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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アメリカ独立戦争とフランス革命③ 国民国家の起源としての「国家総動員(1793年)」

国民主権国家と戦争が不可分の関係となったのはフランスの革命戦争(1792年〜1802年)やナポレオン戦争(1803年〜1815年)を通じての事でした。しかしながらこの時代にはまだまだナショナリズム色は希薄。それは元来「戒厳令」を意味した赤旗が急進左派のシンボルへと変貌を遂げていった時代でもあり、当時はまさに「戦争」こそが既存価値観を打ち砕く鉄槌と考えられていたのです。当時のフランス人心理はバクーニンいうところの「破壊への情熱は、創造の情熱でもある」なる精神を抜きに決して語ってはいけないのかもしれません。

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  • 国内外を問わず「殺せと命じられた相手なら、親兄弟や配偶者でも歓喜の興奮に満たされながら一切の躊躇なく殺せるのが本物の筋金入りの平和主義者にして民主主義者である。それが出来ない様な似非平和主義者や似非民主主義者は、まず真っ先に我々本物の筋金入りの平和主義者にして民主主義者から粛清される」なんて言説をしばしばしば見かけるが、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を聞くとこうした熱狂的感情がフランス革命戦争由来である事を実感させられる。

    *ネット上の議論で「アンケートで独立に賛成する沖縄人はたった4%なんて数字も出てるらしいが、そんなの96%を粛清すればたちまち100%だ。多数決の結果なんてそんなあやふやな数字に過ぎない」と断言された事がある。まさにこうした考え方こそ一向宗蜂起を虐殺の徹底によって鎮圧しようとした織田信長、「リヨン蜂起(1973年)」や「トゥーロン蜂起(1973年)」において反乱者をことごとく大砲からの霞弾斉射でミンチ肉へと変貌させ「ヴァンデの反乱(1973年〜1976年)」においてはさらに「(抵抗兵再生産につながる)女子供から真っ先に殺せ」と訓令したジャコバン派の思考様式に他ならない。ただし当事者は「ナチスを倒す為に手段なんて選んでられるものか」「全日本人に精神的自殺を強要し続けている安倍ナチス政権の悪逆に比べたら百万倍も人道的な行為でむしろ国際社会から賞賛される」「そもそも過去に人道的犯罪歴のある日本人が全員粛清され尽くすまで人類平等の理念が回復される事はない」などと連呼するばかりで会話は全く成立しなかった。もちろんこんんな特殊例を「沖縄独立運動」全体に還元しようとは思わないが(そもそもその言動から見て「沖縄人」どころか「日本人」ですらないのは明らか)「ジャコバン派の恐怖政治とは何か」論じる上で重要なヒントとなる(ナチス政権下のフランス人もオーストラリア出身のヒトラーコルシカ島出身のナポレオンの相似点を否応無く意識させられた)。ちなみに苛烈を極めた沖縄戦においてすら96%なんて無茶苦茶な損傷率は出しておらず、むしろ沖縄人には大日本帝国臣民としてそこまで戦い抜いた事が県民的自尊心につながっている側面すらあったりもする。しかしこのアカウントはそれを指摘されるても「そうした思考様式こそが貴様もナチスである動かぬ証拠だ!!」と荒れ狂うばかりだった。ちなみに別の投稿ではアラブ系フランス人のユダヤ人へのテロ行為を「ユダヤ人こそナチスなのだから、この行為は国際正義の執行として賛美されるべき」と賛美していた人物でもある。アメリカのリベラル層がデモの都度、それに便乗して近隣の商店街を略奪するストリート・ギャングまがいの連中まで「だが長年にわたって虐げられてきた彼らにはそれなりの大義名分があるのだ」と擁護して一般人の信頼を失った二の舞を恐るなら、日本の「沖縄独立運動」はこうした連中に対して「泣いて馬謖を斬る」振る舞いに出ざるを得ないとも思われるのだが如何なものか? それともアメリカのリベラル層同様、これからもずっと「枯木も山の賑わい」と笑って見過ごすスタンスを続けるのだろうか?

  • しかしながら実際のこうした最左翼の革命理論は思わぬ変遷を遂げていく。しばしば「一揆主義」と揶揄されてきたオーギュスト・ブランキの「永劫革命論」。米国テイラー主義に魅了されたレーニンやスターリンの計画経済理論。「機械と蒸気の世界」をアレンジに取り込んだバレエ・リュス(Ballets Russes、1909年〜1929年)の「革命的バレエ」。ソ連の機能主義バレエ。そしてYMOの「Ballet(1981年)」。

    オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫発行人ブログ:FACTA online

    YMO「Ballet(1981年)」歌詞

    古い色褪せたページをめくると
    カラーの香り
    彼女は壁の向こうからの難民だった

    空気の中に描いた物語を演じる
    闇の中の不倫
    沈黙の喝采

    悲しみと共に踊る
    彼女自身の為に
    動きに没頭し
    終わりのない無言劇

    壁に嫉妬の目
    五月に氷のよう
    シルエットの中のPoints
    ゆるやかに消え褪せてゆく靴

その一方で実際のフランスの近代国家としての再建は「実際には(フランスへの産業革命導入を少なくとも確実に半世紀は遅らせる事に成功したとすらいわれる)壮絶な破壊しか遂行しなかったフランス革命」を深く反省したサン=シモン主義やその衣鉢を継ぐ「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世第二帝政(1852年〜1870年)によって達成されたという事実もまた決して動かないのです。

それでは「フランス革命が遂行してしまった(フランスへの産業革命導入を少なくとも確実に半世紀は遅らせる事に成功したとすらいわれる)徹底的破壊」はどうした形で始まり、どうした形で終焉を迎えたのでしょうか?

【仏】 1792年04月20日、フランス立法議会がオーストリアへの宣戦布告を決議。

  • この時、立法議会の外交委員会を制してオーストリアへの宣戦布告を推進したブリッソーは、その成果故に国民公会ジロンド派を代表する人物と見做される様になっていく。とはいえ実際に開戦すると革命の余波で指揮命令系統のないフランス軍は各地で敗戦を重ね、政権をフイヤン派に譲り渡す事となった。

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  • 所謂「ジロンド派」はこの当時においてなおジャコバン・クラブの一員であり続けていた。1792年にヨーロッパ諸国との戦争の気運が高まると内部で主戦派(穏健共和派が中心)と反戦派(急進共和派が中心)の対立が始まり、前者が議会で優勢となった事から開戦となった訳だが、8月10日事件にって事実上王権が停止され1792年09月20日に普通選挙を経た国民公会と名の議会が召集された時点においてなお彼らはジャコバン・クラブの一員であり続けていたのである。

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  • とはいえ、この時点では既に(18世紀中、西インド諸島との交易やフランス東インド会社への投資などを軸に栄えてきた)ボルドー系人脈とブルジョワを支持基盤とするジロンド派(その内実は中流ブルジョワプロテスタントなどが結びついた穏健共和派諸派閥の集合体)と民衆を支持基盤とする山岳派モンターニュ派。急進共和派議員の多くが議会で議場後方の高い位置に陣取った事から)の対立は既に完全に致命的なものとなっていた。それでブリッソーを指導者とする前者は10月以降次々とジャコバン・クラブを脱退していく事になったのである。かくしてロベスピエール(当時は法曹界出身者として死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わる等、当時としては先進的な法案に関わっており、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に正面から反対する立場だった)の様な急進共和派議員だけがジャコバン・クラブに残る事となり、やっと「ジャコバン・クラブ=ジャコバン派」と呼び得る状態が到来する事になったのだった。

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  • 開戦を思い立った理由としては「対外戦争を利用して国王の真意を明確にしようとした」「フランスとオーストリアとの間に積年に渡って横たわってきたアルザス・ロレーヌの帰属問題を解決する為」「オーストリアがピルニッツ宣言の取り消しを拒絶した」など諸説ある。またオーストリアネーデルラント(ベルギー)やドイツにおいて王党派亡命貴族が扇動活動を行っていた事が革命政府を刺激していた可能性も有り得る。

  • その一方でフイアン派も「初期の勝利をもって政権を確かなものとした後で、軍隊を国境から呼び寄せてパリの共和分子を弾圧する」という腹案を胸に秘めて開戦に同意したが、彼らが頼りの綱とするラファイエットやリュクネル元帥が指揮したフランス軍こそ貴族士官の大量亡命で弱体化しており、連戦連敗の主要因となったのだった。後にラファイエットとデュムーリエがそれぞれパリへ進撃し王室を保護する計画を立てたがこれもことごとく失敗。大衆の目には「フイヤン派反革命の王党派」としか映らなくなっていき8月10日事件事件以降はとうとう亡命か処刑以外の選択肢がなくなる事になったのだった。

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  • ジロンド派の形成には黒幕の一人と目されていた「ジロンド派の女王」ロラン夫人も一役買っている。彼女は1791年にパリへと移住すると夫たるロラン子爵の居宅でサロンを開き各界の名士と交流する様になったが、美貌に加えて並外れた知性と教養を持っていにも関わらず平民出身だったが故に貴族に受けいられず共和主義者となった。そしてこのサロンを巡る人脈もまたジロンド派の組織網の一環として組み込まれていく事になったという訳である。

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【仏】1792年6月20日、サン・キュロットの示威行動事件が勃発。武装した市民が国王の住居たるテュイルリー宮殿の中まで踏み込んだ。

  • その組織に(サン・キュロットが集まる)コルドリエ・クラブや自治市会が一役買ったとも、ジロンド派が拒否権を乱発する国王への圧力として黙認したともいわれている。

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  • 当時は6月13日に一度は罷免されたジロンド派が再び内閣を組閣していたが、結局政権運営は不可能として7月10日に総辞職を余儀なくされている。

【仏】1792年8月10日、テュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件)が勃発。パリで民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世マリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した。

  • 当時フランス政府の外務大臣のとして革命戦争を主導していたデュムーリエ(Charles‐François Dumouriez 1739年~1823年)は「ネーデルラント解放(現地住民はフランス軍が進駐すれば呼応して皇帝の支配に対して蜂起するものと想定されていた)」を構想していたが、現実のフランス軍は混乱していた。士官達は貴族階級である為に革命政府に非協力的だったし、兵士は兵士で規律が緩み、敵前逃亡したり、革命にことよせて上官を殺害するといった振る舞いに及んでいたのである。

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  • そうした隙を突いてオーストリア軍が7月から行動を開始。すかさずフランスに宣戦布告したプロイセンもまたブラウンシュヴァイク公爵(Friedrich Wilhelm 1771年~1815年)率いるプロイセン軍を越境させヴェルダンを陥落させてしまう。ブラウンシュヴァイク公爵はさらに1782年07月25日、亡命貴族のコンデ公が作成した王政を復古させ反対者は死刑とするという宣言を発表した(ブラウンシュバイク宣言)。立法議会が1792年07月11日に「祖国は危機にあり!」との宣言を発すると(07月14日に第3回革命記念祭が控えていた事もあり)フランス各地から義勇兵がパリに続々と集結(このときマルセイユからやって来た義勇兵が歌っていた軍歌が広まり、後に「ラ・マルセイエーズ」と名づけられる事になる)。ただしパリ市民と義勇兵は「フランス軍の劣勢の原因は戦争に非協力的な国王にある」との扇動に動かされ8月10日にテュイルリー宮殿を襲撃し、王権を停止して国王一家をタンプル塔へ幽閉するに到った訳である。

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  • 事件は最初、経済危機(アッシニア紙幣暴落と砂糖の値段の高騰)が市民の生活を直撃していたパリに始まった。諸地区(セクション)が常設の区会を設け、それぞれ連係するために「中央委員会」を組織したのである。1792年07月11日にはロベス・ピエールがジャコバン・クラブで演説し、1792年07月11日に開催される第3回革命記念祭に参加する為に全国から終結しつつあった連盟兵に参加を呼びかけた。さらに1792年07月14日にはダントンの提案で祝祭の後も連盟兵がパリに留まることが決まり興奮状態が否応もなく広がる事になった。

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  • 1792年07月25日にはロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年~1794年)が「ブルジョワ階級にのみ立脚する議会は人民を代表していない」とし、立法議会の即時解散とこれに代わって憲法改正を為す「国民公会」の招集を呼び掛ける大胆な主張を展開する。ジロンド派は有効な反論が出来ず、07月26日夜にモントルイユ地区を行進した連盟兵が「武器を取れ!」と呼び掛けても、07月29日にマルセイユから到着した連盟兵の前に「自発的代表」が現れ「王と呼ばれる男」と悪党どもを「王宮から追い出す」ことで問題は解決すると説明して支持を得た歳も、翌30日に幾つかの区会が「(槍で武装した)受動的市民の国民衛兵隊への参加」を認めた時も、黙って指を咥えて眺めている事しか出来なかった。

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  • 08月6日にはシャン・ド・マルスで市民と連盟兵の大集会が行われ、改めてルイ16世廃位が要求される事になった。パリの諸地区の先頭に立っていたサン=タントワーヌ城外区の区会が「09日までに国王の失権または王権の停止を議会が決議しなければ、パリの諸地区は武器を持って立ち上がる」との警告を発した。攻撃の噂はそれ以前にも絶えなかったが、これが実際の最後通牒となり08月6日には実際の武力衝突に到ったのだった。

  • この事件で双方合わせて2000人以上の死者が出た事から、その責任を一方的にルイ16世に問う世論が次第に高まり、その事が国王裁判につながる事になる。一方襲撃者達の多くがそのまま動員登録を受けて前線に出征していった後も異様な興奮事態はしばらくパリに残り、それが戦況の悪化と「外敵がパリの城門まで迫っている」という誤報を背景に再び暴走して九月虐殺を引き起こす事となった。

  • これ以降、元次期国王候補者だったオルレアン公ルイ・フィリップ2世に注がれる視線は確実に冷え込み始めた。それを打ち消そうと国民公会で最左翼に位置したり、貴族称号を廃止し「平等公フィリップ(フィリップ・エガリテ)」と自称したりしていたが既に挽回など不可能な段階に入っていた。

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【仏】1792年09月02日、九月虐殺が勃発。「外敵がパリの城門まで迫っている」という誤報を契機としてパニック状態に陥ったパリにおいて数日間にわたって監獄で行なわれた虐殺事件で推計1100人から1400人が犠牲になった。また似たようなパニック状態が、前後して各地の都市でも現出しその犠牲者の総計は14000人とも16000人ともいわれている。

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  • 最初の契機は1792年8月11日に立法議会がパリ・コミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し08月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した事からパリの牢獄が「反革命主義」と看做される囚人で満員になった事である。

  • そして08月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まって義勇兵の募集がなされれう様になると「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇軍の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れ始めた。そして「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」という命令がいずこからともなく発せられて08月30日にはパリ市内で家宅捜索が行なわれ、約3千人の容疑者が逮捕されたが、特別重罪裁判所はこれに関与していなかった。

  • パニック状態の引き金を引いたのはジョルジュ・ジャック・ダントン(Georges Jacques Danton 1759年~1794年)の「剛胆演説」だったとする説もある。オーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際の演説で「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」と呼びかけた事がパリの人々を公然とテロリズムへと誘導したという訳である。

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  • またジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年~1793年)こそ先導の首謀者だったとする説もある。

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  • いずれにせよ09月02日の朝から反革命派狩りが始まり、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まり問答無用の殺害や略式裁判の真似事の後での虐殺が数日後牢獄が完全に空になるまで続いた。後の調査で犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者に過ぎなかった事が判明している。

  • マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その首を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。

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【仏】1972年09月20日、「ヴァルミーの戦い」でフランス軍が初勝利を挙げる。デュムーリエとケレルマンが率いるフランス義勇兵と砲兵隊が挙げた戦果で何とかプロイセン軍の侵略を食い止める事に成功した。戦闘自体は激しいものでもなく、プロイセン軍退却は戦術的後退に過ぎなかったが、それでも初勝利はフランス国民を沸き立たせた。
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  • オーストリア軍がフランスに侵攻したのは1792年07月に入ってからだった。フランス政府は「祖国危機」を宣言。続いてプロイセン軍もフランスに侵入し「国王夫妻に危害を加れば、パリを壊滅させる」と通告してフランス市民を憤激させた。その後も両国軍は破竹の進撃を続け、08月23日にはロンウィを陥落させ09月02日にはヴェルダンを降伏に追い込んだ。

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  • この事態にパリは動揺するが、09月19日にメッス県からのケラーマン軍とスダン県からのデュムーリエ軍が合流しフランス軍は5万の兵力となる。対するプロイセン軍は3万4000で、初めて兵力でフランスが優勢になった。

  • この日アルゴンヌの丘のヴァルミーで、悪天候の中フランス軍とブラウンシュヴァイク公指揮のプロイセン軍が交戦("ヴァルミーの砲撃")した。フランス軍は「国民万歳!」と叫びながら奮戦。多数の犠牲者を出すものの、グリボーヴァルの整備した砲兵隊の大砲の威力が功を奏し、プロイセン軍を退却に追い込んだのである。フランス軍の死者は300人。プロイセン軍は200人であった。

  • フランス革命後最初の軍事的勝利であることで「革命精神の勝利」と称えられた。ザクセンヴァイマルアイゼナハ公カール・アウグストの元で従軍、プロイセン側でこの戦闘を目撃したヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテJohann Wolfgang von Goethe 1749年~1832年)が「ここから、そしてこの日から世界の歴史の新しい時代が始まる」 ("Von hier und heute geht eine neue Epoche der Weltgeschichte aus, und ihr könnt sagen, ihr seid dabei gewesen.") と言ったことで知られ、新しい国民軍が従来の傭兵軍を破ったことが、近代国民国家絶対君主制国家に勝った証として評価されることが多い。 また、この戦いによって史上最強の軍隊・国民軍が誕生したともいわれる。

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  • しかし、この戦いの実態は戦いらしい戦いはなかったことに着目しなければならない。小規模な戦闘が起き(というより小競り合い)、雨が降ったので戦いをやめただけで、プロイセンを後退させたといっても濡れた湿地帯では食事が出来ないために作るために20キロ後方に移動しただけである。現に損害はほとんど出てない。この戦闘の歴史的意義はあくまでも国民の軍隊が君主の軍隊に勝利したということであり、戦術的な意味はほとんどなかったのである。

【仏】1792年11月06日、「ジュマップの戦い」。攻勢に転じたデュムーリエ率いるフランス軍がフランドル方面でオーストリア軍に勝利し、南ネーデルラント全域の占領に成功する。

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  • また「口髭将軍」アダム・フィリップ・ド・キュスティーヌ陸軍中将(Adam Philippe de Custine)がドイツへ侵攻しフランクフルトまで到達した。

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  • キュスティーヌの軍人としての経歴は七年戦争からで、続いて、アメリカ独立戦争でもイギリス軍相手に健闘した。1789年にはメス地区の三部会議員に選出されたが1791年10月に陸軍中将として再び参軍。部下たちには「général moustache(口髭将軍)」という名前で人気があった。ヴォージュ軍最高司令官として1792年の9月から10月にかけてシュパイアー、ヴォルムス、マインツ、そしてフランクフルトを次々と制圧。布告文によって革命の宣伝をし、貴族と聖職者に重税を課したが冬になるとプロイセン軍の反撃に遭ってフランクフルトに後退を余儀なくされ、さらにライン川を引き返して、ランダウ・イン・デア・プファルツまで撤退する事になった。

  • その振る舞いをもって反逆罪で訴えられたが、ロベスピエールの弁護で北方軍に復帰。しかしオーストリア軍からコンデを防衛し切れる再び弁明の為にパリへと送られ革命裁判所より「共和国の敵と共謀した」罪で彼を弁護しようとした息子とともに1793年8月28日ギロチンで処刑された。

【仏】1793年、ナポレオン・ボナパルトが己の政治信条を記した小冊子「ボールケールの晩餐」を著してオーギュスタン(ロベスピエールの弟)の知遇を得る。この小冊子が「ロベスピエールジャコバン派の独裁を支持する内容」であった事から後にナポレオンは逮捕される事に。

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  • フランス革命が勃発してもコルシカ民族主義者のであった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心を通してきた。

  • ところが1792年にアジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれると、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れている独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によって弾劾決議が下された。そしてナポレオンとその家族は財産の大半を奪われた上に船での脱出を余儀なくされてマルセイユへの移住を余儀なされたのだった。

  • マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約している。

【仏】1793年01月21日、ルイ16世が処刑される。国王裁判でも国民投票や執行猶予にこだわったジロンド派と即時処刑という分かりやすい結論を求めるロベスピエールサン=ジュストといった山岳派の主張は対立した。

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  • この頃までに国外では全ヨーロッパを敵にし、国内では大衆からの支持を失っていたジロンド派山岳派の主要人物の拘束を図る。しかしマラーやエベールに対して行われた裁判はいずれも無罪となり、法廷闘争でも敗北を喫して完全に追い詰められる事となった。

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  • フランス国王処刑に震撼したヨーロッパ諸国のうち、オランダがフランスの手に落ちた事から自国の安全保障を考えざるを得なくなったウィリアム・ピット首相率いる英国を盟主種とする形でスペイン、オランダ、ナポリ王国サルデーニャ王国などが第一次対仏大同盟を結成する事になった。

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  • 不思議にも1793年1月18日の投票に際してオルレアン公ルイ・フィリップ2世はルイ16世の処刑に賛成票を投じたとされている。

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【仏】1793年01月28日、ヴェストファーレンにいた王弟プロヴァンス伯爵(ルイ16世の弟、のちのルイ18世)ら反革命派や亡命貴族が処刑されたルイ16世の追悼式を行い、王太子ルイ=シャルルを国王ルイ17世とする宣言を行う。

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  • ルイ=シャルル本人は革命まっただ中のパリで監禁された身で戴冠式を行うこともかなわなず、自分が国王と呼ばれていることさえ知る由もなかった。

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  • 王太子ルイ=シャルルは出生と同時にノルマンディー公爵の爵位を受け、兄ルイ=ジョゼフの夭逝後は王太子(ドーファン)となった(姉はのちに従兄のアングレーム公爵ルイ・アントワーヌ(後のシャルル10世の長男)の妃となり、ブルボン朝最後の王太子妃となるマリー・テレーズ)。1791年のヴァレンヌ件の結果、民衆によって8月13日にタンプル塔に監禁された際にはわずか6歳だった。

  • タンプル塔に幽閉されてから父よりラテン語フランス文学、歴史、地理、叔母エリザベート王女からは姉とともに数学を学んだ。数学が理解できない牢番は、暗号の通信文を子供たちが書いていると勘違いしたが、この頃の国王一家はまだ待遇良く扱われており、庭への散歩も許可されてた事からゲームで遊んだり、ルイ=シャルルの愛犬ココと過ごす姿が目撃されている。

  • 1793年01月21日にルイ16世が処刑されると、マリー・アントワネットは息子にひざまずき「国王崩御、国王万歳」と言い、立ち上がるとマリー・テレーズ、エリザベート王女と共に深々とおじぎをしたとされる。

【英】【仏】1793年02月01日、英国がフランスに宣戦布告。この頃までに英国世論からは親仏的意見が完全に一掃されていた。

  • その後もウィリアム・ピットは執拗に仏大同盟を組織して革命を覆そうと努力し続けたのでフランスから「人民の敵」と呼ばれる事になる。

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【仏】1793年02月24日、国民公会が「30万人募兵」を可決。兵力不足を補う為だったが身代わりの許される制度で思ったほど兵士が集まらず、それどころかヴァンデ地方で3月11日に行われた徴集兵を決めるくじ引き大会はメーヌ=エ=ロワール県ショレの人々の決起を誘発してしまう(ヴァンデの反乱)。この叛乱はカトリック王党派や英国の介入を招いて中々鎮圧する事が出来なかった(~1796年)。

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  • ヴァンデで蜂起した「カトリック王党軍」は、西部のマレ地帯(湿地帯)、北東部のボカージュ地帯(森林地帯)、南東部のプレーン地帯(穀倉地帯)に三分可能なこの地方のうちマレ地帯とボカージュ地帯の民衆を味方に付け旧特権身分たる聖職者や貴族、王党派の人々の支持を取り付ける事で急速に膨れ上がった。ブルジョアジーから没収した土地や独自紙幣の発行を財源としつつ最盛期には主要戦闘要員だけで6万人越を擁したが1793年6月29日に革命政府を支持する隣接都市ナントの攻略に失敗して最高司令官のカトリノーが戦死して以降は守勢に回らざるを得なくなる。

  • 前線でも南ネーデルラント防衛という政府方針を無視したデュムーリエがオランダへ侵攻し、兵力不足とオーストリア軍の反撃の前に撤退を余儀なくされた上でネールヴィンデンの戦い(3月18日)に敗北する事態となった。追い詰められたデュムーリエは、ジャコバン派に処刑されるよりはと政府に対する反乱を部隊に呼びかけるが、部下の反対にあい、4月5日に敵陣へ逃げ込む羽目に陥っている。

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  • ヴァンデ蜂起はあくまでアンシャン・レジームの枠組み内で起こった事であり、英国は最期まで支援部隊を送ろうとしていない点が注目に値する。そもそもヴァンデ地方の保守的有力者たちはは革命政権が封建特権を廃止し教会を国家の統制下に置く「聖職者民事基本法」を可決した時点から怒り狂っており、国王裁判と処刑によて宣誓拒否聖職者達が説く反革命扇動を感情的に支持する下地が出来上がっていたのだった。

  • ちなみにヴァンデの叛乱に際して「(叛乱兵再生産につながる)女子供から真っ先に殺せ」との訓令を受けた「地獄部隊」は「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」残虐行為を繰り返したが、これは後に第一次大戦当時のドイツ兵、第二次世界大戦当時のナチス軍および日本兵のやった事へと転嫁されていく。誰だって自らがやらかしてしまった残虐行為は敵がやらかした事にしたがるものである。ちなみに同様の理由で織田信長一向宗門徒を、文禄・慶長の役(1592年〜1593年、1597年〜1598年)の日本兵は抵抗を続ける朝鮮人集落を女子供もろとも殲滅して居るが、不思議とその事と「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」残虐行為が結びつけて語られる事はない。特定の家屋に追い込んで全員丸焼きにする方が遥かに効率的だったからとされている。

    フランス革命メモ『ヴァンデ戦争』 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

    *そんな織田信長豊臣秀吉ですら「残虐行為の報復」として殺された訳ではない。むしろ、そもそも最初から「徹底的交戦を遂行する連中なんて、あくまで少数派」という見極めがあったからこそ虐殺行為に踏み切った側面」すら見受けられる。とはいえ長島一向一揆鎮圧(1570年頃〜1574年)に際しては信長側武将も通常の合戦ではあり得ない比率で大量に討ち取られており「その事に対する報復真の鬱積が虐殺の引き金を引いた」とも「虐殺が抵抗側の報復心に火をつけた」ともいわれている。おそらく「ヴァンデの虐殺」にも同様の心理的葛藤なら存在したのだろう。「天正伊賀の乱(1578年〜1579年、1581年)」や皇帝ナポレオン時代の「半島戦争(1808年 - 1814年)」でも繰り返された様に、ゲリラ戦なるもの、どうしてもそういう展開を迎えざるを得ない側面があるとも。

【仏】1793年03月10日、革命裁判所が設置される。

  • 上訴審のない簡略にして強力な決定権を有する危険な機関で告発検事にはアントワーヌ・カンタン・フーキエ=タンヴィル(Antoine Quentin Fouquier de Tinville1746年~1795年5月7日)が任命された。これにより恐怖政治への道が準備される。

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  • フーキエ・タンヴィルは絶大な権限と雄弁によって呵責の無い弾圧を執行。どんなに些細な罪でも死刑判決を下し、あまりにも矢継ぎ早に行われてゆく処刑を自ら「瓦のように首が落ちている」と揶揄する様な人物だったので市民から非常に恐れられた。王党派、ジロンド派、さらにはジャコバン派内部のエベール派と(親戚のカミーユ・デムーランを含む)ダントン派を断頭台に送り込み続け、テルミドールのクーデター後にはそれまで忠実に仕えてきたロベスピエールにまで死刑を宣告したが、最後に遺族達からの訴えで自らも死刑を宣告される。

  • 同年03月21日から04月02日にかけて議会は各コミューンに反革命派取締のための監視委員会と9人から成る公安委員会の設置を決定した。そして04月06日には革命裁判所の最初の法廷が開かれ、公安委員会が発足する事になる。

  • この頃ジャコバン派内ではジロンド派山岳派が決裂し、マラーやロベスピエールジロンド派を裏切り者として激しく攻撃していた。当時、食糧難や経済の混乱から各地で民衆のデモが頻発しており、ロベスピエールはこの人民を利用する計画を立た。集会に参加するサン・キュロットに金を支払って人民を扇動する方策が講じられ始めたのはこの頃からとなる。

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【仏】1793年03月27日、デュムーリエ将軍が革命政府の打倒とオルレアン家王位擁立を謀って失敗する。

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  • フィリップ・エガリテはジロンド派によって「息子が祖国を見限った事」「共和制転覆を狙った嫌疑」などにより告発された。そして4月3日に逮捕され、国王一族とともにマルセイユのサン・ジャン城に幽閉される。彼はルイ16世に代わって王位に即こうとした容疑を真っ向から否認したが、パリの革命裁判所の裁定で財産を没収され、1793年11月06日の夕刻、革命広場の断頭台で処刑される事になった(マリー・アントワネット王妃が処刑されてから1週間前後の時期)。

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  • Wikipediaにおける(オルレアン公の息子)ルイ=フィリップ1世の項はこうなっている。「デュムーリエはオーストリア軍のカール・マック・フォン・ライベリヒとの交渉の末、敵軍に寝返って国民公会転覆のためにパリ進軍を謀り、これにルイ=フィリップも巻き込まれた。4月4日、同じく従軍していたルイ=ニコラ・ダヴー中佐はこの裏切りに義憤し、オーストリア軍陣地に向けて発ったデュムーリエとルイ=フィリップに対して妨害と反撃を行った。国民公会による逮捕から免れるために、ルイ=フィリップはデュムーリエと共にオーストリア軍に身を投じた。デュムーリエは再びパリ進軍を謀るが、ルイ=フィリップは同調しなかった。その後、父ルイ・フィリップ2世はデュムリーエの裏切りによってジャコバン派から共和国転覆の嫌疑をかけられて財産を没収され、パリの革命裁判所により処刑された。オルレアン公爵を襲爵したルイ=フィリップはスイスへ亡命し、地理学・数学・近代文学の教師として薄給で暮らす。1795年にはハンブルク、1795年から1796年までスカンディナヴィア諸国、さらに1797年から1799年までアメリカ合衆国へと移り、1801年から1807年にはロンドン郊外のトゥイッケナムに住んだ」。

【米】【仏】1793年04月00日(英仏)一般に市民ジュネと呼ばれるフランス大使エドモン=シャルル・ジュネがアメリカ合衆国に到着

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  • 「市民ジュネ事件」の発端。その頃既にケンタッキー州ジョージ・ロジャース・クラークは既に西部のスペインの土地を占領すべく遠征を検討中だったが、それにジュネの代理人アンドレ・ミショーが派遣され、クラークの遠征に向けたケンタッキー州人の支持を評価した。ミショーがケンタッキー州知事シェルビーと会見したときに、アメリカ合衆国国務長官トーマス・ジェファーソンケンタッキー州上院議員ジョン・ブラウンからの紹介状を携えていた。

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  • ケンタッキー州人はイギリス人やスペイン人を嫌悪する一方でフランスに対して強い親近感を持っていた。それ故にフランス革命から立ち上がった共和政府を称賛しており、アメリカ独立戦争時のフランスの援助も忘れていなかった。これがそうした好意に付け込む戦略だった事は疑う余地もない。
    そもそも「バーボン」の語源が「ブルボン王朝」である事を忘れてはならない。

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  • ジュネに手紙を託したジェファーソンは、同時にシェルビー宛てにフランスの計画を援助する事への警告と、ミシシッピ川での交易についてスペインとの交渉が進行中である事を伝える別の手紙を書いていた。ジェファーソンはそれを1793年8月29日に発送し、シェルビーとミショーが会う前に届く事を期待していたが、実際にシェルビーがそれを受け取ったのは10月になってからである。

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  • ミショーがシェルビーと会ったのは9月13日だが、この時にシェルビーがミショーを助けることについて合意があった証拠は無い。それどころかシェルビーは遅れてきたジェファーソンの手紙に対する返事で、ケンタッキー州人は「連邦政府に対する義務感を強く持っているので、合衆国を傷つけるような事業には参加しない」ことを請け合っている。

  • 11月、シェルビーはジュネのもう1人の代理人シャルル・デルポーからの手紙を受け取った。デルポーはスペイン支配地域に対する遠征のために補給物資を確保するために派遣されてきた事を打ち明け、シェルビーがこの計画に関与した個人を逮捕するよう指示されているかを尋ねた。シェルビーは3日後に返書を出し、フランスに援助することに対するジェファーソンの警告を伝えている。シェルビーがジュネの計画に与したという証拠が無いにも拘わらず、ジェファーソンもアメリカ合衆国陸軍長官ヘンリー・ノックスも再度シェルビーに警告する必要があると考えた。ジェファーソンはケンタッキー州内にいると考えられるフランスの代理人に関する名前とその詳細を与え、その逮捕を奨励する。ノックスはさらに一歩進んで、ケンタッキーが力でフランスに抵抗するような事態が必要となった場合に、その費用は求償できることを示唆した。アンソニー・ウェイン将軍はその騎兵隊が州内に配置されていることを知らせてきたし、北西部領土知事のアーサー・セントクレアも、ジュネと協力することについてシェルビーに警告してきた。

  • シェルビーはジェファーソンに対する返書の中で、その選挙民に対して力で干渉する法的権限があるかどうかを尋ね、そうする事への個人的嫌悪感を表明していた。「私はいかなる場合も私に明白かつ文書で授けられていないと考える権限を行使することを嫌悪する。まして友人や同胞と考える者達に対してそれを行使する権限を持っていないと考え、敵および専制者(スペイン王)と見なす者にはそれが出来ると考える。私は、計り知れない権利(ミシシッピ川の航行権)を我々に公然と与えず、また我々に最も野蛮で残酷な敵を密かに扇動する外国王子の大使の恐怖を満たすあるいは取り除くだけの意図があると想像できるために、仲間の市民の如何なる者も罰したり拘束したりすることに積極的に関わる意向を感じてもほとんど持たない」。さらにシェルビーはジェファーソンに「私は常にケンタッキー州知事としてアメリカ合衆国大統領憲法に沿って私に要求するとみなすもの全てを実行するのが任務と考えている」と請け合って、この中途半端な関与を穏やかに収めた。

  • 1794年3月(おそらくシェルビーの心配に答える為)連邦議会は侵入や暴動の場合に連邦政府に追加権限を認める手段を成立させる。ジェファーソンの後継者エドムンド・ランドルフは実際にシェルビーの手紙を受け取っており、手紙でシェルビーの意のままにできる新しい権限を伝え、またフランスの新しい政府がジュネを呼び戻したことも伝えた。2ヶ月後にジュネの代理人はケンタッキー州における活動を止め、当面の危機は去る事になる。

  • そして1795年、ワシントン大統領はミシシッピ川でアメリカ人が交易を行う権利を確保する合意をスペインとの間に取り付ける事になるのだった。

【米】1793年04月22日、ワシントン大統領が「中立宣言」

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  • ワシントン大統領が中立宣言を出した理由は、建国まもないアメリカは、自国の安全保障のためにヨーロッパの戦乱に巻き込まれる危険性を回避しなければならないと判断したからである。またアメリカは他国のためではなく自国のために動くことをヨーロッパ列強に納得させる効果もあった。

  • その一方でワシントンは、ジェファソンを通じて外交官のウィリアム・ショートに「フランスは我が国の最後の頼みの綱であり、その友好関係が第1の目標である」と伝えている。こうしたワシントンの配慮にも拘らず、この宣言は、独立戦争をともに戦った同盟国フランスを裏切ることになると親仏派から激しい非難を受けた。ワシントンは、フランス革命をめぐってアメリカ国内で党派を組んで争うのは馬鹿げたことだと考えていたが、党派対立は深刻になる一方であった。

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  • ヨーロッパで激化する戦争の報せが届き始めるとアメリカは旗幟を明らかにする必要に迫られた。そこでマウント・ヴァーノンに滞在していたワシントンは急遽、首都フィラデルフィアに戻り、対応策を練る為の閣議を1793年4月19日に開催する。当時のアメリカの脆弱な軍事力からして、中立を守ることが最善であるという点では閣僚の意見は一致していた。また休会中の議会を招集すれば危機感を煽ることになるので、特別会期を設けるべきではないという点でも意見は一致していた。しかし中立を実際にどのように行うかについては激しい議論が行われた。

  • 最終的にこの日公表された宣言には国務長官ジェファソンの勧めに従って文面に「中立」という言葉は盛り込まず「交戦諸国に対して友好的かつ公平である」という表現に留めた。さらに国民に対しては「合衆国市民は何人といえども、先述の諸国に対する敵対行為を行うか、支援するか、もしくは扇動する者は、諸国の法の下に、処罰、または[資産の]没収を免れ得ず。また諸国の現行慣習法に基づいて密輸とみなされる品目を交戦諸国に持ち込む者は、処罰や没収を被っても合衆国の保護を受けることはできない」と呼びかけた。これは上院に諮らずに大統領が外交を取りしきる先例となった。またアメリカがヨーロッパの紛争に距離を置いて孤立を守る先例ともなった。

【仏】1793年04月29日、南仏でもジャコバン派政権に対する反乱が広がる。

  • この日のマルセイユ蜂起を皮切りに1793年05月29日にはリヨン蜂起(~同年10月9日)、1793年07月12日にはさらに英国軍を援軍として招き入れる形でトゥーロン蜂起(~同年12月19日)が勃発。05月31日にはイギリスがフランスに対する海上封鎖を発令。スペイン軍、サルデーニャ軍も国境を越え、オーストリア軍はヴァレンシエンヌを陥落させた。

  • こうした動きはパリにおける以下の様な動きと連動していた。「1793年05月25日、ロベスピエールが人民の蜂起を求める演説を行う。1793年05月31日、ロベスピエールの計画に基づきジロンド派の追い落としが開始される(33のセクションの代表者が集められコミューンと協力し、人民軍の指揮はアンリオに任される)。1793年06月01日、ジロンド派のロラン夫人が逮捕されジロンド派の新聞が禁止となる。1793年06月02日、アンリオが武装した群衆を率いて国民公会を包囲し逃亡しようとする議員に議事の進行を要求。ジロンド派幹部の議員29名と大臣2名の追放と逮捕が議決される(29人のうち20人が地方へ逃げたが、そのうち数人は処刑され、2人は自殺)」。こうして6月2日から所謂「恐怖政治=ジャコバン派独裁」が始まったのである。

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  • ジロンド派粛清」と同時に蜂起したのが「(英国を含む)外国との交易やフランス絶対王制の産業庇護下で発展してきた地域」である事はおそらく偶然ではない。もっとも「発展とは必ず勝者と敗者の立場を明確にするものであり、それ故にこれらの地域ではそもそもアンシャン・レジームの枠組みを超えてブルジョワ層とジャコバン派市民の対立構造が激化していた」という考え方も不可能ではない。

  • 窮地に追い込まれたジャコバン独裁政権は「虐殺による内乱鎮圧」という強硬手段に打って出る。その政策が現政権の評判を地に落とすと虐殺実行者をスケープゴートにして御茶を濁そうとしたが「テルミドール反動」によって返り討ちとされ、恐怖政治時代は終わりを告げる。

【仏】1793年7月13日、マラー(Jean-Paul Marat)が暗殺される。

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【仏】1793年08月23日、国民公会が「国家総動員」を発令し、徴兵制度を施行。

  • 身代わりの許された30万人募兵と違って各階層の国民を平等に徴兵した結果、新たに120万の兵士が軍に加わった。これは傭兵を軍の主力としていた当時のヨーロッパの君主制国家では想像できないほどの大兵力で、巨大化し国民軍へと変質したフランス軍はカルノーの指導の下で13個軍団に再編され反撃の準備を整えた。

  • フランス革命以降、国家は王ではなく国民のものであるという建前となった。従って戦争に関しても王や騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務がある事になったのである。貧しい人々にとっては軍隊の暮らしは比較的ましであり、給与と生活を保障されるという側面も存在した。時代が下ると徴兵は名誉であり、祖国に対する忠誠義務と受け取られるようになった。一般の間でも徴兵不適格者への侮蔑がみられるようになる。

  • 近代に徴兵制が生み出されたのは、戦争の近代化に伴って兵器の威力が増して(槍と機関銃の死者数の違いを思い起こしていただけると理解しやすい)志願制では人員の補充ができなくなるほど戦死者が多くなった事、国民主権の原理によって国民を戦場に駆り出す大義名分ができた事が主な理由である。アメリカは南北戦争の激戦によって大量の兵士が死亡し、その欠員を補うために徴兵制が敷かれた。イギリスでも第一次大戦半ばのソンムの戦いなどで多くの戦死者を出し、戦争を継続するために徴兵制を敷いた。

  • こうして巨大化したフランス軍は兵力こそ対仏大同盟軍を圧倒する規模に達したもの、同時に補給物資の多くを敵国の領土から徴発し続けなければいけない問題を抱え込む事になる。以後、戦争がフランスによる侵略の様相を帯びてゆくのはその為でもあった。

【仏】1793年11月29日、バルナーヴ、処刑される。

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  • 前年9月からグルノーブル監獄に入れられていた。助命嘆願もせずに、容易に逃亡できたのにそれを拒否し、獄中で名著「フランス革命序論」を書いて、従容と死んだ。12月にはナポレオンがイギリス軍を撃退し、トゥーロン奪還に成功している。

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  • 国民議会が解散する前に故郷に帰ったが、8月10日事件後に宮廷との通信が発見されて逮捕され、革命裁判所によって処刑の判決を下された。

【仏】1793年12月、カミーユ・デムーラがダントン派の機関紙「ル・ヴィユー・コルドリエ」を創刊しその編集長も務める。

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  • エベールの大衆人気の根源であり、かつ様々な活動を行う上での貴重な財源であった「デュシェーヌ親父」に対抗しての動きだったとされる。

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  • しかし結局、恐怖政治の弾劾はそれを主導するロベスピエール派への批難に他ならずこの頃から両派閥の対立は致命的なものに傾斜していく事となる。

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【仏】1793年12月18日、トゥーロンが鎮圧される。
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  • フランス王党派を支援する英国やスペインなどの軍隊に占領されていたが、ナポレオン・ボナパルトは砲兵将校として、市の港を制圧するための理想的な砲兵陣地の場所を見つけることによって名を上げた。サミュエル・フッドの指揮するイギリス艦隊が港からの脱出を余儀なくされるとほどなく反乱は鎮圧された。

  • その功績によって24歳のナポレオンは一気に砲兵隊司令官(准将)となり、国際的な注目を浴びることとなった。

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  • 12月19日に市内に入った国民公会軍は、ポール・バラスとルイ=マリ・スタニスラ・フレロン(Louis-Marie Stanislas Fréron 1754年~1802年)の指揮下で血なまぐさい報復を行った。800人から2,000人におよぶ囚人がシャン・ド・マルスにおいて銃殺され、または銃剣で刺殺されたと考えられている。ナポレオンはジャン・フランソワ・エルナンデスによって怪我の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会わなかった。

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  • こうして反乱の鎮圧で過度にやりすぎてしまい。逆に当時の最高権力者ロベスピエールの反感を買ってしまった人々が後にテルミドール反動を画策する事になった訳である。

【仏】1793年12月18日、トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon)が完了する(1793年9月18日~)

【英】【米】1794年、ジョセフ・プリーストリーがアメリカ(ペンシルバニア州)へ移住する。

  • トマス・ペインとジョセフ・プリーストリーの肖像が燃やされる事件が発生し、危険な風刺漫画が依然として出版され続けており、プリーストリーを悪魔やガイ・フォークスと比較した手紙が全国から送りつけられ続けていた。王立協会の会員がプリーストリーから距離を置き始め、政府への抗議に対する刑罰が重くなる。1792年のフランス国民公会は3部門でプリーストリーを選びその到来を待ちわびている。しかしプリーストリー移住先に選んだのは(彼を科学者というより非国教徒や植民地の自由の代弁者と考える)アメリカだった。あるいはフランスにおける恐怖政治の蔓延に嫌気がさしたのかもしれない(先にフランスに渡ったトマス・ペインも牢獄で拘束中だった)。

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  • プリーストリーがイギリスを離れて5週間後、ウィリアム・ピット政権は過激派(非国教徒)を扇動罪で逮捕し始めた(1794年反逆裁判 (1794 Treason Trials))。間一髪だったと考えるべきか、国外退去を待っての行動だったのか微妙である。最終的にプリーストリーはペンシルバニアで仲間の到来を待ちながら1804年に寂しく死んでいく事になる。

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  • 同年9月頃(すなわちテルミドールのクーデターによる恐怖政治の終焉後だが、変化は急には訪れず、実際トマス・ペインも11月4日まで拘禁下にあった)、後に英国ロマン派詩人として名前を上げるサミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge 1772年~1834年)が「パンティソクラシー(Pnantisocracy万民平等)運動」に共鳴する盟友サウジー(Robert Southey)とともにペンシルバニア州のサスケハナへと移住する計画を練っている。当時の彼らの見解によれば英国は救い難く、かつフランス革命も失敗に終わった以上、ユートピアをゼロから構築可能な聖地はもはやアメリカにしか残されていないのだった。

【仏】1794年02月04日、全フランス領での奴隷制の廃止を決議した「プリュヴィオーズ16日法」を可決。

  • この決議を受けてサン=ドマングの実力者フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(François-Dominique Toussaint Louverture 生年不詳~1803年)はフランスへの帰属を決めたとされる。

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1794年3月24日(仏) エベールが処刑される。

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  • 同じジャコバン派内のロベスピエール派に対する蜂起(いわゆる三月蜂起)を呼びかけたが失敗。逮捕されて革命裁判所にかけられ、ギロチン台へ送られた。ちなみに、逮捕の理由は「シャツの窃盗罪」であった。

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  • 彼の率いた急進左派のエベール派(矯激派)は実際にはリーダーも支持政策も不在。革命政府を「なまぬるい」と非難し、さらなる革命の推進(つまり恐怖政治の強化)を要求するアジテーションだけが全てという言われ方もする集団でもあった。それでも(いやむしろだからこそ)教養のないサン・キュロットや下層貧民には大人気で議会外(コルドリエ・クラブや自治市会やパリ・コミューン)に強い勢力を持っていた。ある意味自らの発行する新聞『デュシェーヌ親父』こそ大衆人気の根源だったが、そこで展開される論説や派閥内の議員に汚い野次や根も葉もない告発を平気で行う風潮があった事がロベスピエール個人から嫌われる原因ともなっていた。

  • その一方ではジャン=バプティスト・クローツの様な無神論者が理論的指導者の中に混ざっており、反キリスト教政策を掲げて、「理性の崇拝」を推進したりもしている。

  • エベール派粛清後、コルドリエ・クラブの消息は全く途絶えてしまう。

【仏】1794年3月29日、コンドルセ侯爵(Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat, marquis de Condorcet)が獄中で自殺を遂げる。
*左翼陣営の「多数決論理に対する軽蔑」はまさに「ジャコバン派が容赦無くコンドルセ公爵を容赦無く「処刑」した事」に由来するとも。実際後にレーニンが体系化した「民主集中制」によれば「革命精神を注入されてない一般庶民の声に耳を傾ける」事そのものが国際正義に反する修正主義に該当する罪を犯す所業となる。

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  • 1765年に「積分論」を刊行し、1769年にフランス王立科学アカデミーの会員に推挙された。啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載しする様になる。

  • 1770年代には解析を中心とする数学の理論研究の傍ら、1774年から1776年にかけて財務総監ジャック・テュルゴーの片腕として政治改革に関わった。テュルゴーの改革そのものは挫折に終わったものの、政治と科学双方を射程に入れたコンドルセの思想はその後深化を遂げ、1780年代に「道徳政治科学の数学化」もしくは「社会数学」という学問プロジェクトに着手することとなる。

  • 1789年のフランス革命ではパリ・コミューン役員となり、1790年にはアベ・シェイエスらと1789年協会を設立、ヴァレンヌ事件以降、共和主義者の論客となり、1781年9月立法議会にパリから選出され、公共教育委員会議長となった。1792年9月国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入り1793年2月ジロンド憲法草案を議会に上程。

  • しかし同年のパリコミューンの事件でジロンド派は没落。6月14日山岳派憲法が可決。恐怖政治に反対したため7月8日逮捕令状が発せられ、ヴェルネ夫人宅の9月間の隠遁生活中のとき「人間精神進歩の歴史」を執筆。該著作は、オーギュスト・コント社会学の基礎となる小論で、人間の精神は、天文学と、占星学、純粋数学、神学といった人間の精神と社会活動から離れている学的領域から、やがて、文学、経済学、論理学、社会科学といった人間の行動と生活を論理的に究明する人文科学へ発展してきており、進化の過程において、心理学と社会科学がようやく生まれてきたその精神史と社会科学の重要性を論じ、オーギュスト・コントの理論の礎を「人類の精神の進歩」の最も大切な学的領域として捉えている。その後、令状通りに逮捕され獄中で自殺。51歳だった。

【仏】1794年04月05日、サン・ジュストの告発により収賄容疑でダントンが処刑される。

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  • 裁判で持ち前の雄弁をふるい判事も無罪に傾きかけたが、弁論を妨害されるなどの圧力がかかり結局死刑の判決を免れ得なかった。ギロチンへの道すがらロベスピエールの家の前を通りかかるとロベスピエール、次は貴様の番だ!」と叫び、最後まで堂々とした態度で処刑されている。34歳であった。最後の言葉は「俺の頭を後で民衆によく見せてやれ。これだけの頭は、滅多にないぞ!」であった。

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  • そもそもの発端は革命戦争と英国の海上封鎖により窮地に追い込まれたインド会社(フランス東インド会社の後身)の精算過程で旧ジロンド派系議員と、ダントン派の議員を巻き込んだ大規模な買収と不正が行われた事実が1794年1月に発覚した事だった(インド会社汚職事件)。その多くが粛清されるか、投獄されたが、これにダントンも巻き込まれたという側面もないではない。とはいえ恐怖政治を主導するロベスピエール派としては、、恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放を呼びかけた時点で粛清の機会を手ぐすね引いて待ち構えていた事もまず間違いはなさそうなのである。

  • この時期、カミーユ・デムーランは同級生だったロベスピエールに対抗し、ダントンと共に恐怖政治を終焉させようと寛容を主張するキャンペーンを展開していた。それ故にサン・ジュストの告発によってダントン派と共に粛清対象となり裁判後に処刑される事になる。親友フレロンはこの時彼の妻リュシルの願いを断って監獄のデムーランを救わなかった(その妻のリュシルもデムーラン処刑の一週間後、後を追うように最愛の夫と同じ最後を迎える)が、それは一緒に粛清されるのを恐れての事であり、後にテルミドールのクーデターロベスピエールサン・ジュストらの一派に報復を果たす事になる。

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  • そもそも1793年のジロンド派追放以降、恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放を呼びかける為に終結したダントン派(寛容派)はジャコバン派(ないしコルドリエ派)の中では最も穏健なグループだったと目されている(王統派が存続し得ない恐怖政治下では最右派だったという解釈も可能。しかしそれ故にサン・ジュストから「王党派との内通罪」という事実無根の罪をでっち上げられて粛清される事になったともいえる)。ジロンド派山岳派の抗争が激化した際には、ダントンがジロンド派内閣では入閣した事もあった為に仲裁に努めたが、ダントンらの努力はジロンド派の議員によって拒絶されて無駄になっている。

  • リーダーであるダントンは個人的に人気があって民衆への影響力も大きかった為にロベスピエール派(特にサン・ジュスト)が主導権を奪われることを恐れて粛清に踏み切ったという説もある。ダントンやデムーランは個人的にはロベスピエールとは親友の関係にあった為、彼らの逮捕に指してロベスピエールが顔面蒼白になったと伝えられている。

【仏】1794年07月27日、「テルミドール反動」が勃発。

  • テルミドールとは、革命時制定された革命暦で熱月を意味する。この事件により実質的にフランス革命は終焉したとされ、市民革命は終わりを告げた。

  • ジャコバン派が1793年から1794年にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後で国民は恐怖政治に嫌気が差すようになっていた。特に94年春にエベール派とダントン派が粛清されて以上はジャコバン派の一部でさえ国民公会の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようと画策し始めた。

  • 決定打となったのが、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていきた地方派遣議員達(ジョゼフ・フーシェ、ポール・バラス、ジャン=ランベール・タリアンら)である。彼らは自分達が行ってきた虐殺が槍玉に挙げられ始めると「ロベスピエールスケープゴートにされるくらいなら、先制攻撃でロベスピエールの方をスケープゴートにしてやれ」という考え方に到ったのだった。

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  • 最期の引き金を引いたのはロベスピエール当人だった。07月26日(テルミドール8日)における国民公会での演説で「粛清されなければならない議員がいる」と演説したのである。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否したので全ての議員が震え上がり、反対派の結束を決定的なものとしたがその晩のジャコバン・クラブでの演説では「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言である」と発言している。おそらく翌日の蜂起を既に予想していたのだろう。

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  • これまで恐怖政治を主導してきた公安委員会がロベスピエール派(ロベスピエールサン=ジュストクートン)と戦乱収拾後に勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノーなど)に分裂してしまった事に嫌気が差したのか、ロベスピエールは6月半ばから7月26日まで公の席にほとんど姿を見せていない。07月22日には対立関係にあった公安委員会および保安委員会による合同会議が開かれたが、その時までにロベスピエールサン=ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。

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  • そして翌日、国民公会の会場で「暴君を倒せ」という野次の最中捕縛されたロベスピエール一派(ロベスピエール兄弟、クートンサン=ジュストら22名)は翌7月28日にまとめて断頭台の露と消える事になったのだった。

  • ナポレオン・ボナパルトの上官軍人でジャコバン派貴族だったバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(Paul François Jean Nicolas, vicomte de Barras, 1755年~1829年)とフレロンはダントン派の生き残りであり「テルミドールのクーデタには彼らには個人的な復讐という側面もあった」とする見方もある。

  • ポール・バラスはフランス革命が始まるとこれを支持してジャコバン・クラブに加入した人物で1792年には国民公会の議員となり国王ルイ16世処刑に賛成票を投じた。それからダントン派のコネで派遣議員に選ばれ、最初アルプ軍に派遣されて次にイタリア方面軍に転身。ここで初めてナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年~1821年)と出会っている。マルセイユトゥーロンの鎮圧を監督し、捕虜となった何百人もの町の住民を処刑した挙句、財産を没収したが公金横領など様々な汚職ロベスピエールからパリに召喚された事から処刑を恐れてジョゼフ・フーシェらと協力しテルミドール反動を企図した。当日には国民公会軍の総司令官として市庁舎を襲撃する役割を担っている。

  • ポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに、衰弱したまま横になったルイ17世を目撃した。その3日後、マルティニック島出身のローランという24歳の男が新たな牢番となった。ローランはマリー・テレーズに依頼され、虫がたかったルイ17世のベッドを処分し、マリー・テレーズのベッドをルイ17世に使用させた。ローランはルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、室内の家具とカーテンの焼却を命じた。この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人で歩けなかった。

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  • 1794年11月08日、国民公会ルイ17世の世話をゴマンという男に命じる。ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。11月の末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。

【英】【米】1794年11月00日、ジェイ条約(Jay's Treaty)がアメリカ合衆国と英国の間で調印される(批准は翌1795年)。

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  • 英国は既にアメリカ独立戦争講和条約であるパリ条約(1783年)でアメリカ合衆国の独立を承認していたが、その後の両国の経済関係については取り決めが一切なされていなかった。その一方で1789年に勃発したフランス革命は急進化し、革命政府がルイ16世を処刑する事件まで起こり、英国も対仏大同盟を結成して革命に干渉する姿勢を鮮明にしつつあった。そして合衆国はフランス革命に中立の立場をとりつつフランスとの貿易を継続しようと画策していたが、それを英国に見透かされて妨害されてしまう。仕方なく初代大統領ジョージ・ワシントンは、戦争回避にむけてジョン・ジェイをイギリスへ特使として派遣して両国関係の改善を図る事になったのだった。

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  • 1793年6月8日イギリス政府はフランスの港に穀物を輸送する中立国の船舶を拿捕するように海軍に命じた。さらに11月6日にはフランス領西インド諸島を完全封鎖する命令が出される。その結果250隻のアメリカ船が拿捕されて積荷が差し押さえらた。翌1794年1月8日になるとイギリスは11月6日の命令を撤回し、非軍事物資に限ってアメリカ船に仏領西インド諸島との通商を認めたが、それまでアメリカが受けた損害への補償はなされなかった。

  • 一連のイギリスの措置に対抗してワシントン大統領は3月26日、国外の港に向かう船舶に対して出港禁止を命じる。さらに4月16日、ジェイを特命全権大使に指名し、講和成立後の諸問題の解決にあたらせたのだった。その成果が11月19日にロンドンで取り交わされたジェイ条約だった訳である。

  • その内容は1796年までに北西部領地からイギリス軍を撤退させること、アメリカが被った損害を調査する委員会の設置、英領西インド諸島との限定的な通商、アメリカ国内で敵国による私掠船の艤装を禁止することなどを含む。一方、アメリカは、独立戦争以前の負債をイギリスの債権者に返済するように取り計らうこととイギリス人に引き続き毛皮交易を認めることを約した。しかし、ジェイがアメリカ人船員の強制徴用に対する補償と独立戦争中に連れ去られた奴隷の賠償金を得ることが出来なかった事からこの条約は不評を招いてしまう。また親仏姿勢をとる民主共和党からすれば、ジェイ条約の締結はイギリスを攻撃しフランスを支援する望みが断たれたのに等しく簡単に承認はし得なかった。またフランスもジェイ条約が米仏同盟に反するとしてアメリカに対する姿勢を硬化させ、両国の関係は悪化の一途をたどったのである。

  • 条約の詳細が到着したのは1795年3月7日になってからだった。ワシントン自身はまだ条約を認めるかどうかを決断していなかったが6月に特別議会を召集し、上院に条約を上程した。そして6月24日、上院での非公開審議を経てジェイ条約は西インド諸島との制限貿易を規定した項目を除いて20票対10票で承認される事になったのである。

  • 合衆国が英国に認めた内容は「ミシシッピ川をイギリスに開放」「イギリスの敵国(事実上フランス)の私掠船に対する補給の禁止」「アメリカ独立戦争以前のアメリカ人の負債のイギリス商人への支払い」の3点に要約出来る。早くも7月1日に条約内容が暴露され民主共和派の怒りを誘った。多くの民主共和派は、通商停止を取引材料にすれば、イギリスからもっと譲歩を引き出せたはずだと非難した。南部の農園主達は連れ去れた奴隷の補償がなされなかったことに大きな不満を抱いた。また北部の商人達も条約で取り決められた通商条件に満足していなかった。

  • 7月3日、ワシントン大統領はハミルトンに内密でジェイ条約の是非について諮問している。その8日後、ハミルトンは53ページにもわたる注釈を書いてジェイ条約を認めるように勧めた。結局、ワシントン大統領がジェイ条約に署名したのは8月18日である。翌1796年2月29日、ワシントン大統領がジェイ条約の発効を宣言すると下院は、、3月24日、ジェイ条約に関連する文書の開示を大統領に求める決議を採択した。翌日、ワシントン大統領は閣僚に下院の要求に応じるべきかどうかを諮問した。26日、すべての閣僚が要求に応じるべきではないと返答した。その結果、ワシントン大統領は下院の要求を拒絶した。これは行政府が外交に関して主導権を持つことを示した重要な先例となった。またマディソンを中心とする民主共和派は下院で、条約に関連する予算を差し止めようとしたが、4月30日、条約に関連する予算は僅差で認められた。
    *王侯貴族が外交権を掌握し続けた欧州諸国との対比において、このエピソードが「主権国家としての勝利」を意味すると解釈するか「国民主権国家としての勝利」を意味すると解釈するかが極めて重要な条件となってくる。

【仏】1795年5月16日、ネーデルラント連邦共和国がハーグでフランスと講和条約を締結。500万フローリンの賠償金支払いを約束させられる。

  • 同年1月以降、本国は共和主義的愛国者(パトリオッテン)の建国したバタヴィア共和国の支配下に置かれておりブラバントとマーストリヒトをフランスに割譲する計画が進んでいた。

  • ジュールダンに率いられたフランス軍は1794年9月から開始されたオランダ方面への侵攻においてまずフルリュスの戦い(1794年06月26日)でオーストリア軍を撃破。対仏大同盟軍はライン川以西からの撤退を余儀なくされ、これにより南ネーデルラントとラインラントの大部分を確保する事に成功した。10月2日にはルール川を渡河。

  • 1795年初頭にはピシュグリュ揮下のフランス軍がオランダ要塞の防御力が河川結氷で低下する冬季を衝いて押し寄せた。オランダではフランス革命に賛同し協力する人々も多かった為に都市が次々と陥落しネーデルラント連邦共和国は崩壊。オランダ総督ウィレム5世(実膝上最後の提督となる)はイギリスへの亡命を余儀なくされ、オランダ艦隊はフランスに接収される破目に陥った。

  • この勢いに圧倒されてプロイセンもフランスとの講和を決断する。こうしてバーゼルの和約(1795年04月05日)が締結され、プロイセンはフランスのラインラント併合を認める代わりポーランド分割に集中出来る様になった。その一方でフランス軍はスペインでも進撃を遂げ、スペインも同年のうちに和平に応じた。第二次バーゼルの和約(1795年07月22日)がそれで、スペインは占領地回復と引き換えに革命政府承認とサントドミンゴの割譲を認める事になった。

  • この両講和によってフランスは当面の窮地を脱する事となる。

【仏】1795年06月08日、ルイ17世崩御。フランス国王とはいえあくまで名目的なもので、その生涯は悲惨の一言に尽きた。

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  • 1795年03月31日、ルイ17世の牢番がエティエンヌ・ラーヌに交代した。5月8日にピエール・ジョゼフ・ドゥゾー医師による診察が許可され、その後ジャン・バティスト・ウージェニー・デュマンジャン医師とフィリップ・ジャン・ペルタン医師が治療に加わったが、6月8日にルイ17世が病死しているのが見つかった。死因は結核とされているが、他にも多くの伝染病に感染していた。遺体には疥癬と腫瘍が見つかったという記録がある。検視はペルタン医師が行い、心臓を切り取り持ち出した。国民への発表は4日後に行われ、遺体は共同墓地に葬られた。わずか10歳であった。

  • ルイ17世への虐待に加わった者たちは苦しんだ様である。夫婦でタンプル塔で働いていたティゾン夫人は神経衰弱となり、その後何年間も、自分はルイ17世脱出の手助けをしたと主張した。靴屋のシモン夫人は、ルイ17世の死後20年以上経過してから「施療院の自分の部屋にルイ17世がやってきた」と言い出した。毒殺説も流れたが、ベルタン医師が否定した。後にルイ17世の死を知ったマリー・テレーズは「弟を殺害した唯一の毒は、捕え人の残忍な行為である」と述べている。

  • 王弟プロヴァンス伯爵(Louis XVIII、1755年~1824年)は、兄ルイ16世のヴァレンヌ事件と同時期に夫人(サルデーニャ国王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘マリー・ジョゼフィーヌ・ド・サヴォワ)と愛人を伴いドイツのコブレンツに亡命していたが、1795年に革命政府によって幽閉されていたルイ17世が死んだという噂が流れた事からルイ18世と名乗り始める。

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【仏】1795年07月、王統派によるキブロン上陸作戦が失敗に終わる。

  • キブロンに亡命したフランス王党派が集まり、イギリスの支援を受けてキブロン上陸作戦が行われた。伝統的にブルターニュが王党側であったことからキブロンが選ばれたが、侵攻作戦はルイ=ラザール・オッシュ率いる革命軍に退けられる。

  • この時、王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)も島に上陸する予定であったが、土壇場で取りやめ、代わりに1本の剣を贈った。これによって意気消沈した遠征は失敗に終わったともいわれる。

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  • こうした怯懦な振る舞いの積み重ねが最終的に7月革命(1830年)によるブルボン家からオルレアン家への王統交代と7月王政(1830年〜1848年)を招いたとも考えられている。
    *ここで肝心なのは(世界中の左翼陣営のイメージに反して)革命戦争とナポレオン戦争を経た18世紀前半のフランス人の大半が概ね「共和制より王政の方が望ましい」と考える方向に保守化していたという事。そしてジェントリー階層に商業活動への直接参加を禁止した事でマンチェスター新興産業階層を滋養した大英帝国と「領土や領民を全人格的に代表する農本主義的領主自らが商業活動に参画して新興産業階層の台頭を阻害した」ロシアや東欧(この後進的展開故に後に共産主義の「一時的」導入が不可避となったのがいわゆる「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」)の狭間にあって「(主に七月王政下において)王侯貴族のブルジョワ階層化」が進行したフランスにおける産業革命の導入過程は、それ自体が折衷主義的だったという事。まずこの事実に注目しない限り「フランス革命は祖国においてどんな役割を果たしたのか」ちゃんとした形では像を結ばない。

【仏】1795年10月05日、ヴァンデミエールの反乱が勃発。王党派を中心にした民主勢力の蜂起が武力鎮圧された事件である。ヴァンデミエールとは革命暦の葡萄月(9月22日~10月21日)のこと。

  •  テルミドール反動後、ポール・バラスは経済状態が悪化して困惑する民衆を尻目に新政権の有力者にのしあがり、テレーズ・カバリュス(タリアン夫人)を愛人したり有力な銀行家や御用商人と結託して暴利を貪る毎日を送る様になった。それに追随するかの様に新興成金が放蕩したのでパリには650ものダンスホールができ、洒落女や伊達男らが闊歩して風紀紊乱が広がる。かくしてクーデターの首謀者であるテルミドール派の人気は地に落ちる事になった。
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  • そうした状況への対応策としてポール・バラスらは国民公会の選挙に確実に自派の議席を確保できる「三分の二法」と呼ばれる法案を通過させた。これは「選出される750の議席の内、500(3分の2議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない」という法律で1795年9月に行われた国民投票の結果、「三分の二法」は約20万票対11万票で可決される事になる。選挙で勝つ予定の王党派はこの結果に激怒し、暴動を準備し始めた。
    *左翼陣営の「多数決論理に対する軽蔑」は、当時のフランスにおいてまともに選挙が行われたら確実に王党派が勝利した事にも由来すると考えられている。

    *そういえば大英帝国を19世紀末から20世紀初頭にかけて震撼させた「女性参政権運動」も、基本的には保守党が票を伸ばすばかりだったので自由党労働党が断固反対し続けた辺りに問題の根源があった。こればっかりは保守政党の在地有力者に対する「我田引鉄」政策が図に当たってトントン拍子に選挙権拡大が進行した大日本帝国の方が先進的だったとは到底言えない辺りが歯痒い。

  • 1795年10月20日に選挙が行われることに決まったが、「三分の二法」に不満を持つ王党派を中心に、10月5日に暴動が発生。暴徒はテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃。国民公会はサン・キュロットの援助を求めたが、左派は直前に弾圧されてパリでは勢力を失っていた為、国民公会はバラスを国内総司令官に任命した。彼はナポレオンを副官に命じ てこれを鎮圧させることに成功した。

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  • ナポレオンの指揮する砲兵は首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法で抵抗する王党派をあっさりと鎮圧。暴徒は撃退され、翌日抵抗は止み、10月25日、国民公会はナポレオンを国内軍の総司令官に任命して、反徒に対しては寛大な処置を取った。流血の場であった「革命広場」は「融和」を意味する「コンコルド広場」と名前を変え、以後パリは国内軍司令官の命令に絶対服従することを余儀なくされ、完全に軍の制圧下に置かれる事になった。
    *あえて指摘するまでもなく「ジャコバン恐怖時代の叛徒鎮圧方法が、当時の執行人達の手で再現された」図式。その事実を世界中に改めて周知したのがオーストリア出身の著述家シュテファン・ツヴァイクの手になる評伝「ジョゼフ・フーシェ(Joseph Fouché、1929年)」だったくらい、フランスではタブー視されてきた話題とも。

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  • ナポレオンはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取ったが、そもそも霞玉砲撃による大量虐殺は恐怖政治時代の反乱分子鎮圧の常套手段に過ぎなかった。さらには「そもそもナポレオンはフランス相手に長年苦戦を強いられてきたコルシカ島の出身者であり、フランス人に砲口を向ける事に躊躇する理由など何もなかった」という極論まで存在する。やがてフランス国民はそういうメンタリティの人物を皇帝として推戴する事となり、さらなる苦境に追い込まれていったという訳である。

  • 総裁政府が発足すると総裁の1人となる。バラスは総裁職を保持し続けた唯一の人物で、その後の5年間政府に君臨し、リュクサンブール宮殿に居を構えて豪勢に暮らした。愛人であったジョゼフィーヌは1796年、ナポレオンと結婚した。
    *何故かフランス革命の時代から皇帝ナポレオンの時代にかけての欧州で流行した(妊婦を理想しするルネサンス風の)ゆったりしたシュミーズ・ドレスは王政復古期(1815年〜1830年)に入ると廃れ、コルセットでウェストを締め上げ、スカートをペチコートで膨らますスタイルが復古する。当時の宮廷生活に横溢していた独特の退廃的雰囲気と何か関係がある?

【仏】1795年10月27日、ピンクニー条約(Pinckney's Treaty、またはサンロレンゾ条約、マドリード条約とも)が調印される。
*当時のアメリカは次第に大英帝国スペイン帝国の新大陸における領土争いの継承者として台頭してくるのである。

  • サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルで調印され、アメリカ合衆国とスペインの間の講和の意志を確立した。それは合衆国とスペイン領植民地間の境界も定義し、合衆国のミシシッピ川の航行の権利も保障した。 条約の正式名称は「スペインと合衆国間の講和、制限、航行条約」(Treaty of Friendship, Limits, and Navigation Between Spain and the United States)。合衆国側はトマス・ピンクニーが、スペイン側はマヌエル・デ・ゴドイが条約を交渉した。1796年2月26日にアメリカ合衆国上院に提出され、数週間の議論の後1796年3月7日に批准。スペインには1796年4月25日に批准され、その日付で両国に承認された。公布は1796年8月3日。

  • この条約の条項によってスペインと合衆国は、まず境界線の共同測量を義務付けられた(その後アンドリュー・エリコットが合衆国測量隊の隊長に任命される)。ミシシッピ川上の北緯31度線の地点からチャタフーチ川の中央へ真東へ引き、そこから川の中央沿いにフリント川との合流点まで、そこからセントメアリーズ川の上流へまっすぐ進み、そこから大西洋に向かう水路の真ん中に沿って引かれる線を、スペイン領地の東フロリダと西フロリダに接する合衆国の南の境界として合意した(現在のフロリダ州ジョージア州の間の境界。フロリダ・パンハンドルの北の境界から、ミシシッピ川以東のルイジアナ州の部分の北の境界までのライン)。この合意によって合衆国は領内にアメリカインディアンのチカソー・ネーションの土地を含む事になったが、合衆国もスペインも先住部族を戦争に駆り立てない事にも合意した(それまでスペインは、長年にわたって地元の部族に武器を供給していたのである)。スペインと合衆国はまた、管轄内のどの場所においても他国の船舶を保護し、他国の市民や船舶を拘束したり通商停止にしたりしない事、合衆国とスペイン両国が河川全域の航海を保障する事にも合意した。

  • この条約でスペインより割譲された領地は、1798年に合衆国に編入されてミシシッピ準州となった。

  • ところで国境問題はフロリダを所有する様になったイギリスがその領土を拡張して始めてよりずっと議論の的となってきたのだった。フロリダは1513年にこれを最初に発見したフアン・ポンセ・デ・レオンによってスペイン領と宣言されたが、その北東海岸には1565年にセントオーガスティンが創設された(ヨーロッパ人の継続的居住が認められたアメリカ合衆国本土内における最古の入植地)。それでもスペインは七年戦争終結させた1763年のパリ条約で、英国がマニラとハバナを返還する交換条件にフロリダの領有権を獲得するまで、一応は領有権を主張し続けた。

  • アメリカ独立戦争の後の1783年、英国はやむなくフロリダをスペインに移譲。これ以降、スペイン側がパリ条約時点に英国が定めた境界線を主張し続けるのに対してアメリカ合衆国側が古い境界線(ヤズー川とミシシッピ川の合流点(現在ミシシッピ州ヴィクスバーグのある場所)より真東に引かれるライン)を主張する様になる。さらにはジョージアとフロリダの境界沿いで、アメリカの主用水路と重なるミシシッピ川の使用に関する紛争まで起こってこの条約の締結となった訳だが、トーマス・ジェファーソンが予見したように、アメリカ合衆国がこのままフロリダに手出しをしないまま終わる事はなかったのである。
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【仏】【米】1797年10月04日 XYZ事件(XYZ Affair)が勃発

  • 1797年から1798年にかけてアメリカとフランスを震撼させた外交上の衝突事件。フランス側の示した賄賂の要求がアメリカの威信を傷つけ、米仏同盟の破棄にまで発展した。

  • アメリカとフランスの間に締結された米仏同盟条約は、既に1793年の中立宣言と1795年のジェイ条約締結によって有名無質になりかけていた。アメリカが対仏大同盟の一角をなすイギリスと接近することを懸念したフランスは、同条約に強硬に反発。報復措置として、アメリカ船舶に対してフランスへの出入りを禁じたり、私掠船に拿捕させたりすると共に、駐仏公使に就任したピンクニーの受け入れを断固として拒否する。こうした問題が起こった直後アメリカ大統領に就任したジョン・アダムズは、問題収拾を図るべくピンクニー、マーシャル、ゲリーの3名を特使としてフランスへ派遣した。

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  • 1797年10月4日、フランス外相タレーラン(1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外務大臣の座を射止めた(~1799年))は彼らを非公式に受け入れたが、公式会談の開催をわざと遅らせ、代理人3名をそれぞれの特使の元に遣わした。代理人らは特使に対し、交渉開始の代償として25万ドルの賄賂と1200万ドルの借款の供与を暗に要求した。これに激怒した特使は要求を拒絶、ゲリーを残して帰国した。

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  • アダムズは、3名の代理人をそれぞれX、Y、Zと仮称して、特使から受け取った書簡を連邦議会に提出。フランスが行った賄賂の要求を暴露した。これにより、アメリカ国内の世論は一挙に硬化。ことさらに連邦党はフランスへの敵意を露にした。事件を契機に海軍省の設置や治安取締法の制定が矢継ぎ早に行われ、1798年から1800年にかけての宣戦布告なき海戦、いわゆる「擬似戦争 (Quasi-War)」に突入していく事になる。一連の抗争は、1800年9月のモルトフォンテーヌ条約(Treaty of Mortefontaine)で一応の決着を見るが、かかるフランスとの和解でさえハミルトンらフェデラリスト強硬派からの反発を防げず,この年の大統領選でジェファソンに敗れる要因となったのだった。

  • なお、「X、Y、Z」と呼ばれた3名の代理人は、ジャン・コンラッド・オッティンガー(Jean Conrad Hottinguer)、ピエール・ベラミー(Pierre Bellamy)、リュシアン・オーテヴァル(Lucien Hauteval)であったことがのちに判明している。
    *如何なる議論も始められていない前にフランスが莫大な賄賂を要求したXYZ事件の屈辱によって、フランスとの全面戦争に移る脅威が急増してフランスに友好的だったジェファーソン支持者達を当惑させた。そして擬似戦争と呼ばれるアメリカとフランスの宣戦布告無き海洋戦争が1798年に勃発。格段に勢力があり強力なフランス軍による侵略の可能性が生じると連邦党は軍隊を構築して、ワシントンをその長に戻し、ハミルトンを軍隊指導者とした。アダムズは海軍を再構築し、USSコンスティチューションなど6隻の快速かつ強力なフリゲート艦を建造。その費用を賄う為に議会は増税もしている。

【仏】1799年11月09日、ブリュメールのクーデターが勃発

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  • フランス革命暦ブリュメール(霧月)18日、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデターのこと。彼は執政政府を樹立、自ら第一執政となった。

  • 1795年に公安委員会委員として政界に復帰したシェイエスは、国民公会委員長になったものの総裁政府に入る事は拒否。その後プロイセン全権大使を務め、1799年にフランスに戻ると総裁の1人に就任しプレリアール30日のクーデターによって総裁政府の実権を握った。

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  • 総裁政府の実権を握ったシェイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。しかし憲法改正を支持する元老会議を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会議を説得するのは無理なのでエジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策した訳である。とどのつまりこの時点でのナポレオンは、クーデターを成功させる剣の役割に過ぎずナポレオン自身も「シェイエスたちが首謀しただけで、私は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけは頂いた」と述懐している。とはいえエジプトからの敵前逃亡罪の嫌疑がかかっているナポレオンには他の選択肢が残されていなかったのも確かである。

  • 同時期の総裁政府は、イタリア遠征で成功して英雄として人気が鰻登りだったナポレオンへの警戒心を強めていた。特にポール・バラスは追い詰められており。ブルボン家プロヴァンス伯(後のルイ18世)との交渉を開始し、王制の復活を画策し始めていた。

  • シェイエスらが執政として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンがいち早く買って出る事でナポレオンは第一執政の座を勝ち取った。その後シェイエスらを抑え込む事に成功したナポレオンは5年後の1804年に帝政を敷いて自ら皇帝に即位し、いわゆるナポレオン戦争へと突き進んでいくこととなる。

  • この事件の後でポール・バラスは辞職に追いやられたが、その後も処罰される事はなくそれまで貯めた巨額の富を手にモンペリエで隠遁生活を送った。

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【仏】【米】1803年、ルイジアナ買収(Louisiana Purchase)。アメリカがフランスから210万km2を超える領地を1500万ドル(現金1125万ドル + 当時の借入金375万ドルを帳消し)で買収した。

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【米】1807年8月17日 ロバート・R・リビングストンの後援で完成したフルトンの蒸気船「クラーモント号(Clermont)」が試運転を成功させる。

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  • 当時の蒸気船はまともに動くものがほとんど無かったために、1807年のハドソン川での試運転までは周囲から「フルトンの愚行」と呼ばれていた。

  • 始動直後には船体左右2つの直径4.8mの外輪が突然止まってしまったが、やがて調整を済ませた新造船は順調に航行を開始した。船上の招待客も騒音を除けば快適な旅を楽しんだ。翌18日午後1時に最初の目的地であるクラーモントに到着した。すぐに次の目的地オールバニに向け出発し、計32時間で150マイルを逆風で走ったことを計算すれば平均時速は4.7マイルとなった。ニューヨークとオールバニの間は普通は4日間かけて帆走し、早い船が最適の風を受ければ16時間で快走していたため、クラーモントの32時間は驚くほど早い訳でもなかったが、帰途での30時間という記録とあわせれば、向かい風でも無風でも蒸気機関さえ動けば確実に汽走出来る事が示された点で大成功であった。

  • 公開実験の成功後、直ちに船内の宿泊設備などを整えて、2週間後の1807年9月4日からは土曜にニューヨーク発、水曜にオルバニー発の週1往復のスケジュールで営業運行を開始した。この開業時には、政府高官であったリビングストンの力もあって、ハドソン川だけでなくニューヨーク州の蒸気船による河川運送業の独占免許を取得した。12月から2月の冬季運休期間にクラーモントの改装を行い、同時に船名も「ノース・リバー」(North river)と改めた。

  • 1814年にはノース・リバーが引退し、より大きな「リッチモンド」が登場した。その後はさらに「カー・オブ・ネプチューン」「パラゴン」「ファイアフライ」の3隻も加わった。

【米】1819年02月22日、アダムズ=オニス条約(大陸横断条約)が締結される。

  • ジョン・クィンシー・アダムズとルイス・デ・オニスによって署名されたが、1821年にスペイン政府が批准するまでは実効されなかった。この条約の結果、アメリカ合衆国はフロリダとオレゴンを受け取り、割譲したすべてのテキサスの土地はスペインの主張する土地となる。その際にアメリカ合衆国はスペインに500万ドルを支払ったと広く信じられているが作り話である。両国政府の間に金銭のやり取りはなかった。

  • 1812年、 合衆国軍とジョージ・マシューズ司令官率いるジョージア「愛国軍」は、アメリカの利益を守るためフロリダに侵略した。これらの利益は大部分は奴隷に関連していた。長い間逃亡奴隷は、アメリカ人がセミノールと呼んだフロリダ先住民に保護を与えられていた。彼らは半封建的な制度で生活していて、セミノールはすでに「自由な」黒人に保護を与え、かつての奴隷は先住民と作物を共有した。黒人はセミノールにとって下位の者としてまだ考えられていたという事実にも関わらず、ふたつの集団は調和して生活した。奴隷がフロリダへ逃亡し続けるようになると、ジョージアと他の南部の奴隷所有者たちはこの問題を巡って憤慨するようになったのであった。このフロリダへの侵攻は、アメリカのほとんどから思慮の足りない行動と認識され、スペインは部隊の速やかな撤退を約束された。

  • 先住民と入植者を巻き込む長年の度重なる紛争(第一次セミノール戦争:1817年-1818年)の後の1818年、アンドリュー・ジャクソン将軍はモンロー大統領に、彼がフロリダへ侵略する事を知らせる手紙を書いた。ジャクソンの軍隊はテネシーを出発し、北フロリダで猛威を振るいながら、アパラチコラ川を下って進軍した。ジャクソンの軍がペンサコラに到着した3月には、スペイン軍は即座に降伏した。

  • アンドリュー・ジャクソン将軍が新たに獲得された領地の軍政府長官として務めのはほんの短期間に過ぎなかった。1822年3月30日、アメリカ合衆国は東フロリダと西フロリダの一部をフロリダ準州に併合したからである。ウィリアム・ポープ・デュヴァルが最初のフロリダ準州の正式な知事となり、すぐ後に州都がタラハシーに創設されたが、それは地域のセミノール部族を外に移住させた後での事であった。

  • 準州での主な軋轢はセミノールの居住者であった。連邦政府とほとんどの白人入植者は、すべてのフロリダのインディアンを西部に移住させる事を希望した。1830年5月28日、議会はインディアン移住法を可決し、すべてのインディアンに対してミシシッピ川の西に移住することを要求した。この法律自体はフロリダを個別に意味していなかったが、1832年5月9日にセミノール酋長の委員会に署名されたペインズランディング条約の枠組みを敷いた。この条約は、すべてのフロリダのセミノールの居住者に、3年の猶予を与えた1835年までに移住を強いる事を提示した。有名なオセオーラが戦争をする決定を最初に表明したのがこの会合であった。

  • 1835年後半から、オセオーラとセミノールの同盟はアメリカ軍に対するゲリラ戦闘を開始する(第二次セミノール戦争:1835年-1842年)。多くの司令官が戦いそして失敗し、土地の知識の欠如と同じく暑さと疾病に敗れた。トーマス・ジェサップ将軍が、監禁中に病気で死亡したオセオーラを含むセミノールの主要な酋長が捕らえるまで、戦闘は収まらなかった。この戦争後、セミノールは最終的に、1845年3月3日にフロリダが27番目の州として連邦に加わるまでにエヴァーグレーズの小さな集団を除くほとんどが強制移住させられた。

アメリカは歴史のこの段階に至ってなお「国民国家」とはいえない状態で、それが以降もしばらく続きます。

一方フランスは第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)になってやっと産業革命が根付き、その結果育った新興産業階層が政治的エリートへと進化する事でやっと「主権国家」から「国民国家」への移行を済ませる事になります。

*フランス人は不思議と皇帝ナポレオン三世の功績を認めたがらない一方、7月王政期(1815年〜1848年)における「王侯貴族のブルジョワ化」を重視する。まさしくバルザックが「人間喜劇(La Comédie humaine、1842年〜1850年)」で活写した世界。

こうした観点から逆算すると「主権国家から国民国家への移行」なるもの「主権が王侯貴族や教会から国民に推移していく過程」というより「経済が政治(王侯貴族や教会の私利に基づく国際外交)の従属物に過ぎなかった時代」から「政治が経済(全てを数値化して管理する「計算癖」の領域)の従属物に過ぎなくなっていく時代」への過渡期と考えるべきなのかもしれません
そもそも「計算癖の全人格化」によって全てが数字的に掌握されるまで「国家総動員」はただの掛け声に過ぎない。フランス革命は史上初めて120万人規模の国民軍を現出させたが、維持費が捻出出来ず「戦争の継続によって軍隊を養う」倒錯状態に陥ってしまった。この辺りがちゃんと整備されてくるのは全てが統計によって管理される様になる19世紀後半以降で、そうしたビジョンを最初に提唱したのはむしろ「ジロンド派啓蒙主義者」としてギロチンの露と消えたコンドルセ侯爵だったりする。

概ね背後には未曾有の経済危機があり、だからとりあえず「(余計な散財に巻き込まれずに済む)絶対中立の道を選ぶ」 というのも立派な回答の一つ。ただそうした振る舞い自体は、その国が主権国家国民国家かを問わず起こってきたのです。

既存の世界史は「中世的普遍史(Universal History)の主導者を巡るローマ教皇庁とハプスブルグ家とフランス王室の巴戦だったイタリア戦争(1494年〜1559年)」から「(シュマルカルデン戦争(1546年〜1547年)を終わらせた和平条約としての)アウクスブルクの宗教和議(1555年)や、(三十年戦争(1618年〜1648年)を終わらせた和平条約としてのヴェストファーレン条約(1648年)の締結によって神聖ローマ帝国領邦国家化が不可避となっていく歴史的プロセス」によって現在の国際協調体制の基盤が構築されていくプロセスばかりに注目してきた。

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そもそも(現在の国際協調体制の起源ともいうべき)ヴェストファーレン体制を主導したのは(当初は宗教戦争としての三十年戦争と完全に無関係だったのに、後から参戦して漁夫の利を得た)フランス絶対王政スウェーデン王国だったし、そのうちスウェーデン王国大北方戦争(1700年〜1709年)背景を契機にその座を「バルト海の新覇者帝政ロシアへと明け渡さざるを得なくなる。

その一方で「絶対王政の黄金期を現出させた成功モデル」としての太陽王ルイ16世(在位1643年〜1715年)の治世は同時に「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを改めて浮き彫りにした。

主権国家を「(戦争や贅沢といった形で経済を回す)国王の散財を支える官僚制度」と規定するなら、主権国家から国民国家への推移過程をより的確に捉えているのはむしろ政治史の世界というより経済史の世界といえよう。フランスにおけるコルベール重商主義、ドイツ語圏における官房学(Kameralwissenschaft、あるいはカメラリズム(独: Kameralismus, 英: Cameralism) )そして18世紀ナポリ発祥の「国家を経済の主体と見做し、国民の徴税負担を縦軸に、対価として国民が受ける公的サービスへの満足度を横軸に取った計測値に基づいて叛乱の勃発などを予防する」独創的な政治経済学の登場。

*実は江戸幕藩体制下の日本でも薩摩藩長州藩の様な幕末に活躍した西国諸藩の「台所」において同様の経済改革なら遂行されていた。この事実を抜きに明治維新は語れない。

さらに18世紀に入ると(ヴェストファーレン体制と完全に無関係だった)イギリスの経済的後援を受けたプロイセン王国が「欧州王侯貴族間の縄張り争い」の台風の目として台頭してくる。その勢いに対抗すべく「外交革命(1756年)=フランス王室とハプスブルグ家の歴史的和解」が遂行され、プロイセン包囲網が構築されたが実際に最終的勝者となったのはそうした「国際協調の世界」を尻目にせっせと海外植民地拡大に励んてきた大英帝国だったのである。

*当時の大英帝国の経済的発展(あるいは戦争遂行能力)は「(国内リソースの総動員体制として他国より頭一つ抜きん出ていた)計算癖の全人格化」によって支えられていたが、結果としてアメリカ独立戦争(1775年〜1783年)を引き起こしてしまう。それは「欧州国際協調体制」が英国の「経済至上主義」に一矢報いた最後の光芒でもあった。

フランス革命ですら、勃発当初は未曾有の経済危機を背景としての「王党派(ブルボン家との王統交代を狙うオルレアン家の暗躍)」や「(英国の様な立憲君主化を狙った)自由主義貴族の反乱」に過ぎなかった。

その意味ではフランス革命が真の意味でパラダイムシフトを迎えたのは「国家総動員(1793年)」以降となる。だがここでいう「パラダイムシフト」とは大量動員した兵士を自ら養う能力を有さない国家が、戦争を継続して現地調達によって戦力を維持する「戦争によって戦争を養う」方式の思考様式登場に他ならなかったのではあるまいか?
*そしてナチスドイツ統治下のフランス知識人は「革命の混乱が皇帝ナポレオン台頭に結びついた歴史的状況」と「ヴァイマル政権の迷走がヒトラー台頭に結びついた歴史的状況」の相似に付いてしまう。

*そして「戦争によって戦争を養う」は石原莞爾が提唱した軍国主義化した大日本帝国のモットーでもあったのである。

国民国家の暗黒面」と向き合うには、こうしたその経済面における葛藤の直視が避けられない。「計算癖の全人格化」が浸透した現代社会においてなお「その必要に迫られれば、戦争継続の為に国内リソース全てを動員し尽くす事も厭わないc(1910年代後半〜1970年代)の亡霊」としての国民国家はまだまだシステム的寿命を迎えてはいないのだる。ただ「(総力戦体制時代の衣鉢を継ぐ)産業至上主義の時代(1960年代〜1990年代)」は少なくとも「総力戦が再開されるビジョン」から現実味を奪う事に成功し、それ自体は原則としてある種の抑止力として現存するに過ぎない。
*ここで興味深いのは案外その歴史が(御当地グルメ同士の競争の様な)ナショナリズムの問題と無縁にその足跡を積み重ねて来たという事。フランス革命政府の手になる国家総動員令(1973年)は、その反動として「リヨン蜂起(Siège de Lyon、1793年)」「トゥーロン蜂起(Siege of Toulon、1793年〜1794年)」「ヴァンデの反乱(Rébellion Vendéenne、1973年〜1976年)」などを引き起こし、その鎮圧に当たっては「フランスへの産業革命導入を半世紀は遅らせた」大虐殺が遂行されたが、歴史のこの段階に至ってなお「革命への陶酔と反感」があるばかりで「国民意識の覚醒」とか「ナショナリズムの萌芽」といった要素は見て取れないのである。むしろそれは革命戦争(1792年〜1802年)やナポレオン戦争(1803年〜1815年)において抵抗勢力の盟主として淡々と戦争を遂行して来たイギリス人の間で芽生え、7月革命(1930年)前夜のフランスに逆輸入されたなんて極論すら存在する。

 「欧州王侯貴族間の縄張り争い」からあえて距離を置いて絶対中立状態を保とうとする政治的スタンスは、まさにこうした状況下において発展して来たのです。ある意味国際協調体制の主体が「ヴェストファーレン条約締結期における)王侯貴族」から「国連組織に端を発する)国民主権国家」へと推移していった時代の徒花とも。
*「国際協調体制の主体が王侯貴族から国民主権国家に推移した」…それは二月/三月革命(1848年〜1849年)を契機とするハプスブルグ君主国やオスマン帝国領内における民族主義(Nationalosm)の高揚を嚆矢とし「帝政ロシア」「オーストリアハンガリー二重帝国」「オスマン帝国」といった「三大旧帝国」の解体によって実現したとも。この間には「汎スラブ主義」汎ゲルマン主義「汎スカンジナビア主義」などのプロパガンダ合戦が挟まり、後の「汎アラブ主義」の起源となったとする見方も存在する。

*今日においてはすっかり忘れ去られてしまったが20世紀後半には「資本主義圏」とも「共産主義圏」とも距離を置いた「第三の道」として「民族主義連合」が夢想された時代すら存在したのである。当時流行した「インディアンやエスキモー(Native American)と黒人(Black Men)が白人(White Men)の全財産を接収し、彼らを一人残らず虐殺し尽くすまでアメリカは正気の国には戻らない」といった過激な主張一つとってみてもかなり現代人の価値観からかけ離れているが、日本でも例えば石ノ森章太郎平井和正共著「幻魔大戦シリーズ(1967年〜未完)」や「海外に逃亡した新左翼運動家が日本人の代表者として国際謀略に巻き込まれた冒険を経験する」船戸与一のハードボイルド小説(1984年〜1991年)においては横溢していた思考様式であり「(総力戦体制時代の衣鉢を継ぐ)産業至上主義時代」までは、まだまだ相応の説得力を有していた事実を認めざるを得ない。そして北朝鮮や韓国や中国共産党にはまだまだ当時の亡霊が根強く存在し続けているのであるとも。

  • 清教徒革命(狭義1641年〜1649年、広義1638年〜1660年)や17世紀商業革命(経済基盤の大西洋海域へのシフト)を契機とする「(欧州大陸内における王侯貴族間の勢力争いから脱した)栄光ある孤立(Splendid Isolation)」の始まり。
  • 「対立し合う勢力全てに対する傭兵供給国」だったが故に、どの国からも祖国を責められる事がなかったスイスの武装中立。皮肉にも欧州全土に設置された傭兵団駐屯地が為替事業を副業とする様になって金融大国化への最初の一歩を踏み出した。

  •  「欧州王侯貴族間の縄張り争い」の産物ながら、次第にそれから足抜けしていったアメリカ合衆国モンロー主義
    そもそもこの国は19世紀末になるまで国境が安定せず「国民国家」としての条件を満たす事はなかったが(米国独立戦争において水戸藩の役割を果たした)マサチューセッツ自由主義の無双時代そのものはシェイズの反乱(Shays' Rebellion、1786年〜1787年)によってあっけなく終焉を迎えアレクサンダー・ハミルトンらが主導した「連邦主義の揺籃期」へと突入していく。

  • 国王がどんなに「汎スカンジナビア主義」や「汎ゲルマン主義」に傾倒したがっても阻止して来た北欧人の冷徹なまでの中立主義

ここで気付くべきは「フランドル地方(オランダ・ベルギー)の悲劇」。そもそも(フランス語圏の起源たる)西フランク王国と(ドイツ語圏の起源たる)東フランク地方の緩衝地域として古代から一貫して経済的繁栄も甘受してきたこの地域には「中立の自由」だけは存在しなかったのです。とにかく欧州で何かしらの軍事的対立が発生すると真っ先に大軍が押し寄せてくる世界史上においても稀な地域…

*「ネウストリアアウストラシアの不和は、アウストラシアネウストリアに併合される形で綺麗さっぱり消失しました」的な単純明快なる歴史観の欺瞞。もしそれが事実だったら以降の歴史における「ドイツ人とフランス人の精神的対立」なんてあり得ない事になってしまう。

*フランス語でいうところの「アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)地方」、ドイツ語でいうところの「エルザス=ロートリンゲン(Elsaß-Lothringen)地方」 にも同種の傾向が見て取れなくもない。EU(ヨーロッパ共同体)の理念も、要するにこうした問題がドイツとフランスの二国間では解決し得なかったから始まったともいわれている。

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さて、こうした歴史を踏まえた上で「日本の一国平和主義」は成立するや否や?