諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

グレイテスト・ショウマン観てきました③ 主題歌が本体で本編が糖衣?

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こうした背景をざっと説明し終えた今、やっと私自身が「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」を鑑賞中どう感じたかについて語れます。

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一言で要約すると、それは「2点間を結ぶ最短距離が直線となる座標系に強引に現実を押し込んだ結果生じるオーバードライブ感および落雷への陶酔」といった内容。

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  • 鑑賞中、次第に私の心の中では「ローガン(Logan、2017年)」のエンディング・テロップの最後に「ヒュー・ジャックスマンは戻ってくる。The Greatest Showmanで」の1行が付け加わった気分になってきた。Show must go on!!
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    *「レ・ミゼラブル(Les Misérables、原作1862年、最新ミュージカル映画化2012年)」においては徒刑囚から工場経営者兼市長に成り上がった「模範的市民」ジャン・ヴァルジャン(Jean Valjean、演ヒュー・ジャックスマン)を、自らもほとんど同じ出自で「悪党は一層更生しない。絶対に間違いなく裏で後ろ暗い事をやってる」と決めつけるジャヴェール警部(Inspecteur Javert、演ラッセル・クロウ)から理不尽なまでに執拗に追いかけられ続ける。こうした構造の物語に「流刑地として出発し、古くからの家系の多くが流刑囚」という歴史を有するオーストラリア人俳優が主演する事自体に特別な意味が存在したのである。

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    *「ローガン」におけるウルヴァリンの立場はさらに過酷。どうやらこの世界線におけるミュータント達は実際に暴走の危険を抱え、そのせいで一般社会から追い立てられ絶滅の危機に瀕しながら一般人を装って隠れて暮らしているらしいのである。ある意味、石田スイ「東京喰種トーキョーグール(2011年〜)」めいたディストピア。そして、そんな彼らを追いかけ回すのは、その能力の軍事利用を夢見る国際的軍産コングロマリット企業の(使い捨て可能な)走狗達。

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    *ヒュー・ジャックスマンは何故かこういう「後世、イデオロギー的に如何なる正義が如何なる悪と戦ってた時代と解釈される事になりそうか、一切読めない暗黒時代」に一切のイデオロギーに背を向け「自分が個人的に助けたいと思った者だけを個人的に助け続ける英雄的行為」に専念する役柄が多い。ある意味マーティン・スコセッシ映画「タクシードライバー(Taxi Driver、1976年)」におけるトラヴィス・ヴィックルの正義。 Are You talking to me?

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    *こんな「(イデオロギー至上主義者にとっては悪夢そのものともいうべき)憎みきれないロクデナシ」に「たまたま偶然」救われた若者達は、例えその後巻き返してイデオロギー的勝利を達成したとしても、もはやその成果に盲目的に陶酔するなんて考えられない。「俺は自分自身に忠実に生きてるだけだ。お前がそれをどう考え様が知った事じゃない」と断言するこの種の人々独特の強さとの邂逅。それが「タクシー・ドライバー」における少女娼婦アイリス(演ジョディ・フォスター)、「レ・ミゼラブル」におけるコゼット(Cosette)とマリウス(Marius)、「ローガン」においてメキシコの実験施設から逃げ出した少年少女達を「大人」へと成長させるのである。

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    *21世紀に入ると、こうした「豪腕だが権威主義的でない(家父長的体制の再生産に興味がない)」父親像が「ただ子供の生き様を見守るだけの(打ちのめされて無力な、あるいは自分の子供を全幅的に信頼している)父親像」と時期を同じくして浮上してくる。武内直子美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」におけるタキシード仮面(後にちびうさの父と判明)からTV版「魔法少女まどか☆マギカ(2011年)」における「(夫婦間の役割分担が逆転したヒロインの家庭における)まどかパパ」に至る「日本コンテンツの存在感の薄い父親像」。そして「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー(Rogue One: A Star Wars Story、2016年)」における「ヒロインの二人の父」ゲイレン・アーソとソウ・ゲレラ。Your fathers would have been proud of you, Jyn...

  • Show must go on!!」…考えてみればこの言葉は、英国のホラー作家クライヴ・バーカー「血の本(Books of Blood)シリーズ (1984年〜1985年)」のキーワードでもあった。元来は舞台上ではハプニングなどがあっても「ショーを続けなければいけない」ことから転じて、「止めるわけにはいかない」「問題があっても続けなければならない」という意味。
    *そもそもここまで名前が挙がった人々の経歴を見ても「ハリウッド映画界」というより「ニューヨーク/英国演劇界」なるニュアンスが強いのである。そもそもオーストラリア自体、英連邦王国の一角をなすイギリス連邦加盟国だし。

    *そこには元来は「現実世界にはもう自分の居場所は存在しない。これからはショウビズ=虚構の世界に生きていこう」なる諦観も含まれていた。

  • そしてこの締めくくり方である…


    *実はクリストファー・ノーラン監督のバットマン三部作最終作「ダークナイト ライジング(The Dark Knight Rises、2012年)」の結末、すなわちドン底から這い上がってきたバットマンことブルース・ウェイン(演クリスチャン・ベール)が再起を果たしてロビンことジョン・ブレイク(演 ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)にヒーローの役割をバトンタッチした後に「引退」する流れへのオマージュにもなっているのではあるまいか。Show must go on!!

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    *だとすれば全ての発想の発端がクリスチャン・ベールとヒュー・ジャックスマンが共演したクリストファー・ノーラン監督映画「プレステージ(The Prestige 2006年)」において限りなく暗鬱な形で語られた「興行者達の業の深さ」に同業者として「赦し」を与えたいという意図を背後に感じる事も可能な筈である。そういえば「グレイテスト・ショウマン」冒頭でP.T.ボーナムが投げるステッキは観客の視線を誘導する役割を果たすだけで何処にも届かない。

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    *ある意味、それが個人の脳内に収まった妄想に過ぎない段階においてはP.T.ボーナムのそれはウォルト・ディズニーアドルフ・ヒトラーのそれと大差なかった。そしてアドリフ・ヒトラーにも一応は当初の段階ではその忸怩たる思いを芸術に昇華する道が残されていたのである。そしてそれはシェークスピア史劇「リチャード三世(The Tragedy of King Richard the Third、1591年)」冒頭における王弟グロスター公リチャードの独白や「17歳から32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごすうちに狂気を蓄えた」といわれる江戸幕府大老井伊直弼(1815年〜1860年)の精神世界とも重なってくる。そして「現実世界と虚構世界の境界線が(戦)馬の足音によって区切られている」イメージはリヒャルト・ワーグナーニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」あたりにまで遡る?

    *また冒頭段階の彼のそれには「専用列車で移動し郊外の広大な敷地に天幕を貼って興行する大サーカス団」というイメージと同様にまだまだ「奇形と猛獣」なる推進力が欠落している。

    *こうして全体像を俯瞰してみると「グレイテスト・ショウマン」最大の物凄さはP.T.バーナムがアルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875年〜1965年)の様な本質的人種差別主義者であった側面を一切否定していない事なのかもしれない。その世界観において彼はただ「時代遅れ」になったから去るだけなのである…

    【医療】「シュバイツァー博士は“密林の聖者”ではなかった」2 - るいネット

    *これは正確には人種問題ではない。なにしろアメリカの黒人解放奴隷が建国したリベリア共和国(Republic of Liberia、1847年〜)においても黒人間で同じ問題が発生してしまったのだから。
    リベリア - Wikipedia

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  • それにしても、ここまでロックな内容なのに何故かこの作品は「ロック・ミュージカル」と呼ばれないのか? 実は20世紀には「正統派ミュージカル」があくまで中央に君臨し、「ロック・ミュージカル」はその傍流として存在していたに過ぎなかった。この構造自体が21世紀に入ると崩壊してしまったという事なのかもしれない。 

  • 「レ・ミゼラブル(Les Misérables)」 - Wikipedia

    1980年、アラン・ブーブリル(作詞)、クロード=ミシェル・シェーンベルク(作曲)らによって当作品の前身となるミュージカル“Les Misérables”が制作され、パリで上演された。
    *このミュージカル自体はあくまで『レ・ミゼラブル』をよく知るフランス人向けであり、だからストーリーのうちでも重要な箇所、例えば主人公ジャン・バルジャンがモントルイユ・シュル・メールの市長になる以前の銀の燭台のくだり、などが省略されることがあった。

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    1981年、この作品のレコーディング・アルバムを聴いた世界的演劇プロデューサー、キャメロン・マッキントッシュが目をつけ、RSCの芸術監督でもある演出家トレヴァー・ナンにイギリスでの上演の話を持ちかける。これに対してナンはジョン・ケアードとの共同演出、さらにはRSCとの共同製作をマッキントッシュに提案。1982年、商業演劇のプロデューサーと王立劇団が提携する形でロンドン版の制作が開始された。
    *「ほとんどのイギリス人にとっては題名(Les Misérables)を正しく発音するのもおぼつかない」(マッキントッシュ)という状況にあって、ロンドン版では『レ・ミゼラブル』という物語そのものを伝えることに重きが置かれ、1980年パリ公演の改訂版としての『レ・ミゼラブル』を創り上げていくこととなる。

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    時同じくして、リノ・ヴァンチュラ主演、ロベール・オッセン監督により長編大作映画として映画化され、テーマ曲としてオリジナル・キャスト盤が楽曲使用され、別途発売されたサントラ盤にも挿入され映画の成功により知られることになる(日本では劇場未公開だが、TV放映及びDVD発売されている)。


    オリジナル版を制作したアラン・ブーブリル、クロード=ミッシェル・シェーンベルク、さらには作詞家ハーバート・クレッツマーもクリエイティヴ・スタッフに加わり、1985年10月28日、バービカン・センターにおいてロンドン版『レ・ミゼラブル』が幕を開けた。ロンドン公演は開幕するやいなや、たちまち大人気となり、その後パレス劇場、クイーンズ劇場と場を移して、現在もロングラン公演中である。
    *そしてこの流れがアメリカ映画「レ・ミゼラブル(1998年、ビレ・アウグスト監督、リーアム・ニーソン主演)」や英国映画「 レ・ミゼラブル(2012年、トム・フーパー監督、ヒュー・ジャックマン主演)」に結実。ちなみに1998年映画版と「漫画で読破」版はジャベール警部が「お前がずっと無実だったなら、私こそずっと犯罪者だったのだ!!」と自らを断罪して入水自殺を遂げる場面で終わる。

世の中にはこういう意見もありますが…

こうして全体像を俯瞰してみると、厳密な計算尽くでこの最終形を選択した感もあります。そして、さらにそこから「ミュージカル映画としての愉悦の達成」を最優先課題に画面に残すものを選別していく…あれ、これ新海誠監督映画「君の名は(2016年)」を大ヒットさせたのと同じ構造では?

どちらも「主題歌に比べて本編の物語展開がぼんやりしている」みたいな指摘を受けてますが、それもそのはず。現実世界においては(主題歌において掲示される様な)純粋なイデオロギー的なものが直接顕現する事など決してなく、ただそれに向けての数かぎりない試行錯誤があるばかり。それをトリミングによって「全く突拍子も無い話でもない」雰囲気までは醸成するのが21世紀的文法の主題となってきているのです。ある意味「主題歌が本体で本編が糖衣」くらいに考えておくのが正しいとも?