諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

昼と夜が対峙する世界① 「運命の女」と「運命の男」の概念的不均衡について。

ヨシワラ・ダンス(Yoshiwara Dance)」、それはフリッツ・ラング監督・ テア・フォン・ハルボウ脚本映画「メトロポリス(Metropolis、1927年)」が後世に国際的に残した途方も無いミーム(Meme、インターネット遺伝子)の一つ。 

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(「権力者=資本家」が全てを当然の様に統括する)昼の世界」に対し全ての既存価値観が逆転するのが「夜の世界」。またそれは「20世紀前半、女性の目から男性向けポルノに夢中になる男性がどう写っていたか」についての時代証言としても貴重だったりもするのでした。
*そのショーとしてのテイストが不思議にもイアンフレミングジェームズ・ボンド・シリーズ(1953年〜1964年)」におけるストリップショーや横溝正史「三つ首塔(1955年)」における金粉ショーの描写と重なる。おそらく現実に存在したこのタイプのショーが全ての発想の大元にある。

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ところで、このサイト以前からは「二直線間を結ぶ最短距離が直線とならないなら、そこに概ね認識空間の歪みが潜在している」なる数理に注目してきました。その代表例の一つが「運命の人」概念となります。

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  • 19世紀末の欧州を賑わせた「運命の女(Femme fatale)」は概ね「男を破滅させる魔性の悪女」と結びつけて考えられてきた。
    ファム・ファタール(Femme fatale) - Wikipedia

    男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと。

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     1920年代のハリウッド映画界(すなわちモノクロ・サイレント映画黄金期)においてはサロメのイメージを普遍化する形で「黒髪で善悪の分別もつかない未成熟な年頃の不健全なユダヤ系少女」なる概念が広まったが、1930年代に入ってトーキー映画が主流となると当時を風靡した東欧系美少女の大半が英語がまともに喋れない事実が表面化。ハリウッド映画界においてはセックス・アピールの重心が「出るべきところが出っ張って、引っ込むところが引っ込んでいる健全なアメリカの成熟した田舎娘」へと推移していく。

    こうした展開の裏を突いたのがナボコフ「ロリータ(Лолита - Lolita、1955年)」この作品のメインヒロインたるドロレス(その愛称がロリータ)がスペイン系なのは決して偶然ではないし、以降は「ロシア系ファム・ハタール」なる概念が追加される。

  • ところがこれを男女逆転させた「運命の男(homme fatale)」は何故か伝統的に「同性愛者的傾向を有する男性を惑わす魔性の美少年」として描かれてきたのである。

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    象徴詩なるジャンルを確定させたアルチュール・ランボー(Jean Nicolas Arthur Rimbaud, 1854年〜1891年)とポール・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine, 1844年〜1896年)の1871年から1875年にかけての破滅的恋路、およびこれを題材とした映画「太陽と月に背いて(Total Eclipse、1995年)」が有名。手塚治「ばるぼら」もこれにインスパイアされた作品。
    アルチュール・ランボー - Wikipedia
    ポール・ヴェルレーヌ - Wikipedia
    太陽と月に背いて - Wikipedia

    *ドイツの作家トーマス・マンの「トーニオ・クレーガー(Tonio Kröger、1903年)」における(文学を指向しながら己の出自たる市民性から脱却出来ずに苦悩する)幼年時代の主人公と(彼の理想の顕現たる)若きハンズの関係、「ヴェニスに死す(Der Tod in Venedig、1912年、映画化1971年)」における著名作家と療養地で見掛けた美少年の関係もこれに該当する。
    トーニオ・クレーガー - Wikipedia
    ヴェニスに死す - Wikipedia

    *ただしオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray、1890年)」における(快楽主義と悪魔主義と耽美主義で美青年をたぶらかす)ヘンリー・ウォットン卿の様な逆転ケースも存在してきた。
    40夜『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド|松岡正剛の千夜千冊

    *ただし平等主義(Equalism)が浸透した今日のLGBTQA界隈において、こうした「恋に狂う主体と恋愛対象の格差が大き過ぎる」古典的作品の評価は必ずしも高くない。むしろ「一緒に手を携えて破滅に突き進むなら、その相手は自分にもっと近しい存在でなければならない」みたいな脅迫概念すら感じる。その一方で彼らが推すのが「90年代の女性版」アメリカン・ニュー・シネマとも評される「テルマ&ルイーズ(Thelma and Louise、1991年)」だったりする。冒頭で「男も女の引き裂けば血を流し内臓を剥き出しにする血の本に過ぎない」と宣言され、同性愛者も含めた数多くの男女の破滅を描いた20世紀版「ヴァセック(Vathek、1786年)」ともいうべきクライブ・バーカー「血の本(Books of Blood)シリーズ (1984年〜1985年)」にも同種の脅迫概念を感じる短編が幾つか収録されている。これはむしろブロマンス(Bromance) 物の援用といえよう。
    テルマ&ルイーズ - Wikipedia

    dic.pixiv.net

  • その一方で「女性を惑わす魔性の男性」はまとめて怪物扱い。物語文法上も概ね「貞淑なヒロインは誘惑を振り切って生き延び、誘惑に負ける軽薄で淫乱なサブヒロインは滅びる」なる勧善懲悪観が支配的だった。とはいえこの構造の典型例たるブラム・ストーカーのゴシック小説「吸血鬼ドラキュラ(Dracula、1897年)」は発表当初から「何この古臭い倫理観念?」と叩かれている。
    *放埓なヒロインが最後魔女狩りで処刑されるトーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」も発表当初は同様の評価を得た。これらの作品は他に後世の再読に耐える要素が満載だった為に偶々生き延びたが「ただそれだけが売り」だった凡作は時代の流れについていけず全て滅びたのである。

    *そしてこの分野において国際的に新たなマスターピースとして認められたのが「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(仏37°2 le matin、英Betty Blue、1986年)」および浅野いにおおやすみプンプン(2007年〜2013年)」および「うみべの女の子(2009年〜2013年)」。これらの作品では改めてトリミングの重要性が確認される事になる。

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ところで私はこれまでの投稿の中で「ロマン主義」について肯定的に触れる時は「神の約束した救済計画にあえて背を向け、悲壮な最後を遂げるのも辞さず己の内なる声にのみ耳を傾けて行動する悲劇的英雄」、否定的に触れる時は「自分の欲求にのみ忠実で、他人など一切視野になく、欲しいものが出来たら手段を選ばず獲得しようとするエゴイスト」、客観的に全体像を俯瞰する時には「ロマン主義とは己の五感で認識可能な範囲内で自らの世界観を獲得し、それに忠実に生き様とする絶望的な試み」とし、これを「(常に見落としたパラメータやアルゴリズムの誤謬によって自滅する可能性を抱え続ける)中核概念にとりあえず全てを委ねてみる立場(委ねる対象が数理なら進歩主義、伝統なら保守主義となる)」や「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の行動主義に結びつけて言及してきました。こうして時期によって評価が大ブレする概念の背後では概ね「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているものです。

ここから「それでは女性はロマン主義的英雄になり得るか?」なる重要な疑問が出来(しゅったい)。「もちろんなり得る」なる解答自体は既にウィリアム・ベックフォード「ヴァセック(Vathek、1786年)」に部分的に含まれていましたが(あえて男装して想い人に寄り添う「ムーラン型」ヒロインの原型とか登場してくる)、より究極に近い形態は、つくしあきひとの漫画「メイドインアビス(単行本2013年~、アニメ化2017年~)」に顕現。「最も狂ってるメインヒロイン(主人公)に誰もが次々と自ら自然に屈服していく狂気」。そう、これこそまさに厨二病全開を特徴とするロマン主義文学の真髄。

ロマン主義文学の真髄」…類似作品としてパトリック・ジュースキント原作「パフューム ある人殺しの物語』(Das Parfum – Die Geschichte eines Mörders / Perfume: The Story of a Murderer、原作1985年、映画化2006年)が挙げらるが、この作品において狂気の源となるのはあくまで男性で、犠牲として選ばれるのは女性のみ。 

*実に興味深い事に椿いづみの漫画「月刊少女野崎くん(2011年〜)」のメインヒロイン佐倉千代も「ロマン主義の駄目な部分」の体現者としてこの評価軸に参加してくる。この作品には数多くの変態が登場するが「パンピー代表」の筈の佐倉千代が常に一番狂っているという全体構造が凄まじい。

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さて「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っている可能性が浮上してきた以上、ここで詳細に検討すべきは時間軸的展開となります。

  • 【18世紀〜19世紀前半】ロマン主義はしばしば「フランス啓蒙主義の理神論的合理性への反動から生じた」とされるが、むしろこのサイトは「フランス啓蒙主義ゲーテによる受容」と「E.T.A.ホフマンゲーテ晩期作品が青年フランス派(小ロマン派)に与えた影響」に注目してきた。この過程で大陸ロマン主義は「己の五感で認識可能な範囲内で自らの世界観を獲得し、それに忠実に生き様とする絶望的な試み」なる輪郭を獲得していく。
    *当時なりの「絶対他者を巡るサイクル」が「革命家は勝利と無縁である。何故なら体制転覆の成功は常に新たな反体制派弾圧の始まりに過ぎないのだから」と豪語したオーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の一揆主義(Putschism)や、「我々が自由意志や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(その枠組みから脱して初めて個人は本物の自由意志や個性を獲得する)」と豪語したカール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年〜1883年)のグノーシス主義(反宇宙的二元論)的で無政府主義的な人間解放論に時代を超越した真実性を加える事になる。

  • 【19世紀後半〜20世紀前半】しかし当時は「産業革命がもたらす大量生産・大量消費スタイルが消費の主体を王侯貴族や聖職者といったランティエ(Rentier、不労所得階層)の伝統的インテリ=ブルジョワ階層から新興産業階層(資本家・工場経営者)やホワイトカラー(管理職・事務職・技術職)やブルーカラー(工員や肉体労働者)へと変化させていった時代」でもあった。かくしてドイツ教養小説(Bildungsroman)は「芸術至上主義に基づく悲壮な結末」を禁じられる様になり、大衆小説の人気キャラは容易に殺せなくなっていく。

  • 【20世紀後半〜21世紀前半?】商業至上主義の台頭によって重厚な「ロマン主義」概念が軽薄な「ロマンティック」概念に換骨奪胎されていく。だが、思わぬ反動が…

まだまだ自分でも吃驚するほど穴だらけ。まず埋めなければならないのは19世紀中盤以降加速した「王侯貴族や聖職者といったランティエ(Rentier、不労所得階層)の伝統的インテリ=ブルジョワ階層の新興産業階層(資本家・工場経営者)への変換」過程。

各国における伝統的インテリ=ブルジョワ階層の新興産業階層への転換は概ねこんな感じに進行した。

もちろんどの国においても伝統的インテリ=ブルジョワ階層の全てが新興産業階層への移行に成功した訳ではなく、没落者達が大衆文化の底上げに貢献したとされる。ただしそれは(没落者達のルサンチマンを継承した関係や庶民の貴族階層に対するスノビズムの投影もあって)厳しい倫理的引き締めを伴う展開を迎える事になったのだった。その片鱗は英国におけるVictorian Code(Victorian morality)の蔓延、フランスにおける「ポルノグラフィ論争」、米国における「トム・ソーヤーの冒険(The Adventures of Tom Sawyer、1876年)」の続編「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885年)」に対する弾劾運動などはこの次元から把握されねばならない。

 そして「運命の女(Femme fatale)」概念はまさに、こうした「ブルジョワ階層の偽善主義」を嘲笑する世紀末ダンディズムの一環として欧州において流行したのでした。同時期には「オカルトへの耽溺」も見て取れますが、果たしてこういった諸要素は「昼と夜が対峙する世界」において一体i以降どんな展開を遂げたのでしょうか? このシリーズ投稿の出発点はまずこことなります。