諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「危険なふたり(1973年)」「ハンガー(The Hunger、1982年)」…それは雷光の通り道?

20世紀から21世紀にかけては、こういうの回想のされ方もあるんですね…

沢田研二「危険なふたり(1973年)」 歌詞

※今日までふたりは恋という名の
旅をしていたと言えるあなたは
年上の女 美しすぎる
アーアーそれでも愛しているのに※

何げなさそうに別れましょうと
あなたは言うけど 心の底に
涙いろしたふたりの思い出
アーアー無理して消そうとしている

△僕には出来ないまだ愛している
あなたは大人の振りをしても
別れるつもり△

きれいな顔には恋に疲れた
うつろな瞳が又似あうけど
なんで世間をあなたは気にする
アーアーききたいほんとの事を

(△くり返し)
(※くり返し)

アーアーそれでも愛しているのに

*あれ、この歌詞世界って一歩間違えば「狂った果実(1956年)」の「特攻型ムイシュキン」の内面心理描写にもなっているのでは?  まぁこっちで「年上の女性」に振り回されるのは兄弟なんですが…

石原慎太郎狂った果実(1956年)」より

日系人青年の平沢フランク(岡田眞澄)が留守を預かる湘南のヴィラ(別荘)に集まった若者達(大学生くらい)は、全員暇を持て余しているようだった。
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滝島春次(津川雅彦)「(カード賭博に興じてる連中に対して)他に何かすることないんですか?」

平沢フランク「お前達が単なるヤクザだって言ってるんだよ」

平沢フランクの取り巻き「けっ、何言ってやがる。ヤンキー・ゴー・ホームさ」

春次「もっと他のことすりゃ良いじゃないか」

平沢フランクの取り巻き「他にって何よ?」

滝島夏久(石原裕次郎)「考えてみると、その他ってのがねぇのよ。インテリどもは色々理屈を行ってみせるけど、言葉の紙屑みてぇなもんでさ。そんなのどんなに飾られて綺麗でもよ、結局あの熱帯魚(水槽の中のネオンテトラ)みてぇにもろいものさ。見ろよ、こうやって泳いでてもよ、ちょっと水が濁ったり冷えたりすりゃじき死んじまうじゃねえか(灰皿の吸い殻を水槽の中に落として春次を驚かせる)」

夏久「昔と違って、今の俺たちがそんな上品な思想に溺れてられるかってんだ。話すにしても、考えるにしても、もっとぴりっとした言葉が欲しいじゃないか」

平沢フランクの取り巻き「学校の教授どもの話を聞いてみろよ。節気一陽(これからが新たなる季節の始まり)。昔はあれで通ったかもしれねえが、今じゃ時代錯誤の世迷い事じゃねえか」

平沢フランクの取り巻き「ふざけるのもいい加減にしろよな。"諸君は今の時代のCaptain of industry(英国産業革命を牽引した新興産業階層)である"とか抜かしやがる。サイレント映画の時代じゃあるめぇしよ、ソ連中共のいる今時によ、良くそんな見果てぬ夢を追ってられるもんだよな」

平沢フランクの取り巻き「ああいう奴らが、日本を代表する学者や思想家で通っているんだ」

夏久「大人達が俺達にそっくり受け渡そうとする考え方や感じ方を見てみろよ。俺達にピンとくるものが一つでもあるかよ」

平沢フランクの取り巻き「まったくお手上げだね。俺たちは俺たちに合ったやり方で生きてくよ」

春次「じゃあ、今のそれがそうだっていうのかい。ただ、だらだら生きているだけじゃないか」

夏久「だらだらだと? これでも精一杯なんだぞ」

春次「結局、兄貴達のやってる事はただの出鱈目だよ。結局兄貴達は、自分で自分のやろうとしていること、良く分かってないじゃないか。だから退屈なんて言うんだ。兄貴たちみたいなのを太陽族って言うんだ。僕はそんなのは嫌だ!」

夏久「それじゃ、他に何をすりゃ良いんだ?」

春次「何って」

夏久「俺たちが、思い切ったことをしたくても、正面切ってぶつかる何があるんだよ?」

フランクが人から奪った女で、春次を坊や扱いする道子(東谷暎子)「要するに退屈なのよ、現代ってのは」

夏久「そうだよ、そうなんだよ。その退屈が俺たちの思想ってもんで、その中から何かが生まれるかもしれない」

道子「そうよ、そうなのよ。ところでお腹空かない?飯にしよう!」

話はこの後「女といっても雑魚ばっかりだ。大物はいないかね。水族館で見たホウボウみたいな、まばゆいばかりで棘のある女がよ」という女談義に進展し、夏久と春次の兄弟は「魔性の少女」恵梨(北原三枝)に翻弄される形で破滅へと突き進んでいく。
*いわゆる「ファム・ファタール(Femme fatale)」物の構成。「女性の破滅願望に対する男性の破滅願望の共依存状態」を一つの特徴とする。

この作品に影響抜きに、ゴダールの「勝手にしやがれ(À bout de souffle / Breathless、1959年)」「気狂いピエロ(Pierrot Le Fou、1965年)」は存在し得なかったとも。

で、その影響が日本に逆影響されます。

トニー・スコット初監督映画「ハンガー(The Hunger、1983年)」

こっちは 「1970年代末から1980年代前半にかけては思わぬ形で光(メジャー界)と影(カルト界)の交錯」と関連してくる展開。ヒッピー文化の影響で「カリスマ=捕食動物」「ルーピー=自ら喜んで餌食となる狂信者」なるイメージが強調された時代でもあったんです。

*当時を知ってる世代としては「スターウォーズ・シリーズ(1977年〜)」のダース・ベイダー卿というより「中の人(ジェームズ・アール・ジョーンズ)」が「悪の家父長」そのものを演じたジョン・ミリアス監督脚本オリヴァー・ストーン映画「コナン・ザ・グレート(Conan the Barbarian、1982年)」の魔術師タルサドームといったイメージ。

とはいえこの時代における「兄弟関係の危ういバランスを崩壊させて破滅に追いやる妖女」の代表格といえば、なんといっても吉田秋生の漫画「吉祥天女(1983年〜1984年)」の小夜子なのです。

そういえば「男性の破滅願望」を巡ってはC・L・ムーアシャンブロウ(Shambleau、1933年)」からナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年刊)」に至るラインも存在し、「女性の破滅願望」と交わる交点にLana Del Rey「Lolita(2012年)」なんて妖曲が存在したりします。

これはある種の「危険じゃなければ文学じゃない」のなる言い回しにおける「危険」の男女関係面を巡る雷光の通り道(環境が準備する物理現象だが、細部までの予測は不可能)? そして、それは同時に「あえて(教会や王国が用意した)既存の救済計画に背を向け(悲壮な最後を迎える可能性すら辞さず)自らの内側から込み上げる自然の声にのみ従って善悪の彼岸を超越しようとするロマン主義の実践例でもある?

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*かくして「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分が切り捨てられるサイクル」は回ってきたのである。

*こうして19世紀から20世紀にかけて浮上した「男(息子/夫/父)の存続/破滅願望と女(娘/妻/母)の存続/破滅願望の共依存状態」なる概念は、21世紀にかけてLGBTs勢の公認化の影響で拡張/整理され「男女/男男/女女間における存続/破滅願望の共依存状態」なる形態に整理されていく。

*こうした展開について「世界がまた少し狭くなった」と嘆いてみせるのがゴビノー伯爵やニーチェが傾倒した「距離のパトス(Pathos der Distanz)」の喪失を惜しむ熱力学型エントロピー的/貴族主義的世界観。