諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【イングリッシュ・ペイシェント】時代の迷路に迷い込んで「何者でもなくなってしまう」物語について。

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関連情報をほじくってるうちに映画「イングリッシュ・ペイシェントThe English Patient、1996年)」の裏話みたいな面倒な話に出喰わしました。

この原作の主人公アルマシーには実在のモデルがいたということをつい最近知ったので、その人について書こうと思う。多少映画のネタバレになるので、映画を見てから読んでもらったほうがいいかもしれません。

細部を個々に取り出して見ると、全く共感できない登場人物たちの滑稽で哀しい物語になる。不倫したから飛行機で妻もろとも間男に突撃する??? 名前のおかげでドイツ人と間違われて洞窟へ戻れない??? あまりに滑稽なストーリー展開だが、時代背景に戦争を選んだり、部隊が北アフリカの砂漠だったり、その現実的で深刻な設定が下世話な不倫物語を壮大な恋愛至上主義のラブスト-リ-に昇華させたテクニックは秀逸だ。

その人物はアルマーシ・ラースロー・エデという人物で(ハンガリーでは苗字が前に来る。また原語での発音はアルマシーではなくアルマーシに近い)、1895年にオーストリア・ハンガリー帝国のボロスチャーンケ城(現在のオーストリア領内、ベルンシュタイン城)に生まれた。城に生まれたということから分かるように、彼はハンガリー系の貴族の家柄である。ただしアルマーシ家がベルンシュタイン城(現在は古城ホテルになっている)を購入したのは彼が生まれる3年前のことで、貴族といっても爵位はなかった。

古城に滞在する(ベルンシュタイン城)

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彼は少年時代にイギリスの航空学校に留学し、当時としては非常に珍しい(ライト兄弟が人類最初の動力飛行に成功したのは、彼が7歳のときである)、パイロットのライセンスを得た。そのため第一次世界大戦にはオーストリア空軍(イギリスとは敵方だが)のパイロットとして従軍している。

いろいろクドい話 » 航空機生産から眺める第一次世界大戦(1)

オーストリアハンガリーは大戦に敗れ、王家ハプスブルク家は追放され、オーストリアハンガリーも分離して領土の多くを失った。ハンガリー共産主義者と王制主義者の内紛が続く中、アルマーシはハプスブルク家最後の王カール1世のハンガリー王復位運動に二度加わったが、いずれも失敗した。このときアルマーシはカールにより私的に叙爵されたらしく、彼は伯爵を自称するようになった。

ハンガリーその後〜中世を旅する〜

アルマーシはオーストリアの自動車会社のハンガリー支店長になり、同時に多くのカーレースに出場して優勝した。またこの頃からエジプトに興味を持ったらしく、狩猟仲間と共にエジプトに狩猟旅行に出かけるようになった。1929年には自動車会社の宣伝も兼ねたエジプトでの砂漠レースに参加しており、これが彼のサハラ砂漠探検の最初となる。なお当時のエジプトはイギリスの保護下にあった。最初は趣味や自動車販売の宣伝を兼ねたエジプト探検だったが、やがて本格的な調査旅行を行うようになる。

サハラ砂漠(アラビア語: ﺻحراء ; ṣaḥarāʾ ; サハラーゥ、The Sahara、Le Sahara) - Wikipedia

元来アラビア語で「砂漠」「荒野」を意味する一般名詞だが、とくに北アフリカなどでは日常的にサハラ砂漠を指すことから、そのまま固有名詞としてヨーロッパの言語に定着した。アラビア語で明示的にサハラ砂漠を指すときには、「アッ=サハラーゥ・ル=クブラー」(アラビア語: الصحراء الكبرى; aṣ-ṣaḥarāʾ l-kubrā; 「最大なる砂漠」)などと呼んでいる。このように名称自体に「砂漠」の意味を含むことから、英語やフランス語では砂漠を意味する語(Desert/Désert)は添えず、単に The Sahara、Le Sahara と呼ぶのが正式である。 日本語では、慣用的に「サハラ砂漠」と呼びならわしている(つまり重言である)。大海原に例え英語圏ではグレート・サンド・シーとも呼ばれる。

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さほど鉱物資源の多い地域ではないが、それでもいくつかの大規模鉱山が存在する。

  • サハラでもっとも豊富で価値のある資源は石油である。とくに砂漠北部のアルジェリアリビアには豊富な石油と天然ガスが埋蔵されており、アルジェリアのハシメサウド油田やハシルメルガス田、リビアのゼルテン油田、サリール油田、アマル油田などの巨大油田が開発され、両国の経済を支えている。

  • ロッコ西サハラには燐酸塩が埋蔵されている。西サハラのブーカラーで採掘されるリン鉱石は全長約90km以上のベルトコンベアーで首都アイウンまで運ばれ、船に積み込まれる。この採掘は全域が砂漠の西サハラにおいて最大の産業となっている。

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  • 砂漠西部のモーリタニア北部、ズエラットには巨大な鉄鉱床が存在し、ここで採掘される鉄鉱石は近年大西洋沖合いにて石油が発見されるまでモーリタニア経済の柱となってきた。

  • 砂漠中央部、ニジェール領アーリットにはウランの鉱床があり、アクータ鉱山とアーリット鉱山の2つの鉱山が開発されて、ほかに見るべき産物のないニジェール経済の牽引車となってきた。

    日本のウラン探鉱の歴史 (16-03-04-02) - ATOMICA -

  • 北東部のリビア砂漠においては、リビアングラスという天然ガラスが埋蔵され、古代エジプト時代より宝石として珍重されてきた。

  • サハラ北部には砂漠のバラが多数存在し、土産物となっている。

歴史上においては、サハラでもっとも貴重な鉱物は塩であった。1030年ごろ、現在のマリの最北端にタガザ塩鉱が開かれ、サハラ交易の最重要拠点のひとつとなり、ここをめぐってモロッコのサアド朝がタガザの支配権を握っていたソンガイ帝国を滅ぼしている。タガザ塩鉱はこのころには枯渇していたが、その160km南にあるタウデニの塩鉱が代わって開かれ、現在でも重要な塩の産地となっている。タウデニから南のトンブクトゥまでは、現在でもラクダのキャラバンによって塩の板が運ばれていく。
マリ - タウデニ 21世紀の「塩のキャラバン」(2007年11月28日発 添乗員:澤田 真理子) -西遊旅行のツアー担当者の声
サハラ・タウデニの岩塩:アフリカ雑貨アザライ

サハラにおいてもっとも希少な資源は水であるが、サハラは数千年前までは湿潤な土地であり、そのころに蓄積された化石水が地底奥深くに眠っている。それに目をつけたのがリビアカダフィ大佐であり、1984年にリビア大人工河川計画を発表した。これはフェザーンキレナイカ南部の化石水をくみ上げてトリポリベンガジといった海岸部の大都市に供給するものであり、計画は一部完成して1993年にはベンガジに、1996年にはトリポリに送水が開始された。しかし、この化石水は現在の気候条件下では再生不可能なものであり、使用しきってしまえば一瞬にして無用の長物と化すため、浪費であるとの批判もある。また、地下帯水層の枯渇によってリビア南部のオアシスに重大な影響が出る恐れがあるなど、環境破壊の観点からも批判がある。

 1932年、探検資金出資者でもあるイギリス人ロバート・クレイトン卿、パイロットのペンダレル大佐、リチャード・バーマンと共に、伝説のオアシス都市ゼルズラ(13世紀の書物に言及され、サハラ砂漠東部にあったという)を目指し、エジプト・リビア国境砂漠地帯の探検に向かう。当時24歳のロバート・クレイトンが、小説の中でジェフリー・クリフトンとして登場し(映画ではコリン・ファースが演じている)、彼の妻キャサリンと主人公が不倫する設定になっている。なおこの探検はエジプトの王子にも支援されていて、自動車のT型フォードと飛行機を使った画期的なものだった。

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彼らはエジプト・リビアスーダン三国の国境が接するウウェイナト山で、先史時代の洞窟壁画を調査した。映画で「泳ぐ人の洞窟」として登場するこの洞窟自体は、以前から砂漠の遊牧民ベドウィンに知られており、既にエジプト王子により1921年に「ナショナル・ジオグラフィック」誌上で紹介されていた。先史時代のサハラ砂漠は緑に覆われており、キリンやカバ、船の壁画があることから、人が泳げるような川が流れていたと想像されている。またアルマーシは、彼らが発見したワディ・タルフこそが伝説のゼルズラ(Zerzura)であると主張した(異論もある)。アルマーシは案内のベドウィンたちにアブ・ラムラ(砂漠の親父)と呼ばれていた。

Zerzura(City of Dionysus) - Wikipedia

ナイル川沿いの古代エジプトの遺跡に近代的調査が入ったのはナポレオンの探検隊(1798年)ですが、初めて西砂漠に学術探検隊が入ったのはそれから75年後の1873年のことでした。ドイツの地質学者&冒険家であるフリードリッヒ・ロールフがエジプトのダクラオアシスからリビアのクフラオアシスまでほぼ真西に600kmほどの砂漠探検をしました。

ダクラオアシスを出た探検隊は、まずダクラから120〜130kmのRegenfieldという場所に立ち寄りました。ここで「Regenfieldに来のたでなければ本当の砂漠冒険家とは言えない」と宣言して、この場所に石塚を立て、彼の出版物にその場所を記したそうです。彼は砂漠探検のために持ってきた鉄製の水タンクを石塚の上に乗せ、目印としました(その鉄製水タンクは50年後にイスラム王朝のプリンス・カメルアッディンが砂漠探検に来た時にもまだその場所にあったそうです。今は石塚も水タンクも行方不明)。

ギルフキビールにたどりついたロールフ隊は、砂漠の真ん中に突如出現した巨大な砂岩の台地を調査しました。ギルフには数千年前の降雨によるものと思われる幾本もの枯れ谷(ワディ)がありました。風によって舞い上がった砂と水が10万年に渡ってこの巨大な台地を削り続けて現在の姿を作り上げました。そしてなんと彼らはギルフの頂上でアカシアの木やバラの木、蝶やハエなどの動植物を発見したと記録されています(放映はされませんでしたが今回のNHKの取材の際も、数日前に霧が発生したのか、ギルフで緑の植物が芽生えていた。と聞きました)。

スイマーの洞窟と呼ばれる、泳いでいるような人の岩絵を見つけたのは、ハンガリー貴族のアルマーシー・ラースローです。彼は「イングリッシュ・ペイシェント」のモデルとなった人物で、ギルフのワディ・ハムラとワディ・タルフの間に、伝説の都であるゼルゼラがあると信じて西砂漠探検に向かいました。

ゼルゼラの都は見つかりませんでしたが、「絵の谷」と呼ばれるワディスーラの洞窟を発見しました。ワディ・スーラは泳ぐ人(スイマー)の岩絵で有名ですが、紀元前8000年〜紀元前5000年頃に描かれたと思われる狩りの絵と、紀元前6000年から紀元前2000年頃に描かれた家畜の絵というように、一つの洞窟の中で描かれている岩絵の年代にかなりの開きがあります。その間4000年の間、ここに岩絵を描いた人々が住んでいたはずですが、住居跡も埋葬の跡もまだ見つかっていません(紀元前2000年頃というとエジプトでは中王国第11王朝の頃です)。

一体、壁画を残したこの砂漠の民はどこへ消えてしまったのか? 伝説の都ゼルゼラはどこにあるのか? それを見つけるのは、あなたかもしれない…

ところがこの探検は悲劇に終わった。出資者であるクレイトン卿が、調査中に砂漠蚊による急病が原因で死亡してしまったためである。なおクレイトン卿の未亡人ドロシー(24歳)は翌年夫の遺志を継いで砂漠探検に参加したが、同年イギリスに帰国した直後、原因不明の墜落事故で死亡しており、オンダーチェはこの事実に基づいてストーリー(アルマシーとキャサリンが砂漠探検中に不倫の恋に落ちるが、二人の関係に気付いた夫のジェフリーが二人を殺そうと飛行機で突入する)を設定しているようだ。

アルマーシはまた、スーダンでマジャラブと呼ばれる部族を発見している。彼らはイスラム教徒であり言語的にも風貌的にも全くアラブ人と変わらないのだが、祖先がハンガリーマジャル)人であるという言い伝えを持っていて周囲からも特別扱いされており、おそらく16世紀にオスマン帝国がエジプトを征服した際に従軍したハンガリー人部隊が土着したのだろうと推測される。

Magyarabok – Wikipédia

アルマーシは1934年にハンガリーでこの探検の見聞録を出版、1939年にはドイツ語訳が出版されている。砂漠の中での洞窟壁画発見というセンセーショナルなこの本は、ウウェイナト山周辺の記録としても貴重な文献となっている。なおこの本の中ではなぜかクレイトン卿の名前が出てこない。発見の名誉を独り占めにしたかったのか、それとも他に理由があったのか。

その後アルマーシはドイツ人民族学者レオ・フロベニウスらとサハラ探検を続けると共に、エジプトで飛行機操縦の教官として働いていた。ところが1939年に第二次世界大戦が勃発、彼は故国ハンガリーに帰国した。ハンガリーはイギリスの敵であるナチス・ドイツと同盟したため、イギリス支配下にあるエジプトに居られなくなったのである。

エジプトを含む北アフリカは、イギリスとドイツ(本来はイタリアの助太刀に過ぎないのだが)の戦場になった。エジプトの地理に通暁するアルマーシを、ドイツが放っておくはずがない。ドイツ軍防諜部は彼をスカウトし、アルマーシはハンガリー空軍予備役将校の身分でドイツ空軍に属し、ドイツ・アフリカ軍団に加わった(彼はナチスの信奉者ではなかったが、映画の設定よりも能動的にドイツに協力したようだ)。ワディ・ハルファにあったクラブ・ゼルズラの仲間たちはイギリス軍の将校となったので、アルマーシは旧友たちと敵同士になった訳である。

彼の活動は明らかにされていないが、ドイツ軍がハンス・エップラー他一名をサハラ砂漠経由でエジプトにスパイとして送り込んだ「サラーム作戦Operation Salaam)」に、彼が関与したことは明白だとされる。ドイツ・アフリカ軍団の司令官エルヴィン・ロンメル将軍がアルマーシに鉄十字賞を授与したことからも、彼の活動が想像できる。

ビル・アケムの戦い(Battle of Bir Hakeim、1942年) - Wikipedia

1943年にドイツ軍は北アフリカから一掃され、アルマーシはハンガリーに戻った。バルカン半島諸国に駐在していたらしい。戦争末期、ハンガリーがドイツに対し抵抗を始めると、アルマーシはイギリス軍情報部に情報を提供していたようである。1945年にドイツは降伏、祖国ハンガリーソ連軍に占領された。

ユダヤ人レジスタンス

ドイツ軍の占領下にあったか、ドイツと同盟関係にあった多くの国々では、ユダヤレジスタンスは主に支援活動や救援活動を行いました。 1944年、パレスチナユダヤ人機関はひそかにハンナ・セネシュなどの落下傘部隊をハンガリースロバキアに送り込み、潜伏中のユダヤ人を支援しました。 フランスでは、ユダヤ人の地下活動のさまざまな分子が集合してさまざまなレジスタンスグループを形成しました。これにはフランス南部で活動を行ったユダヤ人軍隊(Armée Juive)などがあります。 多数のユダヤ人が、ベルギー、フランス、イタリア、ポーランドユーゴスラビアギリシャスロバキアで国民レジスタンス運動のメンバーとして戦いました。

戦後アルマーシはドイツ軍の協力者としてソ連軍に逮捕され投獄された。まもなく釈放されたが、故国ハンガリーではソ連の後押しで共産主義政権が樹立された。アルマーシは馴染みのエジプトに渡って自動車会社のポルシェ社駐在員として働いたが、以前のように砂漠探検をする資金も気力も残っていなかった。そしてオーストリア滞在中の1951年に赤痢に罹り、ザルツブルクの病院で死去した。享年56歳。1995年、ハンガリー民族主義者がザルツブルクにある彼の墓の墓碑を新調したが、そこには「パイロット、サハラ探検家、ゼルズラの発見者ここに眠る」と記されている。

時代の迷路に迷い込んで「何者でもなくなってしまう」人間の物語…公開当時は当時は「地雷怖い。誰でも吹っ飛ばす」ホラー映画の一種として鑑賞したものですが、それだけではアプローチとして浅かった?
*「地雷怖い。誰でも吹っ飛ばす」ホラー映画…「ヒッチャー(The Hitcher、1986年)」並みに「え? このタイミングでこの人が?!」という感じでポンポン粉々に…