諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

これも「事象の地平線としての絶対他者」? ⑥こういう「民族生物学」も存在する…

民族生物学(Ethnobiology)」 なる表現を初めて知ったのは、ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(1935年)」において。

f:id:ochimusha01:20171230053340j:plain

そこでは「(守備範囲が狭過ぎて問題解決能力に乏しい)科学実証主義や(それに実用性を放棄してまで没頭した)当時のドイツにおける社会学政治学のあり方」や「形而上学に没頭して現実対応に当たらないドイツ哲学者」に失望した非インテリ層が1890年代から1910年代にかけて没入した「ドイツ特有の情念の一切を投入して生物学への信仰と民族の根源性への信仰を結び合わせて直接行動に向かわせるイデオロギー」や「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II.,在位1888年〜1918年)とその側近達の積極的植民地獲得政策を「自然淘汰圧」とか「適者生存の宿命」とか「生存圏確保の為の総力戦(負けた側が滅び去るのは自然の理)」といった生物学用語の援用によって正当化しようとする政治的態度」を表す言葉として使われていました。

でもこの言葉、そうした用法が全てなんでしょうか?

f:id:ochimusha01:20171230054010j:plain

 深海に潜るイルカで観測され、しばしば人間にも起こるとされるこの現象を思い出しました。初めて耳にしたのはリュック・ベッソン監督映画「グラン・ブルー(Le Grand Bleu、1988年)」冒頭。

さらに深みを目指す方へ

大深度では生命維持のため、末端の血液が身体の中央部に集まるブラッドシフトと呼ばれる現象が起こる場合があります。

ブラッドシフトが起こった場合、末端である手足の血液は通常の状態より少なくなるので、その分いつものように動かない、ということになります。

フリーダイバーに直接影響のあることとしては、フィンキックが思うように出来ない、という事も考えられます。

ブラッドシフトは誰にでも起こる現象ではありませんが、起こった時の事も考え、ギリギリのダイブは避けるべきです。

江戸時代中期から後期にかけての旗本・南町奉行根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間に書きついだ随筆「耳嚢」には、寛政の改革1787年〜1793年)を主導した老中松平定信との会話も収録されてますが、そこに「江戸経済が風紀取り締まりで縮小しております」「計画通りだ。これで金が地方発展に回る」なんてやりとりがあったりします。そういえば松平定信、江戸中心文化を守る為に十返舎一九東海道中膝栗毛1802年〜1814年)」の出版を妨げてきた蔦屋重三郎を財産没収と禁固刑で破滅させた事で後世に「大悪人」と伝えられた人でもあったのですね。

蔦屋重三郎 (1750年〜1797年)- Wikipedia

もちろんメディアは当時も今も自分達に刃を向けた存在を全て後世に「大悪人」として語り伝える存在ですから、この件も歴史教科書などには「大悪事」としてしか掲載されていません。しかし、考えてみたらこれまでこのサイトで述べてきた様な「全国規模で参勤交代を実現する為の交通インフラ整備が全国に富商や富農のネットワークを成立させ、これが庶民の往来を活発化させて当時の世界史上においても未曾有の大衆文化が繁栄する」江戸時代の景色は、本当に(江戸幕藩体制の完全想定外の形で)自然発生的に成立した訳ではなかったとも。

実はこうした動きの背景には、ドイツ帝国成立時において「国家主義ビスマルクと「社会民主主義の父」ラッサールが「制限選挙制を悪用して議会を牛耳り、既得権益の墨守を目論む都市部ブルジョワ=インテリ階層」を挟撃した様な構図が透けて見えたりもするからややこしいのです。そして当時のドイツ同様、当時の日本におけるかかる動きもまたその大源流を辿るなら(直接の体制批判が厳格に禁じられていた状況が産んだ)匿名文化に遡ったりもしたりします。

678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

  • 江戸吉原中心に栄えた天明狂歌には「それを支えた莫大な遊興費の少なからぬ部分が幕臣土山宗次郎によって賄われており、さらにその資金源となったのが蝦夷開発資金や富士見宝蔵(徳川家宝物庫)からの組織的横領」なる後ろ暗い側面もあった。寛政の改革1787年〜1793年)期間中に土山宗次郎が斬首されたのも、山東京伝蔦屋重三郎が重い罰を受けたのも「駿河小島藩年寄本役」倉橋格(恋川春町)が隠居を余儀なくされたのも、大田南畝(四方赤良/蜀山家)が「更生」を余儀なくされたのも背景にこれがあったせいとも。だが当然(今日のマスコミが「安倍自民党包囲網」側の悪行について一切の沈黙を頑なに守り続ける様に)当時の文献も、その多くがこの事について多くは語らない。
    天明狂歌
    大田南畝と天明の狂歌

    天明狂歌研究 - 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
    天明狂歌覚え書

    f:id:ochimusha01:20180110055426j:plain

    宝暦・天明文化 - Wikipedia

    宝暦・明和・安永・天明期(1751年~1789年)を中心とする江戸時代中期に発展した文化である。上方を中心として武士や上層町人が担い手になった元禄文化と江戸を中心として中層町人以下の庶民層が担い手になった化政文化の中間期にあたる。

    f:id:ochimusha01:20180110061007j:plain

    • 徳川綱吉の治世(元禄・宝永期)が終わり、正徳の治・享保の改革によって引き締められると、武士の文化活動は抑制的となった。その一方で武士の中には中国の文人に倣って、世俗から離れて文学・芸術活動に向かう動きが現れた。また、文人への憧れは中国文化への関心を高め、漢詩文や文人画を始め、考証学、『三国志』や『水滸伝』に代表される白話文学の受容などをもたらすことになる。
      f:id:ochimusha01:20180110060514j:plain
    • こうした動きは一部の町人を取り込みながら江戸を中心として文人趣味のサロンやネットワークを生み出すことになる。宝暦年間以降になると、政治・社会も文化的に寛容(田沼時代)になり、新たな文化が江戸から地方へと広がるようになった。

      f:id:ochimusha01:20180110060856j:plain

    • 絵画の分野では、京都で与謝蕪村池大雅らが文雅の世界を理想とする文人画を描く一方、写生を基礎とした円山応挙はより写実的な画風を生み出した。更に、伊藤若冲曾我蕭白長沢芦雪ら、しばしば「奇想」と形容される個性的な絵師たちが活躍したのもこの頃である。江戸では鈴木春信が錦絵の技法を完成させたのもこの時代で、喜多川歌麿東洲斎写楽によって浮世絵の全盛期の幕開けを迎えることになる。また、西洋画の技法も伝えられ、『解体新書』の解剖図でも知られる洋風画の小田野直武、銅版画の司馬江漢などが活躍している。

      f:id:ochimusha01:20180110060938j:plain

    • また、与謝蕪村俳諧の世界でもその才を発揮して蕉風の再興者とみなされ、地方の俳壇では横井也有なども活躍した。俳諧の前句付や付句が独立して世相や風俗を読み込んだ川柳が成立したのもこの時代であった。更に江戸では洒落本・黄表紙狂歌などが生み出され、それぞれの分野で山東京伝恋川春町大田南畝という優れた作家が登場した。こうした新しい文学の誕生を支えたのは、当時江戸で興隆した本屋・書物問屋・地本問屋などであった。また、大坂でも『雨月物語』の上田秋成浄瑠璃の竹田出雲が活躍している。

      f:id:ochimusha01:20180110061157j:plain

    • 学問の世界でも国学蘭学が隆盛を見せる。前者は賀茂真淵の学問を継承した本居宣長による『古事記伝』が知られている。また、有職故実の分野では裏松光世が大内裏の復元のための考証を行い、裏松を補佐して考証を助けた藤貞幹は上田秋成とともに記紀の記述を巡って本居宣長と論争を繰り広げた(日の神論争)。蘭学はまず医学や天文学の分野から受容され、杉田玄白前野良沢らが医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』を刊行した。また、医学と密接な関係にあった本草学の世界では田村藍水およびその弟子でエレキテルで知られる平賀源内が活躍した。

      f:id:ochimusha01:20180110061119j:plain

    従来は江戸中心の文化ということで、化政文化の一部として扱われてきたが、その担い手が元禄文化のように武士や上層町人を中心とし、化政文化とは異なることから独立した文化として位置づけられるようになった。
    天明狂歌とはすなわち、こうした(日本における商業至上主義時代(1960年代〜2010年代?)の先駆ともいえる)カンブリア爆発期的状況、すなわち「事象の地平線としての絶対他者に対する黙殺・拒絶・混錯・受容し切れなかった部分の切り捨てのサイクル」における「混錯」段階の一環として存在したのである。そして当時のそれは「保守派中の保守派」狩野派と袂を分かった鳥山石燕の妖怪画という「顔」を持っており、以降日本の妖怪に「武家と町人」「都会と田舎」「中華文明とと西洋文明と日本文明」「商業主義と農本主義」といった複雑な次元における対立構造を持ち込む事になったのだった。

    f:id:ochimusha01:20180110054332j:plain

    *そうまさに闇から闇に展開された鍋島藩領主交代騒動が「化け猫」を産んだ様に。妖怪「がしゃどくろ」がオランダより輸入された解剖図と平将門伝説の狭間から生まれた様に。

    がしゃどくろ - Wikipedia

    f:id:ochimusha01:20180110062757j:plain 

  • 寛政の改革1787年〜1793年)が後世に残したもう一つの大きな業績、それは(国家経営能力を伝統的武家社会が喪失しつつある)当時の実情を直視した人材登用革命だった。多くの日本文化通史が「天明狂歌を支えた文化的巨人大田南畝(四方赤良/蜀山家)が当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となり、その2年後の寛政8年(1796年)には支配勘定に任用され享和元年(1801年)には大坂銅座に赴任した展開を「凋落」と規定するが、実はこれこそがまさに「事象の地平線としての絶対他者に対する黙殺・拒絶・混錯・受容し切れなかった部分の切り捨てのサイクル」においては「受容」段階の典型例。日本の明治維新が危ういところでフランス革命化(体制側の無能による暴力革命の成立)を免れたのは、この時以降の「新体制」によつて採用された幕臣達が優秀だったから。例えば幕末期に活躍した(町人の有力者から旗本小普請組に引き上げられた家系の)勝海舟(1823年〜1899年)。そして戊辰戦争に際して(塚原卜伝の血筋を母型で継承してきた飛騨直轄地役人の末裔)山岡鉄舟(1836年〜1888年)。どちらかというと人材流動性が高い(すなわち経済的実情と政治体制の不一致が少ない)ジェントリー階層を王室の藩屏としてきた大英帝国の貴族主義に近い体制で、それ故に英国でも「フランス革命」は起こらなかった。当時の日本においても、徳川政権そのものは所謂「薩長土肥」に転覆させられてしまったが、後期江戸幕藩体制を支えたこれら「新幕臣」の多くが明治政府入りを果たし、彼らが幕末期フランスと近しい関係にあった事が「版籍奉還(1869年)」「廃藩置県1871年)」「藩債処分(1876年)」「秩禄処分(1876年)」といった「江戸幕藩体制からフランス郡県制へ」の流れをスムーズに進行させる一員となったという。
    勝海舟 - Wikipedia
    山岡鉄舟 - Wikipedia

    *こうした動きは、自分たちこそ明治維新の主役と信じていた尊王攘夷志士達や切り捨てられた士族階層に「(理念面で圧倒的優位にある)我々を差し置いて(実務能力に長けた)元幕臣が積極登用されるなんて許せない」なるルサンチマンを発生させた。それが士族反乱の失敗と自由民権運動におけるその敗残者の伝統的富農・富商層の吸収なる段階を経て「大新聞文化の成立」に至る。

かくも「都心部 VS 田舎」の対立構造は想像以上に根深く、さらにここに「植民地」の概念が重なってきたりする訳です。

ここで思い出すべきは当時におけるこの路線の「成功者」。すなわち祖国再建の為に「ブラジル搾取」を遂行したポルトガル宰相ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ(1699年〜1782年)。そして島津家再興の為に「琉球王朝搾取」を遂行した薩摩藩家老調所広郷(1776年〜1849年)。ある意味彼らもまたここでいう「(都会が生き残る為に田舎を食い物にする)民族生物学」の実践者だったという事になりそうです。まさしく(経世済民を語源とする方の)経済が本質的に内包する矛盾、すなわち「救済への意志が何故か大弾圧やホロコーストの引き金を引いてしまう」ジレンマそのもの。

これまでこのサイトで用いてきた「事象の地平線としての絶対他者」およびその「黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」なる表現が内包している闇はかくも深いのです…