富野由悠季監督が講演会において「君の名は」「この世界の片隅に」「ひるね姫」の三作品を「アニメーションVer2.0」と位置付けた様です。
富野由悠季監督の講演会。時折時事ネタやサ◯ライズへの愚痴なども織り交ぜて、饒舌に朗らかに語ってくれて終始面白かった。『君の名は。』『この世界の片隅に』『ひるね姫』の共通点として「リアリズム」を挙げて、それを起点に現代社会とアニメ映画の潮流を分析されていたのが印象的だった。
— チューシン倉 (@chusingura) 2017年4月23日
NHK富野講座メモ
— いわぽん (@iwapon73) 2017年4月23日
昨年の「君の名は」と「この世界の片隅に」そして今年の「ひるね姫」まで含めてアニメ第2世代という事を強く感じる。この三作に共通するのはリアリティのあり方で、所謂、現実との「地続き感」というものがより強く感じられ、そこが観客の共感を呼ぶのだと思う。#tomino
NHK富野講座メモ
— いわぽん (@iwapon73) 2017年4月23日
よりドラマに観客を集中させるという点において、実写で描くリアルが必ずしもリアリズムにはならない事の証左が「この世界の片隅に」であり、君の名は、ひるね姫と併せて一区切りついた感がある。それは宮崎作品を始めとしたそれ以前の日本アニメが歴史的位置付けになったという事
NHK富野講座
— いわぽん (@iwapon73) 2017年4月23日
ひるね姫を持ち出したのは、現在溢れているSNS系の小道具を、こうまで映画的に使う、という事を見せてくれたから。その組み合わせ論は私の世代のものではなく、これは神山監督の世代にして初めて出来た事で、これが現実との地続き感というものに繋がっている。#tomino
富野監督、ひるね姫の夢のシーンについて、「虚構を信じることができるという人類が人類たりえた条件」と解釈してたのは目から鱗というか、腑に落ちた
— nmr (@nmr32975713) 2017年4月23日
それにしては「ひるね姫」だけ興行成績が伴ってない。何故なの?
ところで神山健治作品「ひるね姫〜知らないワタシの物語〜(劇場映画版、小説版、Holu短編版)」では十分に描き切れてない部分が、白鳥士郎「のうりん(原作2011年〜、アニメ化2014年)」原作版にはそれなりにしっかり描き込まれているのです。
*「のうりん」原作における「ごった煮」感覚は「ひるね姫」と同じくらい凄まじいが、なまじ個々のトピックが綿密な実地取材に基づいているが故に一撃一撃が重く、アニメ化に際してはその「重さ」が極力排除された。こうした「軽薄性」を追求する姿勢は「ひるね姫」の製作態度とも重なってくる?
*韓国芸能界の展開はさらに悲惨。せっかくキム・ヒョナ「Trouble Maker(2011年)」2Ne1「NOLZA(2011年)」Psy「Gangnum Style(2012年)」などの国際的ヒットで世界に手が届きかけていたのに最終的には国内保守層の圧力に屈っし、自らの手で全てを握り潰す自滅的行動に出たのである。2Ne1なんて次のアルバムでは「韓国精神再注入の為に」トロット(韓国の演歌)を歌わされている。
*かつて「レディ・ガガは韓国青年を精神汚染させる悪魔の使い。決して神聖なる韓半島に足を踏み入れさせてはならない!!」と息巻き(来訪阻止失敗)、セーラー服コスプレAV購入者全員をペドフィリアとして精神病院送りにしようとした(部分的に成功。全員書類送検されて「前科者」となった)「韓国の煩型」を甘く見てはいけない。そして最近もこんな動きがあった。
*この辺り坂口安吾「夜長姫と耳男(1957年)」や米澤穂信「古典部シリーズ(原作2001年、アニメ化2012年)」といった「飛騨物」に対峙する「美濃物」の代表格の一つ「聲の形(A Silent Voice、原作2011年〜2014年、アニメ化2016年)」は恵まれていたとも。ちなみに日系ブラジル人をめぐるエピソードも白鳥士郎「のうりん」に遥かに辛辣なエピソードが収められている。
要するに何の話かというと「買い物弱者」にまつわる物語です。
まずはIOTの先駆けとして2020年のオリンピックで自動運転のお披露目があるらしい。ちなみにアニメひるね姫はこれをモチーフにしてます。
— ラノベ廃人 つやつや (@k5mewith871mon1) 2017年4月13日
4月14日、総務省は2016(平成28)年10月1日時点の人口推計を1億2693万3000人(外国人を含む)と発表しました。この結果から、日本の総人口は2008(平成20)年をピークに約110万人減少したことになります。
人口減少は社会や経済など、さまざまな分野に影響を及ぼします。それらは、私たちの暮らしに直結することもあります。そのひとつが、買い物です。日々、私たちは食料品をはじめシャンプーやトイレットペーパーといった日用品などを近所のスーパーや商店で購入しています。近年、生鮮食料品や日用品類を購入する店が相次いで閉店しているのです。
そのため、これまで当たり前のように購入できた日用品や生鮮食品が、簡単には手に入らなくなりつつあります。こうした社会状況に行政も動き出しました。
急増する買い物弱者 車がない若者や乳幼児の子育て世代も
「地域に根差したスーパーや商店が撤退・閉店している要因には、少子高齢化や人口減少、ネット通販の隆盛、大規模小売店による競争激化、後継者不在など、さまざまです」と話すのは経済産業省商務情報政策局流通政策課の担当者です。
経産省では日用品の買い物に不便をきたす人たちを買い物弱者と位置づけていますが、買い物弱者が行政課題として認識されるようになったのは約10年前まで遡ります。経産省は2009(平成21)年度に調査を開始し、2010(平成22)年に報告書を作成したのです。
当時、経産省は全国の買い物弱者を約600万人と推計。ところが、ここ数年間で社会状況は目まぐるしく変化しました。最近の調査で買い物弱者は100万人も増えて、約700万人と推計されています。
「700万人という数字は、あくまでも65歳以上の高齢者で日々の買い物に困っている人です。地方在住でありながら自動車免許を保有していない若者や乳幼児を抱えているために買い物で遠くまで出かけることができないパパ・ママなども買い物弱者といえます。そうした人たちを含めると、全国に1000万人程度の人たちが買い物弱者となっている可能性があるのです」(同)。
地価が高いため、小売店が出店できない。23区でも目立ち始めた買い物弱者
これまで買い物弱者を多く抱えていたのは、過疎化が進んでいる地方都市と思われがちでした。そのため、買い物弱者対策は地方の問題として受け取られていました。しかし、近年は東京23区内でも買い物弱者が目立つようになってきています。
都心部では生鮮食品を扱うコンビニやネット通販も登場し、宅配サービスをしているコンビニやスーパーも増えています。東京都心部なら生鮮食品や日用品の調達には困らず、買い物弱者問題は改善してきているような気もしますが……。
「そうした店舗によって、買い物弱者問題が解決したエリアも一部にはあります。しかし、都心部は地価が高いので、生鮮食品などを扱う小売店は採算面から出店しにくい環境にあります」(同)。
単身高齢者の急増、エレベーターのない団地、都心の生活スタイル……多様化する原因
さらに、東京では単身高齢者が急増していることも買い物弱者が増えている要因です。単身高齢者が買い物弱者であることは言うまでもありません。また、昭和30~40年代に建設された団地には5階建てでもエレベーターが設置されていないところが多く、高層階の住民が高齢化することで買い物弱者になってしまうケースもあります。
買い物弱者になるのは、高齢者ばかりではありません。都心部では普段の移動は鉄道などの公共交通を使うライフスタイルが定着しているため、日常の買い物は徒歩圏内で済ませるのが一般的です。近所の商店が閉店してしまえば、食料品・日用品を生活圏で購入できなくなります。
自動車を保有していなければ、健康的な若者でも買い物弱者に転落してしまいます。つまり、買い物弱者は、必ずしも地方都市だけの問題、高齢者の問題ではないのです。
地域の実態に合わせた対策必要
「買い物弱者が発生する要因は、千差万別です。そのため、その地域の実態に合わせた対策を探らなければなりません」(同)。
経産省では、買い物弱者対策のために自治体や民間事業者と協力してコミュニティバスを運行して買い物を支援することや移動販売車に地域を巡回してもらうなどの施策を講じています。バスを運行する場合はルートや曜日・時間の調整、移動販売車だと、どういった商店がなく何を販売するのがいいのか、といったことなど、地元の自治体や町内会などと協議・調整する項目も多岐にわたります。
「NPOや町内会に協力を仰ぎ、買い物の付き添いや代行サービスをおこなっている自治体もあります。そのほか、自治体が出資する第3セクターや公社が、生鮮食品や日用品を扱う店を出店することもあります。買い物難民対策は、地域の実情によって支援の内容が異なります。簡単には解決しない問題です」(同)。
買い物弱者対策が複雑に絡み合っていることは、経産省のほかにも、所管する官庁が内閣府・総務省・国土交通省・農林水産省・厚生労働省の1府5省にまたがっていることからもうかがえます。行政ばかりではなく、民間事業者・NPO・町内会など、買い物弱者対策は官民一体で取り組む必要に迫られています。
考えてみれば「ひるね姫」におけるモモタロー(ココネの父)が水面下で進めている「自動運転普及活動」には、こうした「買い物弱者救済」の意味合いもある訳です。
ところで、こうした「ひるね姫」の世界において、現実世界のイクミ(ココネの母)は自動操縦プログラムを開発していただけでしたが「ハートランド王国のエンシェン姫」が復活を目指していた「(かつては全ハートランド国民に幸福をもたらしていた)ココロネの魔法」は、より壮大かつ危険な側面も備えた技術だった様です。
- 渋滞を解決する道路交通管制システム
*これを巡る逸話は「Full短編版」にしか登場しない。現在は「自動運転プログラムとAI搭載信号機の組み合わせ」で実現する方向に進んでいるらしい。
「AI信号機」導入で交通渋滞を大幅緩和 – 米ピッツバーグの実験 - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース) - 敗残者(Loser)や新参者に再挑戦の機会を与えるシステム
*これを巡る逸話も「Full短編版」にしか登場しない。それも「(王国が禁じた)鬼の襲撃による犠牲者の救済」が描かれるだけだが「(自らも魔法生物でもある)鬼」に「(時々暴走して投資家にとんでもない被害を負わせる)HFT(High frequency trading=高頻度取引)」の含みを持たせると「敗者救済」の定義が、また異なってくる。
愛の日記
- 「鬼の襲来」に備えた都市防衛システム
*考えてみればギレルモ・デル・トロ監督映画「パシフィック・リム(Pacific Rim、2013年)」同様、「周囲を壁で覆う」選択肢などもあってしかるべきなのだが、そういった「国庫を食い潰す投資」は一切なされない辺り絶対王政時代の経済学を連想させる。また江戸時代日本の様に「富裕層が(貧困層の不満を逸らす目的もあって)有事に対する設備投資を担当する」システムも存在しない。さらに付け加えるなら「パシフィック・リム」に登場するイェーガーは一応「国際救助隊」の体裁をとるが「ハートランド王国のエンジンヘッド」は、あくまで「一国防御兵器」に過ぎない。
ハートランド王国を襲う鬼 - Divine-Gate.net - 国際的宇宙開発競争に参加する技術
*1960年代までは国家間競争が主だったが、それ以降次第に民間開発が盛んとなっていった。軍事技術の隣接分野なので国際的に左翼陣営の評判が悪いが、こうした展開抜きに現在の世界規模の通信網は存在し得なかった。
こうして断片を繋ぎ合わせていくと、思いも寄らぬハードな全体構造が浮かび上がってきてしまうのですね。
- そもそも「臣民に対する消費の強要」設定はオルダス・ハクスリーのディストピア小説「すばらしい新世界(Brave New World、1932年)」が初出とされる。
- そして「ココネの父」モモタロー / ピーチの立ち位置は20世紀末に流行したサイバーパンク小説における「反体制ハッカー」に限りなく近い。
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それにしても何故エンシェンは「魔女」扱いされ迫害されねばならなかったのか? 何故この世界では「魔法」がおぞましいものと認識されているのか? それは彼女が復活させようとしている「ココロネの魔法」がタウン・セキュリティの領域をはるかに超えた何か、すなわち「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の国民国家的ナショナリズム」や「(1990年代の人々が想像した様な)ネット接続によって全ての人間が個性を消失した全体主義社会」を連想させる何かだからなのではあるまいか?
*そういえば「ココロネの魔法」について終始ポジティブなイメージを抱き続けるエンシェンの「あどけなさ」には、伊藤計劃「ハーモニー( <harmony/>、原作2008年、2015年劇場アニメ化)」に登場するヒロインの一人で、最終的に世界に「調和(ハーモニー)」をもたらす事に成功する御冷ミァハと重なる部分がある。しかもそれは「ひるね姫」の現実世界においては「イクミ(母)からココネ(娘)に継承される何か」として表現されている。
このブログにおける私の立場はあくまで以下。
- 「ソ連におけるスターリン独裁体制(1924年/1929年~1953年)」や「(中国内戦に引きずられた)大日本帝国時代における軍国主義の暴走(1928年〜1945年)」や「(世界恐慌(1929年)に引き摺られた)ドイツでのナチス台頭(1933年〜1945年)」や「中国における大躍進政策(1958年〜1961年)や文化大革命(1966年〜1976年)」はあくまで総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の出来事であり、余程の事でもない限り同じ形で繰り返される事はない。
*もちろん北朝鮮や中国共産党内に残留する「周回遅れ組」には要注意。
- インターネット黎明期(1990年代)に独特の切実な不安感をもって語られた「ネット接続によって全ての人間が個性を消失した全体主義社会」というビジョンはインターネットが普及するにつれて次第に衰えていった。
*それと軸を合わせるかの様にサイバーパンク・ブームも沈静化に向かったが、これは一般に「世代交代」に失敗したせいと考えられている。
- むろん「こうした時代への逆戻り自体はない」事が「必ずそれより明るい未来が待ってる」事自体を保証してくれる訳ではない。というより、むしろ下手に手をこまねいていると「別の意味でもっと酷い未来」しか待ち構えていない可能性が高まる一方。何しろ果たして次の「安定期」がいかなる形となるか現段階ではまるで見えてない。
*とりあえず国際SNS上の関心空間においては、その回覧規模から2011年に「魔法少女まどか☆マギカ」「エンジェル・ウォーズ(Sucker Punch)」「BLOOD-C」に夢中になった女子アカウントが、昨年は「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story)」のゲイレン・アーソ(マッツ・ミケルセン)とゲイレン・アーソ(フェリシティ・ジョーンズ)の親子に夢中になった展開がメインストリームと認識されている。
こうした立場から、あくまで「どうして「ひるね姫」は(作品としての分かりやすさを捨ててまで)鑑賞者がこういう結論に容易に到達出来ない様に「迷宮」を張り巡らせなければならなかったのか?」問い糺し続ける立場を取らざるを得ないのです。
神山健治監督の新作劇場アニメ『ひるね姫』試写会に行った人のレビューwwwww 「第二の『ポッピンQ』爆誕!みたいな・・・」 | やらおん!
監督の神山が、
「自分の娘に観せたいと思う映画を作った」
みたいなこと言ってるらしいけど、
そう考えると合点がいくんだよ娘には自由になんでもさせてやりたい
親はなるべく見守っているだけにしてあげたい
人騒がせなことをしたら駆けつけてやらなきゃだが小さい頃に聞かせたおとぎ話を
高校生になっても信じているような
夢のある素直な子に育って欲しい
けれど、彼氏は作らないで欲しい
(さばさばした友達関係が理想)そのおとぎ話に込められた
親の愛情にいつか気づいて欲しいそういう映画なんだよな
観客向けじゃない観客を喜ばせるエンタテインメントとして映画を作った新海とは雲泥の差
それとも(「韓国芸能界の自滅」の前轍を回避するには)例えどれだけ興行成績を犠牲にしても「寝た子を起こさない」展開が優先されるのが、今の日本のエンターテイメント業界の現実であり限界なの?
ところで冒頭で名前の挙がった富野由悠季監督は「(スポンサーたる)玩具屋からの解放を志向した日本アニメ界の英雄」の一人でもあります。そして1916年に数多くの「意欲作」が登場し、概ね好評を得たのに映画版「神々の山稜」だけは全く顧みられる事なく忘れ去られていきました。
要するに映画版「神々の山稜」と「ひるね姫」に欠けていたのは「超越に向けての覚悟」だったのかもしれない?