諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

事象の地平線としての絶対他者① 「政治の神学化」はなぜ起こったのか?

このサイトは、とりあえず以下が集中した1859年を一つの歴史的画期と目しています。
*日本だと勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した江戸幕府大老井伊直弼や老中間部詮勝らがこれらの諸策に反対する者たちを弾圧した「安政の大獄(1858年〜1859年)」が始まった年。「桜田門外の変(1860年3月24日)」で井伊直弼がテロリストに斃されていなければ明治維新もまたなかったかもしれないといわれている微妙な 時期。イタリア王国(1961年〜1946年)やドイツ帝国(1971年〜1918年)に至っては、まだ存在すらしていない。
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  • (「社会民主主義の祖」ラッサールとの関係が決定的に決裂する直前の)カール・マルクスが「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる(「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創造したのだ」をモットーとするフォイエルバッハ神学に由来する)人間解放論を発表した年。ちなみにこうした人間解放論(マルクス思想の無政府主義的側面)はロシア革命(1918年)を成功に導いた所謂「科学的マルクス主義イデオロギーから丁寧に除去される一方、ジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」を通じてアナルコ・サンディカリスム (Anarcho-syndicalism、無政府組合主義)や(「レーニンの愛弟子」ムッソリーニが創始した)ファシズムや(ヒトラーナチスがその「ええとこどり」を目指した)ナチズムへと継承される。そのファシズムやナチズムの世界においても、政権奪取後には、かかる「危険思想」が弾圧対象となっている。
    *この展開を見ても明らかな様に「就職先が見つからない若者達の怒り」を代弁しつつ「左派陣営全てから抹殺を宣言された」資本家階層や中産階層も味方につけたナチズムの時局的判断にイデオロギーとしての精緻な構造など到底垣間見られない。それよりヒトラーに「あらゆる対立勢力に「利用価値のある小悪党」と思い込ませる事に成功し代表権を獲得した」シェークスピア史劇「リチャード三世( The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)でリチャード三世が垣間見せる狡猾さを重ね見る欧米の歴史観の方が遥かに質が高い。

  • ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」の中で「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」とする(ミル同様に数学者でもあったコンドルセ由来の)古典的自由主義を発表した年。人種差別撤廃運動や女性解放運動の元来の起源でもあるが、かかるグローバリズムは何故か「(それまで積み重ねられてきた罪の重さを勘案するに)国際正義を実現する為に白人や男性こそ逆に一刻も早く滅ぼされるべき」なる急進的バリエーションを発生させ、これが「他人に実害を与える場合」なる条件に引っかかって大変なジレンマを生み出してしまう。
    *この意味合いにおいてまさに「時として社会全体を破壊する個人(国王)の生得的自由権に制限を設けようとする」立憲主義やリベラレズムのジレンマが歴史的主題となる時代の始まりとも。この次元においては「他人に実害を与える場合を認定する権利の定義」こそが最重要問題として議論されてきた。

    *この問題はアメリカの「シカゴFacwbook拷問Live事件(2016年)」において一つの結末を迎えた。(隙あらばデモの暴動化を煽り近隣商店街の略奪に走るストリートギャング同然の)黒人解放運動急進派の残り滓達が、黒人ストリートギャング達が白人の知的障害者を拷問する映像をインターネットに流した件について「我々マイノリティはあくまでか弱い。だから本当に人類の平等を信じているなら、自ら喜んで自発的に我々が襲いやすい心身障害者や女子供を生贄として差し出す覚悟のある者だけが人類平等を目指すリベラリストを名乗って良い」と主張し米国リベラリスト達の賛同を得てしまったのである。もちろんこうした「急進派」は黒人解放運動を代表する立場などでは決してないが、米国リベラリスト達は「差別是正措置(affirmative action)を返上し、真の平等に到達しようとする黒人リベラレスト(黒人解放運動急進派から「The Black Establishment」と蔑まれている比較的裕福な黒人層によって構成されるマジョリティ)」をむしろ危険視し「捨て駒として心置き無く利用可能な馬鹿」たる彼らを味方と認識する道を選んでしまったのだった。最近流行の「結局、アメリカのリベラリズムは何一つ守れなかった(守らなかった)」なる言い回しは、まさにこの状況を指している。

    *「自ら自発的に喜んで心身障害者や女子供を切り捨てられる者だけが人類平等を目指すリベラリストを名乗って良い」…彼らは「男尊女卑や健全者優位主義は黒人の守るべき固有文化」と主張する保守主義的側面も備えており、まさにそれ故に(黒人公民権運動成功後、順調にリベラル化の道を歩んできた)一般黒人全てを敵に回してしまった側面もある。一部左翼が好んで多目的トイレに「アベ政権に養われてかろうじて生きてる様な存在は全て死に絶えろ」なる意趣を込めた悪戯書きを残したり点字ブロックを塞ぐ様にデモを展開するのを好むのも、こうした「黒人急進派」や同種の傾向を有する「在日/韓国人急進派」を理想視するから。
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    *別に日本固有の現象でもない以上、彼らなりのグローバリズムへのアプローチへの一環として「表現の自由」を認めるべきかもしれない。その一方で皮肉にもアフリカ系アメリカ人ほど、こうしたスタイルの全ての起源が「女子供や心身障害者を人間扱いしないほど男として尊敬されるストリート・ギャング文化」にある事を恥じて憎んでいるグループもまた存在しない。むしろ一部左翼が模倣すべきは彼らの鬱憤たるべきかもしれないのだが、もちろん国際的に「でもこっちの方が何か反体制的で格好いいじゃん」と自画自賛する人々にそうした声など届かない。そもそも当事者からは「多目的トイレは壁の面積が大きいから落書きしやすいし、点字ブロックは整列の目安として有効。ただそれだけで、別に深い意味なんてない。身障者の利用を妨げてる? そもそも心や身体が不自由な人達(主に老人)が健全な若者より優遇されてる社会の方が狂ってるだけだろ? 俺達は俺達なりにその是正を試みてるだけ。何もしないお前らよりよっぽどマシ」程度の反応しか期待できないとされている。

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    *ちなみに文化革命当時の紅衛兵にも同種の傾向が見られたが、毛沢東はそうした心理がやがて「(自分の様な)老権力者の全面否定」に向かう事を見越して下放を決意したという。そういえばSEALDsが切り捨てられたタイミングも似た様なものではなかったか?
    [中国掲示板] 元憤青だが、俺の目が覚めるまでの過程を聞いてくれ (海外の反応) » じゃぽにか反応帳

  • チャールズ・ダーウィンが「種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」の中で系統進化について初めて触れた年。ゴビノーやニーチェの信奉する貴族主義を過去に追いやる一方で、その「適者生存」論や「性淘汰」論はスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)同様、主観的に積極的に「弱肉強食」論と誤読され、貧富格差を放置する資本主義的効率の追求や(最終的には「世界最終戦論」にまで行き着く)国家間競争が全てとなった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)を支えるイデオロギーとなった。

    *19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ語文献にのみ登場する「マルクスフロイト主義」なる独特の表現は、その熱狂的民族主義精神から(ロンブローゾの生来的犯罪人説に模倣犯罪学をぶつけたタルドや、さらにそれに対抗する形で方法論的集団主義を提唱したデュルケームの様な)フランス社会学に意義を認められない偏狭さに加えて「生存闘争なる観点から生命の歴史を説明しようとする進化論的観点」や「制御できぬ 本能とこれを抑圧する超自我の闘争に注目した精神分析」が融合したドイツ独特のある種の民族生物学の流行を示唆する。そして、かかる伝統的対決主義こそが必然的にドイツ民族を「(人種間における)世界最終戦論」に導いたと考えられている。

    *「適者生存」理論は、大日本帝国時代においてはむしろ「アナキスト界のプリンス」にして生物学者/社会学者でもあったピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン(Пётр Алексе́евич Кропо́ткин、Pjotr Aljeksjejevich Kropotkin、 1842年〜1921年)が、シベリア諸部族の間に見受けられる相互扶助精神への取材を通じて広められた感がある。確かに生態系全体を俯瞰すると「弱肉強食」理論とは似ても似つかぬ「共依存関係」が無数に見出される事になるのである。そしてこれはこれで今日の「エコ左翼」の大源流となる。

    *「性淘汰」問題はむしろその大源流を「一族の未来」を担わされ婚活に邁進するジェントルマン階層の女性達を描いた「元祖ラブコメ」ジェーン・オスティン(Jane Austen、1775年〜1817年)諸作品に求めるべきかもしれない。「選ぶ性」と「選ばれる性」の非対称性。その背後にはリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」論も踊っている。

    利己的遺伝子とは

    ダーウィン説では、個体が遺伝子よりも優先する。個体は、自己に似た個体を子として生むことを目的とし、そのために遺伝子を利用する。

    ところがドーキンス説では、遺伝子が個体よりも優先する。遺伝子は、自己に似た遺伝子を増やすことを目的とし、そのために個体を利用する。

    *その一方で優生主義の大源流を遡ると、雄弁家の家系に産まれながら聾唖者の家系と結婚し「我々の家系は断絶すべき」なる陰鬱な結論に到達したグラハム・ベル(Alexander Graham Bell、1847年〜1922年)辺りまで遡る。まさに(手話によるコミュニケーションだけでは満足出来なかった)彼の個人的苦悩こそが彼をしてボコーダー開発への熱意に向かわせ、それ自体の成功には至らなかったものの、電話や光通信技術の発明なる成果を歴史に刻ませたという事実を我々は一体どう受け止めるべきなのだろうか?

  • こうして三拍子揃った背景に「(経済グローバル化の最初期に勃発した)1857年恐慌」の影響を見る向きも。

    1857年恐慌( Panic of 1857)- Wikipedia

    19世紀半ばのアメリカ合衆国で国際経済の退潮と国内経済が急拡大したことから生じた金融危機1850年代までにグローバル化が進み、1857年後半に始まった金融危機は初めて世界規模の経済危機になった。こうして1857年9月から始まった景気低迷は、それ自体は長く続かなかったものの、適切な回復となると南北戦争(American Civil War、1861年〜1865年)以後まで登場する事はなかったのである。

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    • オハイオ生命保険信託会社が1857年8月24日破綻した後、金融恐慌が急速に広がり、企業が倒産し始め、鉄道産業は景気減退となり、数多い労働者が解雇される展開を迎える。
      *1857年初め、アメリカ西部からの商品に対するヨーロッパ市場が減速を始めたので、西部の銀行家や投資家が心配し始めた。東部の銀行は西部に対する貸付に慎重になり、西部の紙幣を受け入れるのを拒む銀行もあった。1857年より以前、西部、特にカンザス州に大量の移民が流れたので鉄道産業が隆盛した。人が大きく動けば鉄道は利益を出せるようになり、銀行はその機会を捉えて鉄道会社に大型の貸し付けを行った。しかし、夏の終わりまでに、西部の土地価格が下がり、移民の動きは急速に鈍化して、鉄道の証券価格が落ちた。次の春までに、「商業信用が干上がり、既に負債を背負っていた西部の商人には新しい商品を買うのを切り詰めさせることになった」西部での購買力が制限された結果として、全国の商人の売り上げと利益が落ち始めた。鉄道は「相互依存の経済を作って来ており、西部の経済不況が経済危機の脅威となった」多くの銀行が鉄道会社と土地購入に出資していたので、鉄道株価の下落の圧力を感じるようになった。イリノイ・セントラル鉄道、エリー鉄道、ピッツバーグ・フォートウェイン・アンド・シカゴ鉄道、レディング鉄道が、金融不況のために全て閉鎖を余儀なくされた。デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道とフォンジュラック鉄道が破産を宣言することになった。ボストン・アンド・ウースター鉄道も厳しい財政状態になった。従業員は1857年10月下旬に書かれたメモで「旅客および貨物の売り上げが前年同月比で2万ドル以上も大きく落ち込み、次の冬には回復がほとんど期待できない」と知らされた。この会社は、労働者たちが「給与を10%減額して受け取ることになる」とも伝えた。鉄道株価が下がったことに加えて、農夫達が西部で抵当に入っている土地の債務不履行が出始め、銀行にさらに圧力を与えることになった。

    • ニューヨークの銀行が大いに必要としていた金を積んでいた蒸気船SSセントラル・アメリカがハリケーンのために沈んだ事が引き金になったと目されている。
      *1858年恐慌の前に起きたもう1つの出来事は、1857年3月、アメリカ合衆国最高裁判所による「ドレッド・スコット対サンフォード事件」判決だった。スコットがその自由を求めて訴訟を起こすと、最高裁長官のロジャー・トーニーは、スコットはアフリカ系アメリカ人であるから市民ではなく、それ故に裁判所に訴える権利を持たないと裁定した。この裁定はミズーリ妥協を違憲だともしており、西部領土のさらなる開発に重大な影響を与えることは明らかだった。この判決から間もなく、「新領土における自由土地と奴隷制度の間の政治闘争が」始まった。西部の領土は奴隷制度が拡張されるかもしれない可能性が開けており、それが劇的な財務と政治の影響を与えることになるのが直ぐに明らかになった。「カンザスの土地の債券や西部の鉄道株価格が、3月初旬のドレッド・スコット判決後に、少し下がっていた」。この鉄道株の変動で「将来の領土に関する政治ニュースが土地や鉄道株市場に影響を与えることになる」のが分かった。

    • 当時は世界の資金をバキュームする事業が多かった。大西洋横断電信ケーブルおよび大陸横断鉄道の敷設、国際的な軍事行動ではクリミア戦争インド大反乱、加えて海外の事業ではエジプト鉄道の敷設とスエズ運河の開削など。この恐慌に先立つ数年間は景気が良かったので、多くの銀行、商人、農夫がリスクを負って投資を行う機会を掴んでいた。それ故に市場価格が下降を始めるやいなや、金融恐慌の影響を直ち受けてしまったのだった。
      *1857年恐慌を実際に発動させた最たる要因は、1857年8月24日のオハイオ生命保険信託会社の破綻だった。この会社はオハイオ州を本拠にして、2つ目の主たるオフィスがニューヨーク市にあった。大量の抵当物件を保持しており、オハイオの他の投資銀行とのつながりが強かった。会社管理層による詐欺行為のために破綻しており、その破綻がオハイオの他の銀行の破綻を誘発する恐れがあり、あるいはさらに悪いことに銀行の取り付けまで生じさせた。「ニューヨーク・デイリー・タイムズ」に掲載された記事に拠れば、オハイオ生命保険信託会社の「ニューヨーク支店とシンシナティ支店が差し押さえられ、負債総額は700万ドルとされている。」となっていた。オハイオ生命保険信託会社に結び付けられた銀行は払い戻しが行われ、「取り付けに対してしっかりと互いに保険を掛けあうことで兌換性停止を避けた」としていた。オハイオ生命の破綻は鉄道産業の財務状態と土地市場に関する注意を喚起し、それによって金融恐慌をより公的な問題にさせた。農産物の価格も著しく下落し、1857年の農夫は収入が減って、購入したばかりの土地に対する債務取り付けを生じさせることになった。1855年穀物価格は1ブッシェルあたり2.19ドルまで急上昇し、農夫は土地を購入して収穫を増やし、それがさらに利益を生んでいた。しかし、1858年までに穀物価格は1ブッシェルあたり0.80ドルまで急降下。中西部の多くの町が恐慌の圧力を感じた。例えばアイオワ州キオカックは1857年の経済不況によって財政摩擦を経験した。自治体の大きな負債がキオカックの問題を拡大した。1858年までに町は鉄道債券主体に90万ドルの借金があり、その課税資産の価値は550万ドルも落ちた。恐慌前に1,000ドルの収益を上げた区画が10ドルでも売れなかった。打撃を受けた土地所有者は税金を払えず、多くの資産が税の代納に消えた。このような価格低下の結果として、土地の販売が急激に減り、西方拡張は恐慌が終わるまで事実上止まった。商人や農夫はどちらも、価格が高いときに取った投資リスクに苦しみ始めた。

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    • 1859年までに恐慌は収まり始め、経済は安定し始めた。ジェームズ・ブキャナン大統領は紙幣流通が恐慌の根源的原因だと考えると宣言した後、20ドル以下の銀行券全ての使用を止めることにした。また「州認定銀行は銀行から切り離すことを勧め、連邦政府の例に従うことを推奨」もした。このことで紙幣の流通量を減らし、正金の供給時間を増やし、インフレ率を下げられると考えていた。
      *ブキャナンは州認定銀行が連邦銀行に従うことを望み、具体的に独立財務体系を欲した。この体系であれば、連邦政府が正金支払いを維持し、銀行の支払い停止がもたらす金融圧力を幾らか和らげるために役立つことになる。1857年12月、ブキャナンは「政府は同情するが個人の苦しみを和らげることは何もできない」と言って、「救済しない改革」という新戦略を公表した。今後の金融恐慌を避けるために、ブキャナンはアメリカ合衆国議会に、銀行が正金支払いを停止した場合に銀行の認証を即座に剥奪する法を成立させるよう奨励した。さらに州認定銀行には発行紙幣3ドルにつき正金1ドルを保持することを求め、将来のインフレを避けるために銀行券の安全保障として連邦や州の債券を使わないよう求めた。それに加えて、1857年関税が法制化された。1846年関税の修正版として法制化したものであり、1846年関税は「緩りと数多い製造業を破壊して」いた。1857年関税は1846年関税で掛けられていた製品の税率を下げた。低い関税であれば、「アメリカの産業に好都合であり」それによって経済活動を奨励できるという考え方だった。その結果、1857年恐慌の結果として、南部州の経済にはあまり影響が無く、北部州の経済が著しい打撃を受けて、回復も鈍かった。この恐慌で最も影響を受けたのは五大湖地方であり、その地域の問題は直ぐに、西部での売り上げに依存していた東部の企業に及んだ。

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    約1年の間に、北部経済の多くと南部全体は恐慌から快復した。しかしながら恐慌の終わりに近い1859年頃、奴隷制度の問題に関わる北部と南部の間の緊張関係が悪化。1857年恐慌は南部で、北部は南部に経済を安定させておく必要があるという考えを信じる者達を勇気づけ、アメリカ合衆国からの脱退という脅しは一時的に止んだ。南部人は、1857年恐慌によって北部を「南部の需要に対してより受け入れやすく」しており、アメリカ合衆国奴隷制度を保ち続けさせることになると考えた。

    カール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年〜1883年) - Wikipedia

    ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという。

    イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェルにある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった。これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り28番地の二部屋を賃借りしての極貧生活を余儀なくされる。プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。

    それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。

    生計はエンゲルスからの定期的な仕送り、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)。

    しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという。

    1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった。

    マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ケンティッシュ・タウンのグラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている。

    引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」。

    終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している。

    特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化した。マルクスが鉄道の出札係に応募したほどである(悪筆のため断られている)。

    マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版。本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている。
    *こうした執筆環境から、その著作はあくまで「後進国ドイツから見た先進国イギリスの発展可能性とその限界の見極め」なる観点に拘束される事になったとも。

    ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill、1806年〜1873年) - Wikipedia

    ミルは21歳のときに本人の言う「精神の危機」に陥り、興味・意欲の著しい減退とうつ状態に陥った。ワーズワースなどの当時のロマン主義への接近と、(時系列上は少し遅れるが)1830年に出会ったときすでに人妻であったハリエット・テイラー(1807年 - 1858年)との親密な交友関係によってこの危機を乗り切っている。
    *後者については、モラルにうるさいヴィクトリア朝期としてはかなりの問題であったが、ミル本人の証言によれば、この時期のミルとハリエットは清い交際を保っていた。ハリエットはテイラーとの間に二男一女があったが、1833年には末娘のヘレン(1831年 - 1907年)を連れて夫と別居し、週末にミルが彼女を訪問するライフスタイルをとった。ハリエットは社会活動家でもあり、その後のミルの著作全体に強い影響を与えている。ミルとハリエットはテイラーの死(1849年)の2年後、1851年に結婚したが、ハリエットのアヴィニョンでの急死(1858年)によって結婚生活は短命に終わった。ハリエットの没後は、先述した末娘ヘレンがミルの支えとなった。

    • ミルはオックスフォード大学やケンブリッジ大学から研究の場を提供されたがこれを断り、父と同様に1858年まで東インド会社に奉職した。従って、ミルは専門職としての「学者」であったことは一度も無い。
      *1958年はロンドン東インド会社インド大反乱(1958年)とそれに続くインド支配の英国政府への移譲の影響で解散させられた年でもある。
      インド大反乱 - Wikipedia 
    • 東インド会社の解散後は、ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員として1865年から68年まで短期間ながら選出されている。ミルは当時のリベラリストの代表格として、この時期にアイルランドの負担軽減を主張し、イギリス下院における最初の婦人参政権論者となっている。「代議制統治論」では比例代表制普通選挙制など、はるかに時代の流れに先駆けた選挙制度改革を主張した。植民地におけるジャマイカ事件でダーウィンなどとともに反乱側(黒人)を擁護し、エア総督を弾劾する論陣を張ったのもこの時期である。もっとも、政治家としてはあまりにも先進的・理想主義的であったために世の受け入れるところとならず、次の選挙では落選している。結局、英国で男女平等の普通選挙が実現したのは、第一次大戦後の1928年のことであった。

      フランス革命期、ジャコバン派独裁政権に粛清されたコンドルセ伯爵同様に「人類を単一アルゴリズムの統制下に置こうとする」数学者の試みはどうしても過激な内容にならざるを得ない様である。ある意味真の意味で「自分を内側から突き上げる衝動や直感に誠実に生き様とする」ロマン主義的英雄といえるかもしれない。異端審問裁判に破れたガリレオ・ガリレイが、思わず「それでも地球は回っている」と呟いた様に。

    なお、ミルはバートランド・ラッセルの名付け親でもある。1865年、セント・アンドルーズ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。フランスのアヴィニョンに滞在中、丹毒(連鎖球菌感染症の一つ)によって死去。アヴィニョンに妻ハリエットと並んで墓がある。

    1860年オックスフォード進化論争 - Wikipedia

    イギリス、オックスフォードのオックスフォード大学自然史博物館で、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』の出版から7ヶ月たった1860年6月30日に行われた議論。トマス・ヘンリー・ハクスリー、サミュエル・ウィルバーフォース大司教、ベンジャミン・ブロディ、ジョセフ・ダルトン・フッカー、ロバート・フィッツロイなどを含む、幾人かの著名なイギリスの科学者や哲学者が参加した。一語一語正確に記録された資料は存在せず、実際に何をハクスリーとウィルバーフォースが発言したのかは非常に曖昧である。例えばウィルバーフォースはハクスリーに「あなたが猿の家系と主張しているのは祖父方ですか、それとも祖母方ですか」と尋ね、ハクスリーは「私は猿を祖先に持つことは恥じない。しかし素晴らしき天賦の才を真実を覆い隠すために使った者と縁をもつことを恥じよう」と応酬したと言われている。また別の証人はウィルバーフォースのハクスリーへの質問は「進化論がダーウィンによって提唱されたままの発展途中の法則であるという非常に当てにならない状態であるのに、誰もが素晴らしく偉大な自分の祖父がかつて猿やゴリラであったことへ歓声の声をあげるかのごとくこのいわゆる法則、言い換えると仮説に賛同できるであろうか。」であっただろうと言う。その一方でさらに別の証人はウィルバーフォースが「ハクスリー自身にとって、自分の祖父が猿と呼ばれようと呼ばれまいとたいして重要ではないのだ」と言っていただろうと言う。この表現は幾分か誤りであるが、この議論はしばしばハクスリー・ウィルバーフォース論争またはウィルバーフォース・ハクスリーの論争として知られている。しかしながら2人の間の公式な論争であったというよりは、実際はニューヨーク大学のジョン・ウィリアム・ドレイパーによる、ダーウィンの理論に関連したヨーロッパでの知的発展についてという論文(英国科学振興協会の年次総会の一部としてその週の間に発表された、膨大な科学論文の中の一つ)の発表の後に起こった活発な議論であった。ハクスリーとウィルバーフォース以外にも議論の参加者はいたけれども、彼らは議論における2つの多数派であったと報告されている。

    • チャールズ・ダーウィンの「生物の種が変化する」という考えは19世紀前半では非常に物議をかもした。宗教で正統と思われていた信仰とは正反対で社会的秩序を脅かすものとして見られたが、一方では民主主義を広め貴族中心のヒエラルキーを打倒しようと努める急進主義者らに歓迎された。1844年、ロバート・チェンバースにより『創造の自然史の痕跡(Vestiges of the Natural History of Creation)』が匿名で出版されたことは議論の嵐を引き起こしたが、この本は幅広い読者層を惹きつけベストセラーになった。 一方で英国科学振興協会が1847年5月にオックスフォードで会合を開いている時には、オックスフォード大司教サミュエル・ウィルバーフォースが「科学の誤ったやり方」についてセント・メアリ教会の日曜日の説教において、地質学者、天文学者、動物学者らが多く集まり僅かな隙間も無いなかチェンバースを明確に狙った辛辣な反論を述べた。科学における既存の権威はこの考えに反対し続けたが、しかしこの本は多数の大衆読者を改心させていた。

    • チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は1859年11月24日に出版され幅広い議論と論争を引き起こした。当時影響力のあった生物学者、リチャード・オーウェンは『エディンバラ・レビュー』に匿名で種の起原に対する極端に敵対的なレビューを書き、そしてウィルバーフォースに進化論についての情報を伝えた。ウィルバーフォースは後に『クオーター・レビュー(Quarterly Review)』に匿名で1700文字のレヴューを書いている。 ダーウィンが自身の理論を発表前に共有していた小さなグループの一員であったトマス・ハクスリーは進化論での主要な論者として台頭した。彼はいくつかの論文や1860年2月の英国王立科学研究所での講演とともに1859年12月に『タイムズ』に『種の起源』に好意的なレビューを書いた。伝統的な教会の人々の反応は敵対的であったが、1860年2月に7人の自由主義神学者による『エッセーとレビュー』が出版されたことへのより大きな熱狂的賞賛により注目が方向転換した。彼らの中でも聖職者であるバーデン・パウエルはすでに進化論的な考えを賞賛しており、ダーウィンのすばらしい本は自然が持つ自力で発展する能力というすばらしい法則を実証している、とエッセーの中で論評した。英国科学振興協会(しばしば簡潔に"BA"と略される)が1860年6月に新しいオックスフォード大学自然史博物館で年次総会を招集したとき、進化論に関する論争は注目の的であった。6月28日木曜日にはチャールズ・ダウベニーが「ダーウィン氏の著作…と特に関連して、植物での性別の最終的な原因について」という論文を発表した。オーウェンとハクスリーは両者とも出席していたので、ダーウィンの理論について議論が噴出した。オーウェンは大衆が「ダーウィン氏の理論の真相についてとある結論にたどり着ける…」ことを可能にするであろうことについて話し、「ゴリラの脳は最も知能の低い霊長類の脳と比較する時よりも人間の脳と比較する時のほうが差異が出る。特になぜなら人間だけが神経性下垂体、側脳室の下角、小海馬を持っているからだ」という、1857年に初めて彼が口頭発表した解剖学上の主張を繰り返した。

    • 一方、ハクスリーはこれが誤りであると確信していたので、その誤りを探し求めていた。そして彼は初めて公衆の面前でこの点について講演し、自分の立場に対する詳細な裏付けを提供することを約束しながら、オーウェンへの「直接的で率直な反論」のなかで先行研究を引用して「ゴリラの脳と人間の脳の間の違いは非常に大きいということを完全に否定した。」ウィルバーフォースは日曜日の朝の会合で演説することに賛同した。彼が1847年の会合でのように、進化論的思想を取り除けたと公言すると推測された。ハクスリーは当初ウィルバーフォースを進化論についての公開論争に引き入れることに気が進まなかったが、ロバート・チェンバースに信念を放棄しないように説得された。[聖職者であるバーデン・パウエルも論争の舞台に立ったかもしれないが、彼は6月11日に心臓発作で亡くなっていた。

    • ウィルバーフォース (1869)(大司教の話し方は「油のように万人受けし、とらえどころのない」という、ベンジャミン・ディズレーリのコメントに由来する)『石けんのサム』という名称で知られていたウィルバーフォース大司教が1860年6月30日の土曜日に会合でダーウィンの理論に反論するであろうという噂が広まった。 ウィルバーフォースは彼の時代、きわめて偉大な演説家の一人であった。ブライソンによると「千人以上の人々が会議場に詰め込み、百人以上が追い払われた」という。ダーウィン本人は病気で参加できなかった。

    • 議論はダーウィンケンブリッジでのかつての師であったジョン・スティーブンス・ヘンズローが議長を務めた。オーウェンが「予想されるダーウィンの敗北をより完全にしたいと望んだ」ためヘンズローが議長を務めるよう配置したと言われ続けている。会合のおもな焦点はニューヨーク大学のジョン・ウィリアム・ドレイパーによる「生物の進化は法則によって定められているというダーウィン氏らの見解との関連を考慮した、ヨーロッパでの知的発展について」の講演とされていた。しかしどの証言でもドレイパーの講演は長く退屈であったという。ドレイパーの講演が終わったあと、ウィルバーフォースの演説の前にヘンスローは王立協会の会長でもあったベンジャミン・ブロディを含む幾人かの演説者を呼んだ。

    • J・R・ルーカスが言うには「ウィルバーフォースは挿絵の説明文の中心的な見解に反して、この論争に損害をもたらさなかった」。 しかしジェンソンが明らかにしたように、彼はこの問題において少数派であった。ウィルバーフォースはダーウィンの理論が事実に基づいていないと主張しながら表面上は科学的理由から批判し、また科学における偉大な人々がダーウィンの理論に反対していると言及した。しかしながら一般的に今日では、ウィルバーフォースの発言は、あなたが猿の子孫だと思うのは祖父側か、あるいは祖母側か、というハクスリーへの質問を通してのみ記憶されている。フランシス・ダーウィンへ三十年後に書かれた手紙には、ハクスリーがこれを聞いた際にブロディへ「神はみずから私の手のひらへ落ちた」とささやいたと書かれている。この引用が初めて現れたのは三十年後以降であり、確実に後世の挿入であろう。1860年9月9日のヘンリー・ダイスターへの手紙のなかにあるハクスリーと同時代の説明では、この表現についての言及はなかった。ハクスリーはダーウィンの理論を弁護するために立ち上がり、猿を先祖に持っても恥じないが素晴らしい才能を真実を隠すために使った人とつながりをもつことを恥じるであろうという、今となっては伝説的な主張で演説を締めた。 また、後世の再話では、この言葉は聴衆にとてつもない影響を与えそしてブリュースター夫人は気を失ってしまったと言われている、と記されている。

    • より信頼できる記述ではハクスリーは確かに「猿」の言い返しで返答したとはいえ彼の演説の残りは平凡であったと示されている。著名な科学者でキュー天文台の長官であったバルフォア・スチュアートは後に「議論は司教が勝利したと思う」と書いた。 ダーウィンの親友で植物学の師であったジョセフ・ダルトン・フッカーはダーウィンへの手紙で、ハクスリーの演説の大部分は広間で聞き取れなかったと書いている。 ハクスリーが大勢の聴衆へ演説したとき人目を引かなかったという主要な部分は正確であろう。彼はまだ熟達した演説家ではなく、それから彼は後に会議で見た光景から雄弁する価値について刺激を受けたと書いている。次にヘンズローはダーウィンの艦長であって25年前にビーグル号の航海での仲間であったロバート・フィッツロイ提督を呼んだ。フィッツロイはダーウィンの本を公然と批判し「膨大な聖書を頭の上に初めは両手で高く持ち上げ、後になってから片手で持ち上げ、重々しく聴衆に人よりも神を信じるよう嘆願した」。 彼は「私はこの本が真実であると信じ、もし今私が知っていることをかつて知っていたら、彼(ダーウィン)をビーグル号に乗せなかったであろう」と言ったと信じられている。

    • その日に最後に演説したのはフッカーであった。フッカー自身の説明によると、ハクスリーではなく彼こそがウィルバーフォースの主張に対し最も感銘を与える反論をしたという。「サム(ウィルバーフォースの愛称)は口を閉ざし、返答として言いたい言葉は一つも無かった。そして会議は直ちに終了した」という。 ルーズは「皆とても楽しみ、全員が機嫌よく立ち去った後、夕食をともにした」と主張している。[23]議論の間、2人のケンブリッジの大学教員が偶然だがウィルバーフォースの近くに立っていて、そのうちの1人は会議のすこし前に失明した経済学者であるヘンリー・フォーセットであった、と言われる。フォーセットは司教が本当に『種の起源』を読んだことがあったと思うのか尋ねられた時「いいえ、一度も読んだことが無いことを誓いましょう」と大きく返事をしたと言われる。ウィルバーフォースは彼に顔をしかめて非難しかえそうとしたが、相手が盲目の経済学者であると気づいたとたん思いとどまり口を閉ざした。 (See p. 126 of Janet Browne (2003) Charles Darwin: The Power of Place.)とりわけ、三人の主要な参加者全員が論争に勝利したと思った。「土曜日、ヘンズロー教授に…名前で呼ばれダーウィンの理論についての項を演説するよう言われた。そのため私は逃げられず、ハクスリーとのとても長い戦いをした。完全に彼を打ち負かしたと思っている。」とウィルバーフォースは書いた。 しかし「自分がその後全24時間、オックスフォードで最も人気のあった男だ」とハクスリーは書いている。また「私はオックスフォードできわめて黒い上着を着ている人々ときわめて白い靴下を履いた人々に祝いの言葉を言われ礼を述べられている。」とフッカーは書いている。

    ちなみにウィルバーフォースとダーウィンは議論の後も良い関係を保った。
    *そういえば「魔法少女まどか☆マギカ(2011年)」のクライマックスで「(QBに選ばれ、捨て駒にされてきた)魔法少女の存在が人類を進化させてきた」なる衝撃の事実が明かされた時、国際的に「ならば最初の魔法少女はきっとヒトザルだったのだ!!」なる「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey、1968年)」ネタが飛び交った。こうした思考様式のの大源流もまた、この時代までしか遡れないという事である。ちなみに残念ながら絵画化される事はなかった…

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    *ナチズムはその優生学を英国から学び、米国から輸入したタビュレーティングマシン(Tabulating machine)の導入によって実践したといわれている。欧州大陸諸国において英米はある意味「事象の地平線としての絶対他者」性の総本山?

     

 現代社会を支配する科学主義(Scientism)すなわち「それまで有望視され、便利使いされてきたアルゴリズムに致命的欠陥が発見されるリスク」や「それまで視野外に置いてきたファクターが致命的破滅をもたらすリスク」を本質的に内包する「全てが(アルゴリズムによる計算を可能とする形で)数値化されていく世界観」は、まさしくこうした「混沌の坩堝」あるいは「魔女の大釜の解放」から始まったのです。

こうした流れを直感的に把握しやすくする為に「縁起の世界(華厳経学における「海印三昧」の概念)」と「事象の地平線としての絶対他者(法華経学における「久遠常在」の概念)」が直行する次元空間を想定する様になりました。フェニックス・ガタリいう所の「(決っして機械論的(Mechanique)な因果関係や決定論に左右されない)マシニック(Machinique、機械状)」の世界。コンピュータ用語に言い直すと、そのまま「オブジェクト指向並列処理言語によって記述された結果、接続デバイスとの通信や相互関係が完全カプセル化された)メモリ上を満たすインスタンス・オブジェクトの集合体」に該当。そしてこの世界観においては「二点感を結ぶ最短距離がどれだけ直線からかけ離れているか」についての地道で計画的な計測結果の積み重ねを通じてのみ「事象の地平線としての絶対他者(コンピュータ用語に言い直すと「メモリ上を満たすインスタンス・オブジェクト間の相互関係のさらに裏側に暗躍する接続デバイスや操作者の影響」)」の挙動に到達可能と考えます。

*そしてとんかつの本質は「脂身」?

  • 近世以前の人類は「(伝統的正統性や国王や教会の権威に依存する)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義権威主義」を「事象の地平線としての絶対他者」として受容する普遍史観の世界に安住してきた。
    *日本伝統の土地所有形態たる「(土地の所有権や徴税権や土地利用権が多重に設定された)職の体系」同様、当時の欧州の権威/権力構造においては「事象の地平線としての絶対他者」が無数に存在し、しかも(自然法史観に基づいて)互いの衝突がそれぞれの存続に致命的結果を及ぼさない様に慎重に運用されていた。こうした伝統はおそらく古代社会における(突出した権力が中央集権的に全体を統合する構造を好まない)部族連合状態にまで遡り、イロコイ連邦の運営を見ても明らかな様にむしろこちらの方が議会制民主主義の理念に近い。

  • しかしやがて「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマと表裏一体の関係にある個人主義(英: individualism、仏: individualisme)や絶対主義(Absolutism)や法実証主義(英legal positivism, 独 Rechtspositivismus)が台頭し「突出した中核概念が中央集権的に全体を統合する」近代人(当初は主に国王や教皇)や近代国家への移行が始まる。そして歴史のこの次元において「事象の地平線としての絶対他者」は近代人(ロマン主義的英雄)や近代国家と同一視されるに至る。
    *この流れは国家学的には「鉄砲や火砲を装備した歩兵隊の保有規模」が戦争の結果を左右する様になり、これを養う為の「恒常的中央集権的徴税システム」の存在が不可欠となっていき、遂にはフランス革命1787年〜1799年)を契機に国民皆兵制が究極の形態として登場する流れとして認識される。日本においてもそれは(「職の体系」を実力によって解消する)一円領主、すなわち戦国大名による「公家領」や「寺社領」の横領なる形で進行し「太閤検地(1582年〜1598年)」において一応の完結を見ている。そして江戸幕藩体制もこのシステムを慶長9年(1604年)における単位を国から郷に改めた上での御前帳と国絵図の徴収(慶長御前帳)という形で継承。

    *英国においてこうしたプロセスは(「薔薇戦争(1455年〜1485年)」の結果、大貴族連合が崩壊して「絶対王政チューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王国としては1485年〜1603年、アイルランド王国としては1541年〜1603年)が始まったという歴史的経緯にも関わらず)「部族連合状態」の伝統を色濃く残す貴族主義(ジェントルマン資本主義)が次第に責任内閣制や政党政治の体裁を整えて立憲君主国の概念に統合されるに至った。英国議会では、この過程において政治的覇権が「(17世紀から砂糖産業を支えてきた)カリブ海不在地主」から「(機械式工場制に立脚する木綿産業などに立脚する)マンチェスターの新興産業階層」へと推移。

    *そして19世紀後半に入ると国家経営と統計学の結びつきが始まる。「フランス語よりドイツ語の方が得意で英国贔屓だった」フランス皇帝ナポレオン三世も、こうした大英帝国のトレンドを積極的に受容した。

    *一方、フランス革命1787年〜1799年)とそれに続く王政復古時代(1814年〜1848年)を経たフランスのそれは「(王侯貴族や聖職者ではなく)実際に経済活動に従事する産業者こそが政治の主体となるべきである」としたサン=シモン主義と「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世がその路線を忠実に実践した第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)時代を経て(こうした時代を通じて育成された)新興産業階層が皇帝ナポレオン三世失脚後に寡占支配を成立させた第三共和制(Troisième République、1870年〜1940年)に到達。ちなみに「社会学の祖」デュルケーム(Émile Durkheim、1858年〜1917年)はまさに「産業革命進行に伴う既存の伝統的地域共同体の崩壊」を目の当たりとし、そうした国家存亡の危機に対応すべく、有名な「集団主義的方法論」を創始したと考えらている。

  • そして19世紀末までに産業革命の進行によって消費の主体が王侯貴族や聖職者といったインテリ層からブルジョワ階層や庶民階層に推移すると、彼らは同時に「事象の地平線としての絶対他者の存在」としての側面も備える様になる。

    *まさに「大衆」が「独裁者」のライバルに昇格した瞬間であった。そして「猫の首に鈴を付けられる者」としてのポピュリストがインテリ=ブルジョワ階層の支持を集める様になる。ヒトラーはそうした過程を経て選ばれたとも。

1858年前後に至るまでの世界史はざっとこんな感じ。ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などは(第一次世界大戦勃発の遠因となり、かつ敗戦によって解体を余儀なくされたハプスブルグ帝国やオスマン帝国同様に)完全に周回遅れ。そして同時進行で「自民族が受けた被害に過敏となった分だけ、他民族に自らが与えた被害に鈍感となる民族主義ナショナリズムといった「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを体現する概念が次々と表面化してきたのでした。
*そもそもナチス自体「世界中に分布し、各現地でマイノリティとして迫害を受けているドイツ移民を救出する」なる理念をスローガンとして掲げていた。ヒトラー当人からしてドイツ系移民が冷遇された「オーストリアハンガリー二重帝国」出身で、ナチス高級幹部も大半が似た様な経歴の持ち主。彼らの登場が熱狂的歓迎を受けた背景には「ベルサイユ条約締結時における過大なまでの損害賠償請求(1918年)」や「ルール占領(1928年)」などに典型的な形で見受けられた「戦勝国」フランスの傍若無人な振る舞いがあった。ナチス台頭期には熱狂的にこうした思考様式を歓迎しながら、敗戦後は容赦無く「全てヒトラーナチスが絶対悪だったせい」と切り捨てたドイツ国民もドイツ国民だが、これにかこつけて「我々が国際正義を実践すればするほど、日本民族の間に復讐の機会を狙う機運が高まる。ユダヤ人や黒人や東南アジア人同様に劣等民族特有の反応であり、国際正義と人類平等の精神を実現する為に一刻も早く一人残らず滅ぼして全財産を応酬してしまうべきである」なる主張が日増しに高まる最近の傾向もどうかと思う。日本の一部インテリ層は「彼らの主張にも一理ある」と理解を示し、共に歩む事を勧めてくるが、そもそもこうした急進派は一般の中国人や韓国人の意見を代表している訳ではないし(むしろ「対日ホロコースト」の実践課程でマジョリティたる彼らを完全隷属下に置くシナリオを練っている)、「主体性の維持こそ存続の最低条件」と考える彼らは(実際に北朝鮮ポルポト政権下で実践された様に)実際に勝利したらまずこうしたインテリ層から族滅する。「名誉民族主義者」として自分達だけが生き残る道さえ閉ざされた売国奴の悲劇…

それでは改めて「ナチスドイツ台頭期のドイツ」に注目してみましょう。

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ヒトラーナチスこそ絶対悪」なる固定思想に陥ってしまうと、ナチス台頭期特有の危うさの大源流が既に「ソビエト連邦成立にインスパイアされて)神聖ローマ帝国時代の分権政体」を理想視したスパルタカス団や「(ソレル「暴力論(1908年)」を契機に無政府組合主義(Anarcho-syndicalism、アナルコ・サンディカリスム)へとリニューアルされた)職人ギルドによる全人格的経済活動統制」の復活を夢見た革命的オップロイテらが起こしたドイツ革命(Novemberrevolution、1918年〜1919年)をドイツ社会民主党SPD)メンバーの国防大臣グスタフ・ノスケがフライコール(Freikorps、ドイツ義勇軍)を招聘して徹底鎮圧した状況に孕まれていた事実が見逃されてしまい勝ちなので気をつけないといけません。

ドイツ革命が勃発した1918年11月、政権を取り仕切ることになったドイツ社会民主党SPD)。臨時政府宰相として党首フリードリヒ=エーベルト(1871-1925。党首任1913-19)が就任し、ドイツ共和国樹立宣言(1918.11.10。ドイツ共和政)を行い、翌11日には休戦協定(ドイツ休戦条約)がパリ北東のコンピエーニュの森で調印され、第一次世界大戦(1914-18)は終わった。

共和政が開始された11月10日、ドイツ社会民主党は、独立社会民主党(USPD)に協力を求めたことで、かつての社会民主党内の左右両派が集う連立政権が樹立された。しかし、急進的極左派で独立社会民主党に所属するスパルタクス団は、この政権の在り方を拒絶し、革命後全国各地に自主成立した、兵士や労働者からなる評議会・レーテを支持基盤・活動拠点に据えようとした。しかし、革命で政権を握ったのはあくまでも社会民主党であり、レーテも革命政権はドイツ社会民主党であるとしてこれを支持したため、社会主義革命政権を目論むスパルタクス団は重要な支持基盤を失い、革命の機会を逸した。またエーベルトは復員兵士を中心に結成した志願兵組織(フライコーア。ドイツ義勇軍)を使って共産主義者の武力活動の鎮圧を行った。このフライコーア結成によってエーベルト率いるドイツ社会民主党の向かう先、つまり社会主義革命を目標に行われる武力活動をつぶすことが明確に打ち出されることになった。

こうした状況から1918年12月29日、連立政権内では左右両派の対立は当然のことながら避けられず、独立社会民主党は政権を離脱を表明した。さらに独立社会民主党はその後左右両派(つまり政府寄りか反政府寄りか)に分裂して、やがて衰退の方向へ向かった、同党に属していたエドゥアルト=ベルンシュタイン(1850-1932)、カール=カウツキー(1854-1938)らはその後社会民主党に戻った。

そして、スパルタクス団を率いるカール=リープクネヒト(1871-1919)、ローザ=ルクセンブルク(l1871-1919)、フランツ=メーリング(1846-1919)、クララ=ツェトキン(1857-1933)は12月30日、ベルリンで大会が開催され、独立社会民主党からの離脱を表明すると同時に、新党「ドイツ共産党(KPD)」の結党を発表した(党成立は1919.1.1。結党当初の名は"ドイツ共産党スパルタクス団")。

共和政となった議会は帝国議会から憲法制定議会(人民代理委員会)へと変わったが、スパルタクス団のローザ=ルクセンブルクは、現状の共産党に支持母体が弱いこともあり、国民議会選挙(国会選挙)が重要である主張していた(ローザは民主主義と革命双方の実現を目指していた。いわゆるルクセンブルギズムといわれるものである)。しかし共産党全体の見方としては暴力を用いてでも"革命"を重視することであり、国会選挙の不必要性を打ち出した。結局国会選挙の棄権が党内で可決され、武力クーデタで政権を倒し、労働者のための社会主義政権をおこすことが目標として定められた。

独立社会民主党連立政権を離れたが、これを拒否した独立社会民主党員がいた。ベルリンで警察を取り仕切っていたエミル=アイヒホルン(1863-1925)という人物である。政権内における極左派の人物で、自身が編成した軍隊も抱えており、極左派、とりわけ極左勢力の労働者や社会主義者にとっては大きな拠り所であった。しかしエーベルトの右派政権を取り仕切る社会民主党にとって、極左派で革命的なアイヒホルンは要注意人物であったため、独立社会民主党離脱にともない、アイヒホルンは社会民主党から解任通告を受けた(1919.1.4)。これによって極左勢力は翌5日から首都ベルリンを中心に、20万人規模に及ぶデモを行った(1919.1.5。1919年の蜂起)。

独立社会民主党やドイツ共産党はこのデモを支持し、社会民主党政権の批判を行った。また新聞局が占拠されたり、社会民主党支持者が襲われる等武力による過激さが増大化した。アイヒホルンも解任は不当として警察庁に居座った。ドイツ共産党スパルタクス団のカール=リープクネヒトは左派政権樹立の革命にむけて同1919年1月8日に独立社会民主党とともに革命委員会(Revolution Committee)を設立して、全国のレーテにゼネストを呼び掛けてエーベルト政権を脅かした。

革命委員会が呼び掛けたゼネストは約50万人規模で行われたが、肝心の独立社会民主党とドイツ共産党スパルタクス団との間では、当然のことながら左右両派の対立が依然としてあったことで、意見がまとまらずにいたため、レーテを構成する兵士や労働者たちは業を煮やしてデモから撤退したり、エーベルト政権支持に戻るなどして、独立社会民主党とドイツ共産党スパルタクス団との関係は破綻、革命委員会は崩壊した。しかしあくまでもエーベルト政権の転覆を目的としたドイツ共産党スパルタクス団は依然としてデモ・ゼネスト・武力闘争を強行する極左勢力を支持した。

今回の事件で、ドイツ共産党スパルタクス団の暴力革命による社会主義政権樹立という恐怖を、エーベルト政権は完全払拭しなければならなかった。政情安定と社会民主党の威信回復のため、エーベルト政権は極左勢力を壊滅することを決め、政敵をドイツ共産党スパルタクス団に集中し、1919年の蜂起の名称を"スパルタクス蜂起"と呼んでフライコーアの召集を行い、1月8日、エーベルトは革命派の徹底鎮圧を命令した。

1月8日に始まったスパルタクス蜂起の鎮圧は1週間ほど続いた。デモやゼネストは武力で鎮圧され、占拠地は次々と開放されていった。多くの抵抗する共産党員や労働者が降伏・逮捕されるか、無抵抗・無惨に殺されていき、各地のレーテも衰退していった。それだけでなく蜂起に参加していない市民も巻き添えに遭い、多くの命が失われた。そして15日、蜂起を主導したスパルタクス団のカール=リープクネヒトと、もともとは蜂起に反対していたローザ=ルクセンブルクが、ベルリンでフライコーアによって逮捕された。

1月15日、カールとローザは、ベルリンのエデンホテルに連行され、そこで何時間にもわたって激しい拷問・尋問を受けた。そしてカール=リープクネヒトは後頭部を撃ち抜かれて処刑され、身元不明者の遺体と共に死体安置場に放置され、ローザ=ルクセンブルクはライフルのストック(床尾。銃床をいう)で撲殺され、付近の運河に投げ込まれた。これによってドイツ共産党スパルタクス団は"ドイツ共産党"の呼称が使用され、スパルタクス団としての活動は停止した。ドイツ共産党としても政府からは危険分子として武力活動を抑えられ、路線修正を余儀なくされた。フランツ=メーリングは2人の虐殺から2週間後、失意の内に没した。

修正主義的な国家社会主義から主権を奪取して、労働者運動を1840 年代や1850 年代に世界を震撼させた、プルードンバクーニンの革命的アナルコサンディカリズムというルーツに引き戻そうとするフランスの「サンディカリスト」運動の頭脳となった、ときに理解しづらい人物。

自称マルクス主義者ながら、ソレルは「安楽椅子社会主義者」を大いに疑問視しており、特に「進歩」が不可避だとかつぶやく連中には我慢ならなかった。ソレルはむしろ、大規模ゼネストや労働者行動を主張した——それが労働者に対し、雇い主からちょっとした譲歩を引き出せるからではなく、資本主義の産業機械を継続的にじゃまして、いずれ生産手段を労働者が支配できるようにするためだ。最も有名な著作(1908)でソレルは、社会経済的な行動の暴力的で非合理な動機を強調した(多くの点でパレートとも共通する)。群集を統一的な行動に駆り立てるため、意図的につくった「神話」が必要だというソレルの指摘は、1920 年代以降のファシスト共産主義者に活用された。

ジョルジュ・ソレル自身は、中産階級出身のエンジニアで、執筆を開始したとき(1892)には引退していた。そして20 世紀初期にサンディカリストたちが実施した、実際のサボタージュ、ボイコット、ストからは距離をおくようにしていた。 

 こうした状況下、カール・シュミットカール・マンハイム保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」は進歩主義者を「淡々と政治面や経済面といった(数値化した領域で扱える)平等の実現のみを追求するニヒリスト」と規定する一方、その定義に飽き足らずより全人格的な回答を求める動きを保守主義と規定しました。「貴族の生涯価値と庶民の生涯価値を平等と言い切ってしまったら、むしろその方が人種差別」なる逆説的表現の大源流とも。
マンハイムのこうした主張は当時の保守党台頭を応援する内容だったとされてます。一方、カール・シュミット「政治神学(Politische Theologie、1922年)」は、さらに時代を遡り、フランス軍のルール進駐(1923年)やこれが引き起こしたドイツ・ハイパーインフレに向かう道を食い止めきれなかったドイツ社会民主党SPD)に対する恨み節と
見るべきなのかもしれません。彼が1930年代に入ってからの大統領内閣制(事実上の独裁政治)への移行を熱狂的に喜んだのは有名な話。

カール・シュミット「政治神学」

「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」。これは、カール・シュミットの著作「政治神学」の冒頭の文章だ(田中浩、原田武雄訳)。この文章でシュミットは、政治の本質を簡略に表現している。シュミットはこのように簡潔で断定的な文章を通じて自分の思想を表現しようとする傾向が強い。まず断定することが大事なので、その意味するところは追々説明してゆけばよい、というスタンスである。

この文章の主語である「主権者」という言葉は、権力の主体について語っている。政治の本質は権力にある、というのが近代政治学の大前提とすれば、主権者とは権力の主体ということになる。シュミットが何故権力ではなくて、その主体である主権者から議論を始めるのか、それは追々明らかにされてゆく。とにかく問題なのは主権者なのだ。そしてその主権者とは、「例外状況にかんして決定をくだす者」と定義される。

カール・シュミットがいうように、主権は神のメタファーであり、政治は神学である。したがって「国民主権」などというものは存在しえず、主権は絶対的な存在でなければならない。それは本書の冒頭の有名なことばのように「主権者とは例外状態について決定をくだす者」だからである。

例外状態とは、現代風にいえばテールリスクであり、定義によってあらかじめ規定できない事態である。ケルゼンに代表される実定法主義は、このような意味での主権を排除するが、テールリスクはつねに顕在化する。これをどう処理するかで、政治的立場がわかれる。

共和制の無神論を突き詰めれば、すべての国家権力を否定する無政府主義に行き着く。ここでは「民衆はつねに正しく、当局は腐敗する」と想定されているが、現実の民衆はそれほど賢明ではないので、非決定性による混乱が生じる。その結果、バクーニンは暴力によって政府を転覆する独裁的な手法をとらざるをえなかった。

この逆に、カトリシズムは「当局はそれが存続しさえすれば善である」という政治的ロマン主義をとる。政治的決定においては、何かを決めることは何も決めないことにまさるので、国家が一方的に決定する家父長主義は効率的だが、これをチェックする制度がないと独裁に行き着く。

ここではキリスト教無神論の闘いが、政治的なイデオロギー闘争の形で行なわれている。ワイマール体制を支配していたのが政治的無神論だとすると、その「決められない政治」を打破すると称してあらわれたナチスは政治的ロマン主義だった。そしてシュミットの支持したヒトラーも、彼が予言したように独裁になった。

しかしこの問題は、ヒトラーとともに葬られたわけではない。無神論にもとづく共和制は、無政府主義と家父長主義に分岐する危険をつねにはらんでいるのだ。「お上の決めることはつねに正しい」という自民党の家父長主義に対して、野党はいつまでたっても対立軸を形成できない。彼らはバクーニンのように「みんなの意見は正しい」と信じているからだ。

そう、当時は宗教も政治もこの次元においては、あくまで「事象の地平線としての絶対他者(アルゴリズム上の誤謬や重要ファクター見落としによる破滅のリスク)」を信者や国民の目からカプセル化してくれる筈の存在として期待されていたのですね。そして、こうした姿勢こそがまさに「人間中心主義(英雄主義)」と結びつき、独立を勝ち取った元植民地の多くに独裁政権を誕生させる展開を迎えたとも。

  • この問題は間違いなく「どうして多くの国で外国人が国王として選ばれてきたのか(そしてナポレオンはコルシカ人、ヒトラーはオーストラリア人)」とか「増長したマイノリティがマジョリティ側に「貴様らは良心など存在しない劣等種。我々だけが貴様らの良心」と言い渡し、その自発的自滅を要求する様になっていくプロセス」とも密接な関係がある。
    *以下は「韓国人の特徴」とされているが、実際は「科挙官僚の特徴」であり、中国人にも似た側面なら残存する。それでは歴史上科挙制度導入を拒んできた日本人には全く無縁かというと、パワハラの一形態としてはちゃんと存在してたりする。
    *ただし考えてみれば一部の在日や韓国人が「日本人は良心など存在しない野蛮種。我々だけが唯一の良心」と当然の様に主張していた時期と「日本人は(ユダヤ人や黒人や東南アジア人と同様に)人類平等の理念実現の為に一刻も早く滅ぼすべき劣等種」と言い出した時期は思うより重ならない。おそらく日韓関係の変化と密接な関係があるのだろう。特に後者に「ユダヤ人」が加わったのは、あくまでアメリカが「平然とイランに先制攻撃を仕掛けたイスラエルの様に振る舞う事」を北朝鮮や従北派が病的に恐れる様になって以降であり、この段階においてはもはや「ユダヤ人に対するホロコーストこそナチスが絶対悪たる証拠」なる理念自体が崩壊している。それまではあくまで「日本人と黒人や東南アジア人」のみで、日本人の劣等性は東南アジア系遺伝子の混入によるものとされてきたのである(まぁ実際日本人の遺伝子プールには韓国人より東南アジア系の遺伝子が色濃く混ざっている)。一見して矛盾している様にしか見えないが、これは男性が女性に「娘」と「妻」と「母」の立場を同時に求める心理などとも重なってくる。

  • 考えてみればBDSM界隈における「マゾヒスト側がサディスト側に全てを委ねる行為」も「事象の地平線としての絶対他者性」と深い関わりがある様である。「超えてはいけない一線を超えたら関係が終わる」緊張感は、例えばエイドリアン・ライン監督映画「ナインハーフ(NINE 1/2 WEEKS、1986年)」などでも巧みに描写されていた。ただしこの意味合いにおける「事象の地平線としての絶対他者性」は、安全な部分からどんどん体制内に取り込まれてしまうので維持が難しい側面も。

    *そう「事象の地平線としての絶対他者性」に直面した人間は、何とかそれを「安全化」しようと試みるが、完全にそれに成功した段階では既に「事象の地平線としての絶対他者性」は枠外に去った後なのである。

    時代によってPC(Political Correctness、政治的正しさ)が何かは移ろいでいく。しかし「事象の地平線としての絶対他者」は、社会変革の触媒とはなり得ても、その全てが完全に社会の一部として取り込まれる事はない。

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    • 体制側は、既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪認定して勧善懲悪のバランスを保とうとする。
      *例えばハリウッド映画界において長く倫理規程として君臨してきたHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)も映画は「幸福で健全な結婚」を推奨する内容でなければならないと定め、同性愛や異人種間の結婚をギャングやその情婦同様に「異常で間違った存在として描き、必ず破滅に終わらさねばならない」と定めている。ただしこれを策定したのが主にユダヤ人とアイルランドカソリックのグループだった事から、当初よりプロテスタント系映画人などの間に「絶対に守るもんか。必ず抜け穴を探し続けてやる」と誓われてしまった側面も存在した。

      *その影響で(江戸川乱歩の影響で)同性愛者をしばしば作中に登場させた」横溝正史も、そうした人々を「他にも病的西壁を沢山備えた先天性悪人」として描き、物語中において確実に破滅させ続けていく。さらに「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」やナボコフ「ロリータ(Lolita、1955年)」の影響を受けて以降は「美少女シリアルキラー」が常連に加わった。また黒澤明監督も「言われるまでもなくヤクザは絶対に美化して描かないし、幸福な結末も迎えさせない」と誓って映画製作に邁進した一人として知られる。

      (マレーシアでは)映画に同性愛者のキャラクターが出てきてもよいが、それは同性愛者がネガティブに描写されていたり、悔い改めたりする場合だけだ。

      Gay characters can be shown in films, but only if they are portrayed negatively or repent. 

    • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。かくして(商業至上主義的目論見もあって)表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となっていくのである。

      *こうした時代には「(商業至上主義的目論見もあって)完全に黙殺されるよりネタとしていじられた方が遥かに人道的で健全」なる過渡期的価値観が現れる。「 とんねるずのみなさんのおかげです(1989年〜1994年)」における「保毛尾田保毛男」の登場は、まさにそうした時代の落とし子だったとも。

      *そういえば同時期のハリウッド映画界にも「バッドマンの乳首」事件があった。これは「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲(BATMAN & ROBIN、1997年)」の監督ジョエル・シュマッカー(同性愛者)が、作中に「バットマン・コスチュームの乳首」を含め同性愛的暗喩を大量に持ち込んだのを当時の評論家が一斉に叩いた事件。
      ジョージ・クルーニー、酷評作「バットマン & ロビン」を笑い飛ばす | 海外ドラマ&セレブニュース TVグルーヴ

    • だが決して「(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された境界線においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるからである。
      *同性愛者の間でエイズの被害が広がったのは「婚姻なる特定のパートナーを公的に認める公的規範外に置かれているせいで、不特定多数と関係する傾向が異性愛者より多く見られた」せいでもあった。そして「同性婚合法化」には、彼らをこういう不安定な状態から救済するという意味合いと同時に「(異性愛者が既にその現実を受容している様に)同性愛者の乱交派を改めて社会規範外に追いやる」効果も備えていたのである。

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    古くは生涯革命家を続けたオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)がこのサイクルについて触れている。「革命家は勝利の栄光と無縁である。何故なら既存体制の転覆は概ね、反体制派を狩る新たな敵の登場しか意味しないからである」。

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こうして全体像を俯瞰してみると、おそらく時代は「人道主義=淡々と政治面や経済面といった(数値化した領域で扱える)平等の実現のみを追求するニヒリスト」なる定義だけが残る方向に向けて収束しつつある様なんです?
「大きな物語」の終焉 | 現代美術用語辞典ver.2.0

大きな物語」とは、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-98)が『ポストモダンの条件』(1979)において提唱した言葉であり、科学がみずからの依拠する規則を正当化する際に用いる「物語、語り口narrative」のことを意味する。上記のような含意から、同書のなかでは、同じ意味として「メタ(=上位)物語métarécit」という表現が使われることもある。

リオタールによれば、従来人々は科学の正当性を担保するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。ここでいう「哲学」とは、真偽や善悪を問う際の「基礎づけ」を担う知の領域を指し示している。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。つまりポストモダンとは、この基礎づけとしての「哲学」が有効性を失った、言い換えれば「大きな物語」が終焉した時代だというのである。1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。

東は『動ポモ』で、日本社会では九〇年代に近代が終わり、ポストモダンという新しい段階が到来したと主張しています。東によれば、近代とは、社会が「大きな物語」によってまとめられていた時代のことです。この「大きな物語」について、東は次のように述べています。

  • 一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらシステムの総称である。(『動ポモ』、p44) 

また別の箇所では、東は「大きな物語」が「政治的なイデオロギー(『動ポモ』、p55)」であるとも述べています。
*確かに日本文化には1990年代において「大きな物語=政治的イデオロギー」からの解放を経験し「焼け跡からの再出発」を余儀なくされた側面が存在する。

しかし東によれば、第一次大戦以降、「大きな物語」はしだいに弱体化していきました。そしてポストモダン期になると、大量の情報の集積からなる「データベース」というものが、「大きな物語」のかわりに社会を支えることになります。

東は『動ポモ』で、この変化が社会のさまざまな領域に影響を及ぼすと主張しました。とくに、同書で彼が注目しているのは、人々がフィクションを消費するスタイルです。彼によれば、ポストモダンの人々は、従来とはちがうやり方でフィクションを楽しむようになります。こうした新しいフィクション消費のスタイルを、東は「データベース消費」と呼びました。そして、アニメやゲームの消費者(いわゆるオタク)は、なかでも「データベース消費」に特化した人々であると考えているようです。

 さて私達は一体どんな未来に向けて漂流しているのでしょうか?