これまで難解だから忌避してきたジャック・ラカンの精神分析論…
疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメのレビュー
「すべての人は神経症者、精神病者、倒錯者(+自閉症者)にいずれかに分類され、「健常者」というものは存在しません」...ここは、スペクトラムの考え方そのものです。カウンセラーとしてお話しを伺っているクライアントさんのことを思い出しても、もちろん私自身をふり返ってみても、しっくりきます。
「記号はそれ自体で指示対象と一致するので、単体でも機能します。これに対し、シニフィアンはそれ自体としては意味を持っておらず、意味作用(シニフィカシオン)が生じるためには他のシニフィアンと連接される必要があります」...ここでは、「私は他人が嫌がることをします」という文章(シニフィアン)が、誰の口から発せられるか(他のシニフィアン)によって意味が異なってくる、と説明してくれます。...これは、企業さんでやっているコミュニケーション研修でお話ししていることにつながっていきます。このシニフィアンの話しから、鏡像関係、<他者>としての母親、<他者>のシニフィアンの集積としての無意識から...「(精神)分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的性質が現れることが目指されます」とつなげる流れは、すんなりと入ってきます。
母の[法]とそれへの従属から抜け出すための父の[法]、「母親の重要な役目は、なんらかの父の存在を認めて、「世の中には<法>があって、お前もその中で生きなければならないんだよ」と子どもに理解させる役割がある」としながら、エディプス・コンプレックスの3段階への説明、『去勢』から『ファルス』へ、ここからファルスの存在(ある)から所有(もつ)へ、そして「ファルスを<持とう>とすると、欲望が母親そのものから解放され、より広い対象に向っていく」という発達の説明への展開も見事です。
ジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年〜1981年) - Wikipedia
ジャック=マリー=エミール・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901年〜1981年)は、フランスの哲学者、精神科医、精神分析家。フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られ、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。また、フロイトの大義派(École de la Cause freudienne)を立ち上げた。
新フロイト派や自我心理学に反対した。アンナ・フロイトの理論については、フロイトの業績を正しく継承していないとして批判し「アナフロイディズム」と呼び、「フロイトに還れ」(仏:Le retour à Freud)と主張した。
*アンナ・フロイトの主張する「正統派」人格心理学(personality psychology)は、メラニー・クラインら対象関係論(Object relations theory)の叛逆も招いてきた。
- 初め高等師範学校で哲学を学ぶが、転学しパリ大学に移り、そこで医学を学ぶ。卒業後は、精神科医として働いていたが、徐々にフロイトの精神分析学に傾倒していった。さらに、アレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義などに参加(ジョルジュ・バタイユも参加しており、当時友人であった。ちなみに、バタイユは、当時女優をしていたシルヴィア・バタイユと結婚生活を送っていたが、1933年には別居していた。シルヴィアは、ジャック・ラカンと愛人関係となり、1938年に2人の間には女児が生まれた。1953年にラカンはシルヴィアと正式に結婚した)、パリ精神分析協会に所属し、同協会の会長に選ばれるが、会長就任後、同協会に内紛が生じ分裂した。1964年に自ら「パリ・フロイト派」を立ち上げた。だが、同派も結局1980年に解散することになった。1981年8月に大腸癌の手術を受けたが、縫合部が破れて腹膜炎と敗血症を併発した。同年9月9日にモルヒネを投与されて亡くなった。ラカンの最後の言葉は、「私は強情だが・・・消えるよ。」だった。
*確かに「文学者」バタイユとセットで語られる事が多い。
- 20年以上にわたりセミネール(セミナー)を開き、「対象a」「大文字の他者」「鏡像段階」「現実界」「象徴界」「想像界」「シェーマL」などの独自の概念群を利用しつつ、自己の理論を発展させた。セミネールの開催場所は、当初はサンタンヌ病院であったが、後にルイ・アルチュセールの計らいによって、パリ・ユルム街の高等師範学校となった。参加者には、ラカン派の臨床家だけでなく、ジャン・イポリット(哲学者、ヘーゲルの専門家)、フランソワ・ヴァール(スイユ社編集者)などもいた。基本的には「語る」人であり、あまり「書く」人ではなかった(つまり、セミネールで語ることを中心とし、初期の博士論文を除いてまとまった著作を書くことをしなかった)。それは、声や身振りを欠いた表現では、自分の考えが正確に伝わらないと思っていたからである。ラカンは、セミネールをテープレコーダーで録音することをも拒否していたが、録音する聴衆があまりにも多いので、受け入れざるを得なかった。
- 生前の著書として『エクリ』(Écrits、「書かれたもの」の意)があるが、この『エクリ』も時期を異にして発表された論文の集積であり、その多くは口頭発表の原稿である。なお、『エクリ』は邦訳が刊行されているが、原書より難解であるとの指摘がある[3]。また、ラカンの弟子たちは、セミネールを出版するべく努力したが、なかなか師匠であるラカンを満足させる水準を満たすことができなかった。しかし、最終的には、ジャック=アラン・ミレール(ラカンの娘婿で弟子)が編集した『精神分析の四つの基本概念』が、ラカンの許可を得て出版された。
- 『エクリ』はその難解さにも拘らず、フランスで20万部以上のベストセラーとなった。ラカンの死後、ラカンの草稿・原稿類の管理は、ジャック=アラン・ミレールが行っている。2001年になって、『エクリ』に収録されなかった論文を集めた『他のエクリ』(Autres Écrits)が出版された。近年になり、未公刊だったセミネールの内容が、順次公刊されつつあり、日本での邦訳も進みつつある。
アルチュセールはある時期まではラカンの業績を非常に高く評価していた。のちにラカンの娘婿となるジャック=アラン・ミレール(ラカンをして「唯一私のテクストの読み方を知っている人物」と言わしめた)はもとアルチュセールの学生であったが、ラカンの講義を受けてはどうかとアルチュセールに助言されたことがきっかけで、ラカンに接近することに。
これまで自分の構築してきた世界観との接点を見出せないでいました。まぁ言説の端々が興味深く、気にはなってたのも事実なんですが、いかんせん難解過ぎたのです…
自分とは別の主体(そして究極的には主体そのもの)は、ラカンにとって直接あたえられるものではなく「前提」、すなわち、推定されたもの、信仰の対象である。そもそも私の目の前にいるものが深みがない生物機械ではなく、もう一人の主体であると、どうすれば確信できるというのか。(『暴力』p64)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年3月25日
われわれは、今日、精神分析に関するラカン派の努力のおかげで、生の始まりにおいて無意識がいかにして形成されてゆくのか、それがなにから成り立っているのか、またその配置や働きの正確な様式がどういうものであるのか、といったことについて理解することができる。ジャックラカン入門359
— 勉強用BOT1 (@harukaka00) 2018年3月25日
これがラカン的な意味での「無意識」である。形式と内容を隔てる断絶そのものの中に、つまり形式の自立性の中に、自己表現する欲望である。(『崇高』p348)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年3月24日
「発達障害を巡る分析においても、「父の名」を機能させることがその中心的課題としてあり、それによって主体の発達の実現が可能になっていく」牧瀬英幹『発達障害の時代とラカン派精神分析』p.58 しかし、分析によって、「父の名を機能させる」ことなどそもそも可能なのか?
— yasutaka kubota (@yasutakakubota1) 2018年3月16日
ポスト・マルクス主義は、個別の闘争の還元不能な複数性を強調し、それら個別の闘争が一連の等式において表現されることは社会的・歴史的過程の根源的偶然性によるのだと主張するが、ラカン派の精神分析はこの複数性そのものを、同じ不可能な-真の核に対する複数の反応として捉える(『崇高』p17)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年3月25日
幻想はその定義からして客観的(中略)ではありえない。しかし、主観的(中略)でもない。むしろ幻想が属しているのは「客観的主観性という奇妙なカテゴリー」である。「自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には実際にそのように見えてしまう」のである。(『ラカン』p93)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年3月23日
治療の間、分析家は〈知っていると想定される主体〉の地位を占めているが、分析家の戦略はその地位を掘り崩し、人の欲望に対する保証は〈大文字の他者〉の中にはないということを患者に気づかせることである。(『ラカン』p73)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年3月24日
「エディプス期」
— 勉強用BOT1 (@harukaka00) 2018年3月25日
ラカンにおけるエティプス期とは、鏡像段階に引き続く段階のことで、鏡像段階の第三相とエティプス期の第一相とは一部かさなり合う。そしてラカンの場合、重要なことは、エティプス期とランガージュの秩序への接近とが密接に結ばれていることである。
ジャックラカン入門370
全体像を俯瞰するに、おそらく一番肝心なのは「それまでフランス思想界を席巻してきた〈実存主義〉や〈マルクス主義〉を乗り越えようとする多様な試みの共通の符牒となった」という部分。その為にどういう部分がどう役立てられたのか? こういう観点からなら、例えばカール・ポランニーの経済人類学のそれと並列的に扱う事が可能かもしれません。
ちなみにこれまでの私のジャック・ラカン理解を基礎付けてきたのは、例えば以下の様な文章だったりします。
911夜『テレヴィジオン』ジャック・ラカン|松岡正剛の千夜千冊
ラカンは世界のあれこれの情報の中から“最も大事な類比関係”を摂取しつづけた編集的独学者だった。
【人間は、ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです】
いうまでもないけれど、ラカンを有名にさせたのは、「無意識はひとつのランガージュとして構造化されている」というテーゼだった。
ランガージュとはもともとは言語活動一般をさす。が、ラカンがいうランガージュはもう少し厳密で、独創的だった。すなわち、ここでいうランガージュは、誰かが何かを言語を用いて「話す」ことではなくて、任意の寄る辺なき誰か(主体)のことが、他者たちによって「話される」という言語活動なのである。そして、それが当人の無意識をあらわす根源的なランガージュそのものにあたっているということなのである。
つまりは、ラカンのいう無意識は「他者の語らい」としての無意識なのだ。自分の中にだけにある無意識ではなく、他者たちとともにある無意識なのだ。これはいささか意外なことだろう。けれどもラカンは、そう考えた。
では、無意識が「他者の語らい」のなかにあるとすると、どういうことになるのか。ここからは、ちょっとややこしい。
そもそも自己としての誰かは、いつも自分で自分のことを語っているつもりになっている。しかしながら、自分のことを語ろうとすればするほど、そのランガージュはいつまにか他者を語っている。なぜなら自己というものは、もともと他者との比較においてしか芽生えない。
一方、他者は他者で勝手なことを語っている。けれどもその「他者の語らい」は、ラカンによれば、自分のことを語っているらしいという他動的なランガージュの印象になる。これをいいかえれば、そこには「語られている他者としての自己」にこそ無意識があるということになる。さあ、そうするとどうなるか。
自己と他者の“切り分け”の具合にのみランガージュとしての無意識があるということになる。これが「人間は、ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです」という意味になる。
【思考というものは魂に対して不調和なのです】
誰だって自分を知りたい。しかし、いまのべたように、自己への接近が他者とのあいだの無意識によって介在されているとなると、単なる思考が自己に近づくなどということは、とうていムリだということになる。むしろ「他者の欲望」に接近することこそが自己に接近する近道なのである。
しかし、いったい「他者の欲望」って何なのか。性欲や憎悪なのか。親近感や所有欲なのか。まあ、いろいろあるでしょう。いろいろあるけれど、なかで大事なことは、それらもたいていは言語意識によって表明されるということだ。何かが欲しければ、何かを言うか、その欲望にもとづいた行動をおこさなければならない。友人に「ごはんを食べにいこう」と言わなければならず、ティファニーで「20万円ほどのネックレスが欲しい」とカラカラの喉で表明しなければならない。表明や行動をしなくとも、これらはアタマの中での言語意識になっている。
これは、ネックレスをもっていない自己がネックレスをもっている他者に近づいたということだ。すなわち、ラカンにおいては「自己に近づくには他者になる」ということなのである。そうだとすると、この「自己接近」と「他者欲望」とのあいだには何らかの意味のつながりがありそうだ。
実はラカンにはかなり初期から「シニフィアン連鎖」という見方があった。ラカンは患者の言葉にひそむ意味の連関をずっと探査しつづけていた。またそれを、「グラフ」(欲望のグラフ)にあらわそうとしていた。これは心や魂というものが、どんな見取図からもはみ出していることをラカンが見抜いたためだった。
ラカンがこうした「グラフ」を思いついたのは、フロイトの『機知――無意識との関係』の文章に注目してからである。機知というものは、自分の意識の見取図をはみ出して他者に向かっている。ジョークや軽口をおもえばいいだろう。あれは、あきらかに他者のためにあるもので、しかも、自己と他者をつなぐためにある。
その機知のありかたをヒントに、ラカンは自己と他者のあいだにつながるシニフィアンの連鎖を辿ろうとした。そして、自己は「他者の欲望」を媒介にしてやっとこさっとこ自立するのだということに気がついた。
思考というものが魂に対して不調和だというのは、以上のような意味をもつ。
【欲望が姿をあらわすときに要求している反復性にこそ、無意識があるのです】
文章としてはわかりにくいかもしれないが、それほど説明することもないだろう。誰かの意識のなかで欲望が形をあらわすときに、その欲望が向かう要求が何度もくりかえされ、その反復の周辺こそ他者とつながっている無意識のゾーンだというのである。
ただしここでは、反復性というところがミソだ。人間の言動というもの、気がつかずに反復していることのほうが断然多い。その反復性が諸君の自我の輪郭をもった本体っぽいものなのである。
【無意識? 語る存在(エトール・パルラン)にしか無意識はありません】
ラカンは師のガエタン・クレランボーの「精神自動症」という概念から出発した。この概念なら狂気の大半を「外から押し付けられたもの」というふうに解釈できるからだ。
精神科医フロイトが神経症を出発点にしたのに対して、ラカンが狂気を出発点にしたこと、とくにパラノイアの分析を出発点にしたことは、のちのちまでラカンの思想に濃厚な色彩を与えた。なぜならこれでデカルトであれ、ジャン・ジャック・ルソーであれ、これをパラノイアとして読むことができるようになったからだった。いうまでもないけれど、パラノイアとは理想主義の墜落の現象のことで、そこにつねに「自罰」がともなう症例のことをいう。
【魂は、身体に対する無意識の機能の総計による仮設なんです】
ここでラカンの「鏡像段階」仮説を紹介しておく。これは1936年に自己(自我=私)の機能を構成するものとして“発見”されたもので、生後1年前後の乳幼児が「鏡」ととりむすぶ関係から推察された。『去年マリエンバートで』というアラン・レネのモノクロ映画があったものだが、そのマリエンバートの学会での研究発表のときだった。
こういうものだ。
乳幼児はまだ神経系が十全に発達していない。身体感覚が全身に届いていず、したがって自己受容知覚も統合されていない。そのため乳幼児は、いわば「寸断された身体」の状態にある。
で、乳幼児の全身感覚が未発達なのにくらべて視覚はけっこう発達しているため、鏡に映った自分の映像と対面した乳幼児は、ラカンの言い方によれば「彼自身の映像と世界の映像の光学的な関係による諸知覚を処理して、彼自身の像を世界の中での特権的な地位を占めるものとして認知する」(難解な言い方だねえ)。こうして視覚が先取りした映像の上に、あとから自己の能動性の中心が仮託され、そこに「私」という自己中心が発生してしまう。
これが有名な「鏡像段階」仮説だ。これをどう解釈するかはさておいて、この仮説をラカン自身がどう意味づけているかということを書いておく。3つに絞っておこう。
第1には、われわれは幼児期のみならず、つねに身体的な未統合状態にいるのではないかということだ。これは誰しも心当たりがあるだろう。とくに幼児期の知覚のアンバランスから生じた自己映像性の漠然とした確立は、その後の自己形成のモデルとして大きく作用して、よくいえば、自分の欠陥やアンバランスを克服して理想的な自己像を求めるという意識を発達させるというふうになる。けれどもこれは実際の自己像とのあいだに亀裂があることを確認することにもなるので、そうとうな緊張を強いられる。この緊張を維持しながらも亀裂を突破していければよいけれど、それで何度も挫折しているうちに、かえって自己像そのものを喪失しかねない。これも心当たりがありますね。ただしここで、「鏡」とは実はひとつの例示であって、実際には母親の体との相対的比較や、両親兄弟親戚の言葉による自己映像の予想なども次々に加わって(つまりいろいろな鏡像が加わって)、自己鏡像はますます虚の次元に確立されていく。
第2にラカンは、このような鏡像段階があるということは、結局のところ、自己(自我)というものは最初から社会関係の中にくみこまれているものだとみなした。つまり、無垢の自己なんてものは最初からありはしないとみなしたのだ。もっとはっきりいえば、そのような社会的関係によって疎外されるということが自我をつくるのだと考えた。
第3に、以上のことは他者との関係が自己像の本質だということを説明していることになる。が、そうなってくると、その一方、人間というものは他者に見えているだろう自分自身の像を否定したくなって、「実は、私は‥‥」と言いたくなる自分がしばしば浮上してくる。いわば“真実の自己”の“復権要求”だ。
むろん、「実は、私は‥‥」というような本来的な自己なんていうものは、ありえない。だから、この復権にはムリがある。自己像はそもそもにして他者との関係の中以外にはないものだった。
それゆえ自己像の過度の復権要求は、その当人にパラノイア的な苦悩をつきつけることになっていく。しかもそれが幼児期このかたの鏡像段階をスタートにしているがゆえに、ついつい虚像として出てしまうのだ。まことに苦しいことである。ラカンはその「虚像としての自己」の出現に注目したわけだった。R・D・レインが「ニセ自己」と呼んだものにも近い。
【意味というものは、多義(エキヴォック)か、隠喩(メタフォール)か、あるいは換喩(メトニミー)なのです。その連合(アサシアシオン)なのです】
隠喩や換喩。ラカンはその中にこそ意味の本質を見いだした。
もっとも隠喩や換喩にもいろいろがある。編集工学の64編集技法ではないけれど、省略・冗語・転置・兼用・逆行・反復・同格などはシンタックスの移動によって、隠喩・濫喩・換喩・諷喩・換称・提喩などはセマンティックな圧縮によっておこる。
ラカンはこういうメタファーをつかって精神分析学にアプローチしていった最初の人だった。だからラカンを読むことは、精神分析学を活用してみたいというような思いだけでは、あまりおもしろくない。正直いって、ぼくはラカンの精神分析学はそんなに凄いとは思っていないのだ。しかしながら、ラカンがそのような思想を表示するために駆使してきたメタファーに対する努力と工夫には、しばしば舌を巻く。実は学問などというものは、そっちのほうが重要なのだ。
これも有名なことだが、ラカンは象徴界と想像界を区別した。そのうえで、独特の「スタイル」を作り出した。引用と暗示を華麗なほどに駆使するというスタイルだ。『エクリ』にはこう書いている。「スタイルとは人間そのものである。もっぱらこの定式を拡張して、ここでいう人間とは言葉をさしむけられる人間であるという定式に賛同しようではないか」。
言葉を心底考えようとする人間にこそスタイルが生まれるというこのラディカルな定式は、ラカンの思想の全域で徹底して表示されていった。そしてそこからは、これも『エクリ』の中の言い分なのだが、次のようなメッセージも生まれてきた。「言語においては、メッセージは他者からやってくる。これを徹底的につきつめれば、言語は逆転した形でやってくるということになる」。
こういうことは、単なる学問の深化などでは言いえない。
【大事なことは、暗号化されるものがあるということではなくて、暗号を解かれるものがあるということです】
ラカンが精神科医として出発をしていたころ、精神分析はとっくに危機的状況に陥っていた。ラカンはそこでフロイトに戻れと言うのだが、フロイト解釈のありかたにも大きな疑問をもっていた。
そこでとんでもないことを考えた。精神分析から「情動」をはずしてしまうという、モーセの脱出に似た計画だ。
ぼく自身はフロイトにも責任があると思っているけれど、ラカンはフロイトではなくてフロイト解釈者たちが誤読しすぎているとみた。フロイト主義というもの、ついつい暗号になったもののほうばかりを気にしすぎる。ラカンはそうではなくて、暗号が解かれる方向に何かの本来の問題があると直観した。リリースされる方向に本質を嗅ぎとったのだ。
これは当たっている。まさに、その通りだ。たしかに意識も無意識も、エンコードよりデコードをするときのリリースの方向がずっと重要なのである。ただし、このことは何もラカンを持ち上げずとも、とっくにぼくにはわかっていたことだった。
【つまり、情動は置き換えられている(デプラセ)、ということです】
いってみれば、ラカンは編集工学がわかっていたのだ。「言い換え」こそが意識と無意識の橋掛りであることが、十分にわかっていた。ラカンはそのうえで、フロイト主義者がこだわった「情動」をそこで固定せず、自在に言い換えたのである。
このあたり、ラカンはうまい。実はラカンの文章や理論はまことにわかりにくいのだが、またそういう評判ばかりが目立つのであるけれど、ここはラカンの読み方を知れば、とくに難しいわけではない。その読み方というのは、ラカンの読み替えのスピードに自分を合わせることである。スポーツだって、そうでしょうが。サッカーやラグビーやテニスを見るのに、そのスピードでそのゲームを見ないかぎりはおもしろくもないし、だいいち、何もわからない。文章だってそういうものだ。
とくにラカンにおいては、ラカンのデプラセ(言い換え)のスピードに乗って読むことだ。
【わたしは、科学のディスクールとヒステリーのディスクールは、ほとんど同じ構造をもっていると結論します】
これはラカンに指摘されて初めて納得したことだった。だからといって、ここから、科学者はたいていヒステリー患者なんですねと短絡する必要もない。まあ、そうだけれど(笑)。
それよりもここで重要なのは、合理というもの、理屈というものを整合させるということには、それをそうさせている科学者や理屈屋が、放っておけば自身がそうなりかねないヒステリーをその合理の手前で消化させているせいだという、そのことである。
【抑制を生じさせているものが抑圧であるということから、問題を立ち返らせねばなりません】
この言い回しもまた、絶妙だ。それとともに、ここには抑圧も無意識も、主体を構成しようとする作用の痕跡が生んだものにすぎないという言明が隠れ見えている。
この主張はロジェ・カイヨワにおいても雄弁に語られたもので、人間というものは“イメージの虜”になるものだということを説明している。ここまではだいたい理解できることだろう。が、ここからちょっと飛躍する。言葉そのものも抑圧なのだという主張に飛んでいく。
言葉が抑圧だとは、ある言葉を選んだということは、他の言葉を抑圧したことになることを意味している。言葉はアタマの中ではつねに多数の並列状態になっている。そこから何かを選んで発話するということは、それ以外の言葉を抑圧していることになる。
言葉というもの、アタマの中でたえず意識化されているわけではない。大半はどこかに貯まってストックされている。そこでは言葉の多くが休んでいるか、死んでいる。そのうちのいくつかは夢で喚起されたり、精神病で暴発するものの、だいたいは無意識に近いところに貯められている。ということは、つまりは、ランガージュそのものが無意識としての構造をもっているということをあらわしている。すでに説明したことであるけれど、無意識は言語のように構造をもっているわけなのである。
この主張をもう少しおもいきって発展させると、精神医学者としてはフロイトとラカンだけが喝破した“あること”につながっていく。それは「負の存在」に対する感覚の作用こそが存在の証明をなしとげるであろうという予測だ。
【解釈(アンテルプレタシオン)は、貸借(アントルプレ)を満たすために、快速でなければなりません】
おうおう、そうだよね。快速だ、快速だ。
解釈とは加速装置のことなのだ。それにしても、ラカンはよくぞこういう芸当を欠かさずに、精神分析という退屈な分野を突き抜けたものだった。
で、最近こんな言説に出会ってしまったのです。
Why American psychoanalysts [ i.e. non-Lacanians ] are an endangered species https://t.co/DAozgqXyfh
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月11日
なぜアメリカの精神分析家[すなわち,非ラカン派]は絶滅危惧種なのか
see also : Are candidate an endangered species ? https://t.co/iC1JLgqIbH pic.twitter.com/qkBnxR8EPD
#精神分析 #ラカン #フロイト #ハイデガー
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
Bonsoir, mes amis ! USA では精神分析家(非ラカン派)は「絶滅危惧種」扱いされているそうです.写真は,Fifty Shrinks https://t.co/8IUyKYxhIy と題された写真集に収録されているものです."shrink" は,精神科医や精神分析家を指す英語の俗語表現です. pic.twitter.com/MBxT8epOpe
Nazi による迫害のせいで,ユダヤ人分析家たちは,欧州から USA に多数亡命しました.1940年代から1970年代終わりころまで,USA では精神分析が精神療法の主流でした.1978年には全米で約4500人の分析家がいました.しかし,2015年には約3000人.平均年齢は66歳.2005年に比べて 4歳上昇しています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
つまり,USA の非ラカン派精神分析家の職能団体は,若い世代の養成に失敗したのです.若い世代にとっては,時間と金をかけて精神分析家の資格を取得することは,何の意味も無いことになったのです - 精神科医や臨床心理士の大学人または臨床家としての社会的な出世のためには.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
日本でもまったく同様です.非ラカン派の日本精神分析協会の分析家は約30名,平均年齢は USA の66歳よりさらに上でしょう.約30名のうち実際に精神分析の臨床をしている者が何人いるかは不明です.女性は一割以下.若い世代の養成にも女性精神分析家の養成にも完全に失敗しています.絶滅は目前です.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
それに対して,フランスでは,ラカン派精神分析家は数万人いる,と言われています.若い世代の精神分析家の養成も,それなりにうまく行っているようです.USA や日本とフランスとのこの違いが何によるかは,明白です.Lacan の l'inconscient, ça parle[無意識,何かが語る]の効果です.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
非ラカン派は,精神分析の本質が何に存するかを思考しませんでした.その結果,精神分析治療と精神分析家の養成過程は,単なる儀式と形式に堕してしまいました.ですから,精神科薬物療法や認知行動療法の発達によって,精神分析は臨床の場からどんどん駆逐されて行ってしまいました.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
それに対して,Lacan は精神分析の本質が何に存するのかについて思考し続けました.我々は今,精神分析は主体の存在の真理の実践的な現象学である,と公式化することができます.主体の存在の真理としての無意識において,何か(存在)が語る - その「存在のことば」に耳を傾けることが,精神分析です
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
あなたが抱える苦悩や症状は,単なる病気や疾患の現れではありません.そこにおいて何かが語っています.そのことばを聴き取ろうとしない限り,その何かは語りやむことはありません.つまり,症状も消退しません.たとえ薬物療法によって抑えることができたかに見えても,ただのごまかしにすぎません.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
自身の存在の真理のことばに耳を傾け,それを聴き取り,存在の真理において自有(自由)となるか,あるいは,そのようなことばに耳をふさぎ,aliénation[異状]にとどまり,剰余悦によって不満足をごまかし,薬物やアルコールによって不安をまぎらわすか - そのような倫理的な選択がかかっています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月12日
#精神分析 #ラカン #フロイト #ハイデガー
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
Bonjour, mes amis ! USA で主流派であった精神分析理論は,ego psychology と呼ばれていました.それは,Freud による「無意識の発見」の遺産を,自我や意識を中心的な概念とする伝統的な心理学の枠のなかに無理やり押し込め直すことによって,得られます.
また,USA では,英国やフランスなどと異なり,1991年までは原則的に精神科医しか精神分析家の資格を取得し得なかったので,必然的に,精神分析においても生物学主義が前提されていました.つまり,精神分析理論も生物学的な意味での「本能」や医学的な生理学,生化学に基づく,というわけです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
精神分析における生物学主義と ego psychology - それらふたつへ Lacan の批判の矛先は向けられます.生物学にも医学にも心理学にも社会学にも基づかずに,つまり,如何なる経験科学にも基づかずに,純粋に(非経験論的に)精神分析を基礎づけること - それが Lacan の目指したことです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
非経験論的に精神分析とその主要概念である「無意識」とを基礎づけるために,Lacan は,単純明瞭な直観から出発しました:人間存在は,従来素朴にそう思われてきたように,内と外とを分ける閉じられた球面に還元し得るものではなく,而して,人間存在の内奥には穴ないし裂け目が口を開いている.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
Freud が発見した無意識は,人間存在の内奥に口を開く穴ないし裂け目と関連づけられる.その穴ないし裂け目にこそ,精神分析の理論と実践は基礎づけられる.そのような直観を,Lacan は早くに得ていました.そして,その穴は,学素 S(Ⱥ) と公式「性関係は無い」によって差し徴されることになります.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
無気味な深淵,不安を惹起する裂け目,そこからこちらを見つめてくるまなざし,そこからこちらへ語りかけてくる声 - そのような経験は,Schizophenie においてよく見うけられます.実際,Lacan は「精神病者は無意識の殉教者だ」と言っています.この場合,「殉教者」は「公に証言する者」のことです. pic.twitter.com/bMNSQmQMqD
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
Schizophrenie において最もしばしば見うけられる症状である声とまなざし - それこそ,無意識という実存的な裂け目と,そこから語りかけてくる存在の声と,そこからまなざしてくる無のまなざしについて,最も確かな,最も明らかな証言を我々に提供してくれます.Lacan の出発点は,そこです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
では,なぜ ego psychology や生物学主義は,穴としての無意識に気がつかなかったのか?それは,自我,意識,認識などの伝統的な心理学の諸概念のせいです.それらが先入観となって,無意識の本質を覆い隠してしまったのです.その事態は,一般常識を疑わない人々にとっては,今も続いています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
伝統的に「認識論」と呼ばれ,今は「認知科学」と呼ばれる分野において,Freud 以前の先入観はいまだに保持されています.あからさまに自我や意識などの語が用いられなくても,それらの分野においては,人間ないし大脳は「ある対象に関する何らかの情報」を得るという図式が当然の前提となっています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
精神分析のなかに認識論や認知科学を持ち込むのは,ego psychology への逆戻りです.Lacan は,そのような方向性を批判しました.では,如何に精神分析を純粋に,非経験論的に基礎づけるか?そのために Lacan が準拠したのは,Heidegger の否定存在論です.存在の穴について,話を続けましょう.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月13日
#精神分析 #ラカン #フロイト #ハイデガー
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
Bonjour, mes amis ! 精神病者は Freud が「無意識」と呼ぶ裂け目をあからさまに証言する,と Lacan は言っています.実際,Schizophrenie の患者たちは,何らかの裂け目からこちらをまなざすまなざしや,そこからこちらへかたりかけてくる声を経験します.
この二枚の絵は,17歳時に Schizophrenie を発症した或る女性が描いたものです https://t.co/sB0eYsrVm0 10ヶ月前にこの記事を書いた時点で,彼女は18歳でした.左側の絵では,身体から遊離した目が壁や床に塊状に出現し,あちこち動きます.右側の絵では,クモのようなものの背に目が付いています. pic.twitter.com/2heY80AFgZ
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
これは,趙燁氏の body painting 作品です https://t.co/C8aOoVzvkD 思いもよらないところに不意に口を開き,こちらをまなざす裂け目は,彼女の創作の根本的な主題です.彼女は Schizophrene ではありませんが,一般的に言って,女性は自身の内奥に口を開く穴が惹起する不安に,男性よりもより敏感です pic.twitter.com/WCF7tJmhWS
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
Schizophrenie 患者は,捉えどころのない裂け目を造形的に具象化することによって,それが惹起する耐え難い不安を,かろうじて耐え得るよう抑えることができます.症状に乏しい状態の耐え難い不安は自殺を誘発しやすいのに対して,確固たる幻覚妄想症状を有する人の方が自殺の危険性が低いのと同様です pic.twitter.com/qyUPCIwDdj
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
Schizophrenie 患者が経験する裂け目は,否定存在論的穴が如何なるものかを我々が感じ取るために手助けをしてくれます.穴は不安を惹起します.不安は,そのままでは捉えどころのない穴の口が間近に開いていることを,我々に感知させてくれます.Freud も,不安は危険信号だ,と言っています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
穴を前にして不安におののくわたしに対して,穴の向こう側から,何かがわたしをまなざしてきます.何かがわたしに語りかけてきます.穴の向こう側に位置する何かの方が能動的であり,わたしの方は受動的です.何かはわたしに命令したり,禁止したりしてきます.わたしはそれに従わなければならない.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
わたしのことは,何かの側へすべて筒抜けになっています.何かは,わたしについて何もかも知っています.わたしの存在の真理に関する知 - 本当の意味での絶対知 - を,穴の向こう側の何かが知っており,掌握しています.何かのまなざしが,何かの声が,何かの絶対知を示唆しています.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
以上のような恐ろしい状況が,実は,我々の否定存在論的構造の真理です.穴の向こう側の何かは,我々にとってあたかも他であるかのように感ぜられますが,実は,何かの方が本当の我れであり,本当の主体です.それがあたかも他として現出してくる構造が,aliénation[異状]の構造です.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
我々が我々の自我や主観と思いこんでいるものは,本当の我れである何かに対しては,むしろ他です.以上のような aliénation の構造が普段は感知され得ないのは,何かの側が Schizophrenie においてほど強烈に自身を顕してこない限りにおいてです.しかし,実際には,穴は無気味な口を現に開いています
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
以上のような否定存在論的構造とそのトポロジーを,感知可能,触知可能なものとして説明するために,Lacan は,cross cap やボロメオ結びなどを道具として用いました.それらは,あくまで,否定存在論的構造について思考し,問うための道具にすぎません.本題は,否定存在論そのものの方です. pic.twitter.com/2nMtrVqTnn
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月14日
#精神分析 #ラカン #フロイト #ハイデガー
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
Bonsoir, mes amis ! 昨日,Schizophrenie において症状形成は,捉えどころのない裂け目を造形的に具象化することによって,それが惹起する耐え難い不安を,かろうじて耐え得るよう抑えることを可能にする,と述べた https://t.co/qLpzXXbq67 のに対して, pic.twitter.com/3qtwnvf2tE
@gomnori1 さん https://t.co/nK5MSu4K27 から,同じことが差別主義者らにおける憎悪対象の形成にも妥当すると御指摘いただきました.そのとおりです.Heidegger が Ge-Stell[総召集体制]と呼ぶ現代の存在論的構造に動機づけられた耐え難い不安を,彼らはそのような症状形成によってしのごうとします
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
《Ge-Stell=ドイツ語で台架・支持枠・骨組みなどの意》ドイツの哲学者ハイデッガーが、近代技術の本質を言い表すために用いた語。技術が人間を生産に駆り立て、その人間が自然を利用する強制的な徴発性を根源に持つ体制こそが、技術の本質であるとする。反近代主義者が拠り所とする事が多い主張。
Heidegger の「存在の歴史」において,Ge-Stell は Ereignis の一歩手前の終末論的な段階です.Ge-Stell においては,科学により分析可能(今のところ技術的に不可能でも,原理的に可能)であり,資本の増殖のために利用可能(今のところ技術的に不可能でも,原理的に可能)なもののみが存在事象です.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
Ge-Stell においては,自然事象も人間も,およそ存在事象すべてについて,科学的分析可能性と資本主義的利用可能性が存在事象の存在を規定しています.それ以外の規定性は,民族も,歴史も,精神性も,性的指向も性同一性も,まったく無価値です.つまり,徹底的に完成されたニヒリズムです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
今の日本社会は,Ge-Stell の極みです.ここまで Ge-Stell が極まった社会は,世界でほかに例がありません.ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の伝統が無く,仏教が優勢であったことが,ニヒリズムの完成を江戸時代までに十分に準備しました.明治維新以降,ニヒリズムは一気に完成に至りました.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
ニヒリズムは,共同体を崩壊させます.1945年までの日本社会は,全体主義によってそれを防いでいました.戦後は,経済的成功によって解体の不安はごまかされていました.経済成長がとまった今,終末論的な不安が急激に顕在化してきています.それに対する防御反応が,民族主義の強化と再全体主義化です
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
社会学的に民族差別,人種差別,性差別などとして現象する憎悪の対象の形成は,耐え難い終末論的不安をごまかして,辛うじて耐え得る不安に抑えるためのひとつの防御反応です.そのような病理学的事態を解消するためには,耐え難い不安に耐え得るようにするしかありません - 神の愛によって.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
神の愛によって終末論的な崩壊の不安に耐えること - 日本社会へのそのような「神の愛」の導入は起こり得るか?然りと答え得る者は,ほぼ皆無でしょう.しかし,ほかに手立てはありません.さもなければ,いつか人々はパニックに陥り,文字どおり,日本社会は崩壊するでしょう.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
パニックの引き金を引くのは,新たな大震災か,戦争か,移民労働者の問題か?いずれにせよ,社会崩壊を防ぐために日本政府がいくら全体主義体制を強化しても,結局は無効です.日本社会の運命は,今後数十年間にどれほど日本人たちがキリスト教を受け入れ得るかにかかっているのではないか,と思います
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
ほかに「視線恐怖」に関して御質問いただきました.それは,まさに客体 a としてのまなざしが惹起する不安です.多くのケースで,まなざしは,そのものとしては定位不能です.不安の程度もさまざまです.Schizophrenie の前駆症状であることもありますし,恐怖症だけが長年持続することもあります.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
eating disorder において視線恐怖がかかわっていると考えるのは,誤解です.彼女たちが目指しているは,理想的に痩せて見えることではなく,食べ物を剰余悦としては拒絶し,欲望不満足を維持することです.彼女たちは,「持っていないものを与える」こととしての愛を経験したことがないのです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月15日
#精神分析 #ラカン #フロイト #ハイデガー
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
Bonsoir, mes amis ! 今週は,Freud が発見した「無意識」を,人間存在の内奥に口を開く「穴」ないし「裂け目」として捉え直す Lacan のトポロジックな考え方を,Schizophrenie によく見られる声とまなざしの症状に準拠しながら解説してきました.
口を開いた穴や裂け目が不安を惹起し,それで困るなら,そんなものは塞いでしまえばよい,そうすれば安心だ,と思うかもしれません.しかし,それは不可能です.その不可能性を公式化するのが,Lacan の「性関係は無い」です.究極的な穴ふさぎである Urvater の phallus は不可能だ,ということです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
にもかかわらず,Urvater の phallus の如くに穴を完全に塞ぐことができるとうそぶくペテン師たち(Lacan は「ゲス」と呼びます)は後を絶ちません.また,そのようなペテン師にだまされる人々も後を絶ちません.彼れらは,むしろ,だまされたがってさえいます.その方が安心のような気がするからです
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
穴を塞ぐことができるふりをし得る者は「男らしく」見えます.それに対して,本当の父の機能は,穴を塞ぐことができるふりをすることではなく,而して,穴を,その口が開いたままに,支えることに存します.「男である」ことと,父の機能とは異なります.「男らしさ」と「父性」とは異なります.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
「男である」ことと,父の機能とは,異なります.だからこそ,Lacan は,性別の公式において,両者を厳密に区別しています.この図では,Lacan が提示している男の側の性別の公式を若干手直しして,「男である」を規定する賓辞を ΦI, 父の機能を ΦR と記してあります. pic.twitter.com/mrs7Y8u8fi
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
日本社会のなかで,家父長主義的ではない父性,「神の愛」を体現しているような父性を見出すのは希ですが,皆無ではありません.具体例をふたつ,紹介しましょう.ひとつは俳優の阿部寛氏の父親 https://t.co/VvTckDa6Pv もうひとつは同じく俳優の篠田麻里子氏の父親 https://t.co/MdvNpFmMgT です.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
いずれのケースでも,父親は必ずしも「男らしく」はありません.家父長主義的な父親のように威圧的に命令して服従させるのでもなく,子どもに対して無関心でもなく,而して,子どもをひとりの個別な存在として尊重しつつ,慈しみ深く子どもに寄り添い,子どもを支えています.自身の妻を愛してもいます
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
父の機能は生物学的な男性に,母の機能は生物学的な女性に帰せられる,というわけではありません.それらは生物学的なものではありません.母の機能は,子どもの誕生を質料的に支えることに存します - Jesus を生むマリアの役割です.それに対して,父の機能は spiritual です.聖霊の働きです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
日本社会で,家庭内で「父親」と呼ばれている男たちは,家父長主義的にふるまうか,または,家族や子どもに対して無関心であるか,どちらかのことが多いでしょう.本当の父の機能を果たすことができないのは,神の愛を日本人の大多数は識らないからです.父の機能は,神の愛の役を果たすことに存します
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
家族のなかで父の機能が不全であるとき,あるいは,母親自身が父の機能に支えられていないとき,母親は,子どもが空腹で泣き出したとき,その状況の不安に愛によって耐えることができず,空腹という欠如の穴を乳や食料という物質的な手段で塞ぐことしかできません.摂食障害の根は,そこにあります.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
Lacan が「愛とは,持っていないものを与えることだ」と公式化するとき,その愛は,神の愛のことです.欲望の昇華を可能にする愛のことです.そのような愛は,欲望の穴を剰余悦によってあたかも塞ぎ得たかのようにごまかすのではなく,穴が惹起する不安と苦痛に耐えることを可能にします.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
穴をその口が開いたままに支えることとしての父の機能が不全であるとき - Lacan の表現で言えば,父の名が閉出 (la forclusion du Nom-du-Père) されているとき -,父の名の代わりに,症状が穴のエッジの座に反復強迫的に増殖することになります - 父の名に代わって,穴を支えるために.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
今,日本社会のなかで際限無く増殖し続ける性倒錯的な諸現象とペテン師たちの存在は,父の機能の不全を代償する症状の反復強迫にほかなりません.性差別も,性暴力も,性的な搾取も,そうです.日本会議も,そのイデオロギーも,安倍晋三氏を始めとする日本会議の手先たちも,そうです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
問題を一気に解決し得るような処方箋はありません.日本社会のなかで神の愛の福音を宣べ伝えるという狂気と道化を続けること,そして,個別的に精神分析によって,症状的な異状から脱し,昇華へ至ることを助けること,可能なのはそのようなことです.
— 小笠原晋也 (@ogswrs) 2018年3月16日
なるほど…こういう考え方もあるんですね…それにつけても「神の愛の導入だけがヒトラー安倍とナチス自民党の陰謀によって「集-立(Ge-Stell)」システムそのものに成り果てた日本を救う」ですか…どうして少なからぬ部分の議論が比較的まともなのに、そういうトンデモな結論に?