諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

アメリカ独立戦争とフランス革命④ 「諸国民の戦い」と呼ばれる到達地点

ナポレオン戦争(1803年〜1815年)における最大規模の戦闘となったライプツィヒの戦い(英Battle of Leipzig、仏Bataille de Leipzig、1813年10月16日〜10月19日)。
ライプツィヒの戦い - Wikipedia

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  • 諸国民の戦い(独Völkerschlacht, 英Battle of the Nations)とも呼ばれるこの合戦では、ドイツ東部のライプツィヒ(当時のザクセン王国領)においてナポレオン1世麾下のフランス軍19万と、プロイセンロシア帝国オーストリア帝国スウェーデンの連合軍36万が衝突。

  • それはフランスが国民総動員体制によって獲得した軍事的優位に他国が遂に追いついてきた事を意味する戦いでもあった。3日間の激戦の末、圧倒的な兵力差の前にフランス軍は敗北。ナポレオンによるドイツ支配は終焉を迎える。

主権国家間の競争」が「国民国家間の競争」に推移した重要な契機の一つ。歴史のこの時点において「戦争を遂行する為に国民と国家資源の全てを総動員する国民国家は絶対悪だから、一刻も早く滅ぼし尽くすべし」なる発想はまだ存在すらしていません。
*そういう立場の人間に限って「重要なのは本当のフランス革命精神に立ち返るべきだ」とか言い出すから嫌になる。ここでいう「本当のフランス革命精神」とは概ねベネディクト・アンダーソンが「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」において指摘した「(実際のアメリカ独立戦争フランス革命の史実とほぼ無関係に組み立てられた)想像された市民革命」を指す。ベネディクト・アンダーソンは、それが次々と他国の革命につながった事を絶賛するが、一旦勃発した革命はたちまち「現実」に絡め取られて現実的に推移する事についてはあえて触れようとしなかった。

ロシア遠征半島戦争でのナポレオンの敗北を受けて、反フランスの第六次対仏大同盟(1812年〜1814年)が結成され、イギリス、ロシア、スペイン、ポルトガルプロイセンオーストリアスウェーデンとドイツのいくつかの領邦が参加。
第六次対仏大同盟 - Wikipedia

1812年のナポレオンによるロシア遠征の開始を契機として、イギリスとロシアの二国間で締結された同盟に始まる。

  • ロシア遠征はフランス軍にとって致命的な損失を招いた。兵員37万が死亡し、20万が捕虜となったのである。半島戦争で傷ついたナポレオンの不敗神話はここに完全に崩れ落ち、フランスに支配されていた諸国は次々に離反していった。

  • 1813年2月27日にはプロイセンもフランスとの同盟を破棄して第六次対仏大同盟に参加。8月にはオーストリアスウェーデン、ライン同盟諸邦も加わった。ここにイギリスを中心とした大同盟が結成され、フランスに対する総攻撃が開始されたのである。

一方、ナポレオンも1813年に20万の新兵を徴募して、ロシア遠征で壊滅した軍隊を再建。そして連合軍では、3月17日にプロイセンがフランスへ宣戦を布告し、旧領の奪回に乗り出す。

*この戦いが開始されるまでにライン川以東に配置されていたロシア・オーストリアプロイセンスウェーデンその他の連合軍の兵力は100万を超えていたと推測される。それに対して、ナポレオンの兵力は減少し数十万ほどであった。

  • ナポレオンはドイツを再び手中におさめようと欲しており、5月2日のリュッツェンの戦いと5月20日から翌21日のロシア・プロイセン連合と戦ったバウツェンの戦いに勝利していた。その結果、つかの間の休戦が訪れたが、長くは続かなかった。

  • ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル、ベルナドットそしてシュヴァルツェンベルク指揮下の連合軍はトラーヒェンブルク・プランを採用。これはナポレオン本隊との正面衝突を避け、部下の部隊との会戦を志向する「分進合撃」戦略で、8月23日のグロスベーレンの戦い、8月26日のカッツバッハの戦い、さらに9月6日のデネヴィッツの戦いに相次いで勝利。なお、8月26 - 27日のドレスデンの戦いではナポレオンの本隊が参加してフランス軍が勝利を収めているが、追撃に失敗、8月30日のクルムの戦いにおいて追撃の一翼を担ったヴァンダムの軍団が包囲され、手ひどい敗北を被ってもいる。

  • この作戦を立案したのは、ベルナドットであるとも、オーストリア軍参謀長のヨーゼフ・ラデツキーとも、プロイセン軍参謀長のアウグスト・フォン・グナイゼナウとも言われている。
    *ヨーゼフ・ラデツキー元帥については「北イタリアから1857年に北イタリアからシュニッツェル(ドイツ語das Schnitzel, オーストリア方言das Schnitzerl、ヘブライ語 שניצל)を伝えた」なんて俗説も存在する。まさかの「豚カツ食って大勝利」なる発想の起源? オーストリアにおいては、さらにクロワッサンについても「オスマン帝国への大勝利を記念して焼かれた三日月型のパンが最初」という俗説が存在する。まぁこれが「主権国家」的発想という次第。

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  • ウディノ率いる12万の兵力によるベルリン攻略作戦がグロスベーレンの戦いで失敗したことを契機とし、ナポレオンは北方からの攻勢に備え西方に撤退せざるをえなくなった。そして9月下旬にエルベ川を渡り、約50km離れたライプツィヒ周辺において、補給路の確保と連合軍との会戦を期して軍を再編。

  • ナポレオンはタウヒャからシュテッツリッツ(ナポレオンが陣取った場所である)を通りリンデナウ南西の彎曲した形に兵力を集中させた。プロイセン軍はヴァルテンブルクに進軍し、オーストリア軍とロシア軍はドレスデンから、スウェーデン軍は北方からライプツィヒへと進撃。

当初ライプツィヒに集結したフランス軍の兵力は17万7000、連合軍は25万7000。

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  • 戦闘は10月16日に始まった。南からバルクライ率いるロシア軍7万8000、北からブリュッヘル率いるプロイセン軍5万4000が攻撃をかけ、ナポレオンの直属部隊も南方で反撃した。連合軍による攻撃の戦果はわずかしかなく、すぐに退却を強いられた。一方でナポレオンの部隊も連合軍の戦列を突破できず行き詰まった。

  • 17日は両軍ともに増援が来着し、これを配備していたため、小競り合いが起きただけであった。フランス軍には1万8000しか増援がなく、一方で連合軍には10万以上の増援が来着し、著しく増強された。

  • 18日、連合軍は総攻撃を開始した。9時間以上に及ぶ戦いにおいて、両軍とも大量の死傷者を出した。フランス軍は勇敢に抵抗したが、圧倒的な戦力差の前に戦線を支えきれず、ザクセン王国軍の一部も離反した。ナポレオンは退却を決断した。

  • 19日、フランス軍は白エルスター川を渡って退却した。退却は順調に進行したが、途中で橋が破壊されたため、殿軍として残っていたユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ(最後のポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキの甥)が戦死。彼は戦死の前日に元帥杖を受け取ったばかりであった。

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フランス軍の死傷者は3万8000に及び、3万が捕虜となった。一方、連合軍も5万4000に及ぶ死傷者を出している。戦闘の結果、フランス帝国ライン川以東での覇権は終焉。ライン同盟は崩壊し、多くのドイツ諸邦が連合軍に加入することになります。

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ちなみに連合軍の総司令官は、元フランス軍元帥のジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(後のスウェーデン王カール14世ヨハン)でした。そしてスウェーデンにおいては彼を「外人君主」として迎えた事が立憲君主制と絶対中立主義への推移の鍵となってくるのです。

この戦いが現出させたのは「国民総動員によってフランス軍が獲得した数的優位が、他国の国民総動員によって覆されていく」冷徹なまでの「計算癖が全人格化した世界」。

当時はまだまだ出版資本主義(Print Capitalism)に基づく「ナショナリズムの高揚」や「市民革命の勝利」といった「想像された図式」自体が形成途上でした。実際、欧州の王侯貴族はこの戦いに「伝統的価値観の回復」という意味合いを与え、復古王政時代(1815年〜1848年)の微睡みへと戻っていくのです。つまり(プロイセン王国によるドイツ統一を待望した)ヘーゲル哲学とは、そうした時代に發想された「国民国家」建設を志向する立場であり、それを実践に移したのが「プロイセン宰相」ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen、1815年〜1898年)だったという事になります。

*皮肉にも、ヘーゲル哲学はむしろ軍国主義化した大日本帝国において、より徹底した形で実践されたとも。この時代までに日本人は概ね「(江戸幕藩体制を克服する)国民統合」には成功していたので、その効き目もまたドイツ以上だった。

*逆を言えば領民感情を無視して「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に基ずく地方分権状態を国是とした復古王政時代の王政復古ドイツ諸侯にその実践は不可能だったのであり、この問題はドイツ帝国成立によっても克服されず、ナチス台頭を許す事になる。

しかしながら、二月/三月革命(1948年〜1949年)を契機にハプスブルグ帝国やオスマン帝国の領内に「(ベネヂィクト・アンダースンいうところの)想像された市民革命の理念」に使嗾されたナショナリズムの炎が燃え盛ったのでした。

民族自決(self-determination)

各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利。民族自決権ともいう。

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一方ナチス・ドイツはこれを根拠とし、チェコスロバキアポーランドオーストリアなどに住むドイツ系住民の保護を名目に、それらの地域を侵攻した。
*結局ここにも「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが顔をのぞかせるのだった。ある意味それがナショナリズムの本質であるにも関わらず、それはしばしばグローバリズムの仮面を被ってきた。欧州中世における普遍史観、太陽王ルイ14世の覇権に端を発するフランス中心史観、ウィルソン主義、そして科学的マルクス主義

*ここで「主権国家の段階を経てない民族のナショナリズム国民国家でなく主権国家護持に向かう」周回遅れのジレンマが発生する。民族自立さえ達成出来れば、その結果として誕生したのが全国民を弾圧する独裁政権でも国際正義は達成された事になるのだろうか? 北朝鮮の存在はリベラリズムにこうした問題を突きつけてくるのである。

*こうした形での「想像された市民革命の使嗾によるナショナリズムの高揚」は、ベルギー王国やイタリア王国ドイツ帝国独立運動に際しても必要とされなかったばかりか、むしろ議会を牛耳るブルジョワ勢力に「反体制側の大義名分」として採用され阻害要素となったくらいだった。皮肉にもここに「ナショナリズム(現実の革命)とグローバリズム(想像された革命)の最初の対決」を見る向きもある。また当時はマルクスの様にイタリア王国ドイツ帝国の独立を「ハプスブルグ家の大恩に対する許されざる不忠」と口汚く罵った大ドイツ主義的立場も存在し、ここにグローバリズムの起源を見る向きもある。元属国の全てに絶対忠誠を要求する中国的グローバリズムもそのバリエーションの一つとなる。

こうした歴史的流れが先進国をますます「計算癖の全人格化」に走らせる一方で、後進国を内紛のグダグダ(政治的不安定状態)へと巻き込んでいくのです。そして、こうした格差の広がりが第一次世界大戦(1914年〜1918年)勃発の遠因の一つに。

こうやって全体像を俯瞰していくと、どうしてもこう言いたくなります、果たしてベネディクト・アンダースンいうところの「想像された市民革命」は本当に後世に「正しい」結果しかもたらさなかったといえるのでしょうか?