ちょっと思ってしまったんですが、今の状態に至ってもなお「ギリギリ感」を感じてない左翼なんて、もう駄目かもしれない?
ようは左派さんたちにとってのバラ色の未来なんてもう来ないのはわかってんだけど、自分たちが時代に負けた(世論に相手にもされてない)とは思いたくもないし、それはマスコミも同じだから、とりあえず最高責任者である安倍総理が采配を間違えたんで本来あるべき理想が破たんしたとしたい感じなのね。
— 織部ゆたか (@iiduna_yutaka) 2017年11月4日
外山恒一『良いテロリストのための教科書』を、全共闘や新左翼への批判として読んだならば、完全な誤読だろう。そうではなく同書は全共闘や新左翼の駄目な所を切り捨て、可能性を再構築せんとしている。それが外山君の日頃の主張にある右翼による全共闘的運動の形成ということだ。重点は全共闘にある。
— 千坂恭二 (@Chisaka_Kyoji) 2017年11月5日
そういう私も、少なくとも当人の自意識的には「筋金入りの左翼」だったりします。それは当然、そういう立場を選択してしまった以上そうしたイデオロギー(Ideologie)が理論上「政敵」として選んだ憎悪対象を原則として継承している事を意味する訳です。
*イデオロギー(Ideologie)…原義としては(江戸幕藩体制やハプスブルグ君主国の様な身分制社会における)各階層の成員の行動を決定する根本的な思考様式を指す。その認識範囲内においては矛盾ない様に組織され「拒絶」という選択肢を持たない。
- 19世紀から20世紀初頭にかけて進行した「政治的ロマン主義から(科学的実証主義も採用した)新ロマン主義への流れ」について、割と根本的な部分で「究極の無政府主義者」大杉栄の分析に立脚する。
*その立場ゆえに「国王と教会の権威に対する未来永劫の一切妥協なき反抗」を表明し、それ故に一緒に対消滅していった当時の政治的ロマン主義運動に対しては批判的立場を選択せざるを得ない。
その一方で「革命家に勝利はない。政権交代の成功は常に新たなる反体制運動家の弾圧開始しか意味しないからだ」と断言した「一揆主義(Putschism)」のオーギュスト・ブランキを相応に評価している。というより生涯「事象の地平線としての絶対他者」として社会秩序の外側に留まり続ける道を選んだ人間を批判の射程内に納める術がないというのが正しい。
オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online
*大杉栄の分析で一番好きなのは「民衆に密着する事で江戸時代の不遇を生き延びてきた「真のプロレタリアート」たる公家すら倒せないのに、彼らを藩屏とする天皇に到達出来る筈がないだろう?」なる問題提起。しかしまぁ「究極の自由主義者」大杉栄を受容した時点で「左の右」すなわち反ボルシェビキにして反「民主集中制=共産党独裁構想」という立場を選択した事に。
反レーニン主義 - Wikipedia -
またカール・マルクスが「経済学批判要綱(Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie、執筆1857年〜1858年、出版1859年)」において示した「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる提言を同時期発表のジョン・スチュワート・ミルの古典的自由主義やダーウィンの系統進化論と同列に並べ重視している。
*当時の思想界の急激な変化を1857年恐慌と結びつけて論じる向きもある。ニューヨークの銀行が大いに必要としていた金を積んでいた蒸気船SSセントラル・アメリカがハリケーンのために沈んだことで、1857年恐慌の引き金になり、南北戦争が終わるまで財政が回復することはなかった。https://t.co/PkBxwuqBtu pic.twitter.com/7672gCXfoM
— BB👍 (@baribaribarikun) 2017年5月15日“セントラルアメリカ号が運んでいた金は、当時、ニューヨークの多くの銀行が苦しい資金繰りを乗り切るために必要としていたもので、沈没によって銀行の経営破綻が相次ぎ、「1857年恐慌」の引き金になったとされていま...”... https://t.co/XfoNhdlPif
— Tamejirou (@Tamejirou) 2016年9月24日アンドリュー・ジャクソンが引き起こした1837年恐慌は7年で立て直した
— 串焼き 東京壁蹴り代行㈱第一開発室 室長 (@dr_kusiyaki) 2017年2月11日
クリミア戦争終結時の穀物価格下落による1857年恐慌は3年で立て直した
全世界を巻き込んだ1929年大恐慌は12年で立って直した
世界恐慌の影響で発生した昭和恐慌は僅か4年で立て直した*「経済学批判要綱」出版のスポンサーだったラッサールは小ドイツ主義者でもあり、後に大ドイツ主義者たるマルクスやエンゲルスと決別する展開を迎える。私が採択したのはむしろ「社会民主主義の父」ラッサールの思考様式とも。
1859年に『経済学批判』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らったラッサールであったが、この頃からマルクスはラッサールに対して不信を強め始める。
- 同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された。
もっと大きかったのはイタリア統一戦争(1859年)をめぐって見解が相違したことだった。
- この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持。マルクスもこの見解を支持した。
- しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens、1859年)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をするべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにフランスがドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的なサヴォワの併合だけ。」「オーストリアが弱体化してもドイツ統一の打撃にはならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」といった趣旨の主張を行った。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際に行ったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された。
- しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは決定的に相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られたのである。
またこの時期マルクスは、カール・フォークト批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールがいまいち乗り気でないことにも不満を持っていた。加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとっていたこともマルクスの不信を加速させた。ラッサールはマルクスに自身の金銭事情を説明したものの、マルクスは信じてくれなかった。
*「貴様の様な絶対悪は一刻も早く地上から滅し尽くされるべきだが、お願いですから仕送りだけは絶やさないでください」。まさしくこれこそが現実のマルクス主義?
豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。
法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。
神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面する事になっている。
こうした思考様式は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目されている。*ここでいう「マルクスの人間解放論」はロシア革命(1917年)から切り捨てられる一方でジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年初版)」やアントニオ・ネグリの「マルチチュード論」といった無政府主義的思想の源泉となった。「(ムッソリーニのファシズムへの敗北から学んだ)ユーロコミュニズムの父」グラムシは、こうした展開も踏まえた上で自らのヘゲモニー論を展開している。
- 同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された。
- 1859年時点においては「未来永劫続く確固たる社会基盤」と想定されていた伝統的共同体が産業革命導入によって決定的な形で崩壊。ロンブーゾの遺伝犯罪学はタルドの模倣犯罪学(方法論的個人主義)を経てデュルケームの方法論的集団主義に結実。この思考様式は「戦前最大の唯物論哲学者」戸坂潤(1900年〜1945年)より学んだ。
*偏狭なナショナリズムからフランス人は上掲の流れ、ドイツ人は「マルクスからフロイトやマックス・ウェーバーへの流れ」ばかり強調したがる。それにも関わらず戦前日本の左翼はちゃんと「マルクスからデュルケームへ」の流れをしっかり感得していた。
- 19世紀末から20世紀初頭にかけてプロレタリア独裁や暴力革命を拒否したベルンシュタインとローザ・ルクセンブルグの間で繰り広げられた「修正主義論争」はあくまで左翼陣営内部における内紛だったが、これについてはベルンシュタインの側を支持すると断言している。
ここまで「保守主義的思想」の影響は全く見られず、その一方で「左の右」すなわち可能な限り「(あくまで「民主集中制=共産党独裁体制」に反対し抜く)社会民主主義」を選択してきた状況が浮き彫りに。それが「典型的ネトウヨ」呼ばわりしか受けない辺りに「21世紀左翼の閉塞感」が如実に現れているとも?