諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊】【吉祥天女】【氷菓】女子にとっての「ダンケルク」とは?

早くも「今年最高峰の映画」から脱落しかけている「パイレーツ・オブ・カリビアン/最後の海賊(Pirates of the Caribbean: Dead men tell no tales、2017年)」ですが…

国際SNS上の関心空間に滞留する女子アカウントの間では、クリストファー・ノーラン監督映画「ダンケルクDunkirk、2017年)」 における「スピットファイアー!! スピットファイアー!! スピットファイアー!!」と同じノリが見られました。

 そうラスト直前に「エリザベス・スワン!! エリザベス・スワン!! エリザベス・スワン!! 」コールが巻き起こったのです。「初期三部作(2003年〜2007年)の場面と当時の私の記憶の濁流が押し寄せて頭の中が真っ白になった」「くそ、こんな手口にしてやれるなんて…そうか、私もママになったんだ!!」などなど。まさしく地母神降臨。それまで息子とその恋人(?)やキャプテン・ジャックスパローがどんなに活躍していたとしても全てを踏み潰す圧倒的存在感。まさしく魔術的リアリズム文学言うところの「英雄の時間」…

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 ダンケルクにも見れれたこの構造、私は「愛と哀しみのボレロ(Les Uns et les Autres、1981年)」辺りが源流かと思ってたら、クリストファー=ノーラン監督が黒澤明監督映画「羅生門(1950年)」と断言しててのけぞった。そうか、本編脚本には絶望と人間不信しかなく「どうしよう、このままじゃ観客が納得して帰らないぜ」なる協議が行われた結果、急遽追加された「赤ん坊が救われる話」…いわれてみればあの(本編と何の脈絡もなく顕現する)感動のラストシーンもまた、まさしく魔術的リアリズム文学言うところの「英雄の時間」だった訳だ…ところで「羅生門」に語り部として登場する坊さん、「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story、1916年)」にも登場してずっと「The Force is with me and I’m one with the Force.」と唱え続けてなかったっけ?

日本映画を観るかと質問されたノーラン監督は「いろいろな日本映画を観ています。なかでも黒澤明監督の『羅生門』は、違う話が散在しているが、最後一つの大きな物語にまとまっていくところが印象深い。この映画も『羅生門』からインスピレーションを受けているんです」と発言し、会場を沸かせた。

*「人間は嘘を吐く。自分自身に対してすら」

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坂口安吾 堕落論

小林秀雄は政治家のタイプを、独創をもたずただ管理し支配する人種と称しているが、必ずしもそうではないようだ。政治家の大多数は常にそうであるけれども、少数の天才は管理や支配の方法に独創をもち、それが凡庸な政治家の規範となって個々の時代、個々の政治を貫く一つの歴史の形で巨大な生き者の意志を示している。政治の場合において、歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿において政治もまた巨大な独創を行っているのである。

この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、しかしまた日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿において独創をもち、意慾をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。

*こうした圧倒的なまでの歴史的真実を前にした時、それが例え主観的誤謬に過ぎなくとも「英雄の時間」を過ごせた個人は幸福だったのか? かくして20世紀以降「個人の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ得られる」としたヘーゲル哲学はとてつもないディストピア感を伴ってのみ顕現する様に。

そもそも「個人の幸福は時代精神Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ得られる」とするヘーゲル哲学に「英雄の時間」で対峙する戦略は「地母神」イシュタル(Ishtar)の求愛を断ったギルガメッシュ(Gilgames)や「地母神モリガン(Mórrígan)の求愛を断ったクー・フーリン(Cú Chulainn)にまで遡ります。要するに英雄とは「地母神に選ばれながら、システムに組み込まれる事を拒絶して政敵に転落した悲劇の王(のなりそこない)」なのかもしれません。
*近隣領域にヘラクレスヤマトタケルの様に「その実力ゆえに国王からライバル視され無理難題を吹っかけ続けられるキャラクター」が存在する。ところで、こうした英雄像について国際SNS上の関心空間で検索をかけると…日本人、なんて恐ろしい民族!!

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その一方で家父長制同様に家母長制の伝統の強い日本は、こうした「地母神に対峙する英雄の緊張感」を描く能力にも秀でてたりもするのです。坂口安吾桜の森の満開の下(1947年)」「長姫と耳男(1952年)」、吉田秋生吉祥天女(1983年〜1984年)」、そして私がこれまでの投稿で「飛騨女物」の系譜に分類してきた米澤穂信古典部シリーズ(2000年〜)」…

吉田秋生「吉祥天女(1983年~1984年)」

叶小夜子「(浅井鷹志の描き上げた絵を見せられて)すてきだわ」
浅井鷹志「以前、この家に伝わる天女の話をしてくれましたね。それと古い吉祥天の話をヒントにしたんです(「日本異霊記」に画像の吉祥天女に僧侶が懸想する話が出てくる)」
叶小夜子「吉祥天…」
浅井鷹志「人々に至福を与えるという愛の女神です…あなたはあの時(絵のモデルにさせて欲しいと依頼した時)、ぼくにいいましたよね。”天女を妻にした男は幸福だったろうか。それとも不幸だったろうか”って。ぼくはきっと幸福だったんだろう思いますよ。きっと後悔はしなかったんだろうと」
*これが上掲の「(それが例え主観的誤謬に過ぎなくとも)「英雄の時間」を過ごせた個人は幸福だったのか?」なる設問の答えになってくる辺りが恐ろしいのである。時代はまだ1980年代前半なのに…

浅井鷹志「(独白)あんな奇蹟みたいな女がいるのか…」
浅井鷹志「あなたには幸福なんでしょうね、小川さん。」
小川雪政「そう、わたしにはね。」
浅井鷹志「ちょっぴり羨ましい気もしますよ。お元気で。」
*この作品位おいては遠野涼がギルガメッシュにしてクンフーリンの役割を果たすのだが「義理の兄」遠野暁の存在のせいでヘラクレスヤマトタケルの立場も担っているのが凄まじい。最後には、彼が最後まで守り抜こうとした「病弱の妹」が救われるという結末も秀逸。流石は夢枕獏をして「男は所詮、捨て駒」と開き直らせただけの事はある?

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米澤穂信「氷菓シリーズ(2000年〜、アニメ化)」

縁側に腰掛けたまま、千反田は両手を天に広げてみせた。空はもうほとんど夜で、星もいくつか見えている。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々も段々老い疲れてきています。山々は整然と植林されてますが、商品価値としてはどうでしょう? わたしはここを最高に美しい場所だとは思いません。可能性に満ちてるとも思ってません。でも…」

腕を降ろし、ついでに目も伏せて、千反田はつぶやいた。

「…でも折木さんにどうしても紹介したかったんです…」

この時、俺はかねて抱いてきた疑問について、一つの答えを得た。

俺はこう言おうとしたのだ。「ところで御前があきらめた経営戦略眼についてだが、俺が修めるというのはどうだろう?」
*あまりにも甘過ぎる「破滅の罠」。そして「折木奉太郎専用淫婦(Vamp)」なるパワーワード…とはいえ米沢穂信が単なるラブコメを描く筈もなく、続編では「地母神としての千反田江留の暗黒面」や「千反田江留の堕天」などが容赦なく描かれる展開に。まぁしかし苦悩なしに「あの眼差し」は浮かべられないのだった…ところで、この作品において「英雄の時間」は何処に顕現しているのだろうか?

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*欧米では頑張っても ロバート・ゼメキス監督 ニール・ゲイマン脚本映画「ベオウルフ/呪われし勇者(Beowulf、2007年)」留まりだし、この作品や「マレフィセント(Maleficent、2014年)」におけるアンジェリーナ・ジョリーの「地母神的演技」は、角川映画里見八犬伝(1983年の映画)」における夏木マリの名演がベースになっているとされている。そう「千と千尋の神隠し(2001年)」で湯婆婆の声を演じたあの夏木マリ!! 共通するのは「人には基本的に冷酷だが、息子は溺愛する」あの感じ? そういえば「湯婆婆に溺愛された息子」を演じたのは「常に過去の自分の名演と戦い続ける」「常に尻を狙われ続けてきた」あの神木隆之介だったりする…


そういえば欧米においては「あの目力だけで、具体的指示を出さなくても人を勝手に動かす家長的強制力」の「周辺化」が進んでいる。「猿の惑星リブート三部作(2011年〜2017年)」におけるシーザー、そして「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ(Captain America: Civil War、2016年) 」において放蕩王子が父王の死を乗り越えて「王の顔」を見せるまでに至る過程をチャドウィック・ボーズマンが演じ切ったブラックパンサー

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*それにつけても「白人」カテゴリーにおけるオーストラリア人の評価の低さ…そしてむしろそれで南イタリア人同様に得してきた側面が? 最大の武器は「千反田江留はきっと舌なめずりをしながら鶏を絞める」に匹敵する田舎感? 生命力とは一体何?

こうしてちゃんと相応には国際トレンドに絡んできたにも関わらず、いやむしろちゃんと絡めてこれたからこそ「日本実写映画の周回遅れ感」は酷過ぎるとも?

脳裏に「私、気になります」と口にしつつ折木奉太郎に腕挫十字固や足四の字を決める千反田江留が浮かんで大変な事に。あだちとかノラガミ(2011年〜)」の壱岐ひよりですか?
*以下は現在完全主流となった「パンチラなし」バージョン。

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まさに国際SNS上の関心空間における、とある女子アカウントの「あの両目を刳り貫いて手に入れたら、私も目力だけで男達を思う存分に操れる様になるのかしら?」なる発言と真逆に向かう展開?