すべてのものには必ずたくさんの側面があってどこを見るかは自分が決められる。
— diz (@diz2049) 2018年3月1日
シェイプオブウォーターのイライザはそのすべての側面を受け入れてくれる人を見つけた。彼女がそうしたから。お互いにすべての面を受け入れ合う、これこぞが本物の愛か… 勉強になります… pic.twitter.com/FU6qxZ4UsC
シェイプオブウォーターの感想に「ディズニーの作った低予算AV。ゴミ映画」と酷評している人がいたが、多分ディズニーから低予算映画はなかなかお目にかかれないし、ましてやAVは絶対に無理。酷評してるつもりが期待を爆上げしてる。
— つく (@ariy_opp1955) 2018年2月25日
シェイプオブウォーターですが、登場人物のほぼ全員が性欲(又は性的指向)が行動原理になっていてそこをちゃんとかいてるところが痛快だし気持ちいい。それが全てでいいし素晴らしいって思える。
— emi darkside ver. (@emigalacticcity) 2018年3月1日
フロイトの提唱した「汎性慾論」って、実は「性慾が全て」と断言した時点で貨幣経済普及と同様の価値観平準化を達成してしまう性質の内容でもあったのです。そう、まさしく「性慾の通貨化」。
ここから「性欲の形の歴史」なるものが導出可能となります。
そうそう、「シェイプ・オブ・ウォーター」見て思い出したんですけど、ギレルモ・デル・トロは以前ツイッターでマーガレット・アトウッドの「男は女に笑われることを恐れるが、女は男に殺されることを恐れる」って言葉を引用して「これは恐ろしい真実だ」って言ってたのよね。https://t.co/rQuXT5ruLl
— らいと (@raitotoko) 2018年3月1日
ふと思い出したのがこの話。
「本当にエロマンガは暴力的?印象だけで語ってない?」っていって実際にデータ取りしてきたというの本当にすばらしいな。8割程度は非暴力的なもので、むしろ暴力的なのは女性向け というの実におもしろい。 / “170120 牧田翠「30…” https://t.co/nryr7BfPy0
— (Ǝ)ɐsıɥıɥso⅄ ouɐɓnS (@koshian) 2018年2月26日
エロ漫画が暴力的か暴力的ではないか関係なく表現の自由は認めるべき。
— リバタリアン (@libertarian1998) 2018年2月27日
データ取ってるのはとっても面白い、しかも手作業、お疲れ様です!ただ何を持って「強姦」と「和姦」の境界線を引いたか気になります…
— Aska (@1moresmartwoman) 2018年2月27日
まさしくこれの世界。
元祖は1979年創刊の『Be in LOVE』(講談社)であるとされ、現在ではレディコミ専門の編集プロダクションも存在している。
- 1981年にはFor Lady(小学館)が創刊されるなど、1980年代前半くらいに、少女漫画の読者層よりも上の年齢を対象とする女性漫画が急拡大してジャンルとして定着した。その中で文芸的に評価される作品も生まれる一方、性描写を主眼とする作品が1980年代後半から現れはじめた。
- 1980年代のレディースコミックの大半は物語の中で性行為自体は行われていても、具体的な描写は伴わずに前後だけを描いてほのめかすだけのものが多かったが、それまで少女漫画を発行したことのない出版社(女性週刊誌や成人漫画を発行していた出版社が多い)も参入し、大手出版社からの雑誌と差別化するため性描写を激化させた。それにより、男性雑誌がレディースコミックを「過激な性描写を含む女性向けの漫画誌がある」と過剰な取り上げ方をした結果、そのようなイメージを排斥するため大手出版社の雑誌は性描写をなるべく行わない方向に舵をきった反面、性描写を売りにしていた雑誌は積極的にポルノとしての面を強調するようになり、それが現在の(過激な性描写を含む女性向け漫画という意味での)レディコミの流れとなった。
- 上記の過程で内容が二極化した頃には、表紙が写真のものは性的なもの、漫画家のイラストのものはソフトなものという棲み分けも見られた。そうした過渡期を経て、現在では別個のジャンルとして確立している。女性漫画でも性描写自体はそれほど珍しい物ではないが、男女性器の直接描写の有無によって両者は区別される。
- 本来は少女漫画の読者層より上の世代の為の女性漫画であったものが、性描写の過激さが行き詰まり、このジャンル自体が早々に閉塞してしまったとされる。なお、大人の女性向け漫画である本ジャンルと少女漫画の間を埋める大人の女性向け少女漫画として、1990年代にヤング・レディースというジャンルが生まれている。
レディコミでは作中の女性人物が、強姦されたり緊縛されるなどマゾヒスティックな立場におかれることが多いが、漫画評論家の藤本由香里によれば「女性が自分から異性を求めるのははしたない」という規範が存在するため、男性に強制されるという形で性行為を描く必要があるという。
全体像を俯瞰すると「絶対他者としての怪物のカタチ」の歴史と重なってきそうです。
- そもそも「女性こそ性淘汰の主役」なる自己認識が女性側に強く芽生えたのは「ラブコメ大源流」ジェーン・オスティンの英口語文学やバルザックの「人間喜劇」以降。ただしその時点では「女性は(絶対他者としての)男性の協力を通じてしか自らの認識上の限界を突き破れない」といった意識的制約も伴っていた。
*要するに始まりは近世まで続いた身分制、すなわち「(それまで集団を構成する最小単位としての)男性(息子・夫・父親)と女性(娘・妻・母親)の役割分担」にまで影響を及ぼしてきた「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」の崩壊。そして、最初にこれに直面したのは産業革命到来への適応を求められた英国のジェントリー社会やフランスの貴族社会だったという事。
- 突破口となったのは「男性にとっての女性も同様の問題に悩む存在に過ぎない」なる発見。かくして「運命の女(Femme fatale)」概念と「運命の男(Femme fatale)」概念の複雑怪奇な交錯が19世紀後半から20世紀にかけて物語文法の世界を彩る展開を迎える。
- 1990年代以降のインターネットの国際的普及は「自分を匿名状態で原型もとどめない状態に解体した上で他者とつながる新たなコミュニケーション・プロトコル」の提供を通じてこうした展開を加速させた。かくして国際SNS上の関心空間においては「女子は可愛いものと同じくらい猟奇が好き」「トム・リドル / オブスキュラス/鎌田君/二口女は私!!」といった新たなコンセンサスが構築される展開を迎える。
*ここで興味深いのが、こうしたプロセスを通じて女性は「自らの怠惰な側面の肯定」という方向にも向かったという辺り。
インターネット上のポルノ関連ビッグ・データに取材したオギ・オーガスとサイ・ガダムの共著「性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか」によれば、女性の性欲は男性のそれより遥かにプログラマブルで多態性と多様性に満ちており歴史的変遷の影響を色濃く受ける為、本質的に「性慾の解放=多態性と多様性の保証の確保」を志向する傾向が見られるとの事。
「性欲の科学 なぜ男は「素人」に興奮し女は「男同士」に萌えるのか」
*ただ作用は常に反作用を生む。かくして現在の国際SNS上では「女性全体の団結の為には手段を選ばない」政治的フェミニスト集団と「多態性と多様性を容認しLGBTQA集団と共に歩む」第三世代フェミニスト集団が対峙する構造が顕在化する展開に。
私は人間がその生きて行く状態を一人一人に異にしているのを知った。その差別は男性女性という風な大掴おおづかみな分け方を以て表示され得るものでなくて、正確を期するなら一一の状態に一一の名を附けて行かねばならず、そうして幾千万の名を附けて行っても、差別は更に新しい差別を生んで表示し尽すことの出来ないものである。なぜなら人間性の実現せられる状態は個個の人に由って異っている。それが個性といわれるものである。健すこやかな個性は静かに停まっていない、断えず流転し、進化し、成長する。私は其処に何が男性の生活の中心要素であり、女性の生活の中心要素であると決定せられているのを見ない。同じ人でも賦性と、年齢と、境遇と、教育とに由って刻刻に生活の状態が変化する。もっと厳正に言えば同じ人でも一日の中にさえ幾度となく生活状態が変化してその中心が移動する。これは実証に困難な問題でなくて、各自にちょっと自己と周囲の人人とを省みれば解ることである。周囲の人人を見ただけでも性格を同じくした人間は一人も見当らない。まして無数の人類が個個にその性格を異にしているのは言うまでもない。
一日の中の自己についてもそうである。食膳に向った時は食べることを自分の生活の中心としている。或小説を読む時は芸術を自分の生活の中心としている。一事を行う度に自分の全人格はその現前の一時に焦点を集めている。この事は誰も自身の上に実験する心理的事実である。
このように、絶対の中心要素というものが固定していないのが人間生活の真相である。それでは人間生活に統一がないように思われるけれども、それは外面の差別であって、内面には人間の根本欲求である「人類の幸福の増加」に由って意識的または無意識的に統一されている。食べることも、読むことも、働くことも、子を産むことも、すべてより好く生きようとする人間性の実現に外ならない。
巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。
しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。
雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。
私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
ネットやインフラの発達により、より願いが叶いやすくなってる。だからこそ自分の軸をしっかり持って、自分の中心を決めておかなきゃ。中心が決まったら、あとは自由にどこへでもいける。
— 💖アイビー茜 (@ivy_akane) 2018年2月8日
ただ「プログマブルである」という事は別に「ハードウェア的制約からの完全なる自由」を意味する訳でもなさそうなのです。
シェイプオブウォーターのアートブック読んでて、魚人の造形を考える時セクシーさを出すために尻にこだわったって書いてあって笑ったし監督が奥さんと娘に逐一セクシーかどうか意見貰ってたって話めっちゃ面白い…
— 味醂 (@ponmu0125) 2018年3月2日
シェイプオブウォーターのネタバレにならないと思うくらいの感想ですが、自己責任でお願いします。 pic.twitter.com/jHG7VS1b7n
— sin (@hazamatyou) 2018年3月2日
シェイプオブウォーター、先月和訳された舞台設定+解説書が出てるんですがこの本が非常に良くて、映画を気に入った方は是非これも一度読んで欲しい…
— 536 (@536gmm) 2018年3月1日
マーマンの魅力表現に対するデルトロ監督のコメントを一部載せますので映画とこの本をどうぞよろしくお願いします。 pic.twitter.com/qhvHW3Vfw3
ただ、こうした方面で十分にレベル上げした女子は「自分の気持ちを客観的に俯瞰した上で受け流す」能力も飛躍的に向上させてる訳です。
わたしがアセクシュアルだと知っているひとに「へ〜、シェイプオブウォーター良かったと思ったんだ。理解できたの?」と言われてその場で泣かなかったことを褒めてほしい……それがとどめだった……。分からないよ、本当の意味では。人間の男女じゃなかったから余計に思い知らされたんだよ〜😭
— saruo (@saru_oo) 2018年3月1日
BLゲームと乙女ゲームが並ぶ島……。
— 和美 (@kazumi_7) 2013年8月8日
受け流しの理由が分かる気がした。
まぁ「多様性と多態性を容認する」にはそういう側面もある訳で…
面白かったナチ関係の映画というと「アドルフの画集」かしらね。いや、これ割と前提知識が必要な映画だから、万人に向けられたものじゃないんだけどさ。
— MIB@C93-1日目 東ム-34aでした (@MIBkai) 2018年3月2日
ヒトラーが描いたデッサンがユダヤ系の一流の画商の目に止まって、これを描いてみると良い、個展をやろう、となった話なんだけどさ。
政治活動を止めることにしたヒトラーに、やめるにしても、まあ最後に代理で演説をしてくれ、と言われてしまって、渋々やるんだけどさ。これがまた熱の入った演説なのよ。で、それがよりによって反ユダヤ主義の演説。
— MIB@C93-1日目 東ム-34aでした (@MIBkai) 2018年3月2日
で、それに扇動された若者が襲ったのが、ヒトラーを芸術に生きることを決意させた画商なの。
— MIB@C93-1日目 東ム-34aでした (@MIBkai) 2018年3月2日
ヒトラーと喫茶店で話をしよう、と言ってたにもかかわらず、男は現れなかった。……ってところで話は終わるのよ。
ヒトラーという何者かがいかに生を享けたか?という背景を知ってると楽しめる映画だよ。
いろいろ省略してるんだけど、概略としてはこんな感じ。人間として描くことも語ることも憚られる「あの人物」を人間として描いた廉でえらく批判された映画でもあるんじゃよー
— MIB@C93-1日目 東ム-34aでした (@MIBkai) 2018年3月2日
ある対象を「好きである/嫌いである」と「善である/悪である」とを区別できてないひとがいるみたいなんですよね。だから「悪いスターリンを好きというのはおかしい」とか「私は日本が好きなので日本は戦争犯罪をしたなどと言うのは許さない」みたいな支離滅裂な言説がよくあらわれるのではないかと
— 古川 (@furukawa1917) 2018年3月1日
最終的にはこういう話にもつながってくる訳です。