諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【21世紀における物語文法展開】「カービィ(Kirby)系」なる新ジャンル?

いつの間にか登場し、あたかも古代より存在していたかの様にひっそりと定着していた新ジャンル。ただしその起源を辿るのは思うより容易ではなかったりするのです。

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①とりあえず、とっさに思い出せるのは寺沢武一コブラCOBRA THE SPACE PIRATE、1978年〜)」に繰り返し登場する「目にした兵器を次々と模倣していく」「触れた兵器を全て融合によって取り込む」「遺伝子情報解析から新たな怪物を次々と生み出す」究極兵器の概念あたり。はっきりした出自は不明だが、当時横溢していた「人工知能が人間を模倣する学習行動を通じて人間を超越していく可能性」や「遺伝子ゲノム解析が人間の存在を過去のものとして葬り去る超人類を生み出す可能性」などに対する恐怖が背景にあった事だけは確か。

コブラ (漫画) - Wikipedia

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*さらにその背景にあったのは(「誰かが発射スイッチを押せば、相互報復合戦で人類全体が滅亡に至る」という極限性においてある意味究極の「事象の地平線としての絶対他者」として台頭した)核兵器登場が人類にもたらした「世界終末ビジョン」の強要とも。

*もはやその恐怖は「ロミオとジュリエットの物語に端を発する)バルコニー様式」の様な伝統的物語文法では受け止め切れなかった。それで国際的には「怪奇/オカルト/超能力/UFO/伝奇/サイキックブーム」を背景に「(オペラ座の怪人、吸血鬼、狼男、フランケンシュタイン博士の怪物、透明人間、アマゾンの半魚人といったユニバーサル・モンスターズ(Universal Monsters)からラブクラフトパルプマガジン作者達が創始したコスミック・ホラーの様な際物まで含む)古典的ホラー」から「(より科学的整合性を重視した)モダンホラー」への進化を促する展開を生み出す。

*それはある意味絶対王政体制下の欧州において「リスボン地震(1755年)」が「全ては神の計画のうちにある」なる純朴な伝統的理念を不可逆的な形で破壊してしまった展開に相似していたとも。

*そういえば平野耕太HELLSING(1998年〜2009年)」に登場する「吸血した相手の記憶を全て継承する存在」ではあった。ただしここには「個々の記憶の融合」という展開までは見られない。

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荒川弘鋼の錬金術師(2001年〜010年)」に登場するグラトニー(貪欲)も同類。

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石田スイ「東京喰種トーキョーグール(Tokyo Ghoul、2011年)」にも「グールは共食いによる能力融合で強化可能だが発狂と暴走の危険が増大していく」という設定なら存在した。

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*差し詰め大源流はマイケル・ムアコックの「アンチヒーロー小説」とも。ただこの段階では吸血鬼の様に「エネルギーの搾取」しか存在しない。

ストームブリンガー(Stormbringer) - Wikipedia

マイケル・ムアコックファンタジー小説エルリック・サーガ(1961年〜)』に登場する架空の剣。刀身までびっしりと奇妙なルーン文字の刻まれた巨大な黒い剣として描かれる。法と混沌のバランスをとるために法によって鍛えられ、混沌の力を備える。

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  • ほとんどあらゆるものを斬ることができるが、最大の特徴は独自の自我を持っていて、殺した相手の魂を喰らうことである。

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  • 剣の持ち主である白子の皇帝メルニボネのエルリック(Elric of Melniboné)はこの剣を嫌っているが、ストームブリンガーから与えられる力がないとまったく無力である。魔法や薬の力を借りなければ生命を維持できないエルリックは、ストームブリンガーから力を得なければならないからである。

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  • ストームブリンガーの魂への渇望は非常に強く、しばしばエルリックの手から離れて彼の友人や恋人を殺すという形でエルリックを裏切る。こうして、吸い取った生命力が自身の中に流れ込んでくるのを感じながら、エルリックの罪悪感と自己嫌悪感とはいや増していく。
    *この様な特徴からエルリックはしばしば「年老いた怪物」として描かれてきたが、ムアコックが一番気に入ったのは、これを「苦悩する若者」として描いた天野喜孝版だったという。

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ストームブリンガーの特徴の一つには「野生動物からは魂を吸い取れない」為、劇中エルリックは危機に陥ることがある。

フランク・ハーバートデューン」シリーズ(1963年〜1986年)4作目となる 「砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981年) 」においては前作の主人公が砂蟲(Sandworm)の幼生体たる砂鱒(Sandtrout)と合体し「あらゆる記憶を継承する、限りなく不老不死の存在に近い神皇帝」と成り果てた。最後には(砂蟲としての寿命が尽きて)全ての記憶が解放され、爆散して当人はただの残骸となり果てる。

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デューン 砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE、1981年)

レト神皇帝の治世を描く、異色の物語、それが「砂漠の神皇帝」である。

3500年の未来。そこには緑豊かで、水に困らない、川さえ流れているアラキスがあった。前作「砂丘の子供たち」の最後で、砂鱒との共生を果たし、超人的な能力を得たレトは、正しくポウルの跡を継ぎ皇帝となった。

それから3500年。レトは、水の惑星に変わりつつあるアラキスの湿気を厭う砂虫に近づいていた。彼は、ポウルが成し遂げられなかった長期の平和「レトの平和」を作り出し、完璧な神聖独裁を既知宇宙に敷いていた。その権力の柱は、やはり香料メランジである。砂漠をほとんど失ったアラキスで、レト神皇帝が保管し、大公家をはじめ、それぞれの勢力が隠し持っていたメランジを没収し、その分配を行うことによって絶対的な権力を持っていた。同時にレト神皇帝の未来を見る力、レトを神とする女性のみで成り立つ親衛軍フィッシュ・スピーカーの存在が、かつての皇帝軍であるサルダウカーや、ポウルのジハドを起こしたフレーメンをしのぐ恐ろしさがあった。女性ゆえの絶対的帰依と精神的な強さが発揮され、その頂点としてダンカン・アイダホが掲げられていた。何度もゴーラ(クローン)として再生させられ、最初の死の記憶を思い出させられるダンカン・アイダホの存在は、デューン世界へのアンカーとも言える。愛と死と、正義とアトレイデへの忠誠。それこそがダンカン・アイダホ。

そしてアトレイデ家。神皇帝は、ベネ・ゲゼリット以上に慎重に血統を強化し、アトレイデ家、コリノ家、ハルコンネン家、さらにはダンカン・アイダホの血を混ぜてきた。そうして生まれたアトレイデの官僚こそが、レト神皇帝のもうひとつの力でもあった。

レトはなぜ3500年もの間、大規模紛争の抑制と人の移動の制約、文化・文明の拡張の規制を続けてきたのか。その偽りの平和をレトは喜んでいたのか? レトは、数々の予言を残す。遠い未来の人類の子孫に対しての言葉を残す。それは、「レトの平和」後に広がる人類の力を予言したものであった。
*そういえば寺沢武一コブラ」には、こうした世界観をほぼそのまま流用した回も存在する。宮崎駿風の谷のナウシカ(原作漫画1982年〜1994年、アニメ映画化1984年)」に与えた影響も大きく、漫画版には「(ヒドラ細胞移植によって延命を続けてきた)土鬼の神皇帝」なる存在も登場。

②しかしながら1980年代に入ってパソコンやゲーム機の個人宅への普及が始まると、こうした「(体制側)テクノロジーへの恐怖」が「(反体制側による)テクノロジー利用の可能性増大」によって緩和され始める。
*それが「敵側だけが使える武器」である限り「封印こそが正義」、「自分達だけが使える武器」である限り「味方に向けるのは禁止」と考えるのが人間。だが「(使用ノウハウが拡散して)誰にでも使える武器」になった途端に「軍拡競争」が始まってしまうものなのである。

*この展開が巡り巡って「人形系美少女」の肯定を通じて2000年代後半における「異類婚や彼岸と此岸の交流が不幸しか生まない」物語文法の崩壊へと結びついていく。

③こうして全体像を俯瞰してみると、所謂「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・混錯・受容サイクル」における重要な契機となった作品が浮上してくるのである。
*このケースでは吸収して模倣した後で吐き出してしまう為「延々蓄積を続け、世界そのものと成り果てる宿命」までは背負っていないが、パソコンの普及が「コンピューター技術の進化がもたらす未来ビジョン」の絶対悪視を不可能とする様な役割をこの分野で果たす事になった事実は揺らがない。

カービィ(Kirby) - Wikipedia

任天堂のゲームソフト『星のカービィ』シリーズ(HAL研究所開発、日本国内版1992年〜)、および関連作品の主人公として登場する架空のキャラクターである。

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  • 公式発表によればポップスターにあるプププランドの住人。身長は20センチメートル。年齢は『わかもの』。性別は正式には不明だが説明書では「彼」とよばれており、公式サイトでの一人称も「ぼく」。また、英語版のテキストでもカービィの代名詞は男性形の『he』になっている。声の演技については「わかもの」設定とこれを踏まえてどちらとも捉えられる中性的(ニュートラル)なものとなっている。
    *LGBTs概念との共存を迫られている現代社会において「性別不明」なる設定は、もうそれだけでFateのエンキドゥ(Enkidu)同様に重要な付加価値を備えてしまう。

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  • 名称については、1991年には広告で「ポポポ」と宣伝されていた。これは子供に覚えやすい名前にしようという意図からで、商品名も「ティンクル・ポポ」となっていた。しかし宮本茂の提案で、任天堂から発売されるにあたり日米のタイトルを統一し「カービィ」の名が与えられた。

    ゲームでおなじみ星のカービィのカービィは当初は違う名前だった

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  • カービィ」の由来は諸説あるが、正式なものは不明である。アメリカに存在した掃除機会社の名前「Kirby」から取ったという説、かつてドンキーコング著作権問題に従事していたアメリカ人の任天堂の顧問弁護士の名前「ジョン・カービィ」から取った、などともいわれているが、桜井政博や宮本本人も覚えていないという。

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敵キャラを吸い込むことができ、吸い込んだ敵は吐き出すことで星型弾となり、敵に当ててダメージを与えることができる(『星のカービィ64』のように、吐き出された敵が星型弾にならない作品も存在する)。敵や物などの吸い込んだ物を飲み込むことによって、その敵の能力や外見などの特徴を自分のものにできる「コピー能力」をもつ。ただしスカキャラ(ワドルディなど)を飲み込んでも何も変わらない。コピー能力は初代『星のカービィ(1992年)』には存在せず、『星のカービィ 夢の泉の物語(1993年)』を製作する際に宮本茂によって追加された。
*国際SNS上の関心空間に滞留する匿名女子アカウント集団は秦野宗一郎「無彩限のファントム・ワールド(Myriad Colors Phantom World、2013年〜、京都アニメーション2016年)」における和泉玲奈のFantom Eater能力も同類に分類。彼女はただいかなる悪霊も貪欲な食欲を発散する形で吸収して鎮魂してしまい、吸収したエネルギーの転用で治癒が行えるだけなのだが。

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*背景として彼女達がそもそも「食欲を具現化した怪異」に対して高い関心を払ってきた事が挙げられる。例えばPIXIVを漁るうちに「二口女」の画像を発掘し「これは無理なダイエットが祟って暴走した食欲が具現化した姿」なる斬新な定義を与えたりしている。彼女達にとって「食欲」は最も身近で自分の内側に確かな実感をもって感じられる「(暴れ出すと厄介な)事象の地平線としての絶対他者」なのかもしれない。

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④そして2010年代には日本において以下の様な作品が出揃う展開を迎える。 
*まだ海外にまで知れ渡たった存在とはなっていない。

伏瀬「転生したらスライムだった件(刊行2014年〜)」 - Wikipedia

日本のWEB小説作品。およびこれを大筋プロットとして大幅に改訂し、マイクロマガジン・GCノベルズから出版されている小説作品。さらにはそれを原作として、伏瀬原作・川上泰樹画の講談社少年シリウス』誌面上で連載中の漫画作品。そしてこれを原作として、岡霧硝作・画、伏瀬監修でマイクロマガジンWEB漫画サイト「コミックライド」で連載中のスピンオフ漫画作品。2017年3月時点でのシリーズ累計は200万部を突破した。

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書籍化の話は「なろうコン」に応募中の2013年11月で、評価ポイントは高くとも問題が山積みで練習のつもりで書いていた本作にオファーが来るとは思っていなかったと伏瀬は語っている。また書籍化にあたっては担当編集者から大幅な指摘を受けつつ改稿しており、巻が進むにつれてWEB連載版と整合性が取れなくなっていったため、WEB連載版はプロットとして考えるようになったことを明かしている。

大今良時「不滅のあなたへ(2016年〜)」 - Wikipedia

講談社週刊少年マガジン」にて、2016年第50号から連載中。

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  • 何者かによって、地上へ"球"が投げ込まれた。その"球"はありとあらゆるものの姿をうつし、変化することができる。"それ"は石、コケへと姿を変え、南方から現れたレッシオオカミへと姿を変える。あてもなく歩き続けると、一人の少年に出会う。雪に包まれ、地平線がどこまでも続く世界で少年は一人で生活していた。少年は豊かな土地に夢を馳せ、旅を始めるも挫折。志半ば命が尽きる。"それ"は少年の姿を獲得し、あらゆる刺激を求め、歩きはじめた。

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  • 本作の主人公「フシ」は、他の生物から刺激を受けることで、その生物の姿を獲得できる存在。序盤は石に変化し、次はコケになった。その上で力尽きたレッシオオカミのジョアンに成り代わり、その飼い主の少年の姿になった。以降も自らが刺激を受けた生物の姿をいくつか獲得し、状況に応じて適した姿に変化している。基本的には少年の姿を用いる。その他にも傷を負ってもすぐに修復できる治癒能力と、死亡しても一定時間後に再生する能力を持つ。名前の「フシ」はこの不死身の性質から名付けられている。非生物であっても刺激を受ければ姿を獲得でき、武器や食料を体から生み出せる。
    *ここで興味深いのが、この作品においては「彼に世界全てを記録させる計画の立案者」が別にいて、さらにその計画の遂行過程では「魂を持たないライバル」に付きまとわれるという事。おそらくこの辺りの設定が将来の展開で生きてくる。

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聲の形でも発揮された圧倒的な心理描写がこの作品でも生きている。「死んでいく人々」に下手に感情移入してしまうと後から辛くなるが、それでもそれが避けられないのが悲しくも恐ろしい。

 こうした展開は、おそらく以下の様な動きも時代背景としています。

多様化(Diversification)と多態化(Polymorphism)の時代(1990年代〜)

多様な意見が並列的に存在し共有されたり拒絶されたりしながらある種の「勢力均衡状態」が生み出されていくのを最大の特徴とする。

*多様化(Diversification)と多態化(Polymorphism)…どちらも(産業革命が引き起こす大量生産・大量消費スタイルの一つの到達点としての)大同化(Simplification)の対語となるが、この定義を出発点とするビジョンの到達点がそれぞれ異なる。

*多様化(Diversification…究極的には「各人種(Les races humaines)が(部族連合の様に相互不可侵性を保って)純度を保ち続けている限り文化的発展は起こらないが、「混血」によってそれぞれの人種は生得的ポテンシャルを減少させていき、最終的は使い果たして滅亡する」とした「ゴビノー伯爵のジレンマ(生物学的エントロピー論)」に辿り着く。ここでいう各人種(Les races humaines)なる概念は、血統的なものだけでなく、貴族階層と庶民階層の様な身分制度的区分やクラッシック派とロック派の様な文化的区分も含み、レヴィ=ストロースはその立場から「各エスニック・グループの生得的ポテンシャルの純度のリソース管理」の重要性を説いている。

*多態化(Polymorphism)…上掲のジレンマを補完する形で「実際の「混血(文化的要素も含む混錯)」は多次元に渡って展開するのが常であり、他人に実害を与える場合を除いて統制すべきではない」とする考え方。「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないので、これを国家の権力が妨げるのは他人に実害を与える場合だけに限られる」としたジョン・スチュアート・ミルの「自由論(On Liberty、1859年)」に由来する。最終的にそれは歴史的に「異文化、およびそれとの邂逅が産み出す様々な形態の派生物」としての「事象の地平線としての絶対他者」の各文化における拒絶・混錯・受容のサイクルを形成する事になる。

*要するにこの問題、鰻料理の次元ではこう要約して構わない。

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①江戸時代の日本人は(当時の感覚ではエレキギターのサウンドが登場した時の様にその異質性ゆえに)三味線の音色に様々な次元でのアンビバレントな反応を示しながら、最終的には伝統文化の一部として取り込んだ。最近、このサウンドが海外に「再紹介」されて人気となっている。


②その一方でイタリア人は「ナポリタン・スパゲッティ」は面白がっても「納豆ピザ」には「それはもうイタリア料理の一種ではない」と拒絶感を示す。古代ローマ時代よりガルム(garum)の様な魚醤文化を継承するイタリアにおいてすらこの有様。それくらい発酵文化の輸出入は難しいのである。

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ガルム (調味料) - Wikipedia
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③ならば日本人は海外で発明されたSushi(寿司)のバリエーションとしてのDragon roll / Caterpillar rollやInside out rollやSalmon rollやPink rollに如何なる反応を示すべきだろうか? 日本のSushi Policeはどう動くべきなのか?


一見「正解に対する胡乱な遠回り」とも映りますが、ある意味坂口安吾が提唱したフランス的行動主義、すなわち「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる思考様式のリヴァイヴアルとも。
*問題はその対概念となる「若者に憎しみを向けながらその若さに依存する老人達の、他者全てを捨て駒にして自らの生涯の最後までの安寧を図ろうという強い意思(しかも当事者意識では自らの側が世界に平和と平等をもたらす進歩側で、残りは全て一刻も早く討伐すべき蛮族側)」の方とも。

何しろ最終的に蓄積の当事者は必然的に「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマそのものへと変貌し、上掲の様な問題との対決を強いられる形となるのですから。 そうまさに「砂漠の神皇帝」で示された様に…
*能力の蓄積を続けていくうちにそれは、ただ単に当事者が「エントロピー的死」に近づいていくだけでなく、第三者の目には「(カント哲学いうところの)物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」としか映らなくなっていく。まさしく「事象の地平線としての絶対他者」の顕現で、第三者にとってそれは「自分がそれから多様性や多態性の基盤を得る可能性」を否定される行為でもあるという辺りがややこしい。

*そういえば「風の谷のナウシカ」における「土鬼の霊廟」や「鋼の錬金術師」のグラトニーについて「世界そのものになろうとして失敗した欠陥品」という言及があった。ここでいう欠陥性は三浦建太郎ベルセルクBERSERK、1989年)」における「無名の卵=グリフィス =フェムト(CV: 櫻井孝宏)が目指す理想郷」のディストピア性ともつながっていく。「絶対他者」が「事象の地平線」概念と結びくのは、まさにこうした(推察が核心に近づくほど思考継続が困難となっていく)人間の思考様式の限界ゆえ。結局人類はこれに対して「拒絶・混錯・受容(=取り込み切れなかった部分の切り捨て確定)」のサイクルを描いて漸進的に進んでいく事しか出来ないのである。

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あれ、こうやって全体像を俯瞰してみると「なろう系小説」って米国のパルプマガジン文化やヒッピー文化の延長線上に発生し、それが乗り越えられなかった課題に取り組んでいる事になる? そしてそれはまさにここで挙げた「砂漠の神皇帝」問題の事?
*「砂漠の神皇帝」問題…要するに「風の谷のナウシカ」にも超え切れなかった問題。

とはいえこのジャンル、現段階では多くの作品が発表途上で、こうした問題にそれぞれどういう解答を見つけるかも不明のまま。それぞれがどういう結末を迎えるか、あるいは「(延々インフレが進行し、それが不可能となった時に人気を失って竜頭蛇尾的に打ち切られる)少年ジャンプ進行」に終始するのかも、まだ未確定。そういう意味でも時代の最先端の動きとも…