諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヒトラーとナチスは絶対悪】ならば「ドイツ社会民主党(SPD)」とは一体何だったのか?

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最近話題のこの記事ですが…

そもそも、しばしばドイツ左派から「ドイツにナチスを呼び込んだ売国極右ファシスト」とも評されてきたドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands、略称SPD)とは一体何だったか。それをあらかじめ理解してないと問題の本質がさっぱり見えてこないのではないでしょうか。

ドイツ社会民主党 - Wikipedia

中道右派キリスト教民主同盟 (CDU) と並ぶ二大政党の一つ。度々政権を担当しており、ドイツ再統一後では1998年から2005年11月までは同盟90/緑の党連立政権を担当し、2005年から2009年までと2013年以降にCDU/CSUと大連立を組んで連立与党となった。ドイツ現存最古の国政政党であり、イギリス労働党フランス社会党などと共に欧州の社会民主主義政党の中核的存在である。日本の社民党と友好関係にある。

ドイツ帝国時代

1875年にゴータにおいて創設されたドイツ社会主義労働者党が前身。1877年の帝国議会(Reichstag)選挙において得票率の9%を獲得し、第四党の地位を確立した。

ドイツ社会主義労働者党 (Sozialistische Arbeiterpartei Deutschlands、SAPD、1875年 - 1890年)

1875年設立。ゴータにおいて、世界で初めて議席を獲得した社会主義政党であったフェルディナント・ラッサールの全ドイツ労働者協会(ADAV)と、アウグスト・ベーベルとヴィルヘルム・リープクネヒトのドイツ社会民主労働党(SDAP)が合併して生まれたドイツの左翼政党。

ドイツ社会民主労働党マルクス主義アイゼナハ派」と、それよりは穏健な「ラサール派」の統一は、1875年の6月22日から27日にかけて行われ、同時に「ゴータ綱領」(de:Gothaer Programm)も採択された。

3年後の1878年、その台頭に脅威を感じたドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク社会主義者鎮圧法を制定。官憲から国外追放や新聞の発禁など様々な手段の弾圧を受けるようになり、かつ「祖国なき輩」として社会的にも迫害を受けた。これによって党は地下に押しやられたが、党の代議士達は集会・組織化・会報の出版が禁じられただけで、なお議会に出ることを許され続ける。
*そしてこうした弾圧や迫害がかえって同党の結束力を高める結果に。

1877年には国会の選挙で50万票を獲得。1890年には、なおも社会主義者鎮圧法は続いていたが、140万票を得て勝利し、ドイツ最大の政党になった。

社会主義者鎮圧法は、ビスマルク社会主義を危惧した結果だった。ビスマルク社会主義者たちが2つの暗殺未遂事件の犯人であると信じていた。社会主義者鎮圧法は3年ごとに更新されたが、1890年の秋にビスマルクが政界を去った時、それは終わった。すぐさまドイツ社会主義労働者党は党名をドイツ社会民主党SPD)に改称し現在まで続いている。

1890年帝国議会選挙において得票率上は19%を獲得して第一党に。ただし保守系議員に著しく有利な選挙区制度により議席の上では第一党とはなれなかった。しかしながら同年9月に社会主義者鎮圧法が失効。これを機にドイツ社会民主党SPD)と党名を変更し、アウグスト・ベーベルとパウル・ジンガーを党首とした指導体制が築かれた。1905年に党員38万人、1913年に党員108万人を突破。ちなみに密接な関係にあった自由労働組合も1913年には組合員250万人を突破。

アウグスト・ベーベル(August Bebel, 1840年〜1913年)

ケルン近郊のドイツ(Deutz)で陸軍の下士官の息子として生まれ、1853年から旋盤工となる修行のため徒弟奉公に入る。1858年にシュパイアーに職場を見つけ、さらにフライブルクに移り、そこでカトリック職人組合(Katholische Gesellenverein)に加入。1860年までザルツブルクで過ごし、3月に母の故郷(Wetzlar)に戻った。1860年5月にライプツィヒに移り、その翌年に職人教化組合(Gewerblichen Bildungsverein)に加入し、旋盤工として働きながら組合内での活動により知られるようになる。

1863年6月にフランクフルトで開催された労働組合会議にライプツィヒ労働者教育協会の代表として出席。使用者と非使用者との協調が可能であると信じていた当時のベーベルは、労働者は政治上独立の態度をとるべきであると主張するフェルディナント・ラッサールに反対していた。

ラッサール死後の1864年10月にライプツィヒで開かれた第2回労働組合会議で議長となり、労働組合会議の常任委員に選出される。1865年ライプツィヒで行われた多くのストライキで調停を試みるたが、この際、有名な自由主義者たちが日頃の言動を裏切り労働者の要求に反対を示していることを発見。

1865年9月シュツットガルトでの第3回労働組合会議の決議ではベーベルの所属する労働者教化組合とラッサール派の全ドイツ労働者同盟は実際の政策上の諸問題について同一の立場であることが確認され、1866年までに両組合員は普通選挙権の獲得のために協力すべきことが確定された。

1865年7月にヴィルヘルム・リープクネヒトがプロイセンから追放されライプツィヒに来たことがきっかけで互いに親友となり、彼に感化される形でマルクス主義者となって翌年には設立されたばかりの第一インターナショナルに加入。やがてリープクネヒトと共に1866年にザクセン人民党を創設し、翌年には北ドイツ連邦議会議員選挙に出馬し当選、1868年にアイゼナハドイツ社会民主党を創立、1871年からはドイツ帝国国会議員となった。普仏戦争の最中たる1870年に軍事公債の発行に反対したため、大逆罪・不敬罪によりリープクネヒトとともに逮捕、禁固刑に処されている。

1875年、全ドイツ労働者協会(ADAV、ラサール派)と社会民主労働者党(SDAP、アイゼナハ派)がゴータ大会で合同し、ドイツ社会主義労働者党(SAPD)が成立した。1890年、ハレの党大会でドイツ社会民主党に改名。1891年、フリードリヒ・エンゲルス、カール・カウツキーらとともにエルフルト綱領の確立に尽力。1890年代末、党内で修正主義論争が起こるが、1903年ドレスデン党大会で、ベーベル、カール・カウツキーらのいわゆるマルクス主義中間派が主導権を確立。

1893年から死に至るまでドイツ社会民主党SPD)の党幹部会議長を務め、帝国議会の議員も務めた。また、第二インターナショナルにおいても指導的役割を果たした。

1913年8月13日、スイスの保養地で滞在中に死去。チューリッヒで埋葬された。

  • 1891年にマルクス主義に基づくエルフルト綱領を制定。1899年にエドゥアルト・ベルンシュタインが、資本主義社会を革命で社会主義へ変えるのではなく議会活動を通じて社会を改良していくという修正主義を主張したが、1903年ドレスデン大会で当時は党内の主流派だったカール・カウツキーやローザ・ルクセンブルク教条主義者の猛反対で挫折。しかしながら後に再提案され、党は分裂し、ベルンシュタインの流れを汲むようになった主流派(改良主義者達)は第一次世界大戦に協力。いっぽう反戦を主張したカール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクなどの急進派は、独立社会民主党を結成。

  • 結党から長きにわたって原則として植民地領有や植民地政策に反対してきたが、党の規模が成長するにしたがって修正主義的な立場から「植民地支配は文明国の権利であり義務である」として植民地支配を支持する者が増えていく。植民地問題は政府にとって社民党の支持層である労働者を含めて全国民から支持を得やすい問題であり、ドイツ領南西アフリカで発生したホッテントット族の反乱に伴う軍の駐留費の予算案をめぐって行われた1907年初頭の「ホッテントット選挙」においても植民地支配に反対していた社民党は労働者から離反されて後退を余儀なくされている。こうした情勢から1907年9月の第2インターナショナルのシュトゥットガルト大会において「社会主義的植民地政策」を宣言し、植民地領有を公然と認めるに至る。

1912年の帝国議会選挙では得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルの中心勢力として重要な存在だった。無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった。しかし議院内閣制が確立しなかったドイツ帝国においては議会の第1党となってもなお「隔離された存在」ではあり続けたのである。

第一次世界大戦

その主流派が戦争を支持し(城内平和)世界を驚かせた。ソビエト連邦社会主義指導者ウラジーミル・レーニンはドイツ社民党の戦争支持を「裏切り」とまで呼んで批判している。国内においても彼らを「売国奴」と呼ぶ声が左派中心に存在した。
マルクスエンゲルス社民党党首ベーベルも「ロシア帝国ツァーリズムこそがヨーロッパ社会主義運動の最大の敵」と定義しており、ことにエンゲルスは「もしフランス共和国ツァーリの支配するロシア帝国と組むのであれば遺憾ながらドイツ社会主義者はフランスと戦うしかないだろう」とまで述べていた。これらを考えればドイツ社会主義者の主流であるドイツ社民党が戦争を支持したことはさほど不思議なことではなかったともいえる。

  • もちろん戦争目的において社民党は他の保守・右翼政党の主張とは異にした。保守・右翼政党は占領地をドイツ帝国に併合することによって達成される「勝利の平和」が戦争目的であると主張したのに対して、社民党はこれに反対して敵国との和解による「和解の平和」が戦争目的であると主張したのである。

  • しかし戦況が泥沼化するとともに「勝利の平和」論は疑問視せざるを得なくなり「和解の平和」論が有利になっていく。中道政党である中央党(社民党に次ぐ第二党)のマティアス・エルツベルガーも「勝利の平和」から「和解の平和」に転じた。そしてエルツベルガーの主導の下、1917年に社民党と中央党と進歩人民党の三党(社民党と中央党の二党で帝国議会過半数を超える)は共同して「平和決議」を帝国議会で採択させる展開となった。

  • 1918年7月には連合軍の大反撃が行われ、ドイツ国防軍が後退を開始。一挙に戦線が崩壊することはなかったが、これ以上戦争を継続すればそれも時間の問題となる。そして参戦と同時に連合国の中心となったアメリカ合衆国は、休戦に応じる条件として「世界平和を攪乱させる政府の除去」を主張し、暗にドイツ帝国の解体を求めてきた。パウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長エーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長ら軍の最高司令部はこれ以上の戦争継続は不可能と判断して、まだ戦争継続可能と主張する皇帝ヴィルヘルム2世を説得のうえ、帝国宰相ゲオルク・フォン・ヘルトリングに休戦の準備のために政府の大改革を求めたが、保守主義者のヘルトリングはそのようなことはとても応じられぬとして総辞職した。

1918年10月3日に自由主義者としてアメリカはじめ連合国から評価が高かったマクシミリアン・フォン・バーデンが帝国宰相に任じられる。社民党と中央党と進歩人民党がマクシミリアンを支持して与党を構成した。マクシミリアン自体は政党人ではなかったが、閣僚はこの三党の者から構成されていたので、ドイツ帝国の最初で最後の政党内閣となった。マクシミリアンや社民党アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンが主張した「ドイツ軍部や王朝的専制君主は交渉相手とは認めない」という交渉資格の要求をクリアーするために10月27日にヴィルヘルム2世を説得して憲法を改正させて、内閣はライヒ議会に責任を負うという議院内閣制を確立。

ドイツ革命(1918年〜1919年)

改良主義である社民党は決してドイツ帝国の解体などは望んでいなかった。だが、1918年10月末、無謀な作戦への動員を命じられたキール軍港の水兵たちが反乱をおこし、労働者がこれに加わって大勢力となり、キールは「労兵協議会」により実効支配されてしまい、更にキールでの革命成功を聞いたドイツの主要都市でも次々と蜂起があり、「労兵協議会」が各主要都市を掌握してしまう。11月7日にはドイツ帝国の領邦の中でプロイセン王国に次いで大きいバイエルン王国で独立社民党の指導者クルト・アイスナーらによる革命が勃発。ヴィッテルスバッハ王家が廃され、アイスナーによって「バイエルン共和国」の樹立が宣言された。
社民党は当初こうした「ドイツ革命」と呼ばれる反乱には参加せず、当初は逆に何とか押しとどめようとした。しかし大衆の急進化はもはや止めがたいと見てとりドイツ皇帝の退位を目指す立場に転じたのである。

  • 社民党はマクシミリアンに対して11月9日までに皇帝の退位が実現できぬのであれば内閣から離脱すると通達。進退きわまったマクシミリアンは11月9日昼に独断で皇帝ヴィルヘルム2世の退位を発表したうえで、宰相職を社民党の党首フリードリヒ・エーベルトに譲った。ヴィルヘルム2世はオランダへと逃亡していった。こうしてドイツには社民党政権だけが残された。
    *日本のリベラル派の間には「国王を処刑したフランスや皇帝を国外に追放したドイツと異なり、未だに天皇制を奉じ続ける日本は民主主義的段階に到達してない」と主張する人達もいる。そういうタイプに限って、その後フランスやドイツを見舞った権威主義的揺り戻しの恐ろしさに全くといって良いほど目がいってないのである。

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  • 午後2時頃、独立社会党の中でも特に極左勢力である「革命的オプロイテ」が「社会主義共和国」の樹立を宣言するとの情報が社民党政権に伝わり、独立社会党が今後のドイツの主導権を握ることを阻止するために社民党の政治家フィリップ・シャイデマンが機先を制して「ドイツ共和国」の樹立を宣言した。しかしエーベルトは皇帝が退位しても共和制にするかどうかは議会で決められるべきと考えていたので、シャイデマンに対し「キミは何の権限で共和国宣言などしたのか!」と叱責。
    社民党のシャイデマンによって共和国宣言が行われた後、エーベルト社民党政権は独立社民党に政権参加を求め、独立社民党も承諾。11月10日に社民党と独立社民党は半数ずつ閣僚を出し合って「人民委員会議」なる仮政府を創設した。同日、エーベルトは軍(革命の中で国内の軍は解体されていたが、前線の軍は参謀本部の指揮下にいまだ存続していた)のヴィルヘルム・グレーナー参謀次長と連絡し、労兵協議会を押さえることを条件に軍の支持を取り付けた。11月11日にはパリ北方コンピエーニュの森で連合国に対して休戦協定の調印をさせたが、この協定によってドイツが巨額の賠償金を支払うのを認めた事ことが後に非難の対象となっていく。11月12日には社民党政権は戒厳状態の廃止、集会の自由、結社の自由、検閲の廃止、戦時中停止されていた労働者保護立法の復活、社会政策の拡充、近い将来の八時間労働制の確立、また近い将来に全ての公的団体の選挙権は20歳以上の男女すべてに平等に与えられるようにすることを宣言。
  • 12月23日、ベルリン王宮を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退されてしまう。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した(人民海兵団事件)。新政府には社会民主党のグスタフ・ノスケが国防相として入閣し、軍事問題を扱うこととなる。その一方で12月30日、ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成された。

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  • 1919年1月5日、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官エミール・アイヒホルンが辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠。これに対して独立社会民主党共産党無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「一月闘争(スパルタクス団蜂起)」と呼ばれる流血の事態が続いく。
    *1月9日国防相ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール(ドイツ義勇軍)がベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開(スパルタクスの週)。1月15日までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが虐殺された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、ミュンヘンに成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されるとともに労兵レーテも解体・消滅していく。散発的な蜂起やゼネストは続いたが、国防軍も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された。
  • 1919年1月19日の国民議会(Nationalversammlung。この時のみの議会名称。ヴァイマル憲法制定後には議会名は帝国議会(Reichstag)に戻る)選挙が行われた。選挙戦中、共産党が議会政治反対の立場からボイコット運動を展開していたが、大多数の国民は相手にせず、投票率は82%以上を記録。社民党は163議席取った。目指していた単独過半数には届かなかったが、議会の第一党だった。極左の独立社民党は22議席しか取れなかった。
    *以降、社民党政権は極左から身を守る必要性を痛感し、軍とますます接近。軍も帰還兵達にドイツ義勇軍を次々と創設させて反革命軍事行動を行わせ、社民党政権も極左を潰す必要性からその活動を黙認。こうしてますます反革命化する社民党と他の社会主義政党の溝は深まった。独立社民党社民党との対決姿勢を強め、共産党と同類の極左になっていった。
  • そして2月6日、ヴァイマルの地で国民議会が召集された。ここで国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認され、いわゆる「ワイマール共和国」が誕生。
    *議会がベルリンではなくヴァイマルに招集されたのはスパルタクス団残党鎮圧がまだ完了していなかった余波。議会ではまず社民党党首エーベルトが大統領に指名された。これには社民党以外の政党も多くが支持票を投じている。さらに社民党と中央党とドイツ民主党の三党連立(以降この三党はヴァイマル共和政下で連立を組む事が多くなり「ヴァイマル連合」と呼ばれることとなった)の下、社民党のシャイデマンが首相に就任した。エーベルト大統領やシャイデマン首相以下社民党政権は憲法の制定に取り掛かり、委員会で議論を重ねた末に1919年7月末に国民議会の本会議で世界で最も民主的と言われるヴァイマル憲法を可決させた。さらに社民党政権は連合国から突きつけられていたドイツに激しい迫害を加える内容のヴェルサイユ条約を締結するしかないと判断し、中央党とともに6月22日の議会でこの条約の承認決議を行った。この際にシャイデマン首相はヴェルサイユ条約に反対したため、首相を辞職。また民主党も反対して連立から離脱している(この年の秋には復帰)。

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かくして帝政は打倒され、共和国が樹立されたが、ドイツを世界大戦に導き、軍国主義を積極的に支えてきた帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存された。そして彼らの後援を受けて極右勢力、右翼軍人らが共和国転覆の陰謀、クーデターなどを試みる一方、極左党派もまた社会民主党の「社会主義と労働者への裏切り」を許せず激しい攻撃を続ける。これら左右からの攻撃がヴァイマル共和国の政治的不安定さの一因となったのである。

ヴァイマル共和政時代

社民党が可決させたこのヴァイマル憲法ヴェルサイユ条約によってヴァイマル共和政の基本体制は築かれた。しかし保守・右翼及び共産党以下極左ヴァイマル共和政など認めず、以降もずっと打倒の為の暗躍を続ける事になる。

そして議会で第一党を占めるナチ党の党首アドルフ・ヒトラーが1933年1月30日にヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ナチ党政権が誕生。

ナチス時代

こうして成立したナチ党政権は、共産党集会・機関紙を禁止とし、社民党集会・機関紙も中止・発行停止に追い込む弾圧を加えた。さらに、総選挙の投票を控えた1933年2月27日夜に発生したドイツ国会議事堂放火事件を利用して共産党への大弾圧を加え、社民党への選挙妨害も激しさを増した。

  • 追い詰められた共産党はこれまで「社会ファシズム」と批判してきた社民党との統一戦線を提案したが、社民党はこれを拒絶。選挙の結果、ナチスは288議席(+92)、社民党は120議席(-1)、共産党は81議席(-19)を得たが、共産党議員は全員ナチスに逮捕されるか、あるいは亡命を余儀なくされた。

  • 共産党を壊滅させたナチ党は続いて社民党に狙いをつけた。3月に社民党の準軍事組織の国旗団がナチ党政権により禁止されて解散させられ、複数の国会議員も逮捕された。3月23日にヒトラー帝国議会に提案した全権委任法に社民党は反対。反対演説の際に社民党党首オットー・ヴェルスは「我々は無防備だ、無防備だが不名誉ではない」という演説を行った。ヒトラーはこのヴェルスの演説に怒りのあまり我を忘れて「お前たちはもう用済みだ。ドイツの星はこれからどんどん上っていくが、お前たちの星は下がりゆくのみだ。お前たちの時代はもう終わったんだ。」とわめいた。共産党議員が登院できない状況で、反対票を投じることができたのは社民党だけであった(賛成441、反対94。26人は逮捕・逃亡による無出席で、投票の分母に加えられない『棄権』扱い)。

  • 一方で社民党は存続のためにナチ党の怒りを買わぬよう、融和的な態度も示した。3月30日に社民党労働社会主義インターナショナルから脱退したのはその表れである。しかしナチ党は社民党を見逃すつもりはなかった。3月31日に名実共に共産党を非合法化し、議席を剥奪したのを皮切りに、5月2日には社民党を支持する労働組合が突撃隊や親衛隊により次々と襲撃され、その幹部達が逮捕された。労働組合の資金は没収されて唯一合法な労働組合とされたロベルト・ライが率いる「ドイツ労働戦線」の資産となった。5月10日には社民党の全資産も没収された。6月に入るとヴェルス以下社民党幹部は続々とドイツから亡命していった。そして6月22日には社民党は全ての活動を禁止されて消滅することとなった。残っていた社民党の政治家は次々と強制収容所へ送られていった。

ヴェルスら亡命した党員はチェコスロバキアで「ドイツ社会民主党指導部(SoPaDe、ソパーデ)」と呼ばれる組織を結成し、政治活動を続けた。1934年にはプラハ宣言(Prager Manifest)を発してナチスに対する対抗姿勢を明らかにしている。チェコスロバキア併合後はパリに移り、1939年にヴェルスが死亡するとハンス・フォーゲルがSoPaDeの指導者となった。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻後はロンドンに亡命したが、ルドルフ・ヒルファーディングら逃亡中に捕らえられる幹部も出た。1941年には在英ドイツ社会主義組織連合を結成し、ズデーテン・ドイツ社会民主党などの亡命社会主義組織と連携をとった。またヒトラー暗殺未遂事件の参加者などの国内の反ナチス派と接触している。

第二次世界大戦

第二次世界大戦後、社会民主党は復活したが、オットー・グローテヴォール率いるドイツ東部のソ連占領地区(後の東ドイツ)の党員はドイツ共産党へ強制編入され、ドイツ社会主義統一党SED)を結成。その後東ドイツでは1989年に再建されるまで社会民主党は禁止された。

その一方では東欧革命の結果、民主化の進む東ドイツ社会民主党が再建された。1990年3月18日の総選挙(人民議会選挙)では社会民主党が有利と考えられ、西側の党もブラントなどの遊説や資金援助で東側の党を支援したが、国家連合を経た緩やかな統合を主張した社会民主党は、急速な統一を主張するキリスト教民主同盟東ドイツ衛星政党だったが民主化後は路線転換し、西のCDUの支援を受けた)の前に支持を失い、選挙ではキリスト教民主同盟(163議席)を大きく下回る88議席しか獲得できなかった。社会民主党は同年10月3日のドイツ再統一までの東ドイツ挙国一致内閣には参加したが、その影響力は限定された。さらに再統一後の同年12月の総選挙(連邦議会選挙)でも政権の奪回に失敗した。この時にも旧東ドイツ地域で得票が伸び悩んだ。
SPDドイツ帝国解体にも反対の立場を取った事とも重なってくる。

シュレーダー政権(赤緑連合)の誕生

1998年、長期政権への飽きや景気の低迷などでコール政権の支持率が低下したこと、イギリス労働党勝利以来続いた欧州社民主義政党の復調の流れを受けたことなどがあって連邦議会選挙で勝利同盟90/緑の党と連立を組んだゲアハルト・シュレーダー政権(赤緑連合)が誕生。2002年の連邦議会選挙でも辛勝し、政権維持に成功した。

辛うじて再選されたものの、その後はシュレーダー政権の新自由主義的な改革(長期失業手当の生活保護との一本化=実質的廃止、実質賃金の抑制、大企業向けの減税策、年金支給額の抑制、医療保険における患者負担額の増加等)及びコール政権時代から続く大量失業への無策に対して国民及び一般党員の支持が得られず支持率は低迷。各州の州議会選挙でも敗北を重ねた。その結果、1976年には100万人を超えた党員数は2003年に66万3000人まで減少し、2004年の欧州議会選挙では全国得票率が第二次大戦後最低の21.5%まで低下。このような状況で苦しい政権運営を強いられ、連邦州と同格のベルリンなどではSEDの流れを受け継ぐ民主社会党PDS)との左派連合政権を組んだ。一方ではネオナチとも目される右派のドイツ国家民主党の州議会進出を阻めなかった。

2004年3月の臨時党大会では党をまとめきれなくなったシュレーダー首相が党首の座を降り、連邦議会議員団長のフランツ・ミュンテフェーリングが党首となった。

2005年5月、オスカー・ラフォンテーヌ元党首ら党内左派が離党して『労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ』(WASG)を結成。さらにWASGは民主社会党と連合して『左翼党』(Die Linke)を結成した。 

2度目の「大連立」発足

2005年7月、シュレーダー首相は自らの信任決議案を与党に否決させ、連邦議会解散総選挙(9月18日投票)に打って出た。解散当時の支持率は、最大野党キリスト教民主同盟(CDU)に大きく水を開けられており、政権を奪われる可能性が高いといわれていたが、選挙戦終盤に盛り返し、第1党の座を失ったものの同盟側とはわずか4議席差にまで肉薄。結局CDUが同盟90/緑の党との連立交渉に失敗したために、首相ポストこそCDUのアンゲラ・メルケルに譲るものの、CDU/CSUとキージンガー政権以来の保革「大連立(große Koalition)」を組んで、政権に参加し続けることとなった。

選挙後の2005年11月にミュンテフェーリングが辞意を表明。ブランデンブルク州首相のマティアス・プラツェックが党首に就任することとなった。旧東ドイツ出身者がSPDの党首になるのは初めてであり、CDUのメルケル首相と共に旧東ドイツ出身者が連立与党の党首としてドイツの舵取りをすることになるかと思われた。ところが4月には病気を理由にプラツェックも辞任してしまい、ラインラント・プファルツ州のクルト・ベック州首相が暫定党首に選出され、その後正式な党首となった。

その後CDUのメルケル首相の強力なリーダシップの前に低迷を続けていたが、2007年10月に、第二次世界大戦後三番目となるハンブルク綱領を採択。2009年に予定される総選挙でCDUに打ち勝つべく、ハンブルク綱領ではシュレーダー政権時代の新自由主義的な政策を否定しグローバリズムに抗し、左翼回帰と評される対抗軸の明確化をした。2008年9月にクルト・ベック党首が突如辞任、10月これに替わってフランツ・ミュンテフェーリングが党首に復帰し、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補にフランク=ヴァルター・シュタインマイアーを推すこととした。
*要するに歴史のこの時点において「シュレーダー前首相」はSPDからその歴史的功績を否定されてしまったのである。

2009年連邦議会選挙での敗北、下野

大連立に対する国民の評価を問われた2009年9月27日の連邦議会選挙では、メルケル政権下で現実路線を進めたことに対する反発が原因で従来からの支持者が離反したことなどから前回よりも10%以上も得票を減らし、戦後2番目に少ない146議席しか獲得できなかった。この選挙でCDU/CSUとFDPの保守・中道右派勢力が過半数を獲得したことから、SPDは11年に及ぶ政権与党の座を失うこととなった。選挙後の臨時党大会でジグマール・ガブリエルが後継党首に選出された。

2010年5月9日、下野後の最初の大型選挙であるドイツ最大州ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙では、CDU/CSUとFDPの連立与党を過半数割れに追い込み、同盟90/緑の党と少数ながら連立与党を結成した。2011年2月20日に行われたハンブルク市議会選挙では、過半数を獲得して与党となった。2012年5月のノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙ではメルケル政権与党が推進してきた緊縮財政政策に対する批判票を集めて、第1党となった。

3度目の大連立へ

2013年の連邦議会選挙では、前回よりも議席を回復して192議席を獲得したものの、過半数近い議席を獲得したCDU/CSUには100議席以上の差を付けられ議会第一党の座を回復することは出来なかった。一方でCDU/CSU過半数を獲得できず、連立相手だったFDPが惨敗して全議席を失ったため、3度目の大連立に向けた交渉が始められた。
2カ月にわたる協議の結果、11月27日にCDU/CSUとの連立協議が合意に達し、史上3度目の大連立政権が成立することになった。

2017年1月、秋の連邦議会選挙に向けて、支持率の高くないガブリエル党首に代わる首相候補として欧州議会議長だったマルティン・シュルツを推すことを決定し、3月19日の臨時党大会でシュルツが新党首に選出された。

ポイントをまとめてみましょう。

こうした立場に執着する人々はナチス批判を一切行ってこなかった東ドイツが併合された「ドイツ再統一(1990年)」によって新たな潮流が生まれた事を決して認め様としないのが普通です。

*ちなみに盧武鉉大統領時代の韓国は「ブラント首相のワルシャワでの謝罪(1970年)」があくまでユダヤ人向けのパフォーマンスに過ぎず「(一緒になってユダヤ人を迫害し、その後全責任をドイツ人に負わせて迫害した)ポーランド人に対する宣戦布告」を兼ねていた事実を暴露するポーランドレフ・カチンスキ政権を完全黙殺する道を選び、それまで進んでいた経済協力関係もすっかり冷え込んでしまった。
ポーランド新大統領が掲げる「道徳革命」の狙い ―カチンスキ兄弟政権を誕生させた二つの選挙―(2005年)

*「ポーランド政府専用機墜落事故によるレフ・カチンスキー政権消滅(国際的には「カチンの森上空における大統領の無理な政治的パフォーマンスが原因」と目されているが、韓国では「パイロットの能力不足のせい」とされているのが興味深い)」以降、両国の関係は復興の兆しを見せてはいるものの、完全に元の蜜月状態を取り戻したとはいえない。「ブラント首相がワルシャワで謝罪した」とする共同幻想jは、それを守り抜きたい人々の手によって、こうした経済的実害も招いてきたのである。

*また日本のリベラル層が金科玉条の様に掲げる「シュレーダー大統領やメルケル大統領の人道主義」が「人道主義的」と了解されているのは日本くらいとも。そもそも何故ドイツはここまで中共ベッタリなのか。その歴史は第一次世界大戦前まで遡る。その移民政策は中東で高い評価を得ているか? そんな事実もまた存在しないのである。

その一方では「メルケル大統領時代の一人勝ち状態」は「シュレーダー前首相率いるSPD新自由主義的労働改革」の余波に過ぎないとする見解も。

日本のリベラル層の間では「日本もこれを速やかに真似るべき」 という立場が流行しています。「それを実践したSPD自体は労働者から見放された」事実については、あえて目を瞑る形で。今や日本のリベラル層は「労働者から敵視される存在」に堕してしまったのです。

 そして2017年はドイツにとって首相選挙の年…

思わぬ形でSPDの足を引っ張ったのが「シュレーダー前独首相のスキャンダル」。

マルクス的人間解放論を放棄した科学的マルクス主義」とか「ラッサール的労働者解放論を放棄した社会民主主義」とか、どうしてこの界隈はそんなのばかりなの? そして改めて冒頭のこのニュース。随分と見える景色が変わってきませんか?

なんか 「中国企業の取締役に就任した鳩山元総理が、南京虐殺を黙殺する日本人を批判」みたいな構図…「したたかな」ドイツ人の関心を集められないのも当然とも。

こうしてみると「ヒトラーナチスは絶対悪」なるイデオロギーの抱える最大の問題点、それは実際にはその大源流が「ドイツ社会民主党SPD)は一方的被害者に過ぎなかった」「ポーランド人は一方的被害者に過ぎなかった」という言い訳に過ぎず、その事実から逃れるには(盧武鉉大統領時代の韓国が経済崩壊を招いてまで遂行した様に)現実のドイツ人やポーランド人と完全絶縁するしかないという点にあるのかもしれません。
*そもそも日本において「ヒトラーナチスは絶対悪」と主張する層は「現実の盧武鉉大統領時代の韓国」どころか「現実の北朝鮮」とも完璧なまでに精神的絶縁を果たしている。だから「北朝鮮とアベ政権はやっぱりグル」とか平気で言い出す。

*そもそも日本のリベラル層は共産主義化した北朝鮮を理想視するあまり軍人大統領時代の韓国を嫌い抜いてきた。関心のベクトルが何時、どういう形で真逆になったかも覚えてない。それくらい「現実の朝鮮半島」自体についての関心が最初から薄いのである。

日本や韓国や中国において「ヒトラーナチスは絶対悪」と主張する層とドイツにおいて「SPDは一方的被害者ポーランドにおいて「ポーランド人は一方的被害者」と主張する層(しかも両者は互いの不正義を罵り合っている)のさらなる共通点。それは最近になってどちらも新自由経済の復活を熱烈歓迎する形で「労働者の解放」に対して関心がある振りもすっかりやめてしまった事とも。こうした全般に対する無関心の背後にあるのは「何でも自分にとって都合良く考える権利」をこそ自由と履き違え、生得的権利として守り抜こうとしてきた姿勢なのかもしれません。そしてこうした執着心は必ず「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに到達するのが世の常というもの。

いずれにせよ最後に辿り着いたのは「平和と平等を至高の価値観とする矯正教育だけが人間を自由にする」なるアウツシュビッツ絶滅収容所のスローガンを連想させる金科玉条だった訳です。
働けば自由になる(Arbeit macht frei) - Wikipedia

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*そういえば、とある日韓翻訳掲示板で邂逅した自称「反日沖縄独立運動家」もまた「琉球再独立に賛成の沖縄県人はたった4%というけれど、そんな数字なんて96%を粛清すればたちまち100%になる。多数決の原理なんてそんな曖昧な基準に過ぎない」と豪語していた。これってある意味テレビ局が主張する「視聴者を単なる視聴率の供給源としてのみ扱う自由=生得的権利」なる概念とも重なってくる思考様式とも。

*間違いなくこうした「沖縄の無軌道な若者達」も「琉球再独立の為に絶滅収容所送りにすべき96%」の一部なのでしょう。この「平和と平等を至高の価値観とする矯正教育だけが人間を自由にする」なる思想のさらなる恐ろしさ、それは「フクシマの放射能を恐る気持ち」も共有しないとレイシストナチスネトウヨのレッテルを貼らずにはいられない辺り。こんな正義感の条件を満たすのって、一体どういう方々なのか?

あれ、良く考えてみればこれって20世紀初頭に大杉栄与謝野晶子が弾劾した「(温情主義に終始した)日本型近代的エリートの駄目なところ」がそのまま残ってるだけでは? それなら全然新しい話題じゃないって事になりますね。

まぁ考えてみれば「(強者の立場から強要される)弱者を好きな様に考えて良い生得的権利」の起源をどんどん遡っていけば「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義権威主義」まで遡るのは当然の話。そして実際には古代から連綿と価値観の継承を続けてきた伝統的共同体がまだまだ生き生きと存続していた当時の領主の方が、それを束ねる立場として遥かに不自由な思考様式と悲劇的宿命を強いられてきたという皮肉…

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*最近の「白馬の王子様」のトレンドは「リアル志向」?

ヒトラーとは一体何だったのか」「ナチズムとは一体何だったのか」本当に考察したければ、こうした領域に足を踏み入れるのを余儀なくされる訳です。少なくとも「宗教革命を勃発させた当事者ながら後にプロテスタント陣営に寝返り、祖国を追放されたユダヤ人やユグノーポーランド貧農を受容する形で経済的繁栄を続けてきたプロイセン王統ホーエンツォレルン家」と「イエズス会の反宗教革命に屈してカソリック信仰を護持する側に回り、ユダヤ商人といった異邦人の追放によってドイツ的純度を保ってきたバイエルン王統ヴィッテルスバッハ家」の歴史的対立くらいは念頭に置かないと「ナチス台頭期ドイツで実際に何があったか?」は見えてこないのでした。

この意味合いにおいてドイツ社会民主党SPD)の立脚点は良い意味でも悪い意味でもあくまで一貫して前者。そう考えた時に初めて「ドイツ人自身の観点から俯瞰した全体像」がスッキリと浮かび上がってくるのですね。