諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「総力戦体制時代」から「産業至上主義時代」へ④ 例えば栗本真一郎の「経済人類学の日本への紹介」

墨攻酒見賢一の原作1991年、森秀樹の漫画化1992年〜1996年、中韓合作映画2006年)」は、それぞれのバージョンが「古代中国において一時期、あれほど巨大組織に発展した墨家がどうして以降の歴史に全く影響を与えなかったか?」を問う内容でした。
*なお「墨攻」なる単語は、酒見が「墨守」という言葉を転じた造語。
墨攻 - Wikipedia

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全体像を俯瞰すると「秦の始皇帝の手になる史上初の中国統一(紀元前221年)」に向かう歴史的流れの中で、そうした国家統一に向けての動きを「絶対普遍の人道的不正義」と認定して徹底抗戦を誓う無政府主義的姿勢によって勢いを得たものの、やがてそういうスタンスそのものが「絶対普遍の人道的不正義」と認定され表面上は消失していく流れが浮上してきます。そして以降、中華王朝は「無政府主義が勝利した地方分権時代」と「独裁者とその末裔が英雄として君臨する中央集権時代」を幾度となく繰り返すうちに「体制派の用いる暴力と反体制派の用いる暴力の間に区別を見出すのが難しいニヒリズム」を骨身に刻む展開を迎える事になるのです。
*「墨攻」漫画版の逸脱は強烈で、墨家は「中央集権派」と「地方分裂派」に分裂し、それ自体は内紛の果てに滅んだものの、その残党が日本列島に落ち延びて米作をもたらしたとする。一方、台湾映画人が主導権を握った映画版は「墨家=日本人=アジア的良心=現実を変える力を有しない純粋理念」とし「大陸同胞」や(同じく大日本帝国を元宗主国として仰ぐ)韓国を徹底批判。その切れ味は「中世的英雄主義への回帰を渇望するドイツ軍事貴族の慢心」を「そのドイツ軍事貴族すら手駒として手元に置きたがる」近代戦英雄に「ヒトラー総統は聖戦への勝利のみをお望みです(なのに貴方達は自分が生き延びて栄光に包まれる事しか考えておられない)」と批判させたサム・ペキンパー監督映画「戦争のはらわた(Cross of Iron、1977年)」のそれに匹敵する。ここで興味深いのは「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代前半?)」の終焉と「産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)」の開始によってこの次元の問題がさらに深化していくという展開。

王政復古期フランス(1814年〜1848年)で勃興した政治的ロマン主義運動は「国王と教会の権威に対する絶対不服従」を誓う内容だったが、それ故に経済の主体が王侯貴族や聖職者から資本家や労働者などに推移すると対消滅を免れ得なかった。
*古代中国における法家と墨家の関係もこれとも。

  • 経済の主体が王侯貴族や聖職者から資本家や労働者などに推移…産業革命がもたらした大量生産・大量消費スタイルが引き起こした結果で、文学者や芸術家もこうした時代への適応を余儀なくされていく。

  • こうした変遷が伝統的共同体を崩壊させた結果、従来のセーフティネットから漏れた「敗残者」の犯罪者化や自殺が問題に。ロンブローゾの遺伝犯罪学やタルド模倣犯罪学はまさにそうした時代に生まれ、遂には「社会学の父デュルケームの方法論的集団主義へと行き着いたのだった。
    *フランスにおいてはこの流れが社会学の起源とされる。

  • その一方で1859年にはジョン・スチュワート・ミル「自由論(On Liberty)」やチャールズ・ダーウィン種の起源(On the Origin of Species)」と合わせカール・マルクスが「経済学批判要綱(Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie、執筆1857年〜1858年、出版1859年)」を出版。そこで示された「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」なる提言は、この本の出版に尽力したラッサールの手によって社会民主主義を基礎付ける理論に発展させられる事になったのである。

    フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の概要

    豊富な法知識を駆使した私有財産概念の推移を巡る論文。http://g01.a.alicdn.com/kf/HTB1qWgCIFXXXXa0XpXXq6xXFXXX3/%E7%A7%81%E6%9C%89%E8%B2%A1%E7%94%A3%E7%AB%8B%E3%81%A1%E5%85%A5%E3%82%8A%E7%A6%81%E6%AD%A2%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%A3%85%E9%A3%BE%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC-%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3%E9%87%91%E5%B1%9E%E3%82%B9%E3%82%BA-%E3%81%AE-%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0-%E3%83%87%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-%E3%83%91%E3%83%96-%E3%83%90%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3.jpg

    法律制度は特定時における特定の民族精神の表現に他ならない。この次元における権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、その普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害された事にはならないと説く。
    普遍精神(Allgemeine Geist)…一般にルソーがその国家論の中心に据えた「一般意志(volonté générale)」概念に由来する用語とされるが、その用例を見る限り、初めてこの語を用いたD.ディドロの原義「(各人の理性のなかにひそむ)法の不備を補う正義の声」、あるいはエドモンド・バーグの「時効の憲法(prescriptive Constitution、ある世代が自らの知力のみで改変する事が容易には許されない良識)」を思わせる側面も存在する。
    http://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-der-allgemeine-geist-der-gesetze-aller-lander-hat-sich-unverkennbar-die-aufgabe-gestellt-stets-jean-jacques-rousseau-127064.jpghttp://gutezitate.com/zitate-bilder/zitat-die-alleinige-quelle-des-rechts-ist-das-gemeinsame-bewusztsein-des-ganzen-volkes-der-allgemeine-ferdinand-lassalle-241770.jpg
    その結論は「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」という社会主義的内容だった。
    http://ecx.images-amazon.com/images/I/51--qN-HuDL.jpg
    すなわち初めに人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、次第に漸進的にその限界を受容してきたとする。http://pds.exblog.jp/pds/1/200709/24/21/a0071221_2303163.jpg
    神仏崇拝とは神仏の私有財産状態からの解放に他ならない。
    https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTzbX9n9jeut1o9bm44L9k1y6X3X0ylpfeOogb-x0_IVPKzw5_0
    農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者へと変遷していく過程は農民の私有財産状態からの解放に他ならない。
    http://www.tky.3web.ne.jp/~ashigal/ww1/kiso/pic/nodo.jpg

    ギルドの廃止や自由競争の導入も、独占権が私有財産の一種と見做されなくなった結果に他ならない。
    http://mujaki666.up.n.seesaa.net/mujaki666/image/gahgahga.bmp?d=a0

    そして現在の世界は資本家と労働者の富の収益の再分配はどうあるべきかという問題に直面する事になっている。
    http://blog-imgs-64.fc2.com/g/i/a/gia44/fedora.jpg
    こうした思考様式は「ハノーファー王国(1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあり、普墺戦争(1866年)に敗れてプロイセン王国に併合されるまで存続)」経由でドイツが受けてきた英国からの影響の総決算とも目されている。

  • 19世紀前半のオーストリアにおいて「今後は自然科学的な知のみを体系化すべきであり、それによって哲学は不要になる」としたモレスコット、フォークトやルートヴィヒ・ビューヒナーらの「俗流唯物論(vulgar materialism)」。19世紀後半には、これに対抗する形でヘルマン・フォン・ヘルムホルツが当時の感覚生理学の研究成果を援用し「知覚の内容はその主観的諸条件に依存する」とし現象(独Ding 、英Thing)と物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)を峻別するカントの超越論的哲学を再評価した(新カント主義)。こうして自然科学のようないわゆる「経験科学」が「物自体」を直接認識可能とする独断論が批判対象とされる様になった上に19世紀末には精神分析学者フロイト夢分析を通じて「無意識の発見」に成功。ようやく「人間の心」を実証科学の対象とする場合の基本姿勢が固まったのだった。
    *ドイツにおいてはこの流れが社会学の起源とされる。

②ソレル「暴力論(Reflexions sur la Violence=「暴力に関する考察」、初版1908年)」は、当時労働運動の現実、すなわち議会政党の政治家(社会民主主義)や労働貴族黄色組合)に牛耳られ取引の場と化している欧州の現状を批判。「元来、階級闘争とは支配階級の上からの権力(フォルス)と、被支配階級の下からの暴力(ビヨランス)との闘争を指す。前者は(保身的態度から)暴力を野蛮で破壊的と除け様とするが、後者はそれ(まさにゼネストサボタージュなど「労働組合=革命的サンディカリスム」が用いる暴力)を「世界を救う創造的な力」として扱う」とした。さらには国民を「(議会制民主主義を牛耳るブルジョワ=インテリ階層の自己保全要求を超越した)真の革命」に導くには「(出身を問わず各人が実践可能な)神話」が不可欠とし、(ムッソリーニが主導した)ファシズムや(スターリンが主導した)スターリニズムや(ヒトラーが主導した)ナチズムを準備したとされる。

  • このスタンスの最大の問題点、すなわち「反体制暴力は、既存体制の打倒に成功するとたちまち体制側暴力へと変貌する」ジレンマについては「19世紀欧州で最も危険とされた革命家オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)が既に気付いていた。「革命に勝利など存在しない。いかなる体制転覆の成功も、新たなる反体制運動の弾圧開始に他ならない」。
    *かくして、まさしく「一揆主義(Putchism)」こそ「事象の地平線としての絶対他者」の立場に留まろうとし続ける者達の基本戦略となる。
    オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online

  • 古代中国における墨家は「兼愛(自他・親疎の区別なく、平等に人を愛する態度)」の思想を追求した結果、「人間の不平等」を大前提として出発し、適切な秩序想像に主眼を置いた儒家に敗北して同様の立場に追い込まれていったとも。

  • 表面上は「人間の平等(同和主義)」を謳いつつ、現実的には「人間間の不平等の安定(和階主義)」を志向する戦略は(ムッソリーニが主導した)ファシズムや(スターリンが主導した)スターリニズムや(ヒトラーが主導した)ナチズムといった極端な形での独裁体制のみならず、様々な「インテリ=ブルジョワ階層寡占社会」においても見て取れる。

③こうした展開にロシア革命の成功に乗じて彗星の如く割り込み、かつ最終的にはほぼ痕跡一つ残す事なく消えていったのが「科学的マルクス主義」と呼ばれるムーブメントだったとも。

  • マルクス主義」と名乗ってはいるものの、それは実際にはフォイエルバッハ神学を継承したマルクスの人間解放論の丁寧な除去から出発した。従ってその延長線上において「労働者が自らの人間性を回復する戦い」を構想し「人々を実践的に導く神話の創造」を提唱したソレルの理論とも直接の関係は持たない。
    *「人々を革命に向かわせる理論」が、革命成功後に封印され弾圧対象となるのはどの時代のどの国でもあった事。

  • むしろ「科学的マルクス主義」の中核はロシア革命当時アメリカで大成功を収めつつあったタイラー主義だったとも目されている。
    *タイラー主義はそれ自体が革新的経営論に過ぎなかったが故に、過去の歴史や伝統、社会にとの連続性への配慮、および経済活動とそれ以外の社会の関係についての関心などが完全に欠落していた。こうした「科学的態度」を国家経営の礎に据えた科学的マルクス主義は、それ故に「科学主義(Scientism)」の弊害に終始苦しめられ続ける事になったのだった。
    科学主義 - Wikipedia

  • 1960年代を過ぎた頃から共産主義圏の人間すら「科学的マルクス主義」の根本的欠陥を認めざるを得なくなっていく。それ以降も共産主義国家は存続し続けるが、それを支える理論は他の諸概念に差し替えられていく。
    *そもそもタイラー主義自体、純粋に高評価が保たれていたのは世界恐慌(1929年)頃までで、それ以降は米国自体が社会民主主義的ハイブリッド経済への推移を始めている。

そして「経済人類学」なるジャンルが、上掲の様な流れから派生します。大源流は「方法論的集団主義」に拠るフランス系社会学から派生した文化人類学。ここからさらに「資本本主義化以前の前近代段階においても経済活動は社会に埋没する形で存在しておいる」という構想から分岐したもの。

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*こうしたムーブメントの盛り上がりの背景にはミッシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」の発表によってソレルの提唱した「人類を真の革命に導く神話」への関心が「体制を打倒する方法論」から「体制を安定させる方法論」に推移した事もあるかも。とにかく当時の「科学的マルクス主義学者」は 「科学的マルクス主義」の代替物を一刻も早く見つけ出さねばならない状況に追い込まれていたのである。

私個人は「経済人類学の父」カール・ポランニーの理論を修正主義的立場から取り込んだだけですが、こうして全体像を俯瞰してみると日本においてそれが高評価を得ていく過程にはまた別の背景があった様に見受けられます。

栗本真一郎「ポランニーの経済史諸概念と唯物史観の認識をめぐって : 人類学的歴史学の方法再論」

経済人類学とは「歴史学文化人類学の多重継承」である?

歴史研究も、研究者の依属するものとは空間論や時間観を事ならせる文化・経済の研究という意味では、異なる文化の解釈者たる文化人類学者との共通底を持たざるを得ない。またそうであるならば、身振りや仕草の意味も対象空間のコスモロジーからのみ理解しなければならない。

そして文書資料を用いる場合も記号としての文字や言語の「記号論」的解釈を媒介としてのみ有効な歴史資料となりうるのであって、即物的・経験的に研究者が自己文化中心主義的に解釈して歴史の記述に用いる事など出来ないなどという事は、何も今更経済人類学のみが改めて指摘することでも何でもなかっただろう。

それは人類学一般、言語学、哲学の進展の中で認められてきた事ではある。そこで当然、生活史や民衆史が民衆の生活を「洗い出す」時、当該共同体の空間論・時間論に浸潤したものでなければ、そこから「民衆の意識」へ到達するなどは不可能という事になる。だから「目を向け直そう」というだけの「新しい」試みなど失敗する事も目に見えている。その意味で新しい掛け声の中で可能性のあるものはどれくらいあるだろうか?

歴史観のない歴史観がよいのではないか」と経済人類学は主張する?

当該共同体のコスモロジーとシンボリズムを理解せんとする事は、全ての予測から自由な学知的研究者たる事を要求する。これまでであれば、そんな事は不可能だと一蹴された。しかしそうした異文化を解釈する方法とトゥールの開発と批判こそ、経済人類学だけでなく、むしろローマン・ヤコブソン以降の文化およびそれに直接・間接に触発された諸傾野の目標としてきたところではなかったのか。そして既にかなりの依拠すべき成果もある事もここで述べるまでもあるまい。

かかる意味で日本の経済史家において、より明確な歴史観を持っていたと自他共に許すマルクス主義歴史学の大部分は、その硬直した下部構造把握の故に、かなり以前から有効性を失っていたといわざるを得ない。「硬直化した」というのは、生産様式や労働・土地制度といった様な所謂「唯物史観」の基軸となる諸概念が、マルクス以降のマルキストによって単に物量的・経験的概念の中に閉じ込められてしまったという事である。マルクス主義が生存しているかどうかという問題が、このところ殊更に問われているけれど、そこにおける問題の要諦は実践運動の問題でもあるが、認識論なのでもある。

どちらかというとデュルケームの甥でもあったマルセル・モースが「人類に伝わる呪術的意味合いを備えた身振りや仕草、および各共同体が伝統的に備えてきたコスモロジーとシンボリズムの総覧」作成を計画していた流れの延長線上にある事を評価する立場。展開的には「マルクス主義歴史学への失望」がフランスにおけるアナール学派の民衆史研究の影響を受けて所謂「網野史観」が誕生する流れと重なります。
*「人類に伝わる呪術的意味合いを備えた身振りや仕草の総覧」…18世紀絶対王政下の有識者の間で盛り上がった百科全書的啓蒙主義を彷彿とさせる。実際「全てを記録に残す者だけが、全体像の俯瞰から新たな知見を得る」みたいな意図の継承を感じざるを得ない。

*そういえばこのサイトが立脚する「(大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移するまで海洋国家として繁栄した)ヴェネツィアこそ欧州近代化の起点」とする歴史観の主要供給源の一つたるウィリアム・H・マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1974年)」が発表されたのもこの 時期。

まさしく「総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)」から「産業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)」へと推移していく過程には、こんなパラダイムシフトもあったという話…