。焦がさないように加熱し、ツヤがよく出るように何度かタレを重ね塗りする。特に網で焼く場合には遠火にして焼くときれいに焼ける。魚の照り焼きも肉の照り焼きも基本的には同じ作り方であるが、鶏肉の場合、最初にフォークで穴を数カ所に空けてから下味をつけておくと美味しい。また皮の方から焼くと形よく仕上がる。フライパンで焼く場合タレをつける前の下焼きの段階で食材から脂がしみ出るが、この脂はタレ焼きをする前に取り除いておいた方がよい。タレが食材に乗り易くなり、食材の臭みを除く効果がある。脂を少なくすることによってより健康的な料理となる利点もある。フライパンで作る照り焼きを区別して「鍋照り焼き」と呼ぶ場合もある。

照り焼きは冷めてもそれなりに美味しいことが多いので、弁当のおかずとしてもよく用いられる。

日本以外の地域に広まったテリヤキソース(Teriyaki Souce)

米国でも人気があり、"teriyaki"が辞書に載るほど定着している。

  • ただしアメリカ合衆国における"teriyaki"は、テリヤキソース(teriyaki sauce)を用いて下味付けをした肉料理を指し料理に照りを出す調理法ではない。予め食材をテリヤキソースに漬け込んで調理したり、グリルで焼いた肉類にテリヤキソースをかけたりして食する方法が一般的で、両者を区別すべく日本語でこれらの料理を指す場合には「テリヤキ」とカタカナで表記されることが多い。

  • 特段に日本料理に傾倒しているレストランでなくても肉類の照り焼き料理を供する所があり、また、スーパーマーケットなどでは瓶詰めされたテリヤキソースが販売されている。しかし日本人の感覚からすると甘過ぎたり余分な香辛料が入っていたりすることが多く、「照り焼き」と"teriyaki"は違うものであると考えられているが、海外ではその事実が知られておらず、純粋な「日本料理」だと思われている場合が多い。

  • 米国でも日本のように醤油と調味料で調合しタレを作る場合もあるが、ほとんどのレストランや一般家庭では既製品のテリヤキソースを使用する。テリヤキソースには味醂、日本酒など日本独自の調味料は使用されず、 頻繁に洋酒、ニンニク、ゴマなど本来の「照り焼きのタレ」と違う原料で製造されている。醤油と砂糖以外には照り焼きのタレとの共通点は少ない。単に甘口のバーベキューソースを指してテリヤキソースと呼ぶ場合もある。

米国でテリヤキソースが生まれたきっかけは、日本の醤油メーカーキッコーマンが1957年に米国内初の醤油販売を開始した事にある。

  • 販売を始めてみたが醤油の使用法が当時のアメリカ人には理解されておらず、まだ日本料理も一般的でなかったため販売が伸び悩んでいた。

  • そこでキッコーマンの日系二世のセールスマン、タム吉永が彼の母親の調理した和食、魚の照り焼きをヒントに、肉料理に合う醤油ベースの料理法「テリヤキ」を発案したのである。

  • テリヤキソース調理法はキッコーマン主催の料理教室や販売促進用の小冊子などで、ゆっくりとアメリカに定着し現在の地位を確立してきた。

現在でも米国で消費される醤油の殆どは、このテリヤキ調理法に費やされており、純粋な日本料理に消費される醤油の割合は極めて少ない。

テリヤキバーガー(Teriyaki Burger)

テリヤキソースで味付けしたハンバーグを挟んだ日本生まれのハンバーガーであり、マクドナルドの本国のチェーン店では販売されてはいない。

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しかし同じくアメリカの大手ハンバーガーチェーン店であるCarl's Jrでは、2007年5月23日より販売しており、メニューとして定着している。

元祖モスバーガーは1980年代にアメリカに進出したが、その後撤退している。

テリヤキボウル(Teriyaki Boul)

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テリヤキソースで味付けした肉や魚を御飯の上に乗せた丼物の一種。テリヤキソースと米飯の相性のよさに注目した欧米で開発された。

バーベキュー(barbecue)

薪、炭、豆炭などの弱火によって肉や野菜、魚介類などをじっくり焼く料理、もしくは煙で燻すその調理法や行為を指す。狭義の定義では、半日以上じっくりと火を通した豚の丸焼きなどを指す場合もあり、その場合、半日以下又は数時間だけ直火で肉を焼き食す行為はバーベキューではなくグリル(英語: grill)となる。

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  • 語源は、西インド諸島の先住民であるタイノ族の肉の丸焼き用の木枠を指す言葉が「丸焼き」を意味するスペイン語のbarbacoaに転化した。英語圏ではBBQ(cueがQに置き換わる)やB.B.Q.、Bar-B-Cue、Bar-B-Qと略されることが多い。

  • 豚や牛のリブや牛のブリスケットなどの柔らかくない肉を、蓋を閉めるなどして90~115℃程度の比較的低温で数時間から1日かけて、蒸し焼きにし、骨から簡単にとれるほど柔らかくなるまで調理した物をいう。南部で豚を長時間かけ丸焼きにして食べる習慣から始まった。この時、家族だけで食べきれずに野外に多くの人が集まって飲食をともにしたことが、野外での調理、飲食を「バーベキュー」とよぶようになった由来である。バーベキューを料理する人物のことを「ピットマスター」と言い、植民地時代では主に黒人奴隷がこの役割を務めていた。

  • 調理時には煙や匂いが大量に出るため、専用の設備や換気装置の煙突などがない場合はたいてい野外で行なわれる。自宅の庭、ベランダやバルコニー以外に、キャンプ場や海岸、川辺、公園などで行うのが一般的で、またそういった調理と食事を野外で楽しむ行事自体も「バーベキュー」と呼ばれる。アメリカでは年間数百ものバーベキューコンテストがある。調理には時間がかかるので、開催期間は2日間も催される。自宅の庭や、河川の傍やキャンプ場の付近などのレジャーへの外出先で調理を行うことが多い。

複数のテクニックがあり、単一の調理器具を使用する場合でもこれらの使い分けで多彩な調理を行う事が可能である。

  • 「直火焼き」…網などの上に置いた食材を直接加熱する。または炭を事前にグリルの片側に寄せるなどして加熱する。
  • 「燻製」…煙を出す木材を併用して独特の風味を付ける。
  • 「ロースト」…放射熱など、熱した空気で間接的に加熱する。一般的なアメリカン・バーベキューはこの方法を取る。
  • 「 遠火焼き」… 川魚などを主に赤外線によって焼く。
  • 「串焼き」…川魚を串に刺して焼く場合などの呼び方。

肉類の味付けとして用いられるソースはバーベキューソース(BBQソース)と呼ばれ、トマトケチャップ、ウスターソース、果汁類、ニンニクやショウガなどの様々な材料を混ぜ合わせて作られる。

  • 市販のバーベキューソースが多数売られているが、自前のレシピでソースを工夫するところからバーベキューの楽しみは始まっているとして、自作にこだわる者も多い。

  • 現在ではバーベキューグリルに載せる岩塩のプレートも販売されている。塩化ナトリウムは融点が摂氏800.4度なので、このプレートを焼き台として上に肉などを載せて、岩塩の天然の塩味を付けつつ焼きあげる事ができる。

  • 日本でいわゆる「バーベキュー」と称される野外での焼肉風スタイルでは、醤油主体のソースや市販の焼肉のたれなどを食材を焼き上げた後に用いて食する場合が多いが、欧米においては食材にソースやスパイス・ラブを塗布してから焼き上げる場合が多い。

北米ではバーベキューは文化の一つであり、地域や家庭によって独特の伝統やこだわりを持つ場合がある。

  • 一般的なグリルの他にも、頻繁にパーティを主催したり、専門のイベントに参加する人も多いため、大型のバーベキュー・ピットやトレーラーけん引型のバーベキュー・グリルを個人で所有したり、専用の設備を庭に設けたりする人も多い。

  • 日本の七輪焼きなども、小規模ではあるがバーベキューに属する。南アフリカにも、ブラーイ (braai) と呼ばれる、独特のバーベキューの伝統がある。

  • 器具としては、(1) 火格子式のグリルや焼き網など、火(熱気)が素通りするタイプと、(2) 鉄板式 に大別され、食材を固定するものとして金串などがあるが、バーベキュー専門店や個人でも、オリジナルの道具にこだわる人がいる。それらの人は、普通のグリルではなく、金属製グリルやレンガなどで作られたバーベキュー・ピットという竈(かまど)や暖炉に近い造りの物を使う。ドラム缶を加工する場合や、海外ではマンホール用の金属蓋を利用する場合もある。また珪藻土製の角形七輪も増えている。

  • 卓上式のグリルに多いが、底面の断熱用に、コンロに水張りするタイプの方が、水蒸気の作用で、油の多い豚バラや鶏皮、サバやサンマなどの青魚を焼いても炎が上がりにくい。また、焼き上がりにこびり付きや、焦げ付きが少なく、野菜などは特にふっくらと美味であり、また器具自体の汚れも少ない。

  • バーベキュー後のバーベキューグリルは油汚れや炭の汚れがべっとりと付いていることが多いが、バーベキューの準備段階でグリルの火口を覆うようにアルミ箔の揚げ物フェンスや、バーベキュー用の厚手のアルミホイル(60ミクロン程度の厚さ)を、炭受けと油汚れが及びそうなところへ敷き詰めれば、汚れはホイルに付着してグリル本体へはほとんど及ばないので、掃除はホイルを剥がすだけで楽であり、グリル本体も長持ちする。また焼き網やグリル本体などにバーベキュー前に酢を塗っておくと、食材のタンパク質と熱した金属との間に熱凝着が起こりにくく、比較的掃除が楽である。

  • 燃料は薪、木炭、あるいはバーベキュー専用の固形燃料が主流である。炭の中にヒッコリーやオークなど樹木チップを混ぜ、燻煙を出すことにより燻製風味を付ける手法もある。

  • 日本国内産の黒炭…不快な煙臭や爆跳も少なく、じっくりとした火力が持続し、焼き上がりに薫製のような風味もかすかにあり、バーベキューに向いている。外国産より多少高価だが、品質が安定しておりバーベキューに適している。なお、保存管理が良くなかった黒炭ほど燃焼初期には爆跳の危険性があるため注意が必要である。

  • 「Quick Grill Briquette」「ラウンドストーブ」といった商品名で販売されている小型の加工ヤシガラ炭…着火後1分〜数分で調理可能であり1時間ほどで燃焼が終わるため、小規模のバーベキューパーティーの際、使い勝手が良い。また、これを火種として通常の木炭の着火材としても好都合である。備長炭をはじめとした白炭は、より上質な焼きもの料理が可能であるが、着火が難しく、調理が開始出来るまでの燃焼温度への到達に時間を要し、熾き火に至るまでは爆跳の危険性があり、さらに高価なため、バーベキュー用途には一般的ではない。

  • オガ炭…白炭系の木炭と似た燃焼の性質を示し、不快な燻煙や、危険な爆跳はほとんど発生せず、また比較的安価であり、近年ホームセンターの店頭やインターネット通販でも扱いが広まっている。しかし白炭同様に火熾ししにくく、一方で火が熾ると4時間ほど燃焼し続ける場合もある為、短時間のバーベキューの場合は消火等での注意が必要である。逆に、バーベキューパーティーが長時間に及ぶ場合でも炭を継ぎ足す必要もなく調理可能な火力が持続するため、オガ炭はバーベキュー燃料として好都合な存在である。

着火材…木材の繊維を成形しワックスを染込ませたもので、強い炎で着火が可能である。屋根がある場所では危険なので使用しないこと。また着火剤が塗布され簡単に着火できる成形木炭も市販されている。

  • 木炭を着火するのはコツが必要であるが、ジェル状着火剤など着火を安易にする商品が木炭に添付されていたり、販売されている。イワタニなどからは木炭着火専用のカセットガスボンベ式トーチバーナーが発売されている。また、火熾し器である「チャコールスターター」を使うと火熾しが安易である。いずれにしても木炭で調理が行なえるようになるのは着火後10〜20分、場合によっては1時間ほど必要で、それを見越したスケジュールが必要となってくる。

  • アメリカやオーストラリアでは、ガス火式のバーベキューグリルも多く、日本でも近年は、火点けや火力調節の容易さ、掃除や後片付けの手軽さなどから、プロパンガスやカセットボンベを使うバーベキュー・グリルも増えつつある。

自然の中でのバーベキューは、焚き火の直火で地面を傷めたりしないよう適切な調理器具を使うこと、また、器具の汚れを地面や水(河川や湖沼)に流すことなくゴミを持ち帰るなど、環境に配慮することが望まれている。

  • 都市近郊の公園や河川敷においては、ゴミの投棄・カラオケの騒音・喧嘩・アルコール中毒などバーベキューに付随する社会的な問題や事件が発生し、バーベキューが規制の対象となる事例も発生している。

  • また、野放図なバーベキューを管理対象とする目的で、バーベキューによく利用される地域を有料化するなどの対策も実施されている。

バーベキューケータリング業者がバーベキューケータリング協会等を通じて、ゴミを削減、持ち帰る等の試みもなされている。
*強姦要素が厳しく取り締まられているアメリカのポルノ・ビデオでは、エピローグに登場人物総出演のバーベキュー大会の場面が挿入され「本編中の場面は全部プレイで、本当はみんな和気藹々」という演出が為される事が多い。ある意味アメリカにおけるバーベキュー文化の本質を突いたエピソードとも言える。

 日本の焼肉文化

日本には古くから獣肉食の歴史があったが、その一方で食肉の屠畜方法や流通形態、下処理や調味・調理方法、使用する民具などについて文献から明確な起源が判明していることは多くない。

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  • 佐々木道雄は、明治以前から日本人は山間部を中心に鳥や猪などの肉を直火で焼いて食べていたこと、戦前から牛や豚の内臓を使ったモツ煮込みや、串に刺して焼いて食べるモツ焼きがあったことなどを指摘している。

  • 江戸時代のももんじ屋などでも食肉文化がひっそりと続いてきた。猪や鹿、犬、牛、馬などに関する食文化は各地方によって多種多様な様態が存在した。

  • 彦根藩では第3代藩主井伊直澄のころ、反本丸(へいほんがん)と称して全国で唯一牛肉の味噌漬けが作られており、滋養をつける薬として全国に出回り、幕末まで幕府や他藩から要求が絶えなかったという。これは近江牛が名産となるはしりとなった。近江牛は開港期には東海道を徒歩で、のち汽船を使用し東京・横浜まで出荷されるようになる。

  • 「焼肉」の風習は明治以前からすでに存在しており、たとえば幕末開港期の横浜では牛肉を串に刺して焼いたものを売り歩き客に食わせる料理がすでにあったとされる。

朝鮮半島では李氏朝鮮の時代にすでに宮廷料理として精肉(枝肉)を用いた焼肉料理が存在したが、到底庶民の口に届くようなものではなかった。
*文を武より尊ぶ儒教国家だった朝鮮王朝において「(狩猟文化と密接の結びつき、野趣溢れる)焼肉料理」と(王族や中央両班階層が味わう)宮廷料理の相性は必ずしも良くなかった。実際「七輪で何でも焼いて食べる倭館の日本人」について「野蛮である」と述べているし「(野営して遂行される)焼肉パーティ」は、しばしば反主流派の決起集会と結びつけて語られている。韓国料理屋でおなじみの「中央に穴の空いたテーブル」は当時から存在したが、そこに設置されたのも火鉢ではなく「肉を煮込む為の鍋」だったという。

  • 李朝時代の焼肉は煖炉会と呼ばれソウル周辺の風習として記録されており、高級貴族が初冬の節会に屋外で楽しんでいたものである。

  • 李朝末期の風土記である洪錫謨の『東国歳時記』(1849) にはレシピが記述されており、前処理としてタレに漬け込んだ肉を鉄なべで野菜などと焼くもので、今日のプルコギないしはすき焼きに近い料理であった。肉の下処理など調味方法は独自のもので、内臓(ホルモン)は用いなかった。

  • 日本でみられる「韓国風焼肉店」の品揃えのうち、韓国・朝鮮式のものの一部はこの宮廷料理の調理方法を応用したものであり、前処理としてタレを揉み込み、あるいは漬け込むこの調理方法が次第に一般の焼肉店にも広がり採用されたものと考えられている。一方で焼き上がりをタレにつけ食べさせるスタイルは大阪市の食道園が始めたものとされ、韓国ではこの食べ方は一般的ではない。

  • 現在、朝鮮語において「焼肉」を意味する語は「コギグイ(고기구이)」(肉焼き)であるが、これは肉を焼いて調理する韓国料理の総称となっている[16]。コギグイの具体的なメニューとしては「プルコギ(불고기)」(火肉)、「カルビグイ(갈비구이)」(カルビ焼き)、「サムギョプサル(三겹살、삼겹살)」(三枚肉)等がある。プルコギは日本のすき焼きに近い料理である。カルビグイやサムギョプサルは、後述する日本の焼肉(東洋料理)に近い料理であるが、それ単体を供する外食店は一般でなく、韓国ではメニュー名の一つとなっている。また韓国では、ホルモンをメニューとして提供する焼肉店は一般的でない。

幕末の開国期には日本各地の開港場で日本国外の人向けとして食肉処理(屠蓄業)が始められ、当初は英国人・米国人・清国人などが経営を行った。たとえば神戸では英国人キルビーにより最初の屠畜場が設けられて以降、9名の外国人により7箇所の屠畜場が設置された。彼らの屠畜方法は「神戸肉仕立て」といい、後の神戸肉ブランドを支える屠畜方法に大きな影響を与えたと言われる。

  • 本郷浩二によれば神戸における屠畜業は当初から外国人が大きく関与しており、近世期の伝統的な生牛の屠畜技術との連続性は相対的に希薄であるとする。

  • 日本人の屠畜は神戸の場合、宇治野村風呂ヶ谷の「穢多」が動員されたという記録がある。これは死牛馬勝手処理令や解放令以前の段階において生牛の屠畜も穢多の役分としての延長に解釈されたことを推測させるものである。その一方で明治3年(1870年)には食肉需要が拡大するなかで商社の宇治野組が屠畜場を経営するに至った。

  • 開花期の牛肉食は学生や一部の都市民が興味本位でくちにするようなメニューであり農村部や庶民にとっては忌避感をともなうものであった。これら一般大衆に牛肉食を普及させたのは何事にも西欧式を採用した軍隊であり徴兵制度だったとされる。日清日露戦争期を通じで牛肉の消費は急激に拡大し、8歳頃まで成長した農耕牛を肥育にまわし食肉用途として出荷する形体が定着した。

  • 神戸の場合では被差別部落民とされた食肉加工事業者は明治期にはすでに裕福で蔵や処理施設などをかまえる屋敷町を形成しており、周辺には港湾労働者らの貧民街が形成されており、その一部が食肉処理事業に従事していたという。内臓などいわゆるホルモンは枝肉(精肉)とは異なり鮮度の劣化が激しく2・3日も経てば腐敗が進み悪臭で食べられたものではなく、冷凍流通の存在しない当時としては肥料にでもするしか利用価値の無いものであったが、当日落としたような内臓部位については食肉加工場の周辺で売られ食材用として流通していた。精肉と内臓部位の流通経路は当初から明確に異なっており、江戸時代からの慣習で内臓などは屠畜作業者の取分とされ、これらを港湾労働者らに販売した売却益は屠畜作業者の重要な副収入となっていた。

  • 朝鮮人労働者が屠場から牛や豚の内臓等を譲り受けて食べていたことが朝鮮料理の日本での普及と関連してしばしば語られ、東京においても品川の屠場と朝鮮人の焼肉料理との関連を示唆する証言があり、芝浦の朝鮮人集住地を舞台とする村山知義の小説「或るコロニーの記録」には豚の蹄を煮て塩で食べる朝鮮人の描写がある。東京においても朝鮮人被差別部落民は近隣住民や同じ職場の労働者として、あるいは雇用者と被雇用者として関係を結んでいた。これらのエピソードは屠畜業者と労働者である在日朝鮮人および被差別部落民との間に、牛や豚の内臓食を通して経済関係が生まれ、そのことが日本の焼肉料理にしばしば内臓食が含まれているという影響を与えた可能性を証言するものである(ただし筆者の外村大は、日本の朝鮮料理や朝鮮式焼肉料理の起源はこれだけに求めるべきではないとコメントしている)。 そして戦後の深刻な食糧難の際に在日朝鮮人が料理屋として内臓類を調理して販売したところ瞬く間に好評を得、安価な食材で店を繁盛させる事が出来る事に気付いた在日朝鮮人により「朝鮮料理」として全国的に店舗を拡大させた。しかし後に朝鮮戦争が勃発し、在日朝鮮人の中で韓国を支持し「韓国料理」と名を変える者と北朝鮮を支持し朝鮮料理を主張する者の二派に分かれたが主な客である日本人には理解されず、日本人にも理解し易い様、肉を焼くという意味で「焼肉」に統一され、これが戦後の日本で一般的に知られる焼肉のルーツと言われている。

  • 佐々木道雄も現代の日本における「焼肉料理」「焼肉料理店」は朝鮮と密接に関連していると述べている。彼の説では1930年代中頃、朝鮮南部から大阪の猪飼野に移住した朝鮮人によってカルビ焼きとプルコギが伝わり、これらが当時、既に存在していた朝鮮食堂に取り込まれて焼肉食堂に変容する。そして、プルコギとカルビ焼きは当時流行していたジンギスカンの影響により、「客自ら焼いて食べる」形式を得る。これが「焼肉」の誕生であり、この焼肉を在日韓国・朝鮮人らが、日本の料理文化に適応させながら発展させたとする。 また焼肉の誕生に直接関与したのは朝鮮人で、満州や朝鮮に広めたのも朝鮮人であり、従って「焼肉は日本で誕生した」というよりは「日本の大陸進出時に大阪・猪飼野に移り住んだ朝鮮人が生み出した」とする方が実態を表していると述べている。現代日本の焼肉料理、焼肉店の精肉の“焼肉”も内臓の“焼肉”も発祥もまた朝鮮半島にあり、1940年前頃に日本に伝えられ戦争中に一時的に途絶えるが、戦後、精肉の焼肉は朝鮮料理店で、内臓の焼肉は朝鮮系の飯屋や飲み屋によって再開されたとする。その後両者が互いの焼肉を取り入れることで、今日における焼肉店の原型ができ、“焼肉”が隆盛を迎えると、朝鮮系の冷麺店、飯屋、飲み屋も焼肉店に商売替えしたという。

  • 『別冊BUBKA』2006年(平成18年)7月号33ページでも「焼肉」の起源は日本であるが、日本発祥といえども始めたのは朝鮮人であるという説が披露されている。戦前に捨てるか肥料にするかしていた臓物肉を朝鮮人女工がもらってきて焼いて食べたのがホルモン焼きの始まりであり、ホルモンを焼いて食べる習慣は朝鮮にはなく、ホルモン焼きは日本で始まった。そして戦後、ホルモン焼きの屋台が「ホルモン屋」や「朝鮮料理屋」という名称になって行く中、新宿にミノやセンマイといったホルモンだけでなくロースやカルビなどの精肉を用いる店が出来る。この在日朝鮮人女性が経営する明月館が焼肉の祖であるとするのが同誌の主張である。また同誌は、「焼肉」と呼称するようになったのは1965年(昭和40年)に日韓基本条約が結ばれて以降、韓国籍を取得する者が増え、在日朝鮮人の主張した朝鮮料理屋と在日韓国人の主張した韓国料理屋との呼称論争を収拾する案としてプルコギを直訳した「焼肉」が用いられることとなったのだとの説を主張している。日韓基本条約以降、それまで「朝鮮料理」「朝鮮焼肉」と表示していた焼肉店の多くが「焼肉(店)」と看板変更しはじめたことにより、この名称が一気に普及したのも事実である。ちなみにホルモン料理は大阪西心斎橋の「北極星」北橋茂男により提供され、昭和15年に商標登録されている。また、明治時代における朝鮮料理店は、東京などに高級店として数店が営業している程度であり、提供する料理は韓定食(「韓国料理」の項目を参照)などの正統派宮廷料理であり現代のいわゆる焼肉料理店のようなものではなかった。

  • 「焼肉店」は、既に1960年代に大都市圏に存在していたが、1970年(昭和45年)以降は次第に日本各地へ広まるようになった。1968年(昭和43年)にはエバラ焼肉のたれが発売された。2004年(平成16年)の統計では20997件である。

牛肉消費形態については、1960年代なかばから、伝統的な形態以外の調理法による各種の牛肉料理が急速に広まり、その主要なものは「濃いたれ」をつけて焼く「焼肉」、ハンバーグなど各種ミンチ料理、カレー・シチューなど煮込み料理であり、その背景には1960年代以降のグラスフェッド(草牧肥育)ビーフの輸入の増加や乳用種去勢牛の若齢肥育の本格化などによる肉質多様化をともなった牛肉消費の増大があった。

ジンギスカン料理の歴史

ジンギスカン(成吉思汗)トンラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理。鍋料理に分類されることもあるが調理方法は鉄板料理の調理方法である。一般に北海道を代表する郷土料理とされる他、岩手県遠野市、長野県長野市といった地域でも盛んに食される。

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  • 起源については、俗説で「かつてモンゴル帝国を率いたジンギスカンチンギス・カン)が遠征の陣中で兵士のために作らせた」と説明される場合もあるが、実際にはモンゴルの料理とはかけ離れている。

  • また羊肉を用いる中国料理としては清真料理の烤羊肉(カオヤンロウ、kǎoyángròu)という羊肉料理があるが、これも日本で食べられているジンギスカンとは程遠い。

ただしジンギスカン料理の起源自体は中国大陸にあると言われ、日本軍の旧満州(現中国東北部)への進出などを機に、前述の烤羊肉から着想を得たものが日本人向けにアレンジされ、現在のような形式となったものとみられている。

  • 「成吉斯汗鍋」(じんぎすかんなべ)という言葉が初めて掲載された1926年(大正15年)の『素人に出来る支那料理』には、支那在住の日本人が命名したもので、「本当の名前は羊烤肉と云う回々料理」とあり、当時のものは、屋外で箱火鉢や鍋に薪の火をおこし、上に金網や鉄の棒を渡して羊肉をあぶり、現地の醤油をつけて食べた「原始的な料理」としている。この説明通りであれば、当初「鍋」は食品を加熱するためではなく、火鉢代わりに使われたことになる。

  • 1931年に満田百二が雑誌『糧友』に書いた「羊肉料理」という記事でも、羊肉網焼の別名の「成吉斯汗鍋」は、本名式には烤羊肉というと書かれていて、鍋料理ではなかったことがわかる。

  • 一方、中国の北京には1686年に開業した烤肉宛飯荘や1848年に開業した烤肉季飯荘などが、薄切りの羊肉と野菜を鉄鍋で焼いて作る、現在のジンギスカンに類似した満族料理、清真料理の「烤羊肉」を提供している。後にこの方式が日本に取り入れられるようになったのか、偶然似たのかは定かでない。

ジンギスカンという料理の命名は、源義経が北海道を経由してモンゴルに渡ってジンギスカンとなったという伝説(義経=ジンギスカン説)から想起したものであるとも言われている。料理を命名した人物として、東北帝国大学農科大学(北海道大学の前身)出身で、1932年の満州国建国に深くかかわった駒井徳三が、1912年(大正元年)から9年間の南満州鉄道社員時代に命名したものであるとする説があり、この説は全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』に1961年に投稿した「蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」や、駒井徳三の娘の満洲野(ますの)が1963年(昭和38年)に発表したエッセイ「父とジンギスカン鍋」が根拠となっているが、いずれも後の伝聞によっている。

  • 日本では1918年(大正7年)に軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛自給をめざす「緬羊百万頭計画」が立案された。その早期実現のために羊毛のみならず羊肉をも消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加が企図され、その流れの中からジンギスカンが出現したものと考えられている。しかし、当時の日本人には羊肉を食べる習慣がほとんどなく、日本で受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られ、農商務省は東京女子高等師範学校お茶の水女子大学の前身)に料理研究を委託している。

  • 最初のジンギスカン専門店は、1936年(昭和11年)に東京都杉並区に開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされる。他にも、山形県蔵王温泉[11]や岩手県遠野市[12]等がそれぞれ、上記の東京や北海道のものとは発祥を異にする、独自のものとしてのジンギスカン鍋の起源を主張している。

  • 長野県長野市信州新町での普及は、綿羊の飼育が1930年(昭和5年)に始まったあとの1937年(昭和11年)に開催された「料理講習会」から始まる。羊の臭みを減らして食べやすくするために、地元名産の信州リンゴを使用した特別なタレに羊肉を漬け込む。

  • 北海道では、明治時代から肉用を含めた綿羊の飼育が行われており、1924年(大正14年)の時点で全国の42.7%が飼育される最大の飼育地となっていた。ただし、ジンギスカン鍋が一般にまで普及したのは、第二次世界大戦後のことと言われている。北海道での営業としての最初の店は、1946年に札幌にできた精養軒である。2004年10月22日には北海道遺産の一つに、2007年12月18日には農林水産省の主催で選定された農山漁村の郷土料理百選で北海道の郷土料理の一つに選出されている。

2005年頃から2006年頃にはBSE問題による牛肉離れの影響に加え、牛肉と比べ脂肪分が少ないイメージからジンギスカンはブームとなった。しかし、ブームが下火となった2010年頃にはオーストラリアやニュージーランドからの羊肉の輸入も大きく減少し、牛肉や豚肉の価格が下がった。羊肉は相対的に割高になり、特に国産の羊肉を使ったものは高価となったことから、北海道でもジンギスカン離れが指摘されるようになった。

意外と重要なのは「軍事と肉食の密接な関連性」だったりします。
http://livedoor.blogimg.jp/cucciola1007/imgs/b/4/b47bf6a0.jpg

  • 欧州の食肉文化は(軍事訓練を兼ねた)貴族の狩猟文化と密接な関わり合いを持っていた。これは日本でも同じで朝庭が度々発令した「畿内における殺生禁止令」にも、武家による禁猟区設定にも同種の背景が見て取れる。
    *その後、日本においては独特の触穢観念の発達から肉食が忌避される様になったが、実は欧州でも前近代には庶民階層が普段は肉を全く口にしない地域が少なくなかったりする。
    1-1 肉食禁止令の真意 - Re:I
    1-2 穢れ観の肥大化 - Re:I
    1-3 文明開化と畜産業の開始 - Re:I
    *そういえば「古代日本のチーズ」醍醐も王侯貴族の独占物だった。欧州でも最初に大量生産されたチーズは王侯貴族や高位聖職者を購買層に想定した超高級品だった。
    醍醐 - Wikipedia

  • 興味深いのが畜産の盛んだったイングランドの慣習で、領主が毎週日曜日に家畜を屠殺して領民に振る舞う事で自らの度量を示す伝統が「平日は残り物で食いつなぐ」独特の料理観を生み出したとされる。カレー粉やウスター・ソースの様な「お手軽調味料」は、さらに日実の料理の手間を省こうとする「ものぐさ精神」の産物であったとも。
    カレー粉 - Wikipedia
    ウスターソース - Wikipedia
  • 庶民が(統治者が被統治者に権威を誇示するプレゼンの場でもあった)祝祭の場以外で贅沢な食事にありつけない事が多かった欧州では、その一方で(水の悪さもあって)酒は禁じるに禁じられない状態にあった。一方前近代日本では、祝祭の場以外で飲酒する慣習そのものが存在していなかったとも。

  • 開拓地から出発したアメリカに、この種の規範は存在しなかった。その為にこの国の市民意識は欧州や日本とは全く異なる出発点を持つ事になったのである。

    http://hinode.8718.jp/images/manchuria/manchuria_005.jpg

確か国民国家の存在理由の根幹はあくまで「国民に総力戦を最後まで遂行するシステム」。そしてその目的を効率良く達成すべく、大日本帝国臣民全体の体格改善を企図して肉食を広めたりしてきたという次第。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているんでしょうか…