平鳥コウ「JKハルは異世界で娼婦になった(2017年)」って、吃驚するほど賛否両論…
缶詰とか「どうでもよく」て、キモは「価値観が宮台」というあたりなのではないか、というのがおっさんの感想です。そらあんた実際の女子高生のセックス事情なんか知らんわ。 / “【異世界シャワー】JKハルを実際に読んだらシャワー以外がも…” https://t.co/fflPmOt5hM
— K-Ono (@K__Ono) 2017年12月26日
早速最後まで読んでみました。そして「ブレードランナー(Blade Runner、1982年)」でルドガー・ハウアーが演じるレプリカントみたいな気持ちになりました。
「恐れながら生きていくって大変だろ? それが奴隷だ…俺は、お前たちが想像もできないものを見てきた。オリオン座の近くで燃える宇宙船、タンホイザー・ゲートの闇に輝くオーロラ。だが、そんな思い出も消えていく。雨の中の涙のように…」
*シルベスター・スタローン(Sylvester Gardenzio Stallone)演じる主人公にいる同様の独白がある「ランボー(First Blood、1982年)」とも重なる。「恐れながら生きていくって大変だろ?それが奴隷だ」…
まぁ「ポルノ系」といったら…
*「ポルノ系」…ここでは「(元来はそれぞれが個人的に楽しむべきで、公共の場では語るのがタブーとされてきた)売春婦の文学化・絵画化」という原義で使っている。
- マルキ・ド・サドの暗黒文学は主に監獄と精神病院で幽閉中に執筆されている。彼を日本に紹介した澁澤龍彦も「現実世界から隔離され、自己承認欲がリミッターをぶち切った事がこの人物を平凡な自由人(Libertan)からルサンチマンに満ちた文学者に変貌させた」と要約。その意味ではまさに「なろう小説」元祖。ただし実はボードレールやフロベールらに再評価されたのは(炎上商法で国内における評価はどん底まで低下した)エドガー・アラン・ポー同様に「自分の性癖を正当化する為に当時のトレンドを調べ上げて独自の編纂を施して独特の背世界観を構築した」マーケッターとしての部分だった。実際の肝心の「性癖」に関する描写は今日の読者の観点からは陳腐で冗長で、彼の作品を訳出した澁澤龍彦でさえ「この部分は再読に値しない」と判断しバッサリ切り捨ててる。確かに何が誰にとってエロいかなるコンセンサスそのものが、時代によって移ろうのだ。そうまさしく雨の様に、涙の様に…
*ビクトリア朝時代のポルノはさらに壮絶。なんと何重にも着重ねられた下着を脱がし続ける場面がただひたすら濡れ場の大半を占めるのである。
*そのサド侯爵も、自分の妄想を具現化しようとした際には雇った売春婦を用いている。売春婦だけを標的として下腹部を破壊したり子宮を持ち去った「切り裂きジャック」の所業と重なる部分がない訳でもない。まさしく「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が「串刺し公」ワラキア公ヴラド3世(1431年〜1476年)や「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベト(1560年〜1614年)を産んだ系譜に属する貴族的権威主義の世界。「JKハル」の世界観でいうと「娼館に通うクズ野郎」の一員。
- そしてビクトリア朝の堅苦しい倫理概念に叛旗を翻すべくリチャード・バートンが訳出した「千夜一夜物語(1885年〜1888年)」「カーマ・スートラ」の世界が限りなく私家本に近いレベルでひっそりと始動する。
*まさか紀元前後時点でここまでマニュアル化されているとは…インドやはり恐るべし。
- さらには「愛は階級を超越する」テーマがトレンドだった時代を代表するE.M.フォースター「眺めのいい部屋(A Room with a View、1903年)」や、D・H・ローレンス「チャタレイ夫人の恋人(Lady Chatterley's Lover、1928年)」。
*後者は日本語訳出に際して有名な「チャタレー事件(1951年〜1957年)」を引き起こしたが、前者も実は著者が同性愛者で、「肉体しか誇るものがない」労働階級イケメンが、それを誇示するかの様に全裸で走り回るし十分腐り切っている。
*あとこの流れでは(欧州目線からの)アジア的エロティズムを大胆に描いたエマニエル夫人(Emmanuelle、1974年)」への言及が不可避。系譜としては「カーマ・スートラ」系。
*アン・ライスはL・M・モンゴメリ「赤毛のアン(Anne of Green Gables、1908年)」のヒロインがルー・ウォーレス「ベン・ハー(Ben-Hur: A Tale of the Christ、1880年)」で屈強な男性騎手達が互いに鞭打ち合う戦車場面を読んでむやみやたらと興奮し、そっと付箋を貼る描写辺りに「女性の性への目覚め」を見出し、これに「ブックマーク・エロティズム」なんて呼称を与えている。その後このヒロインは(後に自ら黒歴史として封印する)ゴシック小説の創作に励むし「元祖腐女子」の呼び名が高い。
- 20世紀前半の米国におけるパルプマガジン文化はこうした方面に随分と奥手だったが、その結果「全裸同然の姿で拷問されたり、怪物に生贄に捧げられる美女(毎回主人公が助けに来て危機から脱する)」「宇宙一の無法者という設定だが、毎回怪物めいた美女妖怪に為す術もなく押し倒され好き放題にされるイケメン(毎回同じくイケメンの相棒が助けに来て危機から脱する)」といった歪な形のエロティズムが発達する。
*そういえば日本においても1960年代から1980年代にかけて進行した「少女漫画改革」を推進した女性漫画家達が揃って横山光照「伊賀の影丸(1961年〜1966年)」や永井豪「けっこう仮面(1974年〜1978年)」における拷問シーンで「最初の性の目覚め」を感じたと述懐している。こうした次元のエロティズムで肝心なのは「最後は必ず助かる」安心感なのだという。
- さらにはカソリック的権威主義とSM文学の親近性が「男VS女」「女VS女」「男VS男」「下克上」の世界が克明かつ濃厚に描かれるアン・ライス(A・N・ロクロール)「眠り姫シリーズ四部作(Sleeping Beauty Quartet、1983年, 1984年, 1985年, 2015年)」によって惜しみなく暴露された。ただこうしたエロティズムは現代的感覚からすれば「古い」とされる。21世紀的エロティズムは前世まで人間の心を拘束し続けた伝統的権威主義から距離を置こうと格闘中なのであった。
そしてこの作品における「宿屋の女主人」や「護衛部隊」の様な存在が「JKハルは異世界で娼婦になった」において、改めて「活躍」の場を与えられる展開に。そういえばエリザベス・ベア「スチーム・ガール」にも「宿屋の女主人」的存在なら登場するが「JKハル」の後者に対する「皆殺し」展開には驚いた。まぁ「女性に対する陵辱が許容されるのは、後できっちり報復が為される場合のみ」なる女性向けポルノの物語文法に従うならこちらの方が正解ではあるのだが。
*「眠り姫四部作」…むしろ日本語版序文においてさらりと言及された「スターリン独裁下における先鋭化された科学的マルクス主義は、シベリア収容所においてロシア人女性看守による日本軍捕虜男性の強姦を可能とし、男性被害者は残りの生涯ずっとトラウマを抱えて生きる事になった」なる事例の詳細が知りたい。いずれにしろこうした次元における性欲(セクハラ)と権力欲(パワハラ)の容認は、21世紀まで生き延びる事は出来なかった。
*こうした権威主義的陵辱系の系譜においては沙村広明「ブラッドハーレーの馬車(2005年〜2007年)」について触れるのを避けられない。いや本当、当時の雑誌「F」って一体何だったの? そしてここでもやはり「赤毛のアン」…
- そして1990年代後半に入ると日本の若者文化は「援助交際で稼いだ金をブランド品購買に突っ込む唯物論的女子」や「本物の殺し合いを通じてしか生きてる実感を回復出来ないニヒリスト男子」が中心になっての価値観再建が始まる。
*当時の貴重な同時代証言が、榎本ナリコ「センチメントの季節(1997年〜2001年)」には満載状態だったりする。「商業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)」にとっての「終わりの始まり」の開始とも。そういえば当時は携帯小説家Yoshi「Deep Love(2000年〜2003年)」の大流行もあった。
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ところで国際SNS上の関心空間に滞留する匿名女子アカウント達は「トワイライト・シリーズ(2005年〜2008年)」の二次創作作品を改変したE・L・ジェイムズ「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(Fifty Shades of Grey、2011年書籍化)」について大変厳しい評価を下した。そういう私も、明らかに岩明均「寄生獣(1988年〜1995年)」における「後藤さん初登場シーン」を模したとしか思えない「全裸ピアノ」場面でどうしても笑いが収まらず挫折してしまった。
- *「筋トレもピアノ演奏も己の肉体を完全に制御したい欲望の顕現に過ぎぬ(ハァハァ)」ですよ?
なるほど、こうした意味合いにおいて「JKハル」はある種の「娼婦の復讐譚/下克上」の物語として成立してるとはいえそうなのです。
だが、ここであえて人としての理を捨て、真性変態の一人として問い糾さざるを得ません。全体像を俯瞰してみれば、やはり「JKハル」は、その踏み込みの甘さ(フロイト的神経症)の部分を非難されざるを得ない作品なのでは?
シグムント・フロイト「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型(1916年)」
現実において、リビドーが欲求を満足させることのできる対象が失われるのが、外的な欲求不満である。外的な欲求不満は、それに内的な欲求不満が重ならないかぎりは発病の原因とはならず、病的なものではない。
内的な欲求不満は自我に由来するもので、リビドーが支配しようとしているほかの対象を、リビドーと争うために発生する。そのときに葛藤が発生し、神経症が発病する可能性が生まれる。すなわち、抑圧された無意識という迂回路をたどって、欲求が代償充足される可能性が生まれるのである。
内的な欲求不満はすべての場合で問題になるが、現実の外的な欲求不満によって、内的な欲求不満が働けるような状況が準備されるまでは、いかなる効果も発揮しないのである。
人間が成功の頂点にあって発病するという例外的な事例では、内的な欲求不満がそれ自体で独立して働いたのであって、外的な欲求不満の代わりに願望の充足が訪れた後になって、初めて現れるのである。ここには一見したところ奇妙なところがあるように思えるが、よく考えてみれば、自我がある願望を無害なものとして容認していることは異例なことではない。ただしそれはその願望が空想にすぎず、実現することはありえないと思われている場合にかぎられるのであり、その願望の実現が近づき、それが現実になろうとすると、自我はそれに激しく抵抗するのである。これが神経症の発病の周知の状況と異なるのは、普通の神経症では内的なリビドーの備給が強まって、それまではまでは取るに足らぬものとして容認されていた空想が、恐ろしい敵に変身するのである。これにたいして、成功の頂点で発病する神経症の場合には、葛藤が発生するためのシグナルが[リビドーの備給の内的な強まりではなく]現実の外的な変化によって出されるという違いがあるにすぎない。
精神分析の仕事がわたしたちにわかりやすく教えてくれたのは、現実が好都合な形で変化したときに、そこから長く待望してきた利益を享受することを禁じるのは、その人の良心の力だということである。この良心というものは、まったく思いもかけなかったところで働いて、わたしたちを驚かせる。良心にそなわっている裁いて罰する傾向がどのようなものであり、それがどこから生まれたかを探るのは、困難な課題である。*「例外者」の中には「復讐の達成」に手が届かない間だけ心の安寧が得られるタイプが存在し、達成の瞬間が近づくとむしろ抵抗する。神経症的人格を特徴付ける「自己拘束による無能力状態」が表面化する展開。
「江藤/村上の根底にあるのは自分たちは「父」になれない、武器は持てないという諦念である。そのため、どちらも偽物であることを自覚することで成熟する、という形式を取り、そしてどちらも性差別的な構造に依存している。
— 柊あすかい (@askai33) 2017年11月25日
前者は彼が「父」を演じる代わりに誰か(象徴的には母、妻、娘といった自分を無条件で肯定してくれる女性)が犠牲になってナルシシズムを下支えし、
— 柊あすかい (@askai33) 2017年11月25日
後者は彼が「父」としての自己実現を実質的に得ながらも表面的には「父」にならない、主張し得るために同様に女性が代わりに手を汚し「父」としての債務を果たす。」
— 柊あすかい (@askai33) 2017年11月25日
家庭内暴力振るってた江藤淳が性差別的であることはまあ分からんでもないけど、村上春樹がコミットメントの責任を女性に負わせてるから性差別だとするのは、どちらかというと宇野の方が女性の主体性をまるで無視しててジェンダー的ではないな。
— 柊あすかい (@askai33) 2017年11月25日
宇野常寛はセカイ系(と呼ばれた作品)の原型を村上春樹に求めているけど、村上春樹が全然好きじゃないのであんまりピンとこない
— 柊あすかい (@askai33) 2017年11月25日
その一布で「JKハル」は、明らかに以前の投稿で触れた最新トレンド「カービィ(Kirby)系」に分類される内容なのです。それはつまり宮崎駿監督すら正面対決を避けたこの分野における最大の「事象の地平線としての絶対他者」たる「デューン 砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE 1081年)」における「神皇帝レト」問題との対峙を余儀なくされる事を意味します。
- いやむしろ「JKハル」と比較すべきは星野之宣「妖女伝説シリーズ(1981年)」における雪女や「2001夜物語(1984年〜1986年)」におけるタキオニアンの振る舞いなのかもしれない。「死すべきもの」達の遺伝子を頂戴して後世に伝える、人ならぬ不死の怪物…
*それ自体は明らかに19世紀末欧州における「ファム・ファタール(Femme fatale、男にとっての「運命の女」)」の系譜上に現れた。典型例は預言者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の生首を所望してストリップダンスを踊る妖女サロメ。
*しかしながら彼女達はその後人類の側が滅亡してしまったり、外宇宙に飛び去ったりしてしまうので以降に述べる様なジレンマとは無縁。そうまさに「楽園追放 -Expelled from Paradise-(2014年)」におけるフロンティアセッター(Frontier Setter、CV神谷浩史)の様に。
この要素、 宮崎駿の「風の谷のナウシカ(原作漫画1982年〜1994年、アニメ映画化1984年)における「土鬼の庭園と霊廟」の概念を経て大今良時「不滅のあなたへ(2016年〜)」に継承された感も。
- ところで海外の歴史マニア(特に女系にこだわるユダヤ人やハプスブルグ家復興を夢見る王党派)の間では「織田信長の妹」お市の方(1547年〜1583年)及びその娘達の「遺伝子ハンター」としての国際人気が思うより高い。何しろ当時の日本に存在した全ての王統を一つに束ねる役割を果たしたのは大きいという解釈。
*この次元において(実際にこの系譜に子孫を残した)浅井長政が、(子孫を残さなかった)柴田勝家より高評価なのは、日本人としてモヤモヤするが、まぁそれが欧州貴族ファンの判断基準という次第。
*この問題、ウィリアム・シェイクスピア四大悲劇の1つ「マクベス(Macbeth、1606年頃)」において「現世の暴君」として盛衰の限りを尽くした「スコットランド国王」マクベスと、当人はあっけなく謀殺されたバンクォウ(Banquo、ステュアート朝スコットランド王統の祖)のどちらが偉かったかという話に繋がっていく。氏族戦争(Clan War)全盛期の答えは後者だったが、果たして今日の観点から振り返れば、どうなる?
- いずれにせよ、どんな道筋を辿ろうが(然るべき歯止めのジレンマがあらかじめ仕込まれてない限り)特定の主体が「最強」のレベルに到達すれば「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが発動して「デューン 砂漠の神皇帝(GOD EMPEROR OF DUNE 1981年)」における「神皇帝レト問題」が発動してしまう事実は避けられない。
*平野耕太「HELLSING(1998年〜2009年)」でいうと「怪物を倒すのはあくまで人間でなければならず、倒す過程で人間を辞めてしまっては新たな怪物が誕生するだけで元も子もない」問題。アルカードを倒す事に執念を燃やし続けたアンデルセン神父がその道を辿った。
*「子供達の夢を動力源とする異世界」ファンタージェンが「夢を絞り尽くされた子供達」を次々と「かなえるべき夢をなくした冷酷な独裁者」へと変貌させ切り捨てていくディストピアを描いたミヒャエル・エンデ「はてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」も、間違いなくこの系譜に属する。
要するにこれも「事象の地平線としての絶対他者」問題における「事象の地平線」部分。最初から「向こう側」に抜ける選択肢など存在しないから「神皇帝」レト・アトレイデは最後に「自然」に逆らえず爆散。「デューン(Dune)シリーズ(1965年〜1985年)」から多大な影響を受けた「風の谷のナウシカ(1982年〜1994年)」や、さらにその大源流の一つとして数えられているル=グウィン「ゲド戦記(Earthsea)シリーズ(1968年〜2001年)」にまで暗い影を落とす。
アーシュラ・K・ル=グウィン著「ゲド戦記:帰還(Tehanu, The Last Book of Earthsea、1990年)」
元巫女テナー「私達自身が自由そのものなのね」
元大賢人ゲド「そう思う」
元巫女テナー「力を失う前の貴方は自由そのものに見えた。でも何を代償に得た自由だったの? 何が貴方を自由にしたの? 私はといえば、太古の精霊達に仕える女達の思い通り、まるで粘土細工みたいに練り上げられただけだった。ううん太古の精霊達じゃない。女達が仕えていたのは男達だったのかも。儀式も、その内容も、執り行う場所もみんな男達が決めていたんだもの。その後で私は自由となり、ほんのちょっとの間貴方といて、それからオジオンの所に行ったけど、それは私の自由そのものじゃなくて、選択肢が増えたから選んだだけ。そして今度は農場と、その主と、二人の間にもうけた子供達の三者に役立つ様にまた自分を年度の様に練り上げる道を選んだ。考えてみたら私はずっとそうやって器であり続けてきた。いつ、どこで。どんな器たらんとしてきたかは覚えてる。でも材料は? 対価は? 命の躍動するまま生きてきたつもりだったけど、一番肝心の自分が判らない」
テナーの独白「(英雄王の討伐によって海賊稼業が続けられなくなり、テナーの農園の継承権を主張しに舞い戻ってきた息子のヒバナを目の当たりにして)ヒウチイシ(テナーの夫の名)の答も二十年いっしょだった。イエスかノーかをけっしていわないで、ものをきくこちらの権利を拒んでしまうのだ。こちらが知らないのをいいことに、逃げ場をいつものこして。なんて貧しいの。なんて情けないちまちました自由なの」「ヒバナは朝ご飯の時もじっと坐って待ってるだけ。ヒウチイシはいつも母親にかしずかれ、妻にかしずかれ、娘にかしずかれてきた。父親ほどの男でもないくせに。その事を判らせてやらないといけないのだろうか」
*ゲド戦記は前半三部作(1968年~1977年)が所謂「家父長主義的アメリカ」がヒッピー運動などによって動揺を余儀なくされた時代に執筆された「人間を拘束する伝統的影響力が必然的に生み出す強大な反動とどう対峙していくかという物語」だったのに対し、後半三部作(1990年~2001年)は両者が対消滅を起こし忘却の彼方に去った後に、残された人々が「(当時自分達が執拗に求めた)自由とは何だったのか」見失ってしまう物語となっている。まさしく安部公房が「砂の女(1962年)」の冒頭で掲げた「罰がなければ、逃げる楽しみもない」の世界…
*米澤穂信「古典部シリーズ(2001年〜)」のヒロイン千反田江留も「ふたりの距離の概算(2010年)」で「絶対正義と目される存在は、それ故に絶対悪と目される事もある」なる観点が付加され、さらに「いまさら翼といわれても(2016年)」においては「家母長の座からの転落」という新たな局面を迎える。さすがは米澤穂信、容赦ない。アニメ版第6話「大罪を犯す」
千反田江留「傲慢なところがまったくない人というのは、自信がない人のことじゃありませんか。誰からも強欲と言われない人は、きっと家族を養うことも難しいでしょう。世界中の人が誰にも嫉妬しなければ、新しい技術が生まれるとは思えません」
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*その一方では「パイレーツ・オブ・カリビアン(Pirates of the Caribbean、2003年)」シリーズにおいて(旧三部作においてカリプソ(演ナオミ・ハリス)が果たした)地母神(=というより航海守護の女神)の役割をエリザベス・スワン(演キーラ・ナイトレイ)が継承する流れが存在した。さて、これからどう展開していくつもりなのか?
ところが21世紀に入ると「人類は不自然な家父長制から自然な家母長制へ回帰すべき」なるバーバラ・ウォーカー流ウルトラ・フェミニズムをも乗り越えて「家父長制も家母長制も権威主義体制には変わりない(権威主義体制そのものへの依存状態を乗り越えよう)」という展開に。カルロ・ゼン「幼女戦記(Web小説2011年〜、刊行2013年〜)の主人公が(中身はオッサンの)幼女なのも、伏瀬「転生したらスライムだった件(2014年〜)」の主人公が中性(人型アバターは幼女)なのも、もしかしたらこうしたトレンドを意識しての事だったかも。
いずれにせよこういった方面の極北が国際的に「フェミニズム文学最高峰」を原作に選んだ片渕須直監督の「アリーテ姫(2001年)」を経てフェミニズム研究者が脚本に参加した「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road、2015年)」であると目されている。ここでは「(家父長制にせよ家母長制にせよ)権威主義体制は支配者側にも容赦無く無理を強いる」現実が暴かれる。
何というかまぁ、総括すると2010年代に入って怒涛の勢いでパラダイムシフトを引き起こす傑作が毎年の様に目白押しでリリースされてる関係上、せっかくの「なろう小説ジャンルにおける屈指の問題作」が霞んで見えてしまうのも仕方がないという感じ?