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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

本当は恐ろしい国民国家形成過程①「バルト帝国」の没落開始と「帝政ロシア」の誕生

ベネディクト・アンダーソンの提示した「民衆ナショナリズム対公定ナショナリズム」の図式に例外が多いのはこれまでの投稿でもしてきましたが、中でも際立っているのは北欧における諸例。

  • かつて「北欧の獅子」スウェーデン王グスタフ2世アドルフ (英雄グスタフ・アドルフは「ゴート起源説」を引き下げ、フランスを誘って三十年戦争(1618~1648年)への乱入を果たした。これは「公定ナショナリズム」に分類可能なの?
    *ゴート起源説…ヨハンネス・マグヌス「ゴート人達とスウェーデン王国の歴史(1555年)」編纂中に創作されたスウェーデン王国建国神話。その起源をゲルマン民族大移動時代のゴート人やヴァンダル人にまで遡り、スウェーデンバルト海支配を正当化する内容だが、王統ヴァーサ家がポーランド・リトアニア共和国の国王選挙に進出する様になると封印される展開に。
    ゴート起源説 - Wikipedia

    http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-52-06/haguregumo_39/folder/449189/05/9908105/img_0

  • 19世紀後半になると北欧諸王が団結して「汎スカンディナヴィア主義」を熱狂的に扇動。ドイツ語圏の「汎ゲルマン主義」や帝政ロシアの「汎スラブ主義」に対抗する為だったが、第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(1864年)でデンマークオーストリアプロイセンの連合軍に大敗を喫すると自然消滅。これは「公定ナショナリズム」に分類可能なの?
    *元々各国の国民の間では「勢力対立を煽る」と不評だった。あくまでその背景にあったのは民衆ナショナリズムなどではなく「欧州王族間のつまらない意地の張り合いに巻き込まれるのを嫌う」中立主義だった。
    汎スカンディナヴィア主義 - Wikipedia

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/78/Skandinavism.jpg

  • そして産業革命導入による漁業革命(新しい漁法、冷蔵や缶詰製造の技術などの伝来)や探検ブームの到来によって対抗意識が芽生えると、自然に各国で国民意識の形成が進行していく。
    ノルウェー出身の探検家アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen、1872年〜1928年)はイギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日に探検隊を率いて人類史上初めて南極点への到達に成功。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たしている。

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    *その一方で当時の北欧君主達は「君臣一如」の体裁を貫く為、あえて「立憲君主化=象徴化」を甘んじて受容していく。それに対してドイツ帝国臣民達は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 在位1888年〜1918年)の暴走をどうしても食い止められなくて第一次世界大戦(1914年〜1918年)の遠因の一つを生み出してしまう。
  • 第一次世界大戦(1914年〜1915年)期には再び汎スカンディナヴィア主義が再燃し、三国協調を武器に中立を保ったが、戦乱の余波に乗じてアイスランドフィンランドが独立を達成。
    北欧史 - Wikipedia

    1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると北欧諸国は直ちに中立を表明。相互の安全のために強調しようとする機運が高まり、汎スカンディナヴィア主義が再び台頭した。

    • スウェーデンのグスタフ5世はこうした世論をいち早く察知し、同年12月、デンマークノルウェーに働きかけてマルメにおいて三国国王会議を実施。特に大戦による貿易の不振は各国の経済状況を著しく脅かしたので、これを解消すべく積極的な相互援助を行うことで合意した。
      スカンジナビア協議会…1914年、スウェーデンのマルメーで第1回が開催された。
    • こうした三国間の共同歩調の成果もあって前半期は比較的安定した状況が続いていたが、後半期になると連合国の海上封鎖強化などが影響し、食糧事情の悪化が次第に深刻化。穀物取引の政府経営や主要食料品の配給制といった対策が取られたが、行き詰まりは隠せず、国内情勢が不安定化していく。

    • デンマークヴァージン諸島をアメリカに割譲するなどして財政の窮状を凌いでいたが、これに乗じてアイスランドの独立問題が勃発。左派勢力を抑えきることが出来ないまま1918年、アイスランドの独立が承認されるに至った。また同年、ロシアの混乱に乗じてフィンランドが独立宣言を行っている。
      *何とか「主権・国民・国境」の三拍子を揃えた国民国家(Nation state)にとって、ナショナリズム(Nationarism=民族主義)が時として恐るべき分離主義運動に変貌してしまう一例。

    とはいえ、直接的な戦災は免れた為、その後の復興も迅速であった。

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ベネディクト・アンダーソンも欧州王族の大半が「外国人王朝」である事自体はちゃんと意識しているのですが、その血縁関係と公式プロパガンダナショナリズム高揚の為というより「外国との戦争の口実」に使われてきた歴史、そうした振る舞いに対する国民の醒めた視線についてはあまり自覚的でない様です。

*英国にも似た様な対立図式なら存在する。そして、それ故に1714年から1837年にかけてハノーヴァー公国との同君状態にあった英国王統サクス=コバーグ=ゴータ家(House of Saxe-Coburg-Gotha)は、立憲君主化とウィンザー家(House of Windsor)への改名を受容せざるを得なくなる展開に。戦前日本で憲法学者美濃部達吉らが提唱して社会問題に発展した天皇機関説について、とある皇族が「日本の皇統は中華王朝や欧州王朝のそれみたいな交換部品じゃないんで「機関」じゃなく「器官」と呼んでくれたら嬉しいな」とコメントしたという逸話がある。中国にも「秦の始皇帝ユダヤ人説」とかあるけど、それは「公定ナショナリズム」というより「ムー系」に分類される話だったりする。
ウィンザー朝 - Wikipedia

そして、こうした動きの後背には常に「帝政ロシア」の影が差してきたのでした。そしてベネディクト・アンダーソンによれば、この国こそオーストリア=ハプスブルグ家と双璧を為す「公定ナショナリズム震源地」という事になるのですが…

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ピョートル1世(Пётр I Алексеевич;羅Pyotr I Alekseevich, 1672年〜1725年)/モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1682年〜1725年)、初代ロシア皇帝/インペラートル(在位1721年〜1725年)/ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ / Пётр Вели́кий)

親政開始当初、ピョートルの対外政策は摂政ソフィア(Софья Алексеевна;Sophia Alekseyevna、在任1682年〜1689年)のそれを継承した内容だった。

  • すなわち南のオスマン帝国の脅威に対処すべく「アゾフ遠征(Азо́вские похо́дыAzovskiye Pokhody、1695年〜1696年)」を遂行。狙いは前政府よりもずっと控え目だったものの「アゾフ艦隊」と呼ばれるロシア最初の海軍創設に成功した。
    *ロシアが初めて手に入れた海への出口だったが、歴史のその時点における行動範囲はあくまで黒海内海のアゾフ海内に限られていた。

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  • それ以上はロシア単独で如何ともしがたい。だから有名な「大使節団」派遣の外交目的もまた、実は何よりもまずヨーロッパにおける反オスマン同盟の可能性を探る事に主眼が置かれていたのである。しかしながら、スペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Española、1701年〜1714年)前夜のヨーロッパに反オスマンでまとまる気配など微塵も見られなかった。
    *「大使節団(1697年3月〜翌1698年8月)」…軍事・科学・医学といった先進技術の吸収を目的としてヨーロッパに派遣された外交使節団。約250名のメンバーの中にピョートル当人もピョートル・ミハイロフ(Пётр Михайлов)なる偽名を使って混ざっていた。これは煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動する為と、公的にはモスクワを離れていないと内外に示す為だったと考えられている。

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そこでピョートルはその目を南から北へ180度転換し、黒海からバルト海への進出を志向する様になった。ウィーンからの帰路、ポーランド国王アウグストと密談。さらにはコペンハーゲンにも密使を送る。ロシア、ポーランド、そしてデンマークはかつてスウェーデンと戦い、いずれも領土を失った過去を共有する。こうして三国の間で対スウェーデン戦争の同盟が結成された。いわゆる「北方同盟」である。

土肥 恒之「興亡の世界史 ロシア・ロマノフ王朝の大地 」

当時のスウェーデン三十年戦争(1618~1648年)の英雄グスタフ・アドルフ以来の「軍事大国」で、バルト海制海権を握る「バルト海帝国」であった。

  • スカンジナヴィア半島だけでなく、バルト海南岸にも領土を持っていた。

  • 三国がこの機会に失われた領土回復の為に力を合わせて共に戦う決意を固めたのは、当時のスウェーデンが1697年に15歳の若いカール12世が即位したばかりだったからである。

1700年8月、ロシアはオスマン帝国との休戦を待って、スウェーデンに宣戦布告。
*欧州列強は1699年にオスマン帝国とカルロヴィッツ条約を締結して大トルコ戦争を終結させた。ロシアも1700年にコンスタンティノープル条約を結びアゾフ領有を認められている。

しかしカール一二世はコペンハーゲンに進軍して、デンマークを戦線から離脱させてしまう。若いにもかかわらず、カールは天賦の才能をもつ軍人で、古代のアレクサンドロス大王の崇拝者でもあったという。精鋭部隊とともにバルト海を航行してぺルナウに上陸した後、スウェーデンの要塞ナルヴァを包囲していたロシア軍を急襲。ロシア軍は敵軍よりもかなり規模が大きかったが、急拵えでロクな訓練も受けておらず多くの兵士が犠牲となり、砲兵隊を失った。ピョートルは緒戦で大敗北を喫したのである。

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彼がその場にいなかったこともしばしば問題視されてきたが、ともあれアゾフ遠征で得た名声は失われた。もしカールがそのままロシアに軍隊を進めていたならば、近代の「大国ロシア」は存在しなかっただろう。だがカールはそうしなかった。ポーランド攻撃に向かったのである。ロシアを料理するのはいつでもできると考えたのか、あるいは冬のロシアに深入りするのは危険とみなしたのか、もとより不明である。結局これが痛恨の誤算となってしまう。

カールはポーランド国王の首をすげ替え、傀儡政権を打ち立てることに成功したが、そのために七年を要した。この間にピョートルはナルヴァで崩れた戦時態勢を立て直すための時間的な余裕が与えられたのである。

1706年8月、カールはポーランド国王の出身地であるザクセンドイツ北東部)に滞在。いよいよモスクワに向けて大軍とともに出発したが、彼の軍隊がロシア国境に近づくと思わぬ景色が待っていた。ピョートルがあらかじめ付近一帯を焼き払って食糧などの「現地調達」を不可能としていたのである。いわゆる「焦土作戦」という奴だった。さらには南下していたカールの軍隊の補給部隊をレースナヤ村近くで襲撃。これを壊滅させてしまう。

しかしこの時ピョートルは耳を疑う知らせを受けた。「併合」後うまくいっていたはずのウクライナの首領マゼッパが裏切ったというのである。マゼッパはこの機会にスウェーデン軍の力を借りて、再び「ウクライナ独立」を試みたのだった。ピョートルの対応は迅速で、ただちに右腕メーンシコフを「本部」に派遣。反乱を最小限にとどめた。マゼッパとともにスウェーデン軍に移ったものはわずか数千であった。
マゼッパ (リスト) - Wikipedia

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両軍が全面的に対決したのはウクライナの要塞ポルタヴァにおいてである。カールの軍隊が長い遠征のために疲弊していたのに対して、ピョートルのロシア軍は完全に立て直されていた。規模はもとより、装備と訓練という点でもロシアロシア軍がはるかに優っていた。1709年6月27日、両軍は戦闘に入ったが、夕方までに勝負は決着した。スウェーデン軍は全滅した。カールとマゼッパは辛うじてドニエプル河を渡って、オスマン帝国領に逃れた。「ポルタヴァの戦い(ウクライナ語Полтавська битва;スウェーデン語Slaget vid Poltava;ロシア語Полтавская битва)」はロシアにとって大北方戦争の勝利を決定づける画期的な戦いとなったのである。

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これで戦争が終わったわけではない。カールはその後五年間、オスマン帝国領内のベンデリの地に留まってスルタンに執拗にロシア攻撃を働きかけた。そのため一度はピョートルのロシア軍は窮地に立たされたが、スウェーデンは劣勢を挽回することはできなかった。1714年には、スウェーデン海軍は「ハンゴー沖の海戦」で若いロシアのバルト海艦隊に敗北した。年末カールは長く留守にしていたスウェーデンに帰国したが、戦争のために国の経済は疲弊していた。1718年末、カールはノルウェー近くの要塞で流れ弾に当たって落命した。弾は前からではなく、後ろから飛んできた。つまり「内部犯行説」が有力であるが、真偽のほどは不明である。同盟軍が再び参戦し、プロイセンも加わった。ロシア軍がスウェーデン本土に上陸して攻撃をかけるにいたって、ようやく和平交渉が始まった。

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1721年8月末、フィンランド南部の小さな港町ニスタットで条約が締結された。スウェーデンは「スウェーデン領ポンメルン」を除くバルト海南岸の領土をすべて失い、「バルト海帝国」は解体された。ロシアはいわゆる「バルト三国」、つまりエストニアリヴォニア、イングリアを手に入れ、バルト海への出口を確保した。それ以上にこの戦いを通して「北東ヨーロッパ地域」の強国、ヘゲモニー国家となったのであり、それは現在にいたるまで続いている。

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ニスタットの和平の祝いは、ロシアでは一ヵ月間続けられた。ロシアはすでにモスクワからサンクト・ペテルブルクに遷都していたが、国の最高統治機関である元老院はピョートルに対して「祖国の父」「大帝」、そして「皇帝(インペラートル)」という肩書きを付与した。こうしてロシアは「皇帝」が治める国、「帝国(インぺリーヤ)」を名乗った。もとより「皇帝」「帝国」は由緒ある称号で、唯一「神聖ローマ帝国」があるだけだった。したがってヨーロッパの大国はすぐにそれを認めることはなかったが、それも時間の問題であった。ロシアがヨーロッパ国際政治に発言力を増すにつれて、「ロシア帝国」は定着したのである。こうして1721年から「帝政ロシア」という新時代に入ったのである。

徴兵制の導入

ピョートルの時代は20年以上におよぶ大北方戦争をはじめとして、戦争の連続であった。これは17世紀ヨーロッパ全体にいえることだが「平和」がむしろ例外なのである。

かつて歴史家クリュチェフスキーはピョートルにおける戦争と改革との関連について、「戦争がピョートルの改造的活動の主要な原動力であり」「戦争が改造の順序を指示し、それに速度と方法そのものを与えた。改造の諸方策は、戦争の押し付けた必要がそれらを招来した順に、一つ一つ続いた」と指摘した。この見解は的確なものだが、治世後半の改革には明らかな「計画性」が認められる点から、全面的に受け入れることはできない。とはいえ軍事改革については当面の戦争を抜きにして考えられないのである。

1705年2月、つまりナルヴァの敗戦後間もなくピョートルは「徴兵令」を出した。「20世帯から一人の良き、勤務に適した独身者」を兵士として出すように全国の村に指示したのである。具体的に誰を兵士として出すかは村に一任されていたが、ロシアの徴兵制はこうして始まった。同年12月には同じ基準で、再び徴兵が指示されたが、翌々年10月には独身・妻帯の区別は撤廃された。このようにしてほぼ毎年、徴兵が実施されたが、さすがにポルタヴァの勝利以後、徴兵の基準はかなり緩和された。1713年1月には「40世帯から1人」と半減され、翌年2月には「75世帯から1人」とされた。だが毎年の徴兵には変化はなく「兵士の滞納」に対しては矢のような催促が待っていた。ピョートル治世を通じて毎年全国の村々から平均2万人、初期には3万人もが兵士として徴用されたのである。当初は兵役に期限は設けられていなかった。徴兵は村と家族からの永久の切り離しを意味したのであり、農民たちから当然のように忌避された。それでも兵士を出さなければならない。村は一体どのように「人選」をしたのだろうか。

最も公平な方法は「クジ引き」で、そうした村もないわけではなかった。だが間もなく大勢となったのは、村のなかの「怠け者」「大酒飲み」を兵士として出すという懲罰的な方法であった。これには当時の村に特有の事情があった。農民たちは土地領主である貴族や修道院などに「地代」を納め、また国に対して租税を納めていたが、それらの支払いは村の連帯責任であった。つまり誰かの支払いが滞ると、村の農民全体にその分を追加で割当てるか、支払い能力のある農民が肩代わりした。こうしたシステムにあっては、貧しいもの、あるいは働きの悪いものは村のマイナス要因であった。「怠け者」「大酒飲み」は言語道断である。他方で豊かな農民を村から出すことは、それだけ村の経済力をみずから減らすことで、領主もそれを支持しなかった。こうして村は兵役を貧しい農民に押し付け、わずかばかりの支度金を持たせていわば村から「追放」したのである。

貴族の軍役義務

他方で農民兵士を指揮する将校たちはどうだろうか。将校はほぼ例外なく貴族であったが、この時代に彼らの勤務も著しく強化された。17世紀のロシア貴族達は戦争や遠征、あるいは国境警備のために「騎馬で、従者を連れ、そして武装して」出掛けた。そのほかの日々は、一定の条件で下賜された「封地」で過ごすことができた。けれどもピョートルの戦争は貴族たちのこうしたあり方を許さなかったのである。

北方戦争の開始からポルタヴァの戦いまで貴族の若者たちの登録、そして勤務可能なものの最大限の動員のためにさまざまな措置がとられた。1711年の元老院の設立によってかつての「補任官署」は廃止されたが、その役割は元老院付属の「紋章局」に移管された。そこで貴族の勤務登録がなされ「査閲」が実施された。また1714年の一子相続制の導入のねらいは貴族の土地所有権の強化であったが、それとともに「封地」の下賜システムは廃止された。このようにして貴族は「給与」を受ける代わりに「恒常的な国家勤務」を義務づけられたわけだが、その勤務についての最終的な仕上げが年功と功績に基づく「官等表」の公布(1722年)であった。

このようにピョートルは貴族たちの国家勤務、とりわけ軍役を義務づけた。彼らは病気で、あるいは負傷して戦列を離れるまで生涯勤務を余儀なくされた。ピョートルの立法は貴族たちの「退役」「休暇」休暇」にほとんど注意を払っておらず、彼らは父や祖父のように自分の村に住むことはできなかった。戦後ようやく個々の申請に対して4ヵ月、6ヵ月、12ヵ月の「休暇」が認められているが、完全な退役は二つの場合のみ赦された。ひとつは「陸軍参事会の裁可をもつ医師の証明、あるいは勅令」、もう一つは死亡である。

世帯税から人頭税

ピョートル改革のなかでも大問題の一つである人頭税の導入も戦争との直接的な関わりを持つものであった。ポルタヴァの戦いの前年の1708年、ピョートルは全国の世帯調査の実施を指示した。ロシアでは17世紀半ばから「世帯税」が導入されており、当時は「世帯」が課税単位であった。先にみた「徴兵」も村の世帯数に応じて課されたわけだが、その原簿は1678年から翌年にかけて実施された全国調査の結果作成されたものであった。つまりその後約30年間、全国調査は実施されていなかったのである。この間にも世帯数はかなり増えているに違いない、そうした増えた世帯数に課税課税することでより多くの税収が期待できるはずだというのが政府の目論見であった。

戦争の長期化によって、国庫は底をついていたのである。

新しい世帯調査は三年間かけて実施されたが、政府は意外な結果に驚いた。全体で課税世帯が79万世帯から63万5千世帯へ、つまり約20パーセントの減少という数字が示されたのである。一部増えた地域もあったが、多くの地域では減っており、全国の世帯数の3分の1を占めていた中央のモスクワ県では24%も減少していたのである。だが政府はこれを鵜吞みにしなかった。全国に派遣された調査官が「賄賂」を取って帳簿に少な目の数字を書き込むこと、また村の農民たちが課税を避けるために、世帯つまり小屋を取り壊して一つの「世帯」に集住することなどが行われていたからである。ロシアの農民の家は「ログ・ハウス」であって、建てるのも大した手間がかからないが、取り壊すのは「朝飯前」であった。このような不正は前回の調査の際にも確認されていた。こうして新しい数字は採用されず、それまでと同じく30年前の古い調査簿に基づいて課税されたのである。

その5年後、政府は再び全国の世帯調査を試みた。「ランドラート調査」と呼ばれるこのたびの調査は、中途の段階で判明した個々の数字が芳しくなく、中断された。ここでも政府は調査のさいの不正を疑った。ロシアにおいて地方行政はきわめて不備で、人手がなく網の目もきわめて粗い。威嚇的な指示だけでは如何ともしがたいものがあった。とりあえず元の調査簿に戻るしかなかったが、まもなくそうした欠陥を抜本的に改める新しい税制がフランスのそれにヒントを得て考案された。「世帯」ではなく、「人間」を課税単位とする人頭税がそれである。

1718年11月、ピョートルは次のような勅令を出した。「すべてすべてのものから申告書を取り(一年の期限を与える)、何村の何某のところに何名の男子がいるか、真実を上申せしむべし」。翌年一月の元老院勅令によって具体的な実施方法が示されたが、要点はただひとつ、すべての農村男子、つまり生まれたばかりの赤子から老人までの人口人口調査である。目的は課税単位を「世帯」から「人間」に変更することにあり、そのための調査であった。だがあらかじめ予測された不正や隠匿などのほかに、農村に在住する決して少なくない「ホロープ」と呼ばれる古来の「家内奴隷」、あるいは在所を不法に離れている逃亡農民、浮浪者、「自由人」の扱いなどさまざまな原因のために調査は長引いた。人口400万人という数字が得られたのは調査が始まってようやく2年後のことであった。

常備軍」の必要性

他方でピョートルは新しい税制について、単なる課税単位の変更だけでなく、当初からこれを軍事税として考えていた。つまりニスタットの和平によって北方戦争は勝利の裡に終結したものの、あるいはそれゆえにロシアにとって国際情勢はいぜんとして厳しいものがあったのである。それまでのように軍隊のほとんどを解散することは危険この上もなかった。

ヨーロッパと同様な「常備軍」を持たなければならないことは、ピョートルにとって自明であった。すでに年間維持維持費用は400万ルーブリと積算されていた。他方で戦争中に頻繁に導入された臨時税の多くは、終戦によって「戦争のため」という徴収の「大義名分」を失ってしまった。そこでピョートルはそれまでの「世帯税」に代えて、新たに「人頭税」を設けること、その際それまでの臨時税などのすべてを廃止するという税制の抜本的な改革に踏み切ったのである。

問題は税額である。

この点ピョートルは恐ろしく合理的であった。当初は400万ルーブリを人口400万で割って、1人1ルーブリとしていたが、その後の補充的調査で人口は一年後に500万、最終的には540万となった。それに応じて、税額も80コペイカ、さらに74コペイカへと引き下げられたのである。

未完に終わったものの、ピョートル大帝の一日一日を追跡するという詳細な『ピョートル大帝伝』を遺した歴史家ボゴスロフスキーは、この税制改革について「改革者はこの場合、国の経済力に注意を払う財政家財政家としてではなく、数字のみを操る算術家として行動した」と的確に指摘した。

かくして1724年から男子1人74コペイカの人頭税の徴収が始まる。

ソヴィエトの歴史家たちは新税の重さを強調してきたが、現在は反対の見解さえ生まれている。それはともかく、このように人頭税の導入という抜本的な財政改革は「戦争が押し付けた必要」であり、あらゆる意味で軍事的性格を帯びていたのである。

ロシア史全体の枠組みの中におけるピョートル大帝

ソヴィエトの崩壊は、当然のことながらロシアの歴史家たちに歴史の見直しという重い課題をつきつけた。ピョートル期および一八世紀ロシアに関する見直しについて最も積極的に発言しているのが科学アカデミー・ロシア史研究所のペテルブルク支部に属するエウゲニー・アニーシモフである。ソヴィエト末期に人頭税の導入に関する専門研究を刊行した後、一九八九年に『ピョートル改革の時代』という著作を書き、後にこの本は英語に翻訳された。いわばこの分野の第一人者だが、ここでは一九九六年秋に東京で開かれたシンポジウムの報告「ピョートル改革とロシアにとっての歴史的帰結」を取り上げることにしよう。

アニーシモフは、まず直前にロシアで行われたアンケート調査「あなたは、ロシア史のどの時代に最も誇りを感じますか」の結果を紹介している。それによると五四・三パーセント、つまり半数以上が「ピョートル大帝の時代」を第一位に挙げた。第二位はブレジネフ時代だが、ピョートル時代の三分の一以下で、大きく水をあけられていた。

ソヴィエト崩壊の五年後という時代的な背景を指摘したうえで、アニーシモフはロシア人の「大帝への共感」の理由として「カリスマ的指導者、家父長への伝統的な愛情」、そして「非の打ちどころのない国家的名声」、目的意識、勇気、一本気な性格といったこの人物の「個性が有する並外れた魅力」を挙げた。

これは世論調査のことだが、もとよりロシアの歴史家や文学者たちは三世紀にわたって「ピョートルの遺産」について研究と議論を続けてきた。そこでアニーシモフが「明白な結論」とするのは次の二点である。第一はピョートル改革の前夜に、すでに「歴史の風」は変革の方向に吹いていたこと、つまり社会のあらゆる分野で解決を必要とする危機が生まれていたことである。そして第二にピョートルは改革について考え得るすべての案のなかから「最も強硬かつ非妥協的で、ロシア社会に最も犠牲を強いる案」を選択したことである。ここで問題となるのは第二の点だが、それはさて措き、ピョートル大帝の目的はロシアの人びとを「洗礼を受けた熊」から「啓蒙された国民」へ変えることであった。

「熊」というのはロシア人の愛称で、決して軽蔑した言い方ではないが、その目的を達成するためにピョートルは専制と「強制的な手法」に頼った。つまり「強制を介しての進歩」が彼の改革の最大の特徴で、あらゆる分野で実践された。すでに多くの改革をやり遂げた後の一七二三年、ピョートルはみずから次のように書いた。

「もし教師から強制されなければ、わが国民は、勉強しない子供のように、決してアルファベットの学習に取り組むことはないであろう。当初は彼らにとって、いまいましく感じられるであろう。しかし修得した後には、感謝するものだ。このことは現状から見てきわめて明白である。なぜなら、ほとんど全ての政策が強制的に行われているが、すでに多くに対して感謝の言葉が聞かれるからである。(田中良英訳)」

だがアニーシモフは大帝の「強制的な手法」を厳しく批判している。またその弊害についても幾つかの事例を挙げながら具体的に議論を展開しているが、ピョートル改革の成果と影響の大きさについては次のような言葉でこれを認めている。

「我々は、今日に至るまで、ただかつてピョートル大帝が我々のために切り開いた歴史上の林道のみに沿って進んでいる」。

以上のようなアニーシモフの主張から明らかなように、ピョートル大帝による改革は「上からの革命」に等しかった。ロシアの「民族文化の一体性」に終止符を打ち、「二種類の国民」を生みだした改革は「革命」そのものであった。専制という「独裁システム」はこの時代の産物ではないが、ピョートルによって「一元化、固定化」されたのである。

ピョートル大帝は、こうしてロシア史の方向付けに決定的な役割を果たしたが、彼だけを例外視することは妥当でない。伝統ピョートル大帝は、こうしてロシア史の方向付けに決定的な役割を果たしたが、彼だけを例外視することは妥当でない。伝統的に専制的な権力をもつロシアの皇帝たちには、もし強い意志を持つならばその可能性が開かれていた。歴代のツァーリたちは権力の制限に敏感で、そして貴族も民衆も「強いツァーリ」に期待するところがあったのである。
*こうした「ロシア的家父長制」の伝統は「雷帝」イヴァン4世(Иван IV Васильевич / Ivan IV Vasil'evich、モスクワ大公(在位1533年〜1547年)、モスクワ・ロシア初代ツァーリ(在位1547年〜1574年、1576年〜1584年)にまで遡る。

*そしておそらく「科学的マルクス主義民主集中制」の大源流となったのである。

さすがのベネディクト・アンダーソンですら、当時からもう既に「ナショナリズムに基づく国民国家形成」が始まっっていたとはしていません。

しかしその一方でヴェルナー・ゾンバルト「戦争と資本主義(Krieg und Kapitalismus、1913年)」によれば、まさにこうした「常備軍の規模拡大とそれを養う為の税制整備」こそが国民国家形成の第一歩となるのです。

とはいえ実はこうした景色、何処かで見覚えがありませんか?

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  • 戦国時代(1467年/1493年〜1587年/1590年/1591年)に来日した伴天連(カソリック宣教師)は「この国における合戦の規模は、欧州のそれとは比べ物にならないほど巨大である」と書き残している。そして鉄砲が伝来するとたちまち国産化され、その日本全土における総数はオスマン帝国と同等レベルの装備量に到達したという。
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  • 無論それだけの規模の「常備軍」を養うのは並大抵の事ではない。江戸幕藩体制化ですら、どの大名も競い合う様に「検地」による石高算出に執着し続けたし、臣下の領主化を予防する為の代官制も急激な発展を見た。その一方で戦国時代の落とし子ともいうべき「惣村」は、大日本帝国時代に入ってすら「我が身は我が身で」戦鬪集団としての面影を留め続ける。

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  • 武家(将校=官僚)を(領主化を予防する為、その所領から引き剥すべく)大名の本拠地に集住させる思考様式自体は、近江六角氏が交通の要所に築造した観音寺城の城割において既に見受けられるという。これを織田信長豊臣秀吉も模倣。江戸幕藩体制化においても「徳川家の藩屏」旗本八万騎の大半は所領管轄の代官委任を余儀なくされている。

    旗本八万騎

    1722年の調査では総数約5,000人、御目見以下の御家人を含めても約17,000人の規模であった。ただし、旗本・御家人の家臣を含めると、およそ80,000人になるといわれている(これに対して、10万石の大名に許された兵力は2,155人である)。

    旗本で5,000石以上の者は、交代寄合を含み約100人。3,000石以上の者は約300人であり、旗本の9割は500石以下である。

    なお、宝永年間の記録によれば、旗本の地方高(知行地を与えられていた者の総禄高)は275.4万石で全体の64%を占め、切米・蔵米・扶持受給が石高換算で153.4万石を占めていた。知行地は全国に広がっているものの、関東地方が全体の8割を占め、特に江戸のある武蔵国が全国の旗本知行地の21%、近隣の上総国が12.5%、下総国が11.0%を占めていた。旗本家の多くは知行数百石程度であり、それらの知行地が関東に集中したため諸領が極端に細分化されてしまった。統一した支配が困難で治安悪化の原因となったため、後に関東取締出役が設置されることとなった。

    旗本は石高が低いわりには軍役負担が大きく、また石高調整のために相給が行なわれることが多く、極端な場合では13名の旗本が1村を分割知行するなどその支配は困難を極め、さらに江戸集住の原則から知行取・蔵米取を問わず早くから消費者化が進んだ。幕府成立から30年後の寛永年間には、早くも「旗本の窮乏化」が問題とされている。寛政の改革の棄捐令の背景も、こうした事情があった。

    また、小禄や無役の旗本は将軍に拝謁の資格があったものの、実際に拝謁できたのは家督相続・跡式相続のときのみであった。

    江戸時代初期には無頼化した旗本奴が存在し、男伊達を称して徒党を組み、市井の町奴と対立し、歌舞伎や講談の題材にもなった。
    *幕末になって近代戦には耐えられないと判断され、彼らの半知召上を財源として幕府歩兵隊が新設されている。博徒・やくざ・雲助・馬丁・火消といった江戸の無頼の徒まで徴募したガラの悪い部隊で、状況が不利と見て取るとあっという間に逃げ散ったり隙あらば乱暴狼藉に走る弱点もあったが、それでも一応はナポレオン三世から供与された最新兵器で武装し、フランス人武官の教練によって鍛え上げられた近代式軍隊であり、下手な武士よりよほど巧みに戦ったという。

  • 何より驚きなのは、それだけの規模の軍隊と火器がひしめいていながら「天下泰平」が宣言されるや否や国内から戦争が根絶やしにされた事だった。
    *実は戦国時代において既に「大量の火器を投入しての殲滅戦は、惨たらしいばかりで何の誉もない」現実を思い知らされており、誰もがそうした時代に戻りたくはないと考えていたのが大きかったとも。

①欧州の資本主義発展過程を俯瞰する限り、まずそれが始まる前提として「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義」から解放された庶民が「(市場ニーズに合わせて)柔軟に分業内容を組み替えていく」体制が存在しなければいけない様である。

  • スイスや北イタリアやオランダやベルギーやアメリカといった王政の影響が皆無かあるいは諸般の事情で政経分離が達成されてきた地域ではこの条件が自然に満たされてきた。

  • イングランドは(配下の諸侯に領主化を許さない)ノルマン朝(1066年〜1154年)時代の強権支配が政経分離状態の大源流となった。一方、絶対王政化の進行したフランスは、この条件を満たす為に革命時代(1789年〜1794年)や7月王政時代(1830年〜1848年)第一帝政時代(1804年〜1814年/1815年)や第二帝政時代(1852年から1870年)を経る必要があった。

  • ドイツ語圏では「(それまで経済分野は宮廷ユダヤ人に丸投げ状態だった)プロイセン王国ブルジョワ階層=軍人と官僚」が「ええとこどり」を狙って未知の領域に踏み込む。その影響は同様に「ええとこどり」を目論んだ大日本帝国(さらにはアメリカ)にまで及んだ。
    *「ええとこどり」最大の弱点、それはランダムシャッフルの結果として思わぬ組み合わせがサバイバルしてしまう展開にあるのかもしれない。大日本帝国世界恐慌と中国内戦激化によって政党政治家も財界人も面目を失って以降「(ナショナリズム民族主義)も自由主義も弾圧対象だった復古王政期(1815年〜1848年)のプロイセン王国時代で発案された)ヘーゲル哲学」を公定ナショナリズムの基本構図として採用した。しかし実はドイツ本国に「ヘーゲル哲学が公定ナショナリズムとして採用された時代」など全く存在しない。

    *ドイツ人は(一部インテリを除いて)おそらく「人間中心主義(Humanism)=英雄崇拝(Heroism)」が強過ぎて「(非人間的な)絶対精神への帰依の必然性」なんて理解出来ない。それで妥協の産物として「指導者原理(Führerprinzip)」なる概念が生まれたとも。

②江戸幕藩体制化の日本では、この条件が「戦国時代に大名が楽市楽座を通じて選別した御用商人と徹底的に癒着する事によって成立した自給自足体制」が「(参勤交代の為の交通インフラ整備を契機に成立した)株仲間=全国規模の富農・富商ネットワーク」に次第に侵食されて完全崩壊する事によって満たされたと考えられている。

そして、ヴェルナー・ゾンバルト「戦争と資本主義(Krieg und Kapitalismus、1913年)」は、イングランドやフランスや日本の様なタイプの国民国家の資本主義的発展前夜において、どうして「(各勢力内における)戦争の全人格化」を伴う激しい内戦時代が存在したかを厳しく問い糺(ただ)してくる訳です。

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無論全ての戦争の全人格化」が資本主義的発展を伴う訳ではなく、だからこそ(歪な資本主義的発展しか遂げられず)共産主義化という結末を迎えた帝政ロシア絶対王政と縁を切って立憲君主化 / 中立主義を樹立していく過程が産業革命導入期と重なる北欧諸国との分岐点がどこにあったか問われる訳なんです。

http://www.geocities.jp/torikai021/russojapan/resize0318.jpg

本当にそれは一体どこにあったのでしょうか?