諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【宮本武蔵】【ビスマルク】「自力救済」から「他力本願」を経て「バスケット形式」に。

フィクションは現実世界を思わぬ形で塗り替えたりするものです。 出発点は朝倉宗滴武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つ事が本にて候」の世界。日本人がまだまだ氏族戦争(Clan War)状態から脱却していなかった頃まで遡ります。

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価値観に大きな転換があったのは大正時代頃。氏族戦争(Clan War)からの脱却を目指す国際的トレンドに便乗した形?

吉川武蔵の虚構

宮本武蔵」は当初朝日新聞社内では歓迎されなかったらしい。それ以前の「立川文庫」等の講談筆記本や、大衆向け時代小説では、主人公は邪気のない武闘派の英勇豪傑、ただし艱難辛苦のプロセスをたどって、ついには父親の仇を討つ懲悪的義人だった。そのパターンが確立して典型化していたので、「また武蔵か」という感がだれしもあったのである。

これに対して、吉川版「武蔵」は、つまり我々の云う「吉川武蔵」は、そうした旧態依然の講談本風武蔵像を完全に一新してしまう、いわば斬新なものだったようである。

どこが斬新だったかといえば、一般に評論で述べられているのは、武蔵をだれにも共通の等身大の個人として、人生に苦悩し剣の道を探究する「求道的人物」として描いたことだという。しかし、それでは踏込みが足りない。

吉川武蔵のどこが斬新だったか。まず第一は、敵討〔かたきうち〕、父の仇討ちという江戸時代以来の武蔵物文芸のテーマを抹消したことだ。このテーマはパターン化された勧善懲悪として、近代に入って貶められてきたが、大衆文化の領域ではまだまだ人気があった。それを吉川版「武蔵」は一掃した。

しかし、そうなると、主人公のアグレッシヴな闘争性向には理由がなくなってしまう。懲悪敵討というテーマは、主人公の殺人的暴力に社会的「理由」を与え、報復行為として承認できるものだった。そして主人公の殺害行為に同一化することによって、読者もしくは観客は自身の暴力欲動を発散することができた。この報復的懲悪的殺害というパターンは、周知のごとく、現代の大衆文芸でも延命している。

懲悪敵討というテーマを欠く殺害行為は、いわゆる「理由なき殺人」に等しい。誤解の沸立つことを承知の上で云えば、吉川武蔵は、そうした「理由なき殺人」、理由もなく他人を殺害したいというスリリングな欲動を、時代小説に持ち込んだ。それが斬新なところ、近代小説たるゆえんである。

ただし、いわゆる「純文学」ならそれもありうるが、「理由なき殺人」そのままでは、大衆小説にならない。そこで、大衆が主人公に同一化できるモチーフが必要である。

それが、旧態依然の武蔵物語が必ず具備していたモチーフ、つまり「主人公が艱難辛苦して目的を達成する」というプロセスである。この艱難辛苦して目的を達成するというプロセス・モチーフがあれば、読者大衆は主人公に同一化できる。そして、この「努力」のプロセスが、「求道」と呼ばれ、「理由なき殺人」さえも合理化する。手段が目的を正当化するというより、手段が目的と化すのである。

吉川武蔵において特徴的なのは、「艱難辛苦して目的を達成する」というモチーフが、精神修養のプロセスへ変換されたことである。いわば、懲悪敵討の等価代理物が、精神修養である。懲悪敵討の報復的暴力を受け入れない者でも、精神的求道なら受け入れるという奇妙な合理化が可能になった。それは、プロセスが内面化したからである。かくして主人公=読者の「理由なき殺人」は「理由」(reason)ではなく、大義(cause)を獲得する。ただし、それは社会的理由ではなく、個人的大義である。この内面化した構造の意味で、吉川武蔵はモダンなのである。

 その一方でこうした武闘派気質を国際的に「学生」が継承していくのです。
*インテリ=ブルジョワ階層の子弟による親世代への反抗なる基本構造が重要?

実はプロイセン宰相ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年〜1898年)の学生時代もこんな感じだったらしいです。当時は「ブルドッグを引き連れ寝間着の様に派手でだらしない長衣をズルズル引き摺って悪所を徘徊する」の様子があちこちで目撃されています。しかもイケメンで女性問題を多数引き起こしていたという…

オットー・フォン・ビスマルク - Wikipedia

1815年にプロイセン王国東部のシェーンハウゼンにユンカーの息子として生まれる。文官を目指し、ゲッティンゲン大学ベルリン大学で法学を学ぶ。1835年に大学を卒業し、官吏試補となるも職務になじめず、1839年からユンカーとして地主の仕事をする。

1847年に身分制議会のプロイセン連合州議会の代議士となり、政界入り。1849年に新設されたプロイセン衆議院の代議士にも当選する。代議士時代には強硬保守派として行動した。正統主義に固執し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義ナショナリズム運動、国民主権憲法によるドイツ統一の動きを批判した。裁判官ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハとその兄で国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の寵臣である侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハ将軍に近い立場をとり、革命で誕生した自由主義政府を牽制するためにゲルラッハ兄弟が宮廷内に組織した「カマリラ(影の政府)」に参加した。

1851年にドイツ連邦議会プロイセン全権公使となり外交官に転身。ドイツ連邦議長国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、正統性がないとされていたナポレオン3世フランス帝国や小ドイツ主義統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力との連携を模索するようになった。

1858年に皇太弟ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム1世)が摂政となり、自由主義的保守派貴族による「新時代」内閣が発足すると強硬保守派と看做されていたビスマルクは駐ロシア大使に左遷されたが、クリミア戦争以来オーストリアを恨んでいたロシアの宮廷・政治家から反墺的態度を歓迎された。イタリア統一戦争の際にもプロイセンが反墺的中立をとるよう尽力。

1861年に国王に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン中将は軍制改革をめぐり、その予算を「軍隊に対する王権強化」と看做して通そうとしない衆議院自由主義派議員と対立を深めていった。国王側近たちが衆議院に対するクーデタ論に傾く中、ローンはクーデタによらず解決を図りたいと考え、同様の考えのビスマルクの首相就任を希望するようになった。1862年、無予算統治を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローンが推薦するビスマルクプロイセン首相に任命した。

首相に就任するや衆議院予算委員会で鉄血演説を行い、ドイツ問題でプロイセンが優位に立つためには軍拡が必要である旨を訴え、自由主義者に軍制改革を支持させようとしたが、逆に批判を受ける。この演説で「鉄血宰相」の異名を取るようになった。自由主義派の支持が得られそうにないと見るや無予算統治で軍制改革を断行した。これによって無予算統治を違憲とする自由主義派との間に憲法闘争が巻き起こった。

この国内的亀裂は、三度の小ドイツ主義統一に関する戦争に勝利して自由主義派の支持を獲得することで解決に向かう。その最初の戦争は1864年デンマークに併合されそうになったシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国をめぐって、オーストリアとともに起こした対デンマーク戦争だった。イギリスの干渉を抑えてこの戦争に勝利したことで両公国からデンマークの支配権を排除することに成功し、ドイツ・ナショナリズムからのプロイセンの評価を高めた。

ついで両公国の帰属をめぐってオーストリアと対立を深めた。同時期オーストリアに保守政権が樹立されるとこれを利用してガスタイン協定を締結し、ドイツ・ナショナリズムにおけるオーストリアの威信を低下させた。またビアリッツナポレオン3世と密約を結び、フランスの中立の確信を得たといわれる。

1867年に普墺戦争を開始し、短期間で勝利を収めた。フランスの領土欲を抑えながら、オーストリアに寛大な講和条件を提示して戦争を早期終結させた。これによりオーストリアをドイツ問題から排除し、プロイセン一国覇権の北ドイツ連邦を樹立することに成功した。ただしこの時点ではフランスの圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸国は参加しなかった。

つづいて、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の統一を目指して、南ドイツ諸国のプロイセン型軍制改革を支援したり、関税同盟に議会を設置するなどしてドイツ統一機運を盛り上げようとしたが、南ドイツ諸国の反普感情を変えることはできなかった。

そのためフランスとの開戦によって南ドイツ諸国のドイツ・ナショナリズムを高めることを目指すようになった。1870年、スペイン王位継承問題を巧みに利用し、フランスが理不尽な要求を突き付けて一方的にプロイセンに宣戦布告してきたという状況を作り上げることで、全ドイツ諸国の反仏感情を爆発させ、プロイセン軍のもとに一致団結させ、また他国の中立も確保して普仏戦争に持ち込んだ。

セダンの戦いではナポレオン3世を捕虜にした。これによって第二帝政から第三共和政に移行したフランスだったが、ビスマルクが要求したアルザス=ロレーヌ地方割譲を拒否したため、戦争は続行された。パリ包囲戦中の1871年1月にドイツ軍の大本営がおかれていたヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家ドイツ帝国を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させた。戦争の方も2月にはパリの困窮に耐えきれなくなったフランス政府がビスマルクの要求に応じたことで終結した。

プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、国民自由党など自由主義勢力と協力して様々なドイツ近代化改革を行った。その一環でカトリックを弾圧する文化闘争を行い、ローマ教皇ピウス9世や中央党と対立を深めた。しかし社会主義勢力の台頭や国民自由党内でエドゥアルト・ラスカーら自由主義左派が反ビスマルク的姿勢をとるようになったことで中央党との関係改善を志向するようになり、文化闘争を終了させた。

ついで社会主義者鎮圧法制定や保護貿易への転換などで国民自由党に揺さぶりをかけ、自由主義左派が国民自由党から離党してドイツ自由思想家党を結成するよう追い込み、保守党、帝国党、国民自由党の三党に「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を結ばせ、これを自らの与党勢力とした。さらにドイツ社会主義労働者党や自由思想家党に「帝国の敵」というレッテルを貼って攻撃した。とりわけ社会主義労働者党には社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた。労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止すべく、1883年には疾病保険法、1884年には労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出した。

ドイツ統一後の外交は、対独復讐に燃えるフランスを孤立させることに腐心した。はじめ君主国の連帯で露墺とともに三帝同盟を結んでいたが、露土戦争に勝利したロシアがバルカン半島に支配権を確立すると英墺が強く反発し、列強間の大戦の気配が漂った。三帝同盟崩壊を恐れるビスマルクは「公正な仲介人」としてベルリン会議を主催してロシアを妥協させて戦争を回避したが、今度はロシアの不満が高まり、三帝同盟は事実上崩壊した。

ビスマルクは新たなフランス封じ込め体制の構築を狙い、1882年にはオーストリアやイタリアと三国同盟を結び、1887年にはイギリスとイタリアの間に地中海協定を締結させ、ついでオーストリアもこれに参加させた。他方ロシアとの関係もできる限り維持すべく、1887年に独露再保障条約を締結した。

一方アフリカやアジアで過熱するヨーロッパ諸国の植民地獲得競争では、英仏の植民地獲得を支援し、両国が植民地の利権をめぐって対立するよう離間を策動し続けた。1884年コンゴの領有権をめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まるとベルリン・コンゴ会議を主催し、植民地獲得の原則を定めた。ドイツ自身の植民地獲得には慎重だったが、1884年から1885年にかけてはアフリカや太平洋上のドイツ人入植地をドイツ領に組み込んでいる。

こうしたビスマルクの一連の巧みな外交のおかげで普仏戦争後の19世紀後半のヨーロッパではヨーロッパ諸国間の戦争は発生しなかった。この第一次世界大戦までの小康状態は「ビスマルク体制」と呼ばれる。

しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に首相を辞することとなった(→失脚)。退任後、ヴィルヘルム2世と対立を深めていたが、最終的には屈服。1898年7月30日に死去。

そして多態性を取り入れた「グランドホテル」形式の展開なら「成功例」と「失敗例」のさりげない対比が可能となります。「(リスク分散の為、あえて相互矛盾する諸要素を組み合わせる)バスケット形式」の発想の起源とも?

つまり最終的には「多様化・多態化の時代(1990年代〜)」にその一部として合流していく流れとも?