諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

事象の地平線としての絶対他者② アウトサイダーとしての「馬鹿」と「阿呆」 

これまで断片的に触れてきた内容について、以下の投稿で初めて統合を試みました。

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(経済グローバル化の最初期に勃発した)1857年恐慌を契機に、以下がまとめて発表された1859年頃より「全てが数値化されていく世界」の顕現がが加速。紆余曲折を経て現在に至る。

  • 我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」としたカール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie)」。
    *ただし「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創造したのだ」とするフォイエルバッハの人間解放神学に由来するこうした不遜な唯物論/無政府主義は科学的マルクス主義イデオロギーとして報ずる共産主義圏はおろか(ジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」経由でその精神を継承した)ファシズムやナチズムの世界においても政権奪取後は(なまじそのアプローチの恐ろしさを知ってるが故に)弾圧対象となっている。この意味合いにおけるマルクス主義の最新の継承者はアントニオ・ネグリとも。
    1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊
  • 文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」としたジョン・スチュアート・ミル「自由論(On Liberty、1859年)」。
    *まさしく「公共の自由は誰が何時、どんな理由があれば制限可能か」に悩まされるリベラリズム的ジレンマの大源流となる。さらなる大源流たる「(ミル同様に数学者でもあった)コンドルセ侯爵の啓蒙主義」にはまだこうした複雑さは備わっていなかったし、「オーギュスト・コントの実証哲学」は科学者独裁主義を掲げながら「科学者の叡智は数学的アルゴリズムを超越する」なる神秘主義/顕密思想から一歩も脱却出来なかった。

  • 進化は系統的に展開する」としたチャールズ・ダーウィン種の起源(On the Origin of Species、初版1859年)」。
    *ゴビノーやニーチェの信奉する貴族優位説を過去に追いやる一方、その「適者生存」論や「性淘汰」論はスペンサーの社会進化論(Social Darwinism)同様、主観的に積極的に「弱肉強食」論と誤読され、貧富格差を放置する資本主義的効率の追求や(最終的には「世界最終戦論」にまで行き着く)国家間競争が全てとなった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)を支えるイデオロギーとなった。(ホフスタッターによれば)米国流リベラリズムは、まさにこうした「怪物」の首に鎖をつける為に生まれてきたのだという。

確かに「どういう経緯で車が発明されたか知らなくても、それを乗り回す事は出来る」式の実用主義にも一理あるが、かかる「実用主義」思想自体も神学的論争から抜け出す為に発足当初は「この世界に神など存在しない」なるニヒリズムへの最後の砦として構想された「神は必ずや人間が自力で問題を解決する為の手段を我々の認識可能空間内に隠しておいて下さる」なる宗教的信念を必要とした事くらいは覚えておいて損はない。そして「我々に与えられた認識可能空間」は最近では以下の(理論上直交する)二つの次元によって表現される様になりつつある。
*「我々に与えられた認識可能空間」…カント哲学が「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」に対峙させた「物(独Ding、英Thing)の世界」。語感的に「(認識場の誤謬が生み出す)気のせい」もその範疇に含み、カント自身は未来に現れるべき哲学「Transzendentale Logik 」はこれらを排除した上でアプリオリ(a priori=「先験的」「先天的」)あるいは「超越的(Transzendental)」の世界、すなわち「数学や自然科学に匹敵する必然的で普遍的な思考様式に到達すべきであるとした(こう考えると必ずしも「個人の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る形でしか得られない」としたヘーゲル全体主義的哲学と排他的対立関係にある訳でもない)。しかしながら皮肉にも以下は、彼が「Transzendentale Logikが備えるべき神秘主義的深淵性に欠ける」として切り捨てた「形式論理学(Formale Logik)」の延長線上に現れたコンピューター言語に擬えた実装となっている。

  • オブジェクト指向並列処理言語によるコーディングに基づいてコンピューターのメモリ上を満たすインスタンス・オブジェクトの集合体…仏教思想の根幹たる「(全ての事象が全貌を俯瞰するのが不可能な形で裏側で繋がっていて分割不可能な)縁起の世界」、華厳経における「(世界を「無数の主観的表面で覆われた多面体」として観想する)海印三昧の世界」、フェニックス・ガタリにおける「(全てが因果論で説明可能な機械論(Mechanique)と異なり各モジュールの関係が曖昧なまま全てが進行する)機械状(Machinique)の世界」などに該当。
    *何故「オブジェクト指向並列処理言語によるコーディング」に限定しないといけないかというと「全てのClassが共通の原型を有する相似形を備えながら、カプセル化によって相互の内容に関する不可視性を保つ全体構造」や「コールバック制御による非同期性の達成」まで視野に入れないと、ここで挙げた様な諸概念との対比が不可能となるから。

  • コンピューター(CPUとその作業領域に割り当てられたメモリ空間)に接続された(HDDや時計や乱数発生装置なども含む)外部デバイスやマンマシンインターフェイス通信プロトコルを介して交信する他のコンピューター群…法華経における「(コンピューター側から見て時空間の認識を超越した果てに存在する)久遠常在の世界」やキェルケゴールの実存哲学における「(時空を超越した彼方に存在する)イエス・キリストそのもの」や重力物理学における「(決して「それそのもの」へは到達出来ない)事象の地平線」に該当。
    *カント哲学は皮肉を込めて「主観的誤謬としてのみ到達可能」としたが、まさにこれに到達への最後の望みを託すのが魔術的リアリズムの世界となる。

  • 両者の次元は理論上直感的に「直交する」と想定されているが、前者と後者の関係が幾重にもカプセル化されている為に真相を直接確かめる事が出来ない。それで「二点間を結ぶ最短距離が直線とならない場合、背後に時空間の歪みが存在すると仮定される」式の認識様式が理論構築に必要不可欠となる。

考えてみれば人類の思想史とは、ここでいう「事象の地平線としての絶対他者」に攻め込まれ、その一部分を取り込む事で当面の矛盾を解消するサイクルの繰り返しではなかったか?

時代によってPC(Political Correctness、政治的正しさ)が何かは移ろいでいく。しかし「事象の地平線としての絶対他者」は、社会変革の触媒とはなり得ても、その全てが完全に社会の一部として取り込まれる事はない。

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  • 既存価値観の矛盾が鬱積すると、それまであえて強制的に視野外に置かれてきた「事象の地平線としての絶対他者」が奇妙な説得性を持ち始める。

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  • こうして既存価値観を揺るがす新たな価値観が台頭すると、体制側まずそれを「最後には必ず自滅していく」絶対悪と認定する形で勧善懲悪のバランスを保とうとする。

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  • だが堤防崩壊は蟻の一穴から生じる。かくして(商業至上主義的目論見もあって)表舞台への台頭を許された「いかがわしい人々」 は次第に既存価値観を形骸化させ、新たな価値観の構築を促進する触媒となっていく。



     

  • だが決して「(表舞台への進出の足掛かりを得た)いかがわしい人々」が「それまでまっとうだと思われてきた人々」に完全勝利する日など訪れない。勝利するのは常に「新たに設定された基準においてまっとうとされた人々」であり、それは「新たに設定された境界線においてもいかがわしい人々が切り捨てられていくプロセス」でもあるからである。

  • 古くは生涯革命家を続けたオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)がこのサイクルについて触れている。「革命家は勝利の栄光と無縁である。何故なら既存体制の転覆は概ね、反体制派を狩る新たな敵の登場しか意味しないからである」。

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こうしたサイクルの最源流は欧州科学実証主義の始点、すなわちイタリア・ルネサンス晩期にパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した新アリストテレス主義、つまり「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」まで遡る事が出来る。

 要するにこれは「世間」とその逸脱者の関係でもある。

必ずしも成功したとはいえないコリン・ウィルソンアウトサイダーThe Outsider、1956年)」やミシェル・フーコー「狂気の歴史(フランス語: Histoire de la folie à l'âge classique 1961年)」「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」に対する自分なりのアプローチがこれ。前轍を踏まない様に心掛けたのは「事象の地平線としての絶対他者」をむやみやたらと神聖視せず、むしろ「時として絶対悪、時として人を笑わせ人から笑われる道化と目されるのを恐れないしたたかさ」に注目した辺り。そう「事象の地平線としての絶対他者」は時として一般人の目は「馬鹿」や「阿呆」としか映らないものなのです。

ところでこうした観点に立つと「馬鹿」や「阿呆」の語源論が実に興味深かったり。

YMO RAP PHENOMENA/ラップ現象 歌詞

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趙高(拼音: Zhào Gāo、?〜紀元前207年)-Wikipedia

秦の宦官、政治家。弟に趙成。

  • 一般には趙の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯し、これに連座して宮刑に処せられたという。ただしこれに疑問を持つ史家も多く疑わしい点が多い。

  • 実際には閻楽という女婿がいることから、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したかもしくは連座により宮刑に処せられたとする説もある。

  • また貧家に生まれ多くの兄を養うために自ら宦官を志願して秦に仕えたのだとする説もある。

始皇帝にいつから仕えたのか『史記』秦本紀に一切記されていない。いずれにせよ勤勉で法律に詳しいことから始皇帝の末子・胡亥のお守役を拝命されたの契機に晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなす様になる。

 始皇帝死後の独裁と「阿呆の語源

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。

  • この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名であり、それもあって胡亥は即位を躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が有名な「断じて行えば鬼神もこれを避く」だったのである。

  • 自ら郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任して胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を掌握。胡亥の傀儡ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。

  • その政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿呆の語源とも言われる阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。恐怖政治を敷いたことと合わせ、大いに人民から恨みを買うことになった。

また蒙恬、公子将閭や2人の弟たち、公子高など有力者や不平派を悉く冤罪で殺害。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇してしまう。

秦帝国の滅亡と「馬鹿の語源

天下に満ちた怨嗟は、陳勝呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。

  • 事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を胴斬りの刑で処刑させ、自分が後任の丞相となった。

  • その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。

  • その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが馬鹿の語源としてよく知られている。

  • こうして反対者を粛清した趙高は謀反して胡亥を弑した(望夷宮の変)。この時、劉邦軍と密かに内通を画策したが、劉邦からは全く相手にされていなかった。胡亥の後継として、人望の厚い子嬰を擁立し、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとするが、趙高を憎悪する子嬰と韓談らによって、屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

  • これにより秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡。

秦帝国を私物化し、保身のため忠臣賢臣を謀殺するに足らず皇帝をも殺し、天下万民からも恨みを買い帝国滅亡の原因となった趙高は、悪臣の象徴として後世でも引き合いに出されている。 なお、日本でも『平家物語』に漢の王莽、梁の朱异、唐の安禄山とともに趙高が引き合いに出され、天下を私した結果滅んだ例として紹介されている。

この俗説の最も興味深い点は、どうやら「馬鹿」や「阿呆」といった漢字用例の実際の起源がこうじゃない辺り。

馬鹿 - Wikipedia

その語源について決定的な説は存在しない。文献における初出は太平記にでの「馬鹿者」であり、「馬鹿」という用法はそれより後世である事から、当初は「馬鹿者」という熟語としてのみ使われたと思われ、それを前提とした説のほうが若干優勢であると言える。

  • サンスクリット梵語)説…サンスクリット語で「痴、愚か」を意味するmohaの音写である莫迦の読みからくるとする説。僧侶が使っていた隠語であって馬鹿という表記は後の当て字であるとする。江戸時代の国学者天野信景が提唱した説であり、広辞苑をはじめとした主要な国語辞典で採用されている(ただし馬鹿に当初は「愚か」という意味はなかったとする説と相性が悪い)。同じサンスクリット語のmahailaka(摩訶羅:無知)(新村出石黒修)、あるいはmaha(摩訶:おおきい、偉大な)を語源とする説もある。またバングラデシュ公用語であるベンガル語サンスクリットが祖語)も「バカ」という単語は日本語と同じく愚かな者を指す。

  • 史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説…ただし「馬鹿」のうち鹿の「か」は訓読みであり、中国風の音読みで馬鹿を「ばか」と読むことはできないなどの問題がある。

  • 若者説…「若者(wakamono)」のw音がb音に転じて「馬鹿者」となったとする説。民俗学者柳田國男は、広辞苑の編者・新村出が提唱したと書いているが、新村が文章として残していないため不明。新村は広辞苑サンスクリット説を採用しているが、積極的な採用ではなかったようである。その他、楳垣実など。

  • 破家説…禅宗の仏典などに出てくる破産するという意味の「破家」と「者」をくっつけて、「破産するほど愚かな者」というところから「馬鹿者」という言葉が生まれたとする説。東北大学佐藤喜代治によって提唱され、日本国語大辞典で採用されている。

  • 馬家説…中国にいた馬という姓の富裕な一族が、くだらぬことにかまけて散財し、その家が荒れ放題となったという白居易の白氏文集にある詩の一節から生まれたとする説。「馬家の者」から「馬鹿者」となったとする。『全国アホ・バカ分布考』で松本修が提唱した。

  • はかなし説…雅語形容詞である「はかなし」の語幹が変化したという説。金田一春彦はこの説によっており、これをとる国語辞典もある。

  • をこ説…古語で愚かなことを「をこ」といい、これがなまったとする説(アホもこれに由来するのではないかともいうが、いずれも証拠はない)(柳田國男『笑の本願』)。

  • ぽけ説…「ぼけ(おそらく、「ほうけ(る)」「ふうけ(る)」の転訛)」がなまったとする説(小山田与清『松屋筆記』、永田直行『菊池俗言考』)。

いずれにせよ、文献における出典は次のとおり。

  • 「かかるところに、いかなる推参の馬鹿者にてありけん」(太平記 - 巻第十六)
  • 「馬鹿 或作母嫁馬嫁破家共狼藉之義也」(文明本節用集)
  • 「馬鹿 指鹿曰馬之意」(運歩色葉集)
  • 「此家中には、何たる馬嫁も、むさと知行を取ぞと心得て」(甲陽軍鑑 - 品十三)
  • 「女朗まじりの大桶、みるから此身は馬鹿となって」(浮世草子好色一代男 - 五・三)

南北朝時代太平記での「馬鹿者(バカノモノ)」の使用が初出である。 初期の頃での「馬鹿者」は文明本節用集にあるとおり「狼藉をはたらく者」で、現在の「愚か」の意味を含む言葉ではなかった。「愚か」を指す言葉には他に古代から使われていた「烏呼者(ヲコノモノ)」があり、そちらが使用されていた。馬鹿が「愚か」の意を含むようになるのは江戸時代の好色一代男あたりからである。

阿呆 - Wikipedia

語源の一説として「秦代の大宮殿阿房宮の不必要・無駄に大きすぎるとするイメージからとする説」「劉備の子で蜀の2代皇帝劉禅の、『三国志』や『三国志演義』における暗君のイメージから、その幼名「阿斗」に由来するとする説」などもあるが、ともに信憑性は乏しい。

  • 文献における初出は13世紀に書かれた鴨長明の『発心集』の第8巻にある「臨終にさまざま罪ふかき相どもあらはれて彼のあはうのと云ひてぞ終わりける」とされる。しかし『全国アホ・バカ分布考』で著者の松本修は、方言の分布状況から阿呆がもっと新しい言葉だとみており『発心集』の記述を疑問視。これ以外の点からも『発心集』の第7巻、第8巻を後世の増補版と指摘する研究がある。

  • 『発心集』の次に文献に現れるのは3世紀後の戦国時代に書かれた『詩学大成抄』になる。現存する写本では「アハウ」という言葉の左側に傍線が引かれているが、これは元々この言葉が漢語だったことを意味するものだとされており中国語語源説を補強するものとなっている。

  • 江戸時代初期に書かれた大久保忠教の『三河物語』でも「阿呆」という言葉が以下のように使われている。「然ル処に、阿部之大蔵(定吉)、惣領之弥七郎ヲ喚て申ケルハ、(中略)、七逆五逆之咎ヲ請申事、「日本一の阿呆弥七郎メ」トハ此事なり。(中略)清康三拾之御年迄モ、御命ナガラヱサせ給ふナラバ、天下ハタヤスク納サせ給ンに、廿五ヲ越せラレ給ハで御遠行有社、無念ナレ、三河にて森山崩レト申ハ、此事なり。」
    *解説主君の松平清康を、家臣の阿部正豊(弥七郎)が斬り捨てた森山崩れのいきさつで、大久保は阿部を、日本一の阿呆と評している。松平清康は、30まで存命なら天下をたやすく取れたものをと嘆いている。

  • 中国の江南地方の方言「阿呆(アータイ)」が日明貿易で文字として直接京都に伝わった可能性が『全国アホ・バカ分布考』で指摘されている。上海や蘇州、杭州などで現在も使われている言葉で、「阿」は中国語の南方方言で親しみを示す接頭語であり、意味は「おバカさん」程度の軽い表現である。これは現在の日本語の(特に近畿地方における)「阿呆」にもあるニュアンスである。

なお、「呆」の漢字音は日本語の「ほう」に対し現代中国語では慣用により「dāi」とまったく異なる発音をする。

吃驚したのが「馬鹿や阿呆の語源」に最初から「断じて行えば鬼神もこれを避く」なる超越主義的/魔術的リアルズム的執着が絡んでくる辺り。

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まぁ確かに「技術馬鹿」とか「戦争馬鹿」みたいな表現もあります。そして、そういった人々の決死の「悲願の妄執」が時空間を歪める規模に達するまで「例外状態」とか「魔術的リアリズム的状況」など発生し得ないのです。
*「絶望を通じてしか到達し得ない希望」なんて表現も。

こんな恐るべき現実を直視し、号泣しながら強がって「望むところだ!!」とか「今日は死ぬには良い日だ」なんぞと叫んで自らを鼓舞しつつあえて死に向かおうとするのは一体誰? そして、そういった人々は後世に一体何をどんな形で爪痕を残していくの?


*ああ、まさにきっとこれなのである。クリストファー・ノーラン監督映画「ダンケルクDunkirk、2017年)」 においてスピットファイアーのパイロットが見せた英雄行為(及びその場面の登場を待ち望んだ観客心理)の正体は。

この孤高感こそ、まさにダンディズムあるいはサムライ精神の真髄やも。