諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ネタバレあり】レディプレイヤーワン観てきました① スピルバーグ監督の「私は茅場晶彦で行く」宣言?

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スティーブン・スピルバーグ監督映画「レディ・プレイヤー1(Ready Player One、2018年)」の基本的世界観自体は予告編に流れる諸要素からだけでもかなりの部分まで再構築可能です(以下、ネタバレあり)。

  • 未来の「現実世界The Real thing)」は修復不可能なまでに破綻してしまい、誰もが「(「1980年代こそ最高だった」と考える製作者が創造した仮想世界The Virtual thing)」に逃げ込む事でかろうじて何とか正気を保っている。
    *だがそれは本当に当人の自由意志に基づく選択なのか? 実は作品冒頭で流れるヴァン・ヘイレン「Jump(1984年)」の歌詞にある「俺だってここに立ったまま追い詰められてる。ちょっとくらい付き合ったって損はないだろ?(I've got my back against the record machine. I ain't the worst that you've seen)」なる一節はそれを問い掛けてくる内容。

  • そして死去した「仮想世界The Virtual thingの創造主」は、自らが作中に隠した威信財(regalia)発見者にその全てを相続する権利を与えるという遺言を残した。

    regalia(羅レガリア・英リゲイリア) - Wikipedia

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    王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。また、王の所有する特権(貨幣鋳造権、採掘権など)を指すのにも使用される。「王の物」を意味するラテン語 regalis の複数形で、1530年代から使用されるようになった。

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    天叢雲剣などの刀剣、伝国璽などの印璽が用いられる例があるほか、西欧諸国においては王冠・王笏・宝珠の3種がよくみられる。

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    あるいは広く、地位や官位を示す記章など。特に英米では、卒業式の正装一式をリゲイリアと呼び、ガウン・帽子・タッセル・フードなどからなる。

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    *ここで興味深いのが「仮想世界(The Virtual thing)の創造主」のアバターがファンタジー世界の「(フードを被った)隠者」である事。原作では「ゆったりとした黒いローブを着た背の高い人間の魔法使い(Tall human wizard dressed in flowing black robes)」と表現されていた。1970年代〜1980年代の感性なら、ここで連想すべきはオカルト色の強かったレッド・ツェッペリンやイエスなどのプログレバンドの筈だが、不思議と原作にもそういう言及はない…

    *それならこの世界において「隠者」が守っている「真理(Aletheia)」とは?
    1495夜『ソクラテスと朝食を』ロバート・ロウランド・スミス|松岡正剛の千夜千冊

    古代ギリシア語の「真理」を意味する「アレーティア」は、「眠る・忘れる」を意味するレーティアの否定形である。「眠りを忘れる」ほうが真理に近づく方法なのだ。伏せられたものをいろいろな角度で布をめくってみること、そちらのほうが真理っぽい。

    パルメニデス(BC544年頃~BC501年頃)

    伝統的なギリシャ叙事詩(ダクテュリコス・ヘクサメトロス:dactylikos hexametros)をモチーフに著した『自然について』が断片的に残されている。これは女神が真理を語るとの体裁を採り、自分の思想が高遠なものであるため、人の口からではなく女神の口から語ってもらうのが相応しいと考えたとされる。2部構成であり、「真理(アレーティア)に従うもの」と「意見(ドクサ:思惑とも)」に分けられる。

    第一部の「真理に従うもの」では、「有」の概念について説いている。これは、それまでのミレトス学派アルケー探求を土台から否定するものであり、後の哲学的思索の流れに大きな影響を与えた。パルメニデスは、真の意味で「ある」ということは、他の何ものの助けもなく、それ自身で完全にあり、しかも永遠にあり続けるということと説いた。それ以外のあり方は中途半端で不純なあり方で、本来の意味で「ある」ものが無から生じてきたり、あり方が変化して無にかえったりすることは、本来の存在にはありえないこととした。こうしてパルメニデスは、アルケーと呼び得るのは不変不動の一者であり、更にそれは球形であると結論付けたのである。

    またパルメニデスは、我々が心理を知り得るのは正しく考えることによってのみだとも主張をした。考えるという作業は必ず何かについての思考であり、ないものを思考の対象にするのは不可能である。すなわち、正しく思考され得るものだけが本当の意味で存在し、我々が世界を知るためには、まず何よりも知ること自体に立ち返りそれを成立させる条件を考えなければならないとしたのである。これをパルメニデスは、「思考(されるもの)と存在(するもの)は同一である」との命題で表現をした。そして、思考のみを真理への道とみなすことで、感覚に映る現象がいかに多様で変化に富んでいようとも虚偽(思い込み)にすぎないと主張をした。これは、それまでのアルケーに関する思索を全面的に否定する発想である。

    例えばニワトリは、卵・ひな・成鳥と姿を変えるが、それは見た目が変化しているに過ぎない。変化しない「ニワトリである」との概念こそが本当の意味での「存在」であり、本当の存在とは変化や現象の背後にある永遠に変わらないもののことを言うとした。パルメニデスは、感覚に頼るべきではなく理性によって論理的に考えるべきだとし、論理的な考えを哲学史で初めて哲学に持ち込んだ人物なのである。後の人々はこの永遠不変のものを、現象の背後にありその現象を成り立たせているものとして「実体」との言葉で表した。

    第二部の「意見」では、世界には真の「有」のほかに人間の感覚の前に現れる様々な現象があるとしている。これらが絶えず生成消滅しているかのようにみえるのは感覚によるものとしながらも、それらを体系的に説明している。それによると様々な現象は2組の不変な要素の混合から説明され、全てのものは暖かいものと冷たいもの、即ち火と土の混合とした。暖かいものは「有」と結び付けられ、冷たいものは「無」と結び付けられたのである。これは、無は本来の存在ではないとした第一部の内容と矛盾しているものである。ただし、第一部が真理に従い必然的なことを確信するのに対し、第二部は事物のその時々の偶然的な外観に感覚的に惑わされて矛盾したことをいう愚衆の見解とされたといわれるため、パルメニデス自身の考えは矛盾していないのかもしれない。
    *当時の形而上学は「現実世界は(完全無欠にして単一の)イデア世界から流出した(その認識上の不完全性故に多様性と多態性を獲得した)矛盾だらけのバリエーションの寄せ集めに過ぎない」なる悲観論に立脚したが、21世紀に入ると「その認識上の不完全性故に多様性と多態性を獲得した現実世界の人間が、それでもなお「始原は一つの筈」なる確信にすがり続ける時に浮かび上がってくるのが(実際の到達はおそらく不可能な)イデアの世界」と立場を逆転させる。

    1980年のアタリ2600向けゲーム「アドベンチャー」がキーポイントとなるのは、映画も原作も同じ。映画でも語られたようにイースターエッグ(隠し要素)が忍ばされた史上初めてのビデオゲームだ。プログラマーは苦労を重ねてビデオゲームを開発するわけだが、当時のアタリ社はプログラマーの名前をクレジットしない方針を貫いていた。つまり彼らは、苦しんで生み出した愛しき作品からその名を葬られてしまうのである。

    そこで開発者のウォーレン・ロビネットは、自分の名前をゲームの中に巧妙に隠すことにした。ゲームの迷路内に隠されたドットの鍵を使うと、秘密の部屋に入ることができる。すると画面中央に「製作:ウォーレン・ロビネット(CREATED BY WARREN ROBINETT)」と表示されるという仕掛けだ。この「反逆」を愛したハリデーは、原作にてこう語っている。

    「ロビネットは誰にも内緒で”エッグ”をゲームのプログラムのなかに隠した。アタリは秘密の部屋があるとは気付かないまま《アドベンチャー》を生産し、世界各国に出荷した。イースターエッグの存在を知ったのは、リリースから数ヶ月後、世界じゅうの子供たちが次々にエッグを発見し始めてからだ。わたしはそういった子供の一人だった。ロビネットイースターエッグを初めて見つけた瞬間。それはわたしのビデオゲーム人生で最高のクールな体験のひとつだ。」

    このイースターエッグについては、原作では序盤にてエッグハントの概要を説明するハリデーの遺言メッセージ内で早々に登場する。この概念は、劇中を通じて描かれたエッグハントの本質 ──小さい頃から映画、ゲーム、コミックに夢中で育ち、ポップカルチャーやユーモアを理解するものだけが得られる楽しみや発見があって、それは「遊び」を軽視してきて「会社人間」になった大人たちがお金で買えるものではないのだ、というような痛烈なメッセージ── を物語っている。同時に、ゲームを開発した自分自身の名が世に残らないことを恨んだウォーレン・ロビネットのささやかな反逆でもある。

    *そう「とりあえず見た目上」この作品は「集-立(Gestell=ゲシュテル)システム=特定目的の為に手持ちリソース全てを動員し様とする総動員体制」と「真理(Aletheia)=最初こそ見失われ、隠されているがやがて自ずから露わになる本質」が対峙する基本構造を採用しているのである。

  • かくしてイースター・エッグ探しEaster Egg Hunt)が仮想世界の住人達に共通する最大の関心事となる。それは「参加者全員に最大限の勝利の可能性を夢見させる祝福」であると同時に「本来ならオープンワールドの繁栄を支える柱となるべき多様性と多態性を破壊する恐ろしい呪い」でもあった…
    *最大の呪いは「誰にとっても仮想世界(The Virtual thing)の創造主の内的世界の理解こそが最大の関心事」なる状況的拘束が、元来はそれ以降の現実世界(The Real thing)を構築する役割を担う筈の未来人まで「1980年代こそ最高だった」なる思考的停滞に巻き込んでしまった事とも。ハリデーと一緒にGSSを創建したパートナーのモローはエッグハントについてこう指摘している。「ジムは昔から自分の関心を世界じゅうの人と分かち合いたいと願っていた。自分と同じものを皆にも愛してもらいたがってたんだよ。そのきっかけをあいつなりに考えた結果が、このコンテストなんじゃないかな?」そういえば「ハリデーのリスペクトする作家達」にP.K.デュックが含まれてないが、第二次世界大戦で枢軸国側が勝利して文明の発達が停止してしまった世界を描く「高い城の男(The Man in the High Castle、1962年)」もまた「(ドイツ人や日本人も追い越すまでファンだった)古き良きアメリカ文化の遺物」だけが唯一無二の価値を持つ様になった世界の物語だった。

    まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」の世界…なにしろハリデーはエッグハントに映画「ウォー・ゲーム(WarGames、1983年)」の完全シミュレータを組み込む際に女性プレイヤー向けにジェニファー・マック(演アリー・シーディ)役でプレイするオプションを追加する事すら思いつかない様な野暮な男なのである。

    映画『レディ・プレイヤー1』で音楽を手がけたアラン・シルヴェストリは、米Varieryのインタビューにて次のように考察する。

    OASISの偉大なる開発者として崇められるハリデー/アノラックは病気を患ってから、自分の子供(=OASIS)を誰かに託すことを考えていたのではないかと思ったんです。OASISは彼の作品で、そのライフワークの頂点。でも、もう面倒を見られないから、新しい親を探すための最善の方法を作ったわけですね。そうして純粋な心を持つものを見つけることができたのです。ハリデーのように、OASISにおける善を愛する者に。」

    ハリデーは、OASISというゲーム世界に籠もる現実逃避が決して正しい選択ではないことを悟っていた。物語の最後、全ての鍵を手に入れたウェイドにハリデーは「真の幸福を見いだせる場所は現実の世界だけ」「現実の世界はリアルだからだ」と告げる。これは映画と原作で共通のセリフだが、ハリデーが立ち去り際に言う「わたしのゲームで遊んでくれてありがとう」の言葉は映画のみに登場。原作では、やや諭すように「わたしと同じ間違いを繰り返すな。ここにいつまでも隠れてはいけない」と続けられる。
    *「幸運を祈るよ、パーシバル。そしてありがとう。わたしのゲームを遊んでくれて本当にありがとう(Good luck, Parzival. And thanks. Thanks for playing may game)」…実際には(翻訳版も含め)原文にちゃんとある台詞。「よろしい、伝えたいことはそれだけだ。私は消える事にしよう(All right. I think that covers everything. It's time for me to blow this pop stand)」なる台詞に続く形で。ちなみにここでいう"Pop"は"Popsicle(棒付きアイスキャンディ)"の略。"It's time for me to blow this popsicle stand"は直訳すると「(目の前のアイスキャンディ・スタンドにアイスがなくなったから)次に行こうぜ(もっと自分をワクワクさせてくれるものを探しに行こう!!)」といったニュアンスのくだけた表現で、イメージ的にはハチ(米津玄師)「砂の惑星(2017年)」の歌詞"この井戸が枯れる前に早くここ出ていこうぜ"と重なる。ただし、ここではそれが"It's time for me"に続く、すなわち(パーシヴァル=プレイヤー観点から見た)井戸側=遊ばれ終わったゲーム側からの発言というのが要注意。つまり以下の様なシチュエーションで放たれる台詞という事。

    リチャード・バック「カモメのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull、1970年)」における「最後にこの世界を去って次のステージに向かう決心を固めたジョナサン」。原作発表時には削除されたエンディングによれば「彼の去った後、世界はつまらなくなった」。
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    アラン・ムーアウォッチメンWatchmen、原作1986年〜1987年)」における「(その超人的能力ゆえの孤立によって人間性を喪失し尽くした挙句の果てに)人類の生存権から退去する道を選んだDr.マンハッタン(同時に人類の精神安定の為に「絶対悪として憎まれれ続ける役」を買って出る)」。ちなみにMCU(Marvel Cinematic Universeマーベル・シネマティック・ユニバース)のVisionは真逆に、あえて「人間らしさ」を自分の内側に取り込む事で人類に寄り添って生きる道を選択。

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    岩明均寄生獣(1988年〜1995年)」における「最後に(人間と寄生獣の関係についてさらなる深い洞察を得る為に)長い眠りに就く道を選んだミギー」。ただしサイコパス浦上が「快楽殺人者である自分こそ人間の本質の体現者」と主張すると、これを否定する為に再び顕現した(かもしれない)。

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    士郎正宗「仙術超攻殻ORION(1990年)」における「(「仮学に人は救えないのか」なる問いに「(いずれにせよ実際の完成は56億7千万念後だが)善功が人間の内部に満ちれば、より人は高度化して完成に近づく」と答えた後で)ひとまず今回の冒険に区切りをつける為に別ステージへと遷移(シフト)するスサノオ神」。f:id:ochimusha01:20180511073552j:plain

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    長井龍雪監督 / 岡田麿里脚本アニメ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない(TV版2011年)」における「(じんたん(宿海仁太)の母)の「ちゃんと輪廻転生の流れに従わないと、みんなときちんと出会え直せないの」なる発言に拘束される形で)成仏する道を選んだめんま本間芽衣子)の幽霊」。実は、物語文法的には(「この世を楽しみ尽くす間も無く死んだ」事を恨む美少女怨霊が現実世界に馴染めないニートを自分側に引き摺り込む)牡丹灯籠そのもの。そして国際SNS上の関心空間においては「めんまは天国で皆を待ってる」派が現れてちょっとした「宗教論争」を引き起こした。

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    牡丹灯籠 - Wikipedia
    三遊亭圓朝 怪談牡丹灯籠 怪談牡丹灯籠 鈴木行三校訂・編纂

    *「(臨終の間際になって)ようやく悟ったんだよ。現実世界がどれほど恐ろしくて、どれほどつらい場所であっても、真の幸福を見いだせるのは現実の世界だけだとね。現実の世界はリアルだからだ。私の言いたい事がわかるかい?(That was when I realized, as terrifying and painful as can be, it's  also only place where you can find true happiness. Because reality is real. Do you understand?)」…この台詞は共同でGSSを設立した後で退社したパートナーのモローが後年、自伝の中で語った「GSSはもはやゲームソフト会社ではなくなり、おそるべき変化を遂げていた。OASISは牢獄となり、人類は自分達をそこに閉じ込めた。誰からも顧みられなくなった人類文明がじりじりと崩壊に向かっている間、世界は数々の問題からただ目をそらしてそこに隠れている」なる指摘に対応しているばかりか「(痛み=realityなんて全部消しちゃえる)仮想空間の現実=realの危うささ」への警鐘ともなっている。別に「仮想空間を捨て現実世界に回帰せよ」と主張している訳ではない点に注意。

    最後に余談だが、ウォーレン・ロビネットが「アドベンチャー」に隠したイースターエッグは、まるでゲイレン・アーソが第一デス・スターに隠した弱点のようだ。この「反逆」の意義を理解する者たちに倒されるオーソン・クレニックを『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)で演じたベン・メンデルソーンが、やはり『レディ・プレイヤー1』で「反乱軍」に敗れるソレントを演じている点も興味深い偶然である。
    *オーストラリア出身のベン・メンデルソーンはさらに「ダークナイト・ライジング(The Dark Knight Rises、2012年)」でもウェイン産業を乗っ取ろうとするジョン・ダゲットを演じている。「真のクリエーターの実績を傍から掠め取ろうと付け狙う嫌らしいハゲタカ」を演じるプロなの?

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    *ベン・メンデルスゾーン「ぼくはいつも何か企んでいるようにみられるんだ。何かいたずらを企んでいるように見える少年から、大きな事を企む男になるくらい年を取ったんだね(笑)」

    *とはいえここで回顧される1980年代には独特の「生存バイアス」が掛かっている。実際、以下の様な「(時代の流れの中で淘汰されてしまった)結論」は丁寧に「最終章者の選択肢」から除去されていったのであった。

    *J・R・R・トールキンの「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、原作1937年、アニメ化1977年、完全実写映画化2012年〜2014年)」における「エレポール(離れ山)の遺産」や「指輪物語The Lord of the Rings、原作1954年〜1955年、部分的アニメ化の試み1978年〜1980年、完全実写映画化2001年〜2003年)」における「全てを統べる支配の指輪」は終始「所有者を惑わす悪魔の誘惑」としてのみネガティブに描かれ、その放棄 / 破壊だけが人間を救うとされた。

    オリヴァー・ストーン脚本ジョン・ミリアス監督映画「コナン・ザ・グレート(Conan the Barbarian、1982年)」の主人公たる英雄コナン(演アーノルド・シュワルツネッガー)は「育ての親」魔術師タルサ・ドゥーム(演「ダース・ベーダーの中の人」ジェームズ・アール・ジョーンズ)も「遺産の継承」を拒絶。その影響力に屈っして支配下に入った人々の解放(離散による集団そのものの消滅)のみを救済として提示。

    *本当に「1980年代日本は繁栄の頂点だから永久保存」なる立場から構築されたディストピアからの絶望的脱却行為の連敗を描く「メガゾーン23(MEGAZONE 23、1985年)」の世界。
    メガゾーン23 - Wikipedia

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    *世界の全てを牛耳る独裁者やコンピューターに対する反乱行為を英雄視したウォシャウスキー監督映画「マトリックスThe Matrix)三部作(1999年〜2003年)」、スーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、原作2008年〜2010年、映画化2012年〜2015年) 」、諫山創進撃の巨人(2009年〜)」といった作品はどれも一旦は若者を中心として国際的に熱狂的支持を勝ち取るも、その主題がグノーシス主義(Gnostizismus、反宇宙的二元論)に立脚する英雄率いる革命行為に推移するとことごとく人気失墜。

    *要するに「デス・レース2000年(Death Race 2000、1975年)」や、リチャード・バックマンスティーヴン・キングの別ペンネーム)「死のロングウォーク(The Long Walk、1979年)」「バトルランナー(Battle Runner, 原題The Running Man、原作1982年、映画化1987年)」や、K.W.ジーター「ドクター・アダー(Dr. Adder、1984年)」「グラス・ハンマー(The Glass Hammer、1985年)」や、高見広春バトル・ロワイアルBATTLE ROYALE、初版1999年、)といった一連の作品は、ヒッピー文化から出たグノーシス主義(Gnostizismus、反宇宙的二元論)的ディストピア / 革命論から出発しつつ、全く別の出口を見出したのである。

    *そもそも1980年代と2000年代の狭間には「ハイファンタジー物やサイバーパンク物といった文学の担い手の更年期突入による若者離れ」なる黒歴史が存在。スティーブン・スピルバーグ監督自身はこの時代をマイケル・クライトン原作映画「ジュラシック・パーク(Jurassic Park)シリーズ(原作1990年〜1995年、映画化1993年〜)」の国際的ヒットによって乗り切っている。

ところで、私は過去の投稿において仮想空間物の原点を(ハイファンタジーやサイバーパンクといったジャンルを衰退させたヒッピー世代著者の更年期危機の最中にその典型例の一つとして生まれたJ.P.ホーガン「仮想空間計画(Realtime Interrupt、1995年3月、邦訳1999年)」としてきました。

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さらにはこれにインスパイアされた作品群のうち(グノーシス主義(Gnostizismus)=反宇宙的二元論」に毒され過ぎた)マトリクス・シリーズが短期的ブームに終わったのに対し、河原礫の「(「全ての陰謀の黒幕」茅場晶彦を必ずしも絶対悪として切り捨てなかったソードアート・オンラインSword Art OnlineシリーズWeb小説発表2002年〜2008年、初版2009年〜、アニメ化2012年〜)」や「(未だにシステム運用者が謎めいた存在のままのアクセル・ワールド2009年〜、アニメ化2012年〜)」が2000年代末から2010年代にかけて国際的ブレイクを果たして次の世代に繋がる重要な役割を果たしたともしてきたのです。

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*国際SNS上の関心空間では「どれだけ真面目ぶってSAO16.5章を朗読出来るか」がYoutube投稿で競われ合った時代が存在した。少なくともその一部は現存…


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*ここで重要なのが「Web小説として公開された「ソードアート・オンライン」は各国語に翻訳されて世界中にリアルタイムで読まれてきた」という事。もちろん単独で評価された訳ではなく「(海外からアクセス可能な)日本発の次世代サイバーパンク文学」の一つとして米国SF作家ニール・スティーヴンスン(Neal Stephenson)の「スノウ・クラッシュ(SNOW CRASH、1992年)」や「原則として現実世界上の展開を仮想空間における冒険が補足する形で展開する」スタイル「 ロックマンエグゼシリーズ(2001年〜2009年)」、現実世界と仮想空間の不気味な交錯を描く「serial experiments lain(1998年)」、1999年からポケモン図鑑がアナログのルーズリーフから万能コミュニケーション端末ポケギアへの変貌を遂げた「ポケットモンスター(POCKET MONSTERS)」シリーズ(1997年〜)」などと一緒にオタク文化の血肉として消費されてきたというのが正しく「OASIS存在論的人間中心感覚没入型仮想環境)」が物語の主舞台となったアーネスト・クラインの小説「ゲームウォーズ(READY PLAYER ONE、2011年)」とはある意味「平行進化」の関係にある。

*「平行進化」…「ゲームウォーズ」の基本的世界観を構成する主要概念の多くは「ソードアートオンライン」や「アクセスワールド」に先行して提言されている様に見える。その一方で(上掲の様に)河原礫作品の基本的世界観を構成する主要概念の多くはJ.P.ホーガン「仮想空間計画」由来だったりする訳だが、不思議なまでに「ゲームウォーズ」には「仮想空間計画」の影響が全く見られない。その代わり2000年代中盤以降に急激に発達した「インターネット上において(流れる情報の大半が動画・静止画・音声データとなる契機を生んだ)大規模トラフィックのハンドリング技術」を設定に大胆に流用する事で「現実の経済を仮想経済が併呑する(さらにはゲーム空間OASISがインターネット世界全体を併呑する)展開」にリアリティを与えている。

*また奇妙な事に「ゲームウォーズ」の著者アーネスト・クラインには「ヒッピー文化との決別」みたいな強い意志はまるで感じられず、実際作中のハリデーに伝説の電話回線クラッカー「キャプテン・クランチ」ことジョン・ドレイパーへの憧れを語らせたりしている(ますますウォズニアックっぽい?)。これが俗にいう「カリフォルニアン・イデオロギー」の世界観? しかしながら現代アメリカ文化なるもの、常に「西海岸文化に対峙する東海岸文化」なる図式を抱えている。アーネスト・クラインは「OASISの創造主」ハリデーが熱狂的ファンだったカリスマのリストに(英国ニューウェーブ運動の主導者)マイケル・ムアコックや(ニューヨーク出版界の守護神)ニール・ゲイマンを加えているが、そのタイミングではカウンター・カルチャー世代が選好した「反体制英雄」ウルヴァリンに一言も触れていない(アダマンチウムに関する言及があるにも関わらず)。この辺りの「甘さ」は当然(東海岸側文化の反撃に際して)重要攻略対象となる。それからハリデー/アノラックがリドリー・スコット監督映画「ブレードランナーBlade Runner、1982年)」の大ファンだった事について触れる際に「そういえばハリデイもP.K.デュックのファンだった」と付け加えているが、実は「ブレードランナーのファンである事」と「P.K.デュックのファンである」事の間には想像を絶するクレバスが広がっていたりするのである。こうした現実をあえて黙殺するのも「カリフォルニアン・イデオロギー」の特徴の一つなのかもしれない?

ウルヴァリンは「人外」だったり「カナダ人」だったり「オーストラリア人」だったりする究極のアウトサイダー。当然「東海岸文化」はおろか「カリフォルニアン・イデオロギー」にだって組み込み様がない。これまで(その反体制姿勢故に)あえてその事実の否定に走るのが「カリフォルニアン・イデオロギー」という印象を持ってきたが、少なくともアーネスト・クラインはあえてこの問題に踏み込まない道を選んだのだった。

*ところで河原礫はJ.P.ホーガン「仮想空間計画」から(革命志向の「マトリックス三部作」が完全に切り捨てた)トンデモない要素をトンデモない形で継承した。あの突然始まって延々と続く「大半の人間にとって訳が解らない」ハネムーン場面。私自身は、恐らくあれはアイルランド系アメリカ人たるJ.P.ホーガンが、ITバブルやマネーゲームに浮かれ古き良き伝統を喪失しつつあった故郷への警鐘だったと理解している。

だが河原礫はあえてそう考えず「全て仮想空間において再現可能」なる観点から完全再収録してみせた。MMORPGに入れ込んでいた彼は、そもそも人間にとっての現実とは「操作者の操作にインタラクティブに答える絶対他者の一側面」に過ぎず、そこにリアルワールドと仮想空間の違いはないと考えたのである。さらには、理系的発想から「集-立(Gestell=ゲシュテル)システム=真理(Aletheia)の追求」なるシンプル極まりない理想モデルを選択し「ゲームプレイヤーとしても人間としても大切なのは真理(Aletheia)の追求のみ」というメッセージ性と「サイバーパンク文学運動最後のサバイバー」ルディ・ラッカー同様に「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なる行動主義を強く打ち出した。そしてある意味、このラディカルな発想こそが2010年代に入ってからの大ブレイクを用意したともいえそうなのである。かかるコンセンサスは「ゲームウォーズ」のクライマックスにおいて「臨終間際」のハリディ / アノラックに「ようやく悟ったんだよ。現実世界がどれほど恐ろしくて、どれほどつらい場所であっても、真の幸福を見いだせるのは現実の世界だけだとね。現実の世界はリアルだからだ。私の言いたい事がわかるかい?(That was when I realized, as terrifying and painful as can be, it's  also only place where you can find true happiness. Because reality is real. Do you understand?)」と言わせたアーネスト・クラインもまた共有している様に見える。
ルーディ・ラッカー - Wikipedia

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こうした多様で多態な(すなわち猥雑極まりない)展開において、スティーブン・スピルバーグ監督映画「レディ・プレイヤー1(Ready Player One、2018年)」もまた恐るべき爪痕を歴史に残す事に成功しました。何とスティーブン・スピルバーグ監督自身が上掲の様な複雑な立ち位置にある「OASISの創造主」ハリデーと自分を重ねる形で作中のイースター・エッグ・ハントの内容を全面的にリニューアル。そこにカート・ヴォネガット・Jr.「スローターハウス5Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death、原作1969年、映画化1972年)」の衣鉢を継承する特異な形での「特異な形での自叙伝」を顕現させてしまったのです。
スローターハウス5 - Wikipedia

まさしく、ある意味「私は茅場晶彦で行く」宣言そのもの…
*想像してごらん、「OASISの創造主」ハリデーや、茅場晶彦や、スピルバーグ監督がこれを歌う場面を。それはそれは恐ろしい物語文法の世界の開幕…

*ちなみにスピルバーグ監督は「映画人はいつまで映画館向けの作品ばかり製作し続けるのか」と問題提起し、自らVR対応の最先端を走ってるという意味でもラディカル思想の体現者であり続けている…彼自身にとって「遷移(シフト)のタイミング」なんて、まだまだ先なのである…

このシリーズではこの「スピルバーグ監督の自叙伝としてのレディプレイヤーワン」の詳細について可能な限り克明に迫りたいと考えております。乞うご期待、なのかな?