諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【アドラー心理学】【カール・シュミットの政治哲学】同時代ゆえの思わぬ問題意識の共有

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精神分析」なるジャンルを創始したオーストリア精神分析学者ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年〜1939年)ほど「弟子達の叛逆」に悩まされた創健者は珍しいかもしれません。要するに師匠が権威主義的であればあるほど、その死後における弟子達の「脱却の為の努力」もまた激しいものとなるのです。
*そういえば日本のアニメ界にも…いいえ、気のせいです…

同じオーストリア出身の精神分析学者アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、1870年〜1937年)もまた、フロイトのいうエディプス / エレクトラ・コンプレック状態は「甘やかされた子供」においてのみ見られるとしました。

ここでいう「甘やかされた子供」とは「他人は操作したいが自分は変えたくない、完璧な自由は欲しいが責任は取りたくない、過程は面倒くさいが輝かしい結果だけは欲しい。そのような自分の幼児性に気付いていない身体だけの大人」を指す。

こうした人格が形成される発端は「外界一般に対して自己の立場を相対化する)承認 / 賞賛(anerkennen)能力」を中心にその個人独特の世界観を構築する「承認共同体感覚(Mitmenschlichkeit=ミットメンシュリッヒカイト」の欠如で、そういう人物は自らの人生に「私的意味付け」しか与え得ず、自分にだけしか関心を向けず、自分の得になることだけを目的として生きていく事になるという。

考えてみれば同時代を生きたドイツの政治学カール・シュミット(Carl Schmitt、1888年〜1985年)の政治哲学もまた「政治的なるもの(Der Begriff des Politischen、1932年提唱)」が客観的公共性からでなく私的義憤からしか出発し得ないとしている点において随分危ない橋を渡っているのです。
*ここでいう「危ない橋」とはもちろん「究極の自由主義は先生の徹底によってのみ達成される」なる「たやすく絶対主義へと転落する」自由主義のジレンマの事。

*1930年代の大日本帝国においても自由主義のこうした側面を恐れ右翼(軍国主義者)と左翼(社会主義者)がある種の共闘体制を敷いており「独裁者に対する全権委任」なる最悪の事態だけは免れた。じゃあ大日本帝国が一番うまく立ち回ったかといえば溜息しか出ないのが当時各国を見舞った国難の大きさを物語っているともいえる。 

  • シュミットは選挙で選ばれた議員それぞれは所詮「地主や砂糖大根栽培農家や商店街などの利権を代表するだけの烏合の衆」に過ぎず、そんな輩に政治は任せ得ないとして議会制民主主義を批判した。
    フローベール感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」によれば2月/3月革命(1848年〜1849年)後のフランスにおいても同種の問題提起があり、これが第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)登場を容認する空気の醸成につながっていったという。

  • シュミットによれば「純粋に政治的なるもの」の追求とは、単なる美学性や道徳性や合法性や経済性それぞれの追求を超越した「敵友原理」すなわち(個人的な感情発露や心理的表現、経済上の競争を超越した存在的他者・異質者への排斥原理に立脚する)敵と(これに対抗すべく団結し同化を果たしていく)友の区別から出発しつつ、最終的には国家そのものに対してのみ直接責任を負う「例外状態Ausnahmezustand)」を現出させるプロセスなのである。
    カール・シュミットのこの説については、多くの論客が国際的にナチスの授権法(Ermächtigungsgesetz、1933年)と結びつけて語りたがる事で知られる。

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    *しかし実際に念頭にあったのは「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」ビスマルク( Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年〜1898年)ではなかったか。復古王政時代(1814年〜1848年)のドイツにおいては既存身分制を疑う一切の思想が「反体制」の烙印を押されて弾圧されていたが、ビスマルクは(収入制限選挙制に胡座をかいて議会を私物化し、既得権益墨守に都合の良い地方分断状態の維持に汲々としている)インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層に対抗すべくドイツ臣民の汎スカンディナヴィア主義(英Scandinavism、典Skandinavism、丁Skandinavisme、ノルウェー語Skandinavisme)への対抗意識や反仏感情を煽り、その一方でラッサールら社会主義者を巻き込んで「福祉国家」のビジョンをまとめ上げていく。逆をいえばこうした展開のあった19世紀後半以前のドイツ庶民がナショナリズム民族主義)に熱狂する情景そのものが存在していなかったとも。

  • そしてこうした立場からシュミットは社会民主党SPD)がドイツ義勇軍(Freikorps=フライコール)を招聘してスパルタクス団蜂起(Spartakusaufstand、1919年)を暴力的手段によって鎮圧しても「(議会に立脚せずに大統領の緊急令をもって政治を行う大統領内閣」の時代に入ってもあくまでこれを擁護し続けたのであった。
    カール・シュミット自身は別に共産主義民主集中制スターリニズム、さらには国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、NSDAP)の指導者原理(De Führerprinzip)そのものを擁護した訳ではなかったが、後世には「両者は本質的に同じもの」なる指摘も登場してくる。確かに否定は難しい。

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    ドイツ共産党(Kommunistische Partei Deutschlands、KPD) - Wikipedia

    1929年に勃発した世界恐慌による不況が深刻化したドイツではヴァイマル共和政に対する失望が高まり、共産党が下層階級を支持基盤に急速に勢力を拡大させ、世界でも有数の共産主義政党へと成長した。
    共産党の宣伝手法、特に壁を埋め尽くすポスターなどのインパクトや整然とした行進を行う警備部隊“赤色戦線戦士同盟”など視覚的なプロパガンダには優れたものがあり、後の国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが賞賛したり、社会民主党の“国旗団”と並んでナチス(突撃隊など)が真似したりしている。

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    ドイツ共産党ヴァイマル共和政ヴェルサイユ体制打倒を旗印に、ベルリン・ハンブルクなど大都市を牙城に勢力を伸ばした。

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    ところで当時のドイツ共産党コミンテルンの指示のもと社会民主主義を敵視する社会ファシズム論へ傾いていたこともあり、社会民主党打倒という点でナチスとは協調路線をとっていたのである。

    • 1932年1月、コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチス社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べ、これを受けて共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べている。このため共産党は議会では法案の提出(例:パーペン不信任案)・反対動議をナチス等と共同で行い、大規模な交通ストライキを協力して組織する等、共闘することも多かった。この間にナチスは保守層からの支持と資金を有効に使い共産党以上に勢力を伸張させ、1933年1月30日のヒトラー内閣成立へと至るのである。
      平安時代末期、朝廷の公卿達が内紛解決の手段として武家捨て駒に使ううち、やがて彼らにイニチアシブを握られ武家政権まで誕生してしまった経緯と似ているとも。そもそも全ての発端が社会民主党の「人殺しノスケ」がスパルタカス団蜂起(1919年)鎮圧の為にフライコール(Freikorps=ドイツ義勇軍)を招聘した事にあった事を忘れるべきではない。

    • ヒトラーは首相に就任すると議会を解散し選挙を行った。そして選挙期間中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生し、共産党の犯行であるとして党は解散させられてしまう。当時の議長だったテールマンは国会議事堂放火事件直後の3月3日にベルリンの自宅で逮捕され、11年間裁判抜きで拘束された後、ブーヘンヴァルト強制収容所で1944年8月17日に処刑された。選挙の結果、共産党は81議席を獲得したが、ナチスによって全員が逮捕され、あるいは逃亡・亡命を余儀なくされたのである。
      ヒトラーが目論んだ全権委任法成立には総議員の2/3の出席と、出席議員の2/3の賛成を必要としたが、ヒトラー内閣与党は2/3に足りなかった。そこで、ヒトラー政権は議院運営規則を改め、無届けの欠席は出席したものと見なすことができるようにした。その上で共産党議員を全員逮捕することで、「無届けの欠席をした」ことにしたのである。

    3月23日に全権委任法が成立した後、共産党は3月31日に制定された『州と国家の同一化のための暫定法律』によって結社禁止となり、国会・地方全ての議席を剥奪された。指導者たちはフランスやソ連等の国外に亡命するかドイツ国内で投獄されることになった。

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    • ソ連に亡命した者も、レンメレ、フーゴ・エバーラインら大多数がヨシフ・スターリンによる大粛清によって処刑されたりグラーグへ送られるか、独ソ不可侵条約締結後にドイツに引き渡された(生き残れたのはスターリンに追従したヴァルター・ウルブリヒト、ヴィルヘルム・ピークら極少数だった)。

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    • またナチスによる全権掌握後、ドイツ国内に残った一般党員の多くは弾圧を恐れてナチスに偽装入党するか、あるいは党員歴を隠蔽して一般市民として生活するかの道を選ばされたのある。

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    第二次世界大戦後に一時復興したが、西ドイツにおいては1956年に連邦憲法裁判所から禁止命令が出されて解散させられた。東ドイツにおいては、終戦後の1946年に社会民主党と合併し、社会主義統一党となっている。
    *日本でも多くの社会主義者が「転向」を経験しているが、戦後には「共産主義者だけが大日本帝国軍国主義化に抵抗した唯一の良心だった」なる神話が流布される様になる。西ドイツの場合は両者の接近があまりに露骨だったのでそうした欺瞞が流布する余地など一切なかったとも。

シュミットが本当に言いたかったのは、実際にはおそらくこういう事なのです。

  • ゲルマン諸族の部族連合段階の自然な延長線上に現出した「例外状態」の存在しない普遍的分権状態たる)中世から(国王を頂点に頂く官僚制が全土を超越的に均質に統治する「絶対王政」の登場を特徴とする)近世への移行は、英国においては薔薇戦争(Wars of the Roses、1455年〜1485年/1487年)における大貴族連合の自滅と「絶対王政テューダー朝(Tudor dynasty、1485年〜1603年)の開闢、フランスにおいては「公益同盟戦争(1465年〜1477年)」や「フロンドの乱(Fronde、1648年〜1653年)」における貴族連合の自滅とブルボン朝(dynastie des Bourbons、1589年〜1792年)の絶対王政化によって達成された。要するにそれは「例外状態」樹立に成功した勢力の、それに失敗した勢力の勝利だったともいえる。
    *そもそも英国の王統は「フランスの家臣」状態から出発した。

    *そして神聖ローマ帝国からイタリア王国ドイツ帝国が独立した様に複雑怪奇な「独立戦争」を経てやっと国境線が定まったのである。

    *英国においては貴族主義こそが責任内閣制や議会制民主主義の起源となったが、フランスにおいてはあらゆる変化に先立って貴族と庶民の境界線こそがまず揺らがねばならなかったのである。それを可能としたのは皮肉にも外交革命(独 Umkehrung der Allianzen, 仏Révolution diplomatique, 英Diplomatic Revolution、1756年)と呼ばれるフランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家の歴史的和解がもたらした対外戦争の終焉であり、実際にそれが本格的に進行したのは(フランスから王侯貴族や聖職者を撲滅しようとして失敗した)フランス革命期(1789年〜1799年)というより(王侯貴族や聖職者の一部がブルジョワ化に成功する一方で残りが没落して庶民に混錯した)七月王政期(1830年〜1848年)だったのである。

    *英国においては「ジェントリー階層のメンテナンス(要するに新規参入の容易さと、適応失敗者の庶民落ち)」のサイクルがフランスより上手く回っていたので、さらには(多くの国では地主の利権を代表する政党に止まる)保守党が保守的な労働者や女性の票を集めて選挙権拡大運動を乗り切っている。実際にはこういう形での「例外状態」の創出もある訳である。

  • しかるに神聖ローマ帝国アウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)以降、こうした歴史的流れに逆行する領邦国家化をひた走り続けたのである。

    さらには(純粋な国家間の衝突だった)第一次世界大戦(1914年〜1918年)を経てオーストリアハンガリー二重帝国(1867年 - 1918年)も遂に解体されたというのにドイツにおいてはロシア革命(Российская революция / Russian Revolution、1917年)によって誕生したソビエト連邦を建前通り「英国やフランスを見習って中央主権的であろうと画策し続け帝政に対する神聖ローマ帝国的分権体制=ソビエト(Совет= 主として自然発生的にボトムアップ式に形成された労働者・農民・兵士の評議会 / 理事会)連合の勝利」と評価し、これを見習うべきと提唱する役立たずのロマン主義集団、すなわちスパルタクス団(Spartakusbund、1915年〜1918年)残党や「革命的オプロイテ(revolutionäre Obleute、1917年〜1933年)」といった無政府主義勢力が暗然と勢力を保っている。こんな調子ではドイツは何時まで経っても成熟した近代的中央集権国家には発展し得ない。
    *彼ら無政府主義者コミンテルンソ連に忠誠心を捧げるドイツ共産党にとっても「厄介な御荷物」だったので、ナチスが暴力的手段を用いてその殲滅に手を染めても黙って傍観していただけだった。そして気がついたら勢力を逆転されており「背後からの一突き」によってあっけなくトドメを刺されてしまうのである。しかも歴史のその時点においては既にドイツ人の共産主義への共感は完全に消え失せてしまっていたのだった。

  • もちろん実際のソ連は「ロシア全土に分散するソビエトの分権統治体制」どころか(帝政時代より遥かに巧みに)レーニン率いるボルシェビキが提唱する民主集中制(Democratic Centralism)もしくは権力集中制(Concentration of Powers)に立脚する中央集権的国家へと移行していったし、しかも「(大日本帝国の様な絶対主義化への警戒」が不十分だったせいでそれは「スターリニズム」へと転落してしまう。そして互いを「」認定してきたスターリンソ連ヒトラーナチス・ドイツは、その立場ゆえに不可避的に最終決戦へと突入していく。

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    *「スターリニズム(Сталинизм、1924年〜1953年)」…1924年から1953年までソビエト社会主義共和国連邦最高指導者を務めたヨシフ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин, 1878年〜1953年。一般に彼の「姓」として広く知られる「スターリン」なる呼称は「鋼鉄の人」を意味する渾名。英国清教徒革命の指導者「護国卿」クロムウェル(Richard Cromwell, 1626年〜1712年)が「Old Ironsides」、ドイツ帝国建設の立役者ビスマルク侯爵(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck-Schönhausen, 1815年〜1898年)が「鉄血宰相(Eiserne Kanzler)」と呼ばれていたのとほとんど大差がない)の発想と実践の総体で、指導者に対する個人崇拝、軍事力や工作活動による暴力的な対外政策、秘密警察の支配を背景とした恐怖政治や大規模な粛清などを特徴とする全体主義を指す。また、それに通じる思想・体制である。スターリン自身は当人はマルクス・レーニン主義と呼んでいた。欧州絶対王政同様に流出論的に「国民感情の純粋な形での顕現たる国王そのものの判断は無謬だが、臣下にそれが伝わる過程で誤解が累積し政治的間違いが犯される事もある(国王そのものが「国民感情の純粋な形での顕現」といえなくなり調停者としての立場を喪失する場合も含む)」と考えるのが特徴。

    *ここで興味深いのはカール・シュミットが敵友理論の「敵」について「必ずしも無理して倒す必要がないばかりか、逆に倒し切ってしまうと致命的結果を産む事もある。例えばそれが絶対に倒し切れない事によって味方の団結や同化がかろうして維持されている状況がこれに該当する」と指摘している点。ある意味冷戦や反差別運動には確実にそういう側面が存在し「ナチ曽根倒せ」運動の延長線上に現れた「安倍死ね」運動もこれに該当するとも。

  • 一方、この頃既にナチスドイツから見放され在野に降っていたカール・シュミットは「陸の国(欧州再統一に成功したナチスドイツ)と海の国(対抗馬として残った英米)は最終決戦を戦う事になる」なる歴史観に熱中していた。
    *結局のところ彼の政治哲学は終始「政局を主導する道具」でなく「現状を肯定する装飾」として機能し続けたに過ぎなかったとも。

  • それでもシュミッツの政治哲学は国家間の競争が全てだった総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)や、製品生産企業やマスコミが「総力戦体制」の衣鉢を継承しようとしていた産業至上主義時代(1960年代〜?)には「不可避の闘争」を継続する為の根源的イデオロギーとして相応の敬意を払われ続けてきた。

    *しかし2010年代に入ると「権力と反権力の二項対立」なる構造自体が時代遅れに感じられる様になる。70年代の邦画でよく描かれた「怒鳴る」「泣く」「殴り合う」「貧乏」「エロ」が「人間らしい」と容認された雰囲気の消失…まさしくアドラー心理学でいう「承認共同体感覚(Mitmenschlichkeit=ミットメンシュリッヒカイト)の欠如から、自らの人生に「私的意味付け」しか与え得ず、自分にだけしか関心を向けず、自分の得になることだけを目的として生きてきた人々」が居場所をなくす時代…

 こうなると「アドラー心理学カール・シュミットの政治哲学の同時代性」は、さらに掘り下げて考えてみなければならなくなります。

  • どうして「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」と宣言したカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスの共著「ドイツ・イデオロギー(Die deutsche Ideologie、1845年〜1846年、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された)は、その記述の多くを青年ヘーゲル派を代表する哲学者の一人マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年〜1856年)の「いかなる人間的共通性にも還元不可能な「移ろいゆく自我(das vergängliche Ich)以外の一切のものを空虚な概念として退け、その自己が自らの有する力によって所有し、消費するものだけに価値の存在を認める徹底したエゴイズムを軸とする哲学」への反駁に割かねばならなかったのか。
    マックス・シュティルナー(Max Stirner, 1806年〜1856年)

  • どうしてマルティン・ハイデッガーMartin Heidegger、1889年〜1976年)は、実証主義科学や技術発展の様な「集-立Ge-Stell)」すなわち「特定目的の為に持てるリソース全てを総動員するだけの強制力を有するシステム」が内包する「危険英Danger、独Gefahrそれ自体」一切に背を向け、自らの主観世界にのみ関心を集中させて「観念的な心象の自然描写」を生み出し続けた詩人ヘルダーリン (Johann Christian Friedrich Hölderlin, 1770年〜1843年)に「真理(Aletheia)のみが備える開示作用」の顕現を見たのか。

  • こうした「あくまで純粋に主観性を追求せんとするインナーワールド探索姿勢」と、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856年〜1939年)が指摘した「自ら自分自身に対して隠した嘘の露見を恐るあまり、自己実現の成功に躊躇し続ける神経症的撞着状態」はどう関係してくるのか。

鍵を握るのは恐らくアドラー心理学でいう「承認共同体感覚Mitmenschlichkeit=ミットメンシュリッヒカイト)」と対を為す「共同体側からの個人の内面に対する影響力」の多様性と多態性カール・シュミットの政治哲学は、あくまで「そちら側には常に承認共同体感覚が欠如してる」事を前提としてそうなのですが、この考え方が限界を迎えつつある今日、ならば「次なる一手」はどういう形が相応しい事になるのでしょう?

生政治(Bio-politics) - Wikipedia

ミシェル・フーコーが提案した支配概念。現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、市民一人ひとりが心から服従するようになってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。これを「政治学Bio-politics)」という。
バイオポリティクス:Biopolitics and Anatomo-politics

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  • フーコーの著書「監獄の誕生―監視と処罰(Naissance de la prison, Surveiller et punir、1975年)」の中で言及される主要な概念のひとつで、この例を示すために、「パノプティコンPanopticon)」の例がよく使われる。
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  • 近代国民国家の支配の方法として、法制度といったものを「外的」に制定するだけではなく、法制度を「倫理」として各個人の「内的」な意識レベルまでに浸透させるようになってきたと説明する。

  • こうして支配が各個人の倫理レベルにまで及ぶとする一方、その支配に対する「抵抗」もまた同次元で展開する様になったとする議論を「性の歴史(Histoire de la sexualité,、1976年〜1984年、著者死去により未完)」で展開。西洋社会の人間が自分たちを性的存在として理解するようになる諸段階を追究し、性的な自己概念を個人の道徳的・倫理的な生活に関係づけた。

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これまでの集団主義的、マルクス主義的な社会運動とは違う個人の意識をより尊重する事を主張するポストマルクス主義や新しい社会運動、さらにはゲイ・レズビアン運動といった主義や運動に存在根拠として言及される事もある。

ここで鍵を握るのはむしろ「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の行動主義とも。