諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者】「スイス人の現実軽視」が築いてきた恐るべき死体の山

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スイス500年の平和は鳩時計しか産まなかった」なる言い回しも存在しますが、その実、日本に「ヴェネツィアの郷土料理にそのヴェネツィアの宿敵だったジェノヴァ海将の名前を冠した料理」を広めたスイス人による「現実軽視の姿勢」はむしろ無数の流血沙汰を引き起こしてきたのです。

 ①そもそもマリニャーノの戦い(1515年)においてフランス国王フランソワ1世に敗北し、傭兵業や(欧州全土に事務所を設置してきた強みを利用して)金融業界に進出するまでは無制限に隣国を併合し続ける軍国主義大国だった。
*当時のスイスは中央集権的組織を有さず、各カントン(地方行政区)」がそれぞれ勝手に傭兵派遣や戦争遂行を采配。かくして日中戦争や太平洋戦争において大日本帝国の陸軍と海軍が競い合う様に戦線を拡大していった様な情景が現出する事に。

ギャルド・スイス (Gardes suisses、1616年〜1792年) - Wikipedia

フランス国王に仕えたスイス人の歩兵連隊の名称。

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  • スイス衛兵連隊は17世紀初頭に創設されたものの、歴代のフランス王は以前からスイス人兵を雇用していた。ルイ11世は講師としてスイス人兵をフランス陸軍に入隊させていたし、1481年以降彼は自らの近くに警備兵としてスイス人をおいていた。スイス人兵たちは、1476年のグランソンの戦いとモラの戦いでその名を知らしめた。

  • ルイ11世の後継者であるフランソワ1世は、ミラノ公国との戦いを再開した。ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァは領土防衛のためにスイス人兵を雇っていた。1515年のマリニャーノの戦いでフランス軍とスイス人兵は対峙した。フランス騎兵隊の攻撃に勇敢に抵抗したあと、スイス人兵は敗退した。フランソワ1世はこうしてミラノ公国を再征服した。

  • マリニャーノの戦い後、1515年11月29日のフリブールで、フランスはスイスとの条約に署名した。これは1792年のフランス王制廃止まで尊重された、永続的な条約であった。その後、1515年11月7日のジュネーヴ条約によって、スイス側はフランス王に仕えるスイス人傭兵たちを派遣するようになった。これは1521年にフランスとスイスのカントンとの間に結ばれた同盟条約で補完された。

  • スイス人の傭兵は戦争時において高い資質を備えていた。強力かつ活動的な隣国の保護を受けるため、スイス側はフランス王に6,000人から16,000人の兵士を提供すると誓約した。二カ国は恒久的な共助関係にある同盟国同士であったが、カントンこそがこれら軍隊の真の支配者であり、スイス人兵士を呼び戻す権利を保持していた。これらスイス人隊は完全に独立しており、独自の規則で武装し、独自の法廷や規律を定めていた。スイス人士官と兵卒は彼らの属するカントンの法律にならい、指示を彼らの言語、ドイツ語で与えていた。端的に言えば、スイス人連隊は母国そのものであり、こうした規定は後で結ばれた全ての合意において確認されていた。フランソワ1世との独占契約を結んだ兵士たちの大半が、フリブール出身者だった。

フランス革命が起こると、フランス人衛兵隊は民衆側について1789年の革命的事件に参加。その後彼らはパリの国民衛兵に配属された。王室軍(Maison militaire du roi de France)は1791年に廃止されたが、例外としてスイス衛兵隊が残された。スイス衛兵の歴史上最も有名なエピソードは、1792年8月10日の日中に起きた、パリ中心部テュイルリー宮殿の防衛(8月10日事件)である。

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  • 当日、少数の貴族と武装の不十分なわずかな使用人、国民衛兵のフィーユ・サン・トマ大隊、退役した元将校たちのいる宮殿が、950人のスイス衛兵たちによって守られていた。数日前にノルマンディーの穀物輸送隊を護衛した300人の衛兵中隊だけが兵舎にとどまっていた。衝突が起こる前、王が立法議会に避難するため脱出すると、彼らは主のいないテュイルリー宮殿を守ることとなった。

  • スイス衛兵隊の本隊はテュイルリー宮殿を横切って退却し、庭園から退いて後方の宮殿建物へ向かった。この時点で彼らは劣勢であり、中央の噴水の近くで小集団に分かれて散り散りになった。宮殿内に残ったスイス衛兵たちは、群衆と対決できない使用人や廷臣たちと一緒に、捕えられ殺害された。テュイルリーにいた950人のスイス衛兵たちのうち約600人は、ルイ16世が停戦命令と武装解除命令を出した後、戦死したり、攻撃を迎え撃とうとして死んだ。約60人がパリのオテル・ド・ヴィル(市庁舎)で捕虜となり、そこで虐殺された。残りの者は負傷して監獄で死ぬか、続いて発生した九月虐殺で命を落とした。

  • 100人の衛兵が生き残った。テュイルリー宮殿襲撃の最中に殺害されたスイス人衛兵たちは、パリの贖罪礼拝堂に埋葬された。

テュイルリーにおけるスイス衛兵隊の上級司令官シャルル・レオドガル・バックマン男爵は身元が確認されたが、彼は赤い軍服を着たまま9月にギロチンの犠牲となった。2人のスイス人将校が生き残りナポレオン軍の上級将校となった。

  • 4つの歩兵連隊が、ナポレオン・ボナパルト、およびスペイン、ロシアにおいて雇用された。この時期のスイス衛兵隊上級大将が、のちのヴァグラム公およびヌーシャテル公ルイ=アレクサンドル・ベルティエ、そしてのちのモンテベロ公ジャン・ランヌである。

  • 王政復古時代、ブルボン家はスイス人軍を採用した。1815年から1830年の王室衛兵隊に含まれる8つの歩兵連隊のうち2つはスイス人連隊であった。これはかつてのスイス衛兵隊の継承者とみなされる。スイス衛兵隊の上級大将は、シャルル10世の孫息子、ボルドー公アンリ・ダルトワであった。
  • 七月革命時に再びテュイルリー宮殿が襲撃されると、再びの虐殺を恐れてスイス人衛兵隊は投入されなかった。これらの隊は1830年8月11日、完全に廃止された。

1832年、スイス連隊の退役軍人たちは別の連隊を編成した。アルジェリアに派遣されたフランス外人部隊のオーエンローエ連隊である。

フランス革命(1789年〜1799年)におけるジャコバン派の恐怖政治はしばしば「ルソーの血塗られた手」と呼ばれる。ジュネーブ出身のスイス人ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年)当人はある意味、渡仏した際に(祖国には片鱗も存在しない)強固な身分制を目の当たりにして「こんなの全部破壊し尽くしちゃえばいいのに」と呟いただけだった。しかしながら、この提言を真に受けたロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre, 1758年〜1794年)らは(反乱が絶えない)王党派本拠地を文字通り殲滅し尽くす「民族浄化」戦略を採択。リヨンやトゥーロンを灰燼に帰せしめたばかりか、包囲戦を生き延びた市民も霞玉(大鳳から発射する散弾の一種)によって片っ端から挽肉の山へと変えられていったし、ヴァンテでは「妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む」地獄部隊が延々と徘徊する展開を迎えたのだった。こうした絶対王政時代に経済的繁栄を謳歌した地域の徹底破壊によってフランスの産業革命導入は半世紀以上遅れ、その間に大英帝国の圧倒的優位が確立してしまったのである。
ロベスピエールは大量虐殺の遂行者達に全責任を背負わせて処刑する事で自らの身の潔白を証明しようと考えていたが、逆に虐殺者達が起こしたクーデターで全責任を押し付けられ処刑される最後を迎えた。フランス革命を終わらせた「テルミドールの反動(1794年)」がこれである。

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リヨンの反乱(Siège de Lyon、1793年) - Wikipedia

反乱終結後、クートンはリヨンに対する報復として建物の屋根から瓦をはがしたり、壁を槌で叩いて形ばかりの傷をつけたり、反乱指導者を数名処刑するだけなど、比較的寛容な処置しか行わなかった。彼は、フランス第2の都市であるリヨンを徹底的に破壊することは、現実離れしていると考えたからである。恐ろしい宣言の後で、思いもかけぬ穏便な処置に街の人々は安堵したが、これを不服とした議員達はクートンの罷免を求めた。

やがてクートンに代わってジョゼフ・フーシェ、コロー・デルボワらの派遣が決定された。コロー・デルボワは11月7日、フーシェは11月10日にぞれぞれリヨンに到着している。コロー・デルボワについては、彼がリヨンで俳優をしていた際、舞台で野次り倒されたことがあったため、リヨン市民に対する処罰にはもってこいとされたという説がある。

彼らはクートンの処置を生ぬるいものとして、リヨンへの徹底的な報復を開始する。まず、処刑されたシャリエの遺体を担ぎ出し、彼を称えるパフォーマンスを行った。翌日には革命裁判所が設置され、12月4日から本格的な処刑が開始された。ギロチンによる処刑では「あまりにまだるっこい」として、大砲による処刑や、自分で墓穴を掘らせた上での銃殺などが行われた。フーシェにいたっては、都市人口の10%を処刑する、というノルマを己に課していたとも言われる。

これにより、リヨンの反乱に関った人々は処刑され、プロトー平原には死体が溢れかえった。さらに、国民公会の宣言にのっとり、リヨンの街も徹底的に破壊される。それでも処刑が続いたため死体はローヌ川・ソーヌ川に沈められたが、一部はいかだに載せられて下流へと流された。これは、同じく王党派の反乱が起こったトゥーロンまで死体が流れ着けば、叛徒への脅しとなるというフーシェの指図によるものだった。トゥーロン奪還の報が届くと、その日の祝いとしてさらに200名もの叛徒の処刑を行った。

3ヶ月にわたる虐殺で、2000人近くの人々が処刑されたといわれる。なお、フーシェはこの一件の後で「リヨンの霰弾乱殺者」と呼ばれるようになっている。

トゥーロン攻囲戦(Siege of Toulon、1793年) - Wikipedia

陥落後、国民公会軍は12月19日に市内に入った。ポール・バラスとスタニスラ・フレロンによる血なまぐさい報復が行われた。800人から2,000人におよぶ囚人がシャン・ド・マルスにおいて銃殺され、または銃剣で刺殺されたと考えられている。ナポレオンはジャン・フランソワ・エルナンデスによって怪我の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会わなかった。彼は12月22日に准将に昇進した。

フランス革命メモ『ヴァンデ戦争』 | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

フランス革命は「自由、平等、博愛という普遍的価値を政治にもたらした近代の曙」という一面と共に、「革命独裁」という概念をも生み出した。革命政府、特にロベスピエールジャコバン独裁は、「自由」の名による「独裁」と、「自由の敵」の虐殺という、それ以後あらゆる「革命政権」が行う惨劇の人類史における幕を開く。この意味でロベスピエールスターリンの生みの親の一人でもある。

反対派のギロチンによる大量公開処刑は、「革命運動の内ゲバ」「旧体制への復讐裁判」であって、実は革命政権の残虐さの本質ではない。革命政府が最も残酷な自国民への虐殺を行ったのは、ヴァンデ地方の民衆決起に対する弾圧過程である。

1792年にフランス南西部のヴァンデ地方で始まった「ヴァンデ戦争」は、従来は革命の意味を理解できない遅れた農民が、僧侶や反動貴族の扇動により反乱を起こしたものとみなされて来た。しかし、近年の研究により、ヴァンデ地方はむしろ工業・商業面でも先進的な地方であったこと、実際の戦闘において指揮を執った貴族はむしろ民衆に押された人がほとんどで、実体は民衆の革命政府に反対する自発的な蜂起であったことが明らかになっている。

何よりも重要な事は、ヴァンデの民衆は、革命のきっかけとなった三部会の招集に際し、様々な社会改革案を陳情し、大きな期待をもってフランス革命を迎えたが、やがて革命政府がかっての王権・貴族体制よりも遥かに抑圧的なものに変貌したことに反発して立ち上がったという点である。

革命政府の推し進める独裁的中央集権、カトリック教会の国家管理、そして徴兵制度と戦争、これらへの抗議がヴァンデ決起の原因であり、より根本にあったのは、古来より築き上げて来た民衆の共同体に根差した地方自治の確立と、その共同体を決して破壊することのない、地域に根差した穏やかな政治・経済改革を求めるヴァンデ民衆と、上からの共同体破壊により「自由」を制度として押し付けようとする革命政府との対立であった。後にヴァンデ軍の指揮を執った一部僧侶の意向により、その性格はしだいに絶対王政復活の方向に歪められて行くが、それは反乱軍の決して本質ではない。ヴァンデの戦いは、革命の名における独裁と地域共同体の破壊、そして精神の統制に抗する決起だったのである。

ヴァンデ軍はよく戦い、一時は連戦連勝の勢いでパリをも脅かすが、武器弾薬の不足と、指導者間の反目、最終目的をヴァンデ防衛におかず、イギリス軍との連合による革命政府打倒と王政復活においてしまったという根本的な戦略の誤りから、次第に退潮となって行く。その後には、政府軍によるむごたらしい民衆の虐殺があった。「地獄部隊」と呼ばれた政府軍の特殊部隊は、村を焼き払い、女性、子供まで銃殺、時には川に投げ込んで溺死させるという残酷な刑を行った。

しかし、それに対し、反乱軍の報復や捕虜虐待の例は遥かに少ない。軍の指揮においてはスタンド・プレーが多く、戦略的にも問題があった貴族達も、捕虜の虐待は許さなかった。

フランス復古王政(Restauration、」1814年〜1830年)を打倒して王統交代に成功したオルレアン家の7月王政(1830年〜1848年)が国外脱出を余儀なくされた2月/3月革命(1848年〜1849年)の発端となったのもまた 、スイス領内におけるプロテスタント勢とカソリック勢の内戦だった。

「分離同盟戦争(独Sonderbundskrieg / 英Sonderbund War、1847年)」- Wikipedia

 1815年、ナポレオン戦争後のヨーロッパについて協議したウィーン会議で、スイスの独立が改めて確認されると共に、永世中立国として国際的に認められた。そればかりかフランスの逆襲に備え、サルデーニャ王国の上サヴォイア地方の中立を保護する役も与えられている。同年、新旧カントンの妥協により同盟規約が成ったが、カントン間の軋轢が狭い国土に非関税障壁を蔓延させる。

そしてフランス7月革命(1830年)を契機におよそ半数のカントンでブルジョワ改憲運動が勃発。ここから同盟規約の破綻が始まり1841年にはアールガウの急進派政府が一度に8つの修道院を廃止。これは同盟規約の第12条に真っ向から違反しており、盟約者団会議は4つの女子修道院を救済したが、しかしカトリック劣勢に変わりはなかった。

1844年にはイエズス会を招いたルツェルンに周囲のカントンから義勇軍が殺到。しかしながらルツェルン市民の決意を挫くことができなかった。するとスイス全土が無政府状態に陥り、カトリック派のカントンは1845年12月に保護同盟を結成。

1847年、遂にカトリック諸州とプロテスタント諸州の緊張状態が紛争へと発展。自由主義の気運の高まりと進展に危機感を抱いたカトリック諸州が同盟規約を保護する同盟を結び(1845年)、盟約者団が同盟の解散を命じたのが原因だった。紛争は1ヶ月続き、100名あまりの犠牲者が出た。そしてユグノーによるスイス支配体制の確立が「1848年革命」へと発展し、ウィーン体制を事実上崩壊させてしまう。その一方でフランスが次第にスイスへの影響力をつけていった。

内戦の結果、1848年に連邦制度が採択された。各州の代表からなる連邦議会が防衛、通商、憲法に関する事項を扱い、それ以外は全て各カントンに委ねられた。このとき出来たスイス連邦の基本的な枠組みは、現代まで維持されている。

④スイスがこうした血塗れの歴史から足を洗い傭兵輸出産業から撤退する契機となったのは第二次イタリア独立戦争(1815年〜1871年)の一環として戦われたソルフェリーノの戦い(1859年)だったとされる。これはイタリア北部ロンバルディア地方を舞台としたフランス皇帝ナポレオン3世サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の連合軍と、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いる軍隊の衝突で、双方ともスイス傭兵を大量に雇っていたが、どちらも司令官が無能だったせいで延々と無謀な消耗戦が続いて莫大な数の死傷者を出し、しかも準備不足の為に負傷者の大半が為す術もなく亡くなり、かかる悲劇が赤十字運動発足の契機となる。

ソルフェリーノの戦い(英Battle of Solferino / 独Schlacht von Solferino、1859年6月24日) - Wikipedia

フランス・サルデーニャ連合軍は118,600名(デュナンに拠れば150,000名)と砲約400門を投入。中央、右翼をフランス軍が占め、サルデーニャ軍は左翼についていた。なおフランス軍は従来の滑腔砲に比べて射程と命中率に優れた新式の旋条砲(ライフル砲)を装備していた。

これに対してオーストリア軍は約100,000名(デュナンに拠れば170,000名)と砲約500門をソルフェリーノ中心に、北はガルダ湖、南はメードレまで至る戦線を構築。攻防の焦点となったソルフェリーノは小高い丘の上に存在する町で城と塔を擁する要衝であり、オーストリア軍は効率的な砲撃が加えられるように、丘陵を利用して砲兵を配置していた。

午前6時、フランス軍右翼がオーストリア軍左翼に対して攻撃を開始、間もなく全戦線で戦闘が開始される。ただし、この時点で両軍首脳とも前線には存在していなかった。フランツ・ヨーゼフ1世は参謀とともに後方のヴォルタにおり、戦闘開始の一報を受け取ると直ちに前線に赴いた。一方のナポレオン3世も後方の司令部におり、報告を受け取ってすぐに前線に向かったが、彼が戦場に到着したのはようやく午前7時半のことだった。

ナポレオン3世は、伯父のナポレオン1世のように戦線を走り回り、兵士を鼓舞して攻撃を指揮したが、彼の意識はもっぱら兵士を前進させ、突撃させることにのみ集中していたため、まったく生産的な効果をもたらさなかった。一方のフランツ・ヨーゼフ1世は、戦況全体をまともに把握しておらず、統一した指揮を取れなかった。20万の軍隊の衝突によって、すでに事態は両軍首脳にも収拾できないほど混沌としており、両軍ともに満足な戦術行動をとれぬまま、ただ目の前の敵と交戦していた。

午後になって、ようやくナポレオン3世は主攻を中央のソルフェリーノに定めることを思いついた。砲兵を集中させてソルフェリーノに猛烈な砲撃を加え、その火力支援のもとに精鋭の皇帝近衛兵を中心とする歩兵を投入した。オーストリア軍の砲火と銃撃に多数の死傷者を出しながら、皇帝近衛兵は丘の一つを占領した。続けて市街へもフランス歩兵が殺到し、両軍入り乱れる混戦となった。

午後2時、オーストリア軍は市街から撤退、多数の犠牲を払った末にフランス軍はソルフェリーノを制圧し、戦線の中央に楔を打ち込んだ。この頃、戦場の上空に急速に雨雲が広がってきた。間もなく激しい暴風雨となり、両軍ともに火器の使用が困難になった。ナポレオン3世は攻撃を続行させ、泥まみれの白兵戦となった。フランツ・ヨーゼフ1世は、ソルフェリーノが陥落したことですでに敗勢を意識し、また自身が戦場の恐怖にもとらわれていたので、全軍の撤退を開始させた。暴風雨の中の撤退はほとんど壊走と変わりなく、オーストリア軍の行方不明者は多数に上った。

この戦闘で連合軍は約17,000人を失い、オーストリア軍は約22,000人を失った。オーストリア軍を後退させたことでナポレオン3世は勝利を宣言したが、そのために払った犠牲は大きなものだった。この多大な損害は、両軍首脳の拙劣な指揮に依存するところが大きい。なお、この戦いでフランス軍が使用した旋条砲はその有効性が広く認められ、以降、各国の軍隊は滑腔砲から旋条砲へと装備を切り替えていった。

ところでソルフェリーノの戦いが行われた当日、スイスの銀行家アンリ・デュナンは、事業の支援を要請する為にナポレオン3世の許を訪れており、戦いの模様を観戦。眼前で展開される凄惨な光景に大きな衝撃を受けた。さらに負傷兵の粗雑な扱いにも驚いた。負傷兵は後方のカスティリオーネに運ばれていたが、あまりの数の多さのため、病院の代わりとなっていた教会に入りきらず、街路に放置されていたのである。デュナンは町民とともに負傷兵の手当てに加わったが、多数の兵士が治療の甲斐なく死んでいった。スイスに帰国したデュナンは、自身のカスティリオーネの経験と、ソルフェリーノの戦いに参加した兵士の証言を元に「ソルフェリーノの思い出」と題する書籍を出版した。その中でデュナンは、国家に関係なく負傷者の治療に当たる専門機関の結成を訴えた。一方で、有力者の支持を得られるように配慮することも忘れていなかった。「ソルフェリーノの思い出」は大きな反響を呼び、多数の賛同の声がデュナンの許に寄せられ、そして1863年には戦傷兵国際救済委員会(のちの赤十字国際委員会)が結成されて赤十字運動が世界へと広がっていく。

*そしてスイスは(傭兵輸出が主産業だった時代から営まれてきた)金融業に加え、時計やチーズやチョコレートの輸出産業に大きくシフトしていく事になったのだった。

⑤「ルネサンスなる歴史区分の提唱者」として名高いスイスの文化史家のブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt、1818年〜1897年)も「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」と断言する事で欧州全土の無政府主義者を鼓舞している。ちなみに彼の主著たる「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」の日本語版初出は1967年。(その多くが新左翼思想に共鳴した)当時の学生運動参加者の耳にも「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」なるスローガンが耳に心地よく響いた事は想像に難くなかったりする。
*ここで断罪されている「権力」は概ね「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」を指し、ルネサンス期においては教皇すら広大な教皇領を統治する封建領主として振る舞った事が当時イタリアを席巻したモラルハザードを加速させたとする。そもそもスイス自身が、モルガルテンの戦い(Battle of Morgarten、1315年)やゼンパッハの戦い(Battle of Sempach、1386年)によってハプスブルク家からの実質的独立を勝ち取ってから、イタリア戦争(1494年~1559年)に介入してミラノを巡る攻防戦の一環として戦われたマリニャーノの戦い(Battle of Marignano、1515年)でフランス国王フランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫っするまで、熱に浮かれた様にただひたすら支配地域拡大を目指す「農本主義的侵略国家」として振る舞っているが、彼の世界観自体にその事への反省は特に含まれていない様である。

*いずれにせよ、当時の国際的な新左翼運動の盛り上がりは無数の暴走を経て「究極の自由主義は専制の徹底によってしか達成されない」ジレンマへと到達する最後を迎える事になったのであった。

そもそも最近では、多くの人が「スイス500年の平和は鳩時計しか産まなかった」の元ネタすら知らない様です。まぁ古い映画ですからねぇ…

セリフも有名です。「ボルジア家の30年の圧政はルネサンスを生んだ、スイスの500年の平和はクックークロックを生んだだけ」というやつ。これは歴史学的に見ると正しくないセリフですが、ハリーライムの独善的なキャラをよく表しています。オーソンウエルズが書いたセリフだそうです。 ボルジア家はルネサンスを生んだなんてことはない。ちなみにクックークロックもドイツの発明品です。スイスの発明はラクレットかな。

作家の村上春樹氏もこの映画を気にいっていて、ラスト直前の「土の下に埋めたからって、そいつが死んだことにはならないぜ」というキャロウェイのセリフを高く評価しています。

第三の男(The Third Man、1949年) - Wikipedia

第二次世界大戦後、米英仏ソによる四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーンを舞台とするフィルム・ノワール。当時ウィーンの酒場で人々に親しまれたツィターのメロディ(アントン・カラスによるテーマ曲)をBGMに物語の幕が開く。

アメリカの売れない西部劇作家ホリー・マーチンスは、親友ハリー・ライムから仕事を依頼したいと誘われ、意気揚々とウィーンにやって来た。ハリーの家を訪ねるホリーだが、管理人はハリーが前日、自動車事故で死亡したと彼に告げる。ハリーの葬儀に出席するホリーは、そこでイギリス軍のキャロウェイ少佐と知り合う。少佐はライムが街で最悪の密売人だと告げるが、信じられないホリーはハリーへの友情から事件の真相究明を決意する。
グレアム・グリーンが執筆した台本と実際に劇場公開された映画本編、後に出版された小説とでは微妙に登場人物の名前や国籍などの設定が異なっている。例えば主人公のアメリカ人作家ホリー・マーチンスはイギリス人のロロ・マーチンスとして、ルーマニア人のポペスクはアメリカ軍のクーラー大佐として小説版に登場している。これらの変更はアメリカの世論を意識したものであると、原作者であるグリーンが述べている。具体的には、「ロロ」という名前にホモセクシュアルの含みが有るようにアメリカ人には聞こえるというジョセフ・コットンからの指摘や、悪役の一人がアメリカ人であることを問題視したオーソン・ウェルズとの契約があったためである。また、小説版ではハリー・ライムの国籍もイギリスであり、アンナ・シュワルツはチェコスロバキア人ではなくハンガリー人として設定されている。オーストリア人のクルツ男爵は国籍こそオーストリアだが男爵ではない。台本版ではマーチンスはカナダ人、アンナはエストニア人として登場した。

事件の関係者を調査すると、ハリーの恋人であった女優のアンナ・シュミットと出会う。ホリーと彼女は二人で事件の目撃者である宿の管理人に話を聞き、現場に未知の“第三の男”がいたことをつきとめる。しかし貴重な証言を残した管理人は何者かに殺害され、ホリーがその下手人だと疑われて逃走。さらにハリーの知人であるポペスコからも追われ、キャロウェイ少佐に助けを求める。そこで初めてキャロウェイからハリーが粗悪ペニシリンの売り捌きで多数の人々を害した実態の詳細やその証拠の数々を見せられる。
*同時代に黒澤明監督映画「酔いどれ天使(1948年)」「白昼の死闘(1949年)」「野良犬(1949年)」が撮影されている。当事独特のニヒリズムやエゴイズムや「アメリカ人の倫理観優先主義」の理解の一助に。

友情・愛情と正義感の間で行き詰まったホリーは酒で気を紛らわせる中、帰国を決意。酩酊状態のまま、別れを告げるために寄ったアンナの下宿の近くで、“第三の男”ハリーと邂逅するが、まるで幻かのごとくハリーは消え去ってしまう。ホリーはハリーを目撃したことをキャロウェイに報告。キャロウェイは疑っていたが、念のためにハリーの墓を掘り返すと、別人の遺体だったことが判明し、ハリーの生存を確信する。一方、国籍を偽っていたアンナがパスポート偽造の罪でソ連のMPに連行されてしまう。

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ハリーのことを信じたいホリーは、彼とプラーター公園の観覧車の上で話し合うが、改めて彼の非情ぶりを悟る。その後、キャロウェイからハリー逮捕の助力を促されたホリーは、親友を売るもやむを得ずと決意し、アンナの保釈を条件に承諾。
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ホリーとキャロウェイの計らいで釈放されたアンナはホリーを烈しく罵る。アンナのハリーの対する愛を知ったホリーはキャロウェイへの協力を一時断念するが、病院を視察してハリーの流した害毒を目のあたりしてハリー狩りに参加することを再度決意し、囮となって彼をカフェに待つ。店の裏口から現れたハリーは警戒を知るや下水道に飛び込み、ここに地下の追撃戦が開始される。キャロウェイの銃弾で重傷を負ったハリーはその後、銃を手にしたホリーに追いつめられる。下水道内に響き渡る一発の銃撃音。それがホリーの撃ったものなのか、ハリーの自決によるものなのか不明だが、ハリーは死亡。

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改めてこの“第三の男”の埋葬が行われた日、ホリーは墓地の路傍でアンナを待つが、彼女は表情をかたくしたまま一瞥もせず彼の前を歩み去って行く。
*小説版では「…追いつくと2人は肩を並べて歩きだした。彼は一言も声をかけなかったようだ。物語の終わりのように見えていたが、私の視界から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」(小津次郎訳)となっているが、映画版は女性の絶望の中の、毅然とした態度が強調されている。

 いずれにせよ、こうやって「スイスの永世平和主義」に対する日本の左翼陣営内における誤解が広まっていったのでした。しかも下手に実践しようとすると凄惨な流血沙汰が避けられないというおまけ付き…
*ちなみにスイスって一般市民への銃普及率がアメリカ並みで、だからそれが自殺や犯罪に使われたり、事故による死者もアメリカ並みという…日常生活も「平和主義」とは程遠い?

現実のスイスはむしろ「戦国時代日本において傭兵派遣元として栄えた雑賀衆根来衆が相応の近代化を経て現存」といった歴史を歩んできた訳で、到底「非武装中立の理念」なんて崇高な概念とは程遠いし「下手に模倣すれば流血沙汰は不可避」な感じもひしひしと伝わってきてしまう訳です。
*「雑賀衆根来衆」…むしろ反体制的 / 無政府主義的ロマン主義の立場から「終始、織田信長豊臣秀吉の天下統一事業の障害として立ち塞がり続けた」辺りを絶賛する方が容易。さらにはそもそも戦争の種が絶えない戦国時代だからこそ存続し得た軍事技術者集団だった側面もあり、迂闊に天下泰平の時代まで生き延びたとしたら(主要産業を金融や工業にシフトしたスイス同様に)相応の経営方針変更を迫られていた事だろう。

雑賀衆 と 雑賀孫市

根来衆の終焉~秀吉の根来攻め~`

ある意味「欧州におけるスイス連邦」や「戦国時代日本における雑賀衆根来衆」にはその存在自体が、特に「(常備軍を徴税で養う中央集権的官僚制に立脚する欧州近世国家」や「(天下統一を狙う織田信長豊臣秀吉の様な戦国時代終焉を望む絶対君主」にとって「事象や言語ゲームの地平線としての絶対他者」と映っていたかもしれません。

ある意味完全に「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」の中で「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と看過したカール・マルクスグノーシス主義 (反宇宙的二元論)や、「革命に勝利などない。体制転覆に成功した瞬間から新たな反体制派への弾圧が始まるだけである」と断言したオーギュスト・ブランキ一揆主義(ブランキズム)同様、決して体系内に恒常的には組み込み得ない無政府主義的思想の完全なる同類なんですね…