諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【エントロピー理論の終着地点?】「距離のパトス」とメタ・レイシズム

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ゴビノー伯爵やニーチェが傾倒した「距離のパトス(Pathos der Distanz)」の維持を渇望する独特の貴族主義的世界観。

産業革命導入期(19世紀後半)や(「国民国家間の競争」が何より最優先されて来た)総力戦時代(1910年代後半〜1970年代後半)から(そうした形での国民動員形式の衣鉢を継ぐ)や、商業至上主義時代(1960年代〜1990年代)においてそれはこんな具合に機能して来たと目されています。

  • 産業革命導入期、英国においては「食パンと砂糖入り紅茶」、日本においては「白飯食」に毎日ありつける贅沢が労働者からモチベーションを引き出した。ただしもちろんそうした生活が当たり前になってしまえば要求はさらに高度化する。かくして英国では「Fish & Chips」文化、日本では「鮭缶・蟹缶・牛缶」文化が広まる。

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  • 例えば「高級料理としての鰻の蒲焼への憧憬心」は「より安価な養殖鰻の登場」によって克服されたりもする。こういう事を繰り返していけば、やがていつかは「(労働者を労働に向かわせる)高級料理への憧憬心」は完全に消え失せてしまうかもしれない。ゴビノーやニーチェが貴族主義的世界観に基づく「距離のパトス(Pathos der Distanz)温存論」を主張する様になった背景には、そうした焦燥感が存在したりする。

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それではこうした思考様式が一旦の終焉を迎えた20世紀末に一体何が起こったのでしょうか?

浅田彰スラヴォイ・ジジェクとの対話」『「歴史の終わり」と世紀末の世界(1994年)』

浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。

そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。

もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。

しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。

これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。

ボードリヤールコジェーヴスノビズム論によれば、物質的充足(アメリカ)がエンド(目的=終わり)を持つのに対して、支配欲から発した虚栄のための差別化はエンドレスであり、その極点において日本人は単に差別化ために(自己と他者が違うということを示す(あるいはそのことによって相手を支配する)ためだけに)自殺する(切腹をする武士と特攻隊は命令者に抵抗することなく自殺する)。エンドレスな差別化によって成り立つ世界において最も価値を持つのは差異のためだけに行われる自殺であり、それは自由、自己実現、人生の肯定といった価値とは何の関係もない。単に無価値なものが最も価値を持つとされる、極限的な価値倒錯である。

歴史を人間が自然を克服し人工によって自由を実現する前進運動として捉えた場合、前進運動の終わりは自由の獲得と関係のない差異のためだけの自殺を価値の頂点とする世界として現れるのではないか。そして、日本こそは自由を実現しきって何一つ歴史的に求めるものがなくなったがゆえに、端的に他者と異なる自己の実現だけを価値とし、その結果としてすべての国民が無意味かつ無償で自殺をすることを可能にした絶滅(エクスターミネーション-進歩の終わりは種の絶滅)へ向かう前段階の人類のあり方を示している。これこそが人類進歩の最先端のあり方を(アイロニカルに)示したものだ。
*もしかしたら中国や韓国や北朝鮮の駆使する過激なプロパガンダにしばしば登場する「歴史的罪悪感に苦しむ日本人は、もはや全財産を我々に差し出して自らは輪姦と拷問の果てに一人残らず無残な最後を遂げる形でしかこれ以上の幸福感を得られない」といった独特の言い回しは、こうした欧州起源で日本のインテリの間にもにも横溢した独特の自滅的センチメンタリズムに由来するものなのかもしれない。

割とこうした実存不安に満ちた世界観こそが、総力戦体制時代も(その衣鉢を継いだ国民総動員体制を継承してきた)商業至上主義も潰えた1990年代に横溢していた独特の閉塞感の正体とも。 

その一方で、実際の日本では「(メディアに扇動された)バブル経済的散財」に反感を表明するが如く「B級グルメ」や「街の洋食屋さん」の静かな再評価ブームが始まったりもしています。

B級グルメ - Wikipedia

安価で、贅沢でなく、庶民的でありながら、おいしいと評判の料理のこと。またそのような料理を好んで食べること。外食の他に、家庭料理の場合もある。

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  • 最初に登場したのは1985年とされる。フリーライター田沢竜次が雑誌『angle』に連載した記事をもとに、『東京グルメ通信 B級グルメの逆襲』(主婦と生活社)が刊行された。そして1986年に文春文庫ビジュアル版田沢竜次もメインライターとして参加した『B級グルメ』シリーズが刊行され、この用語と概念が広がった。

  • 上記の文春文庫『B級グルメ』シリーズの担当編集者だった里見真三(本名・内藤厚、雑誌『文藝春秋』(文藝春秋)の元編集者)は、女性誌に書いてあった「この料理1万円はお安いわ」という一文に立腹し、「そこいらへんにある普通の食い物を楽しく賞味しよう」とB級グルメを提唱した。

  • 2006年ころから、各地で、安価で庶民的な料理を新たに造り、それを自地域のものとして地域おこしに活用しようとする試みが増え、その結果「B級グルメ」と言っているのに、それ全般を指さずに、特定の地域に結びつけようとした料理、つまり「B級ご当地グルメ」に焦点が当たることが増えてきた。

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このような「B級(ご当地)グルメ」は、郷土料理とは大きく異なっており、歴史が浅く、農山漁村の生活に根付いたものではなく、基本的に近年になって開発された料理、作為的な料理である。また「町おこしのため」と称していても、実際には、特定の飲食店や特定飲食店グループが流行りに便乗して自店・自グループの目先の金儲けのためだけにやっていることが増え、批判されるようになっている。

B-1グランプリが引き起こした問題

B-1グランプリ」の、「B-1」の「B」は「B級」ではなく「Brand」のB。そもそもB級グルメの祭典ではない。だがこの「B」を「B級グルメ」と勘違いしたり、強引に結び付けることが行われ、混乱が生じている。

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  • 2006年に青森県八戸市で第1回が開催され、毎年1回行われるようになった。しかし、B-1グランプリに出場するのは特定団体の加盟団体に限定され、加盟団体も多くは「地域おこし」を標榜しながら、実際は飲食店などの「業界おこし」との指摘もある。

  • 知名度の上昇に比例し、2008年頃からグランプリ出場のために急造のB級グルメを創作する傾向が広がり、特にご当地焼きそば、ご当地カレーが乱立。

単に地域特産の食材を無理やり詰め込んだだけで「ご当地グルメ」を名乗る安易な発想には批判も強い。

あと「個人の生き方の多様性」を全面的に肯定する第三世代フェミニズムが登場するのもこの 時期。

また「ラノベ的世界観」も当時世界中を覆い尽くした独特の絶望感を超越した流れの一つに数えられる事があります。

どうやら「それまで大人の用意した家族や社会といった枠組みの中で自らを構成きてきた若者達が、自らも主体性を備えた一員として社会に組み込まれていく過程で抱え込む実存不安」には時代を超越した普遍性がある様である。

  • 自らも主体性を備えた一員として社会に組み込まれていく過程にある若者達」は「我々の主体性は何人たりとも犯し得ない(お前達には我々を無批判で受容する自由のみを許してやろう)」なる「傲慢な大人達の主張」に反発すると同時に「大人達はやる事なす事全て間違ってる。我々が自らの主体性を獲得するには革命を起こすしかない」といった性急な急進主義も同じくらい警戒する様になった。両者が表裏一体の関係にある事を見抜き「そういう大人にだけはなりたくない」と考える様になったのである。

日本の2000年代前半以降のエンターテイメント業界は、こうした 感情に素直に従う事によって「世紀末的閉塞感」からの脱却を果たしていく。

一方、なぜか当時のアメリカは「21世紀のロビンク・ルーソー物語」ともいうべき孤立無援物の全盛期。それが2010年代に入るとまとめて映像化される展開を迎えます。そして遂には「人生のFPS」なるキーワードも登場。

私達はそろそろこうした「エントロピー理論に基づく計測を拒絶する新しい価値観」が何処に向かっているか、既存の価値観とどう交わっていく事になるかについて真剣に考え始めないといけないのかもしれません。

その際に鍵を握る事になるかもしれないのが(美食と共産主義の街)イタリアのボローニャや、(孔子と盗賊の故郷)中国の山東省や、日本の京都や鎌倉といった歴史ある古都で育まれて来た「年代物の距離のパトス」の圧倒的存在感とも。

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あるいは最近流行の量子力学存在論へと収束していく?