諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「個別的なるものそれぞれに対する執着心」側のせめてもの抵抗?

以前から疑問に思ってきた事があります。TRPGの世界ではどうして状況に応じて「四面体」「6面体」「8面体」「10面体」といった複数のサイコロを使い分けるのか? そこには全てを無機質な確率論に帰そうとする「情報エントロピー理論的ニヒリズム」に対する「個別的なるものそれぞれに対する執着心」側のせめてもの抵抗心が見て取れないかだろうか、と。

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 全ての「個別的なるものへの執着心」を捨て去る事に成功したグローバリストは、ある意味怪物の様なもの。マンハイムは「単一指標に基づく政治的・経済的平等の追求には相応の意味が存在するが、全ての価値観をこれに組み込むのが不可能である事を了承し「語れない事については語らない」態度を貫くのが真の進歩主義」と述懐しています。しかし最近のグローバリストは「人類の平等は政治や経済といった数値化可能な領域によってみ達成可能なのだから、全てを政治問題・経済問題化して反対意見を抹殺し尽くすのが国際正義」と連呼するニヒリストに堕してしまった様にも見て取れます。

①その一方で最近日本では「若者の中二病離れ」が話題となっている。ならば「トム・リドルは/美樹さやかは/鎌田君は私だ!!」「鎮まれ…鎮まれ、私の中のオブスキュラス!!」「ローグワンを鑑賞にいって、ダースベーダーの活躍を目の当たりにしてカイロ・レン(Kylo Ren、演アダム・ドラーバー)の気持ちがわかった!!」と豪語してきた国際SNS上の関心空間における女子アカウントについてどう考えるべきなのか? もしかしたら真の問題は「中二病の日本の若者離れ」の方なのでは?

②肝心なのは、ここでいう「個別的なるものへのそれぞれの執着心」はポジティブで大っぴらに語り得るものばかりでなく「(しばしば死や性にまつわる、1度目にしてしまうと目が離せない神経症的状態に追い込まれる)不気味なもの」も含むという辺り。そしてこれと完全に切り離されてしまった「中二病的振る舞い」はもはや残れなくて当然という辺り。

③そういえば最近話題の「食人鬼漫画」についても藤子不二雄「ミノタウルスの皿(1969年)」や鬼頭莫宏「殻都市の夢(2003年〜2005年)」収録作品「3年間の神」と比較しての深い考察は皆無だった。特に後者に関する海外のカルト人気はガチだったりするのに。

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もしかしたら「ニヒリスト側」が確実に勝利を収めつつある証拠なの?

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そういえば最近気になってる指摘があります。

 確かに、例えばマンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」の定義を見ても保守主義は「主義そのもの」というより「(他の主義に対抗すべく体裁だけ整えた)主義もどきの擬態」という印象が強いのです。

マンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」における「進歩主義的思考様式」の定義。

  • 単一指標に基づく政治的・経済的平等の追求には相応の意味が存在し実現を目指すべきである。

  • ただし全ての価値観をこれに組み込むのは不可能。「語れない事については語らない」態度を貫くべき。

同著における「保守主義的思考様式」の定義。

  • 伝統主義とは「個別なるものへのそれぞれの執着心」の総和であり、その段階においては思想的主体性を全く備えておらず状況に応じた個別判断があるばかりである。
    *多くが自らの伝統的既得権益の墨守にのみ執着心を見せるタイプでまとまりにかけるのも問題だった。
  • これに進歩主義の無機質な価値観への反感や「自らの認識範囲を主体的に統合した世界観を樹立しようとする」ロマン主義運動の影響が加わると「保守主義的思考」の形成が始まる。
    *「フランス保守主義の父」シャトーブリアンは同時にケルティックルネサンス運動に相応の実績を残した文学者でもあった。(自らの伝統的既得権益の墨守にのみ執着心を見せる)王侯貴族や聖職者と異なり、当時のケルティックルネサンス運動は「ケルト民族(ガリア人)をフランス人全体の祖先」と規定する事で大衆に対しても相応の浸透力を備えるに至る。

  • ただし実は保守主義的思考」は原初的に「国王とその寵臣や官僚団に権力を集中させようとする中央集権的志向性」と「伝統的既得権益を墨守する為に中央集権化の制限を目論む大貴族連合的志向性」なる相反するベクトルを内包し、そのうちどちらかを枝刈りする事によってイデオロギーとして成立する側面も存在する。例えば19世紀前半に成立したヘーゲル哲学は後者を切り捨てた典型例。
    *英国や日本の様に「議会制民主主義への移行後、保守政党が政権を担った実績のある国」なら。真っ先に(当時の現実に的確に対応した)釣り合い感覚(Balance)こそが最重要と述べている。マンハイムにその発想はなかった。「保守主義的思考」が発表された当時はドイツ保守党の躍進期だったが、やはり同様にその事に頭が回らず内紛によって自壊。せっかくの勝機を失っている。

    ドイツ国家人民党(Deutschnationale Volkspartei:DNVP) - Wikipedia

    ヴァイマル共和政期のドイツの保守・右派政党。ドイツ国家国民党とも訳される。第一次世界大戦後、共和政になった直後の1918年12月4日に、帝政時代の政党ドイツ保守党(Deutsche Konservative Partei、略称DKP)を改組する形で誕生。大戦中に200万人のメンバーを擁した戦争翼賛大衆組織ドイツ祖国党(ドイツ語版)とも人的一貫性を持つ。

    主な支持層はユンカー(東エルベの大地主貴族)や実業家などであり、伝統的で保守的な政策を主張し、富裕層の利益を最優先にする「ブルジョワ政党」であった。ドイツ皇室の復活を求める帝政復古派も多く、ヴァイマル憲法およびそれが体現した共和制や議会政治に反対。また反社会主義反共主義の立場をとり、社会主義者の裏切りのせいで敗戦したという「背後からの一突き」説を喧伝して左翼政党を非難した。ヴェルサイユ条約にも強い敵愾心を示した。
    *党の初期の頃にはドイツ民族至上主義者も多数参加していたので、彼らを中心に人種差別的な反ユダヤ主義を声高に唱えた時期もあるが、これは帝政時代からの伝統的保守勢力から不評であり、結局この民族至上主義者の一派は1922年にドイツ民族自由党(DVFP)という別政党を立ち上げて分離している。

    様々な国粋主義組織を支持団体として傘下に収めていたため、比較的選挙に強い安定した党だった。保守的な政治姿勢に固執したため、社民党(SPD)、中央党(DZP)、民主党(DDP)の穏健左派・リベラルの連立政権ヴァイマル連合」で構成されることが多いヴァイマル共和国政府に対しては基本的に野党の立場をとった。

    1925年から1928年頃にはやや中道化し、ヴァイマル共和国政府に協力することもあったが、1928年5月の総選挙でもともとの支持層が中産階級帝国党やキリスト教国民農村住民党などに移行したこともあって重大な敗北を喫っする。これがきっかけとなり、1928年秋には対政府強硬派のアルフレート・フーゲンベルクが党首となったため、同党は再度保守野党の立場へと戻った。一方フーゲンベルクは国家人民党内で国民主義的右派と呼ばれていた反君主制論者であり、帝政復古主義者の前党首クーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵とは立場が違った。

    1929年6月にヤング案が成立するとフーゲンベルク率いる国家人民党は、これに激しく反発し、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)とフランツ・ゼルテ率いる鉄兜団と反ヤング案で連携をとった。しかしフーゲンベルクの妥協を知らぬ反政府闘争はヒンデンブルク大統領やその大統領内閣首相ブリューニングの不興を買った。政府はフーゲンベルクを国家人民党内で孤立させようとしたが、数多くのメディアを傘下に収めるフーゲンベルクの影響力は絶大でうまくいかず、結局前党首ウェスタープ伯爵ら親政府派が1930年7月の国会解散後に保守人民党(Konservative Volkspartei、略称KVP)を結成して離党することになった。1931年にはナチ党・鉄兜団とともに「ハルツブルク戦線」と称する同盟関係を結び、ブリューニング内閣攻撃を強化。

    1932年6月ブリューニング内閣が崩壊すると、国家人民党はフランツ・フォン・パーペンに協力し、同内閣では国家人民党系の無所属右派が入閣している。パーペン内閣が倒れ、クルト・フォン・シュライヒャー将軍の内閣が成立すると、再びナチスとの提携に動き、1933年1月30日ナチス・国家人民党・鉄兜団・貴族層など保守派・右派の連立により第一次ヒトラー内閣が成立した。国家人民党からは党首のフーゲンベルクとフランツ・ギュルトナーが入閣した。フーゲンベルクが経済相兼農林食糧相、ギュルトナーが法相となっている。

    当時ナチ党は第一党であったが、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られていなかった。したがってヒトラー内閣以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党を与党に引き込むか、共産党議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった。ヒトラーは総選挙を希望したが、フーゲンベルクはナチ党が大勝して自党の政権内での影響力が低下する恐れがあるので総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった。3月5日の選挙の結果、ナチ党は44%の得票を得る一方、国家人民党は8%の得票しか得られなかった。

    3月9日に共産党議席剥奪されることになったが、再選挙を行わず議席ごと抹消されたので総議席数が減り、ナチ党が単独過半数を得た。国家人民党は急速に政権内での影響力を弱め、1933年6月27日に党首フーゲンベルクが閣僚職を辞任したのを機にヒトラーから圧力をかけられて党は自主解散させられた。党員はナチスへ移るか政治から身を引くかを選ばされた。

そもそも両者の間には幾らでも共存の余地があり、実際全くどちらかしか存在しない状態を探す方が難しい側面も。

ここでいう「個別的なるものへのそれぞれの執着心の総和」は、例え表面上「メカニックな(因果論的な)体裁」が与えられているにせよ、あくまで擬態に過ぎすその実態は「(フェリックス・ガタリいうところの)マシニック(機会状)の何か」なのです。 

マシニスト」というタイトルを見て、すぐに思いだしたのは、フェリックス・ガタリの「マシニック」(「機械状」と訳される)という概念だった。これは、通常の「マシーン」 とはちがう。ガタリは「無意識」を「機械状無意識」(l'inconscint machinique) といいなおすのだが、彼によると、「それは、単にそこに宿されているものがイメージや言葉だけではなく、あらゆる種類の機械装置であり、これらの機械装置によって無意識はこれらのイメージや言葉を産出したり、再現したりするように仕向けられるということを強調するためである」(高岡幸一訳『機械状無意識』、法政大学出版局)。

ガタリによれば、無意識というのは、精神分析の専門家や「制度化されたディスクールの中に膠化してしまった『無意識』」などではなく、「個人の内側にあって、その人が世界を知覚したり、自分の身体自分の領土や自分の性を体験するやり方においてのみ働くだけでなく、夫婦や家族や学校や近所や工場や競技場や大学等の内側にあっても働くものなのである」。だから、無意識は、フロイトラカン流 の定義とは反対に、「未来に向けられ、その寿命は可能性そのものであり、言語活動をかすめる可能性でもあり、同時に皮膚を社会体を宇宙空間…をかすめる可能性でもあるのである」。

そもそもガタリにとって「実存的なもの」existential はすでに機械状、マシニックなものであり、決して(メカニックな)機械論的な因果関係や決定論には左右されない。なぜ実存が機械状(マシニック)であるかと言えば、それはあらかじめ決定されたルールやコードからはみだして、様々な選択や決定を異質な要素の結合の可能性に開いていくのは、人間の意志や選択ではなく、機械状の組み合わせであるからだ。その担い手は人間のみならず、バクテリアや細菌、電子回路や工学機械、視聴覚装置にいたるまで何でも機械状の仕組みにはまりこんだものとしてとらえられる。機械が決定し、人間がしたがうと言ってるのではない。

ところで以前の投稿で述べた様にスコラ哲学や密教スンニ派古典思想の様な「言語神学」は以下の様な体裁を採用してる事が多いのです 。

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働きかけるもの
…コンピューターでいうと「コンピュータ言語」に該当。その内容が言語的であれ、身体操作的であれ、図象的であれ相応の厳格さを要求される。

働きかけられるものコンピューターでいうと「CPU」に該当。「神」に対応し、相応の正確さでイメージする(想観)される事が要求される。思い浮かべられるイメージもこの用途に相応しい形にそれなりの調整を受けている。

世界そのもの…コンピューターでいうとレジスタやメモリやディスクの様な記憶装置、スキャナやプリンターの様な入出力装置、時刻を刻む水晶発振器や乱数発生装置、量子コンピューター・ユニットといった「接続デバイス」に該当。

 この概念を投影すると保守主義の別側面が浮かび上がってくるのす。

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働きかけるもの…概ねロマン主義運動の影響で「(主観的に統合された)自らの身体や精神」がその役を担わされる展開を迎える。正直、どれくらいの精度で何が要求されるかも本人の気分次第なところがある。「(再現性に執着するあまり)プロトコルとしての厳密性を追求する(非人間的)志向性」が失われた反面、「どれだけ自らを内側から突き上げる衝動が忠実にアウトプットされているか」についての執着心が増している。

働きかけられるもの…概ね「(トロイア戦争の参戦者やケルト伝承に登場する)英雄達の雄姿」とか「(古代ギリシャ・ローマ時代や欧州中世における)偉人達のエピソード」など。
*ちなみにルネサンス期の文献には、こういった類の情景が「(挿絵など一切含まない)文字だけの情報を与えられる方がより正確にイメージ出来る」といった記述が散見される。現代人とは相応に異なる思考様式を想定しなければならない。

世界そのもの…上掲の「情景」の現実世界における顕現。
*ある意味、これが「今や見間違いや幻覚のレベルでしか起こり得ない」と割り切ったのがエルンスト・ユンガーの魔術的リアリズム文学とも。いずれにせよその背景にある「再現性に対する渇望」は、むしろ逆に「個別的なるものへのそれぞれの執着心」が未整理のままバラバラに実存するだけの伝統主義の世界には存在しない。

 日本だと「太平記」が「平家物語の世界」に憧れる後世の人々の欲求を満たす形で(様々な挿話を重ね合せる形で)執筆されたエピソードと重なってくる様です。

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そういえば英国保守党は名宰相ベンジャミン・ディズレーリ(1804年〜1881年)の時代を懐かしむ声を拾ったプリムローズ・リーグ運動によって選挙権拡大を乗り切りました。この過程で英国においては「保守党=地主やブルジョワ改装の利権代表団体」なるイメージが覆されたのですが、大陸の保守党がこの流れに追いついてくるのはもっと先(国によっては現在なお未到達)の話となるのです。

こうした経緯を踏まえた上で千坂恭二は「選挙によって国民に信任を問う体裁を取ったナチスは右翼保守主義)としては風上にも置けない」「真の右翼(保守主義)は議会制民主主義に阿るくらいなら、引退して文学の世界に活路を見出す」と主張してきたのですね。

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こうした意味合いにおける「政治の世界」と「(しばしば死や性にまつわる、1度目にしてしまうと目が離せない神経症的状態に追い込まれる)不気味なもの」が邂逅した稀有の例が「天保の改革1830年〜1843年)」だったとも。

その一方でここでいう「働きかけるもの=自らの身体そのもの」なるロマン主義的発想は、これまで述べてきた以下の様な発想とも結びついていくのです。

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  • マルキド・サドの暗黒美学。貴族主義的側面が強く、最終的にパゾリーニ監督が遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」で提唱した「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに至る。

  • 坂口安吾が提唱した「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なるフランス的行動主義。

  • 大日本帝国末期の軍国化。すなわち学歴社会化によって身分制社会からの脱却を果たそうとした大日本帝国における軍人(特に中国大陸で軍閥を渡り合った関東軍)や「ソ連の高度成長」に倣おうとした革新官僚達の「反知性主義」。
    *それに対して「知性主義側」は伝統的に「ナポレオンもヒトラースターリンも最終的に暴走したのはバランスのとれた教養に欠けていたから」という言い回しを愛用してきたが、近年ではこういう言い回しも流行している。

    そもそもマネージャーには試験型エリートよりは、むしろガキ大将だった様な人間、あるいは肩書きや成績と無関係に何となく場を仕切る「人間力の高いタイプ」の方が向いている。

    関東軍の軍人や革新官僚の限界は、彼ら自身が所詮は「試験エリート」に過ぎず「本物のマネージャー」ではなかったからともいわれている。むしろその実像は当時でいうと袁世凱張作霖の様な叩き上げの怪物が備えており、その延長線上にスティーブ・ジョブズUber社長ジェフ・ジョーンズの様な「化物マネージャー」が現れると認識すべき。
    袁世凱 - Wikipedia
    張作霖 - Wikipedia

     これからのマネージメントエリートが持たねばならないのは肉体化された知識であり、経験である。自らの意思決定の為にいくら頭だけでイマジネーションを働かせてもバーチャルな夢想に過ぎず、体験に裏打ちされパラダイム・シフトを顕現させる本物の想像力は生み出せない。
    *「バーチャル(仮想現実)=夢想」という決めつけは早計かもしれない。「全てが数値化されていく世界」は機械学習やVR体験によって新たな突破口を開く側面も有している。

  • 社会学の父デュルケームの甥たるマルセル・モースが自らの呪術論の一環として構想した「あらゆる諸民族の象徴的身体動作のカタログ化構想」。実は魔法を「マナを源とする単一のエネルギー体系」と想定するイメージの大源流でTRPGコンピューターRPGの世界にも少なからぬ影響を与えている。

    *日本では意外と知られてないが、芸術家岡本太郎は国際的にマルセル・モースの愛弟子として知られている。実際「縄文時代の火焔土器に見て取れる感性の爆発」とか「太陽の塔が象徴していた内容」はモースの文化人類学的発想の影響を色濃く受けている。1970年代的景色の一環…

  • TVゲーム普及がもたらした「自らの人生がFPSに見えてくる症候群

もはや「歴史は繰り返す。最初は悲劇だが、二番目は茶番だ」と茶化してばかりもいられない超展開? 果てさて私達は一体どちらに向けて漂流してるんでしょうか?