諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史外伝④ 「昭和元禄」の象徴「巨人・大鳳・卵焼き」の裏側で

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たかが卵焼き。されど卵焼き…

それが日本の庶民にまで市民権を得たのは、意外にも戦後になってからとも。

 巨人・大鵬・卵焼き - Wikipedia

昭和時代(戦後期)の流行語。「子ども(を含めた大衆)に人気のあるもの」の代名詞として、以下を並べたものである。

生みの親は作家で経済企画庁長官も務めた堺屋太一とされる。堺屋が通商産業省(現在の経済産業省)の官僚だった1961年(昭和36年度)の経済報告の記者会見の席で「子供たちはみんな、巨人、大鵬、卵焼きが好き」と話して広まることになった。もとは若手官僚の間で、強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという。

『巨人・大鵬・卵焼き』の言葉は昭和40年代前半から昭和45年頃の昭和元禄の時期の文化を背景にして誕生した流行語である。

 巨人にとっての「昭和元禄」。

当時の巨人は川上哲治監督の徹底した管理野球による手堅い勝利の積み重ねで、空前絶後ともいえるV9(9連覇)を実現した。

  • しかし、長嶋をはじめ主軸だったメンバーも年齢を積み重ねて衰えが出たり怪我に泣かされるようになり、1973年(昭和48年)のリーグ優勝は最終戦までもつれ込んだ。

  • 1974年(昭和49年)中日ドラゴンズのリーグ優勝により10連覇が阻止されると川上監督は辞任、長嶋も引退して川上巨人は終焉を迎える。

昭和30年代 - 昭和40年代の巨人と大鵬の手堅さによる安定感は、同時期の佐藤栄作率いる自由民主党政権と共通した高度経済成長期の様子がうかがえる。

大鵬にとっての「昭和元禄」

1940年(昭和15年)生まれの大鵬は、1956年(昭和31年)に才能を見出されて二所ノ関部屋に入門して初土俵を踏んだ。

  • 1960年(昭和35年)に初入幕。11月場所で優勝して大関に昇進。1961年(昭和36年)9月場所に3回目の優勝をして、異例の早さで横綱に昇進した。

  • 好敵手の柏戸が同時に横綱に昇進し、以後両者が横綱に在位した期間は「柏鵬時代」と呼ばれる。その後1971年(昭和46年)の引退までに優勝32回という前人未踏の記録を樹立した(この記録は、第69代横綱白鵬翔が、2015年(平成27年初場所に33回目の優勝を達成するまで破られなかった)。

  • 大鵬は猛烈な稽古によって打ち立てられた手堅く負けない相撲を基本として、度重なる怪我もやはり激しい稽古によって克服した。大鵬は美男子としても評判だった。

  • 大鵬自身は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある。その理由は、大鵬自身がプロ野球アンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体で行う競技の野球と個人で行う競技の大相撲を同一視されなくない気持ちがあったためであるという。大鵬は相撲を取るための天才と言われたら、自分は天才ではなく努力家であると反論した。「巨人のスーパースターである長嶋茂雄と同列に見られたり引き合いに出されたりしたが、自分はあのような天才でもなければスターでもない、南海の野村克也のような下から苦労した努力型で、ああいう選手に親しみを感じる」「自分くらい努力した人間はいない。稽古も人一倍やった。巨人・大鵬・卵焼きを言われた時は冗談じゃないと思った。いい選手をそろえた巨人と裸一貫稽古稽古で横綱になった自分が何で一緒なのか。天才という響きは生まれつき持って生まれた素質の良さだけで、そんなに努力しなくても勝てるというニュアンスが感じられて余計嫌だった、むしろ柏戸の方が怪我のためにあまり稽古しないのに、あんなに強かった点では『大鵬より柏戸の方が天才』」と大鵬は述べている。

大鵬は自伝に『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』という題名を付けた。その中で「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語について、自分の相撲は安心して見られるから素人受けしたのが理由と述べている。なお、大鵬は前述の通りアンチ巨人であったが、巨人の選手の中でも自身と同じく典型的な努力型の選手で、なおかつ自身と同じ1940年(昭和15年)5月生まれでもある王貞治とは大変親しく、青年時代には大鵬と王は一緒に酒を飲む仲であった。

卵焼きにとっての「昭和元禄」

1960年代には、高度経済成長による所得増加と共に他の諸物価も急上昇。しかし卵については、1950年代から現代に至るまで、価格の変動がほとんどなく「物価の優等生」と呼ばれた。

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黒澤明監督映画「酔いどれ天使(1949年)」の舞台は終戦直後の東京下町の盛り場で闇市がある。闇市の商店は、ヤクザの縄張りに支配されていて、松永(三船敏郎)は、そのあたりの顔役である。結核を患っている松永に、真田医師(志村喬)が卵を買って行くシーンがあるが「できたての卵1ヶ18円」となっていた。当時の盛りそば1杯は、15円くらいだから卵1個の値段が400-500円とは驚く。

  • 1950年代までは卵は高価な食材であり、庶民が日常で食べられるものではなかったのだが、1960年代に至って庶民も毎日食べられる食材となった。

卵焼きが「子供たちの好きなもの」として特筆されるようになった背景には、そんな時代展開が存在したのである。

そういえば昭和元禄(1960年代後半)の直前には東京オリンピック(1964年)に向けての風紀粛清を背景として以下の様な文化が断絶の憂き目を見ています。

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  • 太陽族映画(1950年〜1951年)」が描いた「危ない湘南」の世界。
    *「狂った果実(1950年)」がジャン=リュック・ゴダール監督映画「勝手にしやがれ(À bout de souffle、1960年)」「気狂いピエロ(Pierrot le fou、1965年)」に強い影響を与え、国際的に「(「フレンチ・コネクション(The French Connection、1971年)」などで活写された、ユニオン・コルスなどが暗躍する)危ない南仏」や「(サーフィンのメッカながら裏通りは治安が徹底して悪い)危ないアメリカ西海岸」と結びつけて考えられる様になり、現在では日本の貴重な観光資源の一つとなっている。

    *米国において「日本通」層とアニメ・ファン層はかなりの度合いで重なっているので、よさこいに打ち込む鎌倉の女子高生を描いた浜弓場双「ハナヤマタ(原作2011年〜、アニメ化2014年)」の湘南回に思わぬ反響があった。「おいおい湘南っていうのは世間知らずの御嬢様方が気軽に足を踏み入れられる場所なのかい?」「彼女達はただの女子高生ではない。忍者パルクールの使い手や居合抜きの達人やダンス・マスター(日本舞踊とバレーを両修)の集まりだ。裏通りを徘徊するチンピラなんて目じゃないのさ」。何そのバトル漫画、逆に面白そうじゃない…

    2D girl enthusiast

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    Tumblr is bad for school

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  • 品川赤線地帯の消失」を嘆いた川島雄三映画「幕末太陽傳(1957年)」が描いた「危ない品川」の世界。品川宿に潜伏した長州藩尊王攘夷志士による英国公使館焼き討ち事件(1863年)に取材した内容。

    御殿山外国公使館の建設と焼き討ち事件

  • 黒澤明監督映画が「醉いどれ天使(1948年)から「天国と地獄(1963年)」「赤ひげ先生(1965年)」にかけて描いてきた「(決して埋まらない)ドヤ街と大富豪の邸宅の貧富格差」の世界。

日本初のTV特撮ヒーロー番組「月光仮面(1958年〜1959年)」の時代にマーチャンダイズ戦略など存在し得なかったといいます。それが「(縁日で稼ぐ)テキ屋の縄張りを荒らす許されない振る舞い」だったからです。「高度成長期日本で展開した急激な食生活の洋食化」といったムーブメントもまた、日本がこうした「仄暗き不可侵領域」から脱却していく過程の一環として正確に理解されねばなりません。

*当時における「時代の空気の変化」は、例えば男性向けファッション誌としてスタートした「平凡パンチ(1964年〜1988年)」創刊当時の苦労を描いた回想録である赤木洋一「平凡パンチ1964(2004年)」などに詳しい。近年国際SNS上の関心空間で俎上に上る様になった「Weeaboo(欧米における狂信的日本文化信者)とWestaboo(日本における狂信的欧米文化信者)の対峙状況」の原風景でもある。
平凡パンチ - Wikipedia
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平凡パンチの創刊号: 窮々自適

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*そういえば(地回りのヤクザや愚連隊の職能を脅かす)警備業の登場もこの時代に端を発していたりする。

考えてみれば「(戦前日本にまで遡る)モダーンなイメージ」は(日本人が欧米文化に触れる最前線でもあった)悪所の印象と随分重なり合っていて、1930年代から1940年代にかけて軍国主義者と社会主義者の双方の神経を逆撫でしていたのです。
*そもそも軍国主義社会主義「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の落とし子たる全体主義信仰の産物だったから「贅沢は敵」「資本家階層とブルジョワは皆殺しにせよ」みたいな論点ではしばしば共闘の気配を漂わせている。

ところが(むしろそれ故に)太平洋戦争(1941年〜1945年)敗戦と戦後復興期を契機に「(軍国主義者と社会主義者が共に信奉した)国民国家ナショナリズムと(欧米文化への耽溺を含む)退廃主義が鋭く対峙する図式」は再構築を余儀なくされます。別にイデオロギー的問題とかそういう次元ではなく「復員兵は、すっかり肉じゃがやカレーライスやウィスキーの味の虜になっていた」みたいなエピソードがこの構造を壊してしまったのです。かくして日本全国に大衆向けの「街の洋食屋さん」が立ち並び「一銭洋食」の世界が大衆に公然と受容されていく展開に。

当然こうした歴史的展開が「日本の卵料理の世界」に何の影響も与えなかった筈がありません。

オムライス - Wikipedia

ケチャップで味付けしたライス(チキンライスまたはバターライス)を、オムレツのような鶏卵で包んだ米飯料理で、日本の洋食の一つである。この名称はフランス語のomeletteと英語のriceを組み合わせた和製外来語である(煉瓦亭では「rice omlet」と訳されている)。

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フライパンに割りほぐした鶏卵を入れて焼いて半熟にし、ケチャップ味のライスを包む。紡錘型に成形された上からケチャップやデミグラスソース、ベシャメルソースなどをかける例が一般的。オムライスにカレーやハヤシライスのソース、シチューなどをかけることもあり、それらは「オムカレー」や「オムハヤシ」「オムシチュー」のように「オム○○○」と呼称されることが多い(「シチューオムライス」のような呼び方もある)。チキンライスの代わりに焼きそばを卵で包んだものは「オムそば」と呼ばれる。

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家庭でも多く作られているうえ、創作オムライス店による様々な派生品も存在する。「オムライス発祥の店」を自称する店は多数あるが、東京銀座の「煉瓦亭」もしくは大阪心斎橋の「北極星」が有名である。

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  • 「煉瓦亭のオムライス」は、1900年(明治33年)に溶き卵に白飯やピーマン、マッシュルームの具を混ぜて焼いた賄い料理として作られた。忙しい厨房でも片手で食べられるように考案されたものである。時期は不明ではあるが、これを客が食べたいと所望したため、「ライスオムレツ」として供されるようになった。現在はこれを「元祖オムライス」という名前で提供しているが、ライスを卵で包んでいないほぼ具入りの卵焼きと言える製法など、現在一般的に認知されているオムライスとは別物である。

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  • その後、このライスオムレツ以外にも、一般的なオムライス(マッシュルームに、ひき肉、グリーンピースとお米が入っている)も提供をおこなっている。なお、報知新聞に1903年(明治36年)より掲載された小説『食道楽』(村井弦斎・著)の付録には、「米のオムレツ」としてオムライスとおぼしき料理が掲載されており、ケチャップを使用していないことからも「煉瓦亭」の商品を食べたうえでの執筆の可能性が示唆されている。他、銀座の4軒ほどの西洋料理屋で研究が行われ、現在のオムライスに近いものが作られたともされている。

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  • 北極星のオムライス」は、ケチャップライスを卵で包んだものである。1925年(大正14年)に白飯とオムレツを別々に頼んでいた、胃が弱い常連客を見ていた店主の「いつも同じものでは可哀そうだから」という思いから生まれたとされている。

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小菅桂子は「オムライスはチャブ屋(小規模な庶民向けの洋食屋)から生まれた」とする日比谷・松本楼料理長辻村の証言を紹介している。チャブ屋で誕生したオムライスが、後に西洋料理店に逆移入したものであろうという。

チャブ屋 - Wikipedia

1860年代から1930年代の日本において、日本在住の外国人や、外国船の船乗りを相手にした「あいまい宿」の俗称。「横浜独自の売春宿」といわれることもあるが、函館や神戸など他の港町にも存在していた。又、食事やダンス、社交など買春以外の目的で遊びに来る客もおり、必ずしも「売春宿」とは言い切れない。

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  • 語源には諸説あり、英語の軽食屋「CHOP HOUSE(チョップ・ハウス)」が訛ったもの、という説が有力。ほかにアメリカ式中華料理を指す「チャプスイ」が語源、という説もある。
    *「チョップ・ハウス」…北米特有のプレハブ式レストラン「ダイナー(diner)」の概念のさらなる起源でもある。
    ダイナー - Wikipedia

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  • 1階はダンスホールとバーカウンターでピアノの生演奏やSPレコードによる伴奏があり、2階に個室が並んでいた。

  • 横浜のチャブ屋が特に有名で、中区本牧の小港地区および石川町の大丸谷(現在のイタリア山中腹)に集中していた。とくに有名だったのが、小港の「キヨホテル」。谷崎潤一郎1920年大正9年)に横浜に居を移したが、横浜ではじめの住居となった「本牧宮原883」は、「キヨホテル(当時の屋号はキヨ・ハウス)」のすぐ隣であった。この「キヨホテル」の女給「メリケンお浜」はかなりの売れっ子で、語りぐさになるほどだったという。

  • 1864年に結ばれた「横浜居留地覚書」により、横浜の山手・根岸・本牧地区を結ぶ外国人遊歩道が建設された。その道沿いに16軒の茶屋がつくられ、女性が対応したのが始まりとされる。その後、山下町の前田橋付近を中心に外国の船員相手・商人相手の「あいまい宿」が軒を連ねるようになったが、関東大震災で壊滅。震災後、本牧の小港地区と震災の被害を受けなかった石川町の大丸谷(現・イタリア山中腹)の二カ所で、あくまで「ホテル」という建前で営業を許可された。

第二次世界大戦直後に若い進駐軍兵士を相手にする歓楽街として再興したが、戦前とは別ものといえるほど様相が異なったという。遊廓同様、最終的には売春禁止法の施行で消滅した。

まずは「チャブ屋」の歴史を紐解くことに。名前の由来と同様に「チャブ屋」の起源も諸説ある。1つめは“外国人遊歩道に設置された休憩所が「チャブ屋」になった”という説。

  • 1857(安政4)年、幕府はアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヶ国と通商条約を結んだ。この条約の中には、居留地の外国人の行動範囲を規制した“開放場の遊歩規定”を定めていた。これは外国人の行動範囲を規制したものだが、必ずしも守られていたわけではなかったのだ(『横浜チャブ屋物語』<重富昭夫>)。攘夷(じょうい、外国人を国内から追い出そうとする動き)の嵐が吹きまくっていた最中、1862(文久2)年に「生麦事件」が起きてしまう。

  • そこで幕府は居留地にいる外国人の安全をはかるべく、1865(慶応元)年に外国人遊歩道を完成させた。外国人遊歩道は普通地蔵坂下が起点になっており、地蔵坂上から桜道を下って千代崎町で二手に分かれる。本牧、間門、不動坂、根岸競馬場、山元町を通って地蔵坂上に戻る周遊コースの本線。もう一方は北方を通り、十二天が終点になっている支線で成り立っている(外国人遊歩道の距離は「約8.5キロ」)。

  • 幕府は外国人の行動を監視すべく、遊歩道沿いの民家13軒に外国人相手の休憩所を開店させた。“単なる休憩所”が次第に酒類や料理を提供し、「外国人を接待する場」に。やがて外国人船員を相手にする私娼窟(認可されていない娼婦がいる場)になっていったようだ。

2つめの説は“海の家や宿屋が「チャブ屋」に移行した”というもの。

  • その昔、本牧海岸は“十二天の海”ともいわれており、海水浴を楽しむ外国人が集まっていた。そして次第に海の家や宿屋が開業。その後、「風俗営業に移行した」と唱える人もいるとのこと。1963(昭和38)年、横浜市が施行した「本牧埠頭関連産業用地造成事業」により埋め立てが開始され、本牧の海水浴場は消失した。

幕府により外国人遊歩道に設置された休憩所は当初、わずか13軒だったが、1877(明治10)年には北方・本牧方面に30軒が出現。しかし、設備が整っていなかったため、「客の大半は下級船員だった」。

  • 1882(明治15)年には本牧天徳寺下の「春木屋」や上台の「梅木」など、一流どころのチャブ屋が次々とオープンし、流行期に入る。建物は次第に洋風に改装された。すると、外国人は「馬車でチャブ屋に乗りつける」ようになったらしい。明治末期、これらの店は屋号を「××ハウス」に改称。大正に入ると、「〇〇ホテル」と変更した。

  • 「チャブ屋」の全盛期は明治末期から大正初期ごろ。全盛期を迎えたのは日清・日露(1894<明治27>年~1904<明治37>年)戦争を中心にし、対外貿易が盛んになったから。外国人の往来が頻繁になり、チャブ屋はますます繁盛するように。日清戦争前には本牧に30軒、北方に10軒、桜道地蔵坂辺りに5、6軒のチャブ屋が出現。約10年後には市内各所に広まった。

  • 1919~20(大正8~9)年ごろになると、警察当局は各地に散在していた「チャブ屋」を「一区域で営業させる」という方針を決定。本牧・原方面の「チャブ屋」は小港へ、関内埋立地方面の店は山手の大丸谷(だいまるや)に集めた。当時、小港には26軒、大丸谷は16軒の「チャブ屋」が集中。小港には約200人、大丸谷は100人ほどの「チャブ屋女」がいた。

  • 「客層は本牧と大丸谷により異なっていた」と長沢さん。「本牧は上級、大丸谷は下級船員が中心」だったようだ。また、客の国籍も違っており、小港は日本人もいたが「大丸谷は外国人専門」だった。

このころの「チャブ屋」はかつての遊郭とは趣が異なり、“ダンスホール+バー+スナック+喫茶店”を合わせたような空間だった。そこに「私娼がいる」という場所だったらしい。

  • 本牧の「チャブ屋」に日本人が頻繁に出入りするようになったのは、1923(大正12)年に発生した「関東大震災以後」。各界の著名人も姿を見せていた。

  • 関東大震災後、後に代表的な「チャブ屋」の1つとなる「キヨホテル」がオープン。なんと、乗馬クラブがあったというからすごい! その乗馬クラブには1932(昭和7)年に開催されたロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西(西竹一)」も練習していたとか! 同ホテルは大繁盛し、「第一から第三まであった」ようだ。

  • 本牧の「チャブ屋」はモダンで洗練された場所だった。窓にはステンドグラスが施され、室内には「色とりどりの電球が飾られていた」とのこと。客として宿泊した翌朝には「トーストとハムエッグ、コーヒが出た」らしい。 

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戦争の影が色濃くなった1937(昭和12)年ごろには「チャブ屋」から次第に客足が遠のきつつあった。だが、1941(昭和16)年ごろまでは細々と営業を続けていたようだ。

  • 敗戦後、本牧の「チャブ屋」があった小港周辺はアメリカ占領軍により接収。「米軍海浜住宅一号地」に。小港町三丁目と本牧町二丁目辺りに「慰安所」が設置された。

  • 最盛期には42軒ものホテルが営業し、600人ほどの日本人女性が働いていたとのこと。

1950(昭和25)年には下降線をたどり、1958(昭和33)年に「売春防止法」が完全施行され、「チャブ屋」の灯は消えた。

メリケンお浜(1895年〜1969年)

1920年代に活躍した娼婦。横浜市磯子区出身で漁師の娘として育つ。

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  • 檀原照和・著『消えた横浜娼婦たち』によると、生年は1895年(明治28年)11月12日。横浜近郊の根岸村(現・磯子区東町付近)の一角で育つ。弟と二人兄弟だったが、後に両親が離婚し、母親が再婚相手との間に六人の子供をもうけたため、八人兄弟の長女となる。

  • 中区の本牧小港地区に存在した「チャブ屋街」と呼ばれる外国人向けの歓楽街で働きだし、売れっ子となる。ただし働き出した時期に関しては「10代の頃から」「30歳頃から」という二つの説があり、はっきりしない。「チャブ屋街のクイーン」として知られ、大店として名を売った「キヨホテル」の繁栄に多大な貢献をした。人呼んで「メリケンお浜」。

  • 「巨大飛行船ツェッペリン号が関東に立ち寄った際、乗組員の一人がお浜との別れを惜しむあまり、出発時間がずれ込んだ」「宛先が『日本国 横浜 お浜様』としか書かれていない外国からのラブレターがきちんと届いた」「終戦後とある進駐軍高官が日本に着くなり『お浜に会いたい』と言った」「現在の通貨に換算して年間数千万円もの稼ぎがあった」など真偽の定かではない数々の伝説が伝わっている。

  • 関東大震災後、チャブ屋で働く女の大半は断髪・洋装のモガだったが、お浜は和服に白塗りの純和風で通した。また彼女の全盛期は30代前半の頃だが、チャブ屋女の平均年齢は20歳前後だった。

  • お浜はけっして容貌が優れていたわけではなく、「肉体美人」としてならしていた。客あしらいがうまいわけでもなかったらしい。ただ性癖が奇妙で当時の流行語「エログロナンセンス」を地で行くものとして彼女を有名にし、熱心に通う常連客を掴んだ。

  • 日本が戦争に突入した頃、本牧を離れて伊勢佐木町に隣接する曙町でバーを開店したが、空襲により焼失。戦後の足取りははっきりしないが、昭和30年代にはいると遊廓のあった真金町でうらぶれたバーのマダムに収まっていた。しかし1969年(昭和44年)に73歳で強姦殺人に遭い、死亡。結局犯人は特定できなかった。

死体が発見されたのは3月3日の朝だが、検死の結果によると、殺されたのは3月1日の夜だとみられている。

ダンスホール」としてのチャブ屋

大正から昭和初期にかけて、ジャズは聴く音楽ではなく、踊るための音楽だった。ダンスホールではバンドが演奏していたが、蓄音機やピアノの伴奏でダンスが踊れる場所として、チャブ屋が存在していた。

  • 市中のダンスホールでは10枚綴りのチケットを買い、「ダンサー」とよばれる踊りの巧い女性達とペアで踊った。チャブ屋では、ビールを一本買えば、チャブ屋の女と好きなだけ踊ることが出来た。ダンスホールは夜半に閉店してしまうが、チャブ屋は明け方まで営業しているため、ダンスホールとチャブ屋をハシゴする者もいたと言われる。

  • 一般的な日本人が出入りする場所とは言えなかったものの、洋楽やダンスの愛好家の間ではチャブ屋の存在は口コミで広まっていた。

ジャズや映画の評論家である植草甚一は、まだ独身だった昭和十年代、チャブ屋に十日間泊まり込み、ジャズ浸りになったことが何度もあるという。後年、「チャブ屋で聞いた洋楽がジャズへの愛の入り口となった」と述懐している。
*1950年代映画のファン層だと、当時のラテン音楽ブームを背景に当時の「ミュージック・ホール」ではマンボやチャチャチャやブギウギを流していた事を思い出すかもしれない。


*ところが日活映画「嵐を呼ぶ男(1957年)」以降、急速にジャズとロカビリーが一気に大衆化する。グループサウンズの登場もこの時期。


*この辺りの展開は複雑怪奇で18970年代末から1980年代初頭にかけて英国耽美系の流れの流入もあって多様な進化を遂げる事になる。




ドヤ街 - Wikipedia

日雇い労働者が多く住む街のこと。「ドヤ」とは「宿(ヤド)」の逆さことばである。旅館業法に基づく簡易宿所が多く立ち並んでいることからきている。東京の山谷、大阪のあいりん地区、横浜の寿町が特に有名。

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*最近「関東大震災当時における朝鮮人虐殺」に関する政治的議論が盛んに行われているが、実際にあったのは①それ以前より「江戸時代にまで遡る下級職人層」間で鬱積してきた「不景気になっても故郷に帰らず不法滞在を続ける(無政府主義者の)朝鮮人に職を奪われている」という被害者意識の高まり。②関東大震災に便乗して彼らが自警団を組織してあちこちに関所を設け、数多くの「引っ掛かった非日本人」を処刑したのは事実だが、実際に殺されたのはむしろ(標準語がまともに喋れない)中国人や地方出身者であり、しかも日本政府も彼らのこうした振る舞いを危険視して軍隊を派遣して粉砕した事。③(ニム・ウェールズアリランの歌―ある朝鮮人革命家の生涯(1937年) でも活写された様に」)問題の構造上「当時日本に滞在していた(中流階層以上の)朝鮮人留学者」は完全視野外だった事(この時取材を受けたキム・サンこと張志楽(1905年〜1938年)はむしろ「自分達が(安全な)日本人側に分類された事」に恥辱を覚えたと告白している)。要するにそれは少なくとも「民族問題」ではなかったのである。むしろ無政府主義との親和性の方が遥かに高い。

    • 戦後の高度成長期、日雇いの仕事を斡旋する寄せ場に日雇い労働者が多く集まり、彼らが寝泊りする簡易宿所寄せ場の周辺に多く開設されることで形成された。
      *「TV系サイバーパンクの父祖」の一人に数えられるウイリアム・ギブスンの処女短編「ホログラム薔薇のかけら(1977年)」においては、こうした景色が「空き地に無造作に積まれた棺型の宿泊ユニットの山(ドヤ街のイメージとカプセル・ホテルのイメージの合成物)」として描写される。

      REVIEW.01-01

      パーカーは暗闇に横たわり、ホログラム薔薇の千余のかけらを思い起こす。 ホログラムの特製からすると、あれを回収して光に当てれば、 かけらがそれぞれに薔薇の全体像を現すことになる。 デルタ波に落こみながらパーカーは、自分自身を薔薇と見る。 おのれの散らばったかけらのそれぞれに、自分ではついには知り得ない全体像を現している― 盗んだクレディットカード―燃え尽きた郊外―見知らぬ女の星の合― 高速道路で燃える戦車―平らな麻薬の包み―コンクリートで磨いた飛び出しナイフ、 悲痛なまでの薄刃。

    • 日雇い労働者の劣悪な生活環境から、これまでに暴動が幾度も発生している。現在日本で起きた最後の暴動はあいりん地区で発生した第24次西成暴動(2008年6月)であり、デモなどは現在でも新宿で度々起こっている。

       最近はインターネットの普及によって知られたこともあり、周辺の簡易宿所やビジネスホテルがその割安感(1泊800円位)から外国人などの若い旅行者(バックパッカー)に人気がある。

  • 救世軍などの慈善団体や市民団体による炊き出しや凍死防止のための夜回りなどの支援も常態化している。

また「寄せ場解放」と称して新左翼活動家がドヤ街に入り、越年闘争を通じて日雇い労働者のオルグ(組織化)を図っている。そのため、他の地域では余り目にすることがない新左翼アジビラや立て看板が存在している。

越年闘争 - Wikipedia

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ところで柴門ふみがエッセーの中で「子供の頃、レモンティーは水商売の味がした」と述べています。実際、レモンティーなる飲み物が「チャブ屋文化の一部」から「喫茶店の定番」への変遷を遂げたのも、もしかしたらまた1960年代であったかもしれません。

レモンティー - Wikipedia

元々紅茶を旧世界側に伝えたオランダを始め、ドイツ、ポーランドデンマーク等の大陸側ゲルマン諸国ではレモンを浮かべたり絞ったりするのは紅茶のポピュラーな飲み方で、温冷問わず好まれている。
*英国においては実際、露骨なまでに「レモンティーは貴族、ミルクティーは庶民の味がする」といわれてきたという。

これらの国々ではスーパーマーケットでもリプトンブランドのペットボトル入り「Iced Tea with Lemon Flavor」のみならず、紅茶大手Pickwickのフリーズドライレモンを添加したティーバッグが定番商品として常置されている。

ビュッフェや立食形式、カフェテリアなどでも紅茶をサーブする場所には必ず鉢に盛ったレモンが備えてあり、近くにミルクはあっても大抵コーヒー用のものである。ポーランドに至ってはカフェ等のメニューにミルクティーなどが書かれている事は殆ど無く、紅茶を頼めばデフォルトでレモンを添えてサーブされる。

南北アメリカ、アフリカ南部等もオランダ・ドイツ系移民の多い影響もあり多くの地域で同様である。またイタリア、アルバニア等では夏場にアイスティー(the'freddo)がよく飲まれるが、大半がレモンティーであり、残り僅かをアップルティー、ピーチティー、マンゴーティーが分け合う程度である。

レモンティーの発祥は、20世紀初頭のアメリカという説が有力なようです。それが日本で広まったキッカケについては、以前、テレビ番組の「雑学王」を見ていてその答えがわかりました。

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  • レモンティー日本伝来の舞台裏では、なんと「紅茶」ではなく「レモン」が主役を演じていました。どういうことかというと、米国企業が日本市場でのレモン消費量を拡大させるためのマーケティング戦略の一環だったのです。

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  • 1960年代に、「サンキスト」ブランドで知られているアメリカのサンキスト本社(Sunkist Growers Inc.)が、日本でのレモン市場拡大のために、カリフォルニアの一部の農家で飲まれていたレモンティーを日本の女性誌に掲載。

  • カリフォルニアのお洒落な飲み物というイメージが日本人女性の心をとらえ、欧米ではあまり普及していないレモンティーが日本の人々に認知され広まっていったそうです。
    *そういえば「喫茶店の定番飲料」のもう一つの雄は「レモンスカッシュ」。

    レモネード - Wikipedia

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    炭酸の入っていない方のレモネードは商業用ソフトドリンクの中でも最も古い部類にあり、少なくとも17世紀には販売されていた。1676年、パリにおいて "Compagnie de Limonadiers" と呼ばれる業者団体が結成され、レモネード販売の専売権を取得している。業者たちはレモネードを作りそれをタンクで運び、カップに注いで販売していたという。

    イギリス海軍 - Wikipedia

    イギリス海軍の水兵はしばしば“ライミー(Limey)”と呼ばれる。これはビタミンC不足による壊血病を防ぐ目的で、19世紀初頭前後より彼らにレモンやライムのジュースが支給するようになったことに由来する。

  • 当時はもちろんインターネットなどありませんから、マスコミ媒体、それも流行に敏感な女性たちの貴重な情報源である女性誌は、絶大な影響力を及ぼしたに違いありません。

Sunkist Growers Inc. は1893年、「南カリフォルニア青果協同組合」として設立。世界で最も古く最も大きな柑橘類販売組合で、カリフォルニア州アリゾナ州の6000軒を超える柑橘類生産農家によって所有されています。その多くは小規模な家族経営で、うち1/3に当たる約2000軒がレモン生産農家。レモンのほかにオレンジ、グレープフルーツ、その他のサンキスト製品を世界各地に供給しています。日本事務所としてサンキスト・パシフィック(株)を設立し、日本での需要喚起のためのマーケティング・広報活動を行っています。

*そもそも欧米文化においてレモンは「中東からの庶民文化の伝播」と密接に結びついており「(1970年代に日本に広まったとされる)唐揚げにレモン」 文化と不可分の関係にある、源流に従えば「コロッケにレモン」文化まである世界だが、日本の揚げ物文化は既にそうしたグローバリズムをそう簡単に受容出来ないレベルまで独自性を獲得している。

*だが日本人の食文化における冒険心は世界のうちでも突出している。この投稿に関連して検索するまで「チュニジア風塩レモンコロッケ」なんてジャンルまで存在するなんて想像だに出来なかった。「4本足は机以外、2本足は両親以外、空を飛ぶものは飛行機以外、海中を泳ぐものは潜水艦以外何でも食べる」といわれる中国人ですら吃驚の世界。フランス人が「もはやクレープの本場は日本かもしれない」と嘆き、イタリア人が「だが納豆ピザだけは認めん」と抵抗する「日本人の食グローバリズム」は本当に恐ろしい…

ジャズ喫茶 - Wikipedia

主にジャズのSP・LPレコード音源をかけ、客は鑑賞を主目的として来店する形式の喫茶店。諸外国ではほとんど見あたらず、日本特有の形態であるとされる。昭和初期にもジャズの普及と共に広まったが、戦争により一時消滅。1950年代に再開して1960年代に隆盛を迎え、1970年代に下火を迎えた。現在では、音源の多様化や経営形態の多様化も見られる。

村上春樹 - Wikipedia

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  • 1950年代は輸入盤のジャズのLPが高価であったため、何千何万枚もの所蔵レコードがある店もあり、コーヒー1杯で本場のジャズのレコードを聴け、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はジャズファンやミュージシャンの溜まり場ともなっていた。現在、プロとして著名な日本人ジャズミュージシャンの中にも「開店から閉店までコーヒー1杯でねばった」という人もいたという(なお、一部グループ・サウンズ・ロカビリーなどのライブステージ主体の音楽喫茶もジャズ喫茶とよばれていた)。

  • 当時のジャズ喫茶では、家庭ではなかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備し、音質の良さを店の特徴としたり、経営する「名物オヤジ」の独自のジャズ観・口調を売りにしていた店もあった。現在でもその傾向は一部の店で受け継がれている。また、一部にはジャズ以外にもカントリーやロカビリー、グループ・サウンズ、ロックなど、幅広いジャンルの音楽を聴ける店もあった。

近年ではレコード音源鑑賞を主とするジャズ喫茶は衰退し、経営形態が多様化、ジャズを聴きながら酒を呑むジャズバー、定期的にジャムセッションを開くジャズライブバー、若年層・女性をターゲットとするレストラン風の店などの多様化もみられる。なお、世相の影響を受け、伝統的なジャズ喫茶の形態でも禁煙店が増えている。

かかる「仄暗い日本の伝統文化の消滅」が産んだ空隙を埋めたのが「食の工業化(「味の画一化」に立脚する大量生産・大量消費体制)」であり、かつベネディクト・アンダースンいうところの「出版資本主義(Print Capitalism)」だったという次第。それまで日本全国に分散していた「(元来は統合不可能な)個別的なるもの」が、次第にマス・メディアの采配下にある情報流通市場へと編入され始めた時代だったとも。

マーシャル・マクルーハンの著述に見られる「出版資本主義」に関するノート

活字による印刷は複雑な手工芸木版を最初に機械化したものであり、その後のいっさいの機械化 の原型となった‥‥活字印刷が情報を蓄積する手段あるいは知識を迅速に回収する新しい手段に他ならないと見るならば、それによって時間と空間の両方にお いて、心理的にも社会的にも、郷党精神(parochialism)と部族精神(tribalism)とは終わりを遂げた。

  • 印刷もまたそれ以外の人間の拡張と同じであって、心理的ならびに社会的な影響を及ぼし、以前 の文化の境界と模様を突然に変えてしまった。‥‥情報を移動するのに電気という手段を用いるようになって、われわれの活字文化はいま変わりつつある。それ は、ちょうど、印刷術が発明されて、中世の写本やスコラの文化が変化を受けたのと同じである。
    *活字による印刷がおこなわれるようになって、最初の二世紀は、新しい書物を読んだり書 いたりしなければならないという必要よりは、古代および中世の書物をみたいという欲望のほうに、むしろ動機があった。

  • アルファベット(およびその拡張である活字)が知識という力を拡張させることを可能にし、部族人の絆を壊滅させた。かくして、部族人の社会を外爆発させて、ばらばらの個人の集合としてしまった。電気による書字と速度は、瞬間的かつ持続的に、個人 の上に他のすべての人に関心を注ぐ。こうして、個人はふたたび部族人となる。人間種族全体がもう一度、ひとつの部族となる。

印刷が及ぼす心理的および社会的帰結には、我々が新しいナショナリズムと関連させているよう な事態、つまり、印刷の分裂的かつ画一的な性格を拡張して、さまざまの地域を次第に均質化させ、結果的に権力、エネルギー、侵略を増殖をさせる事態が含ま れる。

  • 印刷されたページの画一性と反復性には、もう一つの重要な局面がある。それが正しい綴り 字、文法、発音というものに向けて圧力をかけ始めたということだ。
    ※つまり書記法の画一化による同一のイメージの流通を可能にした。

  • 印刷本の上に、画一の定価をつけられた商品という奇妙に新鮮な性格を付与したのが反復性であ り、その結果、価格システムへの道を開いた。‥‥加えて、印刷された書物には、携帯の便利さ、入手のしやすさという性格があった。‥‥こうした拡張的性格 と直接の関係にあるのが、表現の革命であった。‥‥活字印刷によって世界そのものに向かって大声かつ大胆に訴えかけることのできるメディアが生み出され た。

  • 活字印刷の影響が数多くあるなかで、たぶん、ナショナリズムの出現がもっともよく知られたも のであろう。方言および言語の集団によって人間を政治的に統一するというのは、個々の方言が印刷によって広大なマス・メディアに変ずる以前には考えられな いことであった。‥‥ナショナリズムそれ自体は、集団の運命と地位を強烈に示す新しい視覚的なイメージとして到来したもので、印刷以前には知られていな かったような迅速な情報移動に依存していた。

  • こんにち、一つのイメージとしてのナショナリズムは、あいかわらず印刷に依存しているけれど も、それはすべて電気メディアの挑戦を受けている。政治においてもビジネスにおいても、平等のジェット機のスピードの影響で、古い国家集団という社会組織 はまったく役に立たなくなっている。ルネッサンス期に、(均質の空間における連続と競合である)ナショナリズムが新しいものであったばかりか、自然なもの でありえたのは、印刷の迅速さと、その結果として生ずる市場と商業の発展のせいであった。

マクルーハン理論はメディアの影響力に関するタイムラグ仮説を含む。これによればメディアの革新につ いて人々がその影響を真にうけるようになるには200〜500年の時間差がある。

梶原一騎のスポ根物」の大流行も、こうした全体像の一部にすっぽりと収まります。

熱血スポーツ物が発展した経緯について漫画評論家の竹内オサムは1950年代に始まったテレビ放送の影響を挙げている。竹内によれば、テレビで扱われたプロ野球や大相撲やプロレスの実況放送を通じて大衆の間で「するスポーツ」ではなく「観るスポーツ」が支持を得たことの影響により漫画の世界もエンターテインメント性を強めたという。
*まさしく「昭和元禄=巨人・大鳳」の世界はテレビ普及と不可分の関係にあったのである。そしてインターネットが普及し(ヒッピーや新左翼が親世代となって保守化し)「反体制は無条件に格好良い」とする思考様式が死滅していく狭間にTV系サイバーパンク文学なる時代の徒花が栄える事になる。

評論家の竹熊健太郎は「巨人の星(1966年〜1971年、アニメ化1967年〜1979年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年、アニメ化1969年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年、アニメ化1970年〜1971年、1980年〜1981年)」が貧困の克服(高度経済成長)を背景にした1960年代の神話とすれば、「アストロ球団(1972年〜1976年)」は社会が安定し『貧困』という動機づけを喪失した1970年代の神話であったとしている。

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そういえば「オロナミンCに生卵」なる組み合わせもまた「昭和元禄」の産物。あんまり「ワインをコーラで割って飲んだ成金中国人」を笑えません。

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さらに日本には「ボジョレー・ヌーボー」とか「バレンタイン・デー」とか思わぬ伝統が現存してる訳です。

日本の20倍もワインを飲む国が
ボジョレーは日本の20分の1しか飲まない

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チョコレートの売上が急増したのはオイルショック(1973年)に見舞われ、高度経済成長が終焉した1970年代前半以降。

「不況に喘いでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったせい」とも「日本の資本主義がほぼ完成して成熟した消費社会となり、小学校高学年から高校生にかけての学生層の主導的選択によって現在の形が定まった(主婦層にまで広まるのは1980年代後半以降で、当初の時点では贈答品はチョコレートに限られてなかったし、誰とも交際していない女子から意中の男子へという形でもなかった)」ともいわれている。

これを契機に「(日本におけるチョコレートの年間消費量の2割程度がこの日に消費されると言われる)日本型バレンタイン・デー」は国民的行事となり、さらなる独自発展を遂げ始めたのであった。

2017年には東京・渋谷でも異性に人気のない人たちの連帯を呼び掛ける団体「革命的非モテ同盟革非同、Kakuhido)」のメンバーらが、「バレンタインデー粉砕!」の横断幕を掲げ、「街中でイチャつくのはテロ行為」などのシュプレヒコールを上げながら抗議デモを行った。

恋愛資本主義の粉砕を掲げる革非同の秋元貴之(Takayuki Akimoto)氏は、恋愛に価値を見いださない人が社会に押しつぶされそうになっており、モテない人々を見下す悪い風潮があると批判している。

まぁドイツや日本みたいに「高度成長によって新興中産階層が急増した国」ならどれも通ってきた道とも。その一方で1970年代から始まった「プラスチック革命」や「角川商法」の登場が新たに台頭してきた「軽薄短小の時代」を切り開く展開に。

角川文庫 - Wikipedia

何だか、どの道筋を辿っても最後は必ず「1980年代とは一体何だったのか?」なる障壁に辿り着く気がしてきました。

  • 総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の終焉がもたらしたのは「食品産業や情報産業の工業化」なる新しい展開だった。
    「食品産業の工業化」…デミグラソース・ホワイトソース・カレーソース・濃厚ソースの普及と不可分の関係にある。

  • 当時台頭した諸文化は、多かれ少なかれそれまで猛威を振るってきた国民国家ナショナリズムへの反動という側面を有していた。例えば競争の主体が国家から企業に推移した商業至上主義。そしてヒッピー運動や新左翼運動の延長線上として生じた「反体制は無条件に格好良く正しい」なる信念に支えられたサイバーパンク文学。

  • そして最近では、こうした動きの多くが人類が真の意味で「ポスト総力戦体制時代」に移行する為の中継ぎ、すなわち瘡蓋(かさぶた)の一種に過ぎなかった可能性が指摘される様になった。「国家統制主義への反感」から生まれた商業至上主義は、むしろその成功ゆえに自らが新たな統制主義の源泉となってしまったし「親世代への反感」が産んだヒッピー文化や新左翼運動の担い手達は自らが親世代となって保守化してしまったのである。

    映画「アミスタッド(Amistad、1997年)」撮影時、黒人奴隷役のアフリカ系俳優が自分達を拘束する鎖の物理的重さに精神的に押しつぶされかけてた時、ジョージ・ルーカス監督が「何を気に病んでいるのです? その重い鎖ですら食い止められなかったのが、貴方達の先祖達の自由への渇望だった訳でしょう? 先祖達を誇りに思うなら、本物の役者なら、その熱狂を、狂気を観客に伝えるのです!!」と発破を掛けたエピソードを思い出す。

    「まず目の前の貴様から真っ先に血祭りに挙げてやる、このユダ公め!!」

    「(嬉しそうに)その目を待ってました。さぁカメラ、スタート!!」

    良い意味でも悪い意味でもこれが剥き出しのアメリカ、ウイリアム・ブレイク言う所の「全てを磨り潰す碾き臼」なのである。

     

要するに「総力戦体制時代の国民国家間の競争」を超克しようとして始まった商業至上主義の時代も、両者の落とし子たる反体制思想も、それ自体が「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマを克服するまでには至らなかったのでした。

1980年代とは、そうした「歴史的挫折」を踏まえて振り返るべき時代なのですね。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流しているんでしょうか?