諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史外伝② 「個人主義」は「総力戦体制時代」をどう生き延びたのか?

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現代人の観点から振り返ると、いわゆる「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の言説なるもの、それがどの国のものであっても迂闊に信用なりません。
*「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」…要するに第一次世界大戦(1914年〜1918年)勃発から、欧州の経済規模がその直前の「ベル・エポック(Belle Époque)」と呼ばれる黄金期のレベルにまで復興した1970年代にかけての「人類全体が余裕をなくし、国民国家単位でまとまって無用な国際競争を繰り広げてきた」時代の事。

日本でいうとむしろその前夜、つまり大正時代(1912年〜1926年)における大杉栄与謝野晶子の言説がしっくりくるくらい。それ以降は「世界最終戦論」や全体主義が横行する「個人主義暗黒時代」に突入してしまいます。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓へ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
*ここでいう「戦後」はいうまでもなく「第一次世界大戦(1914年〜1918年)」後という意味。歴史のこの時点における第日本帝国は「戦勝国」側にあり、かつまたアメリカ同様その特需を甘受する立場にあった。

一方、米国においては1950年代より早くも個人主義復興の狼煙が上がり、1960年代後半にはヒッピー運動や黒人公民権運動が大きな盛り上がりを見せる展開に。こうした「長い1960年代」と呼ばれるムーブメントが、日本へも「再上陸」を果たします。

さて、ここで問題。日本の個人主義は総力戦体制時代を乗り切る為、ほぼ一旦壊滅の憂き目を見ています。欧米社会はこの苦境を一体どういう形で乗り切ったのでしょうか?
*時はまさにチャーリー・チャップリンが「モダン・タイムズ(Modern Times、1936年)」を製作し、それによって「共産主義者(Communist)」のレッテルを貼られ、仕事を干されてしまった時期に該当する。程度の差こそあれ「総力戦体制時代=個人主義暗黒時代」への傾斜はどの国においても見られたのである。

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 フランスへの産業革命導入が本格化したのは第二帝政時代(Second Empire Français、1852年〜1870年)に入ってから。「SF小説」というジャンルが冒険小説や秘境探検小説からの脱却を果たしたのも、まさにこの時代ならではの展開だったといえそうです。

ジュール・ヴェルヌ「二十世紀のパリ(Paris au XXe Siècle、1863年)」

1863年に出版され好評を博した初の長編小説『気球に乗って五週間』に次いで執筆されたヴェルヌ初のSF未来小説。今日で言う「ディストピア」を描き、ヴェルヌが生きていた19世紀における、科学・産業革命を賞賛する風潮とは一線を画した内容となっていたため、出版社はこれを『暗く荒唐無稽な作品』として出版しなかった。
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本作はその後ヴェルヌの手元に死蔵され、死後に発表された未発表作品の目録に名前のみ存在し、研究者などからは幻の作品と呼ばれていたが、1991年、曾孫のジャン・ヴェルヌ(Jean Verne)によって偶然発見され、1994年にフランス及びアメリカで、翌年には日本でも出版された。

物語

執筆当時から100年後の1960年8月13日、16歳のミシェル(Michel)はパリの「教育金融総合公社」を優秀な成績で卒業するが、授賞式で嘲笑を浴びる。

実は20世紀のフランスは科学万能主義が支配し、文化や芸術は金銭換算でのみ評価され、政治も世襲政治家によって占められており、ミシェルの専攻するラテン語や詩には、何の価値も与えられていなかった。

「世の中を動かす巨大な計算機」が差配する街には「地下や高架を走る鉄道」や「太陽に匹敵する照明」の照らし出す大通りを「ガスで走る馬の要らない馬車」が埋め尽くしていた。 そして「交通渋滞」や大気汚染の蔓延する社会で「石油から合成されたパン」を食す人々の心は蔑ろにされ、友情や家族の縁も薄れていた。
*明らかに「全てがコンピュータの計算下で運営される管理社会」を描いた作品としては最古級に分類される。

失意の内に銀行で計算機を扱う職に就いたミシェルはある日、恩師の娘に恋をする。ままならぬ日々の中でパリは大寒波に見舞われ、ミシェルは職を失い無一文となってしまう。そして、なけなしの小銭でパンでは無く、彼女に贈るため花を買うのだった。

当時はまだまだ「テクノロジー小説」は冒険物や秘境探検物の体裁をとる形でしか存在し得なかったのですね。 ましてや「ディストピア小説」に出番など…
*当時の「探検ナショナリズム」はある意味、20世紀後半における「エベレスト登頂競争」や「宇宙開発競争(Space Race)」にまで行き着いたとも。
エベレスト - Wikipedia
宇宙開発競争 - Wikipedia

問題が表面化してきたのは第三共和政(Troisième République、1870年〜1940年)時代に入って産業革命が伝統的共同体を破壊し駆逐しつつあるのが明らかとなってから。かくして1890年代フランスを「社会実在論」が彩る展開となるのです。

ギュスタヴ・ルボン「群集心理(La psychologie des foules。1895年)」

現在は人間の思考そのものが変容しつつある危険な時代の一つをなしている。この変容の基盤には。二つの本質的要素が存在している。

我々の文明のあらゆる要素の深淵となっている宗教的・政治的・社会的信念の崩壊、これが第一の要素である。

第二の要素とは、現代の科学と工業の発展によって生み出された、まったく新しい思考や存在の創出である。

過去の思想は、揺るがされつつあるとはいえ依然として強大であり、それに取って代わるべき新しい思想はいまだ形成途上である。現代は過渡期であり、無秩序が支配する時代なのだ。

*この著作においてル・ボンは群衆を「直接対面的な関係によって結合する主体的存在」として描いたが、後に「社会心理学の祖」ガブリエル・タルド(Jean‐Gabriel de Tarde、1843年〜1904年)が「世論と群集(L'opinion et la foule、1901年)」の中でこれを批判。「群集」に対して、メディアを介した遠隔作用によって結合する「公衆」の概念を提示し、現在ではこちらの考え方の方が主流となっている。
ガブリエル・タルド - Wikipedia
*ただし社会学史的には、ガブリエル・タルドの「模倣犯罪学」は1890年代における「社会実在論争」においてエミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)の方法論的集団主義に敗れたという解釈も存在する。特に総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)にはそうした考え方が主流で、戦前日本を代表するマルクス主義学者の戸坂潤(1900年〜1945年)もそういう立場に立つ。

1318夜『模倣の法則』ガブリエル・タルド|松岡正剛の千夜千冊

そして時代はついに第一次世界大戦(1814年〜1818年)を経て「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」へと突入していきます。

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界(Brave New World、1932年)」

機械文明の発達による繁栄を享受する人間が、自らの尊厳を見失うその恐るべきディストピアの姿を、諧謔と皮肉の文体でリアルに描いた文明論的SF小説。その描写の極端さが(多くのSF小説にあるように)きわめて諧謔的であるため、悲観的なトーンにもかかわらず、皮肉めいたおかしみが漂っている。ジョージ・オーウェルの『1984年』とともにアンチ・ユートピア小説の傑作として挙げられることが多い。ハクスリーによる1962年の『島』は、逆にユートピアを描いている。1980年と1998年にテレビ映画になった。

  • 本作は技術官僚主義による地獄を描いており、その30年後の小説1962年の『島』では手作り的なユートピアを描いている。

  • 登場人物の名前にマルクス、レーニナ、モンド、モルガンといった有名人の名が付けられている。また、人工子宮で胎児を育てる話などJ・B・S・ホールデンの「ダイダロス、あるいは科学と未来(1923年)」の影響を受けている。

  • 作品のタイトルは、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』に登場するミランダの台詞「O brave new world」第5幕第1場の引用である。

この世界においては西暦2049年に「九年戦争」と呼ばれる最終戦争が勃発し、その戦争が終結した後、全世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界が形成された。

  • 九年戦争…フォード紀元141年(2049年)に始まったとされる最終戦争。大量の生物化学兵器や大量の爆弾が使われ、世界のあらゆるものが破壊され世界経済は崩壊した。戦争終結後に消費活動の強制政策(国民に毎年一定のものを必ず消費させるノルマ)が取られ、その過程で文化人による『良心的消費拒否運動』が行われたものの、マスタードガスや機関銃などですべて殺されたとされる。その後、当時の大統領は武力では何も変えられないと結論に達し、武力を廃止しそれと同時にフォード紀元の採用と戦争中破壊されずに残っていた博物館(大英博物館など)や歴史的建造物(ピラミッドなど)といった文化的な遺産はすべて閉鎖され爆破された。
    神山健治監督「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年)」における「社員は車もバイクも定期的に買い替え続けなければならない」強制の元ネタ?

①その過程で文化人は絶滅し、それ以前の歴史や宗教は抹殺され、世界統制官と呼ばれる10人の統治者による『世界統制官評議会』によって支配されている。

  • 大量生産・大量消費が是とされており、キリスト教の神やイエス・キリストに代わって、T型フォードの大量生産で名を馳せた自動車王フォードが神(預言者)として崇められている。そのため、胸で十字を切るかわりにT字を切り、西暦に代わってT型フォードが発売された1908年を元年とした「フォード紀元」が採用されている。
    *レーニンがソ連経営に際して米国自動車産業やテーラー主義を参照した逸話を思い出す。自由主義圏における経営工学は、科学的マルクス主義唯物論的世界においては政治学として機能し得るのであふ。

②人間は受精卵の段階から培養ビンの中で「製造」され「選別」され、階級ごとに体格も知能も決定される。ビンから出て「出生」した後も、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々は生活に完全に満足している。ビンから出てくるので、家族はなく、結婚は否定されてフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。隠し事もなく、嫉妬もなく、誰もが他のみんなのために働いている。
*「距離のパトス(Pathos der Distanz)」の維持に執着し、インドのカースト制に憧憬心を抱いていたゴビノー的貴族主義の残滓を感じないでもない。

  • 階級(カースト制度)…大きく分けてアルファ・ベータ・ガンマ・デルタ・エプシロンに分けられる。またそれぞれの階級にプラス、マイナスの区別が存在する。階級ごとに服の色が異なり、階級ごとに就ける職業が定められている。

  • ボカノフスキー法…一つの受精卵から大量の子供を作る方法。プフィッツナーとカワグチという2人の人物によって発見された理論とされている。一つの受精卵から96人までの人間が製造可能。安定した社会の維持のためにはボカノフスキー法による人口の維持は必要不可欠となっている。

  • アルファ(α)、ベータ(β)…知識人、指導者階級。ボカノフスキー法を使わず、一つの受精卵から製造される(生まれる)。顔やスタイルは美形が多く、知的な教育を受けているのでジャーナリストや政府省庁の職員、大学教授などの職業に就いている人間が多い。

  • ガンマ(γ)、デルタ(δ)、エプシロン(ε)…下層階級。ボカノフスキー法を使い製造される。下の階級に生まれた人間ほど、背が低かったり、鼻がつぶれていたりと容姿がひどくなっていく。さらに階級が下の赤ん坊は、育てる段階から、わざと酸素を送る量を減らしたり、血液にアルコールを混入するなどをして、知能や身体機能を意図的に下げられる。成長中の睡眠教育の段階でもアルファ・ベータ階級とは違う内容の教育がされ、エプシロン階級では延々と労働をしても疑問に思わないように教育を行う。しかし、あらゆる予防接種を受けているため病気になる事は無く、60歳ぐらいで死ぬまで、ずっと老いずに若い。

  • 睡眠教育法…睡眠時に同じ言葉を繰り返し語りかけることによって行われる教育。この教育方法により階級制度・社会の倫理観などが寝ている間に教育される。基本的にこのとき教育された内容は一生涯忘れることはないとされる。九年戦争以前にもこの睡眠教育法の実験が行われていたが、効果は今ひとつで普及しなかったという。

③不快な気分になったときは「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になる。人々は、激情に駆られることなく、常に安定した精神状態である。そのため、社会は完全に安定している。

  • ソーマ…安定した社会を維持するための要素の一つ。二日酔いなどの副作用のあるアルコール飲料の代わりとして、フォード紀元178年(2086年)に2000人の化学者に研究助成金が支給され、開発された副作用のない薬。アルコールとキリスト教の長所のみを融合させ、宗教的陶酔感と幸福感と幻覚作用をもたらす。アルファ階級からエプシロン階級までのすべての人間が日常的に使用している。

④一方、文明レベルの異なる少数民族は完全に隔離された生活を送る。
*「超人」志向の強いオラフ・ステープルドン「オッドジョン(Odd John、1934年)」においては優生学に基づいて「劣等民族」は次々と滅ぼされていく。

  • 蛮人保存地区…ニュー・メキシコにある、インディアンが昔ながらの生活をそのまま続けている地区。人口は約6万人。保存地区は電気の流れた鉄線で覆われており、地上からでは出入りができないようになっている。そのためこの地区に入るためには空路でしか入ることができない。

この様に一見したところではまさに楽園、「すばらしい世界」である。

 物語

フォード紀元632年(西暦2540年)、中央ロンドン孵化・条件づけセンターで最上層階級アルファに属するバーナードは、少し様子がおかしく、人の集まる場所を避け、恥ずかしさに顔を赤らめる、他の人々には理解できない行動をしていた。そんなバーナードの友人ヘルムホルツは、優秀すぎるために孤立している男だった。
*「個人の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ獲得される」としたヘーゲル哲学に対して「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と反論したのがマルクスの人間解放論、「自然科学の発展によって哲学や文学は不要になった」とする「俗流唯物論(vulgar materialism)」に対抗したのがヘルムホルツの生理学的新カント主義であった。

  • バーナード・マルクス(Bernard Marx)…中央ロンドン孵化・条件づけセンターの心理課に勤務する心理学者。本来の階級はアルファ・プラスではあるが、胎児のときに職員の手違いからガンマ階級の姿で生まれてしまった。そのことから劣等感に苦しみ、孤立している。

  • ヘルムホルツ・ワトソン(Helmholtz Watson)…バーナードの友人でアルファ・プラス階級の感情技術者。完璧にアルファ・プラスな外見の美男子かつ非の打ちどころのない社交家で、感情工科大学創作学部の講師を務める傍らジャーナリストや脚本家としても才能を発揮している非常に優秀な男であるが、それゆえに周囲の人間と違っているという孤独を感じている。

ある日、バーナードは、恋人レーニナと蛮人保存地区へ旅行へ出かけ、そこでジョンという青年と遭遇した。バーナードは、旅行直前の所長の会話との符合から、ジョンがセンターの所長の子供であることを見抜き、ジョンと彼の母親であるリンダを文明社会に連れて帰る。

  • レーニナ・クラウン(Lenina Crowne)…ベータ階級の保育士で、胎児に予防接種を打つ作業をしている。センターのアルファ階級男性のほぼ全員と寝たことがある美女。
    *女体化した「総受け」レーニン?
  • ジョン・サヴェジ(John the Savage)…蛮人保存地区で生まれ育つが、シェイクスピアの全作品を愛読している。文明社会に行き、好奇の目を向けられる。「Savage」とは「野蛮人」の意味。
    *後述するが、著者自身もモンテーニュ「エセー(Les Essais、1570年)」やルソー「エミール(Emile、1762年)」において理想視された「高貴なる野蛮人(noble savage)」のイメージに引き摺られたと認めている。
    野蛮 - Wikipedia

    *そしてまさしくこのイメージを母体としてエドガー・バローズ「ターザン・シリーズ(Tarzan Series 、1912年〜1977年)」やロバート・E・ハワード「英雄コナン・シリーズ(1932年〜1936年)」が誕生する運びとなる。
    ターザン - Wikipedia
    英雄コナン - Wikipedia

  • 所長(The Director)…中央ロンドン孵化・条件づけセンターの所長でバーナードの上司。名前はトマス(リンダは彼をトマキンと呼ぶ)。バーナードを疎んじてアイスランドのセンターへ左遷しようとしたが、本人も知らなかった息子ジョンの存在と「父親」になったことを暴露され、失脚。その後の行方は不明。

ジョンは、その物珍しさから一躍時の人となるが、ジョンがいた蛮人保存地区とバーナードたちの文明社会では常識がまったく異なるため、摩擦が起きている。蛮人保存地区に偶然残されていたシェークスピアの古典を諳んじるジョンの目には、この社会はどうしようもない「愚者の楽園」としか見えない。

ジョンは、バーナードの社交の見せ物とされ続けることを拒否して自室に閉じこもっていたところ、彼が密かに恋心を抱いていたレーニナの訪問を受ける。レーニナは、プラトニックな騎士道的恋愛と、その後の結婚を求めるジョンを理解できず、直接的なセックスを求めるが、ジョンはこれを激しく拒絶する。

直後、ジョンは、連絡を受け駆けつけた病院で危篤の母リンダを見舞う。ジョンは、ソーマの快楽に溺れるリンダを「死を恐れない条件反射教育」のために連れて来られた子供たちに邪魔をされつつ看取った。それにより怒りに駆られたジョンは、病院から町に飛び出してソーマの配給を妨害するが、そこに駆けつけたバーナードとヘルムホルツに逮捕される。そして、世界統制官ムスタファ・モンドの元に連れて行かれ、ついにこの世界の全貌を説明された。

  • リンダ(Linda)…ジョンの母親。ベータ・マイナス階級だったが、若い時に所長と蛮人保存地区へ出かけ、一人はぐれた挙句、避妊処理ができなかったことで彼の子供を身篭ってしまった。そのため、保存地区から出られず、しかしインディアンの生活に適応することもできず、年老いてすっかり醜くなった。

  • ムスタファ・モンド(Mustapha Mond)…西ヨーロッパ駐在統制官で世界統制官の一人。賢明で人間社会に対する洞察に満ち、冷笑的でどこか優しい憂愁さえたたえた哲学的な指導者。

世界統制官との問答の後、フォークランド諸島へ島流しとなるバーナードとヘルムホルツと別れた後、ジョンは都市を離れ、田舎の廃屋で一人自給自足の生活を送ろうとするが…。

著者新版前書き(1946年)

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新しい作品にとりかかる前に、この作品の最も重大な欠点に触れておくことにも意味はあるだろう。その最も重大な欠点は、野蛮人ジョンがふたつの選択肢しか与えられなかったことだ。

ユートピアでの馬鹿げた生活か、インディアン村での原始的な生活か。後者は前者より人間的な面もあるが、こちらにもまた奇妙で異常なところがある。この小説を書いたころは、人間には自由意志が与えられているが、それはひとつの狂気と別の狂気のどちらかを選ぶ自由意志でしかないという考えが、わたしには面白かったし、おそらくそれが真実だと思えた。

ただし劇的効果を出すため、わたしはこの野蛮人に、豊穣神崇拝と贖罪苦行者の荒っぽい信仰を足して二で割ったような宗教を信じる人たちのあいだで育ったにしてはけっこう理性的なことを喋らせた。いくらシェイクスピアに親しんでいても、実際にはあんな発言をする者はいないだろう。もちろんその野蛮人も、最後には正気から遠ざかってしまう。幼いころから養われた贖罪苦行者の精神がふたたび支配権を握り、野蛮人は異常な自虐行為のすえ絶望的な自殺を遂げるのである。

「こうしてみじめに死んでしまいましたとさ、おしまい」という結末で知的遊戯を愉しんだ、絶対的懐疑論者にして芸術至上主義者であるこの寓話の作者、すなわちわたしは、これでいいと確信したのだ。

現在のわたしは、正気の道が不可能であることを示したいとは思っていない。逆に、といっても悲しいかな昔同様それは見つけにくいと考えているが、それでも見つけることは可能であり、もっとその可能性を見てみたいと思っている。そのようなことを最近の何冊かの著書で書き、またとりわけ正気の人たちが正気とその保ち方について論じた文章のアンソロジーを編んだことから、わたしはある高名な大学教授にして批評家の方から、危機の時代の知識階級にありがちな失敗のパターンに陥っていると批判されたのだった。

おそらくこの批判が暗に仄めかしているのは、この教授とそのお仲間たちは歓ばしき成功のパターンにはまっているということだろう。人類に恩恵を与えてくれた人々はその名誉を讃え、功績を長く記憶に留めるべきである。ぜひぜひこの教授たちのために記念館を建てようではないか。建設する場所はヨーロッパか日本の戦争で荒廃したどこかの都市にすべきだろう。記念館の中に設けた教授たちの納骨堂の入り口の上には、縦二メートルほどの文字で、次のような簡潔な銘文を刻むのだ。〝世界を良くした教育者諸賢に捧ぐ。その不朽の業績を見たければ、周囲を見まわしたまえ〟

話を未来のことに戻そう……

今この小説を書き直すとすれば、わたしは野蛮人ジョンに第三の選択肢を与えるだろう。相容れないユートピアと原始社会のあいだに、正気の道の可能性を提示するのである。その可能性は、野蛮人居留地内で暮らす〈すばらしい新世界〉からの追放者や亡命者の共同体において、ある程度すでに実現されているという設定にする。この共同体は、経済的にはヘンリー・ジョージ流の集中排除的体制、政治的にはクロポトキン流の共同組合的体制である。

そこでは、科学と技術は安息日のように人間のためにあるのであって、人間がそれらに順応し隷属する(今の社会ではそうだし、〈すばらしい新世界〉においてはいっそうその程度が激しい)のではない。宗教は人間が〝最終目標〟を追求するための意識的で知的な営みであり、内在的な〝道〟や〝理法〟、超越的な〝神〟や〝最高原理〟を総合的に知ることを旨とする。

そこでの主流の人生哲学は〝高度功利主義〟とでもいうべきものだ。それは〝最大多数の最大幸福〟よりも〝最終目標〟のほうを優先的に追求する──人生の諸問題においてまず問われ、答えられなければならないのは〝その考えや行動は、わたしを含む最大多数の人たちが人間の「最終目標」を実現しようとしているときにどのような貢献または妨害をするか〟ということなのだ。

原始的な人々のあいだで育った野蛮人(本作が書き直された場合の登場人物)は、自由意志で互いに協力し合い正気の道を追求する人々の共同体について直接何かを学ぶ機会を持ったあとで、ユートピアへ連れてこられることになるだろう。このように改変された『すばらしい新世界』は、芸術的であるだけでなく、(小説についてこの大層な言葉を使うことが許されるとしての話だが)哲学的にも申し分ないものになるはずだ。現在のものは明らかに哲学的完成度に不足があるのである。
*以下に原子力について触れなかった事を後悔している記述があるが、コンピューターについて触れていない事は別に後悔してない辺りに時代性を感じる。

 ヘンリー・ジョージ(Henry George、1839年〜1897年)

アメリカ合衆国の作家、政治家、政治経済学者。私的所有をベースとしながらも、自然とりわけ土地は人類の共有財産との考えに基づき、諸税を廃止し地価税への一本化(土地単税)を図るジョージズムの提唱者としても知られる。主著は『進歩と貧困(Progress and Poverty、1879年)」。

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ペンシルベニア州フィラデルフィアの中下層階級の家庭に10人兄弟の次男として生まれる。14歳で公式の教育課程を終え、1855年4月には15歳にして前檣士となりメルボルンカルカッタへと渡航した。

  • 海外生活を1年数ヶ月で切り上げると帰郷し、植字工の徒弟を務めた後カリフォルニア州に向かう。

  • ゴールドラッシュで一攫千金を狙うも叶わなかったものの、1865年には新聞社に職を得、印刷工を手始めにジャーナリストや編集者を経て社主にまで上り詰めることとなる。

この間、18歳のオーストラリア人女性・アニー・コーシナ・フォックスと恋に落ち、彼女と一緒に暮らしていた叔父(フォックスは孤児であった)の猛反対を押し切った末、1861年結婚。結婚生活は順調に進み、4人の子供を設けた。

 

  • 自らは福音派に属していたものの、フォックスの母親がカトリックアイルランド人であった関係上、子供はローマ・カトリックの信徒として育てられた。

  • 長男のヘンリー・ジョージ・ジュニア(1862年〜1916年)はニューヨーク州選出の下院議員になっている。高峰譲吉の妻キャロラインの妹と結婚し、1906年には来日し、日本の鉄道についての報告を雑誌に発表したりもしている。

  • 次男のリチャード・F・ジョージ(1865年〜1912年)は彫刻家として成功を収めた。

  • 次女のアンナ・アンジェラ・ジョージ(1879年生)は映画監督セシル・B・デミルの兄ウィリアム・C・デミルと結婚し、女優のアグネス・デ=ミルやマーガレット・ジョージ・デ=ミルの母となる。 

当初リンカーン率いる共和党員であったが後に民主党へ籍を移し、カリフォルニア州議会議員選挙にも出馬。政治に関わる中で政治腐敗や労働者の惨状に対して強く批判するようになる。

  • 1871年、サンフランシスコ湾に偶然立ち寄った際、運命的な光景を目の当たりにする。「とある通行人にこの一帯の地価が如何程か尋ねてみた。すると彼は遠方で草を食んでいる数頭の牛を指差しながら「詳しいことは分からねえが、向こうに一エーカー当たり数百ドルで土地を売ろうとしている人がいるだろ」と話してくれた。貧富の差が拡大する理由が電光石火のごとく閃いたのはこの時だ。人口が増え地価が高騰すると、そこで働く者は地主により多くの金を払わなければなくなるということを」。

  • その後訪れたニューヨークで、現地の貧困層が当時発展途上にあったカリフォルニアの貧困層よりも暮らし向きが遥かに劣悪であるという、明白な矛盾に衝撃を受ける。

  • 1879年には、これまでの経験を基に『進歩と貧困』を上梓。同書は百版を重ね三百万部を売り上げるベストセラーとなったが、その中で自由市場経済において築かれた富は地主や独占資本家が掌握し、この不労所得の集中こそ貧困の主たる原因との考えを示した。また、生産活動が重税に悩まされる一方で、私的利益が天然資源という限られた手段から得られるのは不正義の極みとして、かかる制度は奴隷制に等しいと主張した。

  • ジョージがこうした貧困を齎すメカニズムを見出せたのも、彼自身が貧困層であったこと、海外渡航歴から様々な社会を知り得たこと、当時急成長の最中にあったカリフォルニアに住んでいたことが挙げられるが、とりわけカリフォルニアにおける鉄道建設により、地価や地代が賃金の伸び以上に上昇した事実に目を付けていた。 

一躍著名な作家となった1880年にニューヨークへと転居。

  • 自身はイギリス系アメリカ人であったにも関わらず、アイルランド独立を標榜する組織と緊密な関係を持つようになる。また、土地を取得する権利が主たる政治問題であったアイルランドスコットランドへと足を伸ばしたのも、この時代のことである。

  • 1886年ニューヨーク市長選に統一労働党(中央労働組合の政治部門として短期間存在した政党)から出馬、後に第26代大統領となる共和党候補のセオドア・ルーズベルトを上回る得票数を得たものの、タマニー・ホールが擁立したエイブラム・スティーブンス・ヒューイットに敗北を喫する。

  • 翌1887年、ニューヨーク州務長官選にも出馬するが当選には遠く及ばす3位で落選。なお、統一労働党は一連の選挙結果を受け内部分裂を起こし、衰微の一途を辿ることとなる。党執行部はジョージズム支持者で占められていたが、土地と資本との区別を認めないマルクス主義者やエドワード・マクグリン神父の除名に失望したカトリック教徒、そしてジョージの自由貿易政策を良しとしない党員などが犇めき合う、組織労働者の党であったからである。

  • 医師らの忠告を無視し、統一労働党に見切りを付け1897年の市長選に独立民主党から再度立候補するが、選挙を4日後に控えた同年10月29日、脳卒中で死去。葬儀には十万人の弔問客が駆け付けたという。

ジョージの知名度は死後徐々に衰微し、今日ではあまり触れられるケースが多くないのが現状である。

  • 独占…自然独占の国有化や課税、規制を支持。電信電話並びに水道事業は公営で行うべきとしたが、鉄道については幾分柔軟で、株式が政府出資によるものであれば民営化でも構わないと述べている。その一方で政府認可の独占資本家には極めて批判的で、発明や科学部門への投資に対するインセンティブを高めるため、場合によっては政府により特許状を取り上げるなど厳しい措置を提案した。

  • 中国人移民規制ジョージを一躍有名にした最初期の文献の中に、中国人移民を制限すべきと説くものが存在する。 移民制限の必要性が最早無い局面を迎えることや、移民問題に関する初期の論考が「未熟」であったことを自ら認めていたものの、こうした見解を変えることは終生無かった。特に低賃金を受け入れる移民が賃下げという好ましくない影響を与えると論じた。

  • 土地単税(ジョージズム)…「進歩と貧困」で明快に示された「地代は私的所有よりも社会全体に分有すべき」との主張でよく知られる。地代を社会的に共有しようとすれば土地を国有化した上で個々人に賃貸しする方式を採ることになり、地価税を高率に設定すれば地価が下落することになるが、ジョージは地主に補償を行う必要は無く、嘗ての奴隷所有者と同様の対応をとるべきとした。

  • 自由貿易保護主義が支配的で歳入の大部分が関税であった時代(当時は所得税が導入されていなかった)にあって、これに反対する立場を貫いた。後年、自由貿易が国政を揺るがす大問題になると、著書『保護主義自由貿易か』を発行するが、本書が5名の民主党連邦議会議員により議事録に掲載されるなど、論争を巻き起こした。

  • 秘密投票…秘密投票の導入をアメリカ国内で初めて主張した論者の一人である。

  • 交換可能通貨及び国債…交換可能通貨や国債による決算に批判的であった。

しかしながら、今なおジョージズム関連の研究所が多く存在するし、ジョージ・バーナード・ショー やレフ・トルストイ孫文ハーバート・サイモンそしてデビッド・ロイド・ジョージら、有名人の中にも彼の影響を受けた者は少なくない。また、ジョージの支持者たるエリザベス・マギーは、彼の理論を知らしめるべくボードゲーム地主ゲーム(The Landlord's Game、1904年)を発表するが、これがダン・レイマンの「FINANCE(1932年)」を経てペンシルベニア州在住のチャールズ・B・ダロウの「モノポリー(Monopoly、1933年)」へと発展を遂げることとなる。

モノポリー(Monopoly、1933年) - Wikipedia

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欧州遊学時には社会主義思想家とも親交を持ち、後のフェビアン協会の創設者らにも影響を与えたことでも知られる。

フェビアン協会

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン(Пётр Алексе́евич Кропо́ткин、Pjotr Aljeksjejevich Kropotkin、 1842年〜1921年)

ロシアの革命家、政治思想家であり、地理学者、社会学者、生物学者。その生涯は、自伝『ある革命家の思い出』とナターリア・マリア・ピルーモヴァの『クロポトキン伝』に詳しい。

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「パンの略取(La Conqute du Pain、1892年)」における「パンの不足から革命は始まる」、「青年に訴える(Aux jeunes gens、1904年)」における「民衆の中にあって、真理と正義と平等のために不断に闘うこと…これ以上に尊い生活はおそらく望みえないであろう」、「ある革命家の思い出(1899年)」における「革命を成功させるのは希望であって、絶望ではないのだ」といった発言で有名。
クロポトキン Pyotr Alkseevich Kropotkin 大杉栄訳 青年に訴う AUX JEUNES GENS
クロポトキン Pyotr Alkseevich Kropotkin 大杉栄訳 革命の研究
クロポトキン Pyotr Alkseevich Kropotkin 大杉栄訳 共産食堂

プルードンバクーニンと並んで、近代アナキズムの発展に尽くした人物であり、学者としての長年の考証的学術研究に基づき、当時一世を風靡した社会進化論やマルクス主義を批判し、相互扶助を中心概念に据えた無政府共産主義を唱えた。その思想は、社会運動のみならず文学にも影響を与えた。著書に『パンの略取(1892年)』『田園・工場・仕事場(1898年)』、『相互扶助論(1902年)」などがある。

もうすぐ北風が強くなる クロポトキンと相互扶助論

  • 1842年12月9日、モスクワの古い屋敷町であるスタラヤ・コニュシェンナヤで、クロポトキン公爵家の三男として生まれる。クロポトキン公爵家は、キエフ大公国の始祖リューリクの血を引くスモレンスク公ドミトリー・ヴァシーリエヴィッチの末裔であり、家名は彼の通称であるクロポトゥカに由来する。カルーガ、リャザン及びタンボフ3県にまたがる土地を所有し、多数の農奴を有する大地主であると共に代々宮廷での要職を担い、貴族、軍人、高級官僚を輩出し、父アレクセイ・ペドロヴィッチは露土戦争に参加して聖ゲオルギー勲章を受けた軍人ではあったものの、粗野で俗物的であり子どもたちや使用人たちに乱暴だった。

  • 母エカチェリーナ・ニコラエヴナは、ウクライナ独立のために戦ったウクライナ・コサックの血筋を引くスリーマ家の令嬢で、彼女の父はナポレオンの侵攻の際に武勲を立てた軍人であった。粗野な父に比して教養に通じ母は理知的であり使用人たちや子どもたちにも優しかったものの、クロポトキンが3歳の時に死亡。彼とその兄アレクセイは家庭教師がつくまで、彼女を慕う使用人たちの手によって養育された。

  • 7歳の時に仮面舞踏会に出席し、ニコライ1世の目に止まる。この時貴族幼年学校への入学を約束されたものの、年齢に達しなかったので引き続き家庭教師の教育を受けた。だがそれでも欠員が無かったためモスクワ第一中学校で2年間を過ごし幼年学校に入学するが、入学試験の際に数学の成績が芳しくなかったため入学当初は最下位のクラスである第5組(幼年学校は5クラスあり、成績順に第1組から5組まで在った。)からスタート。だが幼年学校では優秀な成績を収め14歳の時にはサンクト・ペテルブルグの近衛連隊に入隊するまでになり、ここで陸軍士官学校に進学するための特別な教育と訓練を受ける。この頃から農民や農村社会への関心を持ち、フランスの百科全書派など西欧諸国の啓蒙思想に触れることが多くなる。

  • 1862年に自ら望んでイルクーツクに赴任。軍務の傍らシベリアから満州一帯の現地調査を行い地理学的知見をロシアにもたらした。一方で、ジョン・スチュアート・ミルやアレクサンドル・ゲルツェン更にはピエール・ジョゼフ・プルードンなどの著作に親しみ、無政府主義への関心を深める。
    *軍務の他にアムール川流域や満州を探査するなどして5年を過ごした。その過程でシベリア地方に割拠する諸族の相互協力関係を知り、これが「相互扶助論」の出発点となる。同時に「最善、最悪、最上層、最下層のあらゆる種類の人間」と接触し、人生と人間の性質を学んだ。

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  • 1867年には軍を退役、生家からは勘当される格好となるもサンクト・ペテルブルグに戻って数学を学びにサンクトペテルブルグ大学へ入ると共にロシア地理学協会に入会した。フィンランドスウェーデンに氷河期堆積物の現地調査に向かったりアジア方面での地理学的知見などの学問的業績を残す一方で、秘密裏に活動していた革命結社に出入りする様になる。1872年にはベルギーからスイスへと外遊し(バクーニン派の)第一インターナショナルの会合にロシア無政府主義者の代表として出席。

    第一インターナショナル(1864年〜1876年) - Wikipedia

  • 1874年に革命謀議で逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞の牢獄に拘留される。獄中で健康を損ねたことから医療刑務所に移されるが、そこを脱獄するとフィンランドからスウェーデンノルウェーを経てイギリスに亡命した。更に第一インターの伝手でスイスに移りラ・ショー=ド=フォンに居住、更に何度も逮捕や指名手配・投獄を繰り返しながらもヨーロッパ各地で無政府主義者としての活動を続けた。一方、私生活では1878年にソフィア・ラビノビッツと結婚、1人娘をもうける。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cd/Petropavlovskaia_Krepost_aerial.jpg/300px-Petropavlovskaia_Krepost_aerial.jpg

  • 1879年には、ジュネーブアナキスト系のフランス語新聞『ル・レヴォルテ(Le Révolté、1879年〜1886年) 』の創刊に関わる。

    ル・レヴォルテ - Wikipedia

  • 亡命先のロンドンで「パンの略取(La Conqute du Pain、1892年)」発表

    ロシアの無政府主義者クロポトキンが1892年、亡命地ロンドンにおいて無政府共産主義の思想を精力的に宣伝普及していたころの著作。

    原題どおりならば「パンの征服」と名づけるべきであろうが、日本では幸徳秋水(しゅうすい)が英訳本をもとに1908年(明治41)に『麺麭(パン)の略取』と題して邦訳したため、この名称が用いられている。

    無政府共産主義社会を実現するためには、破壊と建設の部分が必要であるが、本書は、その建設的側面、とくに経済的側面について論じている。クロポトキンによれば、無政府共産主義社会とは、ぜいたくの欲求をも含む人間的欲求のすべてを満たす社会、しかも個人の全面的自由を認め、いかなる権威をも容認せず、人々に労働を強いるためのいかなる強制をも用いない社会である。したがって、パンの征服とは、革命に際して緊急に解決を迫られるのは食糧の問題だという意味であるが、本書ではそれだけにとどまらず、無政府共産主義社会に至る方法と手段が論じられている。

    このような社会を実現するためには私有財産制を廃止する必要があるが、革命達成の過程においては、クロポトキンは、マルクスのいうようなプロレタリア独裁政権による方法は個人の自由を侵害するとして反対し、また代議制と賃金制度を温存し、私有財産制をそのままにして社会主義の実現を図ろうとする社会民主主義(イギリスでは集産主義collectivismという)の方法にも反対している。

  • 二月革命(1917年)を経てロシアに戻り、臨時政府から文部大臣就任を打診されるもこれを拒否。ボリシェビキによって十月革命が起きた際にはこれで革命が葬られたと言い、これを批判。ボリシェビキ流の民主集中制・集権的革命とは違う分権的・反権威主義的革命を主張し、革命が結果的に資本主義の復活へと繋がることを予見していた。
    *そしてその反骨精神が逮捕につながっていく。

1921年にモスクワ近郊のドミトロフで死去。葬儀にあたってはボリシェビキ批判を掲げてアナキスト達が行進し、レーニンも(反乱や暴動を恐れてか)黙認したものの以後アナキズムは禁止され、以後60年以上にわたりソビエト連邦の独裁体制が続くことになる。

神戸新聞 1921.1.31 (大正10年)クロポトキン氏獄舎内に逝去す

無政府主義者クロポトキン氏は29日莫斯科の獄舎内で逝去した氏の大患は1915年英国滞在中に発したもので爾来宿痾となり1917年母国革命の為め帰国したが過激派政府の手に囚われの身となり1918年以来禁錮に処せられていたものである、享年78歳(莫斯科電報29日発)

奮闘に終始した氏の生涯

無政府共産主義者ピータークロポトキン氏は1842年露西亜の公爵を父としてモスコーに生れ16歳の時ペテルスブルグの近侍学校に入学した当時同国は『農奴開放』を叫ぶ農民の示威的一揆が頻発して日々争闘が絶えなかった其の間に処して彼の革命的思想は次第に培われ同校卒業後光栄ある近侍下士に任命されたが彼はこれを拒んで西伯利亜へ赴任し次で満洲芬蘭の旅行を終り西欧へ渡って瑞西で多年渇望していた『万国労働同盟』の地方同盟に加わった、4年後『最後の戦』を胸に抱いて帰国し自ら農民服を纏って運動に参加した為め1874年、遂に捕えられてペテルスブルグの城砦監獄に送られた、2年後同志の尽力で首尾よく脱走に成功し、レニン政府の出来る迄主に英国で亡命客として暮した1915年大患に罹り、同17年母国革命後は帰国したが其後の消息は杳として伝えられなかったものである

彼は偉大なる科学者 其著は簡潔然も熱に富む 賀川豊彦氏談

クロポトキン長逝の報を齎して吾妻通に賀川豊彦氏を訪えば確1842年生れだからモウ可成りの年ですからネと冒頭に語る『自分は彼の無政府思想なる時代錯誤の地方分権説等を信じませぬが一個の科学者として見る時、農業に通じ地理に動物学に、経済学に、文学に行くとして可ならざるなき彼には敬服せざるを得ませぬ、彼は身公爵であり歴山帝二世には小さい時頭を撫でられ『大きくなって偉くなれよ』と言われたものです、其の彼が無政府主義の思想を有するに至った動機は嘗て波蘭に北極光を研究に行った時喰うに食なく虐げられた農夫が一生懸命に寒地の馬鈴薯を手入しているを見てからで誠に純な心の所有者なのです彼の著には『一革命家の思い出』『パンの掠取』『相互扶助論』『田園と工場』『無政府主義の科学的基礎』『青年に訴う』等がある、文は平易で簡潔然も非常な熱を有っています』云々

アナキズムFAQ

物悲しい記録だが、1921年2月13日はソヴィエト=ロシアにおける黒旗の終焉に特徴づけられた日だった。この日、ピョトールクロポトキンの葬儀がモスクワで行われた。大規模な民衆のマーチは数マイルにわたって続き「権威があるところ、自由はない」と書かれた黒旗を持っていた(ポール=アヴリッチ著、ロシア革命におけるアナキスト、26ページ)。黒旗がロシアに現れたのは、1905年のChernoe Zhania(「黒旗」)運動の創立時だったと思われる。クロポトキンの葬儀マーチのたった2週間後に、クロンシュタット水兵の反乱が勃発し、アナキズムは、ソヴィエト=ロシアから長い間消えうせてしまったのだった。

941夜『神もなく主人もなく』ダニエル・ゲラン編|松岡正剛の千夜千冊

1921年2月8日の早朝、モスクワ郊外の寒村でクロポトキンが死んだ。翌日、特赦された数名のアナキストを先頭に、ノヴォジェヴィチの修道院にいたる5マイルの道に、チャイコフスキーの第1と第5が流れた。その葬列には黒旗が林立した。

葬列がトルストイ博物館にさしかかったときは、ショパンの葬送曲が流れ出した。修道院での出棺には200人の合唱団がふたたびチャイコフスキーの『永遠の追憶』を歌った。そして、アアロン・バロンの燃えるような怒りに満ちた告別の辞が、時の空気を黒く切り裂いたのだ。

「神もなく主人もなく、クロポトキンはこう言った、さあ、命なんぞは君が持っていきたまえ!」。

 ソ連中央政権に抵抗した「アナキズムロビン・フッド」ネストル・マフノの活躍

ネストル・マフノがおこしたことは、ウクライナの農民を指揮して雄渾であって、壮絶であって、独得のものである。これをマフノ運動という。

第一次ロシア革命十月革命)では、マフノ運動は700万の住民を擁する地域に農民自治組織の拠点をつくりあげることだった。その後、この地域に第一次世界大戦時のドイツ・オーストリア軍が軍事的に及んだときは、マフノ運動はグリャーイ・ポーレを逆占拠して、独墺軍を撤退させた。マフノ運動は大量の武器と資材と貯蔵庫を得た。

こうして第二次ロシア革命二月革命)の時点では、史上初めての自由共産主義の原理が解放ウクライナに出現し、自治管理が進み、地主と争った土地はコミューンあるいは自由労働ソヴィエトとして、共同耕作されていった。

このすべてを指揮したのがアナキズムロビン・フッドともいうべきネストル・マフノだったのである。

貧農の子であった。青年期にアナキズムに傾倒し、革命運動に参加したときはケレンスキー内閣から死刑を宣告されもした。しかし、つねに不屈の闘争心が彼をかきたててきた。とくに自治組織と自衛軍の組織化と軍事化には、天才的な才能を発揮した。いまなら、その戦術がゲリラ組織の本質を備えていたとも判定できる。しかし、それはモスクワには厄介なものになりつつあったのだ。

案の定、マフノはウクライナに成立しつつあった自治管理機構が、モスクワのソヴィエト政府と拮抗するものであり、かつ各地のソヴィエト機構と連動的に結ばれるものだと認識し、その可能性をモスクワに打診した。ソヴィエト政府がそんなことを認めるわけはなかった。それどころかゲリラ的なウクライナ軍は中央の赤軍の管轄下におかれるべきだと申し渡した。

マフノはこの要請を拒絶する。中央政府はマフノ運動の弾圧に踏み切った。赤軍の最高司令官は、そのときトロツキーになっていた。

マフノ運動を知ってからの、ぼくのアナキズム渉猟は格段に果敢になった。

まず、プルードンやブランキやクロポトキンが加わり、そこへマックス・ノーマッドの『反逆の思想史』(太平出版社)が、大沢正道の『アナキズム思想史』(現代思潮社)や『虚無思想研究』(蝸牛社)や『反国家と自由の思想』(川島書店)が加わった。そして日本のアナキズム運動の全貌を伝える秋山清の『日本の反逆思想』(現代思潮社)を突破口に、大杉栄その人の著作が、辻潤の著作が、石川三四郎や山鹿泰治の著作が広がっていった。

これらの読書において実感したことは、もし政治や革命にダンディズムがあるのなら、アナキストこそがダンディズムの極みではなかったかということだった。『遊学』にも書いたことだが、こうしてぼくは、ウィリアム・ブレイクからジョン・ケージまでを、オスカー・ワイルドからナムジュン・パイクまでを、心のアナキストとよぶようになったのだ。

ワイルドがこんなことを書いていたのも気にいった。「私の体験のなかで出会った二人の完璧な人物はヴェルレーヌクロポトキン公爵だ。両人とも獄中生活を送ったことがある。ひとりはダンテ以来唯一のキリスト教的詩人であり、ひとりはロシア出身であの美しく清浄なキリストの魂をそなえた人である」。うーん、泣けてくる。

さて、無政府将軍ネストル・マフノは、1年に及ぶ赤軍の攻撃に敗退して、そのパルチザン的なマフノ軍事運動に終止符を打つ。それとともに祖国ウクライナの自治組織は解体した。

すでに多くの評者たちから指摘されていることであるが、実はマフノ運動にはひとつ大きく欠けていたものがあった。それは農民の中から知識人や文人を輩出させられなかったことである。それゆえマフノ運動は、内部の知が語る雄弁で大胆な文章を欠いてきた。

ネストル・マフノが手を打たなかったわけではなかった。ヴォーリンをはじめとする外からの知識人の導入をはかり、その活動を「ナパート」と名付けて運動を知的にも補強しようとしたのだが、間に合わなかった。強烈な知の持ち主でもあったトロツキーとはそこが違っていた。もっとも、そのトロツキーも、結局は“裏切られた革命”の陰の主役にまわされたのだ(第130夜)。

マフノは1921年ルーマニアに亡命、その後はパリに誰に知られることもなく住んで、1935年に赤貧に戻って死んだ。しかしその活動のモデルは、その後は毛沢東に、アルジェリアに、ゲバラに、ベトナムに蘇生した。

二次にわたったロシア革命の血を駆け抜けたアナキズムは、クロンシュタットの叛乱などさらにいくつかの激越な事態をつくりながら、消えていく。あとはスターリンの圧政が待っているだけになる。

その不幸な切り返し点こそ、1921年2月8日のクロポトキンの葬列にあった。

ではアナキズムがその後どこへ行ったかといえば、イタリアに、スペインに、日本に飛び火した。またクロポトキン主義としてトルストイに、ガンジーに、オロビンド・ゴーシュに散華した。本書はそのすべてまでは追っていないけれど、その意伝子はおそらく多くの黒人運動のなかにも結晶をもたらした。第519夜の『マルコムX自伝』にもその共鳴は響いている。

パンの略取(La Conqute du Pain、1892年)

ロシアの無政府主義者クロポトキンが1892年、亡命地ロンドンにおいて無政府共産主義の思想を精力的に宣伝普及していたころの著作。

原題どおりならば「パンの征服」と名づけるべきであろうが、日本では幸徳秋水(しゅうすい)が英訳本をもとに1908年(明治41)に『麺麭(パン)の略取』と題して邦訳したため、この名称が用いられている。

無政府共産主義社会を実現するためには、破壊と建設の部分が必要であるが、本書は、その建設的側面、とくに経済的側面について論じている。クロポトキンによれば、無政府共産主義社会とは、ぜいたくの欲求をも含む人間的欲求のすべてを満たす社会、しかも個人の全面的自由を認め、いかなる権威をも容認せず、人々に労働を強いるためのいかなる強制をも用いない社会である。したがって、パンの征服とは、革命に際して緊急に解決を迫られるのは食糧の問題だという意味であるが、本書ではそれだけにとどまらず、無政府共産主義社会に至る方法と手段が論じられている。

このような社会を実現するためには私有財産制を廃止する必要があるが、革命達成の過程においては、クロポトキンは、マルクスのいうようなプロレタリア独裁政権による方法は個人の自由を侵害するとして反対し、また代議制と賃金制度を温存し、私有財産制をそのままにして社会主義の実現を図ろうとする社会民主主義(イギリスでは集産主義collectivismという)の方法にも反対している。

クロポトキンは、当時の日本のインテリ層の間において絶大な人気を誇っていた。そしてその事がはからずしも(その存在そのものを全面否定し、ヴォルシェビキへの全面を打ち出した)大日本帝国時代における共産主義運動の大きな足枷となっていく。

オルダス・ハクスリー「すばらしい新世界(Brave New World、1932年)」後書き

初期のハクスリーの魅力は、一つの主義なり思想なり宗教なりを信奉せず、冷めた視点から懐疑的にものごとを捉える姿勢にあって、小説の作風は時に戯画的であり、喜劇的だった。それが特に二つの大戦に挟まれた不安定で不穏な社会に生きる同世代の人たちの心に訴えたのである。

根本的には科学の発達を信頼していたH・G・ウェルズに対して、ハクスリーは科学技術や社会の進歩にも懐疑的で、というよりもむしろそれを利用する人間の能力に危機感を持っていた。ウェルズとはそもそも捉え方の方向がちがっていたのである。

長篇第一作の「クローム・イエロー(CromeYellow1921年)」にはウェルズを戯画化したスコーガンという人物が登場し、将来の人間は人工培養されて保育器で育てられ、家族も消滅すると予言しており、すでに『すばらしい新世界』を先取りする未来像が示されている。スコーガンの話の中には人間を「知的な指導者」「宗教人」「下層人」の三種類の階級に分ける計画も盛りこまれていて、宗教をわざわざ一つの階級に割り当てているのは、ハクスリーが宗教的な感情を人間から消すことはできないと考えていたからである。

1938年、旅行でのアメリカ滞在が長くなり、ついには居を定めることにした。これはヨーロッパが戦争へと向かう不吉な動きを見せていたことへの懸念もあるが、カリフォルニアの明るい光が目に良いと感じられたこと、そしてW・H・ベイツ博士の視力回復法がアメリカで大きな成果を上げていると聞いたことも理由だった。実際、ハクスリーはその回復法によって1939年には眼鏡なしで読み書きができるまでになり、自らの体験もまじえて「見る技術(The Art of Seeing、1942年)」を著わしている。

第二次世界大戦中は主にハリウッドで『自負と偏見』『ジェーン・エア』などの映画の脚本を書いていた。その経験から脚本形式を利用した未来記「猿と本質( Ape and Essence、1948年)」が生まれる。

ハリウッドでは仏教ヒンドゥー教の関係者と交流し、1950年代になると、自らを被験者にして幻覚剤(LSDとメスカリン)による実験を行ない、その体験を「知覚の扉(The Doors of Perception、1954年)」に記録している。ちなみに「サイケデリックpsyche精神+delos出現)」という言葉は、この実験の立ち会いをした精神科医のハンフリー・オズモンド博士がハクスリーと手紙のやりとりをしている中で使った造語である。

*この「知覚の扉(The Doors of Perception、1954年)」の「扉(The Doors)」がジム・モリソンにバンド名として選ばれる。大元の出典はウィリアム・ブレークの詩集「天国と地獄の結婚(The Marriage of Heaven and Hell, 1790年〜1793年頃)」に収録された「忘れがたい幻想」の一節「知覚の扉が拭い浄められれば、万物は人間にとってありのままに現れ無限に見える(If the doors of perception were cleansed, everything would appear to man as it truly is, infinite.)」とされる。

また平和主義を唱えるようになり、友人の影響もあって神秘主義や東洋哲学に関心を抱くようになった。特に人間の潜在的な能力を十分に開花させることが彼の人生の目的のようになる。東洋哲学の影響もあるが、ハクスリー流の哲学の中核は飽くまでも彼自身の直観と思索であり、その哲学を盛りこんで、詞華集「永世哲学 -究極のリアリティ-(The Perennial Philosophy、1945年)」と評論集「天国と地獄(Heaven and Hell 1956年)」を書き上げた。さらに評論「科学・自由・平和( Science, Liberty and Peace、1947年)」や評論集「主題と変奏(Themes and Variations、1950年)」でも物質主義と高度な科学技術の危険性を指摘しながらも、それを乗り越える方法を模索している。

 そしていよいよ「サイケデリック三羽烏」の時代に突入…

*極めて貴重なアレン・ギンズバーグ(左)、ティモシー・リアリー(中)、ジョン・C・リリー(右)のスリーショット写真が現存する。

https://pbs.twimg.com/media/C8U--JkUMAAZUAN.jpg:large

アーウィン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926年〜1997年)

アメリカの詩人。ジャック・ケルアックウィリアム・バロウズと並ぶビートニク(Beatnik)文学を代表者するひとり。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0b/Allen_Ginsberg_1979_-_cropped.jpg/250px-Allen_Ginsberg_1979_-_cropped.jpg

ジャック・ケルアック - Wikipedia

ウィリアム・S・バロウズ - Wikipedia

1997年4月5日、ニューヨークのイースト・ヴィレッジで肝炎の合併症による肝臓がんで息をひきとった。70歳没。

ティモシー・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年)

アメリカの心理学者。集団精神療法の研究で評価され、ハーバード大学で教授となる。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c7/Timothy-Leary-Los-Angeles-1989.jpg

晩年は、宇宙移住をサイバースペースへの移住へと置き換え、コンピューター技術に携わった。コンピュータを1990年代のLSDに見立て、コンピュータを使って自分の脳を再プログラミングすることを提唱した。

ジョン・C・リリー(John Cunningham Lilly、1915年〜2001年)

アメリカ合衆国脳科学者。

イルカとのコミュニケーションを研究し映画『イルカの日(The Day of the Dolphin、1973年)』のモデルとなった事で知られる。
「イルカの日(The Day of the Dolphin、1973年)」- Wikipedia 

アイソレーション・タンク(感覚遮断タンク)の開発者としても有名で、こちらの研究はケン・ラッセル監督映画「アルタード・ステーツ/未知への挑戦(Altered states、1979年)」の題名で取り挙げられ、映画の主人公は彼とその変性意識状態がモデルと言われている。

ケン・ラッセル監督映画「アルタード・ステーツ/未知への挑戦(Altered states、1979年)」- Wikipedia 

生涯を通して一貫したテーマは意識におけるリアリティの研究であった。

多くの著書を残して2001年に死去。

ところで、ジョン・C・リリー「イルカと話す日(Communication Between Man and Dolphin 1994年)」には、ナショナリズム問題について、米国政治学ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」よりさらに一歩踏み込んだ記述が見られます。

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いつの時代も――少なくとも何万年という長きにわたって――ずっと変わらないものがある。それは、自分と自分たちの共同体が、宇宙の中で特別の歴史を持ち・特別の使命を帯び・特別の地位を占めていると信じたい人間の心である」。確かにむしろこの傾向を、あらゆる論理的思考に先立つ「本能」と認めてしまった方がいろいろスッキリとまとめやすいのです。

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  • もちろんこうした感情自体が「国民国家の国民統合」に直接役立つとは限らない。いやむしろ、かかる選民意識は(現実の国境や国民の国籍と一致しないケースが多いが故に)その邪魔をする可能性が高いとすら想定され得る。

いずれにせよ、こうした試行錯誤の結果が21世紀に残したのは(少なくとも国際SNS上の関心空間における情報の滞留状況を窺う限り、ビートニク詩人達が残した数々の美しい言葉の断片を除けば)以下のみだったりします。

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Q:「Turn on Tune in Drop out」とはどういう意味ですか?

Aティモシー・リアリー博士当人はこう説明しています。

  • "'Turn on' meant go within to activate your neural and genetic equipment. Become sensitive to the many and various levels of consciousness and the specific triggers that engage them. Drugs were one way to accomplish this end.
    「Turn on」というスローガンで主張したいのは(「RAVEせよ(自分に嘘をついてでも盛り上げよ)」という話ではなく)「(自らを包囲する外界に対するさならるJust Fitな適応を意識して)自らの神経を研ぎ澄まし、生来の素質を磨け」という事である。あらゆる状況に自らを曝せ。そして自分の意識がどう動くか細部まで徹底して観察し抜け。何が自分をそうさせるのか掌握せよ。ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない。
    *「ドラッグの試用はその手段の一つに過ぎない」…実際、当人も後に「コンピューターによる自らの脳の再プログラミング」の方が有効という結論に至っている。その意味では「汚れた街やサイバースペース(cyber space)への没入(Jack In)」も「デスゲーム(Death Game)に巻き込まれる事」も「異世界に転生する事」も手段としては完全に等価。
  • 'Tune in' meant interact harmoniously with the world around you - externalize, materialize, express your new internal perspectives. Drop out suggested an elective, selective, graceful process of detachment from involuntary or unconscious commitments.
    「Tune in」というスローガンで主張したいのは(「内面世界(Inner Space)の完成を目指せ」という話ではなく)「新たに掴んだ自らの内面性を表現せよ」という事である。自己感情を外在化し、具体化し、それでもなお自らを包囲し拘束する現実と「調和」せよ。
    *「Tune in」は「Turn in」とほぼ同義。ここで興味深いのはどちらにも「警察に届ける(問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う事)」というニュアンスが存在するという点。そして直感的には「in」の対語は「out」となるが「Turn out」とは「自らを包囲し拘束する現実」を「全面否定して引っ繰り返す」あるいは「諦念を伴って全面受容する」事。「Tune out」とは「黙殺を決め込む」事。だがあえてティモシー・リアリー博士はこうした選択オプションを嫌い「自らを包囲し拘束する現実」を突き抜けた向こうに「外側(Outside)」は存在しない(あるいはどれだけ無謀な進撃を続けても「現実」はどこまでも付いてくる)とする。無論(自らも専門家の一人でありながら)「問題解決を公権力あるいは専門家に委ね、後はその指示に従順に従う」という選択オプションも許容しない。マルコムX流に言うなら「「誰も人に自由、平等、正義を分け与える事は出来ない。それは自ら掴み取る形でしか得られないものなのだ(Nobody can give you freedom. Nobody can give you equality or justice or anything. If you're a man, you take it. )」、日本流に言うなら「誰にも人は救えない。それぞれが勝手に助かるだけだ」といった感じ?
  • 'Drop Out' meant self-reliance, a discovery of one's singularity, a commitment to mobility, choice, and change. 
    「Drop Out」というスローガンで主張したいのは「(本当の自分自身であり続けるために)現実社会から離脱せよ」という話ではなく「自立せよ」という事である。再発見された自らの個性に従った動性、選択、変化に専心せよ。
    *「Drop Out」は「Get off」とほぼ同義。ここで言いたいのはおそらく「解脱せよ」という事で、まさに「縁(自らを包囲し拘束する現実)からの解放」を主題とした原始仏教における「解脱」の原義はティモシー・リアリー博士の説明とぴったり重なる。ちなみに「Drop in」は「突然ぶらりと立ち寄る事」で、「オトラント城奇譚」作者として知られるホレス・ウォルポールが1754年に生み出した造語「セレンディピティserendipity、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。また、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること)との関連が認められる。「Get on」は「大き力に便乗する事(そしてそれによって成功を収める事)」。

Unhappily my explanations of this sequence of personal development were often misinterpreted to mean 'Get stoned and abandon all constructive activity.'"

残念ながら、こうした私の自己発達に関する言及は「ドラッグでラリって建設的なすべての行動から遠ざかる」というように誤解されている。 

*「ビートニク詩人達が残した数々の美しい言葉の断片」…アメリカ人の心にはウォルター・ホイットマン (Walter Whitman, 1819年〜1892年)の「草の葉(Leaves of Grass、1855年〜1891年)」を嚆矢とする「漂泊詩人」の永遠の居場所が存在するのである。
ウォルト・ホイットマン - Wikipedia

何かこう「(雑多な「個別的なるもの」の寄せ集めに過ぎない)ガムラマサラの処方箋の山から(万人の口に合う)カレー粉が調合されていくプロセス」でも目の当たりにした様な気分。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているのでしょうか?