諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

グローバリズム・リージョナリズム・ナショナリズム⑥ 「反安倍こそナチス」なる冷徹な現実

実は、調べ込めばれ調べ込むほど「ジャコバン派の恐怖政治がフランス革命を乗っ取っていったプロセス」と「ロシア革命ボルシェビキが乗っ取り民主集中制を確立していったプロセス」と「ナチスヴァイマル共和制を乗っ取っていったプロセス」と「大日本帝国軍国主義一色に染まっていったプロセス」の共通項を意識せざるを得なくなっていくものなのです。

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それもその筈。これらの歴史展開は、それを型抜きした外的状況そのものがかなり似通っていたのでした。

①「ジャコバン派の恐怖政治がフランス革命を乗っ取っていくプロセス

1792年、後に国民公会においてジロンド派を代表する人物と見做される様になっていくブリッソーは立法議会の外交委員会を制してオーストリアへの宣戦布告を決議。

しかしながら、実際に開戦すると革命の余波で指揮命令系統のないフランス軍は各地で敗戦を重ね、しかも開戦に伴う経済封鎖で市場を流通する物資が枯渇。

さらに「戦争に負けたらフランス人は皆殺しにされる」「国内に売国奴が潜んでいる」といった流言飛語が飛び交いパニック状態を呈する。

百二十万人徴兵」や「ジャコバン派の恐怖政治」は、まさにこうした状況に呼応した時代の落とし子だったのである。そして、その結果ヴァンデやリヨンやトゥーロンといった王党派の本拠地において「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」大虐殺が繰り広げられる展開となった。
*「(兵士再生産を恐れる余り)女子供ごと皆殺しにする」心理自体は、戦国時代における織田信長軍団の一向宗門徒への対応にも見て取れる。フランス歴史学も、こうした展開を「前近代的なるもの」に分類するのが主流となっている。それにも関わらず「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」悪行がドイツ軍や日本軍に転嫁されていくプロセスが興味深い。

そして19世紀フランスの急進左派が「赤旗」を理想視する世界観を完成させる。 

オルレアン公がフランス7月革命(1830年)に際して「実動部隊」として投入した「炭焼党(イタリア語Carbonari(カルボナリ)、フランス語Charbonnerie(シャンボリー))は、そもそもイタリア独立運動を志向する中世的秘密結社起源で王党派から急進左派まで幅広い人材を含んでいた。さらに保守反動化した神聖ローマ帝国諸国から脱出した急進左派ドイツ人も多数含んでいた。これによりブルボン王朝打倒に成功したオルレアン公は、それが単なる王統交代に終わってしまった事に不満を持つ急進派の共和主義者が蜂起した六月暴動(1832年)を容赦無く鎮圧(3000人の叛徒のうち死者100名弱、負傷者300名弱)。当時はパリ市民の同情など一切存在していなかった。

幼少時ドイツ語圏に預けられていたルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世は、そのせいでフランス語よりドイツ語の方が達者になってしまった。またオルレアン公同様に炭焼党の重要なパトロンの一人だった。

「エルナニ(Hernani, 1830年初演)」発表によって若き反体制的芸術家が7月革命に熱狂する土台を生み出したヴィクトル・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802年〜1885年)は「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年)」の中であえて、こうした「オルレアン公やルイ・ナポレオンが密かに養ってきたイタリア人やドイツ人の急進左派に対する粛清」に過ぎなかった六月暴動(1832年)を「愛国フランス人によるフランス愛国主義の為のフランスの運動」として描いた。実は当人は復古王政期(1815年〜1830年)にはブルボン王室から年金を貰っていた身分であり、七月王政期(1830年〜1848年)にはオルレアン王室と懇意にしていたガチガチの王党派。その一方で皇帝ナポレオンに心酔し、二月/三月革命(1848年〜1849年)に際してはルイ・ナポレオンの大統領選出に重要な役割を果たした。その後の政争に敗れてベルギーへの亡命を余儀なくされて以降は一転して反皇帝ナポレオン三世派に変貌。「レ・ミゼラブル」もこうした複雑な政治的立場から執筆されたもので、六月暴動をあえて「愛国フランス人によるフランス愛国主義の為のフランスの運動」として描いたのも「エルナニ事件」で自らが蜂起を扇動しながら見捨てた政治的浪漫主義作家(「青年フランス」あるいは「小ロマン派」)に対する鎮魂歌というニュアンスがあったとされる。こうして「(フランス人に政治的に使い捨てにされていく)外国人部隊の怨歌」は「民衆の歌(Do you hear the people sing?)」に華麗なる変貌を遂げる事になったのだった。「実は彼らは皆フランス人で、正義実現の為に喜んで死んでいったのです!!」

民衆の歌(Do you hear the people sing?)

Do you hear the people sing?
Singing a song of angry men?
It is the music of a people
Who will not be slaves again!
When the beating of your heart
Echoes the beating of the drums
There is a life about to start
When tomorrow comes!

戦う者の歌が聞こえるか?
鼓動があのドラムと 響き合えば
新たに熱い 命が始まる
明日が来たとき そうさ明日が!

Will you join in our crusade?
Who will be strong and stand with me?
Beyond the barricade
Is there a world you long to see?
Then join in the fight That will give you the right to be free!

列に入れよ 我らの味方に
砦の向こうに 世界がある
戦え それが自由への道

Will you give all you can give
So that our banner may advance
Some will fall and some will live
Will you stand up and take your chance?
The blood of the martyrs
Will water the meadows of France!

悔いはしないな たとえ倒れても
流す血潮が 潤す祖国を
屍越えて拓け 明日のフランス!

*やがて「籠城部隊がこの歌を歌い出したら死亡フラグ(玉砕確定)」という経験の積み重ねから、この歌が「左翼側の戦陣訓」的ニュアンスを獲得していくのはご愛嬌? 例外といえるのはせいぜい台湾の「ひまわり学生運動」くらいで、そもそもこの運動だけは最初から「ウォール街を選挙せよ(Occupy Wall Street)運動(2011年)」や「タクスィム広場(Taksim Square)占拠運動(2012年〜2013年)」や「香港雨傘運動(2014年)」と異なり「あくまで政治的妥協を拒み続け、国民からも見捨てられ自滅していく悲壮さ」とは無縁だったのである。

*「カルメン(Carmen、1845年)」原作者として有名なプロスペル・メリメ(Prosper Mérimée、1803年〜1870年)も復古王政時代、七月王政時代、第二帝政時代を巧みに渡り歩いた官吏との二足草鞋生活を送った事で知られている。エルナニ事件の先頭に立ちながら後に政治活動から足を洗い芸術至上主義運動に転じたゴーティエ (Pierre Jules Théophile Gautier、1811年〜1872年)も含め、当時の高名なフランス人作家で「転向」を経ずに生き延びた例など皆無なのだった。

その一方でこうした時代的展開はフランソワ・ノエル・バブーフをこよなく敬愛し炭焼党に加わったルイ・オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)なる怪物を生み出した。カール・マルクスから「革命的共産主義者」と称揚されたこの人物にいわせれば革命は「武装した少数精鋭の武装秘密結社による権力奪取」でなければならず、しかもその体制は勝利後必ず維持出来なくなるので、すぐさま新たな革命の準備に取り掛からねばならないとする。このニヒリズムに満ちた「革命家による革命の遂行だけを主目的とする革命理論」はブランキ主義(Blanquism)あるいは一揆主義(putchism)と呼ばれ、共産主義革命に成功の目が見えてくると全面否定される様になっていく。

そういえばフランス四月普通選挙(1848年4月)が第二帝政(1852年〜1870年)に向かう流れにも「急進共和派や王党派の醜態」が準備したという側面があったのである。

  • フランス四月普通選挙(1848年4月)の最も悪夢的側面、それはブランキら急進共和派が「私有財産の全没収」を公約にして出馬し、ロベスピエールなどのコスプレをしながら「少しでも財産を有する者は恐怖せよ。間も無く貴様らの時代は終わるのだ」と脅迫して回った点にある。当然フランス国民の大半を敵に回して選挙に惨敗。そしてその結果を受け入れられず六月蜂起(les journées de Juin、1848年)を起こし、その鎮圧過程で1,500人が殺害され、15,000人の政治犯アルジェリアに追放されて壊滅してしまう。
    *その過程はほとんど選挙に大敗したオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)に走っていく過程そのものだったとも。その意味ではオウム真理教信徒もまた「(三色旗に対する赤旗勝利を強調する)民衆の歌」を歌う資格のある集団の一つだった事になる。

    *その世界は放射能ばかりか覚醒剤にもまみれていた? ああそれが1980年代…

  • しかしながら農村や教会の組織票で選挙に勝った王党派も既得権益の確保に汲々とするばかりで政治にも経済にも一切関心を持たない烏合の衆に過ぎなかった。まさにそういう状況下にあってルイ・ナポレオン大統領は(彼らを抑え込む為に)クーデターを起こし、皇帝に即位するのである。

    *これぞまさにカール・マルクスが指摘した「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。だが、ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇として」の世界。だが実際にはフランスが産業革命導入に成功したのは「三色旗を掲げる」皇帝ナポレオン三世が「赤を掲げる」急進共和派のみならず「白旗を掲げる」王党派をも抑え込み、新興産業階層の成長を促したからだった。これが「(最終的には破滅するしかない)茶番」としか映らなかった辺りに「政治思想家」マルクスの限界があったとも。 

  • しばしば日本の明治維新を成功に導いた最大の立役者は大政奉還(1867年)を敢行した「最後の将軍」徳川慶喜だったとされる。その意味においてフランスの共和主義への移行にあっては「普仏戦争(1870年〜1881年)での敗北と、それに伴う皇帝ナポレオン三世廃位」が重要な役割を果たした。スムーズな政権譲渡には「負け上手」が欠かせないのかもしれない。

 

②「ロシア革命ボルシェビキが乗っ取り民主集中制を確立していくプロセス

第一次世界大戦(1914年〜1918年)の最中、二月革命によって王政を打倒した臨時政府は当初、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した。

しかしながら全国で蜂起したソビエト(労農兵評議会)は厭戦気分に満ちており、こうした決定に異を唱え激しい抗議デモ(四月危機)を引き起こす。

途方に暮れるばかりで何ら対策を打ち出せずレイム・ダック化した臨時政府。そしてロシアの置かれた国際的立場に全く無頓着なソビエト。臨時政府は同盟諸国からの要求に応える形で大攻勢を仕掛け、愛国主義的熱狂によって国民の不満を抑え込もうとしたが、6月18日に始まった攻勢はドイツからの反攻に遭って連戦連敗。かえって「ロシア革命はこのままでは頓挫する」という不安を国内中に撒き散らす展開となったのだった。

レーニン率いるボルシェビキは、それまで全く無名だったが故にこうした臨時政府の権威失墜に巻き込まれずに済んだ。それどころか漁夫の利を得る形で「新たな希望」として台頭して10月革命を遂行。民主集中制導入によって地方勢力ソビエト)から発言力を奪い、ローザ・ルクセンブルグが「プロレタリアート独裁からプロレタリアートへの独裁へ」と揶揄した権威主義的中央集権体制の樹立に成功したのだった。
*「ユーロ・コミュニズムの祖」イタリア共産党の創健者とされるグラムシは「先進国においては社会改良主義が、後進国においては革命が最良の処方箋となる」なる相対論を打ち出した。彼の意識を占めていたのは「どうしてロシアにおいては共産主義革命が、イタリアにおいてはファシズム勝利したのか?」なる疑問だったとされている。

 ③「ナチスヴァイマル共和制を乗っ取っていったプロセス

ヴァイマル共和制(1919年〜1933年)はそもそも無政府主義者共産主義者が起こしたドイツ革命(1918年)を、(社会復帰がかなわず不満を鬱積させていた)第一次世界大戦帰還兵を召喚して編成したフライコール(Freikorps。ドイツ義勇軍)で手段を選ばず粉砕した社会民主主義者達の政党だった。
*そして当時のドイツにおける社会民主主義者達は、そもそもその思想の大源流たるラッサールがマルクスから「裏切者」の烙印を押されていた上、愛国心から第一次世界大戦に当たって戦争遂行を支持しコミンテルンから「修正主義者」の烙印を押されていた。やがてそのレッテルは「(一刻も早く地上から撲滅すべき)社会ファシズム(Sozialfaschismus)」へと格上げされ、この事態が有名な「ナチス共産党共闘状態」を産む事になる。

しかしながらヴァイマル共和制は、支払い限度を超えた賠償金を要求してきたり、ルール占領(1923年)を強行したりするフランスの強硬姿勢に全く無力であり、次第に国民の支持を失っていく。

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世界恐慌(1929年)に際しても何ら対策が打ち出せず、さらにその権威を失墜。それでも政権を維持する為により強権的で独裁色の濃い大統領内閣制(Präsidialkabinett)へと移行。さらに(国防軍の数倍の規模を有する)フライコール末裔を懐柔する為に「第一次世界大戦の英雄」ヒンデンブルクを大統領の座に据える道を選ぶ。
*歴史のこの時点において既に議会制民主主義の精神は死んでいる。カール・シュミットの政治哲学はこの状態をこそ礼賛したのであって、歴史のその時点において「(ある種の「咬ませ犬」として便利使いされていた弱小政党代表)ナチス」など視野になかった。

そしてナチス・ドイツを率いるアドルフ・ヒトラー総統は、共産党共闘しながらじわじわと「ドイツの社会民主主義者」を追い詰めていき、最終的にはヒンデンブルグ大統領から「禅譲」を受ける形で政権継承を果たしたのだった。
ルイ・ナポレオンのクーデターの決め手となったのが「革命戦争とナポレオン戦争時代の恩寵で自作農化した元サン・キュロット層」だった様に、正規国軍の何倍もの規模を誇るSA(ドイツ突撃隊)を掌握していた事が決め手になったとも。今日でも(概ねその国において最も大規模で組織化された集団たる)軍隊が革命の最終勝者となるケースは少なくない。

 ④「大日本帝国軍国主義一色に染まっていくプロセス」 

大日本帝国は世界史的に見ても(明治期を特徴付ける)藩閥政治から議会制民主主義や政党政治への移行自体は比較的スムーズに済ませてきた方といえる。

ただし日露戦争の戦時借款を前倒し気味に完全返済し終えたのは、第一次世界大戦(1914年〜1918年)特需のお陰。その魔法が効力を失うにつれ、次第に「自分達は元来そんな繁栄を謳歌可能な立場じゃないんじゃないか?」なる実存不安が社会全体を覆い尽くしていく。
昭和金融恐慌 - Wikipedia
昭和東北大飢饉 - Wikipedia

*この点においては正直、スターリニズムが最終的に勝利を飾ったソ連や、ファシズムに覆い尽くされていったイタリアや、ナチスが政権を獲得したドイツと重なってくる部分が少なくない。

実際に起こった事は比較的単純。

  • それまで日本を主導してきた享楽的な政治的エリート階層や財界人が「第一次世界大戦特需の終焉」や「世界恐慌(1929年)」や「昭和東北大飢饉(1930年〜1934年)に何ら対応策を打ち出せず国民からの信頼を喪失。

  • 混乱に乗じる形で「満蒙は生命線」と言い広める関東軍などのプロパガンダが次第に影響力を強めていく。
  • この時代には(藩閥政治を打倒した)戦前日本政党政治の到達点たる「憲政の常道立憲政友会と憲政会の健全な対峙状態と失政の都度の政権交代)」もまた「(明治時代から続いてきた悪弊たる)与党の野党に対する選挙妨害」のエスカレートを通じて「政治的経済的安定の供給」から次第に乖離し「猿山のボス争い」状態へと堕していく。

    憲政の常道 - Wikipedia

    *当時の日本共産党も幹部が楼閣で豪遊中に逮捕されたりしてマルクス・ボーイやエンゲルス・ガールを絶望の淵へと追い込んでいく。これぞまさしく「貧困調査」の大源流?

    *こうした状況こそが「日本憲政史上初の第3極」社会大衆党の台頭を産んだが、皮肉にも彼らこそ先陣を切って陸軍統制派・革新官僚に迎合・接近。親軍路線を主導して大政翼賛会結成に至る流れを生み出す展開となっていく。
    社会大衆党 - Wikipedia

そして満州事変(1931年)がたまたま「成功」に終わって以降、こうした流れに歯止めが効かなくなっていったのである。
*当時の中国人有識者は、そういった状態に陥った大日本帝国を「巨大な湖をたった一匹で飲み干そうとしている狂った狼」と揶揄している。それはまさに、なまじ「戦争をもって戦争を養う」戦略を採択したが故に延々と戦争を続けるしかなくなった皇帝ナポレオン率いるフランス軍の姿そのものだったかもしれない。

*どちらかというと英国が帝国主義に染まって行く展開に近いとも。

案外重要なのは戦中期の1943年時点において、食糧増産計画が一向に進まない事に業を煮やした軍部や革新官僚が「農地国有化」計画を打ち出したところ、「聖戦(日中戦争と太平洋戦争)遂行は、自らの既得権益を守り抜く為の戦い」と認識していた農民層の猛反発を食って即日撤回と謝罪に追い込まれたエピソードかもしれない。

  • 当時の日本には確実に戦争の泥沼化を(満州国で着実に成功を収めつつあった)ソ連型経済に移行する好機と見て取った人間もいた。

  • しかしながら、そうした発想は開拓民や兵士の供給階層だった当時の日本農民の逆鱗に触れ、決して遂行を許されなかったのである。

ちなみに戦間期に日本を訪れたナチズムを熱狂的に支持するオーストリア人ジャーナリストは、日本がまだまだ自由主義経済の痕跡を完全に払拭出来ないでいる事に衝撃を受けている。大日本帝国は「ナチス・ドイツ基準において」全体主義国家のあるべき姿を全くといってよいほど体現していなかったのであった。

半自叙伝的な内容の安倍晋三美しい国へ(2006年)」には「これ以降日本においては二度と政治家が政治運営を、財界人が経済運営を投げ出す事があってはならない」なる決意が記されています。

そうした危機意識がどれだけ実践出来てるかはともかくとして…
*本来なら安倍政権の実績はまさしくこの観点からこそ評価されたり批判されたりするべきなのである。

政治家が政治運営を、財界人が経済運営を投げ出さない」事こそが「不幸な展開」を予防する為の唯一にして最大の処方箋という事実は動かない。
*要するに思想の左右はあまり関係ない。「フランス革命は無条件に正しかったが、ナチスドイツや大日本帝国は無条件に間違っていた」みたいな粗雑な正義感もお呼びじゃない。それこそがまさに「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の冷徹な現実だったというしかないのである。

それにつけても現在の日本の革新政権の振る舞いときたら…

健全な政党政治(与党と野党の節度ある政治的対立)の崩壊こそが「ナチス軍国主義に付け入る隙を与えた)不幸な展開」の第一歩となった歴史を鑑みると、彼らの存在そのものがまさしく「軍靴の音」であり「ナチスの影」に他ならない?
ピーター・ドラッカーもイタリア・ファシズムナチスの本質の根底は「(ヴァイマル体制独裁化を喜んで正当化したカール・シュミットの政治哲学においても見られる)外交的経済的現実から切り離された党争への国民動員の成功」にあったとしている。要するに国民が最終評価が難しい個別的政策論議への興味を失って「安倍を吊るせ!!」みたいな「時局的=党争的=批評家的スタンス」に立脚する「わかりやすい」人間中心論(Humanism)的スローガンにしか熱狂しなくなったら、その時点でもうその国はルビコン川を渡っているのである。