諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

20世紀は遠くになりにけり② 「殺される側の論理」の暴走について

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遂にドイツでメルケル首相率いるキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と社会民主党SPD)の大連合が達成された様です。

日本のリベラル階層は、こうした展開に完全沈黙してますね。一体何故でしょう?

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この問題については「ナチスユダヤ民族浄化運動にむしろ喜んで加担し、かつナチス敗退後はその全責任をドイツ系市民に追わせ迫害の限りを尽くしたポーランド人のその後」を参照するのが正しい様です。

そもそも「(ドイツ人の日常生活と根深く共存しているユダヤ人を偏見の極みをもって抹殺し尽くすまで、人類から差別が撤廃される事はない」なるナチス論法はドイツというより多民族国家としてその経営に苦慮したハプスブルグ帝国起源という側面が強い。あとは東欧やロシア。これらの地域では「領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が色濃く残留し、その為に健全な資本主義的発展が阻害されてきたが、その一環として「ユダヤ人に現地金融業や徴税吏や土地管理人の立場を押し付け、貧富格差の拡大に激怒した領民が蜂起すると領主がスケープゴートとして差し出す慣習」も残っていたのである。こうした地域の多くが第二次世界大戦後に共産主義化してソ連の影響下に入り、1980年代末から1990年代にかけてその状態から脱却し、以降「共産主義瘡蓋かさぶた」すなわち「後進的だった我が国がグローバル資本主義体制に参画するには、どうしても共産主義的段階を経るしかなかった」なる歴史観を共有する事になったのは決して偶然ではない。

イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年〜1904年)の「朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours、1894年〜1897年)」は、朝鮮王朝を訪れた彼女の宿泊所に現地両班が勝手に上がり込み「この土地で私より立派に見える事は伝統的秩序に対する叛逆であり、万死に値する」と宣言して金目の物を全て奪おうとする景色、だから領民は私財を全て隠し、市場も秘密裏に運営して表面上は無一文の振りを通して暮らしている有様を容赦無く暴き出す。帝政ロシア期の小説にも見て取れる様に、朝鮮王朝が後進的というよりこれこそが「領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」下での日常であり、だからこそ資本主義的発展に不可欠な新興産業階層が育ち得ないのである。

そのポーランドにおいて最近「ポーランド人のホロコーストへの加担への言及」を禁止する法案が成立。「ナチスこそ絶対悪」なる表現は完全に偽善の領域に転落した。
まさしく反日運動家が主張する「日本民族ナチスユダヤ人に対して目指した様に偏見の極みをもって抹殺し尽くすまで、人類から差別が撤廃される事はない」なる矛盾の極みに満ちたナチス論法が今や「リベラルの正義」そのものとなった瞬間。この問題は「アメリカにおいて先住民たるインディアンや黒人を覗く全侵略民族が駆逐され尽くすまで人類から人種差別が撤廃される事なない」なる黒人過激派が掲げる論法につながっていく。

要するに全ての背景にあるのは「ロヒンギャ問題」、すなわち「帝国主義とは絶対悪なのだから、その暴虐に加担した人々から全てを奪い、輪姦したり虐殺して皆殺しにするl事こそが国際正義や人道主義の実現となるそして、これに反対する人は全て同じ目に逢わすのが絶対正義の要請。人類平等はそれを脅かす特定集団の抹殺によって達成される」なるナチス論法。これにさらに政治的立場からの「我が民族だけは違う」なる言い訳の恣意的許容が加わって「リベラル階層のナチス」は、その偽善性をさらに加速させていくのです。まさしく外山恒一が「良いテロリストのための教科書(2017年)」の中で預言した様に「差別問題を運動の主題に選ぶのは、自民族に対する略奪・輪姦・虐殺を祝福し続ける売国奴に転落するか、どっちずかずの偽善者を演じ続ける道を強要される修羅の道」という指摘に従って。

「反差別」運動は、一九七〇年頃に、津村喬による『われらの内なる差別』(三一新書)という本が出たことも大きな契機になっている。私はマルクス主義党派に属していたので「反差別」運動に興味はなかったが、党派に反発を持っていたノンセクト・ラジカルといわれる大学の下級生たちにおおいに読まれた。

これは一九七〇年七月七日の華青闘告発も大きな影響を及ぼしている。華僑青年同盟という、中国人の団体が日本人は中国を侵略した歴史について無自覚だとして、会議の場を退席したのである。これに対して中核派は「自主的に退席したのだからいいじゃないか」という態度をとった。この発言はノンセクト、他党派から一斉に非難を浴び、中核派自己批判し「反差別」運動、入管闘争、部落差別反対闘争などに力をいれていくようになる。

《“差別問題”というのはキリがありません。差別に反対し、実際に反差別運動に熱心に関わり、自らの無自覚な差別性をも克服する努力をどこまで続けても終わりがないんです。》

《華青闘告発を普通の意味で受け入れて反省してしまうと、「反日武装戦線」に志願するか、中途半端なところで妥協してPC左翼になるしかないんです。》

そういえば本多勝一もまた「殺す側の論理(1984年)」の中で「どの民族(あるいはどの国)は常に残虐で、どの民族は常に決して残虐行為・侵略行為をしたことがない、といったことはありえない。すなわち、侵略を『する側』になるやいなや、いかなる民族も残虐非道の鬼になりうる点で、人類は共通の性格を持っている」と述べています。

殺す側の論理

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ここで浮上してくるのが「勝利の弊害を身を以て味わい、その過程で相応の「敗者への配慮」も身につけてきた伝統的強者と異なり「俄か勝者伝統的敗者の復讐願望」は際限など全く踏まえない」なる恐るべき現実。だからこそ、それまで歴史上マイナーだった民族の台頭はしばしば大量虐殺を伴ってきたのですね。佐藤優が指摘してる様に「民族主義の最大の特徴は自民族が他民族から被ってきた被害に敏感になる分だけ、自民族が他民族に与えてきた被害に鈍感になる事」なのだから、ある意味当然の帰結。
*まさしく、コンラート・ローレンツ「攻撃(1970年)」の世界。自らが一撃必殺の爪と牙を備えている事を自覚している狼と異なり、自らの攻撃性を必要に応じて抑制する機構を持たない(すなわち、それまでの生涯において「妥協なるもの」を学習する必要が一切なかった)鳩は狭い檻の中に一緒に閉じ込められると最後の一羽になるまで殺し合うしかない。

*「俄か勝者(伝統的敗者)」…例えば朝鮮語/韓国語には「雷富者(ピョーラックブーザ)」なる言葉があり、一切の侮蔑的意味合いを含まない日本語の「成金」の訳語として定着するまでは「(伝統的に富の利用法を知り尽くしてきた士大夫階層と異なり)庶民は富を得てもその使い方を知らず、むやみやたらと暴走して自滅するのみ(だからこそ彼らは富から遠ざけられている)」なる身分制を肯定する標語としてのニュアンスしか備えていなかった。ただこうした貴族主義的側面は概ねどの民族も備えているものである。


*「インテリ=ブルジョワ階層の自己欺瞞」が容易く「デフレ信仰」と結びつくのは、そうした状況下では「貴族=既に相応の資産を蓄えた不労所得階層」が「庶民=身分上昇の機会を虎視眈々と疑う無産労働者階級」に対する叛逆を最も有効に抑え込めるからである。皮肉にもこの気付きこそがカール・マルクス当人が提唱したグノーシス主義(反宇宙二元論)的 / 無政府主義的人間解放論の本質だったりする。

そもそも「韓国における反日運動」自体に「日韓併合大日本帝国に祖国を売り渡した恩寵で革命勃発による処刑を免れたばかりか年金で生活水準を落とす事なく優雅な貴族生活を続け、太平洋戦争激化に伴う徴用もコネで免れてきた中央両班階層が、戦後自らが生き延びる為に採択したサバイバル手段」なる側面があるので、本当に救いがありません(所謂「慰安婦問題」も、それを最初に問題提起したのは同級生からコネで徴用を免れた事を責められた梨花大学の元女学生達)。

*「親韓派」を自称する日本のリベラル階層(インテリ=ブルジョワ層)は韓国庶民が「江南左派」に向ける視線、および本物の知韓派が揶揄的に使い出した「杉並左翼」なる用語について一切見て見ぬ振りを通そうとする。

統一日報 : 「江南左派」の二重生活

*資本主義と格差拡大の関係について論証した「21世紀の資本(2013年)」で一躍世界から注目を集めたフランスの経済学者トマ・ピケティ(Thomas Piketty)についても、そこで用いられている「ラスティニャックのジレンマ」「ジェーン・オスティンの性淘汰」といった比喩の攻撃の矛先が自分達に向けられていると気付くと一切言及しなくなってしまった。

行き着く果ては、おそらくアメリカのリベラル階層の様に「シカゴFacwbook拷問Live事件(2917年)」に際して黒人「急進派」が「貴様らが我々に犯してきた犯罪に比べれば、こんなの序の口。貴様らが本気で我々に阿りたければ、我々の様な社会的弱者でも報復が遂げやすい様に自ら積極的に身障者や女子供から生贄として捧げて贖罪の喜びを噛みしめるしかないのだ」とネット上で声明を上げたところ「白人リベラル階層代表」を称する人々が「彼の発言にも一理ある。それが人道主義達成に結びつくなら、我々は積極的にこうした提言を支援する」とコメントを連ね、マスコミも「もはや米国リベラル階層は誰も守っていない」と諦観に満ちた声明を出さざるを得なくなった展開と重なってくる。
*もちろん「彼の発言にも一理ある。それが人道主義達成に結びつくなら、我々は積極的にこうした提言を支援する」などとコメントした連中はおそらく「白人リベラル階層代表」を騙った悪戯者に過ぎなかったのだろう。しかしとにかく肝心の「白人リベラル階層代表」が、この「悪戯」に対して何ら有効な反論が出来なかった事が失笑を買った。むしろ黒人リベラル層の方が「こんなストリートギャングもどきの連中は容赦無く処罰せよ」と荒れ狂ったが、むしろ彼らの「我々は今や積極的差別是正措置(Affirmative action)の撤廃とともに、完全に同じ人間として扱う事を要求する」なる立場の方が「白人リベラル階層」にとっては受け入れがたい要求だったという有様。

ここで私達は「実は1970年代まで遡ると日本の人道主義もまたフェミニズムと無縁の男尊女卑に立脚する概念」であった事を思い出さねばなりません。

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  • 五味川純平「戦争と人間(1965年〜1982年)」の中に「正義の連続強姦殺人魔」なる存在が登場する。彼は一族郎党を「侵略者」日本人に皆殺しにされた朝鮮人の若者で、上流階層の子女のみを狙い、襲われ強姦され殺されていく女性の側も少しでも戦争犯罪国家日本の罪滅ぼしの足しになると信じ、最後には自ら喜んで犠牲となって死んでいく。まさに漫画「THE レイプマン」的発想の大源流。

    パトリック・ジュースキントパフューム ある人殺しの物語Perfume: The Story of a Murderer、原作1985年、映画2006年)」にも、同様の思考様式が組み込まれている。

    みやわき心太郎、愛崎けい子「THE レイプマン」

    リイド社の『リイドコミック』(隔週月曜日発売)に、1980年代中盤から後半にかけて連載された大人向けエロ漫画。依頼により有料でレイプを請け負う、プロフェッショナル強姦魔の物語である。また、それを原作としたオリジナルビデオおよびOVA。コミックスは全13巻。

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    • 当時、熱心な読者であったABブラザーズがラジオで取り上げ、みやわきもその番組にゲスト出演することで、ガヤの台詞やストーリーの一部に影響を与えている。
      *「中二病の起源」にも見られる様に当時の深夜ラジオはサブカル文化の重要な発信源の一つとして機能していた。ラジオ番組『伊集院光 深夜の馬鹿力』もコーナー紹介の際に「レイプマンはレイプで事件を解決させるように」と喩えている。同時に「ドラえもんひみつ道具を出すように」「忍者ハットリくんが忍法で事件を解決するように」とも喩えており、3段オチのオチとして使われたニュアンスが強い。

    • 1993年から1996年にかけてオリジナルOVA化されたが、最終的には女性団体・人権団体の抗議を免れる為に舞台を江戸時代に移している。

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      OVA版のオープニングテーマ「RAPEMAN」と、後年に衛星アニメ劇場で放映されたアニメ『快傑ゾロ』のオープニングテーマ「ZORRO」は作詞・作編曲・歌が同じであり、「RAPEMAN」に一部を変更した上で「ZORRO」へ継がれている。

    • 2000年4月号からペントハウス誌上で、続編の「THE レイプマン2」が連載されている。前作と違い1話完結のストーリーではなく、また局部を描き込んだ上でそれをトリミングして、欄外にパズルのように分割して掲載するといった趣向を凝らしていた。単行本化はされていない。

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    • 同時期シュベール出版から単行本が復刻されたが、連載時と同様に女性団体・人権団体の抗議を受けて即座に刊行は打ち切られ、絶版となった。2010年にはeBookJapan から電子書籍として再版され、2011年9月より漫画 on Webからも電子書籍として配信されている。

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    海外にも熱烈なファンが存在する。

    • スティーヴ・アルビニは本作のファンであり、バンド「Rapeman」を結成した。アルバムを1枚発表したが、バンド名に批判が集中して活動できなくなり、約1年間という短い活動期間で解散。

       

    • アメリカの刑事ドラマ『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』第3話「美しさの基準」に登場するサブストーリーでも、少年の性犯罪容疑者が、本作のファンであり、本作品に影響を受けてレイプ犯罪を犯したとして、この犯罪者の父親が裁判で責任を問われて糾弾されている。ただし裁判で提示される証拠品のコミック本は本作品とは異なる別の日本の漫画のもので、名前だけの登場。

    根底にあったのは、当時流行していた「弱者は復讐の為なら強者に対して何をやっても許される」なる「人道主義的発想」で、その時生贄に選ばれるのは(強者のうちでも比較的弱者に分類される)女子供や障害者という事になる。その発想の大源流はさらに1930年代における江戸川乱歩の通俗小説や紙芝居「ハカバキタロー」の大流行にまで遡る。

  • そういえば当時は「レイプは男らしさの象徴」といった概念が横溢していた。

    新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

    どうして父親は娘から嫌われるのか?

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    ①昭和型マチズモ
    *1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

    • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。

    • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。

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    • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

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    ②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
    *「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

    • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
    • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
    • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
    • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
    • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
    • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

    要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

     *当時は横山光輝も「ウイグル無頼(1972年〜1973年)」なる異色作を残している。

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    安彦良和アリオン(1979年〜1984年、アニメ化1986年)」「ヴイナス戦記(1989年)」「ナムジ(1989年〜1991年)」等の漫画や富野由悠季「小説版ガンダム」「リーンの翼(1983年〜1986年、TVアニメ化2005年〜2006年)」等の小説も当時独特の雰囲気を偲ばせる貴重な資料。

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    *いわゆる「レディコミ」もこうした時代の落とし子。

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    レディースコミック - Wikipedia

    元祖は1979年創刊の『Be in LOVE』(講談社)であるとされ、現在ではレディコミ専門の編集プロダクションも存在している。

    • 1981年にはFor Lady(小学館)が創刊されるなど、1980年代前半くらいに、少女漫画の読者層よりも上の年齢を対象とする女性漫画が急拡大してジャンルとして定着した。その中で文芸的に評価される作品も生まれる一方、性描写を主眼とする作品が1980年代後半から現れはじめた。

    • 1980年代のレディースコミックの大半は物語の中で性行為自体は行われていても、具体的な描写は伴わずに前後だけを描いてほのめかすだけのものが多かったが、それまで少女漫画を発行したことのない出版社(女性週刊誌や成人漫画を発行していた出版社が多い)も参入し、大手出版社からの雑誌と差別化するため性描写を激化させた。それにより、男性雑誌がレディースコミックを「過激な性描写を含む女性向けの漫画誌がある」と過剰な取り上げ方をした結果、そのようなイメージを排斥するため大手出版社の雑誌は性描写をなるべく行わない方向に舵をきった反面、性描写を売りにしていた雑誌は積極的にポルノとしての面を強調するようになり、それが現在の(過激な性描写を含む女性向け漫画という意味での)レディコミの流れとなった。

    • 上記の過程で内容が二極化した頃には、表紙が写真のものは性的なもの、漫画家のイラストのものはソフトなものという棲み分けも見られた。そうした過渡期を経て、現在では別個のジャンルとして確立している。女性漫画でも性描写自体はそれほど珍しい物ではないが、男女性器の直接描写の有無によって両者は区別される。

    • 本来は少女漫画の読者層より上の世代の為の女性漫画であったものが、性描写の過激さが行き詰まり、このジャンル自体が早々に閉塞してしまったとされる。なお、大人の女性向け漫画である本ジャンルと少女漫画の間を埋める大人の女性向け少女漫画として、1990年代にヤング・レディースというジャンルが生まれている。

    レディコミでは作中の女性人物が、強姦されたり緊縛されるなどマゾヒスティックな立場におかれることが多いが、漫画評論家の藤本由香里によれば「女性が自分から異性を求めるのははしたない」という規範が存在するため、男性に強制されるという形で性行為を描く必要があるという。

    *エロス&バイオレンスを全面に打ち出した「伝奇ロマン」も同様。

  • しかも当時の価値観の系譜は、今日なお日本の人道主義の伝統にしっかりと継承されている。今日なお「日本敗戦に際して満州開拓団の子女が次々と強姦され、殺されていったのは犯罪民族日本人の自業自得」なんて番組が制作され続けているのもそのせい。

皮肉にも(右翼側や保守側ばかりか)当時の「日本の人道主義」もまたここまで徹底して男尊女卑文化に染まってきたからこそ、それにウンザリした竹宮恵子学生運動から足を洗い「大泉サロン」を結成し、少女漫画の世界を世界最先端のフェミニズム啓蒙媒体へと変貌させていく歴史的流れが生まれたとも。

*なぜ第三世代フェミニズム運動が自由主義復活に直結したかというと、背後にコンドルセ伯爵の平等論や、ジョン・スチュアート・ミルが「自由論(On Liberty、1859年)」で示した「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならない。これを妨げる権力が正当化される場合は他人に実害を与える場合だけに限定される」理念が存在したから。その一方でこうした「数理」から脱落したウルトラ・フェミニズムは敵に回る。

伊達に世界中のフェミニスト高橋留美子らんま1/2(1987年〜1996年)」や武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」を自らのアイコンとして選んできた訳ではないのですね。
*ここで興味深いのが、当時の女流漫画家の多くが好きだった作品として永井豪けっこう仮面(1974年〜1978年)」を挙げているという事。当時「男を食い物にする悪女がプロの強姦魔によって懲罰される」物語の対極にあったのは「受験戦争にかこつけて美少女を拷問して密かな愉悦を得ている変態教師が、謎の女戦士の復讐によって倒される」物語だったのである。そこには男女作家ともに「自分にとってエロティズムとは何か?」なる設問に真摯に対峙しようとする姿勢があった。

*「ロリコン」や「腐女子」といった概念もまた、こうした混沌の渦から生まれた物だったし、ニューオリンズにおいてアン・ライスの吸血鬼物や問題作「眠り姫」シリーズが生まれた背景も似た様なものだった。
大泉サロン - Wikipedia

しかし同時に当時の日本は「(全ての矛盾と負担を女性に皺寄せする)典型的駄目男」文化の賞賛を集めた情報発信拠点でもあったのです。これぞ「究極の低エントロピー世界」とも?

まさにここに「20世紀的価値観と21世紀的価値観の断絶」が存在するとも。

*ここで思い出すべきは、19世紀末における「猥褻なるのの」の吹き上がりについて「人間の本質が解放されつつある」と解釈したフロイトと「それまで無意識下で抑圧されてきた劣情の一時的暴走」と解釈したシャルコーの立場の違い。結論から言えば後者が正しかったという歴史展開。

*そして、かかる伝統的価値観の崩壊が一段落ついて「一時的暴走」が収まった後に現出したのが「1990年代後半の焼け跡的心象風景」。21世紀的コンテンツはここから出発し、2010年代に入ってやっと残骸を搔き分ける形でメインストリームを席巻するに至ったのだった。

こうした「宴の終焉」と同時進行で「敵を見失った正しさの暴走」が始まった訳です…

本当に救いのない展開…しかしこれもまた「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」の一環なのですね。

これまでの投稿の中でも繰り返し述べてましたが、かかる猥雑かつ悲壮なサイクルをきっちり描き切ったという点で「フェデリコ・フェリーニのカサノヴァ(Il Casanova di Federico Fellini, 1976年)」 は傑作。この作品の凄味は個人の生涯における「怖いもの知らずの馬鹿で猥雑だが時々ハッとする美しさも垣間見せる若者」が「自ら美化した過去の美しい思い出の結晶からすら置き去りにされていく、哀れで醜怪で常に口煩いだけの老人」へと変遷過程が、かかるサイクルと完全に一致する事を見事に描き切って見せた点。

*ただし「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」そのものは世代交代と完全に一致しているとは限らない。例えば日本において三味線の音色が「異国から流入し、そのエスニックさが若者を魅了する一方で口煩い守旧派から徹底攻撃を浴びせられ続ける」段階から数世代を経て「(なまじ特定の地域発の流行でなかったが故に)日本人全体が誇る伝統」へと変貌していった様なケースも存在する。そして同じ展開がエレキギターにおいても繰り返されて、JRockなるジャンルが確立。This is Japan!!

こうして全体像を俯瞰してみると、この次元における「事象の地平線」性が「マルクスグノーシス主義(反宇宙二元論)的で無政府主義的な人間解放論から出発しながら、体制側のイデオロギーへと移行していく過程でそうした側面を完全に捨て去った科学的マルクス主義の興亡過程に端的に現れている様に)批判精神に満ちてはいるものの、自らだけは完全視野外に置き続ける偽善性」を中心に展開してきたのが一目瞭然となります。
*まさしくエッシャー「版画画廊」の中心に存在する(決して描けない)構図の消失点。

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ところで最初の方で挙げた「リベラル階層のナチス」なるキーワードですが、ここでいう「ナチス」とは間違いなくピーター・ドラッカーいうところの「正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない高圧的立場」の事。

どうしてそういう状態に陥ってしまったかというと、そもそも「言及可能な自己」を喪失して久しいから。すなわち(20世紀後半に加速した、上掲の様な既存価値観崩壊プロセスの結果)「従うべき数理を失った進歩主義」や「従うべき伝統を失った保守主義」の野合状態こそが現在のリベラル階層の正体という展開で、要するに学生運動世代は「いつから自分がブルジョワ的偽善の告発を口にしなくなったのか(いつから偽善的ブルジョワそのものに成り果ててしまったのか)」について総括を求められているという事になるのかもしれません。

「ブルジョワ的」とは何か? - 社会自由党中央委員会

そして今やこんな感じ。

世界は「未だに自分こそ本流と信じている時代遅れの人々の強制傍流化」で回っていくのかもしれない? その世界観においては「時代遅れのままメインストリームに留まり続けようとする事」こそが絶対悪?