諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【昆布ロード】【富山県中心史観】江戸幕藩体制を倒した経済ネットワーク?

(砂糖や綿織り物と同種の)世界商品としての昆布」という発想…

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なんと掘り下げていくとまさかの「日本のベネツィア富山県中心史観」なるものが浮上してくるのでした。

昆布ロードがもたらした明治維新と食文化│54号 和船が運んだ文化:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

だしや煮しめの具材など、日本人の食生活になくてはならない昆布。産地は羅臼、利尻などに代表される北海道が有名だが、消費量では富山県が際立って多く、数年前までは不動の全国1位だった。昆布の採れない富山県で、なぜ食されているのか。それは江戸時代、富山県域が昆布をはじめとする海産物を運んだ海上流通の中継地を多く擁していたことに端を発する。同じく昆布が生息しない沖縄(琉球)でも食されているのは、富山藩の商人たちが薩摩藩に昆布を持ち込んでいたからだ。この富山藩と薩摩藩による「知られざる交易」が、やがて倒幕へとつながる。その痕跡を富山県と鹿児島県でたどった。

富山藩と薩摩藩――外様同士の暗中飛躍

「昆布ロード」をご存じだろうか。北前航路が拓かれた江戸時代中期から幕末、明治にかけて、蝦夷地(北海道)で収穫された昆布は北前船で京都・大坂へ運ばれるだけでなく、薩摩から琉球を経て、さらには中国(清)まで届けられていた。その道筋を「昆布ロード」と呼ぶ。

当時、昆布は重要な品だった。甲状腺障害が流行していた清では予防のためヨードを多く含む昆布が求められていたが、海水温が高い清では良質な昆布は育たない。そこで財政の悪化した薩摩藩は、東アジアの海洋貿易の中継地として栄えていた琉球王国を介し、清に対して「抜け荷」と呼ばれる密貿易を始める。清への貢ぎ物の一つが松前産の良質な昆布だった。
*「抜け荷」…江戸時代に幕府の禁令を破って行なわれたいわゆる密貿易のこと。当時外国との取引は公には長崎の会所を通して行なわれ、厳重に統制されていた。

ところが北海道からは遠い薩摩藩で、昆布の入手は容易ではない。そこで薩摩藩が目をつけたのが富山藩。ともに外様大名であり財政の逼迫した富山藩と薩摩藩が密かに手を結び互いに利益を得る。薩摩藩は密貿易で得た利潤で財政を立て直し、倒幕へと向かったともいわれる。

北前船を舞台とした両藩の企てとは、どのようなものだったのか。

全国に販路を広げた越中富山の薬売り

当時の越中国には、富山藩領の岩瀬、本家・加賀藩領の放生津(ほうじょうづ)や伏木(ふしき)といった港が北前船の寄港地として賑わっていた。北海道の松前から昆布やニシンを積んだ北前船が寄港して荷を下ろし、越中国からは米やワラ製品などが積み込まれ、運ばれた。
*「越中国(えっちゅうのくに)」…現在の富山県域を占めた旧国名律令制下で北陸道に属す。富山藩は越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有。

薩摩藩とのつながりで忘れてはならないものに、「越中富山の薬売り」で知られる富山藩の売薬がある。元禄年間(1688~1704)から現在まで300年以上続く伝統的産業だ。売薬が生まれた背景に、富山の厳しい自然環境があった。
*「富山の薬売り」…富山藩の家庭薬行商人。また、その行商のこと。江戸初期に始まるといわれ、藩の保護・統制を受けて発展。全国各地の得意先に薬を置き、年に1~2回訪問して使用分の代価を清算し、薬を補充した。

富山藩は、加賀藩の一部として120万石を誇る大名・前田家の領内より、支藩として1639年(寛永16)に成立。石高は10万石だが、大半の領地や港などの交通の要衝は加賀藩が押さえ、富山藩に残されたのは神通川(じんづうがわ)に沿う縦長の、稲作には不利な領地だった。


神通川は水勢の強い川でした。加えて東にある常願寺川(じょうがんじがわ)にも領地が挟まれているので、たびたび洪水に見舞われて、米づくりは難しい土地でした」と、富山市売薬資料館の兼子心(もと)さんは話す。これらの暴れ川は歴史に残る大水害をしばしば引き起こしてきた。富山藩は長年にわたる財政難に陥り、領民は農閑期に外に出て商売をする必要に迫られた。そのため登場したのが売薬だったという。


しかし水が豊富なことは、薬をつくるには好条件だった。兼子さんは「豊富な雪解け水や衛生的な水は薬づくりに欠かせない」と言う。

「〈寒の水〉といって、大寒のころにとれる水を薬に使いました。薬種や道具を洗うのに水は必要ですし、薬種を粉砕するにも水車の動力を利用しました」


製薬に適した富山の気候と地形。その代表作が「反魂丹(はんごんたん)」という薬だ。富山藩二代藩主・前田正甫(まさとし)が江戸詰めの際、江戸城で腹痛を起こしたある大名に反魂丹を差し出したところたちまち回復し、大名伝いに全国に知れ渡ったという話がある。

売薬人はそれぞれの商売の範囲を守って活動した。得意先のデータを記した帳面を「懸場帳(かけばちょう)」と呼び、これ自体が商売をする権利(商売株)だった。売薬人たちは懸場帳をもとに全国へ行商に出かけ、富山藩も1816年(文化13)に反魂丹役所を設置するなど保護と統制を行なう。

「売薬人もこのころに1700人から2200人に増え、富山藩の一大産業になりました。幕末には4500人が売薬に従事していたのです」と、伏木観光推進センターの上 忠(かみただし)さんは言う。売薬がいかに富山藩の収入源であったかが窺える。

財政再建を目指す薩摩藩の目論見

同じころ、島津家を藩主とする薩摩藩もまた財政難にあえいでいた。

火山灰地である薩摩はもともと農業による生産力が低かった。そのうえ参勤交代で財を消耗し、加えて江戸城の改修、木曽川治水工事などを幕府から命ぜられ、莫大な出費を強いられた。財政は常に火の車。八代藩主・島津重豪(しげひで)のころには500万両(当時の藩の収入の30~40年分に相当)にも達する借金を抱えていたという。

1609年(慶長14)に琉球王国(以下、琉球)を征服し幕府にその支配権を認められていた薩摩藩は、奄美諸島の生産物「黒糖」を大坂に運び専売品として利益を得ていた。また、琉球経由で清から入手した唐物(からもの/中国製品)を新潟・海老江湊経由で江戸や東北、北陸へ流通して収入源としていた。さらに、薩摩藩はより大量の昆布を確保し、琉球を経由して清に献上する策を打つ。

そこで目をつけたのが富山の売薬人たちである。売薬人は全国を22ブロックに分け、行商先の地方に仲間組(なかまぐみ)をつくり販売を行なっていた。そのなかに薩摩藩内で売薬を行なう商人団「薩摩組」があった。

薩摩藩はこの薩摩組に対して領内での売薬を認める代わりに、松前の良質な昆布の提供を求めたのだ。当時の薩摩藩は経済上の問題から他藩の商人の出入りを禁じていたが、薩摩組の出入りのみ例外的に認めた。

売薬人たちにとっても薩摩と手を組むことはメリットだった。

売薬が和漢薬生成の材料に用いる薬種は、清からの輸入品に依存していた。江戸時代に日本に入ってくる薬種は長崎の出島からいったん大坂の道修町(どしょうまち)に集まり、薬種問屋を通じて全国に流通していた。しかし高価なため、売薬人もまた薬種を安く仕入れる方法を模索していたのだ。

密貿易は幕府公認だった!?

1847年(弘化4)、薩摩組は仲介人である鹿児島町年寄の木村喜兵衛から総額500両の資金援助を受けて昆布の運搬を開始する。昆布を買い取ったのが薩摩藩であることが幕府にばれぬよう、薩摩藩は町年寄である木村を仲介役とし昆布を購入させていたようだ。
*町年寄…江戸時代の町役人の呼称の一つ。町役人の筆頭にあり、町内の日常行政を取り扱う有力者。身分としては町民となる。

蝦夷仕入れた昆布は、富山を代表する売薬商家・密田(みつだ)家が所有する2隻の船で、薩摩藩の山川港まで運ばれた時期もあったそうだ。

当時の薩摩藩は、富山の売薬人にとって逆境の地だった。幕府が鎖国政策をとるなかで、薩摩藩も他藩の出入りを厳しく監視する「二重鎖国」の状態だったことに加え、薩摩藩浄土真宗を禁教としていた。富山藩は浄土真宗が盛んなため、売薬人たちは薩摩藩領で「富山の売薬」と名乗れず、「越中八尾の売薬」と名乗っていたそうだ。
*「八尾(やつお)」…富山県富山市の南部を占める地域。

薩摩藩領で浄土真宗と知られると薬は没収され営業停止になりますから、売薬人たちは〈八尾〉という富山南部の地名を使い、そこから来たと偽って商売をしていました。越中とは名乗れても、富山とは名乗れなかったのです」と、鹿児島市西郷南洲顕彰館の館長、徳永和喜さんは話す。

その後、薩摩組の商人たちはたびたび営業差止を受けたが、そのたびに木村喜兵衛が差止解除を藩に交渉し、また時には差止を未然に防ぐために薩摩藩に喜ばれる献上品の提案も行なった。松前産の昆布も、もとは薩摩組が薩摩藩領で営業を認めてもらうために、木村が指示した献上品の一つだった。

また、「密貿易」と言われることに関して徳永さんはこう指摘する。

「1639年(寛永16)に幕府が鎖国令を出します。この時に幕府が認めた貿易港は唯一長崎の出島であるという記述が歴史教科書にありますが、誤りです。実際には琉球口(くち)、対馬口、松前口、そして幕府が公に認める長崎口。外交史では〈四つの口〉と言いますが、この四つの港は幕府が許可した貿易港でした」

長崎以外の三つの港は、長崎でトラブルがあった際に輸入が途絶える事態を防ぐため、補助貿易港として開港していたのだ。

幕府にとっては安全弁の一つに過ぎなかった琉球口を、借金が膨れ上がる薩摩藩は返済の切り札にしようと考えた。幕府から数回にわたる貿易量制限を命じられるも、薩摩藩琉球口貿易の拡大を続ける。徳永さんは言う。

「世にいう密貿易とは薩摩藩による不正規ルートでの貿易活動を指すのではなく、薩摩藩が幕府から許された範囲を逸脱した貿易活動と考えるべきでしょう」

薩摩藩と富山藩、それぞれが得たもの

清との貿易で莫大な利益を得た薩摩藩は、財政の立て直しに成功する。その立役者が八代藩主・重豪に才覚を認められ、500万両の財政整理の責任者に任用された調所広郷(ずしょひろさと)だ。清との密貿易を藩政改革の一つに掲げ、財政立て直しに奔走した。

調所の努力により藩の収入は増え、借金500万両を返済しただけでなく、50万両の貯蓄も達成した。身分が低く茶坊主上がりだった調所は功績が認められ、57歳で家老格に昇進する。

「外洋に近い薩摩は常に周囲を警戒し情報戦には長けていたが、なかでも調所は市場読みに優れた、当時としてはずば抜けた経済人」と徳永さんは評する。ところが1848年(嘉永元)、調所は江戸で服毒死する。幕府に密貿易が知れることを怖れての自殺ともいわれているが、詳細はわかっていない。

薩摩藩は1851年(嘉永4)に11代藩主となった島津斉彬(なりあきら)のもと、洋式の機械工場群を数カ所建設する。ガラス、鉄、綿布などのほかに火薬、砲弾、大砲などの武器も製造した「集成館(しゅうせいかん)事業」だ。西洋事情に詳しかった斉彬が列強の武力を危惧して進めた事業で、集成館で鋳造した大砲が後にイギリスの軍艦に大打撃を与え、倒幕の武器にも用いられた。密貿易で得た利益が結果的に倒幕資金の一助となり、明治維新を迎えることとなる。

尚古集成館で学芸員を務める山内勇輝さんは、「江戸や大坂から見れば薩摩藩は辺境の地ですが、裏を返せば外国に近い。日本の南端にありながら最先端の工場群をつくることができたのは、外国の知識や技術が手に入りやすかったためです」と話す。
*こういう意味合いにおいて九州は本当に色々ある地域…

一方で、富山の売薬人たちにも利益はあった。松前から運んだ昆布の見返りとして中国産の良質で安い薬種を買うことができ、また関係する廻船問屋なども大いに潤った。

現存する資料が少なく、富山藩が売薬事業でどれほどの利益を上げたかは定かではない。しかし、富山藩領のみならず越中国全体に売薬に携わる人々が多かった事実をみれば、富山藩が売薬により相当の利益を得ていたことは想像に難くない。

まぁ藩としては幕末期にそれほどの存在感を示す事はありませんでした。所詮は「眠れる巨人」加賀百万石の支藩という印象…

富山藩 - Wikipedia

江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩。石高は10万石、加賀藩支藩であった。

  • 藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。

  • 寛永16年(1639年)、加賀藩第3代藩主前田利常(利長の弟)が隠居するとき、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石の分封を幕府に願い出て許されて成立。富山藩の当初の領地は、越中国婦負郡のうち6万石、新川郡黒部川西岸のうち1万6800石、富山町周辺7カ村3170石、加賀国能美郡手取川南岸のうち2万石の計10万石であった。

  • 1640年、利次は加賀藩領内にあった富山城を借りて越中入りし、婦負郡百塚に新たに城を築く予定であった(そのため当時、利次は百塚侍従の称号で呼ばれていた)が費用が足りず、築城が進まないまま、やがてこれを断念して富山城に引き続き居することを決め、万治2年(1659年)に居城が自領外という不便の解消ということもあって、加賀藩領であった富山城周辺の新川郡舟橋・水橋(2万7千石)と、自領の新川郡浦山辺(1万6800石)及び飛び地であった加賀国能美郡とを交換して藩領が定まった。
    越中国婦負郡 180村(全域)新川郡のうち - 64村(他に加賀藩との入会地9村)が幕末の直轄地に編入されている。

  • 1661年に幕府から富山城改築の許しを得て、城と城下町の整備が本格的に進められた。富山町は越中における唯一の城下町であり、他は在郷町と呼ばれる農村地域に存在した商人の町で、あとは農村であった。新田開発により享保年間には総高は14万石を超えていたとされ、また漁業、売薬業、蚕種業、製紙業などに力を注ぎ、実質的な石高は20万石以上あったとされるが、藩の財政は成立時より常に逼迫しており、上方や飛騨の豪商、また本家である加賀前田宗家から多大な借財を抱えていた。
    *ただしこれは、藩財政が放漫であったことを意味するのではなく、分藩の際に宗藩から過大な家臣団を押しつけられたこと、そして藩領が急流河川域であったためたびたび水害に見舞われ、また天保2年(1831年)の城下の大半が焼失した大火、安政5年(1858年)の大地震による大洪水などの災害と、度重なる公儀普請手伝いにより過大な出費を強いられたことによるところが大きい。

  • 江戸後期から幕末には財政問題とそれに関わる権力争い(蟹江監物一件・富田兵部一件)また御家騒動などがあったことから宗藩の介入を招き、最後の藩主となった第13代利同を加賀藩から迎え、また富山詰家老の派遣を受け入れた。
    富山城下町遺跡・蟹江家

  • 明治4年1871年)7月の廃藩置県によって富山県となった。同年11月に旧加賀藩領の礪波郡と新川郡を併せて新川県となり、明治5年(1872年)9月には射水郡も編入して越中が一つの県となる。
    明治9年(1876年)4月に一旦石川県に合併されるが、明治16年(1883年)5月に越中4郡を再び分けて富山県を設置し、現在の富山県の領域が確定した。


領域は以下。

  • 「東部境界線」富山平野の一部を縦横に分かちながらも、おおむね現在の富山市内を流れる大小の河川を境界に充てていた。具体的には、南端で越中国飛騨国の国境上を起点とした場合、神通川(笹津のやや下流地点まで) ‐ 平野部を横断(長走、下タ杉、八木山、東大久保、合田が藩領 ) ‐ 熊野川 ‐ 平野部を横断(青柳新、牧田、青柳、布目、大浦、花崎、荒屋が藩領) ‐ 常願寺川(三室荒屋から馬瀬口辺り) ‐ 清水俣用水 ‐ 鼬川 ‐ 赤江川 ‐ 神通川、と山間部から平野部を縦断し、北端にて富山湾の沿岸部を終点とするラインであった。平野部において、かつては加賀藩領との境界を識別できるように、長走から合田にかけて堺松が植えられた。また、大庄には境塚が築かれた。

  • 「西部境界線」…おおむね礪波・射水両郡と婦負郡との郡境があてられた。ただし、射水市の北野・山本・椎土・土代地区は藩領であった。また、射水平野においては、住吉・金草など呉羽丘陵に近い側が藩領とされた。花木は境界線上にあった。野口・二ツ屋・本郷・中沖・布目、そして富山湾に至り、打出までが藩領となった。針山新は富山藩の飛地であった。

  • 「南部境界線」…古代より続く越中国飛騨国の国境があてられた。ただし、白木峰の南、大長谷川・久婦須川の水源地帯、すなわち楢峠以北の万波高原は、主に伐採地の境界を巡り飛騨側との紛争が頻発した。延宝2年(1674年)の裁決で、富山側の領有主張が幕府に退けられた後、藩はこの地域を論地山として別扱いにした。
    *そう、富山藩は「幕府直轄領」飛騨の隣国だったのである。

    *そして「飛騨」の永遠のライバルは「美濃」?

軍役史を見ても幕府との距離感維持に苦労した形跡が見受けられる。

  • 明暦元年(1655年)と推定される記録に、騎馬170騎、鉄砲350挺、弓60張、鑓150本、旗20本とする軍役規定があり「公儀御定也」とある。これは徳川家の譜代・旗本に対する寛永10年(1633年)軍役規定の10万石のものと同一であり、表高相当の幕府の軍役規定に準じていたことがわかる。

  • 公儀軍役として、高田城請取(1681年)、飛州騒動(1773年)での出兵および蝦夷地出兵準備(1804-1818年)があり、戊辰戦争では新政府側に立って藩兵4小隊(158人)が加賀藩とともに越後長岡藩攻め(北越戦争)に参加した。
    *「河井継之助のガトリンク砲」を浴びせられた方だった!!

そして産業振興も「薬」ばかりではなかった。

  • 農村の管理・徴税の仕組みとして、宗藩と同じく十村制をとっていた。藩政初期から積極的に新田開発に取り組み、惣高は元禄11年(1698年)に13万9千石弱、明治3年(1870年)には15万8千石余に達していた。年貢米のうち1万石から1万5千石が上方(大阪廻米)に、5千石程が飛騨(飛騨登米)へ領外移出された。
    *まぁ「工業国」飛騨は米が自給出来ないのである。

  • 2代藩主正甫は製薬に興味を持ち、薬の製法を領内に広め、越中売薬の基礎を築いた。売薬業は、先立つものとして立山その他の山岳修験者による修験売薬があったが、藩が力を入れた売薬業者がやがてこれにとって代わり、元禄年間には全国にわたる行商圏が確立された。

  • やはり他国に配置行商したものに蚕種があり、八尾町がその中心であった。その他の産物としては、山間部での製紙、呉羽丘陵での茶の栽培などが挙げられる。また、現在、駅弁として知名度の高い富山名産の鱒寿司は、3代利興の頃に鮎寿司とともに作られるようになったとされる。

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    *おそらくこの地域にも「小紋問題(関西圏ではカジュアルな着物にしか許されないが、関東圏ではフォーマルな着物にも許される)」が存在する。そういえばこのネタよしながふみ「大奥」にも「贅沢禁止令に江戸小紋で対抗する」なんて形で出てくるのである。
    小紋 - Wikipedia

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  • 飛騨方面との交易が盛んで、米や海産物の他、加賀藩で生産された塩(能登塩)も富山藩を通じて販売された(飛騨登塩)。
    納古山塩の道(大牧谷ルート・木作谷ルート)

教育史に目を向けても「江戸との近さ」を感じずにはいられない。

  • 武士に対する教育機関として、安政2年(1773年)に創設された富山藩校・広徳館があった。藩校としては全国で62番目のものであり、宗藩の加賀藩明倫堂(1792年)に比べ20年も早い。これは6代藩主利與が人材育成のため、財政難の中の強い反対を押し切って設立したものであり、江戸の昌平黌に範をとった。他に私塾として臨池居、岡田塾などがあった。

  • 庶民の教育機関としては寺小屋があったが、越中寺子屋では農民の師匠が多いことに特色があった。一般的には僧侶・神官・浪人が師匠となることが多いが、越中においては真宗王国と目されるにもかかわらず僧侶の師匠は少なく、大半が有力農民や地主が務めた。またほとんどが男であり、女師匠は1名が知られるのみである。他地域に比べると読み書き算盤のうち算術が重視され、富山町では一般的な教本の他に、『薬名帳』・『調合薬付』といった地場産業である売薬業を考慮したものが用いられるという特徴もあった。
    *「西陣商人の下請け」と化した加賀では織機を巧みに操る女性の現金収入が甚大で養蚕産業が盛んだった群馬同様「カカァ天下」の概念が成立したのと対照的な展開。
    かかあ天下 - Wikipedia

まぁたかが10万石の小藩に「歴史の主体としての動き」など望むべきではなかろう。

 「昆布と薬種(漢方薬の原料)の交換が産んだ互恵関係」…これはもうあれ。戦国時代に成立した大名ごとの自給自足経済圏を(参勤交代を実現する為の全国規模での交通インフラ整備の副産物として成立した)株仲間が蚕食して全国に「小京都」が誕生していく時代に(全国じゅうの集落を養蚕や紡績や機織の下請化していった)京都の西陣織商人が、全国中の大名(およびそれと癒着関係にある御用商人)から「悪魔の使い」として恐れられていた逸話を思い出さずにはいられません。

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*こうした歴史の一環として(誰も勝者がいなかった)製紙業界の量産廉価化競争が遂行され「むやみやたらと安価で量産可能となった紙の処分」に困って世界史上未曾有の出版文化の繁栄や「(子供にひたすら紙を無駄遣いさせ続ける)折り紙文化」が台頭

そういえば「喫茶習慣のコモディティー化」も江戸時代の話らしい。

*そして「カレー粉の国産化」の旗手となったのもまた薬種問屋ではなかったか?

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その一方で今日では「鹿児島の黒毛和牛」が日本を制して世界に羽ばたく展開が?

鹿児島県は和牛生産日本一

本県の繁殖雌牛の飼養頭数(黒毛和種)は全国1位…肉用牛繁殖雌牛の飼養頭数は115,800頭であり,全国に占めるシェアは約2割

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本県の和牛肥育頭数は全国1位…和牛肥育牛の飼養頭数は127,900頭であり,全国に占めるシェアは約2割
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牛肉輸出拡大中

鹿児島黒牛(KAGOSHIMA WAGYU)は,最近では経済発展著しいアジアの各国でも人気が高まっており,輸出量は,アジアや米国,EU向けが年々増加しています。

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農林水産省/米国向け牛肉の輸出再開について
台湾向け牛肉の輸出再開について:農林水産省
畜産の情報-調査・報告 専門調査 牛肉の輸出推進を目指した産地の取り組みと課題― 2013年6月

最近ネットでしばしば「グローバル経済は敵か味方か?」みたいな論調を見掛けます。もちろん相応の戦略に従って動かねば一方的に搾取されるだけだし「外国人労働者を安価で酷使しよう!!」なんて安直な(相手側もそう簡単には騙されてくれない様な)アプローチもまた問題外ですが、日本は江戸時代まで遡ってもこんな経済戦争が行われていた国だという事自体は念頭に置いておいた方がよさそうなのです。