隙あらば、あっという間に認識外の世界に追いやられてしまう「他者を巡る意識」。これを認識範囲内で捕まえるには、諸概念の隙間を突くしかないのです。
『ロリータ』がハード過ぎた。ロリコンたちはあれを踏まえてロリータと言っていないだろう。ニンフェットはヤバいし、ロリコンってなんなんだろうなって……
— あかり (@AKAL1_ight) 2017年9月18日
ナボコフはロリータの定義を年齢的に幼く(10代前半位)、言動や容姿が小悪魔的でコケットリーなニンフェット(ニンフ)でなければならないと細かく定義した。
— Le ciel † (@gothlolit) 2017年9月16日
①そう、ウラジーミル・ナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年)」作中において「9~14歳までの一部幼女にしか興奮出来ない性癖」自体は「ニンフェット(Ninfet)」と呼ばれているのである。
*「ニンフェット(Ninfet)趣味」…実は主人公が語る自分史においてそれは幼少時のトラウマを起源としてる様に見て取れるのだが、それでもあえて「地上に普遍的に存在する価値観」として語り抜かんとする場面の描写が徹底的なまでに薄気味悪い。
新作ST Ninfetのninfetは小説「ロリータ」におけるロリに相当する単語で、googleの画像検索してみたらエロ目のが引っ掛かったからアルファベットをおかしくしたけど普通に普通の方がいいよねって
— ZMat (@ZMat009) 2017年7月1日
*その一方で幼少時に主人公にトラウマを与えた相手が「アナベル・リー」なる名前だった事はエドガー・アラン・ポーにその概念の大源流が存在する事を示唆している。ただし国際的に女性側に「エドガー・アラン・ポーの幼女趣味」への嫌悪感はあまり存在しない。何故なら彼の場合、たまたま恋に落ちた相手が幼女だっただけで、ちゃんとその後の大人の女性への成長を受容しているからである。
*また、ここで「ニンフェット(Ninfet)趣味」が最初から「外国人趣味」を織り込んでいるという問題点が浮上してくる。そもそも「エドガー・アラン・ポーの幼女趣味」は「デカルトの人形愛」と併せ米国よりむしろ欧州で高く評価されたし、そもそも「ロリータ」という作品自体も「欧州より亡命した中年大学教授のスペイン系アメリカ人少女への片思い」を語る内容だったりする。さらには欧米における「ニンフェット(Ninfet)趣味」の概念はしばしばタヒチに楽園を求めた画家ゴーギャンの様な「白人男性の黒人少女や東南アジア系美少女への憧憬心」と混じり合って来た。
*南アフリカ共和国出身の作家J・M・クッツェーの小説「夷狄を待ちながら(Waiting for the Barbarians、1980年)」 は、ここににさらに「第三世界を植民地化してきた白人と植民地化されてきた第三世界の非白人」なる視座を持ち込んでノーベル文学賞を受賞している。
②そして1970年代から1980年代にかけて「ロリータ・コンプレックス(ロシア語: Лоликон - Lolikon, Lolicon)」なる言葉はストックホルム症候群の一種、すなわち「Ninfret趣味自体が内包する成人男性の破滅願望」と「近く男全てを滅ぼす悪の幼女(アニマとしての対人格)」の共依存と定義されてきた。
*記憶が正しければ吾妻ひでお辺りが言い出して広めた概念だった筈。背景にあったのは当時におけるユング心理学の流行で、これに傾倒していた当時のフェミニスト女性側も気に入って相応に取り入れている。
ラテン語で、生命や魂を指す語。古代ギリシア語の文献類(アリストテレスの書など)にある「希: Ψυχή (プシュケー)」というギリシア語を、中世ヨーロッパなどにおいてラテン語に翻訳する際に用いられたのが起源となる。
当時ヨーロッパはキリスト教世界であったので、古代ギリシアの哲学の影響を受けつつも古代ギリシア文献の翻訳・研究などの文脈以外では、animaはキリスト教的な色彩を帯びた用法で使われていることも多い。
その後、近代になってユングが独特の用語として用いることになった。
ユング心理学におけるアニマ(anima)/ アニムス(animus)概念
カール・グスタフ・ユングは、「すべての中で最も顕著な自律性の集合体である。それは男性の女性との相互作用と女性への態度を影響と同様に、夢の中に現れる像としてそれ自身が現れる。アニマ・アニムスの過程を想像力の一つの源である」とした。ユングはまた、個性化における段階のたとえとして、影との出会いは見習い工による「習作」、そしてアニマとの出会いは名工による「傑作」である、とも述べている。
ユング心理学におけるアニマ(anima)
男性の無意識人格の女性的な側面を元型と規定した。男性が持つ全ての女性的な心理学的性質がこれにあたる。男性の有する未発達のエロス(関係の原理)でもあり、異性としての女性に投影されることもある、とする。幼年期の母の投影に始まり、姉妹、おば、グノーシス主義におけるソピアーまたは「叡智」と呼ばれる段階で結ばれる、教師の要素を持つ将来の性的伴侶及び続く関係に続く典型的な発展における四重の理論を唱えた。
ユング心理学におけるアニムス(animus)
女性の無意識人格の男性的な側を意味する。女性の有する未発達のロゴス(裁断の原理)でもあり、異性としての男性に投影される。アニマと比べて集合的であり、男性が一つのアニマしか持たないのに対し、女性は複数のアニムスを持つとされた。女性が精神の中に類似の、男性的な属性と潜在力であるアニムスを持つと信じた。
*そもそも「コンプレックス(Complex、症候群)」なる概念自体が「他者を巡る意識がもたらす価値観の倒錯」に立脚するのを忘れてはならない。こうして見る様に、今日まで日本で広まった「ロリコン」の概念は「目黒の秋刀魚」同様、完全にこうした「毒」の部分を抜かれ「安全化」された残り滓に過ぎないのである。
ある日のこと、お殿様は親戚のおよばれでお出掛けになりますと「なにかお好みのお料理はございませんでしょうか。なんなりとお申し付けくださいまし」というご家老の申し出に、すかさず(かつて遠乗りの途中、目黒の農家で野趣溢れる七輪での丸焼きで馳走になってからその味を忘れられなくなった)秋刀魚を注文した。
親戚は驚いて、日本橋魚河岸から最上級の秋刀魚をとり寄せた。このように脂が多いものをさしあげて、もしもお体に触っては一大事と、十分に蒸したうえ、小骨を丁寧に抜いて、だしがらの様になった秋刀魚を出した。
「なに、これが秋刀魚と申すか。まちがいではないのか? たしか、もっと黒く焦げておったはずじゃが・・・」
脂が抜けてぱさぱさの秋刀魚がおいしいはずがありません。
「この秋刀魚、いずれよりとりよせたのじゃ?」
「日本橋魚河岸にござります」
「あっ、それはいかん。秋刀魚は目黒にかぎる」
*何度も引用しているが、この逸話って本当に「他者を巡る意識」を意識内で捕まえた先例として優秀。
③しかしながら、こうした「無意識下においては男女の認識空間は対称性を備えている」なる幻想はあっけなく崩壊。何と、かくして白日の下に曝された女性のそれは「最初から腐っていた」のである。
自分が無学なだけなんだけれど、ファムファタールといいニンフェットといい、異性の運命を狂わせるような存在は女性ばかり指す言葉が多い気がする タッジオはじめ、風木のジルベールや個人的にハンス・グランスみたいな男の運命を狂わす少年が好きなのだが、的確な言葉が見当たらない
— いなぶち (@theod346) 2017年8月31日
- 何故か「成人男性の抱く破滅願望の象徴」とされる「ファム・ファタール(Femme Fatale、運命の女)」の対概念たる「オム・ファタール(homme fatal - 運命の男)」は「同性愛者の男性を弄んで破滅に追い込む美少年」を指す。
*まぁ典型例が「ベニスに死す(英語Death in Venice、イタリア語Morte a Venezia、フランス語Mort à Venise、1971年)」となるが、異性愛と同性愛の平等性を主張する新世代同性愛者の間では「退廃的耽美の一環として同性愛を好む(それ故に生々しい同性愛の現実を拒絶する)空想的同性愛ファン(日本だと「ジュネ派」に該当)」同様に「感性が古臭い」と拒絶されるケースも。
*そもそも女子は案外「自分が性的対象に巻き込まれない」男性間の同性愛的世界や「男性が関与してこない」女性間の同性愛的世界が案外好きである。ただし「女性も好む百合漫画の多くは腐女子漫画も描ける女性作家の作品」といった厳格な基準も存在し「男性が好む同性愛物」と全くといって良いほど重ならない。
*その一方で事実上「オム・ファタール(homme fatal - 運命の男)」も存在する。岡本喜八監督映画「大菩薩峠(The Sword of Doom、1966年)」の机竜之助(演仲代達矢)に「フォースの覚醒(Star Wars: The Force Awakens、2015年)」のカイロ・レン(Kylo Ren、演アダム・ドライバー)。当事者たる国際「(その先天性外交官気質から)女性は自分の理解の範疇を超える存在に(自らの認識上の限界を克服してくれるかもしれないなる期待から)強い関心を抱かずにはいられない(ただし必ずしも性的関心を伴うとは限らない)」と言及する。何その「同じクラスの不良少年が気になって仕方がない優等生少女(しばしばクラス委員)」みたいな上から目線?
*また「ロリコン」原義の援用から「妹達(シスターズ)を虐殺して来た過去への罪悪感から「幼女」ラストーダーを手段を選ばず守る一方通行(Accelerator=アクセラレータ)」や野田サトル「ゴールデンカムイ(2014年〜)」における「アシㇼパの為なら大虐殺すら厭わない不死身の杉元」を加える向きも。「お前がこの世界全てを敵に回しても、俺だけは最後までお前の傍で戦い抜く」と何の逡巡もなく断言出来るキャラだけが分類される特異ジャンル…
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その一方で19世紀末に流行した「近づく相手全てを滅ぼすファム・ファタール(Femme Fatale、運命の女)」概念には明らかに「ニンフェット(Ninfet)趣味」に先行する内容を含んでいた。鍵はテオフィル・ゴーティエの戯曲「或る夜のクレオパトラ(Une nuit de Cleopatre、1838年)」やオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ(Salomé、1893年)」辺り。最初から異国趣味満載なのである。
*根底にあるのは「体は未成熟なのに幼少時から贅沢の限りを尽くして来たせいで心が老成してしまった悲劇」「(外国人なので)言葉が不自由」といった「ロリババー(Etarnal-Loli)」概念の大源流でもある。*そのさらなる大源流はゲーテ「コリントの花嫁(The Bride of Corinth、1797年)」やフリードリヒ・フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」や「白のバレエ」の世界における「森に足を踏み入れる男性を脅かす大自然の脅威の女性視」とも。「未婚のまま死んだ少女の亡霊が若い男を配偶者に迎え入れようとする執着心」といった重要な概念の起源でもある。
*また同時代のドイツ・ロマン主義は「世間知らずの女性を外部から脅かす現実の男性視」なんて側面も備えていた。まさしくシューベルトの「野ばら(Heidenröslein、1815)」「死と乙女(Der Tod und das Mädchen、1817年)」「ます(Die Forelle、1816年〜1821年)の世界。
- 19世紀末から20世紀前半にかけて黄金期を迎えた英米におけるパルプマガジン文化には近年のボカロ文化の興亡同様の「カンブリア爆発感」を備えていた。
中でも特筆に当たるのが「理想のイケメンながら総受け」のノースウェスト・スミスと「毎回ノースウェスト・スミスに最後の一線を超えさせないタイミングで救出に成功するイケメンの相棒」ヤロールのブロマンスなる側面も備え、毎回二人が「美女モンスター」を撃退し続けるC・L・ムーア作品の登場。
*何だこれ? 実は現在なお「これが何だったのか」完全には説明出来ずにいる。
C・L・ムーア「シャンブロウ(Shambleau、1933年)」より
「(ノースウェスト・スミスの全身を触手責めにしながら)やっと私本来の言葉でお話出来ますわ、愛しい方」
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ところがトーキー映画登場によって「(英語がまともに喋れない)異邦人系悪女」が出番をなくすと、その起源を「ギブソン・ガール(Gibson girl)」にまで遡る「米国田舎娘」や自動や飛行機を乗り回す「勤労婦人」の反撃が始まる。そしてバービー人形ばかりか「(それまで外国人少女のイメージで描かれてきた)運命の女」や「女性解放の象徴」ワンダーウーマンや「先住民の娘」たるポカホンタスまで「(胸が大きくてウェストがキュッと締まった)ピンナップガール体型」で描かれるヒステリックな状況が到来するのだった。
*既に同時期フランスではココ・シャネルが「女性ファッションからのコルセット追放運動」を展開していたにも関わらず。だが果たしてそれは純粋なる男性側の欲望の一方的押し付けだったのか? ここで思い出すのが「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」としたカール・マルクスの人間解放論。
乳房を含めた身体的特徴が圧倒的条件となるのは、フランス映画より亜アメリカ映画の影響で、より具体的にはハリウッド映画制作者の創造といってよい。そもそもアメリカの男性大衆が元来そういうタイプを熱望してきたとさえいえないのである。「美人とは何か?」という本来不確定な概念に確定性を与え、それが昔からのものと人々に信じ込ませ、宣伝によって浮き立たせてきた職業集団が米国西海岸には存在し続けてきた。
「おっぱいと脚、あれは全てハリウッド起源なのよ」
すっかりハリウッド基準に毒された夫と離婚し、アメリカに渡って市民権を獲得したジェイク君の母は今日なおそう口にし続けているという。 - 1980年代に入ると、こうした「男性側からの押し付け」に反抗する形でマドンナやシンディー・ローパーの「女性解放イメージ」が人気を博すが、登場時点におけるそれはあくまで1950年代に大流行したGirls Comicの主題「親の目なんて気にせず男子と好き勝手夜遊びしたい」なる浅薄な願望に立脚したものに過ぎなかったとも。しかし「蟻の穴から堤も崩れる」ともいう。
- そして1990年代に入ると国際的に「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」や「少女革命ウテナ(1997年)」や「カードキャプターさくら(1996年〜2000年)」といった作品が少女達の注目を集める展開を迎える。
*この流れをさらに一歩進めたのが片渕須直監督の「アリーテ姫(2001年)」や「ちょびっツ(原作2000年〜2002年、アニメ化2002年)」だったという認識。
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21世紀に入ると男女ともに「此岸(自分の生きてる世界)と彼岸(他者の生きてる世界)の象徴」として西尾維新「〈物語〉シリーズ(2006年〜)」の忍野忍や(蛇神化した)千石撫子、さらにはトム・ムーア監督「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」のアイスリングや「ブック・オブ・ライフ 〜マノロの数奇な冒険〜(The Book of Life、2014年)」のラ・ムエルテ(La Muerte)となる。「ロリババァ(Etarnal Loli)」とは「堕ちたる神」?
*この「それまで自分を怪物としてしか認識出来ず隠れて暮らしてきた永遠の闇の徘徊者」が「可愛い」と持ち上げられて舞い上がる有様もまた「ロリコン」の元来の原風景の一つなのである。
こういう次元のディープなロリコン文化にあえて足を踏み入れて歴史上に名を残した代表的映像作家が以下となります。
「1980年代きっての風俗作家」英国出身の映画監督エイドリアン・ライン。
重機や溶接の免許を取得し、肉体労働の世界に「男性と同等あるいはそれより高収入」を求めて足を踏み入れる女性達をスタイリッシュに描いた「フラッシュダンス(Flashdance、1983年)」。当時は国際的に「エイリアン」シリーズのエレン・リプリー(Ellen Ripley、演シガニー・ウィーバー、宇宙船の二等航海士だったが、その資格を剥奪されて以降はパワーローダーの2級免許を取得し、貨物船の物資搬入業務で生計を立てる)や「ターミネーター」シリーズのサラ・コナー(Sarah Connor、演リンダ・ハミルトン、登場時点ではハンバーガー・ショップでアルバイトする女子大生に過ぎなかったがテロリストに変貌して精神病院に収容される)と並べて論じられる事が多かった。
倒錯した愛に没頭していく女性を描いたナインハーフ (9½ Weeks、1986年)。「オム・ファタール(homme fatal - 運命の男)」を「女性ににとってのアニムス」としてきっちり描き切った。
*それにしても、今から見返すと1980年代臭が凄い。「危険な情事(Fatal Attraction、1987年)」や「運命の女(Unfaithful、2002年)」といった「不倫映画」も手掛けている。
*そういえばナボコフ「ロリータ」も「母親との不倫に娘が介入してくる」構造を備えていた。「夫婦関係を脅かす浮気相手の他者性」についてまた別途検討する必要がありそう?そういう映像作家だからこそキューブリック監督に続いて「ロリータ(Lolita、1997年)」の映像化に挑戦せざるを得なかったとも。
ストーンテンプルパイロットのMV「Sour Girl(1999年)」や映画「Hard Candy(2006年)」で有名な英国出身の映画監督デビッド・スレイド。
エイドリアン・ライン同様、英国のMV界出身。
ちなみに「Hard Candy(2006年)」の原作は「日本の新聞の三面に掲載された美人局事件」とされている。こういう形でロリータ概念は「日本の不良少女」のイメージとも接続したりするのである。
*この作品で「自らも混乱しっ放しの男性に対する復讐者としての不良少女」を演じたエレン・ページ(カナダのノバスコシア州ハリファックス出身)はX-MEN映画で発掘され、ラスベガスでのLGBT関連イベントの席上で同性愛者であることをカミングアウト。こうした一連の動きが数多くのコミュニティのブリッジとなったのは有名。そして吸血鬼映画に到達。
「何でここで英国出身監督?」なる疑問は、おそらく上掲の展開における「何故ここまで日本製コンテンツが強い影響力を持ちえたか?」とも重なってきます。要するに人間とは「自らの内なる絶対他者」と直接向き合うより「外国人が提示する未知の世界観」への対応を迫られる展開を好む様なのかもしれません。そして女性問題もまた、この典型的ケースに該当したという次第。
*これはナ・ホンジン監督映画「哭声/コクソン(2016年)」に登場する「絶対他者」が何故日本人の顔をしていたかという問題意識とも重なってくる重要な設問。
「うんざりするような積み重ねの末に辿り着いた、ひっでえ状況で、たとえ自分の力が及ばないとしても、それでも正しい選択をしようとする」フィクションを描かせたら、自分が目にする範囲では、ここ数年は韓国映画がずば抜けてる感がある。
— kirilov747 (@kirilov747) 2017年9月29日
そういえばマーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、1936年)」に、メインヒロインのスカーレット・オハラが同性の老婦人から「女など所詮、最初から決っして共存が不可能な殿方の勝手な妄想のパッチワーク。殿方への敬意を失えば、後は怪物と化すしかない」と諭される場面が存在します。男性側から押し付けられてきた「娘である事」と「妻である事」と「母親である事」の同時実現の不可能性。それは男にとっての「息子である事」「夫である事」「父親である事」と、どれくらい非対称なのか? ここから出発しない限り「ロリコン概念が真に宿している他者性の問題」へは到達し得ないのですね…