中国はあまりに広大過ぎて日本人の想像力を超えてる部分が多いです。そもそも「反日スタンスの人も少なくないが、親日スタンスの人の人口だけで全日本人の人口をはるかに凌駕している」点について、どう考えればいいやら…
恋愛対象の女性を夕食や映画に誘う若者たちを横目に、ノーブさんは家の壁をよじ登る技術を磨いてきた。
— AFPBB News (@afpbbcom) 2017年11月4日
これは、四川省で母系社会を形成する少数民族ザバの男性たちが古くから行ってきた求愛行動を成就させるためのならわしだ…https://t.co/XyEAFce3dH
「嫉妬」なる外来感情流入に伴う精神汚染
ザバ社会では一夫一妻制は浸透していない。ここで一般的にみられるのは「通い婚」だ。男たちが女性の家まで歩き、そして窓から室内へと入り込むことからそのように呼ばれている。
しかし、ノーブさんや仲間の男性たちは、チベット高原のはずれにあるこの地域の伝統が失われつつあると嘆く。最近では、女性らが男性の献身をいっそう求めるようになっているのだという。
インターネットやスマートフォン、ライブストリーミングの普及などに加え、交通網や教育の機会が峡谷の向こう側にまで届くようになったことから、かつては隔絶状態にあったザバの人々も、最近では外の世界のライフスタイルに触れることができるようになったのだ。韓国のテレビ番組もとりわけ人気があるという。
「今では女性たちが外部の人々と同じものを欲しがるようになった。安定した結婚生活や、家や車といった財産だよ」とノーブさんは語る。
ある別の男性(30)は、かつて女性の家を訪れるために10キロの道のりを歩いたことがあると話す。日没後に出発し、到着したのは午前0時を回った頃だったという。当時は自動車があまり普及していなかったためだが、今では人々の多くがオートバイで移動するようになったと話す。
さらに最近では、「デート」の約束がスマホのアプリを使って行われるようになり、伝統的に行われていた相手の意思を確かめるための男女間のゲームもすっかり廃れてしまったという。
通い婚は1980年代に、中国政府による厳格な家族計画政策の推進とともに減少し始めた。この政策は、法律上の父親がいない状態で子どもが生まれた場合に重い罰金を科すものだったため、ザバの人々も、少なくとも紙の上では一夫一妻制による、政府の結婚証明書が必要になった。
青海師範大学(Qinghai Normal University)の人類学者、フェン・ミン(Feng Min)氏の論文によると、この変化によってザバ社会に人を所有物とみる考え方が広まり、以前は明白に表現されることがまれだった嫉妬という概念が生じるようになったという。
静かに進行する独自の伝統の消滅
フェン氏が2004年に行った調査では、通い婚の伝統を今も実践していると答えたのはザバ社会全体の49%にとどまった。
通い婚を続けている家族の子どもたちは、緑の丘に立つ黄色い石造りの6階建て共同住宅で、母親やそのきょうだいたちによって育てられる。父親らは自身の母親とともに暮らし、子どもらになんらかの経済的支援を行うこともある。
「私には夫はいない。この子たちの父親は別の場所で暮らしている」。家長の女性、ドルマ・ルハモさん(60)は、朝食のヤクバター茶と炒ったツァンパ(ハダカムギの種子を挽いた粉の団子)を手でひょいと掴んで口に運びながら答えた。その後、一家のじゃがいも畑の手入れをするため娘2人を連れて外へ出た。
小売店を営むペマ・バジュさんは、以前は母親や祖母、きょうだい、おじらと共同生活を送っていたが、最近、実家を出て夫や2歳の息子と一緒に暮らす選択をした。バジュさんは「今は夫婦で家庭を築く方が一般的。その方が便利だし、子育てにもいい」と話した。
この地域にはさらに大きな変化が迫っている。世界で最も高所にあるダムの一つが間もなく放流されるため、村人たちは先祖代々の土地からの立ち退きを余儀なくされているのだ。「胸が張り裂ける思いだ。われわれの土地がめちゃくちゃにされているのに、何も言う権利がない」とノーブさんは語る。しかし、彼もこの現場で働く短期作業員の一人だ。
建設中の高速道路が完成すれば、最も近い都市までの所要時間が半分となり、かつては手つかずの自然が残る隔絶された土地だったこの場所にも、観光客が押し寄せるだろう。
ノーブさんの友人のクハンド・ツセリングさんは、「経済は発展するだろうが、人々は堕落的になるだろう。何にでも金銭がからむようになり、われわれ独自の伝統は消滅する。今の時代はそういう仕組みなんだ」と話した。
まさしく以下の様な展開と表裏一体の関係にある様です。
阿南友亮『中国はなぜ軍拡を続けるのか』(https://t.co/gusurHExvF )を読み終えました。グローバルな存在感を増す一方、多くの問題が指摘される共産中国の政治構造を鮮やかに分析しており、報道などで触れる断片的な中国情報の意味はこういう因果の中にあったのか、と一々膝を打ちたくなる一冊です。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
タイトルの問いに対して、本書が着目するのは中国国内に無数に存在する元来の多様性と、共産党政権の政策により拡大した分断という国内要因です。およそ「中華民族」などというものは存在せず、発展の段階も社会のありかたも多様な中国において、共産党にとり「党の軍隊」だけが信頼しうる組織でした。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
そして人間関係が鍵となる中国では、戦争を指導する、または軍の役職を経験するなどを通じて、政治指導者が「党の軍隊」解放軍といかに関係を築いているかがポイントでした。毛沢東の時代が終わり、大躍進や文革で破壊された中国を復活させるに際し、彼らはこの点に留意しつつ中国の再建を目指します。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
毛沢東時代に続く鄧小平時代は、中国再建をいかに実現するかが問題となりました。鄧は胡耀邦と趙紫陽を切込役に、危機的状況にあった中国を「改革・開放」路線に変更します。それは社会主義堅持を求める保守派との対立を招くものでしたが、一方で共産党独裁を維持するギリギリの手段でもありました。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
沿海部への海外からの投資の呼び込み、農村の戸別経営容認などにより、中国は経済的な上昇を開始します。一方こうした経済発展は情報や権力の偏在を元に「口聞き」「コンサルティング料」などで党幹部周辺に多くの利益をもたらすものであり、腐敗・汚職、格差が蔓延し、都市部の不満が拡大しました。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
また鄧は、毛沢東・林彪時代以来組織・装備など多方面で停滞し、大軍区単位で動員に関する権利を分権された結果、肥大化することで「改革・開放」の障害となった解放軍の改革も企図していました。これに対し鄧は楊尚昆・楊白冰の兄弟、劉華清など既知の軍内人脈を活用し、人脈的な統制を開始します。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
もう一つの側面として、鄧は解放軍膨張の最大要因である国際環境の緩和を狙います。中ソ対立以来最大の脅威であるソ連をにらみつつ、1979年鄧はカーターへ事前通告の上、親ソのベトナムに侵攻する賭けにでます。これは米の後ろ盾があればソ連は何もできないことを示す奇手であったと著者は述べます。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
1979年末のソ連アフガニスタン侵攻による米ソ新冷戦の開始や、1982年の中ソ関係改善を提起するブレジネフのタシケント演説を受けて、いよいよ中ソ関係は鄧の望む方向に向かいます。一方で日米との関係は停滞したものの、これにより大義名分を整えた鄧は、解放軍の改革・削減(整頓)を始めます。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
ただリストラを行なうとはいえ失業者を放り出すわけにもいかず、鄧はこうした失業者を使い、解放軍の各部門が自前の企業経営を行なうというサイドビジネスを奨励しました。リストラの目的は本来軍の精鋭化にありましたが、いつしか軍はビジネス自体に血道をあげるようになり、軍の精鋭化は頓挫します。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
鄧の「改革・開放」はその利益が富者から貧者へと拡大するという「先富論」のもと正当化されていましたが、党や軍の幹部で利益の享受は止まり、トリクルダウンは発生しませんでした。腐敗と汚職で公正を求める民主化運動と保守派の双方の圧力は高まります。その中で発生したのが六四天安門事件でした。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
六四天安門事件に対して、鄧小平は解放軍による弾圧を決行します。これはトラウマなどによる突発的なものではなく、毛沢東時代に反右派闘争に関与し、毛沢東死後の「北京の春」「八六学潮」などの民主化運動をことごとく弾圧してきた鄧小平の本来持っていた政治的方向性だったと著者は指摘します。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
鄧小平は、「改革・開放」への批判の強まりや六四天安門事件を受けて、重用してきた胡耀邦・趙紫陽らを切ります。また弾圧を受けて経済制裁にシフトした西側諸国への恐怖感を高めつつ、問題を抱えながらも実力組織としてなすべきことをなした解放軍への信頼を強めていきます。中国軍拡への転機です。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
続く江沢民は、中央の派閥抗争から遠く、天安門事件の上海への波及を阻止した手腕で保守派からも評価される存在でした。鄧は経験の浅い江に主要な役職を全て兼任させることで権力集中を図り、更に要石である軍については強すぎる楊兄弟を切り捨て、劉華清・張震を軍内の後見役として引き上げます。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
天安門事件に前後して東欧革命で民衆ではなく党に牙を向いた軍を見た政治指導者は、いよいよ解放軍を厚く遇することの意味を見いだしていきます。また一方で、経済制裁を発動した一方、早々に制裁解除に動いた西側諸国を見て、西側諸国の人権と、経済的利益双方への強い関心を見て取るようになります。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
引き続き中国政府は西側との共通利益をアピールすることで彼らの投資を引き出しつつ、国内に対しては西側が平和的な浸透による体制変更を図っているという「和平演変」論を説くことで言論の抑圧を進め、「中華民族」を強調する愛国主義教育によって国内の引き締めを図っていきます。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
また2000年の「三つの代表」論によって、共産党は社会主義市場経済のもと、企業経営者を取り込むことを宣言しましたが、党幹部との癒着する形でビジネスが発展していることを踏まえれば、これは革新的な取り組みではなく、「官商癒着」の大々的な容認でしかありませんでした。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
一方で経済発展した沿海地区に出稼ぎに来る農村戸籍の一般国民には、企業でいいように搾取され、彼ら出稼ぎ者の送金した資金に目を付けた農村部でも、こうした資金を徴税するスキームが待っていました。農村部は民主化活動家と並ぶ社会主義市場経済の下での「負け組」でした。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
こうした「改革・開放」以後の中国を詳述しながら、中国共産党と社会主義市場経済は二つのジレンマを抱えたと著者は指摘します。一つ目のジレンマは対内的なもの、二つ目のジレンマは対外的なもので、いずれも自分たちの打った手が混乱を引き起こしているものです。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
一つ目のジレンマは、80年代までの「改革・開放」で強まった、「都市部の」不平感は、経済発展によって緩和したものの、それが出稼ぎの農村部などを犠牲としたものであったことで、結果的に国内の不安定を拡大したこと。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
二つ目のジレンマは、国内の動揺を抑えるべく思想・国防両面で引き締めを行なった結果、排外主義が高まったことで外交政策が自縄自縛に陥り、経済関係を深めなければならない諸国(特に日本)との関係において行き詰まりが生じてしまったということ。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
かかる状況にある現在の中国と直面するなかで、関係諸国は中国の現実を見て、対中政策を再考すべきだと著者は結びます。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
本書の説明は奇をてらったものではなく、大きい話から小さい話まで、多少中国報道を見ていると「そういえばこんな話聞いたな」というものが多々あり、そういう意味の新しさはありません。しかし著者の説明で、断片的な情報がパズルのピースのように繋がり現状の説明になる、そんな爽快感が存在します。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
またその爽快感の裏で、「どうすんだよ、これ…」「どうしようもないじゃん、これ…」というか、対中政策の見直しといっても…という感情もまた同時に生まれてくる、そういう本でもあります。
— 北千島さくら (@MValdegamas) 2017年11月11日
過去の投稿と重ねてみましょう。
- 日本は戦国時代に「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が頂点を迎える。すなわち一円領主化に成功した戦国大名が楽市楽座政策を通じて選別した御用商人と癒着する事により「領国=藩」単位の自給自足体制を完成させたのだった。しかしこの体制は株仲間、すなわち(参勤交代実現の為に全国規模で整備された交通網に立脚する)「領国=藩」単位を超えた富農や富商のネットワークの浸透によって百年足らず、すなわち元禄時代までに「(藩単位の)御用商人」が駆逐される事によって崩壊してしまう。
*当時の記録によれば「領国」側、すなわち藩主と御用商人の視点から株仲間はまさに「事象の地平線としての絶対他者」と写った。実際、西陣織商人はこの頃(藩主や御用商人を飛ばした)直接契約によってある種のグローバル経済、すなわち「養蚕段階」「紡績(生糸生産)段階」「機織(機織り)段階」の全国規模での分業体制を完成させ、オランダや朝鮮の生糸商人への原料輸入依存体制からの脱却を果たしているのである。また株仲間の全国ネットワークの凄まじさについては、例えば松尾芭蕉「おくのほそ道(1702年刊)」における、それを渡り歩いての全国旅行などにその一環を見て取れる。「全国規模での商業的ネットワークの構築」は、そのまま「(農業知識や博物学といった)全国規模での情報ネットワークの構築」につながり「(参加者が一堂に会しシーケンシャルに展開する)連歌」から「(「俳句」なる短いトランザクションが非同期的に交換され合う)俳諧の世界」への進化を生み出したのだった。
- 一方、英国やスイスの様に同様の過程を自然展開によって達成する事が出来なかったフランスの場合、革命期(1789年〜1799年)、皇帝ナポレオンによる第一帝政期(1804年〜1814年/1815年)、復古王政期(1814年〜1830年)、7月王政期(1830年〜1848年)を経てなおこれが達成出来なかった。
*「インテリ=ブルジョワ階層の皆殺しと全財産の没収による平等の達成」に執着し続ける急進左派と、組織票によって選挙では無敗を誇る「既得権益の墨守」にしか関心のない守旧派層が対峙する千日手状態が継続した為。
そこで「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世がクーデターを起こして第二帝政(1851年〜1870年)を開始。ポルトガル系ユダヤ人財閥やユグノー財閥といった外国人産業資本家の誘致によって「(国王や教会の権威を担保とした融資にしか関心を持たないフランス・ロスチャイルド家の様な)宮廷銀行家」を打倒する運びとなったのである。
だがまさにこの動きは「(前近代状態から一気に近代化を狙う)後進国向け処方箋」だったからこそ、アメリカ合衆国やドイツ帝国や大日本帝国の産業革命導入に際して大々的に参照される運びとなったのである。ガーシェンクロンいう「後発性利益」展開の先駆けとも?
GerschenkronModel
特に大日本帝国の場合「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県(1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の 江戸幕藩体制解体政策によってフランスの郡県制に似た体制への推移によって「藩債を巡る藩主と札差(御用商人)の癒着状態」まで解消する事に成功している。旧共産主義圏の間で流布している「共産主義=瘡蓋(瘡蓋)」論(後進国が共産主義を採用するのは、前近代的旧弊を打倒して資本主義社会に移行する過渡期という思考様式)に立脚するなら、中華人民共和国やベトナム社会主義共和国の共産主義採用もこれに準ずる可能性が存在するという次第。むしろ(他国に模倣が困難なほど)ハードルが高まるのは、ここから「第三共和制(1870年〜1940年)」への飛躍過程とも。
*中華人民共和国やベトナム社会主義共和国の様なさらなる後追い国家では同様の過程の達成難易度がさらに上がっている。 - イタリアにおけるファシズムやドイツにおけるナチズムは、独立達成後も旧態依然の国民分断状態が継続し続けた事への不満の鬱積を背景としていた。従ってその意味合いにおいては上掲の諸国とは原則として無縁となる。
*大日本帝国も含めて無縁でなかったのは、当時世界を席巻していた(ダーウィン進化論いうところの「適者生存」「性淘汰」理論を「弱肉強食」に置き換え「諸民族間の最終戦争」を煽る)民族生物学。そして日本は戦後もこれを引き摺る展開を迎えるのである。
それでは中国はこの段階から一体、何処に向かおうとしてるのでしょうか?
党規約に新しく加筆される「習近平思想」とは「習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想」だということがほぼ確実であろうことが判断される。もちろん習近平自身が演説で「新時代」の前に「習近平」という個人名を入れるようなことはしていない。
24日に発表される党規約に新たに書き加えられる「習近平思想」が「習近平新時代中国特色社会主義思想」であることを証拠づける、もう一つのフレーズがある。それは習演説の中でひときわ強い印象を与えた「站起来、富起来、強起来!」という言葉だ。
- 「站起来(立ち上がる)」とは中華民族が(アヘン戦争以来の)長い屈辱の歴史から遂に立ち上がったことを意味し、1949年10月1日に新中国(中華人民共和国)が誕生した日を指す。その日から文化大革命(1966~76年)終息までが、「毛沢東時代」だ。
- 「富起来(豊かになる)」とは、毛沢東の死後、1978年12月に鄧小平が「改革開放」を唱えてから中国が豊かになり始めた時期を指す。これは「鄧小平時代」だ。
- 「強起来(強くなる)」とは「毛沢東時代」も「鄧小平時代」も終わり、新たに中国が経済強国、軍事強国として「強国化」した時代で、これを「習近平時代」と位置付けている。
つまり、この「站起来、富起来、強起来!」というフレーズは「時代区分」を表した言葉ということができ、「習近平時代」を「新時代」と位置付けていることを証明する論理構成のキーワードになっている。
事実、習近平は演説で、「わが国が世界の舞台で日増しに中心的な役割を果たすようになった」として、中国という特色ある社会主義国家が発展のモデルとチャンスを多くの国に提供し、人類に益々大きな貢献を続けていく時代になったとしている。
つまり、アメリカに追いつけ追い越せにより、まもなく中国が世界の「ナンバー1」になることを示唆しているということになる。
1949年10月1日に中華人民共和国が誕生したとき、人民は新しく生まれたこの国を「新中国」と称した。「中国共産党がなければ新中国もなかった」という歌が流行り、筆者は毎日、この歌を唄わされながら育った。その「新中国誕生」に成り代わって「習近平による新時代誕生」という位置づけを、第19回党大会は強調していることになる。
それでは「中国の特色ある社会主義思想」とは具体的に何を指すのかを考察してみよう。
- 社会主義国家は、平易な言葉でざっくり表現するなら、毛沢東が謳っていたように「金儲けをしない、誰もが平等な(貧乏だけど平等な)社会」ということになる。その毛沢東時代、ひたすら毛沢東の権力闘争と政治運動に明け暮れて、毛沢東が逝去し文化大革命が終焉した時には、中国経済は壊滅的打撃を受けて、まるで廃墟のようだった。
- そこで1978年12月、鄧小平は「改革開放」を宣言して、「富める者から先に富め(先富論)」を唱えて、「金儲け」を奨励した。それまで金儲けに走った者を「走資派」と呼んで徹底して罵倒し逮捕投獄して2000万人以上が犠牲になっている。人民はその恐怖の中で生きてきたので、誰も鄧小平の「先富論」を信じず、金儲けをしろと言っても尻込みして、なかなか動かなかった。また保守的な幹部である「老人組」からは「社会主義に反する」と批判されたり、中国という国家が「中国共産党が一党支配する社会主義国家である」ことにそぐわないとして激しい論争が起きた。そこで鄧小平は金儲けに走る中国を「特色ある社会主義国家」とし位置付けて理論武装し、人民や老人組を納得させたのである。
- この「特色」二文字によって、「社会主義国家でありながら資本主義国家と同じことをしているではないか」という矛盾に「解答」を与え、かつ「社会主義国家」であることを維持することにした。つまり「中国共産党による一党支配体制だけは維持して、資本主義国家よりも資本主義的に金儲けをする」ことに正当性を与えたのである。それからというもの人民は全て「銭に向かって進み始めた」! この強引な論理武装から生まれたのが「底なしの腐敗」である。
こうして江沢民の「三つの代表」論(資本家でも党員になっていい)という理屈によって利権集団と中国共産党の幹部が「賄賂、汚職、口利き...」などによって癒着して生まれたのが「腐敗大国、中国」である。
- 鄧小平が国家を三大ポジション(中共中央総書記、中央軍事委員会主席、国家主席)を江沢民の一身に与えたのは、こうすれば三大ポジションの間で争いが起きないだろうと考えたからだが、そうはいかなかった。そもそも中国の「文化」はそんなに「清廉」ではない。腐敗によって栄え、腐敗によって亡んできたのが中国の歴代王朝だ。
- 「皇帝」が社会主義体制によって「総書記(紅い皇帝)」になろうと、中国のこの「腐敗文化」は数千年に及ぶ深い土壌に染み込んでいる。三大ポジションを江沢民が手にすることによって、この「腐敗文化」は活火山の爆発のように中国の全土を覆い、手の付けようがなくなっていた。
- だから2012年11月8日の第18回党大会開幕演説で、胡錦濤は最後の総書記としての演説を「腐敗問題を解決しなければ党が滅び国が滅ぶ」と締めくくり、11月15日、新しく総書記になった習近平は、その就任演説で胡錦濤を同じ言葉を繰り返した。
- 習近平が反腐敗運動に全力を尽くせるように、胡錦濤派全ての権限を習近平に渡し、習近平はその期待に応えて激しい反腐敗運動を展開した。腐敗の頂点に立つのは江沢民とその大番頭の曽慶紅だ。
18日、3時間24分にわたる演説をしていた習近平が、「反腐敗運動」に触れ始めたとき、なんとCCTVは江沢民と曽慶紅の顔を映し出したのである。
江沢民は怨念を込めた憮然たる表情で上目づかいにうつむき、曽慶紅は白髪一本残していないほどに真っ黒に染めた頭をシャキッと持ち上げ、「さあ、来るなら来い!」と言わんばかりの闘志に燃えた表情で習近平を睨みつけていた。
それもそのはず。
習近平をこんにちの座に導いたのは、まさに江沢民と曽慶紅、この二人だったからである。
特に曽慶紅は、習近平が清華大学を卒業して初めて仕事を始めたときからの知り合いで、習近平は曽慶紅を「慶紅兄さん」と呼んで慕い、曽慶紅はどこまでも習近平を支えてきた。2007年に上海市の書記に習近平を推薦したのも曽慶紅なら、同年、江沢民を説得して胡錦濤時代のチャイナ・ナイン(中共中央政治局常務委員会委員9人)にねじ込んだのも曽慶紅と江沢民だったからだ。
その恩を仇で返そうというのか――!
二人の怨念に満ちた表情を前に、反腐敗運動の成果を披露し今後も推進していくことを宣言した習近平の表情もまた、一歩も譲っていなかった。それはまさに現在の中国の実態を映し出す象徴のような図柄であった。
あれ? 中国共産党は2004年以降「(富裕層と貧困層の格差や地域的多様性を容認する)和諧社会」を将来のビジョンに据えたのでは?
もしかしたら、こうした「和諧社会」ビジョンの破綻と「(貧しくとも平等でる事を重視する)毛沢東主義」と「(富裕層がさらに勝ち続ける事を容認する)鄧小平主義」の「ええとこどり」を狙う習近平の(「国民統合」を看板に掲げたポピュリズム運動を展開したファシズムやナチズムを想起させる)不純な態度こそが、国内の中国人有識者層を不安にさせているのかもしれません。さて中共は一体どんな未来に向けて漂流しているのでしょうか?