諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「戦前最大のマルクス主義理論家」戸坂潤も正体はネトウヨ?

最近、1930年代日本で右翼(軍国主義者)と左翼(社会主義者)が揃って「(容易く絶対主義に陥るが故にすぐ大衆から見捨てられてしまう自由主義」を叩いた事が何を意味するかについて改めて考察を迫られています。

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青空文庫では、当時におけるマルクス主義思想界の重鎮だった戸坂潤の著作がまとめて読める。フランス民族主義やドイツ民族主義に毒された歴史観から距離を置く為にも一通り目を通しておく価値があるし、良い意味でも悪い意味でも「自然哲学がもたらした美しい世界観を実際の社会で実践するという事が何を意味するか」が(科学的マルクス主義だけでなく)当時の社会学全体の主要テーマであった光景が浮かび上がってくるのである。
作家別作品リスト:戸坂 潤

 戸坂潤 「現代唯物論講話(1938年)」

近世的な自由概念はルネサンスに始まると見るべきだろう。イタリヤの商業資本主義の発達につれて、商業都市の隆盛をきたし、そこにいわゆる古典文芸の復興の物質的地盤が用意されたが、そればかりではなくこの初期資本主義によって個人=個性の自覚もまた発生した。かくてメジチ家その他の紳商によって、芸術家が養成されることになり、従来のギルドの徒弟上りに過ぎなかった工人の位置に芸術家が代って就くことになったのである。芸術家は自分自身の個性に従って、制作・創造・の活動をするが故に、もはや単なる工人ではないのである。われわれはここに近世的な自由概念の故郷を見ることが出来る。
*マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(1979年)」はむしろレオナルド・ダ・ビンチやラファエロミケランジェロの個人的才能より、経済的に追い詰められたヴェネツィアが苦肉の策として産み出した「携帯可能な小型書籍(グーテンベルグが印刷したのは教会に常設される効果な巨大本)」「観光の目玉としてのオペラ上演(フィレンツェでは古代ギリシャ悲劇の再現が試みられただけ)」「土産として売られるキャンバス絵画(東欧のイコンを真似て発明)」などに「経済的にパトロンに全面偉人せざるを得ない状況からの芸術家の解放」の端緒を見る。

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自由は個性に基く独創的な生産活動を意味している。これはもはや決して消極的な、何ものかからの非生産的な自由ではない。ここでこの自由は、ダ・ヴィンチミケランジェロ、或いはボッカッチョにおいて見受けられるような、芸術的創造の自由またはロマン的自由に他ならぬ(ロマンは俗語(ロマンス語)による世俗人情的物語で、浪漫主義の歴史的起源をなす。デカメロンが典型的なロマンスであることは人の知る通りだ)。この自由の特色は遥か後になって、ドイツ浪漫派哲学者のシェリングの初期の思想の中心をもなしている。世界を構想(想像・幻想)する自由、自我の内から世界を出し、又世界の随処に自我を見る自由がこれだ。
ナポレオン戦争以降、却って王侯貴族や聖職者が一切の自由主義的思想の発展に恐怖してその片鱗が垣間見えるだけで弾圧を遂行する様になった王政復古期(1814年〜1848年)のドイツ語圏においては「個人の内面的自由」のみをひたすら追求するヘーゲル左派、古典的ロマン主義文学、(軍人や官僚の命令には絶対服従する一方で一切の抽象的思考を軽蔑し個人としては五感で味わう官能的快楽への追求に耽溺した)ビーダーマイヤー(Biedermeier)文化などが栄えた。

*「五感で味わう官能的快楽への追求への耽溺」…しかしフランスにおいてはこれがポルノグラフィ論争に発展する。「芸術は聖書や神話を題材とする高尚な分野においてのみ許される」「資本主義的発展がもたらす貧富格差の拡大や、その一環としての売春問題や外国人労働者問題には一切口を出すな」なる決めつけが、芸術家側の目には「表現の自由」の侵害と映ったからだった。

近世的自由はただし何よりも民主主義のものであることを忘れることは出来ぬ。政治的自由として、近世的自由の内容が積極的になって来たのは、いうまでもなくフランス大革命を契機としてであり、ルソーの所謂『民約論』に於ける主権の概念に結び付いてである。ルソー自身、浪漫主義の端初をなすといわれるが(物語『新エロイーズ』)、そうすればロマンス的・芸術的な・個性の自由が、ここで政治的な市民の自由へ結び付いたといっていいかもしれない。
*概ねフランス人はフランスの歴史に沿ってしかマルクス主義について語り得ず、ドイツ人はドイツの歴史に沿ってしかマルクス主義について語り得ない。両者からこうも無邪気に「ええとこどり」してくる辺りに戸坂潤の面目躍如があるとも。しかもそこでの「無邪気な指摘」は引用されたフランス人にもドイツ人にも等しくダメージを与える毒を含んでいるのである。
むすんでひらいて - Wikipedia


フランス革命軍兵士やナポレオン軍将兵が合唱しながら突撃する景色が脳裏に…


*まぁサム・ペキンパー監督映画「戦争のはらわた(Cross of Iron、1977年)」の影響は色濃く受けてます。♪ちょうちょ、ちょうちょ、なのはにとまれ〜

シェリングにおける自由は、その「人間的自由の本質に就いて」においては、もはや個性の自由ではなくまたなおさら政治の自由でもない。人格の倫理的自由が、ここでは人間の宗教的自由にまで押し進められているのである。自由なるものの興味は、他からの強制を否定する自己原因的な自律の内に存するよりもむしろ、完全に無原因なアービトラリネス(arbitrariness、恣意性)の内に、すなわち悪をさえなし得る自由の内に見出される。これは神学的自由である。懐古的な小ブルジョア反動分子のイデオロギーであるロマンティークの行きつく処は、文学的には中世的カトリックへの憧憬であったが、哲学的には神学へ赴かざるを得なかったのである。
*はっきりいって「敵友識別感覚の鋭敏化」や「(それに伴う)例外状態の顕現」を理想視したカール・シュミットの政治哲学と重なる部分がないとはいえない。

  • 例えば小津安二郎の「小市民映画」が揃って叩かれてたりしているので、それまであまり良い印象はなかった。

    *アメリカにおいてすら米国共産党の躍進やフランク・キャプラ監督の「(社会問題に鋭く迫らない能天気過ぎる)スクリュー・コメディ」への批判があった。

    *この問題、日本では戦後に松本清張が主導した「社会派ミステリー」台頭による既存推理小説業界の崩壊とも密接に関連してくる。

  • とはいえ(それが当時の大日本帝国にとって良い事だったのか、悪い事だったのかはともかく)こうした努力がソ連スターリニズム国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP=Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の指導者原理の上陸を未然に防いだ事実は動かない。

    *「戦艦ポチョムキン(露Броненосец «Потёмкин»、英Battleship Potemkin、1925年)」において「大衆を平気で虐殺する政権は容赦ない反撃で滅ぼされる」なる「神話」の映像化に成功したソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン監督は皮肉にもその結果、スターリンに気に入られて「正しい統治者もしばしば大虐殺を遂行するが、これは当然の如く許される」なる情景の映像化を迫られたが遂に最後まで成功せず見捨てられてしまう。
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そして欧米においては(共産主義圏において様々な次元で展開したモラル・ハザードの進行を背景に)1970年代以降、改めて「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマとの対峙が改めて重要な課題として浮上してくるのですが(国家間競争が全てとなった)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の衣鉢を継承する日本の商品供給企業やマスコミはこうしたトレンドから完全に取り残されてしまった様なのです。

*日本の商品供給企業…産業至上主義時代(1960年代〜?)が始まった時点ではマスコミと二人三脚状態だったが、気付くとマスコミは一切の経済活動から孤立して独自の道を歩む展開に…どうしてそうなった?

既に「これは絶対悪たるヒトラー安倍とナチス自民党を倒す為の聖戦だから、反対する非国民が遺伝子的欠陥を地上から除去し尽くす為に一族郎党すべて絶滅収容所送りにされて真の平等社会が訪れるまで戦いは終わらない」なる領域に入ってますね。 それはまさに、スターリニズムが最終的勝利を勝ち取っていく過程、そしてかつてヒトラー率いるナチスとドイツ共産党が共闘して「如何なる手段を尽くしても倒すべき絶対悪たる社会ファシズムドイツ社会民主党SPD)を葬り去ったプロセスそのものだったのです。

さて、最終的に生き延びるのは読者や視聴者なのか、それともマスコミ?  まぁこういう投稿ばかりしてるから「やっぱりお前の正体はネトウヨじゃないか!! どこが左翼なんだ?」なる指摘が絶えない訳なんですが…