諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】1970年代後半における「旧左翼と新左翼の野合」は如何なる形で成立したか?

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外山恒一はもともと、左翼だったのだが、左翼の運動がPC的になっていったことに反発している。PCとは「ポリティカル・コレクトネス」ということだが、「反差別」、「言葉狩り」のことである。この「反差別」運動は、一九七〇年頃に、津村喬による『われらの内なる差別』(三一新書)という本が出たことも大きな契機になっている。私はマルクス主義党派に属していたので「反差別」運動に興味はなかったが、党派に反発を持っていたノンセクト・ラジカルといわれる大学の下級生たちにおおいに読まれた。

これは一九七〇年七月七日の華青闘告発も大きな影響を及ぼしている。華僑青年同盟という、中国人の団体が日本人は中国を侵略した歴史について無自覚だとして、会議の場を退席したのである。これに対して中核派は「自主的に退席したのだからいいじゃないか」という態度をとった。この発言はノンセクト、他党派から一斉に非難を浴び、中核派自己批判し「反差別」運動、入管闘争、部落差別反対闘争などに力をいれていくようになる。

華僑青年闘争委員会 - Wikipedia

《“差別問題”というのはキリがありません。差別に反対し、実際に反差別運動に熱心に関わり、自らの無自覚な差別性をも克服する努力をどこまで続けても終わりがないんです。》

《華青闘告発を普通の意味で受け入れて反省してしまうと、「反日武装戦線」に志願するか、中途半端なところで妥協してPC左翼になるしかないんです。》

《怒られるかもしれませんが、私は今では彼らをむしろ“特殊な右翼”だったと考えています。というのも、彼らは自分が“日本人であること”に徹底的にこだわり抜いた結果として“反日闘争”に踏み切ったからです。》

華青闘告発を引き継いだのは「東アジア反日武装戦線」であるというのは正しい。彼らの三菱重工ビル爆破事件ばかりが批判されているが、彼らが最初に爆破したのは、伊豆にあった興亜観音・殉国七士之碑爆破事件(一九七一年十二月十二日)である。東京裁判によって処刑された、いわゆるA級戦犯を祀った碑を爆破したのである。さらに触れておかなければならないのは、当時の新左翼が全く問題として取り上げなかった、昭和天皇の戦争責任問題を追求し、成功しなかったが御召列車を鉄橋ごと爆破することを計画したことである。立命館大学の「わだつみ像」破壊についても、明快に説明している。

東アジア反日武装戦線 - Wikipedia


全共闘の中でも突出した一部は、大学まるごと共産党の拠点だった立命館大学の構内に建てられていた「わだつみ像」を、被害者目線でしか反戦を主張できない戦後民主主義の欺瞞の象徴だとして破壊する事件まで起こしています。》

なお、戦後、ベストセラーになった、『きけわだつみのこえ』という岩波書店から出版された戦没学生の手記というのがあったが、これも戦後民主主義に合致した文章だけが取り上げられた小林秀雄が書いていた。戦争を賛美してお国のため、天皇のために死ぬという手記は排除されたらしい。

外山恒一は「一九六八年」以後の闘争を、欧米との比較で検討している。欧米では 68年を肯定的に継承する文脈でポストモダン思想やサブカルチャーの運動が展開された。ドイツやイタリアではノンセクト・ラジカルの連中が空き家を勝手に占拠、改造し運動の拠点として利用した。しかし日本では、この当時、日本の左翼運動は内ゲバの最盛期であった。各党派は互いに内ゲバを繰り返し、大学構内を暴力で支配していたため、ノンセクトの活動家は身動きが取れなかった。そのため日本のポストモダン思想は新左翼の運動を継承することなく、左翼総体を批判する思想のように受け取られてしまった。

日本のポストモダン左翼の連中は 68年を、戦後民主主義批判を継承していないので、「九条を守れ」というようなことを平気で言っている。


《とにかく“お勉強”だけはできる連中ですから、欧米のポストモダン派が“ 68年の思想”を盛んに云々していることは知識として知っていて、しかし日本の“ 68年”の全共闘運動については相変わらずよく知りもせずにバカにして、欧米の“ 68年の思想”から“マイノリティーの権利拡大”とか、自分のリベラルな感性にも受け入れやすい都合のいいところだけつまみ食いしつつ、実態としては日本の “68年”のノンセクト・ラジカルたちが徹底的に批判した共産党と大差ない戦後民主主義者にすぎないのが、日本のポストモダン左翼です。》

日本のポストモダン左翼というのはよくわからないが、浅田彰小熊英二のことだろうか。私は「九条を守れ」ということには反対である。まずこれがはっきりと共産党のスローガンだからである。共産党は政治宣伝として、大衆受けする、甘い言葉を連ねている。民主主義を守れだとか、戦争は嫌だという、誰も反対できないキレイな言葉を並べている。ところがよく考えてみると、共産党内で委員長選挙をやったということを聞いたことがない。

新左翼の面々も運動をやめてから護憲運動にかかわっているものがいるが、新左翼の時代には、赤軍派の「世界党―世界赤軍世界同時革命」というスローガンに賛意を示していたはずである。それでなくても、軍(赤軍)を建設することは、あの当時の新左翼党派にとって自明のことだったはずだ。それが連合赤軍事件の結果、軍事を否定するだけでなく、護憲派になってしまったのは嘆かわしいことである。

これまでの投稿において「それまでイデオロギー上絶対折り合いのつかない激しい鍔迫り合いを演じて来た旧左翼陣営と新左翼陣営の野合がどうして1970年代に成立したのか?」ずっと説明がつかないままだったんですが、こうした「現場からの報告」によれば、どうやってそれが達成されたのかは一目瞭然…

正直って当時の政治的展開については「フォイエルバッハ神学より出発し、科学的マルクス主義思想から完全排除された)マルクスの人間解放論」に回帰してマルチチュード論を展開した「究極の無政府主義者アントニオ・ネグリの足跡の方がずっと興味深いと思ってしまいました。この人、私の中では「当時ヨーロッパで一番危険だった男オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)同様に「事象の地平線としての絶対他者」側に永久に留まり続ける道を選んだ「怪物」の一人という位置付けとなります。

*「怪物」…「真の革命家に勝利の栄光など決して訪れない。何故なら体制転覆の成功は常に新たなる反体制派への弾圧開始に過ぎないのだから」と開き直ってしまった人々。例えば現在国際的トレンドとなりつつある同性婚合法化も「(異性愛者か同性愛者かバイセクシャルかを問わず)結婚制度そのものを否定する乱婚派」を切り捨てる形で進行している。何が恐ろしいといって彼らは必ずしも承認/不承認対象となる物理的実態が存在するとも限らない。実体化の目処が立たないうちはフィクションの世界に留まり続けながら「再侵犯」の機会を虎視眈々と狙い続ける事だって可能なのである。

マルチチュード - Wikipedia

1029夜『構成的権力』アントニオ・ネグリ|松岡正剛の千夜千冊

フランスでも日本でもアメリカでもそうだったのだが、イタリアの学生運動が頂点で火を噴いたのは1968年である。翌年、トリノフィアットの自動車工場で大争議がおこって労働者も大きく動き、これが連鎖してヴェネチアのそばのマルゲラ化学工場のペトロシミコ運動などとなって、大衆的な反乱状況を現出させた。

このなかでイタリア共産党も四分五裂して、多様な運動主体を演じる。平等賃金運動や代議制の批判などの異質な動きも出てきた。この活動は日本でいえばさしずめ"反代々木"にあたる。ではそのころのイタリアの"代々木"はどういう状態にあったかというと、おぞましいことに共産党キリスト教民主党が手を組んだのである。ネグリはそれを深層心理に戻してアブジェクシオンと言わないかわりに、「スターリニズムとカトリシズムの異常な同盟」とよんだ。

"反代々木"の一角にいたネグリはただちに次のステップに踏み出した。1969年創設の「ポテーレ・オペラティオ」(労働者の権力)に参加し、その指導的役割をはたしていったのだ。これは当初はレーニン主義的な立場から労働者の組織化と武装蜂起を主張していたグループなのだが、大衆反乱の状況が出てきたことをたちまち反映して、スターリニズムとカトリシズムを野合させた代々木的な党中央を批判する急先鋒に変化していった。

けれども、ここがユニークなのだが、"反スタ・反カト"ではセクトに堕していくと判断し、「ポテーレ・オペラティオ」は1975年には自発的に組織(セクト)を解体し、労働者の自発性を重視する大衆的運動体をめざすようになったのである。ネグリはつねに新左翼セクトの党派性を求めるタイプではなかったのだ。これが「アウトノミア」(労働者自治)の運動の出発である。

アウトノミア運動のコンセプトはただひとつ、自治である。運動は一挙に高揚し、拡張していった。硬直体制化してしまった共産党の外部に多彩な活動を展開した。フランスでもそうだったのだが、イタリアでも自由ラジオを駆使し、工場や住宅を占拠し、まさにカルチャー路線から武断派までが入り乱れた。ネグリはすぐさまアウトノミアの理論的指導者ともくされて、『支配とサボタージュ』などの一連の政治文書を書きまくる。

そこへ1978年、「赤い旅団」による元イタリア首相モロの誘拐暗殺事件が勃発した。ネグリは「赤い旅団」の"最高幹部"として暗殺事件にかかわったとみなされ、4月に逮捕される。さらにモロ殺害容疑、国家に対する武装蜂起容疑、国家転覆罪容疑で起訴された。けれどもネグリは悠然としていた。1979年の再逮捕まで、パドヴァ大学政治学研究所所長として「国家論」を講義し、のみならずフランスのパリ第七大学やエコール・ノルマルなどでの講義も続けてみせた。このときの講義が『マルクスを超えるマルクス』になる。超難解だといわれた大著だ。

逮捕されてからは、4年半にわたって裁判が開かれぬまま最重要警備獄舎に"幽閉"された。予防拘禁である。そのあいだ、ネグリスピノザ論として『野生のアノマリー』を著作したかとおもえば、1985年には突如として獄中から国会議員に立候補して、当選をはたしてしまった。これで議員特権による釈放を勝ちえたので、世間はその法を抜ける手法に喝采をおくったのだが、敵もさるもの、3カ月後にはすかさず議員特権を剥奪した。しかしその逮捕のために官憲が来る直前に(数時間前らしい)、ネグリはスクーターでまんまと逃走、さらに船に乗り換えて行方をくらました。まるでティモシー・リアリーだ。

あとでコルシカ島に潜伏してパリに亡命していたことが判明したのだが、本国イタリアでは欠席裁判のまま結局、国家転覆罪で30年の実刑になった。

この間、亡命中のパリではとくにドゥルーズガタリとの親交を深め、パリ第八大学で講義をするほか、ガタリとともに「緑の党」の設立にかかわった。比喩的にいうのなら、ここで「赤」と「緑」が統合されたわけである。「ブールの大行進」もおこなった。ブールとはアラブ系移民第二世代のことをいう。

こうした多忙のパリ再亡命中に書いたのが、『転覆の政治学』や本書『構成的権力』である。一方、裁判のほうは控訴審によって12年に減刑された。

ところが、またところが、1997年7月のこと、ネグリは自発的にイタリアに"帰還"することをあえて発表したため、これを待っていた官憲に7月1日に空港に降り立ったところをあっさり逮捕され、ローマ郊外レビビアの監獄に再収監されてしまったのである。この"帰還(ルトワール)"という言葉は、のちに、ネグリ自伝のタイトル『帰還』に使われる。サブタイトルは「生政治的自伝」である。いよいよ生政治が市民権をもちはじめた。

その後、これはどういうものかは知らないのだが、昼間だけは外出許可が出る"労働釈放"という身になって、これもそういう執行があるのかと思ったが、2002年4月からは獄中を離れて指定住居に居住する"選択的拘留"の身になった。このときネグリは69歳だ。それから1年後、どうやらやっと自由の身になったらしい。モロ暗殺容疑は晴れたということなのだろうか。意外なことも判明した。そもそも「赤い旅団」はむしろネグリ暗殺を謀った連中だったのである‥‥。

ある意味1990年代から急速に普及が始まったインターネット世界に多様性と多態性を重視する「国際SNS上の関心空間」が成立するのを予言した様な動き。ただそれがとても政治利用可能な状態ではなかった事だけが計算違いだったかもしれません。

あらゆる局面で「政治的正しさ(Political Correctness、PC)」を教条主義的に振り翳す様になったリベラル層と異なり、そうやって形成された「多様性と多態性を墨守する中道派マジョリティ」は「帝国主義打倒」とか、真逆の「国家こそ国民結集の中枢」みたいな抽象的かつ黴の生えた政治的スローガンで動員する事が出来なかったのですね。