諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【哲学のトレンド】ヘーゲルからカントへ、そして再びヘーゲルへ?

何でも萌えキャラ化すれば理解が進む筈?
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だが流石にこの分野は手強い?

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ヘルムート・プレスナーによれば機械的宇宙論を提唱したデカルトや、不可知的認識論を提唱したカントはむしろ「直感を正しく用いさえすれば真理へは到達可能」と信じて疑わない前近代的かつ形而上学的な強い信仰心の持ち主だったと考えられるそうです。ニヒリズムはそうした思考様式が大前提を喪失して以降も存続する事から出発する?

*「怪力乱神を語らず」なる定言で有名な孔子儒学、「語り得ない事については沈黙せざるを得ない」なる定言で有名なウィトゲンシュタインの論理哲学(独Logisch-Philosophische / 羅Logico-philosophicus)もまさにこれ。

ウィトゲンシュタイン第一次大戦に従軍中、「福音書の男」といわれるほど信仰熱心な人物であった。ただしこの福音書とはトルストイの『要約福音書』である。トルストイは四福音書からイエス・キリストの教えそのものを導き出そうとし、黙示論などの「伝説」を消去し、さらに神についても擬人的な存在であることを否定している。ウィトゲンシュタインの信仰と、彼の独我論の「私」の繋がりは、否定し難いと思われる。鬼界彰夫は『ウィトゲンシュタインはこう考えた(講談社 2003年)』の中で、ウィトゲンシュタインが従軍中「考察」に書いた「神と生の目的とに関して私は何を知るか」という問いかけが、彼の生涯の思考を理解する上で決定的に重要であると述べている。

*そういえば米国プラグマティズム創始者達も「神は必ずや我々の抱えるあらゆる問題への解決方法を認識可能な範囲内に置いておいてくださる」という前近代的かつ形而上学的な強い信仰心の持ち主だった。

ならば後期ウィトゲンシュタイン言語ゲーム(Language-game)とは?

言語ゲーム(Sprachspiel) - Wikipedia

後期ウィトゲンシュタインの基本概念。彼は後期の主著『哲学探究』において言語活動をゲームとして捉え、言葉の意味を外延(対象)や内包(共通性質)ではなく、特定のゲームにおける機能として理解すべきことを提唱した。

英語では「言語(Language)game」と表現しているが、勝敗を決める場があるわけではない。ドイツ語の「言語(spiel)」では「言語の機動的なふるまい」といったニュアンスであり、こちらのほうが端的に理解される。たとえば、石材運びのゲームにおいて「角石」という言葉は「角石をもってこい」という意味であり、それ以外のゲームでは同じ「角石」という言葉がまったく別の意味(機能)を持ちうる。それは、トランプのジョーカーの意味がそれを用いて遊ぶゲームによって異なるのと同様である。
*要するにデカルト機械的宇宙論に基づく代数幾何学の数理世界が(CPUの命令系統を通じてコンピューターを操作する)コンピューター言語に転写された感じ?

また、この言語ゲームそのものもすべてに共通する内包を持たず、親戚関係のように緩い連鎖によって一体化しているにすぎない(家族的類似)。

ウィトゲンシュタインは、「それを話す人にしか理解できない、その人の私秘的感覚を指す言葉」である「私的言語」の可能性に反対していて、『哲学探究』(以下『探究』と略す)において「カブトムシの箱(Beetle in the box)」という哲学的論考を行っている。人は誰しもカブトムシという文字を書いた箱を持っているが、その中身は自分しか見ることはできない。しかし他人の持っているカブトムシと書かれた箱は見ることができる、というものである。その箱の中身が各人によってまちまちであり、変化している可能性もあり、また何も入ってない可能性も考えられる。したがってカブトムシという「箱の中身」を語る事は(比較対象が無いため)不可能である。語ることができるのは「箱の文字」だけなのである。

経験の私秘的側面について語ることはできない。ウィトゲンシュタインは、誰かが「私が本当に痛がっていることは私しか知ることができない」と、自分の感覚が私秘的であると主張したとしても、それは正しくないと考える。その言葉は「他人は私の痛みをもつことができない」というのと同じであり、無意味な主張である。痛みが誰のものなのか疑いのある場合のみ、そのような主張は意味を持つのである。

この私的言語批判から、心の哲学では重要なトピックであるクオリアなど、意識の私秘性については語ることはできない、とする意見もある。

ウィトゲンシュタインは、この言語ゲームのアイディアにおいて、従来の哲学を言語ゲームから離れてしまって言葉の意味を考察する病とし「ハエをハエ取り壺から出してやる」ように言葉をその本来の言語ゲームにおいて理解すべきことを論じた。

 

ここまでくれば「サピア・ウォーフ仮説」まであと一歩?

言語的相対論(Theory of linguistic relativity) - Wikipedia

ベンジャミン・ウォーフが唱えた理論であり、個人が使用できる言語によってその個人の思考が影響を受けることを体系化した理論である。言語的相対性原理(英: Principle of linguistic relativity)とも。
ベンジャミン・ウォーフ - Wikipedia
サピア=ウォーフの仮説 - Wikipedia

  • ドイツ語圏ではヨハン・ゴットフリート・ヘルダーが、その『近代ドイツ文学断想Fragmente über die neuere deutsche Literatur』(1766年)で既に、諸言語をそれぞれの固有の文化生活を形成する力の一つとして見なしているが、言語的相対論の基本的な態度である。

    ここで扱われているのは、ヨーロッパの歴史の中で星の数ほど現れてきた「言語の起源」の問いである。
    「地球の人類はみな同じ言語を話している」 : 国際的研究で判明したこの衝撃の事実から、むしろ浮かび上がる「日本語」という存在の奇妙さ - In Deep

    ヘルダーがこの問題を取り上げた背景には、ベルリンの王立学術アカデミー会員ヨハン・ペーター・ズュースミルヒ(1707-67年)の存在があった。ズュースミルヒは、1756年に行った講演『最初の言語が人間でなく創造主のみにその起源をもつことを証明する試み』の中で、言語は神によって創造された、という「言語神授説」を唱え、大きな反響を巻き起こした。しかし、これはルソーやコンディヤックなどフランスの啓蒙主義を高く評価するアカデミーでは、人間の理性を軽視することにつながる見解として問題視される。
    *「言語神授説」…ズュースミルヒはプロテスタントであり、後に(ジェイムズ王訳(King James VersionあるいはAuthorized Version)」欽定訳聖書(1611年)」から出発した)米国のキリスト教原理主義者が振りかざす「聖書が(人が神より直接与えられた言語たる)英語以外で記述されたとは考えられない」なる暴論の嚆矢とも。
    欽定訳聖書 - Wikipedia

    そこでアカデミーは、1771年1月1日を期限として懸賞論文を募集するに至った。その設問は以下のとおりである。「人間はその自然な能力に委ねられて自ら言語を発明することができたか。また、どのような手段で人間はその発明に到達するか。この問題を明快に説明し、すべての難点を満足させる仮説を求む」。かくして最優秀賞に選ばれたのが、ヘルダーの『言語起源論』だった。

  • さらに、その後、フンボルトが『諸言語の民族的性格について』(1822)や『人間言語構造の多様性と人類の精神的発展へのその影響について Ueber die Verschiedenheit des menschlichen Sprachbaus und ihren Einfluss auf die geistige Entwicklung des Menschengeschlechts』 (1830-35年)を著し、ヴァイスゲルバーが『母語言語学』(1963)の中で、母語が人間の精神内部に形成する中間世界について述べているのも、言語相対論の姿勢である。

  • フランス語圏では近代言語学の祖であるソシュールの講義における受講学生たちがその後にまとめた『一般言語学講義』(1915)において述べられている[意義(仏:signification) に対する]価値(仏:valeur)としての概念が、諸言語間 で相違するものとしている。例としては仏のmoutonと英のsheepの間の相違が挙げられている。相違する価値がそれぞれ精神へ別個に及ぼす影響について語られてはいないが、それを受けた弟子のバイイは『一般言語学とフランス言語学』(1932)において、ドイツ語とフランス語の間の構造上の志向の差異を述べていて、それぞれの言語を話す主体の精神の働きの違いを推測させる。

こうしてしばしば「言語が思考を決定付ける」と主張する側面を見せる事が批判対象となる事があるが、ウォーフ自身は「言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する」としか述べていない。
*ドイツ現象学の方法論に沿って日本語における形容詞の普遍性と特殊性を解明しようとした「九鬼周造「いき」の構造(1930年)」は「coquetやraffinèといった優美なフランス宮廷用語が(対応する洗練された概念を持たない)英語やドイツ語にそのまま輸出された事」「その一方でchicの様にフランス語圏とドイツ語圏の往来を通じて定着した語もある事」「ドイツ語には故郷の陰鬱な気候が生じさせる南国への憧れが産んだSehnsuchtの様な語も存在する事」などに注目する。後期ウィトゲンシュタイン言語ゲーム(Sprachspiel)における「家族的類似」とは、それぞれ必ずしも独立してはいない各言語の特殊性と普遍性の混錯を指しているのであろう。
九鬼周造 「いき」の構造

その正当性の議論は別にして、言語的相対論は言語学以外で具体的な応用を生んでいる。ダグラス・エンゲルバートは、この理論の影響もあって、ハイパーテキスト、グラフィカルユーザインターフェース、マウスなど様々なものを発明した。

*ここで案外忘れてはならないのがティモシー・リアリー博士によって1980年代に指摘された「コンピューター操作という新たな言語ゲーム導入による脳の再プログラミングの可能性」とも。

テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1998年)」は「時制に拘束されない系列の数理体系」に立脚する言語を駆使する異星人との邂逅が人間の意識を拡張していく壮大な物語だったが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「メッセージ(Arrival、2016年)」においてその内容は「サピア・ウォーフ仮説」のレベルまで矮小化された。これはフランス系カナダ人であるドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の「英語圏においてフランス語話者が感じる異邦人感」、及び彼がこよなく敬愛する「ノスタルジア(Nostalghia、1983年)」において「亡命の結果、母国語で詩を発表出来なくなったロシア詩人の苦悩」を表現した(自らもソ連からの亡命者だった)アンドレイ・タルコフスキー監督へのオマージュだったとも考えられる。

あれ、この流れ本当に「ヘーゲルからカントへ、そして再びヘーゲルへの回帰」みたいな単純な往復運動と単純化して大丈夫なんでしょうか? そしてこうした考察を経てその近寄り難い輪郭をより露わにしてきた「事象の地平線としての絶対他者」は、擬人化が益々困難な存在に…

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さて、そもそもこの次元における「哲学」とは?