諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【一神教と多神教】「真の境界線」は一般に思われてるのと随分違う?

諸般の事情により、日本において唯一神的神格を付与された「ムスビの神」。

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日本神話への誘い~日本の神々に出会う物語~【オオクニヌシの国造りと国譲り】

しかし実はこうした展開は何も日本でだけ起こった訳ではない様なのです。

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ジャガッナタ寺院

 大事なのはあくまでハード(施設や神官集団や信者)の保全であって、その為ならソフト(神話の内容)は幾ら書き換えたっていいんだよ?

まさしく時の権力によってハード(神殿宗教)が神殿破壊と信者の強制分散移住という危機に直面し、宗教的実体の保全の為にソフト(聖典)が起草された「啓典の民」の真逆のアプローチ…ただしこちらは以降ハード的アーキテクチャーが「オープン」になったからこそ急速に拡大したという側面も見逃してはいけません。

また逆に「ハード固定でソフト的アーキテクチャーがオープン」という組み合わせだと他の宗教に組み込まれておしまいですから「妖精にまつわる伝承」といった形でしか後世に残らないのだという事も決して忘れてはいけないのです。

そうえば日本の神道にも「神仏習合」といった奥の手で生き延びた時代がありました。

一方「聖典集の類」を編纂する時には必ず「全ての神秘の源泉」を設定し、全体をそれが敷衍されていく展開にまとめないといけないという問題が発生します。「啓典の民」の場合は「唯一神ヤハウェ=エホバ=アッラー」、仏典の場合は「仏法=法輪(輪廻転生によって成立している)」や「法華経の中で語られる、時空間を超越して存在する)久遠の仏」「華厳経の中で語られる宇宙神)盧遮那仏」などがそれに該当。
*「(法華経の中で語られる)久遠の仏」…久遠実成、すなわち「釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた本仏である」なる主張の産物。熱狂的な法華経信者でもあった宮沢賢治は、その「時空間を超えて人類救済を目指すベクトル」なるイメージを死後発見された遺稿「銀河鉄道の夜」の物語中において「石炭袋=ブラックホール」と重ねている。私の場合、このエピソードは細野晴臣が作曲したアニメ映画「銀河鉄道の夜(1985年)」のエンディングテーマと一緒に想起される事が多い。さらには別役実の「残酷な現実」を直視した脚本作品もセットで…


*「(華厳経の中で語られる宇宙神)盧遮那仏」…それ自体は地球儀の様な案内図に過ぎず、祈っても何の御利益もない。「真言宗開闢者」空海は「完成予想図に今目の前で困ってる人間を救済する能力などあるか!!」と考え「(正しい手順に従って働きかけ続けたらいつかは願いを叶えてくれるかもしれない宇宙神大日如来毘盧遮那仏)」への代替を提言。ちなみに大日本帝国時代に成立した「国家神道」の中核理念でもある。

*ハチ/米津玄師の歌詞世界は、ここに見受けられる「情報過小でも情報過剰でも時空間が折りたたまれ、ある種の重心への落下が始まってしまう感じ」抜きには語れない。夜の果てには「向こう側」なんて存在せず、ある種のブラックホールが待ち構えているだけなのである?

 こうした考え方の延長線上において、日本神話の場合は近世から近代にかけて「ムスビの神を巡る神学」の整備が進行し、バリ島では「最高神サンヒャン・ウィディ」の唯一神化が進行したと考えれば、概ね間違いはない様なんです?