諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代ギリシャ神話形成史①「スケリア島の王女ナウシカ」から「風の谷の族長の娘ナウシカ」へ。

ある意味、古代ギリシャ神話の世界には、日本神話における「古事記(712年編纂)」や「日本書紀(720年)」の様な決定的文献に欠けています。

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*この条件は北欧神話アイルランド神話における「ある時期まとめて筆記された口承伝承群」も満たしてはいないし、日本の神界における秩序も「新撰姓氏録(815年)」までに様々な変遷を経ていたりする。

『新撰姓氏録』氏族一覧

逆を言えば、むしろ堂々と各時代ごとに全く異なる形で「民族統合の柱と為す為の強引な編纂」が行われてきたが故に「全時代を貫く神話的本質」と「各時期において支配的だった政治的状況」の分離が比較的容易なのが研究者にとっては魅力の宝庫というべきなのかもしれません。それでは「全時代を貫くギリシャ神話の本質」とは?

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一方、スノビズムから古代ギリシャ・ローマ文明に自らのナショナリズムの源流を見出そうとした近代ドイツ歴史学者達は、アレクサンダー大王の東征(紀元前334年〜紀元前324年)に端を発し、古代ローマプトレマイオス朝エジプト(紀元前306年〜紀元前30年)を滅ぼすまで続いたヘレニズム時代(Hellenistic period)に注目しました。
*そもそもヘレニズム時代(Hellenistic period)なる歴史区分そのものが、当時のプロイセン出身の歴史学者ドロイゼン(Johann Gustav Bernhard Droysen、1808年〜1884年)の発案。しかも彼はそうした研究をヘーゲル哲学同様「プロイセン国王によるドイツ語圏統一を正当化する理論」と想定していたとされる。
ヨハン・グスタフ・ドロイゼン - Wikipedia

実際には「人間しか感動の根源として認めない」人間中心主義(Humanism)が勝利し、スコラ派やエピクロス主義といった「克己心の哲学」が流行した時代。ある意味ギリシャ文明が最もその神話姓から遠ざかった時代。時計の針を逆転させたのはローマ帝政最初期の王統開闢者となったユリウス氏族(gens Julia)だったとも。

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こうして全体像を俯瞰する限り、後世の欧米エンターメント業界における「残虐な幼女」なるキャラクター設定の大源流は間違いなく「狩猟と貞潔を司る女神」にして「地母神三態(乙女・婦人・老婆)の乙女層」に該当するアルテミス辺りではないかという推論が成立します。

アルテミス

そういえば最近米国において「女性の生涯史」としてのスター・ウォーズの再評価が進んでいますが、その世界観においても「(後に賢明な外交官や司令官に進化する)Battle Princess」が重要な役割を担わされていたりするのです。
*どうやら背景にあるのは坂口安吾いうところの「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の行動主義とも。

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*まぁ大元はここまで遡る?

ところでアルテミスは気付くと「(三態全てが備わった)アナトリア半島地母神」から「(一態のみが抽出された)アルカディアの狩猟神」に変貌していました。この辺りにギリシャ神話を読み解く上での重要な鍵がありそうです。一方、そうした天性のゲリラ的存在は「王権を頂点として領土全域に秩序をもたらす中央集権体制」にとって都合の悪い存在であり続けており「一態のみを抽出する」その態度そのものに、これを無力化せんとする悪意を感じないでもありません。とはいえ、それなら「反体制は絶対正義」と断言してしまうのも困りもの。
*そうギリシャには「筋金入りの無政府主義者の輩出地」という側面もあるのである。

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案外この辺りのジレンマこそが宮崎駿風の谷のナウシカ(1982年〜1994年、劇場映画化1984年)」を支えた主題だったとも。

そういえば「ナウシカ(Nausicaä)」という名前自体が「オデュッセイア」に登場するキャラクターの一人からの継承なんですね。
*「オデュッセイア」におけるナウシカは「男にとって都合が良過ぎる女」。むしろ「アエネーイス」におけるカルタゴの女王ディードー(Dīdō、流れ者のアエネーアースとの情熱的な恋に落ち、彼がカルタゴを去ると別れを嘆いてその身を薪の火に投じて壮絶な自死を遂げるが、その際に後のポエニ戦争でローマがカルタゴ軍により苦しめられることを示唆する恨み言を遺す)」こそがその上位バージョンと目されている。
ナウシカアー - Wikipedia

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さてこの展開を「原型も留めてない」と嘆くべきなのか、それとも「むしろギリシャ神話の本質に近づいた」と賞賛すべきなのか…