諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】1970年代後半から1980年代後半にかけての「光と陰の交錯」

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1970年代末から1980年代前半にかけては思わぬ形で光(メジャー界)と影(カルト界)の交錯が見られたものです。日本だとStar Warsが流行しDiscoがトレンドとなる一方で「JUNE」が1978年、「月刊ムー」が1079年に創刊。そして国際的にはデビッド・ボウイやデビッド・シルビアンら「耽美系カリスマ」が次々とメジャー・デビューを果たします。

そういう時期に海外で相応の人気を博したのがボコーダーをフィーチャーしたこの曲。

詳細は不明ながら「ニューロマンティック音楽の生みの親」スティーヴ・ストレンジがヴィサージ(Visage)を結成する以前からのレパートリーだった模様です。

ヴィサージ(Visage)

イギリスのシンセポップ・グループニューロマンティックの発祥のバンドとして名が高い。ロンドンでナイトクラブを経営していたスティーヴ・ストレンジが中心。ニューロマンティックは彼が主宰していたクラブ・ビリーズで開催されていたデヴィッド・ボウイ・ナイトを発祥とする。グループ名はヴィジュアル(Visual)、ビザ(Visa)、AGEの三つの言葉をかけあわせたもの。

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*このファッション・センスは確実に「バレエ・リュス」の系譜を継承している。

  • ナイトクラブを経営しながらバンド活動をしていたスティーヴ・ストレンジと、リッチ・キッズとして活動していたラスティ・イーガンとミッジ・ユーロの3人を母体として結成された。そこにウルトラヴォックスのキーボーディストであるビリー・カーリー、マガジンのジョン・マッギオーク、デイヴ・フォーミュラ、バリー・アダムソン(デビューシングルリリース後に脱退し、セッションメンバーとして参加)が加入。
  • 1980年11月に1stアルバム『ヴィサージ』をポリドール・レコードよりリリース。同時期にリリースされたシングル「Fade to Grey」は各国でトップ10入りし、ドイツとスイスでは1位を獲得するなど、バンドは一躍注目を集めた。

  • 1981年に入り次のアルバムを制作しようとしたが、マッギオークがスージー・アンド・ザ・バンシーズに加入するためバンドを脱退し、またそれぞれのメンバーのバンド活動が活発になり、制作のスケジュールが付け辛い状態になる。秋頃にようやくスタジオ入りし、2ndアルバム『舞-ダンス-』をレコーディングし、翌1982年3月にリリース。全英6位を記録した。この時点でユーロがウルトラヴォックスでの活動に専念するためバンドを脱退し、この頃レコード会社との契約上の問題が発生し2年間活動を休止。

  • 1983年11月にベスト・アルバム『Fade to Grey – The Singles Collection』をリリース。全英38位。1984年、契約上の問題が解消し新作の製作を開始するも、レコーディング開始間もなくカーリーとフォーミュラが脱退し、新メンバーを募って制作を継続。10月に3rdアルバム『ビート・ボーイ』をリリースするが商業的・批評的に失敗。翌1985年解散(活動再開は2000年代に入ってから)。

スティーヴ・ストレンジがドレスを着て、真っ白な化粧(いわば女装)をしていた事が後のカルチャー・クラブボーイ・ジョージデッド・オア・アライヴのピート・パーンズなどに影響を与えた事で知られる。

日本でもシンセポップバンド・SOFT BALLETの森岡賢がヴィサージから影響を受けたと公言し、女性DJのZono Pansyはスティーヴ・ストレンジから影響を受けたメイクアップでニューロマンティックDJとして活動している。 元MALICE MIZERのKoziも現在のバンドZIZで度々カバーを披露した。
デヴィッド・ボウイが「レッツ・ダンス(Let's Dance、1983年)は」をリリースしてメジャーデビューした契機となった動きでもあったとも。

ナイトクラブ発祥のニューロマだけに限らず、当時の電子音楽はファッションと結びつけた売り方をされる事が多かった様です。ファッション・モデルのマネキンめいた人を突き放す様な独特の雰囲気に共感を覚えていたのかもしれません。またアンダーグランドな世界が欧州各地のナイトクラブやディスコを拠点としてネットワークで結ばれていたという側面もあったかもしれません。
*それに元々「美大出身者」や「音大出身者」は連んで行動する事が多い?


*当時は意外なほどドイツが文化発信の中心となってる。デビッド・ボウイも長期滞留してるし1870年末のディスコ・ブームを賑わせたBoney Mの「怪僧ラスプーチン(Rasputin、1878年)」も「ジンギスカン(1979)」もドイツ発。 

*そして1980年代に入ってからメジャーな世界にも広まる事になる「カリスマ・ミュージシャン=捕食動物」なるイメージもまた恐らくHot Blood「Soul Dracula(1977年)」がリリースされたこの時期まで遡る。

ところで同時期の1978年には坂本龍一がデビューアルバム「千のナイフ(Thousand Knives)」を発表しています。

千のナイフ - Wikipedia

1978年10月25日発表の坂本龍一のデビューアルバム。または、このアルバムに収録された曲。タイトルはベルギーの詩人アンリ・ミショーがメスカリン体験を記述した書物『みじめな奇蹟』の冒頭の一節からとられた。

  • タイトル曲「千のナイフ(Thousand Knives、9分34秒)」は坂本のヴォコーダーKORG VC-10)による毛沢東の詩(1965年に毛沢東が井岡山を訪問したときに作成)の朗読で幕を開け、印象的な響きの和音が平行移動するイントロへとつながる。イントロ後の速いパッセージ部分のメロディーの音色は大正琴のシミュレート。坂本自身はレゲエや賛美歌、ハービー・ハンコックの「Speak Like A Child」にもインスパイアされたと発言している。ギターソロは渡辺香津美。後にYMOもライブで演奏している。

  • 担当ディレクターによるとレコーディングにはコロムビアの第4スタジオで延べ339時間が費やされた。当時の坂本は、昼間にスタジオミュージシャンをこなし、夜12時から朝までこのアルバムを作成し、何か月もかかったが、寝なくても平気だったと回想している。

  • コンピュータ・オペレーターは松武秀樹が担当。坂本はシーケンサー・ローランド MC-8を初めて利用したが、このとき、音楽のノリ(はね方)を数値で分析して、コンピュータで表現することを発見している。このアルバムで、坂本らはイエロー・マジック・オーケストラYMO)に繋がる制作手法のノウハウを得たとも。

  • ギターで渡辺香津美が参加。坂本からの注文は「火がついたように弾きまくってくれればいいから」だった。山下達郎カスタネットで参加している。

  • ジャケット写真のスタイリストはYMOのメンバー高橋幸宏が担当。当時の坂本は長髪にTシャツで、ファッションとは無縁な風貌だったが、ジョルジオ・アルマーニのジャケットにリーバイス501ジーンズというコーディネートで周囲の持っていた坂本へのイメージを一新した。

  • ライナーノーツは、坂本本人、林光、細野晴臣が寄稿。細野は自らのコンセプト「イエローマジック」に絡めた文を掲載している。このアルバムの発売に伴い、1978年10月25・26日に東京・六本木のピットインで「千のナイフ発売記念ライヴ」が催された。

初回プレスは400枚。うち200枚が返品されてきた。
*その一方でYMO(1978年〜1983年)が結成され、1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー・ウェイヴのムーブメントを追い風にシンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で日本を席巻する。

ところで冒頭で挙げた「In The Year 2525」のオリジナル版リリースは1969年。なんとなくニューウェーブSFとかヒッピー運動とのムーブメントとの関係の深さを感じずにはいられません。

*しかも1969年といったらチャールズ・マンソンが示唆した「シャロン・テート殺人事件(1969年8月9日)」やコンサート会場の警備員が観客を刺殺した「オルタモントの悲劇」があった象徴的な年で「ヒッピー運動の精神的死亡年」ともいわれている。

オルタモントの悲劇

In The Year 2525(西暦2525年、1969年)

In the year 2525,
If man is still alive
If woman can survive,
they may find

西暦2525年
もし男がまだ生きていたら
もし女が生き伸びていたら
人類は気がつくかもしれない

In the year 3535
Ain't gonna need to tell the truth,
tell no lie
Everything you think, do and say
Is in the pill you took today

西暦3535年
真実なんて言う必要はない
嘘も言わなくていい
考えたこと すること言うこと
すべてが今日
あなたが飲んだ薬のなかに入ってる

In the year 4545
You ain't gonna need your teeth,
won't need your eyes
You won't find a thing to chew
Nobody's gonna look at you

西暦4545年
歯は必要がなくなるだろう
目だってそうさ
噛まなきゃいけないものはない
誰もあなたを見やしない

In the year 5555
Your arms hangin'
limp at your sides
Your legs got nothin' to do
Some machine's doin' that for you

西暦5555年
腕は身体の横に
だらりと垂れさがってる
足があってもすることがない
機械が代わりに働いてくれる

In the year 6565
Ain't gonna need no husband,
won't need no wife
You'll pick your son,
pick your daughter too
From the bottom of a long glass tube

西暦6565年
夫なんていらなくなる
妻も必要なくなる
息子は摘み上げるんだ
娘も同じく摘み上げるのさ
長い試験管の底からね

In the year 7510
If God's a-coming,
He oughta make it by then
Maybe He'll look around Himself and say
"Guess it's time for the Judgement Day"

西暦7510年
神が降臨したならば
首尾よく事を行うはずだ
自分の周りを見回して
こう言うだろう
"どうやら審判の日がやってきた"

In the year 8510
God is gonna shake His mighty head
He'll either
"I'm pleased where man has been"
Or tear it down, and start again

西暦8510年
神は万能の頭を横に振り
"人類の行きついた場所は喜ばしい"
と言うか それとも
この世を破壊し やり直すか どちらかだ

In the year 9595
I'm kinda wonderin'
if man is gonna be alive
He's taken everything
this old earth can give
And he ain't put back nothing

西暦9595年
私は悩んでるだろう
人類は生き残っているだろうか
人類はこの年老いた地球が与えるもの
そのすべてを奪い取り
何も返していないんだ

Now it's been ten thousand years,
man has cried a billion tears
For what, he never knew,
now man's reign is through

そして今 一万年の時を経て
人類は何億もの涙を流してきた
どうして 人類はわからないのか?
そして今 人の世は終わりを告げた

But through eternal night,
the twinkling of starlight
So very far away,
maybe it's only yesterday

しかし永遠の夜を越えたところで
星の光がまたたいているのだ
その気の遠くなる遠さを考えれば
人類の歴史などほんの昨日の出来事

In the year 2525,
If man is still alive
If woman can survive,
they may find

西暦2525円
もし男がまだ生きてたら
もし女が生き延びてたら
気がつくかもしれない…

In the year 3535
Ain't gonna need to tell the truth,
tell no lie...

西暦3535年
本当のことも言う必要がなくなり
嘘もつかなくてよくなり…

In The Year 2525 / 西暦2525年 (Zager & Evans / ゼーガー&エバンス)1969 - 洋楽和訳 (lyrics) めったPOPS

ゼーガーとエヴァンス"のデニー・ゼーガーとリック・エヴァンスネブラスカ州リンカーンのバンド"エクセントリックス"のメンバーでした。ゼーガーは既にこの曲を1964年には書いていたようですがバンドを脱退。デヴィルズという新しいバンドを結成しましたが、デヴィルズでこの歌を歌うことはなく「西暦2525年」はお蔵入りスレスレでした。しかし1968年に二人はデュオを結成。ゼーガーは言います。

「ずっとバラードばかりやってたから、何かアップテンポの曲を探してたんだ。そこで"西暦2525年"のことを想い出してステージでやってみることにしたんだ。」

最初はそんなに乗り気じゃなかったようですが、ローカルヒットになったのち、二人はRCAと契約。ビルボード誌で72位で初登場したあと、翌週35位でトップ40入り、翌週8位、そして1位に!

それだけセンセーションな曲だったんですね。

そしてゼーガーとエヴァンスは「輝かしい一発屋」としてこの曲とともに多くの人の記憶に焼き付きました。

第二次世界大戦中、連合軍捕虜としてドレスデン空襲を受ける側に回って「PSTDによる時間感覚の喪失」を自らも経験。それまで「タイタンの妖女(The Sirens of Titan、1959年)」「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを(God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine、1965年)」などで間接的にそれについて記してきたカート・ヴォネガット・Jrの半自伝小説「スローターハウス5(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death、1969年)」が出版されたのもこの年。この作品抜きにテッド・チャン「あなたの人生の物語(Your Life Story、1999年)」は語り得ないし、そのトラウマに満ちた独特のセンチメンタルな世界観はこうの史代この世界の片隅に(このせかいのかたすみに)」や、ラナ・デル・レイの歌詞世界の基調をも成している。

以下も同じくらい「トラウマを引きずった」作品の一つ。

イーグルズ「ホテル・カリフォルニア(Hotel California;1977年2月) 」の歌詞解釈を巡る様々な議論

歌詞のあらましは、主人公がコリタス(サボテンの一種だが、マリファナの隠語)の香りたつカリフォルニアの砂漠エリアのハイウェイで、長時間の運転に疲れて、休むために立ち寄った小綺麗なホテル(実在しないホテル「ホテル・カリフォルニア」)に幾日か滞在し快適な日々を送ったが、堕落して快楽主義的なすごし方を続ける滞在客たちに嫌気して、以前の自分の日常生活に戻るためホテルを去ろうとしたものの、離れようにも離れられなくなった…という、一見伝奇譚的なミニストーリーであるが、歌詞の随所には言外に意味を滲ませる深みのあるものとなっているため、歌詞解釈について様々な憶測を呼び、評判となった。

On a dark desert highway,Cool wind in my hair,
暗い砂漠の高速道路で、涼しい風が髪をなびかせる

Warm smell of “colitas”、Rising up through the air,
コリタスの温かい匂いが、あたりに立ち上ってる

Up ahead in the distance、I saw a shimmering light,
頭を上げて見る彼方に、私は輝く光を見つけた

My head grew heavy and my sight grew dim,
頭が重くなり、視力がかすんできたので

I had to stop for the night.
このまま夜通し走り続けるのは不可能となった。

There she stood in the doorway,
彼女が入り口に立っているところで

I heard the mission bell
私は礼拝の鐘を聞いて

And I was thinkin’ to myself :
そして私は自分自身のことを考えた

“This could be heaven and this could be hell”
「これは天国か、それとも地獄かもしれない」

Then she lit up a candle,And she showed me the way,
すると彼女はろうそくを灯し、私に行き先を示した

There were voices down the corridor,
廊下をおりるとの声がした

I thought I heard them say
私は思った、彼らがこんなふうに言ってのが聞こえたと…

Welcome to the Hotel California,
ようこそホテルカリフォルニアへ

Such a lovely place,(Such a lovely place)Such a lovely face
なんて素敵な所(なんて素敵な所)、なんて素敵な顔

Plenty of room at the Hotel California,
ホテルカリフォルニアは部屋が豊富です

Any time of year,(Any time of year)
年中無休で(年中無休で)

You can find it here(You can find it here)
あなたはここで見つけることができます(あなたはここで見つけることができます)

Her mind is Tiffany-twisted,
彼女の心はティファニーのねじれ

She got the Mercedes Bends,
彼女の肉体はメルセデスの曲線

She got a lot of pretty, pretty boys
いつも沢山の可愛い男の子達に囲まれてて

she calls friends
彼女が友人と呼んでいる

How they dance in the courtyard,
彼らは中庭でダンスを踊っている

Sweet summer sweat
甘い夏の汗

Some dance to remember,
何人かは思い出すためにダンスを踊る

Some dance to forget
そのうち少なくとも一部は忘れる為にダンスを踊ってる

So I called up the Captain
さて、私はボーイ長(給仕長)を呼んで頼んだ

“Please bring me my wine”
「ワインを持ってきてください」

He said, “We haven’t had that spirit here Since nineteen sixty-nine”
だが彼はこう告げる。「私たちは1969年以前のスピリット(蒸留酒、魂)はここには置いていないんです」

And still those voices are calling from far away,
そして、まだ彼らの声が遠くから呼んでいる

Wake you up in the middle of the night
あなたは夜中に目を覚ます

Just to hear them say:
ほら聞こえるだろ、彼らが言っていることが…

Welcome to the Hotel California,
ようこそホテルカリフォルニアへ

Such a lovely place,(Such a lovely place)Such a lovely face
なんて素敵な所(なんて素敵な所)、なんて素敵な顔

They’re livin’ it up at the Hotel California,
彼らはホテルカリフォルニアで生きてくのさ

What a nice surprise,(What a nice surprise)Bring your alibis
なんて素晴らしい驚き(なんて素晴らしい驚き)それが貴方の存在証明

Mirrors on the ceiling,The pink champagne on ice,
天井のミラー、氷の上のピンクシャンパ

and she said:“We are all just prisoners here, of our own device”
そして彼女は打ち明けた。「私たちはみんなここの囚人、私たちが作り上げた所」

And in the master’s chambers They gathered for the feast,
またもや支配人の部屋に彼らは祝宴を開催する為に集まる。

They stabbed it with their steely knives,
彼らは磨かれたナイフでそれを刺そうとするが、

But they just can’t kill the beast
決して獣を殺すことは出来やしないのだ。

Last thing I remember, I was running for the door,
私が覚えている最新の出来事。ドアに向かって走ってた。

I had to find the passage back to the place I was before,
以前居た場所への通路を見つけなければならない。

“Relax,” said the night man, “We are programmed to receive,
「落ち着いて」と夜警の男たちは言った、「私たちはこの状況の保守要員です。」

You can check out anytime you like… but you can never leave”
「あなたは、好きな時にチェックアウトできますが、立ち去る事だけは二度と出来ないんです!」

  • 作詞者の3人が属するウエストコースト・ロックひいてはロック産業の退廃を揶揄しているという解釈から、カリフォルニア州キャマリロにあったカリフォルニア州立精神病院を描写しているという解釈、さらには全汎的にアメリカ社会ないし現代文明のひずみに対する憂いを表現しているという解釈まで、聴き手に様々な印象を与える歌詞となっている。

  • 特に主人公がホテルのボーイ長に対して(自らを取り戻して理性的になる為に)注文した「自分の(好みの銘柄の)ワイン」がなく「We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine…(そのような酒はこちらにはご用意しておりません,1969年以来…)」と返答された、という一節はあまりにも有名。spirit (スピリット)という言葉を「(蒸留)酒」と「魂」との掛けことばに用いて、当時のロック界を揶揄したものであると解釈されることが多い。これは、いわゆる ウッドストック・フェスティバルなどの大規模なコンサートが1969年以来行われるようになり、これ以降のロック界は いわゆる産業ロックと言われる商業至上主義に転向してゆき、各アーティストが求める表現の発露としての演奏ではなく、いかに好まれ大衆が購買し大量集客できるかを第一義においた曲の演奏を強制させられる時代となり、アーティストのスピリット(魂)など失われてしまった、と暗喩していると解釈するものである。そして同年12月、ロック界にとって外すことの出来ない事件「オルタモントの悲劇」が起こる。また、アメリカがベトナムから最初に撤退を始めた年でもある。

  • 「彼女の心はティファニーのねじれ、彼女はメルセデスの曲線を持っている(Her mind is Tiffany-twisted, She got the Mercedes Bends,)」の部分は、「ニューヨーク5番街の有名な宝飾店ティファニーの洗練されたデザイン、高級車メルセデスベンツの美しいライン」に象徴される内面的な気品と「女性の持つ腰のくびれやボディラインが高級品のようにゴージャス」という1930年にまで遡る流線型信仰の様なアメリカの古い伝統的価値観を想起させる(the Mercedes Bendsはthe Mercedes Benzのもじり・洒落)。そして同時にジャニス・ジョプリンJanis Joplin、1943-1970)が最初に歌ったサンフランシスコのサイケデリックバンド、ビッグブラザーホールディングカンパニーBig Brother and the Holding Company)に影響を与えたティファニーシェード(Tiffany Shade)とジャニス・ジョプリンの曲「メルセデスベンツ」を連想させジャニス・ジョプリンへのオマージュともとれる。だからこのホテルはそんな女性を中心とした、かわいい少年たちが踊り、「思い出す」「忘れる」という過去に囚われる一種のコロニー(女王に支配された蜂や蟻の巣)として描かれる訳である。しかしそうしたサイケデリック・ムーブメントによる自由な共同体という意識が、当時の若者の間でピークに達した年は衰退の始まった年でもあり、ジャニス・ジョプリンも1970年に亡くなる。

  • 主人公のホテル滞在中に繰り返し聞こえ幻聴とも思われる「Welcome to the Hotel California…(ようこそホテル・カリフォルニアへ…)」の言葉の本質は何を意味するのか? また、従業員または滞在客が言った「We are all just prisoners here、 of our own device…(しょせんみんなここの囚人だ、自分の意思で囚われた…)」の意味は?(リンダ・ロンシュタットのバックバンドとして共にカリフォルニアでデビューした経緯と商業主義とセックス・ドラッグ&ロックに堕ちてゆく自分達の事か?)さらに、大広間の祝宴に集まった滞在客らが鉄製のナイフで刺し貫けるものの決して殺すことのできない「その獣(けもの)」(the beast )とは何のことを指すのか?(これは、歌詞のsteely knives(複数の鉄製ナイフ)がスティーリー・ダンを、the beastが音楽業界を指し、スティーリー・ダンをもってしても商業主義の音楽業界に立ち向かえなかったと揶揄している節がある。アルバム「ホテル・カリフォルニア」が発売される以前、スティーリー・ダンは自グループの曲中に(イーグルスの)うるさい曲をかけろと揶揄したことがあり、その当てつけに書き込んだとも)。

  • 「I had to find the passage back to the place I was before…(前いた場所に戻る道筋を探さなければならなかった…)」の意味するところは? 歌詞の最後は、こんな環境に居続けると自分がダメになると気づいた主人公が、出口を求めてホテル館内を走り回っていた際に警備員にたしなめられ「We are programmed to receive. You can checkout any time you like、 but you can never leave!(受け入れるのが運命(さだめ)なんだよ、好きなときにチェックアウトはできるが、決して立ち去ることは出来ないんだ!)」という印象的な言い切りの言葉で終わり、直後に続くフェルダーとウォルシュによるツイン・ギター・リフと そのフェイドアウト効果により、聴き手に深い余韻を与える構成となっている。

  • ちなみにcheckout (チェックアウト)は、北米口語でしばしば「自殺する」の婉曲表現に用いられるため、この一節は「死ぬまで逃げられない」と掛け言葉になっていると解釈することもできる。

日本のエンタメ業界にとっても1969年は「日常系元年」として忘れられない年だったする。白土三平の忍者物が畏敬の対象から嫌悪の対象に変貌してアニメ放映枠も急遽「ワタリ」から「サザエさん」に変更された年、TVシリーズでは当時の股旅物を凋落を象徴して最終回でハブに噛まれて死んだ柴又帝釈天の寅さんが「男はつらいよ」シリーズの主人公として奇蹟のカムバックを果たした年、そして「梅干しデンカ」「21エモン」と連続して外した藤子不二雄が「ドラえもん」でやっと長期連載を勝ち取った年…おそらくこうした一連の動きの背景には東京大学安田講堂陥落(1969年1月)や同年の東大受験中止、それを契機としての一般人の学生運動に対する評価の暗転などがあった。

  • (おそらく完全にラリった状態で周囲に誰も居ない荒野のハイウェイを飛ばしていた)語り手は、冷たい風のせいで一瞬だけ我に返り「このままでは事故死は免れ得ない」と考えて近場のホテルに一時退避。「ここは天国鍛かそれとも地獄か?」と哲学的考察に入りそうになるが「彼女」が現れて案内を始めたのでその機会を失う。
    *欧米のヒネたアニメ漫画GAMEファンはここで日本人に問いかけてくる。「教会の鐘の音をBGMに現れ/蝋燭の炎で導く事で私から思考能力を奪い/捻れたティファニーの心とメルセデス曲線の肉体を備えた/沢山の男の子達を従えて踊るが全員友達に過ぎない女。さて日本人には誰に見えましたか?」と。例えば「ゆるゆり」には「これは永遠に高校生になる事も、男の子達と出会う事もない女子中学生達が、決して最期まで成就する事のない恋愛ごっこを永遠に続ける素晴らしい物語なんだよ」と、登場人物がメタ視点で語る恐怖回が存在する。欧米のアニメ漫画GAMEファンも「ゆゆ式がコカインなら、ゆるゆりはヘロイン」という微妙な褒め方をする。
  • ホテルの宿泊客は「解放されたくて」時々支配人の部屋に集まり「獣」を殺そうとするが、決して成功はしない。何故なら確かにそこが自分達で自分達のために用意した監獄に他ならないからだ。
    *欧米のヒネたアニメ漫画GAMEファンはここで日本人に聞いてくる。「獣の姿がどう見えましたか? デュラララ!!の折原臨也? サイコパス槙島聖護? それとも宮崎駿監督? 虚淵玄
  • 文学史を辿ると、そもそもラブコメやら日常系といったジャンル自体がナポレオン戦争下、フランスからの「危険思想」流入を相互監視の徹底によって抑え込もうとしていた英国でジェーン・オスティンが「既に時代後れとなって怖さを失ったゴシック・リバイバル小説」を当世風にアレンジする事で生まれたという側面がある。
    *つまり最初からラブコメは起源を恐怖小説と同じくするディストピア小説の派生ジャンルなのであり(だからレトリック的に必ず「社交界」とか「学園」とか「職場」といった(外側と対比される)主舞台としての枠を必要とする。少なくとも「1348年のペスト大流行を忌避して篭城した様々な人達の暇つぶしの語り合い」という体裁を選んだボッカチオの「デカメロン(1348年~1353年)」まで遡れる伝統)、何故か作者がそうした歴史に自覚的であればあるほど内容が冴えるのである。おそらく何をすべきで何をすべきでないか明瞭に見えてくるせいであろうが、その世界が完璧に近付けば近付くほど、背後で暗躍する「獣」の不気味な不死性も高まっていくという訳である。

どうやらアメリカ西海岸には「心の底から明るい作品は、心の底から暗さに染まった人間にしか生み出せない」という伝統的思考様式が存在する模様。その起源はもしかしたら移民ラッシュを背景とする1920年代の「サンフランシスコ・ボヘミアン運動」なのかも。このムーブメントは芸術活動の傍ら「巣を張るクモよ、来るべからず」というシェークスピア真夏の夜の夢』からの引用をモットーとするボヘミアン。クラブ・オブ・サンフランシスコで毎晩乱痴気騒ぎを繰り広げた。しかしアンブローズ・ビアス(「悪魔の辞典」で有名だが、実はクトゥルフ神話におけるハスターの考案者で「月明かりの道」は芥川龍之介「藪の中」の元ネタとされる)がメキシコに赴いて失踪し、ジョージ・スターリングが20代で青酸カリ自殺を遂げるとあっさり終焉してしまう。その残党が「千夜一夜物語」や「ヴァセック」の幼少時からの愛読者で小泉八雲にも熱中し(要するに異国情緒好き)米国文学史にはボードレール詩の英訳者として名を残すクラーク・アシュトン・スミスだった。ラブクラフトと交遊し1929年から1937年にかけてクトゥルー系小説を集中的に発表したのは彼にとってキャリアのほんの一部に過ぎない。そもそも画師でもあってホラー・ジャンル小説における挿絵に決定的影響を残した人でもあるのだ。それ以降も「移民への入口」米国西海岸はビーチボーイズイーグルスを、P.K.ディックやK.W.ジーターといった複雑な人々を生み出し続ける。

スタイルこそ様々ですが、以降しばしば「(それぞれのアレンジのポップさに関わらず)文面そのものはシリアス極まりないプロパガンダめいたもの」が国際的に流行する様に。ボコーダーで外国語で読み上げられて聴こえ難くされたり、暗号めいた言い回しに変換されたりしてる上に、とりわけその事によって何かを伝えようという意思も見受けられない不思議…
*もしかしたら国際的に左翼主義勢力が本格的に科学的マルクス主義を放棄しつつ「新左翼陣営と旧左翼陣営の大合同」を果たし「環境左翼」「反戦左翼」「反原発左翼」などに再編されていった時期だった事も重要な関係があるのかも。当時独特の退廃的な雰囲気の説明もこれでつくかも。

調べてみると「ムーブメント終焉の絶望感がファッションとして消費された時代」なんて穿った意見が散見されたりします。要するに国家間の競争が全てだった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)残滓の時代遅れになった言説のニヒリズムに満ちた在庫一掃セール。そう考えるなら21世紀初頭にも「産業至上主義(1960年代〜1990年代)残滓の時代遅れになった言説のニヒリズムに満ちた在庫一掃セール」が起こる理屈で、そういえば思い当たる節もなきにしもあらず…