諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【デフレと搾取】「世界商品としての昆布」の歴史について。

伝統の味」にも歴史あり。

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海苔がまだまだ高価だった時代が「(歌舞伎鑑賞から生まれた)助六寿司は高級品」「ざる蕎麦(海苔あり)と盛り蕎麦(海苔なし)による身分差表現」なんて慣習を残し、そのコモディティ化恵方巻きや軍艦巻きの様に「これみよがしに海苔を用いた料理」を残してきた歴史と重なりますね。
*そして、そこまで海苔が好きになれない外国人がInside out roll(裏巻き)やDragon rollやCaterpillar roll(「穴子の胡瓜巻き」を発想の起源とするキュウリやアボガドの桂剥きで酢飯を巻いた料理)やSalmon roll(海苔の代わりにサーモンの薄切りを用いた巻き寿司)Pink roll(「湯葉巻き」を発想の起源とするカラフルな巻き寿司)を生み出す展開を生み出す事に。

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*そういえば英国発祥の「メイド服」もまた、東欧出身の下女達が着ていた民族服に「生産過程の工業化によってコモディティ化した」レースをこれみよがしにあしらった結果生まれたとされている。

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 ところで「博多うまだし」の原料ってその大半が九州内で調達可能な魚介類で構成されているのですが、唯一の例外が「北海道産の昆布」。

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それは江戸幕藩体制時代まで遡っても既に琉球王朝の宮廷料理に組み込まれており、さらには当時の日清貿易においても重要な輸出品目の一つであり続けた「世界商品」だったとされています。かくして昆布出汁の味わいが日本全土で共有され「和食アイデンティ」の根幹概念の一つとなったのです。

中国の昆布の起源については、「昆布は中国の固有種ではなく、1927年に北海道の函館から中国大連市に渡り、その後、煙台市や青島市などに広がっていった」という見方が一般的だった。この見方には確かな実験生物学的証拠がなかったが、今回の研究成果は中国の昆布の起源に関する研究に科学的根拠をもたらした。

*ここで我々はその音色のエスニックさ故に日本じゅうに広まり、江戸時代にはある種のカウンターカルチャーとして有識者の間で忌避されつつ、気がつくと日本の伝統芸能の一環に組み込まれていた「三味線」や、当初は大陸の味として珍しがられていたが故に広まった「白菜」などを巡る錯綜した歴史を思い出すべきかもしれない。ただし「白菜」の日本における受容 時期は「キャベツ」のそれと重なり、両者の間で混乱も。

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こうした展開から想像される様に「北海道産の昆布」の歴史も相応に複雑怪奇です。

昆布の歴史|こんぶネット(日本昆布協会)

日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。

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縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。

日本の味としてすっかり食生活に定着している昆布ですが、その歴史はあまりに古く、確かな記録は残っていません。縄文時代の末期、中国の江南地方から船上生活をしながら日本にやって来た人々が、昆布を食用としたり、大陸との交易や支配者への献上品としていたのではないかと言われています。昆布という名の由来は、はっきりしませんが、アイヌ人がコンプと呼び、これが中国に入って、再び外来語として日本に逆輸入されたと言われています。

鎌倉中期以降になると、昆布の交易船が北海道の松前と本州の間を、盛んに行き交うようになりました。昆布が庶民の口に入るようになったのは、そのころからです。海上交通がさかんになった江戸時代には、北前船を使い、下関から瀬戸内海を通る西廻り航路で、直接、商業の中心地である「天下の台所」大阪まで運ばれるようになりました。昆布を運んだ航路の総称を「こんぶロード」と言います。こんぶロードは江戸、九州、琉球王国沖縄県)、清(中国)へとのびていきました。特に、琉球王国薩摩藩(鹿児島県)と清とのこんぶ貿易の中継地として、重要な役割を果たしました。

たとえば、大阪ではしょうゆで煮てつくだ煮にしたり、沖縄では、ぶた肉や野菜といためたり、煮こんだりして食べています。関東地方はこんぶロードの到達がおそかったため、全国的に見て昆布の消費量が少ない地域となっています。このように、現在見られる地域による食べ方の違いは、こんぶロードの歴史的背景と関連があるのです。

*「世界商品」…砂糖とかキャラコ(綿織物)とか。贅沢品として始まり、生産力拡大に伴うコモディティ化(廉価化)の過程で壮絶な搾取の悲劇を伴う事が多い。

鰊と昆布の経済史/利尻島、礼文島旅行記

幕末の1850年代には北海道で昆布の人工繁殖が成立し(『大日本産業事蹟』による)、生産量は格段に上がります。

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とはいえ、昆布は貿易額としてはそれほど大きくありませんでした。北海道の水産業を代表するのは、ずっとニシンでした。ちなみに、ソーラン節はニシン漁で歌われる歌のことです。

もともとニシン漁は、アイヌが細々と営んでいましたが、和人によるニシン漁が始まったのは、室町時代の1447年のことでした。1677年には、函館で大型定置網漁が始まります。江戸時代に入ると、北海道各地でニシン漁は盛んになり、千石場所と呼ばれる漁場が各地に開かれました。

ニシン漁の歴史

ニシンは東北地方の方言で「カド」と呼ばれ、「カドの子供」が「カズノコ」となりました。産卵のため浅瀬にはニシンが大量に押し寄せるので、捕まえるのは簡単。それが高く売れるので、ニシン漁は多くの金持ちを生みました。

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年によっては、タマゴにオスがかける精液で海が真っ白に染まることもありました。これを「群来」と書いて「くき」と呼びます。

地理学者・古川古松軒の『東遊雑記』には、「松前の漁民は春の3カ月働き、残りは遊んで暮らす」と書かれています。

鰊(かど)をニシンとも土人は称して、子をカヅノコという。
 この魚2月の末より来て、3月4月を最中とせり。当年は鰊多しという年は、海上へ一段高くなり真白く見ゆるほど集るなり。何国より来るとも知れず。およそ蝦夷の地より松前の海浜数百里の大海、皆みな鰊魚となることにて、なかなか取り尽くされぬことなり。

蝦夷及び松前の諸人は、鰊を以て1年中の諸用、万事の価とせることゆえに、鰊の来れるころは、武家・町家・漁家のへだてもなく、医家・社人に至るまで我が住家は明家(あきや)とし、おのおの海浜に仮の家を建て、我劣らじと鰊魚を取ることにて、男子は海上を働き、婦人・小童は鰊をわりて数の子を製することなり

漁場が拡大し、笊網(ざるあみ)、建網といった大きな網を使うようになると、ニシンの漁獲量は一挙に拡大します。

その結果、これまで食用のみだったニシンが、ニシン粕という肥料になり、従来のイワシ粕に取って代わり、爆発的に売れるのです。

なぜニシン粕はバカ売れしたのか。実は、ほとんどが綿(わた)の栽培に使われました。もともと日本になかった綿は、戦国時代、ようやく一部の武士に軍需用品として使われ始めました。それが、江戸時代になって、徐々に栽培量が増えていきます。

しかし、綿の栽培には大量の肥料(金肥)が必要でした。その肥料こそ、北海道からやってくるニシンだったのです。大量のニシンを畑にぶち込んで、大量の綿を生産する。当時、綿は米の5倍儲かるといわれ、多くの農民が綿を作ったのです。こうして、これまで麻しか着たことのない庶民が、暖かい綿を着るようになりました。まさに、ファッションの大革命が起きたのです。

ニシンの生産は、「場所請負人」によって独占的に行われました。そのあたりの事情を司馬遼太郎が書いています。

藩士には知行地のかわりに「場所」(アイヌとの交易場)というものをあたえた。室町から江戸草創期までは、ごく素朴な形態で、松前から船を出してそれぞれ酋長領へゆき、交易するだけであったが、16、17世紀から本土の商業資本が進出し、やがて「場所」を商人が請負(うけおい)するようになった。

「手前があなた様の“場所”をとりしきって利潤をあげます。その利潤の何割かをあなた様に差し上げます」

という制度である。「場所」は1つのそれの広さが本土一郡ときに一国ほどあり、数は85個所であった(『街道をゆく』15)

大規模なニシン生産が進むと、場所請負人は、アイヌを交易相手でなく、漁夫として見るようになりました。市場経済流入で、アイヌは奴隷的な賃金労働者に転落していきます。

当時、アイヌが強いられた労働は、春がニシン・タラ・ノリ漁、夏が昆布・アワビ漁、秋がサケ漁、冬が山の猟でした。しかもほとんど食べ物は与えられず、無理矢理働かされたのです。

アイヌ搾取のひどい実情が、「北海道」という地名を作った松浦武四郎によって記録されています。

請負人の石橋屋松兵衛は「土人を使うこと犬馬の如く」であり、「1日の飯米と云(いえ)ば僅(わずか)1合8勺ばかりの椀に玄米1杯を与え、其(それ)も運上屋に残り飯のある時は其飯を粥にのばし、是(これ)を1日に3椀宛(ずつ)遣(よこ)して責(せめ)遣(つか)うまま、幼なき者やまた老たるものは何も喰することもなり難く、1枚の古着といえども何の手立あるや、唯(ただ)他所(よそ)より出稼といえるものの来り、漁業等の者等が其(その)飢寒を憐れみて時々古きものの1枚をも遣し侯にて漸々(ぜんぜん)凌ぎ居りしが、左有る故50余歳まで生きる者なく、皆30歳より40歳前後にて病を受けて死し、子供も7、8歳まで内(うち)必らず飢と寒との為めに死し」(『近世蝦夷人物誌』)

ほかにも、女・子供まで含めた強制労働、男の強制移住、そして婦女子への暴行行為が数多くあったことが書き記されています。

北海道経済を支えたニシン漁は、1897年(明治30年)、約100万トンという史上最高記録をうち立てたてます。しかし、回遊魚のニシンは次第に北海道から姿を消していき、漁場はどんどん北上していきます。戦後の漁獲量はジリ貧となり、1955年を最後にニシンはほとんど採れなくなりました。

ニシン漁が衰退すると、結果的に利尻島礼文島のコンブ漁の比重が高まりました。そんな貴重な昆布ですが、大正時代、生産危機に瀕します。最大の原因は、ウニによる食害でした。このため、当時はウニの駆除が急務とされたのです。

海産物としてウニの価値が見出されるのは、昭和10年代に入ってからのことです。利尻、礼文のウニは、最高級の昆布を食べてるわけで、そりゃう まいに決まってます。しかし、もともとは単なる厄介者だったのです。

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1878年明治11年)に北海道を旅行したイザベラ・バードは、北海道の昆布干し風景が、日本で一番美しかったと書いています。

森の茂っている丘、岩肌を見せている丘にはアイヌの小屋が見え、有珠岳の朱色の火山口は落日の光を浴びてさらに赤色に染まっていた。数人のアイヌは網を修理しており、さらに食用の海藻(昆布)を乾すために広げているものもいた。一隻の丸木舟は黄金の鏡のような入江の水面を音もなく辷(すべ)っていた。いく人かのアイヌ人が海岸をぶらぶら歩いていたが、その温和な眼と憂いを湛えた顔、もの静かな動作は、静かな夕暮の景色によく似合っていた。寺から響いてくる鐘の音のこの世のものとも思えぬ美しさ——景色はこれだけであったが、それでも私が日本で見た中で最も美しい絵のような景色であった(『日本奥地紀行』)

日本で最も美しい風景の陰には、アイヌ弾圧の歴史が隠されていたのです。その搾取のうえに、日本の木綿文化が花開いたのでした。
*しかし日本の綿花栽培産業は明治維新後、「世界商品」綿織物の原材料として鍛え上げられてきたインド綿の上陸によって壊滅的打撃を受けてしまう。そしてその結果、養蚕産業へのシフトが加速。日本は綿加工品と絹織物生産の生産量が世界一となっていく。

タタ・グループ - Wikipedia

*その一方で世界中への「侵略的外来生物」ワカメの伝播は国際問題に発展…日本で問題とならないのは皮肉も「天敵」ウニのおかげとも?

こうして全体像を俯瞰してみると恐るべき景色が急浮上してくるのです。

①欧州においては、大航海時代を契機にその経済的中心地が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移。衰退を余儀なくされたドイツ(特にエルベ川以東)や東欧やロシアなどでは、それ以前の時代から存在してきた「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義権威主義」が領民を絞り上げる搾取システムへと変貌を遂げる(再版農奴制)。同時期にはオランダや英国がアフリカで調達した黒人奴隷を持ち込んで南北アメリカ奴隷制プランテーションを回すシステムが確立していった(三角貿易)。

*江戸幕藩体制下において「高級銘菓としての和菓子」が発展してきた過程においてもオランダからの「唐三盆」輸入とその国産化なるプロセスが欠かせない。そして後者は薩摩藩の領民や琉球王朝に対する壮絶な搾取を伴ったのである。

②そして産業革命の進行によって汽船や機関車による交通網が整備され、冷蔵技術も飛躍的に向上すると南北アメリカの安価な食料品の大量流入が欧州を経済的危機に追い込む事になる。西欧はそれでも消費活動の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層から新興産業階層や労働者階層に推移させる事によってかろうじて難局を乗り切ったが、(ハプスブルグ君主国を筆頭とする)東欧やロシアは取り残され、借款返済の為の飢餓輸出を繰り返す。こうして欧州の東西格差が急拡大した事が第一次世界大戦(1014年〜1918年)勃発の遠因の一つとなっていく。

*そしてこうした展開が「オーストリアハンガリーを筆頭とする東欧系移民の大量渡米」という展開を産む。そして米国における伝統的支配階層だったWASP(White Anglo-Saxon Protestant)は、ジャガイモ飢饉(1845年〜1849年)を契機とするアイルランド系移民やイタリア王国1861年〜1946年)成立後の冷遇を契機とする南イタリア系移民の急増と合わせ、むやみやたらと増えたカソリック教徒との対決を余儀なくされていくのだった。

③皮肉にも、こうしたジリ貧状況を改善すべくロシア革命(1917年)に勝利した「科学的マルクス主義」はロシアを穀物輸出国から穀物輸入国へと転落させてしまう。その一方で共産主義化以降も「奴隷制砂糖プランテーション」を存続させたキューバ。ただし後者も最近では長年の思考停止が祟って零落気味という。

*ここで急浮上してくるのが「グローバル主義農業大国」オランダの恐ろしさ。そもそも世界中に砂糖栽培を広めたのも、その過程で「農業大国」南アフリカを成立させたのも、オスマン帝国を巻き込んだチューリップ・バブルを引き起こしたのも彼らという恐ろしさ。

 

 そう、実は高度成長期にもてはやされた「松下幸之助水道哲学」こそが、ある意味「欧米を思考停止状態に追い込んだ再版農奴制や三角貿易」や「江戸幕藩体制下におけるアイヌ人や琉球人に対する搾取」に連なる「フォイエルバッハ神学の衣鉢を継いだ)カール・マルクスの人間解放論」の最大の敵だったという展開。日本の「失われた30年(1990年年代〜2010年代)」を引き起こした元凶。

聖なる経営とはなにか。本当の経営とはなにか。そうだ、水道の水だ。通りすがりの人が水道の栓をひねって存分に水を飲んだとしても、その無作法を咎(とが)めることはあっても、水そのものを盗ったことは咎めない。なぜだろうか。それは価格があるにもかかわらず、その量があまりに豊富だからである。生産者の使命は、貧をなくすために、貴重なる生活物資を水道の水のごとく無尽蔵たらしめることである。どれほど貴重なものでも、量を多くして無代に等しい価格をもって提供することにある。

「いわば水道の水のように、いい物を安くたくさんつくるということは、いつの時代でも大事なことやで」

この考え方は、松下自身は一度もそう表現していないが、世間には「水道哲学」という呼称で広まった。

日本左翼思想の再建は、まさにこの流れを反省する事から再出発を遂げないといけないのかもしれません。 

 結局、1910年代に大杉栄が歯ぎしりしながら叫んだ「インテリ=ブルジョワ階層が道楽でやってる様な左翼運動に本当に困窮してる貧者や労働者を動員する力はない」なる認識に戻ってきてしまう? 講座派左翼の伝統的欠陥とも…
*「講座派左翼の伝統的欠陥」…大元たる「福本イズム」自体が、その起源を儒教教養主義にまで遡る大衆蔑視と「外交戦略や具体的政策より派閥争いにおける勝利を優先すべきとするイデオロギー至上主義」の産物だったりする。学生運動全盛期も選民意識の強かった中核派の主張がこれに重なる。

 *ちなみに日本の出羽守が好むフランス知識人も「砂糖大根栽培農家や商店街店舗経営者の代表なんて、いくら雁首並べたって政治は行われない」と主張してカール・シュミッツの「例外状態」支持を表明したりしていて案外同類。フランスの若者が「ユーロディズニーの文化侵犯性」について滔々と語り続ける彼らを「時代に3周以上遅れた超守旧派」に分類し、その彼らがこぞって映画「レッド・タートル」を「これぞフランス版ロビンソン・クルーソー」と激賞すると「お前らもう、そろって火すら捨てて森に帰れ(「ナウシカ」の「森の人」!!)」と揶揄されたのを見るに「日本人は(火力発電も水力発電もなしに満ち足りた生活を送っていた)江戸時代に回帰すべき」と主張するエコ左翼への扱いは同じくらい厳しくても構わない気がしてならなかかったりする。

その一方で「松下幸之助水道哲学」は戦後復興期にこそ日本人の生活水準引き上げに貢献したものの、以降は足手纏いとなり「失われた30年」を引き起こしてしまったという認識は現代日本の財界人にもなく、だから移民自由化に期待しているという側面もあるのでは?