諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【BANANA FISHアニメ化決定】【1980年代的ロマン主義】あの場面はそのまま流れるの?

 吉田秋生BANANA FISH(1985年〜1994年、1994年6月号、8・9月号、1995年1月号にて番外編掲載)」アニメ化決定!! 当然番外編「光の庭」までやるよね!!

海外のファンからは早速「この場面が21世紀にそのまま流れるのか、興味深い」という指摘が。そういえば「マウスって何? それ美味しいの?」って時代でもありました。

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このシリーズにおけるコンピューターの扱いは終始こんな具合に「非TVサイバーパンク」であり続けたのです。「イヴの眠り(2003年〜2005年)」に登場するアレも含め…
*最近私がキーワードにしてる「事象の地平線としての絶対他者」問題は、この次元においてはこういう形で顕現してくるのである。

イラストレーション

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ところで、気になるのがこういう指摘。

 当時は「少女漫画」の定義が大きく変わった時代でもありました。

そして「吉祥天女(1983年〜1984年)」から「バナナフィッシュ」に継承された「究極的には全員の破局に行き着く歪んだ愛が完遂される様」こそ「全然ロマンチックではない」1980年代的ロマン主義の極上のマスターピースの一つだったとも。

吉田秋生「吉祥天女(1983年~1984年)」

浅井由比子「その点小夜子なんて偉いと思うわ。あの人絶対負けてないもの。あたしたちならしょーがないやってあきらめちゃうこと、あの人絶対許さないもの。あんなにきれいで、女らしくて、ふだんはすっごくやさしいのに、いざって時になると相手が男でも絶対に尻込みしないもの。あの人みたいに毅然とした態度とれたらどんなにいいだろって思っちゃう」
遠野凉「そうか…御前達の目にはそう映るのか…」

小川雪政「(彼女が7人もの人間を死に追いやったという推理を)誰かに話しましたか? 私以外に。例えば警察とか。」
浅井鷹志「いいえ。立証できませんからね」
小川雪政「そのほうがいい。貴方は賢明だ」
浅井鷹志「それは警告ですか?」
小川雪政「警告? とんでもない。あなたが警察に話したければご自由に。ただ、誰が信じますか? ごらんなさい彼女を。まだ子供なのですよ。あなたの妹さんと同じ制服を着たまだ17歳の少女なんですよ。その少女が男を誘惑し平然と人を殺す。そんなことを一体誰が信じるんですか? 探偵ごっこもほどほどにしておかないとね…」

浅井由比子「あの人ねぇ、あたしの理想だったんだ。きれいで、やさしくて、女らしくて、なのに賢くて強くて、男の人にも負けなくて。あんなふうになれたらなぁって思ってた。」
浅井鷹志「そうか。なるほどなぁ…」
浅井由比子「? なによお兄ちゃん1人でナットクして」
浅井鷹志「いや…」

叶小夜子「(浅井鷹志の描き上げた絵を見せられて)すてきだわ」
浅井鷹志「以前、この家に伝わる天女の話をしてくれましたね。それと古い吉祥天の話をヒントにしたんです(「日本異霊記」に画像の吉祥天女に僧侶が懸想する話が出てくる)」
叶小夜子「吉祥天…」
浅井鷹志「人々に至福を与えるという愛の女神です…あなたはあの時(絵のモデルにさせて欲しいと依頼した時)、ぼくにいいましたよね。”天女を妻にした男は幸福だったろうか。それとも不幸だったろうか”って。ぼくはきっと幸福だったんだろう思いますよ。きっと後悔はしなかったんだろうと」

浅井鷹志「(独白)あんな奇蹟みたいな女がいるのか…」
浅井鷹志「あなたには幸福なんでしょうね、小川さん。」
小川雪政「そう、わたしにはね。」
浅井鷹志「ちょっぴり羨ましい気もしますよ。お元気で。」
*「吉祥天女」の小夜子=「古典部シリーズ」の千反田える=「ゴールデンカムイ」のアシリバさんと等式で結んで見ると「馬鹿ね、男にはそう簡単に少女漫画が抱える深淵と業の深さなんて見えてこないものなのよ」と豪語する国際SNS上の関心空間に割拠する少女漫画クラスタが何に依っているかその片鱗が見えてくる。平然とE・L・ジェイムズ「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey、書籍化2011年〜)」シリーズを「少女漫画の読み込みが全然足りてないお子ちゃまの作品」と笑って切り捨ててた彼女らの抱える「心の闇」は確かに想像以上に深い…
フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ - Wikipedia

*ちなみに「ロリコン宮崎駿監督は「ルパン三世 カリオストロの城(1979年)」について様々なインタビューで「貴方は本当に大人になったクラリスを愛し続ける事ができますか? ちゃんと全体像が見えてますか? だからこそルパンは逃げていくのですよ。ちゃんと分かってますか?」と問い掛け続けている。彼は彼なりに「少女漫画の闇」を本気で見据え、その末に「真性ロリコン」なる結論に到達した人物だったのである(そういえば「風の谷のナウシカ(原作1982年〜1994年、アニメ化)」のナウシカも「天空の城ラピュタ(1986年)」のシータもしっかり「女主人」としての顔なら持ってた)。その宮崎駿作品「風立ちぬ(原作2009年〜2010年、映画化2013年)」のヒロイン里見菜穂子について、国際SNS上の関心空間に割拠する少女漫画クラスタは平然と「実は彼女には療養所に残してきた夫がいて、最後に選んだのは彼だった。そう考えれば全ての辻褄が合う」と豪語してのけている。

風立ちぬ (宮崎駿の漫画) - Wikipedia

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*確かに宮崎駿監督当人も堀辰雄「菜穂子( 1941年)」も作品の下敷きにしたと認めてるので、余裕でアリの解釈なんだけど…何そのシャーロット・ブロンテジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)で「深き藻の海」のバーサが最終勝利を飾るバージョンみたいな業の深いドロドロとしたLove Story?
菜穂子 (小説) - Wikipedia


*ちなみに同様に「少女漫画の闇」を覗いてしまった夢枕獏は、その衝撃から「陰陽師シリーズ(1986年〜)」の執筆に着手した事を認めている。「河よりも長くゆるやかに(1983年〜1985年)」文庫版に寄せた後書きによれば「こんな恐ろしい闇を直視出来る男など地上に存在し得るものか。ならどうするか。僕なりの解釈がこの作品」だそうな。

陰陽師 (小説) - Wikipedia


*そしてこうした「少女漫画の闇を直視出来ない男達が必死で構築した防壁」が「中の人」野村萬斎を介して庵野秀明監督映画「シンゴジラ(2016年)」に継承される展開を迎えると、彼女達は今度は「鎌田君こそ私!!」と大喜びしたのだった。その闇からは何人たりとも逃れ得ないのだ?

*そしてさらには「エヴェレスト 神々の山嶺(原作1994年〜1997年、漫画化2000年〜2003年、映画化2016年)」が執筆される事になる。

*その一方でクリエーターの女性には伝統的に「たまたま恋に落ちて結婚した相手が幼かっただけで、その成長をちゃんと受容したエドガー・アラン・ポー」を強く推す傾向が見て取れる。萩尾望都ポーの一族(1972年〜)」もこの系譜。そういえば上掲の彼女ら、ネット上で「我が結婚相手はさらにおぞましきものを見る事になるだろう」大喜利とかもやってた。果たして「自らの内なる怪物性」も含めて受容してくれる相手を探しているのか、それに振り回されず自分を評価してくれる相手を探してるのか…

米澤穂信「氷菓シリーズ(2000年〜、アニメ化)」

第5話「歴史ある古典部の真実」

関谷純(千反田江留の叔父)「強くなれ。もし弱いままなら悲鳴も上げられなくなる日が来る…そして生きたまま死ぬことになる…」

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 作中で入須冬実先輩が千反田江留に伝授する「女帝の手管」

「大事なのは相手が自分から動いてくれる様に仕向ける事だ。その為には相手に精神的満足感を与えなければならない。色々あるんだが、お前にも使えそうな手は期待だろ。相手に自分は期待されてると思わせるんだ。それが出来れば後は実に簡単に尽くしてくれる。ただし問題はあまり大きく見せない事だ。自分には些細な事だが相手にはそこそこ大事な事だくらいがいい。それともう一つ。出来れば人目につかないところで異性に頼むんだ。」

*千反田江留「私、気になります(I can't stop thinking about it)」

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折木奉太郎「俺も気になります(I can't stop thinking about you)」

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第6話「大罪を犯す」

千反田江留「傲慢なところがまったくない人というのは、自信がない人のことじゃありませんか。誰からも強欲と言われない人は、きっと家族を養うことも難しいでしょう。世界中の人が誰にも嫉妬しなければ、新しい技術が生まれるとは思えません」

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米沢穂信「古典部」シリーズ第四巻「遠回りする雛」より

縁側に腰掛けたまま、千反田は両手を天に広げてみせた。空はもうほとんど夜で、星もいくつか見えている。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々も段々老い疲れてきています。山々は整然と植林されてますが、商品価値としてはどうでしょう? わたしはここを最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちてるとも思ってません。でも…」

腕を降ろし、ついでに目も伏せて、千反田はつぶやいた。

「…でも折木さんにどうしても紹介したかったんです…」

この時、俺はかねて抱いてきた疑問について、一つの答えを得た。

俺はこう言おうとしたのだ。「ところで御前があきらめた経営戦略眼についてだが、俺が修めるというのはどうだろう?」

*ここで千反田江留が駆使したのは、入須冬実先輩から伝授された「女帝の手管」そのもの。「女は男とオフェンスもデフェンスも違うのよ」なる「吉祥天女」のヒロイン小夜子の言葉の実践例の一つ。それで当時は世界中を「折木、遂に堕ちる」なるコメントが駆け巡ったものである。ところでこの場面が国際的評価を受けた背景には「女主人物」としてのマーガレット・ミッチェル風と共に去りぬGone With the Wind、原作1936年、映画化1939年)」との相似性があって、この構図だと両者は「米国史における南北戦争の敗戦とその後の南部再建」という部分と「日本史における太平洋戦争敗戦と、GHQによる農地改革と地主のその痛手からの回復」という部分が重なってくる。まぁ実際、それで日本では戦後復興期に「風と共に去りぬ」が爆発的人気を獲得した側面もあったという。「(歴史的に家父長制や伝統的権威主義と深い関係を構築してきた前時代的な)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的体制」は、こうして新たな魂を吹き込まれる展開を迎える事に。

風と共に去りぬ - Wikipedia

*まぁ「ラブコメ元祖」ジェーン・オスティンからして「英国ジェントリー階層の性淘汰戦略の体現者」たる側面を有していたのだから、当然の帰結とも?

*それにつけても「ふたりの距離の概算」における「お兄ちゃんなら全てが発覚して、まるまる一週間ごめんなさいしかいえない可哀想な生物にされた挙句「もはやお前に卒業の日まで一人で過ごせる放課後と休日が与えられると思うな!!」宣言されちゃったみたいだよ」なるセリフの突き放し感が凄い。これが岐阜? これが飛騨? ぜひ映像化して欲しいものだ…
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伊原摩耶花「何よカカオ豆からチョコレートを造るなんて素人じゃ無理じゃない。こうなったらもう最高の手作りチョコを造って、それでも納得しないならどこかに監禁してこの事実を納得するまで言い聞かせてやるわ。それでもダメなら口にチョコを押し込んでやる!!」

チョコレートの歴史 産業革命によるチョコレートの変革|チョコレートNAVI

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作者はこうして、「村に現れた美しい魔女を奪い合うために、男全員が最後の一人まで殺し合う」ような図を見事に演出してみせたのである。
*「バナナフィッシュ」において「主人側の苦悩」はコルシカ側のゴルツィネや暗黒社会で着実にのし上っていく李月龍が担う。この部分がきっちり描かれているからこそ、あくまでアッシュと対等な関係であり続け様とする英二の「少女漫画のヒロイン的純真さ」が引き立つのである。

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そういえば「全然ロマンチックではない」1980年代的ロマン主義の極上のマスターピースといえば、双璧に挙がるのは「行き止まりの挽歌(1981年)」や「キャバレー(原作1983年、映画化1986年)」といった栗本薫のハードボイルド小説。

行き止まりの挽歌 - Wikipedia
キャバレー (小説) - Wikipedia

*1980年代におけるこういうシーンでは必ずといって登場する「時代の顔」三原じゅん子…そういえばアン・ルイスの歌詞世界が描いた「夜明けとともにベッドを抜け出して逃げていくずるい男性像」のイメージの源泉は吉川晃司だったそうな。「男性社会打倒」をスローガンに掲げた第二世代までのフェミニズムと決別する道を選んだ第三世代のフェミニズムが「テキスト=バイブル」として掲げた「少女漫画の世界」とは、かくもすさまじき世界観だったのである。「何が私にとって幸せか決めるられるのは私だけなんだよ!!」なる心の叫び…
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新海誠作品「君の名は(2016年)」にも「20世紀的Love Storyを生きる二葉」と「21世紀的Love Storyを生きる三葉」の対峙なんて構図が。ちなみにそうした流れの大源流たる五十嵐大介海獣の子供(2006年〜2011年)」は「ママは田舎の閉塞的社会から逃げ出したくて、パパを海に全裸で誘い出したのよ」って話だったが、「三葉のママ」二葉はもっと成熟した「狩人」だった…そう「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊(Pirates of the Caribbean: Dead men tell no tales、2017年)」のラストシーンにちょっと登場しただけで全てをもっていってしまったエリザベス・スワンの様に。
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ところで心配なのは、最近体制維持に過敏となってる中国で放映されない可能性。シリーズ続編の「イヴの眠り(2003年〜2005年)」では「中国共産党解体」なんてネタも出てくる訳で…それにしてもシン・スウ・リンがここまで大物になるなんて「BANANA FISH」の段階では一切思わなんだ…

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シン・スウ・リン (しんすうりん)とは【ピクシブ百科事典】

 そして最近の結論。もしかしたら真の意味での男女平等は、かかる1980年代的ロマン主義の性別逆転によってしか達成されないのかもしれない…この理想主義を実現するには男だって「自らの内なる怪物性」を認め「何が俺にとって幸せか決めるられるのは俺だけなんだよ!!」と叫ばなくてはならないのだ? この話「お兄ちゃんなら全てが発覚して、まるまる一週間ごめんなさいしかいえない可哀想な生物にされた挙句「もはやお前に卒業の日まで一人で過ごせる放課後と休日が与えられると思うな!!」宣言されちゃったみたいだよ」という方向にも帰着しそうで怖いんだけど…