諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】エンドレスエイトは死なず。振り向けばいつもそこで待ってる?

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ここで思考実験を試みた様に「(複数の男女の三角/四角関係が物語全体を駆動させていく)ラブコメの世界」を量子ビット的にある種のスタティック(静的)な構造に格納したとしましょう。そこに一緒に閉じ込められる筈の「(各個人の)生涯時間」はどういった特質を備えている事になるのでしょうか?

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*そもそもラブコメの大源流は、世界三大悲劇を生み出して以降、そうした陰鬱な世界観から離れようとした老境のウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare, 1564年〜1616年)がその後世代交代による伝統的共同体構成員の再生産を明るく賛美する英国田舎の伝統芸能に取材して生み出した「(複数のカップル誕生を同時進行で描く)田園喜劇」にまで遡るとされる。これを口語文学(読者に娯楽として消費される商業文学)の世界に持ち込んだのが(ナポレオン戦争勃発によってフランスからゴシック小説の供給を絶たれた良家子女の同人誌活動に端を発する)英国女流作家ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年〜1817年)の作品群とされる事が多い。歴史のこの時点において「(各世代の各個人に割り振られた)生涯時間」のイメージは「伝統的生活を維持する為に無限に繰り返されていく営みの礼賛」なる前近代的構造から「変わり行く時代に適切に適応していく性選択範囲の揺らぎ」なる近代的構造に飛躍したのである。

  • 構造的には「スタティック(静的)」とはいえ、そこに込められた「(各個人に割り振られた)生涯時間」の内容は「観測結果」の積み上げによって逐次変化を遂げていき、展開次第ではコンテンツとしての寿命限界に到達する事もある。
    *ヒロインを巡る三角関係が解消すると忘れ去られた「トワイライト・シリーズ(2005年〜2008年)」が一つの典型例とされる。「(各登場人物に割り振られた)生涯時間」は商業化によって「(伝統的共同体の維持を主目的とする)無限ループ」からこそ解放されたものの、今度は「(経済的にそれを支える)読者/観客の意向」に捕まってしまったのだった。

  • それでは「(コンテンツの寿命終焉につながる様な)決定的観測」さえ回避し続けてば永遠の寿命が維持可能かというとそうでもない。ある種のマンネリズムに侵食され読者に飽きられ忘れ去られていく事も多い。
    *良い意味でも悪い意味でも「(その作品に人気がある限り連載を引き延ばし続ける)ジャンプ・システム」に多い。もっとも「(描くべき内容をきっちり描き切って最終回を迎え決定的評価を獲得する)逃げ切り成功」パターンも少なくなく、最終的には作家の力量という側面も。また当時は「北斗の拳(1983年〜1988年)」や「ドラゴンボール1984年〜1995年)」や「ジョジョの奇妙な冒険(1987年〜)」の様な(一つの戦いが終わるとそれまでの敵が味方に加わり、さらに強大な敵と戦うインフレ構造が特徴の)異能バトル物の全盛期だった事もまた忘れてはならない。ここに国家間の競争が全てだった「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の衣鉢を継いで「(メディアミックスなどの手法を用いての)国民総動員」を目指した「商業至上主義時代(1960年代〜1990年代)」の新たな側面を見出す事が出来る。

    *こうして全体像を俯瞰してみると「(ある程度量子論的揺らぎから解放された)確定的な内容が語り継がれる事により物語として永遠の生命を得る(ある種のテンプレとして他の登場人物の生涯時間の揺らぎを拘束したりもする)」全く別口の出口も存在する事が明らかとなる。こうした「各登場人物の生涯時間の揺らぎの拘束」が人生を演劇化させてしまう事はヒンドゥー叙事詩最高峰の一つとされる「バガヴァッド(至高神)・ギーター(紀元前5世紀頃〜紀元前2世紀頃成立)」や日本の「平家物語(13世紀成立)」でも指摘されてきたし、実はテッド・チャン「あなたの人生の物語(The story of Your life、1999年)」の主題でもあった。そこに共通して暗喩されているのは「バラモン階層や公家の様な)思考者に対する(クシャトリア階層や武家の様な)実行者の優位」の宣言とも。
    1512夜『バガヴァッド・ギーター』|松岡正剛の千夜千冊

    テッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your life、1999年)」

    未来は知れても語り得ない?

    未来を知ることは、ほんとうに可能なのか? たんに未来を推測するというのではない。さきになにが起こるかを、完全なる確信と明確な詳細をもって知ることは可能なのか? まえにゲーリーに教わったところでは、物理学の基本法則は時間対称的であり、過去と未来に物理的差異はない。そうであるなら、なかには〝理論的にはイエス〟と言う者もいるだろう。だが、より現実に則した話となれば、たいていの者は、自由意志があるからということで〝ノー〟と答えるだろう。

    これには、ボルヘスふうの寓話仕立てで異論を展開してみたい。あるひとが、過去と未来のすべての事象を記録した年代記、『三世の書』のまえに立っていると考えよう。その本文は、原寸版から転写されたものではあっても、おそろしく大部だ。彼女が虫眼鏡を片手に、ティッシュのように薄いページをくっていくいくと、やがて彼女の人生の物語に行きあたる。自分が『三世の書』を読んでいるくだりを見つけた彼女がつぎの欄に進むと、そこでは、彼女がその日このあとになにをすることになっているかが詳述されている。その『書』で読んだ情報に基づいて行動し、競馬でデヴィルメイケアに百ドルを賭けたら、その二十倍の配当を得るだろう。 そうしようかという思いが心をよぎったが、あまのじゃくな彼女はそこで、馬に賭けるのはいっさい差し控えようと決心する。

    ここが勘どころだ。『三世の書』がまちがっているはずはない。このシナリオは、あるひとが、ありうべき未来ではなく真正の未来の知識を与えられるという前提に基づいている。これがギリシャ神話であれば、諸般の事情が重なって、彼女は最善の努力にもかかわらず、みずからの運命のままにふるまうことを余儀なくされるわけだが、ギリシャ神話の予言があいまいなのは周知のとおりだ。この『三世の書』は完璧に明確であり、その一方、彼女はなにかとくに条件づけられたやりかたで一頭の競走馬競走馬に賭けることを強いられるわけではない。その結果は矛盾したものになる。『三世の書』はその定義上、正しくなくてはならない。しかるに、彼女がどうするかを『書』がなんと言っていようが、彼女は別のことをする選択をなせる。いかにすれば、これらふたつの事実を両立させることができるのか? 両立しえない、というのが通常の答えになる。『三世の書』のような書物は、その存在自体が右記のような矛盾を生むという明確な根拠からして、論理的に不可能だと。まあ、大目に見れば、『三世の書』はだれにも読めないものであるかぎりは存在しうるというひともいるかもしれない。特別な書庫におさめられ、読む特権はだれにもない書物としてあるかぎりはと。

    自由意志の存在は、われわれには未来は知りえないことを意味する。そして、われわれはその直接的経験があるからということで、自由意志は存在するだろうと確信している。意志作用は意識の本質的要素なのだと。

    いや、そうなのだろうか?

    もし、未来を知るという経験がひとを変えるのだとしたら? それは切迫感を、自分はこうなるなると知ったとおりの行動をすべきだという義務感を呼び覚ますのだとしたら?

    自由および束縛という語の概念に関するわたしたちの理解によれば、ヘプタポッドたちは自由でもなければ束縛されてもいない。〝それら〟は意志に従って行動するわけでもなければ、救いがたい自動機械でもない。ヘプタポッドたちの認識様式を特徴づけるものは、〝それら〟の行動が歴史の事象と一致するということのみではない。〝それら〟の動機もまた、歴史の目的と一致するのだ。〝それら〟は未来を創出するため、年代記を実演するために、行動する。

    自由は幻想ではない。逐次的意識という文脈において、それは完璧な現実だ。同時的意識という文脈においては、自由は意味をなさないが、強制もまた意味をなさない。文脈が異なっているにすぎず、一方の妥当性が他方より優れているとか劣っているとかではない。錯覚を説明する有名な例に、鑑賞者から顔をそむけている優雅な若い女にも見えれば、あごが胸につくほどうつむいた団子鼻の老婆にも見えるという絵があるが、それに似たようなものだ。〝正しい〟解釈というものはなく、どちらも等しく妥当といえる。けれども、同時に両方を見ることはだれだれにもできない。

    同様に、未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない。選択の自由を行使することをわたしに可能とするものは、未来を知ることをわたしに不可能とするものでもある。逆に、未来を知っているいま、その未来に反する行動は、自分の知っていることを他者に語ることも含めて、わたしはけっしてしないだろう。未来を知る者は、そのことを語らない。『三世の書』を読んだ者は、そのことをけっして認めない。

    *そしてやがて「ヘプタポット文字が遂行文(Action)のみによって記述される」事と「物理における作用(Action)」が結びつけられ「フェルマーの宰相時間の法則」や「変分原理」の話に発展する。

    フェルマーの宰相時間の法則」あるいは「変分原理」の世界

    「つまり、光線の目標は最速の経路をとることってわけね。光はどうやってそんなことをするの?」「まあ、擬人化投影法的な言いかたができるとするなら、光はありうる経路のそれぞれについて、どれだけの時間がかかるかを検討し、計算しなくてはいけないってことになるね」

    彼は盛り皿から、最後のひとつになった餃子をつまみとった。

    「で、それをするには」わたしはつづけた。

    「光線はその目的地を知っていなくてはならない。目的地が別のところだと、最速の経路は変わってしまうでしょ」

    ゲーリーがまたうなずく。「そのとおり。〝最速の経路〟なる概念は、目的地が特定されなくては意味をなさない。また経路の途中になにがあるか、たとえば水面がどこにあるかといった情報も必要となる」

    わたしはナプキンに描いた図表をじっと見つめた。

    「では、光線は事前に、つまり動きはじめるまえに、そういうことをすべて知っていなくてはならないってことね?」

    「言うならば」とゲーリー。

    「光は適当な方向へ出発しておいて、事後になって進路を変更したりはできないということになる。というのも、そのようなふるまいから生じる経路は可能な最速のものにはならないからだ。光はそもそもの始まりの時点で、すべてを計算していなくてはならない」
    わたしは胸の内で考えた。光線は動きはじめる方向を選べるようになるまえに、最終的に到達する地点を知っていなくてはならない。

    「遂行文」のみしか存在しない言語とは?

    わたしはヴィデオデッキの電源を入れて、フォートワースのルッキンググラスでのセッションを記録したカセットを挿入した。国務省の交渉担当官が、バーグハートを通訳につけて、そこのヘプタポッドたちと話しあいをしたのだ。

    その交渉担当官は、愛他主義という概念を伝える下地づくりをしようと、人類の倫理通念について説明していた。わたしには、その対話の来たるべき結末をヘプタポッドたちが知悉しているのはわかっていたが、それでも〝それら〟は熱心にとりくんとりくんでいた。

    もし、すでに知っているわけではないだれかに、わたしがこのことを話したならば、そのひとは、ヘプタポッドたちがこれから言ったり聞いたりすることをすでにすべて知っているのなら、わざわざ言語を用いる意義はどこにあるのかと問いかけてくるだろう。理にかなった質問だ。だが、言語はコミュニケイションのためだけのものではない。それは行動の一形態でもある。発話行為仮説に従うなら、〝おまえを逮捕する〟、〝わたしはこの船に命名する〟、〝わたしは約束する〟といった言明はすべて遂行文だ。話者は、その言葉を発することによってのみその行動を遂行することができる。この種の行動に関しては、なにが言われるかを知っていることはなにも変えはしない。結婚式の参加者はみな、〝わたしは、おふたりの結婚が成立したことをここに宣言いたします〟という言葉を知っているが、実際に聖職者がそれを言わないかぎり婚儀は成立しない。遂行文においては、言うことはすることに等しい。

    ヘプタポッドたちの場合、言葉はすべて遂行文だ。〝それら〟は伝達のために言語を用いるのではなく、現実化するために言語を用いる。どんな対話においてもそこで言われることをヘプタポッドたちがすでに知っているのはたしかだが、その知識が真実であるためには現に対話がなされなくてはならないのだ。

    *遂行文(Action)のみによって記述される言語…それは恐らく自然言語というよりある種のプログラム言語なのである。そしてコンピューターにとっては「CPUに送られたコマンドの遂行=実践」に他ならない。人類は試行錯誤を重ねながら多種多様なアルゴリズムを洗練させてきたが、コンピューターは(そうした試行錯誤過程をエミュレーションするアルゴリズムを追加で実装してもらった範囲を除き)そうは振る舞えない。

  • さらには「決定的観測結果の回避」が作家生命を食いつぶすパターンもある。「風と共に去りぬGone With the Wind、1936年)」のマーガレット・ミッチェルや「リバーズ・エッジ(1994)」や「ヘルタースケルター(1995年〜1996年)」の岡崎京子。どちらも交通事故により執筆断念を余儀なくされたが、その直前段階において既に「人間が生得的に備えている運気を全て使い果たしてしまったかの様な抜殻感」を漂わせていたという。
    *アメリカにおいては「狂乱の1920年代」から「(フランク・キャプラ監督のスクリュー・コメディやウォルト・ディズニー「白雪姫(1937年)」の大ヒットに見られる様に)絶望への絶望が希望への飢餓を生んだ1930年代」への流れ。そういえばフランク・キャプラ監督はその後時代の要請に従うママ「社会派」への転身を試みるも失敗して没落。あくまで「芸術至上主義」を貫こうとしたウォルト・ディズニーもまた、成功後は「(ドーナツをウォッカに浸して食べる朝食を好んだ)アル中患者」に転落してしまう。
    タラへの道

    *日本においても「(ヒッピー運動や新左翼運動の敗退と関係がなさそうでありそうな)怪奇/オカルト/超能力/超古代文明/ノストラダムスの大予言/UFO/サイキック・ブーム(1960年代末〜1990年代前半)」を超克する形で「さわやかラブコメ・ブーム(1980年代〜1990年代前半)」が大流行する展開が見られた。

    狂い咲き!日活ニューアクション - Jinのどろーいんぐ

    エンド・オブ・ザ・ワールド (FEEL COMICS) | 岡崎京子

    エンド・オブ・ザ・ワールド』が単行本になったのは1994年の夏。その時、とっくに泡沫(バブル)ははじけ、何も起きない日常が倦怠とともに続いていた。

    *この時代には明らかに「実測された秩序(マンネリズム)の拡散速度」が「エントロピーの自然減勾配」をはるかに超越している。同時代を代表し多大なる国際的評価も勝ち取った大友克洋童夢(1980年〜1981年)」「AKIRA(1982年〜1990年)」の名台詞を思い出す。「見てみろ…この慌てぶりを…。怖いのだ…怖くてたまらず覆い隠したのだ…。恥も尊厳も忘れ…築き上げて来た文明も化学もかなぐりすてて…。自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ…」。そうした時代にあえてブレーキを踏まず太く短く生きる道を選択した作家だけが、こういう形で「人間が人間として存続可能な限界」の向こう側を覗いてしまったのだとも。

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    *その一方で当時は国家間の競争が全ての「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」の衣鉢を継ぐ形でマスコミやエンターテイメント業界が「国民総動員体制」樹立を目論した「産業至上主義(1960年代〜1990年代)」でもあったのである。その典型例の一つが「(メディアミックスを駆使した)角川商法」であった。
    【アンサイクロペディア】角川書店


    *この問題を「1970年代後半以降における急左翼と新左翼の歴史的和解(およびその際に締結された「妥協」ゆえに以降必然的に「左翼陣営の烏合の衆化」が進行していく展開)」と結びつけて考える向きもある。こうした「人間など簡単に扇動出来る」など浅薄な思考様式が最後に行き着いた終着駅の一つが「(選挙で大敗した復讐として決行された)オウム真理教サリン散布事件(1954年〜1955年)」だったとも。

    *かくして新聞やTVといった既存メディアに立脚した「国民総動員の時代」は終わり、良い意味でも悪い意味でもインターネットが影響力を増していく「多様化の時代」が始まる。そもそもニッチ・ビジネスに分断されたこの次元においては「多数派工作」すら必ずしも有効とは限らない?

こうして次第に「(各登場人物に割り振られた)生涯時間のさらなる背後に存在するかもしれない全体時間」の在り方が問題視される様になってくる訳です。

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*「各登場人物の役割分担」について下手に深入りすると「実は全ての登場人物の生涯時間が切れ目なく連続いている」とする仏教的縁起論や「神はその中心に実存する」とするスコラ哲学の世界に足を踏み入れかねないので、ここでの話題はあくまで「各登場人物からの観点による全体時間のイメージ」に限定する事にする。

  • これもまた「特定の指向性を有する個体の生涯時間」とイメージするなら、ヘーゲルの「絶対精神(c)=世界精神(Weltgeist)=民族精神(Volksgeist)」の如き神学的領域に突入する。

    *ただしスタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに(Solaris、1961年タルコフスキー監督による映画化1972年)」やストルガツキー兄弟「路傍のピクニック(Roadside Picnic、1971年、タルコフスキー監督による映画化1979年)」の様な共産主義圏のSF作品では「人類にとって絶対的他者たるべき異星人」について一切の擬人化を拒絶したし、夢枕獏神々の山嶺(原作1994年〜1997年、漫画化け2000年〜2003年、映画化2016年)」の舞台に選ばれたアルプス山渓や新海誠監督映画「君の名は(2016年)」に登場するティアマト彗星などに至っては「美しく残酷に人間世界の恣意的介入を拒み続ける自然現象」の立場に徹するのみ。

  • とはいえ上掲の如き「ブコメ登場以前=英国伝統芸能を特徴付ける(伝統的共同体の維持を主目的とする)無限ループ状態」「ブコメ登場以降=(誰もがそこに踏み込む事で元来のアイデンティティを失う「迷宮の森」などを舞台に展開する)シェークスピア田園悲劇や(「時代の変化に敏感に対応する」ジェントリー階層の性選択戦略に端を発する)」という境界線の引き方に基づくなら、それ自体はあくまで「ブコメ以前の思考様式」に分類される事を免れ得ない。
    *ヘルムート プレスナー(Helmuth Plessner)は「遅れてきた国民(Die verspätete Nation、1935年)」の中でヘーゲル哲学について「フランス理神崇拝やカント哲学の流行によって”人間の手の届かない遠方に追いやられた”伝統的神概念の復活を試みたもの」とし、これを中核概念に据える形で「(無限ループを続ける)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義体制」の再生を試みたとした。また皇帝ナポレオンの雄姿に感動したヘーゲルは、王政復古期(1815年〜1848年)にあって「ドイツ語圏を統合する中枢」役割をプロイセン国王に求めたが、その期待自体は一方的片想いに終わる。
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  • とどのつまり「ブコメ登場以降の世界」においては「(各登場人物に割り振られた)生涯時間をメタ的に規定する裁定者(Ruler)」自体も登場人物の一人として登場する事が多く、しかも超越的絶対者として明示的に君臨しているとも限らない。またしばしばその種の支配は「不健全な干渉」として弾劾され、その状態からの脱却が物語全体を駆動させる中心的主題となる。
    *そういえばヒッピー運動全盛期以降もしばらく「家父長制度に対する息子の叛逆」というテーマに拘泥し続けてきたハリウッド映画界が「(国家の陰謀だの家父長制度といった大仕掛け抜きの等身大の影響力によって)特定の人間集団を狂わせている裁定者(Ruler)を炙り出すミステリー」に最初に進出したのはロバート・レッドフォード初監督映画「Ordinary People(1980年)」だったとも。

ここで私達は以下の「ブコメの皮を被ったSF作品」を思い出さねばなりません。
*アメリカには意外と「メロドラマ満載のクラッシックSF映画」が多い。当時なりの観客を一人でも多く動員する為の工夫だったと見られる。

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①まず筆頭に上がるべきは「1970年代を席巻した怪奇/オカルト/超能力/超古代文明/ノストラダムスの大予言/UFO/サイキック・ブームをまとめてパロディ化したスラップスティック・コメディ」として連載を開始しながら途中で「ブコメ路線」へと途中から舵を切った高橋留美子うる星やつら(1978年〜1987年)」と、原作者の意向とは全く異なる形で「裁定者(Ruler)の意向による時間ループ」を扱った押井守監督作品「ビューティフル・ドリーマー1984年)」。
*「裁定者(Ruler)の意向による時間ループ」…ただし作中においては「夢邪鬼」なる黒幕的存在が登場し、以降は彼との対決が物語を牽引。皮肉にもこれでは上掲の文脈においてそれそのものは「ラブコメ」の条件を満たしてない。


②1960年代から1970年代にかけて流行した数多くのSFジュブナイル小説を元ネタとした谷川流涼宮ハルヒシリーズ(2003年〜)」もまた、シリーズが進むにつれ次第に「ラブコメ化」が進行。
*「エンドレスエイトの悲劇」は、まさにこの過渡期に起ったとも。その放映が「(コンテンツ寿命を大幅に縮める形で)何かを大量に食い潰した」のは事実だが、それが何だったのかについては意外と完全には検証されてない気がする。ちなみにこの展開もまた「ビューティフル・ドリーマーズ」同様、上掲の定義においては「ラブコメ」の条件をそれそのものは満たしていない。

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愛の反対は憎しみではなくて無関心、の典型だよな
原作信者は怒ってたみたいだけど消失は見に行ったんだろう
そしてそういうコア層を除く一般視聴者は無関心になって
1期の頃は 00年代の最高傑作と言われてた作品が
単なる中ヒット作品になってしまった

*ちなみに2000年代の前半から後半にかけては同時に「(20世紀ジュブナイルSFの主題だった)世界の存続危機」や「異類結や彼岸と此岸の交流は不幸しか生まないといった物語文法」の崩壊期でもあった。インターネットの普及や価値観多様化進行の影響とも。

③「劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語(2013年)」もまた「裁定者(Ruler)の意向による時空間停滞」を扱った作品に分類されるが、その「希望よりも熱く絶望よりも深い感情、それが愛」なる主題の持ち方は従来とは別の形で従来の制約を破る展開を生み出す事になった。

*「従来の制約」…そもそもシェークスピアやジェーン・オスティンが確立した「ラブコメ」の基本構造は「直視するには深刻過ぎ、制御も不可能な現実を視野外に追い出す事で線引きした内側に制御可能な秩序を現出させる」というもの。ここでいう「直視するには深刻過ぎる現実」は、シェークスピアにとっては「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、初演1595年前後)」「ハムレット(1600年〜1602年頃)」「リア王(King Lear、1604年〜1606年頃)」「マクベス(Macbeth、1606年頃)」などで描いた(内紛に明け暮れ死者の絶えない)悲劇の世界を、ジェーン・オスティンにとっては(欧州総力戦と化した)ナポレオン戦争が英国社会に与えた深刻な影響を意味したと考えられている。日本では「高慢と偏見とゾンビ(Pride and Prejudice and Zombies、原作2009年、映画2016年)」について「原作の冒涜である」という指摘が数多く見られたが、実はジェーン・オスティンの原作にも(「この世界の片隅で」みたいな感じでさりげなく)「大陸から危険思想が渡ってきて隣人が感染する事への恐怖」とか「戦時下独特の喧騒感」や「(スピーナムランド制度(1795年〜1848年)が生み出した)あらゆる場所を徘徊する貧民の群れ」などがさらりと書き込まれており「これってゾンビ物に書き換えられるんじゃね?」というのが発想の元になっている。日本でいうとあえて「(平安王朝物では視野外に排除されてる)京の街の賎民」に注目した感じ?
ロマンス小説|勝手にロマンス! 高慢と偏見、高慢と偏見とゾンビ大特集!


*その一方で日本は英国や米国に比べて一般庶民の「上流階層のみが出入り可能な社交界」への憧憬心が比較的乏しいので「内側に現出した制御可能な秩序だった空間」として「学園」「会社」などが舞台に選ばれてきた伝統が存在する。同じ学園物でも例えば英国の誇る「ハリーポッター・シリーズも(名家子弟の育成を当初の目的とした)パブリック・スクールに対するノスタルジーをベースとしたものとなる。

*そして20世紀後半とは、こうした拘束からのあらゆる意味における脱却が無条件に正義と連呼された「ロマン主義リヴァイヴァル」の時代でもあったからややこしい。

④逆に「80年代的スラップスティックSFコメディ」への回帰を志向した「スペース☆ダンディ(Space Dandy 2014年、2015年)」においては第5話「旅は道連れ宇宙は情けじゃんよ」で「ペーパームーン(Paper Moon、1973年)」、第10話「明日はきっとトゥモローじゃんよ」には「エンドレス・エイト」でパロディがあった。

*そういえば当時は「キャプテンEO」や「ラビリンス 魔王の迷宮」の時代でもあったのである。「スラップスティックSF」や「スラップスティック・ファンタジー」が人気ジャンルだったというより、当時のエンターテイメントそのものがスラップスティック的状況にあったとも。


*「ペーパームーン」の重要性は「今日なお続くロードムービー文学としてのナボコフ「ロリータ(1955年)」人気」及び「Hays Codeによって1950年代〜1960年代には不良少女の表現が著しく制限されていた事」を抜きには語り得ない。ちなみに米国少女にとって「ロリータ」は「自分を重ねやすい凶暴な幼女キャラ」としてイメージされ、このフォーマットは忍野忍ファン層や「ローガン(1977年)」にも継承されている。逆に「エンドレスエイト」要素は海外では全く話題とならない。

そして同時進行で「物語やゲームを成立させ続ける事のみを目的とし限定的権限を与えられる裁定者(Ruler)」なんてさらにややこしい存在が重要な役割を果たす展開に。
*ある意味それは「直視するには深刻過ぎ、制御も不可能な現実を視野外に追い出す事で線引きした内側に制御可能な秩序を現出させる」基本構造の再建とでもいうべき動きだったとも。歴史どこかの時点で20世紀後半にリヴァイヴァルしたロマン主義は「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに屈っし「(多様化展開を最適状態に保つ)新時代にふさわしい秩序への移行」が志向される様になった?

  • ミヒャエル・エンデはてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」に登場するファンタージエンの世界には「読者にこの世界での冒険を強制可能な立場にはないが、それを始めるまで無限ループの罠に落としてもよい」「この世界の冒険者は(それが新たな物語を紡ぎ出すので)如何なる願望を具現化しても許されるが、その都度その願望を失って次第に「人間の抜け殻」みたいなスカスカの存在へと変貌していく」なんて恐るべきルールが存在した。ただしその執行とファンタージエンの世界全体に君臨する「幼ごころの君(Die Kindliche Kaiserin、「望みを統べたもう金の瞳の君」とも)の権威は慎重に切り離され、結びつけて考えられない様に工夫されてもいたのだった。

  • バレエをテーマとしたTVアニメ作品「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)」には「物語を面白くする為には手段を選ばない暴君」として世界全体に対してシナリオライター的役割を果たすドロッセルマイヤー老人なる存在が登場。ただし、その立ち位置は「はてしない物語」における「(アイディアを搾り取るだけ絞り尽くされて使い捨てにされる)冒険者」のそれに近く「裁定者(Ruler)」はまた別に存在する可能性を疑うべきとも。

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    ドロッセルマイヤー老人E.T.A.ホフマン「ゼラピオン同人集(Die Serapionsbrüder、1819年)」収録の「くるみ割り人形」の登場キャラ。主人公の少女を自慢のコレクション「人形の国」に迎え入れようとする。ミュージカルが有名だが原作はかなり不気味な雰囲気で彩られている。「仮想世界への逃避物」の重要な起源の一つとも。
    くるみ割り人形原作

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    *当時のドイツ・ロマン主義文学は何故か伝統的テーマたる「死神と乙女」概念の延長線上において「純真無垢な少女が何か恐るべき存在に蹂躙される」主題に憑かれていたのである。一方犠牲となった少女もただでは死なず、亡霊化して気に入った若者を道連れにしようと森や湖で虎視眈々と機会を窺い続けたりする。そう「ラ・シルフィード ( La Sylphide、1832年)」や「ジゼル(Giselle、1841年)」や「白鳥の湖(Лебединое озеро、1877年)」で群舞を踊る白い服の女性ダンサー達がそれ。ローレライ伝承もそのバリエーション。

    大日本帝国時代に少女達を戦慄させた「赤マント」もその仲間で、この辺りが上遠野浩平ブギーポップ・シリーズ(1998年)」の着想の元にもなっている。

  • そして「Fateシリーズ(2004年〜)」に「聖杯戦争」を聖杯戦争」として成立させ続ける為に暗躍する、その名もズバリ「ルーラー(Ruler)」と呼ばれるサーバント・クラスの登場。

  • 魔法少女まどか☆マギカ」に登場するQB(キューベー)は「宇宙全体のエントロピー増大を予防する」事にしか関心がない。その目的の実現の為ならどんな残酷な行為にも平然と手を染めるが、代替案があればあっけなく乗り換える。

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    *こうした時代展開を背景にテッド・チャン「あなたの人生の物語(Story of Your life、1999年)」は割と「ソラリス「路傍のピクニック」といった作品を特徴付けた「人類にとっては絶対他者たる宇宙人の圧倒的存在感」「これに人類代表として対峙させられる事によって人生を不可逆的に変えられてしまう主人公の悲劇的英雄性」などの要素を素直に継承。そこに込められた「(クシャトリア階層/武家的)行動主義への礼賛」なる新機軸と併せ、1990年代を覆い尽くしていた「長期的ビジョン喪失にともなう実存不安の高まり」に対する最良の処方箋として受容されたのである。


    *それに対して映画販「メッセージ(Arrival、2016年)」においてヘプタポットはもはや「人類には絶対理解不可能な絶対他者の象徴」ではなく、ヒロインもまた「絶対他者との接触を強要されたが故に人生を不可逆的な形で変えられてしまう悲劇的英雄」ではない。ヘプタポットは(一時期ヘプタポットを敵と認識する過ちを犯しつつも)人類に対して想定通りの影響を与えた事を確認し、最後になってとうとう来訪の目的を明かす。追加要素はSF大作映画「地球が静止する日(The Day the Earth Stood Still、1951年、2008年)」やアーサー・C・クラーク幼年期の終り(Childhood's End、1953年)」へのオマージュとも。一方ヒロインはヒロインで「時間を超越した認識能力の獲得=時系列を超越して人生にける全ての瞬間を愉しむ境地」に到達。原作においても重要なキーワードとして登場した「ノンゼロサムゲーム」の具現例となる。この改変を欧米の一部SFファンは「ヘプタボットのQB化」と呼んでいた。ヘプタポッドにはまだまだ「とりあえず人類に隠し通した裏設定」が存在しそうという認識?

さてこうした時代の荒波を超えて普遍的に継承されてきた要素とは?


とりあえず、これまでのところ「(各個人に割り振られた)生涯時間を統制下に置いてきた全体時間」が影響力を弱める一方、その分だけ「各生涯時間が内包する量子論的揺らぎ(およびその集散が織りなす不均衡状態のうねり)みたいなもの」が社会に与える影響が強まっている様にも見てとれる展開なのは確かな模様。でもそれって既存のエントロピー論的にどうなの?

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ここで「各個人の生涯時間の費やし方の量子的揺らぎ」に注目すると状況は真逆となってしまいます。

  • エントロピー状態…あらゆる次元において無数の「差異」が存在し、それを埋める為に様々な形での「運動」が起こる余地が大幅に秘められた不均衡状態。当然強引に特定の秩序で統制しようとすると(起伏の激しい山岳地帯をいきなり更地に均そうとする様なものなので)激しい抵抗を受ける。
    *上掲理論だと「エントロピー状態=猥雑で醜い低級な混沌状態」に該当?

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  • エントロピー状態…あらゆる次元において「差異」が消滅もしくは許容範囲内まで低下。いかなる形でも「運動」が起こる余地がほとんど残ってない均衡状態。むしろ希少化する一方の「差異」の幾つかについて保護運動が起こったりもするが、そこにはまだまだ拾捨選択の余地がある。
    *上掲理論だと「エントロピー状態=整然と整って美しい高級な秩序体現状態」に該当?

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    *真逆に宗教右派の間には「エントロピー増大の法則に照会すると進化論は完全に破綻している」なんて極論も存在したりする。ただしすでにかなり時代遅れの仮説ではあるらしい。

    現象としての進化が起きるためには、繁殖と変異の継承と選択が必要ですが、これらはいつでも起きているのを観察できますねww
    *そして「性淘汰の可能性」は「(各個体が内包する)生涯時間の内容の量子的揺らぎ」と密接に関わってくる。

    すなわち、明らかにこれらが起こることを禁じる物理法則は存在していないわけです。

    *要するに最終的な落とし所は「あらゆる物理学の法則も神による創造抜きにはこの世界に何も起こり得ない事を支持している」なる「スコラ学的解決」辺りなのだろう。 

こういうニュアンスにおいて、果たして現代は「無限ループによる停滞感が各個人の実存不安を高めつつあるフェイズ」なのか、あるいはその真逆なのか…少なくとも最近声が大きくなる一方の「他人の銃が大嫌いな人達」が前者の認識に立って「世界の混沌からの防衛」を果たそうとしてる事だけは確かな様です。そして彼らの背後には常に「エンドレスエイト状態(裁定者(Ruler)の意向が完全実現した状態での無限ループ)」が常に待ち構えている…