諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【総力戦体制時代】【産業至上主義時代】【多様化の時代】朝日新聞は如何にして生き延びてきたか?

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朝日新聞経営陣は敗戦直後には「新聞社の最大の責務は社員を食わせ、あらゆる脅威から守り抜く事にある。我々は少なくともその責務は完遂した(だから軍部に迎合したプロパガンダ活動について責任を問われる謂れなど一切ない)」と開き直った社説を発表。この見解が社外どころか社内にすら通らず「1945年11月のクーデター」が勃発した遠因の一つとなり、戦後朝日新聞の基盤が築かれる事になったとされています。

だが「新体制」もまた「旧悪」を遥かに超えた高みへの到達は目指せなかった様なのです。そもそも現代は既に「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)をも「当時から企業とマスコミが国民総動員の概念だけ継承した」産業至上主義時代(1960年代〜1990年代)をも乗り越えてきた「多様化の時代(1970年代?〜)」。どうやら「朝日新聞とは何だったのか」については、そうした時代性も含めて振り返らなければならない様なのです。

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朝日新聞の歴史を語る上で決っして忘れてはならない事。それは「社主自らが攻撃的で米騒動(1918年)に便乗して鈴木商店や全国の工場の焼き討ちを扇動し、想像以上の大成功を納めてしまった事」「その結果、愛国右翼に目をつけられた社主が全裸で電信柱に縛り付けられ「売国奴の札を首から下げられる事件があった事」辺りだったりします。そもそもその事が後世の展開にどんな影響を与えてしまったのかが分からない…
*ここで重要なのは「当時の朝日新聞はオーナーシップがはっきりしていたからこそ(資金繰りにカツカツしていてスポンサーの言いなりだった他の新聞社と異なり)それまで独自の暴走を続けてこれた」という動かし難い歴史的事実で、それ自体は別に悪い事ではなかったという事。それにしても、日本における総力戦体制時代の嚆矢を飾るのが寺内内閣(1916年〜1918年)というのが何とも重い…

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村山 龍平(1850年〜1933年)-Wikipedia

朝日新聞の経営者(社主・社長)、政治家。衆議院議員貴族院議員。玉城町名誉町民第1号。嘉永3年(1850年)、伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)に生まれる。幼名は直輔。 実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。幼少時代は腕白なガキ大将で、喧嘩に負けそうになると小刀を振り回し、両親や近所の人を困らせていた。しかし文久3年(1863年)冬に、母が重病になってからは改心し、母の平癒を祈り、冷静沈着な少年に変わった。慶応3年(1867年)からは田丸城に勤番した。

明治4年(1871年)に一家を挙げて大阪に移住し、父とともに西洋雑貨商「村山屋」(後に「田丸屋」→「玉泉舎」)を営む。明治11年(1878年)7月に大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の最初の議員に選ばれる。

明治12年(1879年)に朝日新聞の創刊に参加。明治14年(1881年)、木村平八・騰父子から同紙の所有権を獲得、上野理一と共同経営にあたる(明治41年(1908年)以後は1年おきに社長)。

明治24年(1891年)に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙衆議院議員に初当選。以後、第2回、第3回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。その他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任。大正7年(1918年)に白虹事件で暴行を受ける。昭和5年(1930年)に貴族院勅選議員となった。

昭和8年(1933年)に84歳で死去。勲一等瑞宝章従四位を追贈された。娘婿は村山長挙(後の朝日新聞社長)。

白虹事件(1918年) - Wikipedia

大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に掲載した記事において発生した筆禍、あるいは政府当局による「言論統制事件」。
*「言語統制事件」…背景に「米騒動の便乗しての扇動プロパガンダによって鈴木商店や工場などの焼き討ちに次々と成功し、国民を戦慄させていた事」が挙げられる。
与謝野晶子 食糧騒動について

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*その背景にはさらに臥薪嘗胆しながら「薩長幕府打倒」を誓ってきた不平士族集団の「最後の応挙」という側面もあったとされている。決して単純な「言論統制事件」ではなく近世(幕藩体制の衣鉢を継いだ超然内閣)から近代(「我田引鉄」政策によって全国の在地有力者を従えた議会制民主主義)への過渡期ゆえに起こった重要事件の一つだったのである。

当時、大阪朝日新聞大正デモクラシーの先頭に立って言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して関西新聞社通信大会が開かれ、各社から寺内内閣への批判が巻き起こった。

問題となったのは、大会を報じた翌8月26日付夕刊(25日発行)の記事だった。記事の一節に「食卓に就いた来会者の人々は肉の味酒の香に落ち着くことができなかった。金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が黙々として肉叉を動かしている人々の頭に雷のように響く」とあり、文中の「白虹日を貫けり」という一句は、荊軻が秦王(後の始皇帝)暗殺を企てた時の自然現象を記録したもので、内乱が起こる兆候を指す故事成語であった(『史記』鄒陽列伝。日は始皇帝を、白虹は凶器を暗示)。そのため、不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じたが、すでに刷り上がった3万部のうち1万部が出回った後だった。

大阪府警察部新聞検閲係は、新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、筆者大西利夫と編集人兼発行人山口信雄の2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は大阪朝日新聞を発行禁止(新聞紙法43条)に持ち込もうとした。当時、世論の激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたとも指摘されている。

関西では大阪朝日新聞不買運動が起こり、さらに憤慨した右翼団体黒龍会の構成員七人が通行中の大阪朝日新聞社の村山龍平社長の人力車を襲撃し、村山を全裸にしたうえ電柱に縛りつけ、首に「国賊村山龍平」と書いた札をぶら下げる騒ぎまで発生した。また、後藤新平は右翼系の『新時代』誌に朝日攻撃のキャンペーンを張らせ、他誌も追従した。

事態を重く見た大阪朝日新聞では10月15日、村山社長が退陣し、上野理一が社長となり、鳥居素川編集局長や長谷川如是閑社会部長ら編集局幹部が次々と退社。社内派閥抗争で上野派の領袖であり、村山・鳥居派と対立して総務局員の閑職にあった西村天囚が編集顧問となり、編集局を主宰することになった。12月1日には西村の筆になる「本社の本領宣明」を発表し「不偏不党」の方針を掲げた。こうして大阪朝日新聞は、発行禁止処分を免れることになったが、それは大阪朝日新聞の国家権力への屈服を象徴しており、以降大阪朝日新聞の論調の急進性は影をひそめていく。 
*それまで潜伏して蜂起の機会を狙ってきた反体制勢力米騒動(1918年)に便乗して一斉に表面化した事は、むしろ(一斉検挙の対象となったという点においても、ライバルの多さを自覚させられたという点においても)何よりまず彼ら当人にとって最大の打撃となった。これ実は朝鮮半島における「三・一万歳事件(1918年)」にも共通して見られる特徴だったりする。どちらのケースでも以降「反体制運動」が過激なテロ活動から足を洗い(急進派に便乗の機会を許さない)穏便な自強運動へと推移したのは決して偶然ではない。

ぼやきくっくり | 戦争賛美から米崇拝へ『朝日の変節』のルーツ「SAPIO」01.11.14号

朝日新聞は、戦前から現在までに、3 回の「醜塊革面」を行ったという。
*「醜塊革面」…要するに時代の要請に合わせて「外面」をリニューアルしてきただけで本質は何も変わっていない。

  • 第1 回は、1931年の満洲事変直後のそれまでの反軍リベラルから親軍対米強行路線への転向である。

  • 第2回は終戦直後の1945年9 月15日付け、鳩山一郎の米軍の原爆投下による無差別市民虐殺は戦時国際法違反であると非難した言論を掲載したため、9 月19日によるプレスコード指令により、二日間の発行停止を食らったが、その発行停止処分後のGHQ の左翼思想の民生局占領軍に迎合する路線への転向である。これにより朝日は、戦後、共産主義思想と日本の戦前の行為を全て悪とする東京裁判史観を肯定した言論を展開するようになった。

  • 第3回は、ソ連及び東欧共産主義国の崩壊により、マルクス主義の欺瞞が明白になった時である。それまでの反米、共産主義賛美路線から、日本に贖罪感を植え付ける東京裁判史観を維持しつつ、日本の防衛力の弱体化、外国人参政権付与、中韓による反日の擁護、慰安婦問題、南京事件など、日本罪悪論、日本後進国論に活路を見出した。

このうち「第一期」に該当する1941年12月8日の開戦時の朝日の帝国の対米英宣戦と題する社説は、次のように論じている。

  • 宣戦の大詔ここに渙発され、一億国民の向かうところは厳として定まったのである。わが陸海の精鋭はすでに勇躍して起ち、太平洋は一瞬にして相貌を変えたのである。

  • 帝国は、日米和協の道を探求すべく、最後まで条理を尽して米国の反省を求めたにも拘わらず、米国は常に誤れる原則論を堅守して、わが公正なる主張に耳をそむけ、却って、わが陸海軍の支那よりの全面的撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄というが如き、全く現実に適用し得べくもない諸条項を強要するのみならず、英、欄、重慶等一連の衛星国家を駆って、対日包囲攻勢の戦備を強化し、かくてわが平和達成への願望は、遂に水泡に帰したのである。

  • すなわち、帝国不動の国策たる支那事変の完遂と東亜共栄圏確立の大業は、もはや米国を主軸とする一連の反日敵性勢力を、東亜の全域から駆逐するにあらざれば、到底その達成を望み得ざる最後の段階に到達し、東條首相の言の如く「もし帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し、支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となる」が如き重大なる事態に到達したのである。

  • 事ここに至って、帝国の自存を全うするため、ここに決然として起たざるを得ず、一億を打って一丸とした総力を挙げて、勝利のための戦いを戦い抜かねばならないのである。いま宣戦の大詔を拝し、恐懼感激に堪えざるとともに、粛然として満身の血のふるえるを禁じ得ないのである。一億同胞、戦線に立つものも、銃後を守るものも、一身一命を捧げて決死報国の大儀に殉じ、もって宸襟を安んじ奉るとともに、光輝ある歴史の前に恥じることなきを期せねばならないのである。

  • 敵は豊富なる物資を擁し、しかも依ってもって立つところの理念は不逞なる世界制覇の恣意である。従って、これを撃砕して帝国の自存を確立し、東亜の新秩序を建設するためには、戦争は如何に長期に亙ろうとも、国民あらゆる困難に堪えてこの「天の試練」を突破し、ここに揺らぐところなき東亜恒久の礎石を打ち樹てねばならぬのである。

  • 宣戦とともに、早くも刻々として勝報を聞く。まことに快心の極みである。御稜威のもと、尽忠報国の鉄の信念をもって戦うとき、天佑は常に皇国を守るのである。

  • いまや皇国の隆替を決するの秋、一億国民が一切を国家の難に捧ぐべき日は来たのである。

確かに当時からある意味「平和主義」の体裁だけは一貫して保ってきたといえよう。ただしそこで提唱される平和はあくまで理想に過ぎず、一貫して「戦争における勝利によってのみ獲得される」と規定されてきた。

日本の戦争責任を追及する「朝日新聞」の戦争責任

朝日新聞が自らの戦争責任を総括したことはいまだに一度もありません」

というのは、『朝日新聞血風録』の著者で元朝日新聞記者の稲垣武氏(評論家)だ。

「朝日は終戦後3カ月を経た昭和20年11月7日に、紙面の左隅にわずか33行で『国民と共に立たん』という宣言を目立たないように掲載し、戦争責任をとったとしています。しかし、その内容たるや軍部からの制約で新聞としての本分を全うできなかったという極めて自己弁護的なもので、さらに戦後50年を経た95年2月、『メディアの検証』という連載記事を掲載し、これも自らの戦争責任を総括したかのような形式をとりましたが、それもメディア論という手法を用いたもので、当時の状況を他人事のように扱う実に不完全なものでした。本来なら1面で、堂々と社長名で総括すべきものを姑息なすり替えでごまかしたのです。つまり、朝日はいまだに一度も国民に”謝罪”していない。戦後57年を経ても、自らの戦争責任を総括できず、一方で日本の戦争責任を追及しつづける。それが朝日新聞なのです。」
*「戦争責任」どころか「平和への意思」を次第に軍国主義化していく大日本帝国に託した歴史的事実への総括も為されていない。そう、ちょうど「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1862年) 」によって左翼陣営の間で不動の評価を固めたヴィクトル・ユーゴーが実際の六月暴動(1832年)に際しては(蜂起した急進共和派を殲滅した)オルレアン公側で、2月/3月革命(1848年〜1849年)に際してはルイ・ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン三世)当選における最大の貢献者の一人だった事実が黙殺されている様に。フランス革命当時「ジャコバン派の恐怖政治」を打倒したのが「尻尾切り」を恐れた虐殺の実働部隊だった様に。「なぁに、勝てば官軍(本当にもう何でもやりたい放題で「自分とは何か」なる厄介な哲学的課題と対峙する責務からも解放される)」なる発想で、こうした歴史が積み重ねられていくにつれ「勝つ為なら如何なる手段を用いても後世には肯定される」「重要なのは最終的勝利を手中にするその日まで決して負けを認めない事」なる考え方に集約されていく。



*そうまさに「国民と共に立たん」の精神。何故なら「国民」こそがどんなに裏切り、虐殺しても必ず絶対「正義の使者」たる自分達を選び続けてくれる「絶対忠誠と滅私奉公の体現者」だからで、それ以外の一切は「国民」ではなく無条件に一方的殲滅対象となる。

朝日新聞1945年11月7日「国民と共に立たん」には戦争扇動の謝罪が無い

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朝日新聞社「国民と共に起たん」宣言(1945年11月7日)

支那事変勃発以来大東亜戦争終結にいたるまで朝日新聞の果したる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもって、新日本建設に全力を傾倒せんことを期するものである。

今回村山社長、上野取締役会長以下全重役および編集総長、同局長、論説両主幹が総辞職するに至ったのは、開戦より戦争中を通じ、幾多の制約があったとはいへ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たし得ず、国民をして事態の進展に無知なるままに今日の窮境に至らしめた罪を天下に謝せんがためである。

今後の朝日新聞は全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民と共に立ち、その声を声とするであらう。いまや狂瀾怒涛の秋、日本民主主義の確立途上来るべき諸々の困難に対し、朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言するものである。
*「新体制の刷新宣言」すらこれ以上の事は言えなかった。その事が「再スタートの意義」を大いに制限する展開に。

村山長挙(1894年〜1977年) - Wikipedia

旧岸和田藩主・岡部長職の三男として東京府東京市(現在の東京都)に生まれる。

1919年3月、京都帝国大学法学部政治経済学科を卒業。同年10月、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女・藤子と結婚し、村山家の婿養子となった。

1920年6月、朝日新聞社に取締役・計画委員長として入社。大阪・東京両朝日新聞の計画部長、航空部長、大阪朝日新聞印刷局長、朝日ビルディング初代社長を歴任し、1933年12月朝日新聞社会長に、1940年5月社長に就任した。

しかし主筆として社長を凌ぐ声望を持つ代表取締役緒方竹虎に反感を持ち、東京本社派の緒方に対する大阪本社派の代表取締役専務取締役原田譲二や、緒方の出身の政治部、経済部の「硬派」に対する社会部出身の「軟派」で、東京本社編集総務から名古屋支社長兼編集局長に転出させられ、さらに傍系の出版局長にさせられたことで反緒方となった常務取締役鈴木文四郎らと結ぶようになった。

1943年夏、緒方が、営業部門を握って緒方とともに「編集の緒方、営業の石井」として「朝日の両翼」と呼ばれた代表取締役専務取締役石井光次郎と一緒に、「資本と経営の分離」論(緒方の部下、笠信太郎が『日本経済の再編成』(中央公論社、1939年)で提唱したもの)により緒方を社長とするよう村山に要求すると、原田、鈴木らと反撃に出て、同年12月に主筆制を停止して緒方を主筆から解任、実権のない副社長に棚上げした。村山は活動拠点を大阪から東京に移して経営を陣頭指揮し、緒方が務めていた政府機関の諮問委員など対外的な役職も全て取り上げ、自ら引き受けた。

翌1944年7月、緒方は朝日新聞社を退社して小磯内閣国務大臣兼情報局総裁となり、緒方派と反緒方派の社内派閥抗争は、ひとまず長挙以下の反緒方派が勝利した。

しかし敗戦で緒方派と反緒方派の社内派閥抗争が再燃し、1945年11月5日、朝日新聞の戦争責任を明らかにするため長挙以下の経営陣は退陣し、長挙は1947年11月、公職追放で社主からも追放された。替わって、まず緒方派のナンバーツーである東京非常対策本部長の野村秀雄(元東京朝日編集局長・ジャワ新聞社長)が代表取締役となって急場を凌ぎ、緒方、野村らの後押しで東京本社編集局次長から局長職を飛び越して取締役・東京本社代表兼論説委員室主幹となった長谷部忠[3]が1947年6月に会長、1949年11月に社長に就任した。

しかし追放が解除されると、長挙は1951年8月に社主に復帰。同年12月には会長となり、長谷部社長以下、追放期間中の経営陣をパージして(村山「復辟」という)、東京本社編集局長の信夫韓一郎を、編集局長のまま代表取締役とした(信夫「執権」という)。1960年6月29日再び社長に就任(信夫は翌30日付で代表取締役専務取締役を辞任)。社長在任中の1963年12月24日、村山家との確執が深まっていた販売部門の最高責任者である常務取締役・東京本社業務局長永井大三を解任して、いわゆる村山事件を引き起こした。その責任を取って1964年1月20日社長を辞任、翌1965年12月には取締役も辞任。
*意外なまでに「お家騒動」の要素が強く「国民の要請に応える」という部分が少ない。

村山事件 - Wikipedia

1963年12月に表面化した朝日新聞の社内紛争。

1963年3月、朝日新聞社東京国立博物館が共催した「エジプト美術五千年展」の場内で、朝日新聞社長夫人(村山藤子)が昭和天皇夫妻に近づこうとした際、宮内庁職員に制止されたことで転倒して骨折したとし、同社編集部に宮内庁糾弾キャンペーンを指示したものの、編集局は調査の結果、夫人の言い分は誇張だと判断した 。

このため、1963年12月24日の朝日新聞社定時株主総会で、同社の株式40.5パーセントを保有する大株主の村山社主家は、販売部門の最高責任者である永井大三常務取締役・東京本社業務局長を解任した。これに対して同社の業務(販売、広告、経理)関係役員らが全員辞任し、全国の新聞販売店が朝日への新聞代金納入をストップした。

紛争は編集部門にも拡大して、村山長挙社長が翌1964年1月10日に木村照彦取締役・東京本社編集局長を北海道支社長へ左遷する辞令を発すると、木村編集局長は北海道への赴任を拒否した。村山社長は木村編集局長の後任人事の辞令も発令したため、東京本社では編集局長が2人いる異常事態となった。

そのため同1月20日の役員会で村山社長は辞任し、西部本社担当に左遷されていた広岡知男ら4人の取締役が代表取締役となった。後任社長には同年11月17日、全日空相談役となっていた元常務取締役で朝日新聞社顧問の美土路昌一が就任し、同日付で専務取締役に昇格した広岡が、森恭三論説主幹らと組んで実権を握った。広岡は1967年7月21日に社長となり、朝日新聞社の経営から村山家を排除する路線を推進した。 また、事件まで朝日新聞最強の実力者で“私設常務”と言われた政治部次長三浦甲子二が、社内で後ろ盾となっていた村山長挙、永井大三、木村照彦を一気に失って失脚し、1965年3月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)取締役に転出する原因となった。

*背景にあったのは終始徹底して「大衆に対する侮蔑とインテリ階層に対する滅私奉公のみを求める朱子学的思考様式」と「内憂外患との対峙より、手段を選ばず(すなわち政敵を倒す為には「敵の敵」たる内憂外患との共闘すら辞さない)内部党争(内ゲバ)における勝利を優先する伝統的大義名分論」を基軸とする福本イズムであったとも。
福本イズム考(2005.07.09)

福本理論となると、たとえ一時期にせよ、あれほどの影響力をもったのは、それなりの根拠があったにちがいない。何といっても、日本のマルクス主義が、説明の学であって行動の学でないという歴史的負い目がある。

だからといって、われわれはすぐさま福本主義に移行したのではない。それどころか多くの会員は大なり小なり福本主義に抵抗した。いわば懸命に抵抗したうえ、力つきて福本氏の軍門に降ったところさえある。

その最大の力は目新しい弁証法的思考ということであろう。福本はわれわれよりもはやくルカーチもコルシュも知っていた。われわれのまずしい哲学的教養は『カントに帰れ』の新カント派的なもので、ヘーゲルマルクスをつうじてしか知らなかったから、ルカーチの魅力に惹かれるばかりで、それを批判するほどの目はもたなかった。コルシュ理論と福本理論の親近性は、福本の声価をたかめることになった。社会の構成と変革を一元的にとらえる論法は魅力でさえあった。
*日本のインテリズムが選好してきた「朱子学における愚民の侮蔑」「講座派共産主義」「中核派の選民主義」を一貫して流れる思想的伝統を基礎付けたとも。

*こうして全体像を俯瞰してみると、実は日本のインテリ層は「朱子学的政治エリート論」との同質性に歓喜して共産主義の民主集中性に飛びついたのであって、明治維新後も一歩の進歩も遂げていなかったのかもしれないとも思えてくる。

朝日新聞は業界では珍しい民主集中制である。たとえば慰安婦問題で「強制性を糾弾する」という方針を社として決めると、それに反する記事は許さない。マニュアルをつくって研修をやり、それ以外の立場で原稿を書かないように教育する。
*まぁ「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代の「革新」がそういう結果しか向かい得なかったのには仕方のない側面もある。

これはいい面もある。多様な言論がある中では、朝日が反政府の方針を鮮明に出し、その方針がいやな記者はやめればいい。しかし現実には、日本の労働市場にはそういう流動性はないので、社の方針についていけない記者は面従腹背の左翼になる。「非武装中立」の論陣を張った阪中友久編集委員は、毎日、皇居に遙拝していた。

 *ここまでくると遠藤周作「沈黙(1966年)」の世界に突入する?

読売は渡辺恒雄主筆の独裁体制だが、あれほどわかりやすいと記者も対応しやすいし、彼の意見は(政局以外は)常識的だから、現場の評判は悪くない。クレームをつけられたら、すべて「ナベツネのせい」といえばいいからだ。NHKは、よくも悪くも大勢に従う以外の社論はない。だから逆に、最大公約数を代表する池上氏の行動が大きなインパクトをもつのだ。

はっきりいって、業界では朝日だけが狂っている。それも特定の独裁者ではなく、社内の左翼的な「空気」が暴走している(地方紙はそれをまねている)。

*ここでは、あくまで「多様性の時代」に差し掛かってなお、旧時代のイデオロギーに拘束され続けている非のみを問う事にしたい。その態度は自らの多様性を謳歌する第三世代フェミニストに対して「貴様らの様な分離主義者/裏切者の存在を許しては女性解放運動の存続が不可能となる」と宣言してその殲滅を宣言している」ウルトラ・フェミニズム界隈と何処が違うのか?

戦争扇動への反省が一貫して見られない」のは当然の話。こうして全体像を俯瞰してみれば明らかな様に、ある意味徹底して一貫して「戦争を巡る扇動」にこだわり続ける事こそが朝日新聞の(売り上げを伸ばす為の戦略としての)本質で有り続けてきた訳ですから。

その点においてむしろ「新聞社の最大の責務は社員を食わせる事にあり、それだけは達成してきた(それだけで社会に対する責務は果たしている)」なる終戦直後の宣言は際立っているというべきでしょう。言うなれば「朝日新聞ファースト」の世界。それ自体は決して悪ではない。ただ、そうした伝統的思考様式が20世紀末から次第に決定的に時代遅れになってきてしまっただけなのかもしれないのです。

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こうした全体像を俯瞰するうちに 「多様化の時代」とは要するに「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成されるロマン主義的ジレンマからの脱却過程と規定可能な気がしてきました。

その一方で坂口安吾が日本に導入した「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」とするフランス行動主義すら「他者を生贄として捧げ続ける事で自らは永遠の生命を維持する吸血鬼的ライフスタイルの肯定」という側面を確実に備えていたりします。「朝日新聞ファースト」の世界を無碍に否定出来ないのはそのせい。

*そもそも英語におけるVampireには「領民を容赦なく搾取する苛烈な領主」、日本語の吸血鬼には「女郎を容赦なく食い物にする女衒や楼主」という含みがある。

そもそも「搾取」とは一体何なのか? こうした問題についても集団的に対処するのではなく「個人が個別的に対処する」事が奨励されるのが「多様化の時代」。少なくともその総和という形でしか反撃の形成はあり得ません。さてこうした時代の渦中にあって貴方の内的世界において「(壮絶な生存競争を生き延びてきた)朝日新聞の生き様」は如何なる新たな定義を与えられる事になるのでしょうか?


ここで改めて問われるのは「子供の前に大人として対峙するとはどういう事なのか?」という設問。欧米のマスコミも抱えている問題ですが「既存メディアのサバイバル戦略の肯定」は必然的に「世代間戦争の扇動」という側面も伴ってくる訳です。

この調子では日本で本格的変革が始まるのは(マスコミとそれを熱狂的に支持する老害層が消え去る)2030年代に入ってからで、今はそれに向けての過渡期に過ぎないのかもしれません。それにつけても果たして私達はどちらに向けて漂流しているのでしょう?