諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

改めて「君の名は」とは何だったのか?② 20世紀と21世紀の間に横たわる「コンテンツ的断絶」について。 

f:id:ochimusha01:20170731071906g:plainf:id:ochimusha01:20170731071924g:plainf:id:ochimusha01:20170731071951g:plain

Sleepy, I screamed aloud, as it tore through them, and now...

それでは宇野常寛「母性のディストピア」は、新海誠作品「君の名は」について実際にはどんな触れ方をしていたのでしょうか。

あなたがもし、20世紀的な左右のイデオロギーに身を任せることで気持ちが高揚したことが一度でもあるのなら、この本を読んで欲しい。いや、読むべきだ。なぜならばこの本はそんな卑しさと貧しさがどこから産まれ、そしてどう人々を巻き込んでいるかについて考えた本だからだ。

宇野常寛「母性のディストピア」より

2016年は国内アニメーションが久しぶりに社会的インパクトを持った年として記憶されるだろう。新海誠監督『君の名は。』、山田尚子監督『聲の形』、そして片渕須直監督『この世界の片隅に』といった大作アニメ映画が夏から秋にかけて次々と公開され、いずれも高い評価と優れた興行成績を残した。これらの作品はいずれも、あの「震災後」の想像力としての性格を強くもっているのと同時に、大きな非物語として出現する現代の世界像に対して――大戦/冷戦期からグローバリゼーション期への、「映像の世紀」から「ネットワークの世紀」への移行に対して――戦後アニメーションの想像力が示したそれぞれの回答でもあった。

なぜ「震災後」なのか。それは、先の震災は国内の文化空間において戦後の終わりを象徴するものだったからだ。大津波によって荒廃した三陸海岸は「失われた20年」を経て事実上の二流国に転落したこの国の外見を体現する光景に他ならず、そして田中角栄的国土開発と地方経営の象徴である原子力発電所がもたらした福島の惨劇は戦後の負の遺産によって内部からゆっくりと、確実に蝕まれていったこの国の内実を象徴している。その結果これらのアニメーションでは、震災的なものへの想像力の、個人の自己決定ではコントロールできない巨大な力に対する想像力の再構成が時代に対する回答として問われた。

例えば『君の名は。』では、先の震災の比喩として彗星落下が描かれる。岐阜県の山村を直撃したこの彗星落下は作中で近過去(数年前)に発生した国民的悲劇として社会に記憶されている。そして主人公の少年は超自然的な力(この山村に古来より伝わる神秘的な力)によって数年前の彗星落下時に死亡した少女(少女(ヒロイン)の意識と交信しタイムリープを反復する中で、つまり彗星落下を知っている未来人の立場からヒロインと力を合わせ町民の避難に尽力する。

しかし、同作における彗星落下=震災は徹底してボーイ・ミーツ・ガールの物語の劇伴として、活性剤としてのみ機能することになる。同作において震災とは遠い地方を過去に襲った災厄であり、既に終わったもの、だ。だからこそそれは安全にボーイ・ミーツ・ガールの物語の劇伴として機能し、物語はハッピーエンドで幕を閉じる。

君の名は。』はあれから5年、現実の日本国民がそうしたように震災の記憶を安全に消費できる悲劇の記憶――恋愛物語の背景にちょうどよい安全な悲劇の記憶――として提示するのだ。

後ろめたさを共有するがゆえに、それを安全な過去として終わらせてしまいたいという国民の欲望の追認――同作のメガヒットの背景に存在するのは、こうした国民的無意識へのアプローチであるように思えてならない。震災に対するぼんやりとした後ろめたさしか共有するもののないこの国の人々に、それは遠い場所で起こった、もう終わった悲劇なのだから安心していいのだと言い聞かせる。それが『君の名は。』だ。

個人の自己決定ではコントロールできない巨大な力に対する想像力の再構成」…「2016年に日常の裂け目を扱った作品が多かった」なる歴史観自体自体は私も共有しています。 ただ全ての作品が成功した訳でもなく映画版「神々の山稜」は大ゴケ。その理由を当時の私は「日常の裂け目に相対する態度に問題があったから」と分析しました。擬人化などによって自らの価値観に取り込めないからこその「日常の裂け目」なのであって、シンゴジラや彗星ティアマトについての「説明不足」はそれを成立させる為の舞台装置だったと考えたのです。

さらに過去まで遡って語るなら、思い出すべきは同様の構図を備えていた大友克洋AKIRA(1982年〜1990年、アニメ映画化1988年)」だったかもしれません。そこで「怖くてたまらずに覆い隠された地底の何か」と描写されたAKIRAこそが、宇野常寛いうところの「大日本帝国敗戦が日本に何をもたらしたか」の象徴だった事自体は疑う余地もない事実ですから。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/o/ochimusha01/20170628/20170628103606.jpg

それでは20世紀と21世紀で何が何時変わったのでしょう? 大友克洋AKIRA」も含め、20世紀商業至上主義は自らコントロールする事は不可能でも「事象の地平線としての絶対他者」への特攻を若者達に強要する事に商業的価値がある事に気付いていました。まさしく奥田民生「他人の息子(1995年)」の歌詞「戦え若者よ わしらが楽になる」の世界。そして行き着いた果てがオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)だったのです。

*どうして宇野常寛について宮崎駿について語りながら「On Your Mark(1995年)」に一切触れなかったのだろう。後に「ひぐらしのなく頃に(2002年〜)」でも採用されるこのGAME的/煉獄的世界観こそが20世紀的商業至上主義と「多様性と多態性を重視する」第三世代フェミニズムを橋渡しする重要な契機だったというのに。

そういえば20世紀とは伝統的家父長制が完全に崩壊していく過程でもあったのです。

「1969年」ショック

東大安田講堂陥落(1969年1月、大学側より依頼を受けた警視庁機動隊が学生運動家のバリケード封鎖を粉砕。同年の東大受験は中止)が陥落すると学生運動家達からバイブルの様に崇められていた「白土三平の忍者漫画」が一気に人気を喪失し「近未来における人類破滅を暗示するジュブナイルSF小説」も紙面から消え、その空隙を埋める形で以下の様な20世紀一杯続くロングセラー作品が目白押しとなる。

http://tanabe.tv/top/dokudan2009/1212-001.jpg

  • 「アニメ版サザエさん…突然打ち切りになった「白土三平忍者アワー」の後番組としてスタート。

    http://pds.exblog.jp/pds/1/200809/10/89/b0097689_2141968.jpg

  • 藤子不二雄ドラえもん(原作1969年〜1996年)」…それまで掲載されてきた「人類の滅亡を暗喩するジュブナイルSF小説」に代わって児童誌の顔に。

    http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150810003340_comm.jpg

  • 山田洋次監督作品「映画版男はつらいよシリーズ全48作(1969年〜1995年)」…「今の人間の感覚には合わない」と弾劾され絶滅寸前だった伝統的任侠物のパロディとして製作されたTV版(1968年)が思わぬ反響を呼んで映画化が始まった。*ちなみにTV版の最終回で渥美清演じる寅次郎は死んでしまったが、それを惜しむ声が殺到したのが発端となっている。

    https://www.tora-san.jp/resources/img/files/pc_scene04.jpg

こうした展開に飽き足らない若者層は益々映画館に足を向ける事に。しかしその数は必ずしも映画業界側を納得させる規模ではなかったとも。

新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

どうして父親は娘から嫌われるのか?

①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

  • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
  • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
  • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

  • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
  • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
  • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
  • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
  • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
  • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

 かかる「あらゆる価値観の焼け跡/断絶状態」から榎本ナリコセンチメントの季節(1997年〜2001年)」や上遠野浩平ブギーポップは笑わない(1998年)」や高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE、1999年)」を経て2000年代前半における自主制作アニメ(新海誠)、WEB小説(河原礫、米澤穂信)、同人GAME(奈須きのこ竜騎士07)といった新メディア由来の作品が雨後の筍の如く出現し、2010年代を彩る展開を迎えます。

*案外重要なのが2000年代における「エロゲー」ジャンルの台頭と2000年代に入ってからの壊滅。

*ここで興味深いのが、むしろこの新たなるムーブメントに「無明逆流れ(1957年)」や「被虐の系譜(1963年)」の南條範夫、「仁義なき戦い(1973年〜1976年)シリーズ」の深作欣二監督といった「本当に焼け跡を知る旧世代」が独特の形で絡んでくる辺り。

f:id:ochimusha01:20180215051123g:plain

南條範夫 - Wikipedia

國學院大學の同僚で親しかった桑田忠親は、南條が残酷物語を書く理由は「戦時中の大陸での体験を動機として、平和時にはその片鱗さえも見せない日本人が、駐屯地にいるだけでも、なぜ平気で驚くほど残忍な行為をするのか、その根源を歴史的に探索してみようとするにあったらしい」と述べ、推理小説について権田萬治は「平凡で物静かな人間が、その仮面をぬいで突如として残酷な殺人者に変貌する恐怖とサスペンス、そして意外性」が特徴であると指摘している。

f:id:ochimusha01:20180215051411g:plainf:id:ochimusha01:20180215051443g:plain

深作欣二 - Wikipedia

日本のみならず世界でも劇場公開されており、クエンティン・タランティーノジョン・ウーらは崇拝していることを明言している。全作品のうち『ファンキーハットの快男児』と『おもちゃ』以外のすべての作品で人の死を描いているが、戦争という巨大な暴力を体験したことで「暴力を描くことで暴力を否定しよう」という考えが根底にあり、決して暴力を肯定していた訳でなく、だからこそ様々な批判を受けても最後まで作風を変えなかった。「私も戦中派のしっぽにぶら下がっているが、今の人間のありようには、エネルギーのようなものが感じられない。平和は結構なことだが、その中で人間が衰弱してしまっているのではないか」と最後の作品でも暴力描写にこだわり、闇市の中で自ら体験した「生きることへの希望」を、再び現代社会に訴えようとした。

こうして全体像を俯瞰してみると、改めて映画版「君の名は」が「(母親二葉を巡る)20世紀的Love Story」を 切り捨てる事によって成立している事の重要性が浮かび上がってくるとうう次第。

むしろ戦前・戦中を「安全に消費できる悲劇の記憶」として消費したのは「80年代パッシング」なる猫またぎ状態まで引き起こした20世紀的産業至上主義だったのかもしれません。まず反省すべきはここだった?

何たる周回遅れ状態…それは実はそもそも彼らの世代の「対米ルサンチマン」と深く関与してくるのかもしれません。とはいえ、そもそもが「なまじ「資本論」や「国家と革命」なんて1行も読まない方が、より本物のマルクス主義に近づく」などと豪語していた筋金入りの反知性主義世代。「米帝」や「反動勢力」といった諸概念に対する理解も万事がこれ式で、だからこそ宇野常寛は「母性のディストピア」の中で「いずれにせよ我々は虚構と戦ってきたに過ぎない」と提言せざるを得なくなったと考えれば全ては納得がいくとも…