これまでの投稿の参照のされ方を見ても、世間の関心はこういう方向に集中しつつある様です。とはいえ現実社会の変遷はもっと複雑怪奇とも。
「数値化」によって理論上全てがコンピューターで計算可能となった事は、対価として新たな問題を浮上させた。
- 公害による環境破壊や資源枯渇といった「数値化に際して視野外に置かれた要素」が数値そのものに与える影響の表面化。
- HFT(High Frequency Treading)やアルゴリズム取引の暴走といった「数値処理をコンピューターに任せる事」そのものが潜在的に抱える危険性。
こうした問題への対応はどうしても後手後手に回らざるを得ないのが 「利点(長所)」に対する「欠点(短所)」といえよう。
経済分野には「トリケルダウンなど空想の産物に過ぎず、実際に観測された事など一度もない」と主張する頑固党が存在しますが、コンピューター分野や核兵器やロケット開発分野における「技術のコモディティ化」まで否定する人はそうそういない感触です。だから鳥取県の年間予算規模の北朝鮮が核ミサイルを開発出来ちゃったりもする訳なんですが。
内閣府の「ミサイルが飛んできた時の対応」については「着弾地点からやや離れている場合などに被害軽減する為」であって「直撃、ないし至近に着弾したら諦めて下さい。あなたの仇は米軍がとってくれます。グッドラック。」とはそりゃ書けないわな
— おるぐり@烏取ポケモン赤チーム募集中 (@allgreen76b) 2017年4月28日
まぁ、こっちはこっちで「北朝鮮の脅威なんてアメリカ政府と日本政府がナチスを超えた独裁を完成させる口実に広めてる公定フェイク・ニュースの一つに過ぎない」と主張してる頑固党が存在する訳ですが。
*そして実際、少なくともトランプ政権やロシアや中国共産党が平然と公定フェイク・ニュースを撒き散らすのを戦略の一環としている事実は割と動かない。「北朝鮮の脅威そのもの」がフェイク・ニュースかどうかは別として。
そもそも、こうした「ヒヤリハットの時代」はどうやって幕を開けたのでしょう?
①その発想の起源自体は恐らく「米禍論」「東禍論」「黄禍論」が乱れ飛んだ19世紀末まで遡れます。「大量生産・大量消費」をモットーとする産業革命の進行もあって、欧州においては消費活動の主体が王侯貴族や教会からブルジョワ階層や庶民へと推移。それまで王侯貴族や教会の都合で動かされてきた国家間の外交も国民政府が接収。欧州大陸側においては、こうしたプロセスを経てやっと「(欧州における)国民主権国家」が登場したともいえる訳です。
- この意味における「国民国家化」は英国の方が遥かに先行していた。その背景として17世紀にまで遡る「欧州大陸部における宗教戦争や王侯貴族間の権力闘争からの離脱=経済的注力先の海外植民地へのシフト」が挙げられる。
- もちろんそれ自体は実際には「国民主権国家における外交権限の接収」とは程遠い歴史的展開であり、最終的にはホブスンが「帝国主義論(Imperialism: A Study、1902年)」において弾劾した原義における帝国主義(Imperialism)、すなわち「1860年代以降の大映英国拡大過程で顕著になった(大英帝国の国力を恣意的に利用したがっている)植民地有力者と(国民の目を海外に向けさせる事で内政面での行き詰まりを隠蔽したがっている)内地政治家の不誠実な癒着」によるボーア戦争(Boer War / Anglo Boer War、第一次1880年〜1881年、第二次1899年〜1902年)の泥沼化とこれによる大英帝国の疲弊へと辿り着いてしまう。
ホブスン帝国主義論における社会進化論的思考 - 経済学史学会
- 「社会進化論の祖」スペンサーと同郷のホブスンはロバート・キップリング同様「白人の責務」すなわち白人主導による「野蛮な有色人」の「文明化」を究極的には良い事と考えていた。だから当然彼の帝国主義論には「植民地解放運動への同情」など全く存在せず、その代わり「アフリカーナー(Afrikaner)=(ドイツ帝国の経済的繁栄にあやかった祖国の後援を受けた)ケープ植民地に入植したオランダ系移民の子孫たるボーア人達」と「(英仏のユグノー資本に後援された)英国系新興入植者達」の対立図式のみが執拗に描かれ続ける。国民主権国家はある意味「外交権」を王侯貴族や教会から接収するのに成功した途端に、それを(既得権益の墨守と拡大にしか興味がない)ブルジョワ階層に横領されてしまったとも。
アフリカーナー - Wikipedia
*そしてこの時代から「軍隊の機械化」が始まる。その先鞭をつけたのは「歩兵の自転車化」だった。第日本帝国においても銀輪部隊(自転車化歩兵)は(燃料供給が不要な)使い勝手の良い機動部隊として重用されていたという。特に第二次世界大戦(1939年〜1945年)の一環として戦われたマレー作戦(1941年〜1942年)においては「日本軍は海からくる」と決めつけて防衛計画を立てていた英国軍が55日間で1,100キロを進撃してきた銀輪部隊に背後から強襲されて壊滅している。たかが自転車、されど自転車なのである。
軍事利用されてきた自転車の歴史を辿ってみた。
トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争(1880年12月16日〜1881年3月23日)で、その為にトランスヴァール戦争 (Transvaal War) とも呼ばれる。
- 19世紀、17世紀ごろからケープ植民地に入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。オランダはドイツ帝国の経済的繁栄にあやかっており、カトリック勢力の突き上げにあいながら、英仏のユグノー資本から脅威と受け止められていた。
- イギリスのケープ占領とオランダの植民地譲渡により、ボーア人は新天地を求めてアフリカ大陸内部へ更なる植民を開始し、ズールー族を駆逐して1839年にナタール共和国を建設する。しかし、これは1843年のイギリス軍の侵攻により潰える。ボーア人は更に内陸部へ移動し、1852年にトランスヴァール共和国を、1854年にオレンジ自由国を設立。イギリスも両国を承認した。
- 1860年代以降、トランスヴァール東部で金鉱が、オレンジ自由国ではダイヤモンド鉱山が発見されると、白人の鉱山技師が大量に流入しはじめた。イギリスはこの技師たちの保護を大義名分としてオレンジ自由国を領有化する(この技師たちの中には、後にデ・ビアス社を創設するセシル・ローズも含まれていた)。
- 内陸にあったトランスヴァール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。しかし、この動きを警戒したイギリスはトランスヴァール共和国の併合を宣言し、ボーア人はこれに抵抗して1880年12月16日、ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。
- この戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。
- 1881年2月27日、マジュバ・ヒルの戦いで英国軍はボーア人に惨敗。これにより1881年3月23日、プレトリア協定が結ばれ、イギリスはトランスヴァール共和国の独立を再度承認することとなり、戦争は終結したものの大英帝国の面目は丸つぶれとなった。
この時の大英帝国は同年設立したオスマン債務管理局への傾倒によって敗戦の傷を癒そうとしたと考えられている。で仇をとるつもりでいた。
独立ボーア人共和国であるオレンジ自由国及びトランスヴァール共和国と大英帝国の間の戦争(1899年10月11日 - 1902年5月31日)。
- オスマン債務管理局にドイツの資本が割り込んできてイギリスはエジプトへ押し出されつつあった。 トランスヴァール共和国で豊富な金の鉱脈が発見されたことにより、英国の何千人もの鉱山技師たちがケープ植民地から流入を始めた。外国人が殺到し、鉱山近くに続々と住み着いたことから、ヨハネスブルグの街はほとんど一夜にしてスラム街と変わってしまった。
- これらの外国人はボーア人より多かったが、全体としてみればトランスヴァール共和国においては少数派のままだったのである。アフリカーナーたちは彼らに投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。これにより、外国人および英国人の鉱山主からボーア人政府打倒の圧力が高まっていた。
- 1895年、セシル・ローズはジェームソン (Jameson Raid) による武装クーデターを企てるが、失敗に終わる。
- 英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。英国植民地の重要なリーダーたちの中にもボーア人共和国の併合を支持する者がいたためである。このキーマンとされるのは、ケープ植民地の知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナー卿、英国植民地相ジョゼフ・チェンバレン、鉱業シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などである。ボーア人たちを攻め落とすことなど簡単だと確信していた彼らは、再び戦争を引き起そうとしていた。
- オレンジ自由国の大統領マルチナス・ステイン (Martinus Steyn) は、1899年5月30日にブルームフォンテーンでトランスヴァール共和国の大統領クルーガー及びミルナー卿との会議を開いたが、交渉はあっという間に決裂した。
- 1899年9月、チェンバレンはトランスヴァール共和国に対し、大英帝国臣民への完全に同等な権利を付与することを要求する最後通告を送った。だがクルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。
- イギリスは既にアフリカ大陸の東西両岸に海底ケーブルをもっていたので、開戦前の10月3日から電信の検閲に取り掛かった。またすでにサンクトペテルブルク会議で、参加国へ通知した上ならば電信を止めてよいとの言質を得ていたので、14日にコードとサイファーによる暗号電文の一切を禁じた。
イギリスは収容所戦略・焦土作戦などを国際的に批判されながら長期戦を戦い抜き、最後のボーア人を1902年5月に降伏させる。同月、フェリーニヒング条約を結んで終戦した。これにより英国は両国を併合。その後もイギリスは北へ進軍し、ドイツ領南西アフリカとドイツ領東アフリカを分断した。こうした対立構造の激化もまた第一次世界大戦(1914年〜1918年)の遠因の一つとなっていく。
- 19世紀、17世紀ごろからケープ植民地に入植していたオランダ系移民の子孫であるボーア人たちは、アフリカ南部の支配権を巡ってイギリスと激しく対立していた。オランダはドイツ帝国の経済的繁栄にあやかっており、カトリック勢力の突き上げにあいながら、英仏のユグノー資本から脅威と受け止められていた。
- 二月/三月革命(1948年〜1949年)における市民の台頭に根を上げたオーストリア=ハンガリー二重帝国は「欧州の憲兵」を自認する帝政ロシアに救援を求めた。
アレキサンドル・ゲルツィン 1849年
独「ホフマン・ウント・カンペ」誌 寄稿記事今や全ヨーロッパが議会やクラブや街頭や新聞紙面上でこう叫んでる。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
そう、ベルリンの『Krakehler』誌を飾ったあの言葉だ。
「ロシア人が来る!! ロシア人が来る!! ロシア人が来る!!」
実際ロシア人達は来つつある。いやもう既に来てしまった。
ハプスブルグ家の手引きで。
ホーエンツォレルン家の手引きがあれば、さらに先に進む。*歴史のこの時点において欧州大陸部においては主権国家(絶対王政)と市民社会が衝突したのだった。既に議会制民主主義に移行しつつあった諸国の側からすれば「あんたら何やってんの?」状態。
同様にボーア戦争による消耗でロシアとの勢力拮抗が難しくなった大英帝国は日清戦争(1894年〜1895年)においてアジア圏では突出した動きを見せ、三国干渉(1895年4月23日)におけるフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の要求の理不尽さに腹を立てていた大日本帝国を味方に引き込んだ。義和団の乱(1900年)を契機とする帝政ロシアの満州進駐とそれを武力で撃退した日露戦争(1904年〜1905年)。そして第一次世界大戦とロシア革命(1917年)にかこつけたシベリア出兵(Siberian Intervention、1918年〜1922年)。第一次世界大戦においてフランスと帝政ロシアが英国側についた主要因。まさしく「日本人が来る!! 日本人が来る!! 日本人が来る!!」と連呼される時代はこうして準備されていったのである。その一方で大日本帝国は、後世のイラクのサダム・フセイン(執権期1979年〜2003年)のバアス党政権(1968年〜2003年)が歩んだ様な「二河白道」路線を歩まざるを得なくなっていく。そして大英帝国同様「帝国主義の罠」に嵌まり込んでいくのであった。
*「満蒙は生命線」。軍国主義化した大日本帝国においては英国東インド会社に関する学術的研究書が発禁扱いを受けている。当時の日本陸軍によっては見当違いのナチス呼ばわりより遥かに「関東軍って(大英帝国に破滅をもたらした)東インド会社や南アフリカ共和国みたいな存在だよね」と指摘される方がよっぽど恐ろしかったのである。
いずれにせよ「日露戦争(1904年〜1805年)」における大日本帝国の帝政ロシアに対する辛勝と、すかさずそれを利用した大英帝国の外交手腕があったからこそ第一次世界大戦(1914年〜1918年)において帝政ロシアと(日露戦争における事実上のロシア側金主だった)フランスは英国側となった次第。
スイスや北欧の国民主権国家は絶対中立を国是とするスタンスに到達しましたが、この意味における「周回遅れ組」たるドイツ帝国・オーストリアー=ハンガリー二重帝国・オスマン帝国を対立陣営とする形で第一次世界大戦(1914年〜1918年)が勃発。国民主権国家間の対立構造が世界史を牽引した、いわゆる「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」が始まります。
*「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」…「冷戦時代=米ソの対立が世界動向を主導する世界」とは、要するに欧州が二度の世界大戦によって「世界の中心の座」を失った時代でもあった。
- この観点から見て一番不幸だったのは、なまじ地政学上商業の中心地となる条件を満たしていたが故に伝統的に「欧州大戦が始まると真っ先に戦場となる」宿命を抱えてきたオランダとベルギーだったかもしれない。これはもうフランク帝国が東西に分裂した時からのフランドル地方の特徴なので致し方ない。
*国際SNS上の関心空間における「ご注文はうさぎですか?(Is the order a rabbit?、原作2010年〜、アニメ化12014年)」の思わぬ規模での国際人気を支えたのは「欧州人にもフランス系かドイツ系か見定めるのが困難な」ストラスブール(仏英Strasbourg、アルザス語Schdroosburi、アレマン語Strossburi、独 Straßburg)をモデル都市に選んだ事だった。実はこの辺りに「ディズニーはどうすfればフランス知識人に対する不評を払拭可能か」の鍵が眠ってる気がする。
②ただ、歴史のこの段階における「世界最終戦争論」は、あくまで「(国民と国家資源の全てを動員する)国民国家の規模が全てを決する」といった観念に過ぎず「決着を一瞬で決める最終兵器」なんてイメージはあくまで想定の範囲外だったのです。
- あくまでオルダス・ハクスリー「すばらしい新世界(Brave New World、1932年)」において「核の恐怖」が描かれる事はなかったし、レイ・ブラッドベリ「華氏451度(Fahrenheit 451、原作1953年、映画化1966年)」に描かれた「世界最終戦争」のイメージは第二次世界大戦(1939年〜1945年)当時における大空襲とV2号によるロンドン爆撃の延長線上のイメージに他ならなかったのである。
その一方で当時の「現実」は、大衆的想像力の遥か先を突っ走っていたのでした。
月のいたずら(1960年)
1960年10月、グリーンランドの早期警報レーダー基地でアメリカに対する核攻撃が検出。軍関係者に動揺が走った。
グリーンランド西北部、カーナーク(Qaanaaq)の未編入飛地にあるアメリカ空軍の軍事基地。アメリカ空軍の基地では、最北にあるものであり、北緯76度32分西経68度42分に位置する。これは北極点から1,500kmほどしか離れていない。
- グリーンランドにアメリカ軍の基地が設置されたのは、第二次世界大戦中であった。1941年にデンマーク本国がドイツ軍に占領されたために、アメリカ軍がグリーンランドを保護したことによる。第二次世界大戦中から戦後にかけて、チューレは気象観測基地となっており、小規模な滑走路などが設置されていた。
- 1950年11月にチューレに爆撃機用の基地を設置する計画がアメリカ空軍で決定され、1951年6月にはグリーンランドがNATOの防衛担当地域となった。
*冷戦期において、ソ連とアメリカの最短経路は北極を経由するものであり、北極圏にあるグリーンランドは軍事的に重要な位置にあった。つまり、ソ連を爆撃する爆撃機の発進・経由地として適した位置にあり、またソ連爆撃機の迎撃に適した地点であった。- チューレ空軍基地建設は1951年7月より秘密裏に始まり1953年にほぼ完成した。基地の主要部分は1951年夏季中に完成しており、150を超える建物が建設された。1953年から1959年にかけては戦略航空軍団のB-36、B-47爆撃機、KC-97空中給油機などが配備されていた。
- 1961年には弾道ミサイル早期警戒システム(BMEWS)のレーダーが設置されている。
1960年代前半がチューレが最も活発であった時期であり、配置された要員も1万人を超えていた。以降は、基地が縮小され、1968年には常駐人員が約3,370名となった。
北アメリカ航空宇宙防衛司令部も大いに色めき立ったが、ふとこう考える者がいた。「なぜソ連は首脳が対話のためにアメリカにいるこのタイミングで攻撃を行うのだろうか?」と。こうして警報の再確認がなされ、どうやら空を昇る月が誤報の原因であることが判明した。
既に1950年代後半から既に様々な動きがありました。アメリカ人にとっては「黄金の1950年代」の終わりの始まり。
- スプートニク・ショック(Sputnik crisis、1957年10月4日のソ連による人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功の報により、アメリカ合衆国を始めとする西側諸国の政府や社会に走った、衝撃や危機感)を契機とする米ソ宇宙開発競争(Space Race、1957年〜1975年)の勃発。
コンピューターの活用はもはや宇宙船設計においても必要不可欠なものとなり、宇宙センターの建設、飛行計画のためのプログラミングなどにIBMのコンピューターとスタッフ達がその力を発揮したのである。
1956年に「スペース・コンピューター・センター」をワシントンのペンシルバニア・アベニューにオープンさせたのを皮切りに、主要な宇宙センターを次々と開設。マーキュリー有人宇宙飛行(1959年〜1963年)においても1963年とその翌年に行われたミッションにおいてもIBMスタッフとコンピューターシステムがヒューストンのNASAコントロール・ネットワークから軌道修正を行い,1969年のアポロ11号の月飛行に際してもIBMのコンピューターが宇宙船から地球に送られてくる膨大なデータを着実に処理した。
- 「SAGE(Semi Automatic Ground Environment、半自動式防空管制組織,1958年〜1984年)」 の運用開始
当時の米国防空体制は爆撃機が侵入してきたのを検知してから迎撃機を離陸させ、人力で迎撃地点を手動計算、それから無線で誘導を行っていた。しかしジェット機と核爆弾が実用化されると「ただでさえ検知の難しい低空からジェット爆撃機で進入されるとわずか数分で対応せねばならず、しかも対応失敗が核攻撃成功に直結する」という恐ろしい事態となる。またすべてのレーダー施設から検知の報告が殺到するとそれを捌くオペレーターが大量の報告で過負荷状態に陥るという問題も急浮上してきた。
- これらの問題を解決するには全自動化しかなく、そのためにも全レーダー施設から検知を1つのコンピューターに集中させて処理、オペレーターは迎撃目標と迎撃方法をコンピューターに指示してすべての通信を高速化、リアルタイムに迎撃するシステムが必要になった訳である。実際に構築されたのは複数の大型コンピュータを使用してレーダー施設からのメッセージを集め要撃機に送るシステムで、世界各地のテレタイプ端末から集められた情報が戦闘機の基地のテレタイプ端末に送られる最初のオンラインシステムのひとつ。インターネットがまだ無かった頃に米国本土をすべてカバーするためにあちこちのレーダー施設とネットワーク接続べく世界で初めてモデムを搭載しネットワーク接続されたコンピューターになった。また初めてCRTモニターが搭載されたと同時にライトガンと呼ばれるライトペンでモニター上の標的をタッチすることによって情報を得たり攻撃の指示を与えられる仕様が採用され世界初のタッチスクリーンインターフェースの実用例ともなったのである。さらに世界で初めて磁気コアメモリーを使用し150人までのリアルタイム使用を可能とした。
- システムは全部で27基のコンピューターによって構成され、各コンピューターは6万本の真空管・17万5000個のダイオード・1万2000個の最新式トランジスターを使っており、毎日数百本の真空管が交換されていた。真空管は実際には1時間に1本ずつしか故障しないものの診断プログラムによって危なそうな真空管を予防的措置として交換。各センターには真空管交換専門のスタッフがいて、交換部品を満載したショッピングカートを押してマシンの中を行ったり来たりしていた。しかもシステム全体が二重化されており、予備のシステムが常に電源が入って稼働しているホットスタンバイ状態であった為にシステムがダウンするのは年間わずか2時間か3時間程度だったという。
計画全体で80億ドル(約7545億円)から120億ドル(1兆1317億円)を使用。核爆弾を開発したマンハッタン計画を上回るコストで、底面積そのものは地球シミュレータに負けるが、単一プロセッサーのシステムとしては史上最大、今後も破られることはないと予想されている。
- これらの問題を解決するには全自動化しかなく、そのためにも全レーダー施設から検知を1つのコンピューターに集中させて処理、オペレーターは迎撃目標と迎撃方法をコンピューターに指示してすべての通信を高速化、リアルタイムに迎撃するシステムが必要になった訳である。実際に構築されたのは複数の大型コンピュータを使用してレーダー施設からのメッセージを集め要撃機に送るシステムで、世界各地のテレタイプ端末から集められた情報が戦闘機の基地のテレタイプ端末に送られる最初のオンラインシステムのひとつ。インターネットがまだ無かった頃に米国本土をすべてカバーするためにあちこちのレーダー施設とネットワーク接続べく世界で初めてモデムを搭載しネットワーク接続されたコンピューターになった。また初めてCRTモニターが搭載されたと同時にライトガンと呼ばれるライトペンでモニター上の標的をタッチすることによって情報を得たり攻撃の指示を与えられる仕様が採用され世界初のタッチスクリーンインターフェースの実用例ともなったのである。さらに世界で初めて磁気コアメモリーを使用し150人までのリアルタイム使用を可能とした。
- 1953年3月時点では地球上に存在した高速ランダムアクセス・メモリは合計五三キロバイトに過ぎなかった。しかし1950年代後半、IBMが急速に世界中のコンピューター市場規模を急拡大させていく。その流れを主導したのは500万6bit(3.75MB)もの「大容量」で世界を驚愕させたロッカーほどの大きさのHDDドライブユニットの大量出荷だった。そのIBMは「ディスケット(diskette)」すなわちFDD(Floppy Disk Drive)ユニットの発明者としても歴史にその名を残している。かくして世界は「キロバイトの世界」から「メガバイトの世界」へと足を踏み入れて行ったのだった。
*共産主義圏と資本主義圏のコンピューター技術の差が開き始めたのもまさにこの時代。イノベーション(Inovation、技術革新)は「国民国家内における熾烈な権力闘争」より「国際的に解放された開発者達の自由な協調体制」が引き起こすという現実が如実に示された展開となった。
それまで「コンピューター(Computer)」といったら複雑な計算業務に携わる人間の専門技術者を指したのです。ところが次第にこの分野の「機械化」が始まります。
そして黒澤明監督は映画「いきものの記録(1955年)」の中で「米ソが核戦争状態に突入すると撃墜された核ミサイルが次々と中間領域たる日本に落ちてくる恐怖」を描きましたが、その観念が「原水爆実験によって古代の怪獣が蘇る恐怖」を描いた「原子怪獣現わる(The Beast from 20,000 Fathoms、1953年)」や「ゴジラ第一作(Godzilla、1954年)」ほど大衆の熱狂的人気を獲得する事はなかったのです。
*しかしながら「現実の恐怖」は「大衆的想像力」を遥かに超えた次元で展開していきます。やっと「大衆的想像力」が「現実の恐怖」に追いついたのは米国天文学者カール・セーガンがTV番組「コスモス(COSMOS、1980年)」を通じて「核の冬(Nuclear winter)」なる表現を国際的に広めた1970年代後半〜1980年代前半とも。
*むしろ当時の大衆的想像力を掻き立てたのはイアン・フレミング「007 サンダーボール作戦(原作1961年、映画化1965年)」の様な「核開発戦争を巡る苛烈なスパイ謀略戦」だったりした。
ゴールズボロ空軍機事故(1961年)
1961年1月、2発のマーク39核爆弾を搭載していたB-52爆撃機が墜落。その際、ノースカロライナ州ゴールズボロ上空で8メガトンの核爆弾が脱落するという事故が発生した。
当時、米政府は爆弾が起爆したかもしれない可能性について否定しているが、2013年に公開された機密文書から、片方については非常に危険であったことが判明している。
報告書では、核兵器の安全性について監修したパーカー・ジョーンズが、「単純なダイナモ技術の低電圧スイッチが、アメリカと破滅の間に立ちはだかった」と述べている。核爆弾は広島型の250倍の威力があり、風向きによっては致死的な死の灰がニューヨークまで到達した可能性もあったという。
B-59潜水艦(1962年)
キューバ危機の緊張が最高潮に達していた10月27日、1隻のソ連潜水艦が静かに潜行していた。これを検出した米海軍の軍艦は、手榴弾程度の小型機雷を投下。実はこれは浮上せよのサインであったのだが、それをソ連のクルーは知らなかった。
反対に米軍側が知らなかったのは、B-59が広島型原爆に匹敵する核魚雷を搭載していたことだ。潜水艦は爆発で左右に揺れ、艦内の温度は38度を超えた。潜水艦の艦長にとって攻撃を受けていることは明らかで、魚雷発射の是非を問うた。発射には幹部3人の賛成が必要であったが、たった1人、ワシリー・アルヒーポフ副艦長だけが反対した。彼は攻撃を受けているわけではなく、浮上のサインであると艦長を説得。
マクナマラ元米国防長官は、「人々が想像している以上に核戦争はすぐそこまで迫っていた」と語っている。
ダルース空軍基地への侵入者(1962年)
1962年10月深夜、キューバ危機の緊張は最高潮に達した。核兵器を搭載した爆撃機が飛行し、世界は平和裡に解決が図られるよう固唾を飲んで見守っていた。
ときを同じくして、ダルース空軍基地の衛兵がフェンスを登ろうとしている謎の人影を目撃。数回発砲し、侵入者ありの警報を鳴らした。これは付近の基地で同種の警報を鳴らすよう設定されたものだったが、ボルクフィールド空軍基地では違う警報が鳴った――それは第三次世界大戦の勃発を告げる警報であった。
パイロットが召集され、戦闘機や核兵器を搭載した爆撃機に搭乗し、ランウェイに並んだ。そして今まさにロシアへ向けて核攻撃を開始せんとしたそのとき、1台のトラックが大慌てでやってきた。そしてパイロットに誤報であることを知らせようと、懸命にライトを明滅させた。
混乱したクマであった。
磁気嵐で米空軍がソ連への全面核攻撃を決断(1967年)
1967年5月に太陽の活動が異常に活発化し、地球で観測史上最大級の磁気嵐が発生した際、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)の大陸間弾道ミサイル(ICBM)監視レーダーが故障。米空軍が旧ソ連による妨害と勘違いして一時、攻撃準備態勢を取っていた。
当時は東西冷戦とベトナム戦争のさなか。この事件で「宇宙天気予報」の重要性が改めて認識され、太陽活動や地球磁気圏の観測が強化されたという。1967年7月には米国の核実験監視衛星が宇宙の天体で起きる謎の爆発現象「ガンマ線バースト」が初めて観測されている。
67年5月18日には太陽に黒点が多数出現し、23日にフレアと呼ばれる爆発現象が発生。放出された大量の高エネルギー粒子が地球に飛来し、磁気圏が大きな影響を受けた。米南部でもオーロラが見えたという。
NORADは米アラスカ州とグリーンランド、英国にICBMを警戒するレーダーを設置していたが、全て故障。旧ソ連による妨害、戦争行為とみた米空軍は攻撃のため航空機を発進させる寸前に至ったが、磁気嵐が原因との情報が軍首脳に上がり、中止された。
そしてさらにコンピューター技術のコモディティ(日常品)化が進行し「オフコン(Office Computer)」「パソコン(Personal Computer)」なる鬼子まで登場してくる時代には「上からの計算癖の全人格化」はさらなる上の次元に突入していきます。
*当時は奇しくも「TV系サイバーパンク」登場前夜。最初期の「サイバースペース・カウボーイ」は国家規模プロジェクトや元軍人という設定が多かった。ゲーム機やパソコンの普及が時代を変えていったのである。
演習を実戦と勘違い(1979年)
北アメリカ航空宇宙防衛司令部のプログラマーが危うく第三次世界大戦の引き金を引きかけた。彼らはコンピューターシステム上でソ連の攻撃を想定したシミュレーションを稼働していた。ところが、そのシステムがネットワークを経由して、国中の防衛システムに模擬攻撃データを送信してしまっていたのだ。
パイロットは家族に別れを告げ、戦闘機が緊急発進。軍は緊張に包まれた。しかし後にシミュレーションであることが報告され、安堵のため息がつかれた。
誤報(1983年)
1983年9月、ソ連の核兵器早期警報システムがアメリカから発射された大陸間弾道ミサイル数発を検出。5発のミサイルがソ連へ向かっていることを告げた。
しかし基地の司令官だったスタニスラフ・ペトロフは警報が誤りであると判断。本当に攻撃が行われたのだとら、5発どころか、数百発のミサイルが発射されただろうと説明した。
幸いにも彼は正しかった。その夜のソ連による報復攻撃を食い止めたペトロフは、人類の救世主である。誤報の原因は、高高度の雲に珍しい角度で日光が当たったことだとされている。
この過程で情報は(その起源を18世紀まで遡る)パンチカード・システム時代と(第二次世界大戦の落とし子たる)磁気テープ時代を経て電子化され、次いでコンピューター化されていったのです。そしてこうした流れの延長線上において1980年代から量子コンピューター実用化に関する議論が本格化し、1990年代には「あくまで人間性の模倣を追求してきた人間中心主義から脱却し、純粋に数理 / アルゴリズムの研鑽のみを追求する様になった」第三世代人工知能が登場してくる訳です。
そして2000年代後半から2010年代前半にかけてはインターネット上において「トラフイック革命」が進行。
こうした流れの現段階における最先端の動きがこれ?
*ちなみに国民が大飢饉の都度餓死や人肉食を強要されてきた北朝鮮においては庶民レベルまで「最終的に北朝鮮はこの最終戦争に勝利し、全日本人を拷問と輪姦の末にガス室送りにして韓国人を奴隷化して彼らから接収した資産で世界最大の富強国に成り上がる」みたいなプロパガンダ教育が徹底しているといわれている。
*実際、2014年頃国際SNS上の関心空間において浸透戦らしきものを見掛けたが、流石に「大日本帝国が慰安婦として強制徴用したのは最低でも2000万人以上で、彼女達の平均寿命は概ね2週間以下。証拠隠滅の為に死体は骨まで食い尽くされた」「こんな人食い人種を同じ人間扱いしてるのはお人好しなアメリカ人くらい。カナダでもメキシコでも、日本人を見掛けたら全財産を奪って輪姦して殺し、その屍肉でBBQパーティーを開催するのが通常対応。アメリカ人こそ人類平等の観念に疎い後進国のレイシスト集団なんだよ(人類平等の理念を復活させる為、世界中のリベラリストは日本人を同じ人間と見做したレイシスト全員に対して強奪・輪姦・殺害といった正義を行使し、その死体の肉を喜んで食べ尽くさねばならない。そんな事も平然と遂行出来ない様な似非リベラリストは全員「世界史上最低最悪の先天的ナチス劣等民族」たる日本人の同類だから親兄弟でも同じ目に遭わせる覚悟が不可欠。そもそも北朝鮮人だけが人肉食を強要されたという事実そのものが人類不平等の根源なのであり、人類平等は「悪人は全財産を奪い、輪姦し、屠殺した末その屍肉を賞味するのが国際正義」と考える文化の共有によってのみ達成される)」といったプロパガンダは殆ど同調者を得られなかった様である。
2008年に北朝鮮から脱出したAさんは、北朝鮮の人権侵害状況についてこう語る。「そもそも北朝鮮には、“人権”という概念がありません。人民は金正恩第一書記の一族とその取り巻きに支配され、彼らに奉仕する存在でしかないのです。理由もなく逮捕され、収容所に入れられれば家族はバラバラにされます。満足な食料もないので、生きるために看守に身を売る女性も多いです。脱北しようとして警備兵に捕まり、目の前で妻と娘が性的暴行された事件もあります。こんな悲惨な話が北朝鮮では吐いて捨てるほどあるのです」
*ネット上の韓国人コミュニティによれば、こういう国柄ゆえに「他国における人権蹂躙は北朝鮮を遥かに超えているという指摘」も滅茶苦茶な内容にならざるを得ないのが北朝鮮のそれのプロパガンダの特徴という。
反応したのはKKKや今日でいうオルタナ右翼層といった白人至上主義団体くらい。彼らが「いずれにせよ有色人種同士が殺し合ってその数を減らす事は国際平和に貢献する」とコメントすると、そうしたプロパガンダを仕掛けてきた側は「我々は白人から名誉白人に選ばれた。それはつまり我々は日本人や韓国人を好き放題にして良い特権を安堵されたという事だ」と認識して感動していた。
オランダ植民地における「名誉白人」
米国政治学者ベネディクト・アンダーソン「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)によれば「名誉白人」の概念の起源は日露戦争(1904年〜1905年)の勝者となった大日本帝国臣民に対するオランダ植民地における態度の「軟化」だったという。根底にあったのは「出来れば大日本帝国臣民を敵に回したくない」という発想で、太平洋戦争(1941年〜1945年)勃発によってそれまでの努力が全て無に帰す展開に。
アフリカーンス語で「分離、隔離」の意味を持つ言葉で、特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。大もとは17世紀以来のものであるが、アパルトヘイトという言葉は、1913年の「原住民土地法」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。
- かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカ共和国において1948年に法制として確立され、以後強力に推進された。
- 元々はボーア戦争以来、統治側のイギリス人とアフリカーナー(オランダ系入植者の子孫)が激しく対立していたことに対する緩和策のひとつであった。アフリカーナーの多くはイギリス系に対し経済的な弱者となり「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していた。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的に、さまざまな立法がおこなわれてきた。
- 1911年「鉱山労働法」:人種により職種や賃金を制限し、熟練労働を白人のみに制限した。
- 1913年「原住民土地法」:アフリカ人の居留地を定め、居留地外のアフリカ人の土地取得や保有、貸借を禁じた。
- 1926年「産業調整法」:労使間の調停機構が設立され労働者の保護立法のさきがけとなるが、アフリカ人労働者は労働者の範囲からはずされた。このため、以後は白人の労働組合のみが労働者を代表することとなった。
- 1927年「背徳法」:異人種間の性交渉を禁じた。
- さらに、1924年に白人労働者の支持の元成立したジェームズ・ヘルツォーク政権は、鉱山労働以外の製造業にもカラーバー(人種割り当て)を拡大して、白人労働者とそれ以外の労働者の雇用比率を規定し、さらに白人労働者は非熟練労働者でもアフリカ人よりも高給を与えられるようにした[3]。しかし、第二次世界大戦中の好景気などを背景に黒人の発言力が増大し、当時の与党である連合党がわずかに譲歩の姿勢を見せたことで、それに不満を持ち黒人封じ込めを訴える国民党が選挙に勝利したことで、アパルトヘイトが実施される運びとなったのである。
ただし導入当初から批判的な者が国内外に存在し1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。
南アフリカの「名誉白人」場合
南アフリカ共和国で行われていたアパルトヘイトの下では、外国人を含めて、有色人種は総じて差別的な扱いを受けてきた。ただしインド系人種や白人との混血の者は議会の議席など、黒人には認められない一定の権利が認められ、有色人種の中でも待遇の違いがあった。
日本の国籍を有する者は、1961年1月19日から、経済上の都合から「名誉白人」扱いとされていた。欧米諸国がアパルトヘイトを続ける南アフリカとの経済関係を人道的理由により縮小する一方で、日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国になる。国際的に孤立していた南アフリカと数少ない国交を持っていた中華民国(台湾)籍の者は白人として扱われた。ただしこれらの扱いはあくまで国策上の法的措置であり、民間における差別感情やそれにともなう差別行為がなかったわけではない。
1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日に国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)。アパルトヘイトに対する国際的な非難と世界的な経済制裁が強まる中、南アフリカとの経済的交流を積極的に続ける日本の姿勢もまた批判の対象となり、1988年に国連総会で採択された「南アフリカ制裁決議案」の中で、日本は名指しで非難された。
一方で、19世紀のゴールドラッシュでやってきた中国系移民もアパルトヘイトの対象となったものの、黒人経済権限付与計画や積極的差別是正措置が適用されていなかったため、大きな問題となっていたが、2008年6月18日に南アフリカの高等裁判所において、中国系住民を黒人と同様に扱うという、逆転的な適用を受けることとなった。
ナチス政権下で一部のユダヤ人などが名誉アーリア人として扱われ、ホロコーストなどからも除外されていた。
また、当時ナチスは『我が闘争』(アドルフ・ヒトラー著)に書いてある通り、アーリア人こそが至高だと考えるアーリアン学説を掲げており、アジア人を含む異色人種をアーリア人に次ぐ二流民族と差別していた。ヒトラーが若い頃に書いた『我が闘争』では日本人も差別対象に含まれていたが、三国同盟を結んで日本が友邦になると一転して日本人を名誉アーリア人種として整合性を図った。
「名誉黒人」なる逆転構造
一方、平等を求める活動から逆に名誉黒人の称号を授与された白人の黒人権利擁護運動家などもいる。
*多様性の確保を最優先課題と考える第三世代と対立したラディカル・フェミニズム問題とも関連してくるが、要するに「憎むべき相手を模倣したがる傾向」とも。
なんたる「国民主権国家」のパロディ? これこそまさにミサイル技術や核兵器開発のコモデティ(日常品)化の暗黒面? さらにはナチズムまでもがコモデティ(日常品)化されていく…