諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

事象の地平線としての絶対他者⑥ 「食卓ナショナリズム」から「食卓リージョナリズム」へ

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これまでの投稿で述べてきた「食卓ナショナリズム」とは要するに「それまでの高級食材や高級料理が技術革新によって一般に急激に普及し、ある種の常食として広く定着する事、およびその結果それを誇る感情が生じる事」を指します。

フランス料理だって「宮廷料理として洗練されてきたプロセス」や「フランス革命後、巷に流出してレストランを開業した料理人達が安い食材を使って大衆の胃袋を満たす努力」や「その後の名シェフ達のブランド回復努力」といった多面的展開がセットになって初めて今日の形態となる訳で「最初は(エレキギターみたいに)エスニックな異国情緒が受けてブームとなったのに、気付くと伝統楽器の一つに加わっていた三味線」もこの類。要するにここにも「事象の地平線としての絶対他者の侵入とスノビズムを経ての取り込みのサイクル」のバリエーションが見て取れるという次第。


*2010年代に「じょしらく(漫画連載2009年〜2013年、アニメ2012年)」EDテーマにおける吉田兄弟のW三味線がロンドン辺りのDJの耳目を惹きつけたのを契機にベイビーメタルが結成されて海外進出に成功する流れも、おそらくこの理論で説明可能なのである。

 当然、日本における海苔食の歴史も例外ではあり得ません。ただしこちらだと「逆パターン要素」を含んでくるので話がややこしくなってきます。

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①日本では古くから高級食材として食べられてきましたが(だから贈答品として喜ばれたり、助六寿司が贅沢のシンボルと目されたり「(海苔が乗った)ザル蕎麦は目上用、そうでないモリ蕎麦は目下用」みたいな身分表現が登場)近代養殖技術によって大量生産が可能となり「恵方巻き」「軍艦巻き」みたいな「惜しみなく海苔を使った料理」も登場。

軍艦巻 - Wikipedia

酢飯を海苔で巻き、その上に寿司種を乗せた寿司。その姿が軍艦に似ていることから名づけられた。

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  • イクラ、ウニ、シラウオ、ネギトロ、とびこなど小さく、形の崩れやすい物、和え物を提供できることが特徴。全形の焼き海苔を横方向に均等に三等分した内の1枚を、ネタを乗せた握った寿司飯に巻き付けて作る。

  • 1941年(昭和16年)、東京銀座の寿司店「久兵衛」において、当時の主人今田寿治が客の注文を受けて考案、それまで、寿司ネタとしてなじみがなかったイクラやウニを、握らずに飯で固定する方法で完成させた。だが、当時の保守的な業界にあっては非難を浴び、NHKのラジオ番組では「ゲテモノみたい」と言われたという。

    銀座15番街 加盟店紹介

  • 古い江戸前を語る寿司屋ではイクラを扱わなかったり、ウニを握り寿司にして出したりする店もある。また、軍艦巻という鮨がせいぜい数十分しか形を保っていられないため、出前メニューに限って入れない店もある。

    その一方で回転寿司屋では多種多様なものを創作して軍艦巻きにする。例えば、ねぎマグロ、マグロユッケ、カツオユッケ、イカオクラ、トロたくあん(とろたく)、エビのマヨネーズ和え(えびマヨ)、タラ白子、カニ、かにみそとキュウリ、小柱、甘海老、サラダ、ツナサラダ、シーフードサラダ、エビサラダ、納豆、コーン、ハンバーグ、味付け卵などがある。

    回転寿司 - Wikipedia

    大阪の立ち喰い寿司店経営者・白石義明が、ビール製造のベルトコンベアをヒントに、多数の客の注文を低コストで効率的にさばくことを目的として「コンベヤ旋廻食事台」を考案し、1958年、大阪府布施市(現・東大阪市)の近鉄布施駅北口に最初の回転寿司店である「元禄寿司」(元禄産業)を開いた。「コンベヤ旋廻食事台」は、1962年12月6日に「コンベヤ附調理食台」として白石義明の名義で実用新案登録(登録第579776号)されている。

    西日本で店舗展開していた元禄寿司に対して、宮城県の企業(現在のジー・テイスト平禄寿司」)が東日本での元禄寿司の営業権契約を獲得し、一号店の誕生から10年後の1968年、仙台市元禄寿司フランチャイズ店が開店した。元禄産業によると、これが「東日本で初めての回転寿司店」だという。

    1970年に開催された日本万国博覧会元禄寿司が出展し表彰されると一気に知名度が高まり、従来の寿司店の高級化傾向に対し、廉価さ、手軽さ、会計の明朗さで大衆客のニーズをとらえた。1975年には、北関東の元禄寿司フランチャイズ事業者(元気寿司の前身企業)が郊外への出店を始め、これが郊外型店舗が増加するきっかけとなった。1970年代以降、元禄寿司フランチャイズは全国的に広まり最盛期には200店を超えた。

    さらに、1978年に「コンベヤ附調理食台」の権利が切れると、現在の大手となる企業など新規参入が相次ぎ競争が激化。また元禄寿司フランチャイズ展開していた企業も、自前の店名ブランドを掲げ独立していった。元禄産業は飲食店の名称として「まわる」「廻る」「回転」などを商標登録しており、後発の他店は「回転寿司」の名称を利用できない状況が続いていたが、1997年に元禄産業は飲食店における「回転」の使用を開放している。使用を開放する以前は「流れ寿司」「まわり寿司」など、商標に抵触しない方法で他店舗は営業を行っていた。

海外の寿司店、日本料理店ではキャビアを使うところもある。

②しかし実は寿司の国際展開において最も興味深い展開は「実は日本国外には海苔も生魚も苦手な人が案外多く、米国西海岸においてこうした人々向けに「穴子の胡瓜巻き」をベースとしてアボガドなども食材に投入してドラゴンロール(Dragon Roll)やキャタピラーロール(Caterpillar Roll)が開発され世界中に定番として定着した」事かもしれない。

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*あと「(海苔が口に直接当たらない)内巻き」とか「(薄切りにしたサーモンで巻く(Salmon roll)」とか「(ピンク色に染めた湯葉の様な大豆製食材で巻く)Pink Lady Roll」もメジャーで国際SNS上の関心空間では「こっちの方が好き」と宣言するアカウントの方が多いくらい。特に中東系の人が海苔が苦手っぽい。地中海系料理でも「ヒジキや海藻は食材を蒸したり器として使うだけで絶対食べない」ケースがままある。

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刺身や寿司など、生モノが大好きな日本人だが、意外なことにも日本では、近年まで寄生虫アニサキス)の問題から、サーモンを生食することはなかった。

今でも一部の高級寿司店で、サーモンを取り扱っていない店舗があるのはその名残と言える。サーモンが寿司ネタとして食べられるようになったのは、1980年代半ば以降のことである。ノルウェー、カナダといった海外から、養殖技術によって寄生虫の問題を解決した「アトランティックサーモン」の輸入が開始されてからだ。その後、バブル経済下「カリフォルニロール」等、逆輸入「日本食」の普及と共に、広く食されるようになっていった。

円高トレンドの中、脂ののりがよく、コストパフォーマンスの高い輸入サーモンは、回転寿司を中心にファンを徐々に増やし、現在ではその人気はマグロと肩を並べるまでに至っている。

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*日本でいうと「湯葉巻き寿司」だが、何故桃色が定番になったかは不明。

 まさにこうした「異化によるスノビズムの発生と同化による違和感の解消の繰り返し」こそが文化の元来の発展過程という事なのでしょう。

ちなみに「日本の海苔巻きと海外バリエーションの関係」は「西洋料理と日本の洋食の関係」と相似形にあります。こっちでは「いろいろやらかしちゃってる」のが日本側…

 1912年(明治45年)の「西洋料理福壽亭」の増築披露大売出しのビラ。

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  • ハヤシ(7銭)
  • カツレツ(7銭)
  • コロッケー(コロッケ、7銭)
  • ライスカレー(8銭)
  • ポークソテー(7銭)
  • ポークチャップ(ポークチョップ、7銭)

    「ポークチョップ」がなまった呼び名だそうです。

    豚の骨付きあばら肉をソテーした後、甘辛いデミソースで煮込んだアメリカ料理です。

    ちなみに「チョップ」は「叩き切る」と云う意味で、あばら肉を分ける時に、包丁で叩き付けるように切るところから来ています。

  • オムレツ(8銭)
  • オイスター・フライ(牡蠣フライ、8銭)
  • ポテトーフライ(ポテトフライ、8銭)
  • ハヤシライス(8銭)
  • メンチボール(8銭)
  • ロールキャベツ(8銭)
  • フライエックス(8銭)
  • ニクフライ(肉フライ、8銭)…詳細不明
  • メンチシチュー(9銭)…詳細不明
  • コールドポーク(9銭)…詳細不明
  • シチュー(9銭)
  • シチューライス(9銭)…実は当時まで遡れる歴史あるメニューだったという恐るべき事実…

  • ハイカラシチュー(9銭)…詳細不明
  • コールドビフ(コールドビーフ/冷製牛肉料理、10銭)…詳細不明
  • ハヤシエックス(10銭)…卵追加で高級感
  • カレーエックス(10銭)…卵追加で高級感
  • ハムエックス(ハムエッグ、10銭)…ハムが高い
  • ハムサラダ(10銭)…ハムが高い
  • ビフテキ(10銭)
  • ビフカツレツ(12銭)
  • ニクサラダ(12銭)…詳細不明
  • メンチエッグス(12銭)…卵追加で高級感
  • ジャマンビフ(ジャーマンビーフ、12銭)…詳細不明
  • ビフエックス(12銭)…卵追加で高級感
  • エビフライ(時々相場)…時価!!
  • チキン?(チキン鞍?、16銭)…詳細不明。時代的に見て「チキン南蛮」ではなさそうである。

    チキン南蛮 - Wikipedia

    鶏肉のから揚げを甘酢に絡めて、その上からタルタルソースを掛けた揚げ物料理。元来はムネ肉を使用するのが一般的だったが、現在は脂肪分が多くボリューム感もあるモモ肉を使う料理店も多い。

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    宮崎県では惣菜屋や飲食店で定番メニューとなっているほか、各家庭でタルタルソースを作るなど宮崎のご当地料理・家庭料理として広まっている。スーパーマーケットなど食料品小売店では、チキン南蛮用のタルタルソースや南蛮漬けのタレなどの家庭用商品が販売されている。

    首都圏や関西圏において宮崎料理を提供する飲食店のメニューや、コンビニエンスストア・持ち帰り弁当チェーン店で弁当のおかずとして取り入れられた結果、現在では日本中に広く浸透している。2007年には農林水産省による農山漁村の郷土料理百選の「御当地人気料理特選」にも選定された。

    この料理の発祥説は2説ある。「直ちゃん」をチキン南蛮の元祖とする説と、タルタルソースのチキン南蛮を考案した「おぐら」を元祖とする説である。

    • かつて宮崎県延岡市内にあった洋食店「ロンドン」で昭和30年代に出されていた賄い料理の一つに、衣を付けて揚げた鶏肉を甘酢にさっと浸した料理があった。この店で働いていた後藤直が、これを大衆食堂お食事の店「直ちゃん」にて売り出した。タルタルソースは使用しない。

    • 現在の主流となっている、タルタルソースを掛けたチキン南蛮を考案したのは、同じくロンドンで働いていた甲斐義光とされる。宮崎市の「おぐら」2号店としてオープンした「洋食屋ロンドン」にて1965年(昭和40年)に販売された。

    どちらの説も宮崎県延岡市が発祥とされている。これらは地元料理として親しまれ定着していった。延岡市では2009年(平成21年)7月8日に、「直ちゃん」と「おぐら」の関係者や大学関係者、料理研究家などによる「チキン南蛮発祥の地宣言シンポジウム」が開催された。

  • サントウィチ(サンドイッチ、16銭)…吃驚するほど高い。
  • コーヒー(3銭)…当時はこれも「洋食」の一部だった?
  • パンバタシャー付(バター添えパン?、11銭)…やはり吃驚するほど高い。
  • チョコレット(チョコレート、9銭)…当時はこれも「洋食」の一部だった?

  • 正宗(9銭)…どうやら今日でいう「ノンブランド清酒」らしい。

    丸世酒造店さんから教えてもらった、灘(神戸)にある「桜正宗」が「正宗」の名前を使って販売し始めた説をきっかけに、もう少し調べてみたところ、「正宗」の起源はダジャレだったという説が有力なようです。
     
    その由来は江戸時代まで遡ります。「桜正宗」の当時の当主・山邑太左衛門が、日本酒につける新しい銘柄のネーミングを考えている時に、かねてより親交のあった京都のお寺の住職を訪ね、机上の「臨済正宗」と書かれた経典をみて「コレだ!」と閃いたそうです。
     
    「正宗」の音読み「セイシュウ」と日本酒の別名・清酒「セイシュ」の読みが似ていて、縁起も良さそうだと名付けられたとか。元々は、「セイシュウ」と読ませたかったとこころ、当時の人々は「セイシュウ」と呼ばずに「マサムネ」と唱え、その名が広まっていったそうです。
     
    その後、「正宗」と名付けた銘柄の日本酒が人気を呼び、全国にまでその名を知らしめ、それにあやかった名前をつける蔵元が増えていったんだとか。

  • 澤のつる(沢の鶴、10銭)…「灘の酒」の一つ。

    沢の鶴 - Wikipedia

    兵庫県神戸市、灘五郷の一つ西郷に本社を置く日本の酒類製造業会社。1717年創業。当時は両替を主に扱う商人であり、大名の蔵屋敷に出入りし、藩米を取り扱う仕事を主に行った。当時の屋号は米屋。その別家の米屋喜兵衛が米屋の他、副業で酒を造り始めたことが始まりである。商標が※印なのはそのためである。1919年に株式会社化

  • 会稽正宗(11銭)…詳細は不明だが「会稽」が高級日本酒の呼称に選ばれた理由は中国の「紹興酒」と同じかもしれない。

    酒の呼称の由来

    紹興酒(老酒)は、南宋の高宗が、金の侵攻を避けて、唐時代は会稽と山陰2県に分けられていた両県を一つにして、滞在したことを記念して、紹興元年(1131年)元号をまちの名前にした。ここの鑑湖の水は良質で,銘酒は名水から生まれるを具現した良質の酒をいう。魯迅周恩来の出身地としても有名。

  • ウィスキー(1杯12銭)…圧倒的高級感
  • 小ブドウ酒(1本9銭)…詳細不明
  • エビスビール(大25銭、小15銭)…まだまだ高級品
  • サッポロ黒ビール(大28銭、小16銭)…まだまだ高級品
  • サッポロ生ビール…(大15銭、小5銭)…生の方が安い?
  • 開花丼(16銭)…明治初年に始まった文明開化の象徴となる畜肉料理で、おそらく「牛肉・卵・玉葱」が入っている。これも吃驚するほど高い。

時はまさに第一次世界大戦(1914年〜1918年)前夜。欧州はベル・エポック文化の最盛期。かなり重要な歴史的史料といえよう。

①とりあえず「なんでも甘くせずにはいられなかった黎明期」や「富国強兵の為に(ミリ飯中心に)国民が肉食を強要された時代」からは何とか脱却している印象?

② 改めて「煉瓦亭」系統の画期が浮き彫りとなる形に。ただし、こうして当時の値段を比較してみると「パンから飯へ」への流れの背景には「パンの圧倒的割高感」もあったかもしれない。
煉瓦亭 - Wikipedia

いくつかの洋食メニューの元祖とされている東京都中央区銀座所在の洋食レストラン。1895年(明治28年)創業の老舗洋食屋で、創業者は木田元次郎の叔父。現在の豚カツ、オムライス、カキフライ、エビフライ、ハヤシライス、これら代表的洋食メニューのほか、食事の提供の仕方「皿にライスを盛る」着想を考案したとされているが、異論もある。

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  • 明治時代、洋食メニューとの組み合わせは西洋諸国に習った「パン」であった。しかし利用者から「パンより米を食べたい」との要望があり、「皿にライス」という日本ならではの工夫を凝らし提供したとしている。これは茶碗でナイフ・フォークでは食べづらいためである。そこからフォークの背にライスをのせて食べる慣習を作ったとされている。

  • また同じように付け合せにも温野菜が使われていたが、これをキャベツの千切りに置き換えトンカツ(当時は「カツレツ」と呼んだ)と盛り合わせた。これは日露戦争でコックが徴兵されてしまったので手間を省くために、「キャベツの一夜漬け」からヒントを得て食べやすい千切りとして提供を始めたことが始まりとしている。安くてソースにあう、という事も大きな理由である。

  • トンカツも、「カツレツ」そのままでは「味がくどい」と日本人には不評であったため、ドミグラスソースではなくウスターソースをかけることにしたところ好評で、これがその後定番となった。

  • オムライスは元々は賄い料理であり、手早く作れる料理として溶き卵、ミンチ、タマネギ、ライスを混ぜ合わせてフライパンでふっくら焼き上げた料理であったが、客からの要望によりメニューに取り入れた(当時は一般的なオムライスとはやや異なる)。1901年、煉瓦亭の従業員が食べていた賄い料理を見た利用者から食べたいと、問い合わせを受けたことがきっかけで、オムライス、ハッシュドビーフアンドライスがメニューに登場したという。その後、銀座の料理仲間と調理法を工夫し、現在のオムライスが誕生した。

  • ハッシュドビーフアンドライスも、ハッシュドビーフアンドライス・ハッシュドライス・ハヤシライスへと名称を変更しながら受け継がれている代表的な人気のメニューの一つ。煉瓦亭の三代目は「日本橋丸善が元祖ではあるが、あれはチャプスイに近い」とし、ドミグラスソースでハヤシライスを作ったのはここが発祥であるとしている。

この様にメニュー登場の経緯は、客から「従業員が食べていた賄い料理を食べたい」とのリクエストがきっかけとなった料理が多い、という特徴がある。

③また欧米では多くの地域で「(米やパン同様に)主食」の座を勝ち取ったポテトが既に完全に「おかず」に分類されているのも興味深い。

*多くの地域…特に「アルプスの少女ハイジ(Heidi、1880年1881年)」でも「不味いものの代名詞」に挙げられた「(日持ちを良くする為に酸味が強化された)ライ麦パン」文化圏(ドイツ、スイス、北欧、東欧などの小麦栽培に難がある寒冷地)は軒並み馬鈴薯にシフト。

④当時は卵料理に高級感がある(一般家庭で気軽に消費される様になるのは全国の流通網に冷蔵設備が普及した1960年代以降。多くの家庭で朝食に生卵や納豆が並ぶ様になったのもこれ以降)。そして当時のハムはまさに高級品。

鎌倉ハム - Wikipedia

食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。

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1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。この時点でカーティスは一切の製法を秘密にしており、日本人が工場へ立ち入ることを許さなかった。

1884年明治17年)に起こった地震の際に工場が出火し、これを近隣住民が消火作業にあたったためその恩義に応えるべく、カーティスは益田直蔵らに製法を伝授。またカーティスの妻かねが奉公人時代に世話になっていた地元の名家・齋藤家の当主齋藤満平(「万三」説あり)にも製法を伝授した。

鎌倉郡発祥のハムなので「鎌倉ハム」と呼称するが、現在の鎌倉市域の発祥ではない。発祥地の現在の住居表示は横浜市戸塚区上柏尾町である。従って、観光地としての「鎌倉」の土産にはあたらず、また特産物でもない。だが名称から鎌倉の産品と見なされ「鎌倉」の土産や贈答品としても用いられている。

*ある種の代用品の普及が「本物への志向性」を引き出す例は戦後日本でも見受けられた。例えば畜肉がまだ貴重だった時代に選ばれた「魚肉ソーセージ」や「(その正体は畜肉を大豆蛋白で大量水増しした)カップラーメンの謎肉やマルシンハンバーグ(ハンバーグ状製品)」など。その伝統は精進料理の擬似肉(仿葷素菜)や(戦国時代にポルトガル人やスペイン人の宣教師が日本にもたらした天麩羅などの)肉食禁止(ただし魚はOK)期間用料理にまで遡るとも。日本の独自性が強いと言われる「クリームシチュー」も、その期限を辿ると「(敗戦直後、GHQから配られた)脱脂粉乳を少しでも美味しく食べる工夫」に行き着く。

精進料理 -Wikipedia

野菜・豆類など、植物性の食材を調理して食べる事に特徴があるが、サラダのように一品の料理として野菜を生のまま食べるという概念が中国や日本の食文化に定着するまでは、野菜・豆類は基本的に加熱調理する必要があった。

これらを使う精進料理は、あく抜きや水煮といった時間と手間のかかる下処理を必要とすることが多いのが特徴のひとつである。これらの複雑な調理技術や使用する食材に対する概念は、多くの料理人や料理研究家に影響を与え、料理分野全体の水準向上に貢献してきた。

また、精進料理は極めて単純な食材を、多くの制約がある中で調理するため、さまざまな一次・二次加工が施されてきたことも特徴のひとつである。例として、大豆は栄養価が高く、菜食で不足しがちなタンパク質を豊富に持つこともあり、精進料理に積極的に取り入れられたが、生食は困難である。このため、風味を向上させ、長期保存し、食べる者を飽きさせないといった目的も含めて、豆豉、味噌、醤油、豆乳、湯葉、豆腐、油揚げ、納豆などが生み出された、こうした技術は、精進料理を必要とする寺院と宮廷を含むその周辺の人々によって、研究・開発され、蓄積されてきた。

また、特に中国、台湾、ベトナムに見られるものとしては、いわゆるもどき料理(中国語で「仿葷素菜」)と呼ばれるものがある。これは植物性原料を用いて、動物性の料理に似せたものを作ることである。例えば、湯葉を加工して火腿(中国ハム)を作ったり、こんにゃくでイカやエビを形取ったり、シイタケや他のきのこを用いてアワビのスープや炒め物に似せるといったものである。

精進料理は僧侶には必須の食事であり、食事もまた行のひとつとして重要視された。その一方で民間でも、冠婚葬祭やお盆等において、一般家庭や料理屋でも作られるようになった。料理屋の精進料理は、時としては仏教の食事に関する概念とは対照的な美食を目的として調製され、密かに動物性の出汁を使っていることさえある。中国・台湾・香港・日本・朝鮮等では精進料理を名物とするレストランや料亭、料理屋が数多く存在し、特に台湾の精進料理は広く浸透している。また、シンガポール、マレーシアなどにも仏教系の精進料理店が少数存在する。

⑤ 「江戸時代における灘の酒や調味料の大量生産開始」を経て文明開化 時期以降の「日本酒醸技術の近代化」や「洋酒の国産化」が始まった時期の歴史史料としても実に興味深い。そもそも「日本酒」なる概念自体が「洋酒」との対比によって定義を獲得してきた感がある?

 

そして時代は第一次世界大戦(1914年〜1918年)による欧州没落を経て新たなるフェイズに突入…

  • 上掲の様な資本主義的活動は「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」においてすら(私利私欲追求者として粛清されるのを免れる為に「産業報国運動」的体裁を被りつつ)それぞれの業者の営利追求活動という形で推進されてきた。

    産業報国運動的体裁…まさしく「松下幸之助水道哲学」も「(インスタントラーメンやカップラーメンも産んだ)キャンベルスープ的=アンディー・ウォーホルのポップアート的均質主義」も、こうした傾向ゆえに独特の全体主義性を帯びている。

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  • 産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)」、特に(1970年代までに次第に流行発信能力を復活させてきた欧州の本格的反撃期に該当する)1980年代には「異物や異化がもたらすスノビズム」が数多くの(生産や消費といった経済活動を伴う)文化活動を牽引。ただしそうした動きの多くが「同化による取り込み段階」にまで至った例は思うより少ない。
    *「同化による取り込み段階」にまで至った例は思うより少ない…もちろん、それをいうなら「1910年代の洋食メニュー」も、そっくりそのまま後世に伝わった訳ではなく、相応の欠落を出している。ただ1980年代の方が、1910年代に比べてはるかに「誰もが背伸びし、地に足がついてなかった」程度が甚だしかっただけとも。

  • そしてインターネットの国際的普及を背景とする「多様化の時代(1990年代〜?)」に入ると、最先端の人々は次第に「事象の地平線としての絶対他者を巡る、拒絶とスノビズム的熱狂と部分取り込みのサイクル」に自覚的となっていく。例えば「同性婚合法化には、我々を貞操観念を尊ぶ保守派と乱交文化を手放そうとしない守旧派に引き裂く側面もある」と達観した海外のLGBTs層の様に。
    *1990年代後半から2000年代初頭にかけて「若さを金に変えて物欲を満たす」援助交際や「本物の命の奪い合いにしかリアリティが感にられない」デスゲームのみが説得力を有する殺伐とした 時期があり、まさにその時代に発表されたWeb小説や同人ゲームや自主制作アニメの感性から新しい時代が始まったとも。そしてこの動きを牽引したのが「プリンセスチュチュ(アニメ放映2002年〜2003年)」における「私の気持ちは私だけのもの。操り人形なんかじゃない!」とか「とらドラ!(原作2006年〜2009年、アニメ化2008年〜2009年)」における「私にとって何が幸せかは、私自身が決める!!」といった名台詞群だったとも。


    *何故か上掲の動画を検索したらYoutubeから以下の動画をRecommendされる展開に。「上掲の動画をチエックしてる人達の多くがこの動画もチェックしています」?


    佐倉杏子の過去が示唆しているのは「ガイアナ人民寺院(Peoples Temple)集団自殺事件(1978年)」。確かに「ヒッピー運動の最終到達地点」ともいわれるこの事件には「誰にも超えられない夜=事象の地平線としての絶対他者」に迂闊に近づき過ぎるとどうなるかについての重要な教訓が含まれているのかもしれない。
    佐倉杏子ちゃんの父親の宗教考察スレ
    殺人博物館〜ジム・ジョーンズ

    *その一方で上掲の「多様化時代の最先端の人々」は別にこういう形で「未来に対する明るいビジョン」を失って暗く沈んでいる訳でもなく、むしろ「下手な期待感が必ず最終的に必然的にもたらす破滅」から解放された事を喜んですらいるのである。そしてその立場ゆえに「そんな(確固たる信念を備える事自体を忌避する)ニヒリズムがこの世に存在してはならない。一人残らず再教育してやる!!」と組織的に迫ってくる「旧世代の人々(国際的に左も右もこの次元では同類)」に対しては共闘する。

    *彼らが信じているのは、ある意味(SNS上においては様々な次元からリアルタイムで数値化され続けていく)トレンドと自分の感性の関係性のみ。そしてまさにこの環境こそが(マスコミやインフルエンサーといった第三者の手を介する事なく)「やっぱりみんな寿司ではドラゴンロール(Dragon Roll)やキャタピラーロール(Caterpillar Roll)やサーモン巻(Salmon roll)やピンク湯葉巻き(Pink Lady Roll)が好きなんだ」とか「吉田兄弟のW三味線いいよね」「ベビーメタルいいよね」といった確信を国際的に出来させてきた。まさしくどの国家も、どの企業も、どのマスコミも、どのインフルエンサーも自分の価値観を押し付け様がない自由の境地。そしてこれに立脚する形で「消費は(自分達が観たい作品群を存続させる為の)投票活動」なる意識が芽生え、例えばネットドラマ制作のサイクルを(視聴料値上げにに反感を覚えるどころか期待感を高めるといった形で)順調に回したりしている。

こうした状況がまるで俯瞰出来ず「我々は常に歴史的に自分自身を安定的に保ち続けてきた」 なる立場に執着する様になった文化は必然的に停滞し、次第に(エントロピー理論で言う)熱的死亡状態を迎えてきました。
*「純血主義も混血主義も究極的には熱的死亡状態を免れ得ない」。これが原義における「ゴビノー伯爵のジレンマ」で、この問題についてニーチェは貴族主義的立場から「事象の地平線としての絶対他者」と自分を同化させる「精神超人」戦略を提唱。その一方でこうした系譜の後継者たるレヴィ・ストロースは「節度ある文化間差異の維持」に突破口を見出そうとした。結局、こうした既存発想の延長線上に現れた試みは20世紀じゅうにことごとく失敗に終わり、今日のインテリは「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」の教祖寄りの捨て鉢な立ち位置に立たされる事に。

かくして「食卓ナショナリズム」の観点から後に残されたのは「御当地グルメ合戦」や「老舗同士の対立構造」といった水平次元のダイナミズムと、それを階層化して互いにカプセル化する「格式」と呼ばれる垂直次元のダイナミズムの直交空間という展開に。あれ、これもはや「食卓ナショナリズム」というより「食卓リージョナリズムの世界なのでは?